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2011/10/12

「論理学と数学の哲学に関する研究会」のお知らせ

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日本科学哲学会第44回大会のサテライトイベントとして、以下の研究会を開催いたします。奮ってご参加ください。
本研究会は、論理学および数学の哲学に関するテクニカルな研究に関する情報交換を行うための研究会です。通常の学会では発表は20分程度であり、テクニカルなテーマについて詳細な突っ込んだ議論を行うことが出来ません。そこで、本研究会では、テクニカルなテーマについての発表を、質疑応答も含め一人あたり一時間半程度おこない、議論を深めよう、ということを目的としています。

  • 日時:11/21(月)9:00-18:30

  • 会場   :星陵会館(永田町・赤坂見附) 1階会議室F              
    http://www.seiryokai.org/kaikan.html

  • タイムテーブル:
    • 午前の部:グレアム・プリースト「存在しないものに向かって」翻訳本刊行記念セッション
      • 9:00-10:30 久木田水生(京都大学):記述句の多義性  発表資料
      • 10:45-12:15 藤川直也(首都大学東京):『存在しないものに向かって』における内包的他動詞の扱いについて 発表資料
    • 午後の部:曖昧性セッション
      • 13:30-15:00 伊勢田哲治(京都大学):曖昧述語に関する統計的モデルと主観的確率  発表資料
      • 15:15-16:45 岡本賢吾(首都大学東京):遷移・文脈的変項・無視可能性 ― 動的ハイブリッド論理から曖昧性を考える
      • 17:00-18:30 矢田部俊介(産業技術総合研究所):あいまい性と極限 ー 構成的素朴集合論における余帰納的対象の定義可能性  発表資料

