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2019/09/21

バレエ・アム・ライン『白鳥の湖』(マーティン・シュレップァー版@Bunkamuraオーチャードホール)

Tweet ThisSend to Facebook | by Boccaccio '15
2019年9月20日・21日
Bunkamuraオーチャードホール
マーティン・シュレップァー振付・演出
小林資典指揮、シアターオーケストラトーキョー

デュッセルドルフとデュースブルクを拠点とするバレエ・アム・ラインの初来日公演。シュレップァー版の『白鳥』は2018年6月の新制作で、今回が初の海外公演。特設サイトでは、このプロダクションの特徴として、音楽にチャイコフスキーの原典版を使用したこと、台本もプティパ=イワノフ版以前のオリジナル版を使用していることを挙げている。ここだけ抽出すると古色蒼然たる復刻上演みたいな印象だけど、シンプルモダンな衣装をつけた長身のダンサーたちによるスタイリッシュな舞台写真もふんだんに掲載されている。

で、興味を持って20日(金)の回を見に行った。振付や、音楽や照明の使い方の細部に、いいなと思うアイデアはいくつもあったのだけど、物語の根本の部分のミソジニーな感じが、ちょっとわたしは受けつけなかった。

この版では、ジークフリートもオデットも、母親との関係に苦しんでいる。ジークフリートをマザコンぽく描く演出はありがちだけど、この版では王妃もはっきり王子に対して、上から押さえつけるような態度で接している。そしてこの王妃に式典長がぴったりと付き従い、王妃の意を汲んで行動するさまは、どう見ても主従の関係を超えている。1幕の王子はこの2人の関係を見てうんざりしている様子で、ちょっとハムレットっぽい。

これに対しオデットのほうは、プログラム冊子によると、妖精の母と人間の騎士である父の間に生まれたハイブリッドだ。しかし実母は「騎士である夫に虐げられて命を落と」し、実父が再婚した相手は魔法使いで、「オデットの抹殺を狙っている」。この前日譚の部分は1877年のベギチェフとゲリツェルの原台本の設定をほぼ踏襲したものであるらしい(プログラム冊子に日本語訳で引用あり)。

ただし、これらの経緯は作品中に描かれず、オデットの実父も実母も、舞台には登場しない。作中で対峙するのは、オデットの継母と、オデットを庇護する祖父(実母側の)である。2幕と4幕の舞台となる湖は、オデットの実母の死を嘆いた祖父の涙でできたものである(プティパ=イワノフ版だと、湖はオデットの母の涙でできたものとオデットが説明するマイムがあるけど、省略されることが多い)。また、ロットバルトという名の男性登場人物はいるのだけど、継母の「手先」という位置付けで、プティパ=イワノフ版におけるような大きな存在ではない。通常の版のロットバルトに相当する役柄は、継母のほうである。

要するにジークフリートもオデットも、母であって母でないような強い女のせいで不幸になっている、ということになるわけだけど、なんかもうそういうのお腹いっぱいです。原台本に回帰する、という方法で独自性を出そうとしたはずが、結果的には今時の古典の再解釈に超ありがちな、親子関係に全部原因があるみたいな話になっているので、そこまで新しさを感じない。その一方で、なまじビジュアルは今風にスタイリッシュなものだから、由緒正しき古典を見た、という印象にもならない。

それから、4幕で継母と直接対決するのがジークフリートではなくオデットの祖父なのも、物語を散漫にしてしまう。祖父といっても老人ぽいビジュアルに作り込んでいるわけではなく、ダンサーの実年齢相応の見た目で登場するので、プログラムを見ておかなかったら「オデットが王子じゃない若い男に抱きついている」ようにしか見えなかったと思う。

そうは言っても、オデットの祖父が湖の底に住んでいる「水の精の賢者」という設定なのは、いかにもライン河畔のバレエ団って感じではある。今の目で見れば複数の伝承が入り混じっちゃった感じのする、この混沌こそが、よく言えば、後世の手の入っていない原典らしさ、ということでもあるのだろう。

(ところで、オデットの実父が登場しないのは、継母にすでにどうかされちゃってるんじゃないか、という想像でいいんだろうか……)

なお、この日の配役では、継母とその4人の側近とロットバルトは全員アジア系(の見た目)のダンサーが演じていて、いくら何でもマズいんじゃないかと思った。継母のヨンスン・ホは、存在感も年齢からいっても、たいへんなハマり役だと思うけど、側近とロットバルトまで全員アジア系で固めてしまうとなると。ハリウッド式の、何が何でも多様性に配慮した配役も、個人的にはどうかと思うときがあるけど、今時これはなあ。式典長はアフリカ系のダンサーで、王子を見下ろす高身長で胸板もあって、威圧感にたいへん説得力があったのだけど、チーム継母を見てしまった後だと、この配役も人種的偏見に乗っかったもののように見えてしまう。

日本公演のもう1組のキャスト(21日マチネのみ)では、チーム継母はメンバーチェンジなしでやっぱり全員アジア系なのだけど、オデットもアジア系、王子がヒスパニックで式典長は白人、という組み合わせになるようなので、それも見てみたかった。

話を戻して、そんなわけで1877年版の原台本を採用したことは、わたしはあんまり評価しないのだけど、一方で音楽を原典版ベースにしたことは、意外に面白い効果を上げていた。黒鳥PDDのコーダを1幕の王子と友人たちの踊りの中で早々に使ってしまうのは、原典版の曲順どおりでもあるのだけど、この版の話の流れから言ってもふさわしい。またこの版では、3幕の民族舞踊をほとんどカットする代わりに、一般的な版で省略されがちな花嫁候補のパ・ド・シスを(たぶん)全曲使って王子の花嫁選びの顛末を描いている。民族舞踊のディベルティスマンに比べると、物語がぶつ切りにならないのが良かった(グリゴローヴィチ版のオディールの曲の箇所では王妃が踊る、というのもキャラクターに合っていた。一方で、オディールの見せ場はロシアの踊りの曲)。

そして、小林資典指揮のシアターオーケストラトーキョーが、たいへんメリハリの効いた野趣あふれる演奏で、わたしの好みでもあるけど、この版の暴力性とか、未整理な感じの残る筋書きとかにも、似つかわしいものだったと思う。

振付で、ちょっと面白いなと思う箇所もたくさんあった。ほんの一例を挙げるだけだけど、4幕の白鳥たちのグランプリエ。膝がスカートにつかえてにゅーっとなるのが、この場面の閉塞感をいや増していて、うまい。

装置、照明、衣装にも工夫があって、視覚的に面白い箇所が多かった。2幕と4幕はごく簡素な装置に暗めの照明、出演者もほぼ全員白または黒の衣装、というシンプルさなのだけど、装置と照明をうまく使って、何もない暗がりからいきなり白チームが現れる、とか、いつの間にか黒チームがそこにいる、みたいな表現が繰り返される。

そんなわけで、良いところもたくさんある、それなりに面白い版だとは思うのだけど、やっぱりどうしても、物語の解釈そのものは好きになれない。それに、せっかくこの版が描こうとしているオデットの複雑な家庭環境が、作品そのものの中では説明しきれておらず、プログラム冊子を読まないと分からない、というのはやっぱり不充分だと思う。

11:55 | Impressed! | Voted(0) | Comment(0) | 音楽・舞台

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