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2019/07/06

有間しのぶ『その女、ジルバ』全5集(小学館ビッグコミックス、2013~18年)

Tweet ThisSend to Facebook | by Boccaccio '15
今年度(第23回)手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作品。Amazonで何かとお勧めされるので読んでみたら、実際わたしにとってはいろいろ気になるキーワードの散りばめられた作品だった。細川周平先生のブラジル移民文化もの、東谷護先生の進駐軍クラブの話、昭和のキャバレー、ダンスホールスナック居酒屋……あたりの閲覧履歴を拾われたんだろうか。Amazonさんたら恐ろしいほど仕事ができる。

40歳未婚、職場でも追い出し部屋に回された女性主人公が、時給につられて高齢ホステス専門のバーでバイトを始め、先輩たちの来し方に耳を傾けるうち、いつしか店の継承を意識するようになる……。とまとめてしまうと、さほど目新しい話ではないのだけど、登場人物1人1人の物語が丁寧に描かれていて、また、重たい現実を描く一方で、笑いの絶えないお店の日常がちょうど良い匙加減で挿入されるので、たいへん温かな作品に仕上がっている。じんわりと勇気づけられた。

店の創業者でブラジル移民出身のジルバ(故人)を筆頭に、現役の5人のママたちにも、それぞれに波乱万丈の過去があって今がある。主人公や、その同世代の親族や友人たちも、作中でそれぞれに人生の転機を迎え、乗り越えてゆく。登場する女性たちの誰もが、良い出会いに恵まれ、でも結局はみずからの資質によって(機転や勇気や素直さによって)、みずからの人生の舵を良い方に切っていく。男性登場人物も、その多くは彼女たちの良き仲間であり戦友だ。彼女たちを食い物にしようとする男性もごく少数は登場するのだけど、それぞれに憐れむべき事情があったり、憎みきれない人間味があったりする。登場人物1人1人が奥行き豊かに描かれていて、読ませる作品だ。

もうひとつ好ましく思ったのは、この物語が最初は「視点人物であるアララが、周囲の人の思い出話に耳を傾けながら、生前は会う機会のなかったジルバの人物像を自分なりに構築していく」という形で始まっているのに、話が佳境に入ってからは、むしろその方法の限界が繰り返し指摘される、という点だ。「人が人を理解するなんてできないと思うよ」「見ても聞いても話しても取りこぼすんだ」とマスターは言う(第2集105ページ、以下、引用では原文の改行を省略)。マスターはやがて、自分がそれまでアララに語ってきたジルバの思い出話は「嘘じゃないが半分だ」「人が信じたがる明るい伝説の部分」だけだ、と認めてしまう(第2集196ページ)。アララ自身、ジルバが生前に使っていた部屋のしつらえを見て、「ジルバママにあたし勝手なイメージ作りかけてた」と自戒する(第2集200ページ)。

それとほぼ同じタイミングで、作品の語りは重層化していく。はじめの第1・2集では、読者はひたすらアララの視点を通して先輩ホステスたちの過去に接していくのだが、中盤からはその構造が崩れる。たとえば、くじらママが「誰にも話さず墓まで持って逝きたい話もあるわ」(第3集29ページ)とひとりごちてから長い回想に入る場面。読者はアララの知らないくじらママの過去を直接読み進めていくことになり、アララの持たない手がかりによって、くじらママの人物像を膨らませていくことになる。わずかの手がかりだけで他人の人生を知ることなんてできない、とアララが自覚した直後に、物語がこのように進んでいくのは、なるほど面白い処理だと思う。

くじらママはやがて、封印するつもりだった過去の一部をアララにも語り始めるのだけれど(第4集152ページ)、語る側と聞く側の双方が、そのことをきっかけに相手から疎まれることを覚悟し、それでもなお相手を気遣っているのがグッと来る。

さて、ブラジル移民の歴史や、戦後日本の盛り場文化など、かなり調べて書かれた作品なのが分かるだけに、ところどころ数字の合わない箇所があるのが、読み進めていく中でひどく気になった。