  • 講演要旨:
    • グレアム・プリースト「存在しないものに向かって」翻訳本刊行記念セッション
      • 久木田水生(京都大学)
        • 題目:記述句の多義性
        • 要旨:記述句を含む文(以下「記述文」)の評価(意味の決定)には根本的に異なる二つの方法がある。一つは「マイノング的評価」であり、そこでは記述句は名前と同様に対象を指示する項として扱われる。しかしながら記述句の中には「現在のフランス国王」のように、指示対象が存在しないものもあるため、マイノング的評価においては、記述句(あるいは一般に項)によって存在しない対象を指示することが可能でなければならない。もう一つは「ラッセル的評価」であり、そこでは記述句は独立した文法的単位とは見なされず、それ自体では指示対象を持たない。従ってここでは「現在のフランス国王」のような記述句が何か存在しない対象を指示するものと見なされる必要はない。このためにマイノング的評価とラッセル的評価の間には、存在しない対象を真正の対象として認めるか否かという、意味論の根本的な枠組みにおける対立が生じる。この二つのどちらが正しい記述文の評価法であるかを決定することは難しい。記述文のある使用例はマイノングを支持するように思われるし、別の使用例はラッセルを支持するように思われる。私たちは場面に応じて異なる評価法を使い分けている、というのが実情であろう。Towards Non-Being(2005)(邦訳『存在しないものに向かって』)においてグレアム・プリーストはマイノング主義に基づいた意味論を提示しており、その意味論では記述文の評価も当然マイノング的である。しかしその一方、プリーストは記述句が異なる場面で異なる使われ方をしていることを認めている。それは記述句が現実に存在する対象を指示するよう意図されている場面と、そうでない場面である。彼は世界意味論の枠組みに依拠しつつ、話者の意図に応じて記述文を評価する舞台となる世界の選び方が変化する、と説明する。しかし彼の説明は、典型的なラッセル的事例(例えば「水星の軌道の内側の惑星が水星の近日点の歳差を引き起こしている」等の文)を分析する際には、不自然であると言わざるを得ない。本発表で私たちはプリーストの意味論がどのように異なる意図で使用されている記述文を取り扱っているかを検討し、マイノング的にせよラッセル的にせよ、一つの評価方法ですべての事例を取り扱うことが困難であるということを指摘する。その上で私たちは二つの異なる評価方法の基盤となるような一般的な意味論的枠組みを提示することを試みる。その意味論は記述句に対して一つの表示を割り当てるという点ではマイノング主義的だが、存在しないものを真正な対象と見なさないという点では反マイノング主義的である。
      • 藤川直也(首都大学東京)
        • 題目:『存在しないものに向かって』における内包的他動詞の扱いについて
        • 要旨:`seek'や`worship'などに代表されるいわゆる内包的他動詞は、一般に、次の三つ(のうちの少なくとも一つ)の特徴をもつとされる。
          • (1) 目的語の名詞句が存在的コミットメントを欠く、
          • (2) 目的語において置換可能性が成り立たない、
          • (3) 確定的読みと不確定的読み(あるいはrelationalな読みとnotionalな読み)をもつ。
          『存在しないものに向かって』において、プリーストは、非存在主義という一種のマイノング主義に基づいて、内包的他動詞に意味論を与えている。その基本的なアイデアは、例えば`John seeks a unicorn'をおおよそ`∃x(unicorn'(x) & seek'(John, x))'のように分析した上で、量化子を存在中立的なものと見なす(その量化のドメインには、存在する対象のみならず、非存在対象が含まれる)というものだ。この提案は、内包的他動詞の(1)の特徴を直裁的に説明する。さらにプリーストは、内包的他動詞の残る二つの特徴のそれぞれに対して、(1)に対する説明とは独立の説明を与えている。特徴(2)については、彼は、現象そのものを否定する。すなわち、内包的他動詞の目的語に関して、同一指示表現の置換は常に可能であると主張する。また特徴(3)については、不確定的な読みをもつ事例はすべて、なんらかの補文をとる文にパラフレーズ可能であり、不確定的読みはそのようなパラフレーズによって説明されると主張する。 本発表では、プリーストが内包的他動詞に与える意味論と、内包的他動詞の三つの特徴に対する彼の分析を紹介した上で、特に、(i) プリーストは、内包的他動詞の三つの特徴にそれぞれ独立した説明を与えているが、それらは整合的だろうか、(ii) 彼の意味論は、内包的他動詞を含む文に関して妥当に思われる推論、とりわけ目的語の量化名詞句が重要な役割を果たしていると思われる事例を適切に説明できるだろうか、という点に注目しながら、プリーストの提案を検討する。
    • 曖昧性セッション
      • 伊勢田哲治(京都大学)
        • 題目:曖昧述語に関する統計的モデルと主観的確率
        • 要旨:発表要旨(pdfファイル)
          曖昧述語に関しては単純なものから複雑なものまでさまざまなモデルが存在する。しかし、モデルが精緻になればなるほど、「果たしてこれが本当に日常的に使われている曖昧述語の背後に存在する構造なのだろうか」という疑問がわいてこずにはおかない。本発表でめざすのは、確率や統計の比較的単純なモデルのみで曖昧述語を取り扱うことである。一方で、対象自体の性質として、曖昧な対象が存在するように見える。たとえば「赤」から「黄色」への色のグラデーションにおいて赤と黄色の「唯一の本当の境目」があるというのは非常にありそうにない。他方で、われわれは曖昧な対象に対して二値的な用法を受け入れているように見える。たとえば、「このリンゴは赤い」といった表現は「はい」か「いいえ」で答えられる問いであるように見える。曖昧述語はなんらかの意味で確率と関わるように見えるけれども、上記のような特徴を考えるなら、単純なベイズ主義で曖昧述語を取り扱うのは難しそうに思われる。そこで導入するのが、重付置主義をベースとした統計モデルである。本発表で提示する統計モデルの概要をまず紹介する(このモデルは2011年7月に第14回CLMPSにおいて発表したものである)。曖昧述語の解釈に使われる基本的なモデルは、重付置主義で言うところの「精密化」(precisification)が一定の統計的分布をとるというモデルである。与えられた状況下で、曖昧述語Fの外延と反外延の間の精密な線を引くという決定(精密化決定)を繰り返し行うものとする。この線の場所としてある値は選ばれやすく、別の値は選ばれにくい、という形で精密化決定は一定の分布φを形成すると考えられる。この手続きは「誤差」のある測定に非常に似ている。そのアナロジーを推し進めるなら、「最小二乗法を使って真の境界線を推定する」といった行き方も考えられる。しかしすでに述べたように、曖昧述語はそもそも真の境界線を持たないような述語だと考えられるので、そうした推定は場違いであると思われる。それにかわって本発表で採用するのは、還元主義的戦略、すなわち、曖昧述語の意味の本体はこの精密化決定の分布φそのものであり、曖昧述語の二値的用法も最終的にはこの確率分布に還元される、という考え方である。二値的な用法の導入の仕方として、「重付置主義的解決」と「ベイズ的解決」を考える。重付置主義的解決とは、分布φを元に「許容可能性」に類する区別を導入するという考え方である。この場合、曖昧述語は重付置主義における重真と同じような簡単な様相論理的性質を持つことができる。もう一つのベイズ主義的解決とは、「次の精密化決定は与えられた対象XをFの外延の側に入れる」という命題の事後確率を考え、その確率が十分に小さければ「XはFではない」を受け入れる、という考え方である。これはベイズの定理を使うという意味でベイズ的とはいえ、分布は統計的分布であり、また統計的検定における有意水準に似たアイデアを使うなど、単なるベイズ主義とはひと味違うものになっている。以上が曖昧述語の統計的モデルの概要であるが、本発表ではこれにさらに主観的確率の要素を付け加える。統計的モデルの基礎となっている精密化決定の分布φは、仮想的なものであり、われわれが曖昧述語を使う際に事前の情報として持っているとは考えにくい。したがって、実際に曖昧述語を使う際には、さらにこの分布についての主観的な確率に基づいて判断する、という、もう一段階の不確実性が持ち込まれていると考えられる。二段階目の不確実性を導入する方法はいくつか考えられるが、上記のベイズ的解決を採用するなら、「次の精密化決定は与えられた対象XをFの外延の側に入れる」という命題に対する主観的な事後確率を与える形が考えられる。このような手順で考えるならば、曖昧性が対象自体の性質であり、しかもわれわれはそれらについて二値的に語る、という状況において、主観的確率を使った判断が可能となる。
      • 岡本賢吾(首都大学東京)
        • 題目:遷移・文脈的変項・無視可能性――動的ハイブリッド論理から曖昧性を考える
        • 要旨: 発表要旨(pdfファイル)