一番分かりやすいのが、主人公の自称年齢がずっと40歳のままだということ。作中では季節がめぐって、5回の夏を迎えているのに、アララは実際の発話の中でも、読者に向けたモノローグの中でも、常に「40歳」「シジュー」と名乗り続けている。

他のホステスたちについても、昔語りの中の細かい数字と時代背景を追及しだしたら、いろいろおかしなところがある。たとえば、エリーが娘時代に「財閥のご子息」「子爵」「伯爵」との縁談を断った(第1集79ページ)という話を真に受けるなら、華族制度や財閥が残っていた時代に当時の適齢期を迎えていた、つまり1930年代前半くらいまでの生まれということになるはずで、この物語の「現在」(東日本大震災からの数年間)には、もう80歳近くになっていないとおかしい。ところが彼女は、アララの加入までずっと店の最年少を自称していて、作品終盤でその嘘はバレるのだけれど、それでもまだ「エリーは60すぎ」とナマコに説明されている(第5集109ページ)。エリーの年齢も怪しいけれど、ナマコが「あたしゃギリギリまだ50代よ」(同)というのも、店の創業時期と突き合わせるとどうもおかしい。

最初はそれを、細かいところの設定を詰めていなかった故のミス、かと思って読んでいたのだけど、全巻を読了した後では、たぶんわざとやっているのだろうと思うようになった。最年少の称号はかつてナマコから金で買ったもの、と自白したエリーが高らかに「一番若い若いと言い続けてたら」「なんかすっかり自分でも若い気がすんのよ」(第5集114ページ)と宣言するとおり、この店では何も、実年齢を馬鹿正直に申告する必要などない(エリーのこの回想の場合は、相手の身分の方を盛っている可能性もある)。

お客さんの誕生日を祝う際に、くじらママが「このマンガでトシをとる珍しい方!」(第3集121ページ)と言う場面がある。つまり、自分たちの自称年齢が増えていかないことも、そもそも自分たちが漫画の登場人物であることも、認めてしまっているのである。

こういう分かりやすい引っ掛かりをところどころに挿入することで、この漫画は読者に対して、登場人物の語りを全部信じてはいけない、と警告しているのかな、と思う。作中のアララが、先輩たちの語りをもとに彼女たちの過去を再構築しても、結局は「勝手なイメージ」でしかないように、わたしたち読者がこの漫画の語りを元にそれぞれの登場人物の人となりを想像するのも、やっぱり「勝手なイメージ」でしかないのだ。そしておそらくこの漫画は、高齢バーに集う人々や、アララの故郷・福島で生きる人々について、やっぱり「人が信じたがる明るい伝説の部分」しか語ってはいないのだろう。語ること(語りによって自己を偽ること、語りを元に他者を理解しようとしても限界があること)について、いろいろ考えさせられる作品だ。

そんなわけでこの漫画は、単に昭和の夜の盛り場という題材だけでなく、その語りの手法においても、わたしの好みのど真ん中の作品だった。

なお、これは作品そのものへのコメントじゃないし、この漫画に限ったことでもないけれど、作中に登場する歌へのクレジットの付け方は、外国曲の日本語訳詞を研究対象とする者としては、どうしても納得が行かない。たとえばAmazonの「なか見!検索」でも読める第1集第1話の終盤、ホステスたちが岩谷時子の訳詞で「ろくでなし」を歌って踊る場面(22ページ)。サビの歌詞が2コマにわたってがっつり引用されて、欄外にクレジットが付くんだけど、原題、原作詞作曲者(アダモ)、原語版の著作権表示(1964年EMIベルギー)と続いて、そのあと、日本のEMIの許諾を取っていることが示される。以上。いやいやいや、ここで岩谷時子の名前を出さないのはおかしいでしょ絶対。日本語版のタイトルすら、(たまたまサビの中で連呼されてるだけで)クレジットには示されてないことになるわけだし。

その女、ジルバ コミック 全5巻セット
有間 しのぶ
小学館(2018/09/28)



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