          (以下は要旨pdfファイル[1]部からの抜粋) 本発表は,2011年7月17日に「哲学若手研究者フォーラム」で話した内容の増補改訂版である。例えば、熱力学などのマクロ物理学のうちには,曖昧述語を用いた推論事例(として再構成しうるもの)が、実はごく当たり前に含まれていると考えられる。その典型は、当日述べる通り、「無視しうる(negligible)大きさ」が登場する様々の論証などである。このような熱力学などの論証については、とりわけ次の事実が注目される。すなわちそこでは、曖昧性をめぐる通常の哲学的議論のうちで「toleranceの原理」と呼ばれているもの――曖昧述語の適用基準には許容性がある,すなわち例えば,身長r cmの人が「背が高い」ならばr-10^-1 cmの人もそうである、等々――が、一定の仕方で受け入れられており、この原理への(少なくとも暗黙の)アピールがほぼ不可欠に生じていると解される、ということである。ところが他方で、現在、かなりの数の哲学者――通常のsuper-valuation主義者、真理値degree論者、fuzzy論理支持者、等々のほぼすべて――は、「toleranceの原理」は妥当ではありえないと主張している。だがそうなると、彼らが正しいとする限り、熱力学の論証においては、不当な原理へのアピールという極めて不可解なこと――そのままでは論理的に許容し難いこと――が起こっていることになってしまう。これは看過できない問題である。もちろん、そうは言っても、「toleranceの原理」を受け入れる路線に転向する以外に一切対処策がないということにはならない。例えば、この原理へのアピールを含まない形へ熱力学の論証を書き換えるといったこともおそらく不可能ではないだろう。しかし、そうした書き換えは決して簡単ではないと予想されるし(少なくとも、一様な仕方ですべての論証を書き換える手続きを与えるのは相当に難しいだろう)、それ以前の問題として、既存の科学で受け入れられている論証に対して、そのような大幅な書き換えを要求するとしたら、それはむしろ、要求する側の考えに何か問題がある(当該の科学の論証を分析し損ねている公算が高い)と見るべきであるように思われる。要するに、super-valuation、真理値degree論、fuzzy論理、等々を持ち出す分析は、もちろんそれぞれに独創的で、論理技術のエキジビションとしては十分興味深く啓発的なのだが、しかし曖昧述語の現実の用法の解明としては、多分に空想的・思弁的であり、あまり的確に的を射ていない疑いがある、ということである。 これに対して、今回、発表者は次のことを試みる。すなわち,以下の[2]で略述するような論理的枠組みを用いれば――この枠組みは,もともとtoleranceの原理を擁護すること(この原理を、他の原理と矛盾することのない仕方で、受け入れ可能なものとして定式化可能にさせること)をその基本的動機としている――、実際に当該の熱力学的論証の妥当な形式化が可能となる、ということである。これにより、(i)発表者の提案が、上記のような多くの哲学者たちのアプローチとは異なり、曖昧性述語の現実の用法に即した十分なリアリティーを備えたもの(とまで言えるかは判らないが,ともかくそうした望みを持ったもの )であること,(ii)もっと基本的な問題として,曖昧性についての通常の哲学的議論において安易に前提されがちなある種の考え、つまり、「曖昧述語は自然言語の特異的な特性である」とか「もっぱら現象的性質を表すものである」といった考えが,単なる誤った思い込みに過ぎないこと、等々の結論を引き出しうるであろう.本発表の目標は、基本的にこうした点にある。
      • 矢田部俊介(産業技術総合研究所)
        • 題目:あいまい性と極限 ー構成的素朴集合論における余帰納的対象の定義可能性とその影響について
        • 要旨:曖昧さを表現できるような弱い論理体系においては、同時に包括原理などの対象の循環的定義を許す原理を仮定しても無矛盾であることが知られている。本発表では、構成的な部分構造論理の一つである Flew∀ (直観主義論理から縮約規則を除去した体系)上の素朴集合論 CONS を例に取り、包括原理を仮定することは、言語を豊かにするだけでなく、一方で文の極限を取る(一見メタな)余帰納的操作さえ可能にしてしまうことを示す。具体的には、CONS 上の算術においては、後者関数に関する不動点を定義することが可能である。そしてこの不動点は、自然数全体の集合ωに関し排中律が成立する(∀x(x∈ω∨¬x∈ω))ことが CONS では証明できないことを保証する。このキーとなる不動点は、余帰納的に定義された対象であり、後者関数を取るという操作の極限であると見なせる。通常、排中律は対象の確定性を表現すると考えられるため、極限操作が排中律に対する反例を提供するという事実は示唆的である。また、この証明を紹介すると同時に、素朴集合論内部における余帰納的な文・対象の定義可能性について議論する。

  • お問い合わせはこちらまでお願いします([at]を@にお書き換え下さい)
    • 矢田部俊介( shunsuke.yatabe[at]aist.go.jp )
    • 大西琢朗( takuro.onishi[at]gmail.com )

13:21 | 投票する | 投票数(0) | コメント(1)
コメント
kaizen2011/10/21 18:03:43
すごく興味深い内容なので行きたいのですが,前の週ずっと横浜にいて,その週は名古屋に帰らないといけないので,参加できそうにありません。ごめんなさい。
ps.
星陵会館のランチバイキングはおいしいので時々食べに行きます。