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2019/07/01

生成文法と言語哲学の研究書の進捗 / 「大学とは根本的に何か」という問い

Tweet ThisSend to Facebook | by EI

生成文法と言語哲学の原稿(現時点では22万字超、最終的な文字数は出版社様と相談の上、決定)は一通り完成し、今後、修正を行います。来年には予定通り刊行できる見込みです。


意味論と言語哲学は互いに隣接領域をなしています。今では、言語哲学の一部は、哲学者だけが論じるべき領域ではなく、言語学者も参画すべき領域となってきており、むしろ、言語学の一分野にもなってきています(Moltmann 2019 参照 [Moltmann, Friederike. 2019. Natural Language and its Ontology ·In Alvin Goldman & Brian Mclaughlin (eds.), Metaphysics and Cognitive Science. Oxford: Oxford University Press. pp. 206-232.])。(これを[A]とします。)

Topflightな理論言語学者の少なくない数の研究者が理論言語学の基盤となる方法論的問題や隣接の言語哲学を深く考えていらっしゃると思います。


もちろん、ある研究領域に取り組むには基礎訓練が必要である、という立場には私は強くコミットしています。(これを[B]とします。) 特に、過去に一部の学者が提唱していた、中等教育における基礎学力の重視の立場にも強く賛成ですし、高等教育における広範なリベラル・アーツと専門基礎科目の重視にも賛成の立場です。


上記の[A], [B]は、相互にcoherentな立場です。

言語学の研究者育成の教育については、大学院における教育だけでなく、学部段階の教育も重要だと思います。(大学院において、Chomskyの最新理論を学ぶようなことに重点が置かれ、学部段階の基礎訓練が生成文法等において十分ではないように思います。)まずは、数学と統計学については理工学部に準ずるだけの教育を施す必要があると思います。それを将来、言語学の研究で使うかどうかという問題ではなく、理学部の学生が基礎的素養として数学を学んでいるのと同様に、また、経済学の学生が統計学を学んでいるのと同様の教育理念によるものです。また、言語学という領域の広がりを考えれば、ゲームの理論、哲学、人類学(自然人類学、文化人類学、言語人類学)等も学ぶ必要があると思います。

なお、ここで私が述べている数学の知識とは、オンライン学習等で短期間に即効で身につくような表面上の知識ではまったくありません。高校や大学学部のときに鍛錬された数学的なものの見方、数学的な精神が、理系の基礎的素養として望ましいのと同様に、言語学の研究者も高校や大学学部のときにそのような鍛錬が必要だ、というのが私の考えです。言語研究の具体的な個所ですぐに必要とするというような表面的な実用性を言っているのでありません。大学院でChomskyの最新理論(?それが妥当な方向に行っているという必然性はありません)を追うだけでなく、基礎的訓練を学部や高校の段階で行っておくことが優れた言語学の研究者の育成には大事だと私は思います。

私は慶應経済学部在学時に、数学・統計学・ゲームの理論を専門科目の一環として、そして、哲学や人類学をリベラル・アーツ科目あるいは文学部の授業履修で学びました。当時の慶應のカリキュラムが現在の私に及ぼした影響は大きいことを思い出し、感謝致しております。

それから、別件ですが、私は個人的には、アメリカの大学のコーポレーション方式よりも、イギリスのオックスフォード、ケンブリッジ両大学の形態に共感を覚えます。両大学とも、アメリカの大学よりもはるかに古い歴史を持ち、もともと学者のゆるやかな集まりとして発足しています。両大学を構成する各コレッジもそうです。


下記に、ケンブリッジ大学の運営法人としての理事会のリストがあります。
https://www.cam.ac.uk/about-the-university/how-the-university-and-colleges-work/the-university-as-a-charity

理事(trustees)には、学生代表のメンバーも含まれており、大学を構成する各部門の代表が構成員となることで、民主的な運営をすることを目指していることが伺えます。

また、学術機関として理事の大多数は純然たる学者であり、外部理事は少ないようです。外部理事4名の方々は(私の検索に間違いがなければ)下記の方々のようです。

https://uk.linkedin.com/in/sharon-flood-abb39228
https://www.governance.cam.ac.uk/committee-members/members/Pages/mark-lewisohn.aspx
https://www.nottingham.ac.uk/Economics/people/david.greenaway
https://www.governance.cam.ac.uk/committee-members/members/Pages/Sara-Weller.aspx

上記のサイトからも分かるように、外部理事は、銀行家や会計学・経営学・経済学がご専門の方々のようです。

経営の健全なチェック機能という点から理にかなっていると思います。上記のケンブリッジの理事会の仕組みに私は共感を覚えます。学術機関として圧倒的大多数が純然たる学者から構成され、外部理事少数は会計・経営・経済の実質的な専門家(あるいは銀行等の実質的なビジネス経験の保持者)である、という点です。言い換えれば、外部理事には会計・経営・経済の専門家を意図的に選定していることが伺えます。分野を問わず誰彼でも、という方式ではなく、経営の健全なチェック機能、という実務を重視していることが伺えます。かつて経済学を学んだ者としても、こういったガバナンスはとても興味のあるところです。

こういった経営チェック機能も大事である一方で、「大学」というものを、オックスフォード、ケンブリッジ両大学の設立起源を参考に歴史的に考えれば、過度な形式性に囚われることなく、「研究する学者のゆるやかな集まり」が大学の本質であることは、現在の大学の存在論・組織論を考える上で、忘れてはならない最も核心の部分だと思います。

また、単なる表面的な実用性に目を奪われることなく、数学や人文科学、等で培われるものの見方を研究・教育の両方の面で、最も重視していくことが大事だと思います。事実、他ならぬ、ケンブリッジ大学では哲学、数学、divinityこそ、重視されていたと記憶しています。この点、現在の日本の大学は大いに学ぶ点があると思います。

また、トップダウン方式の企業とは異なり、各部署の多様性を重視していることは、ケンブリッジに滞在させて頂いたときにも感じました。

ケンブリッジには本物の学究的雰囲気があり、美しい景観があり、そして何よりも、温かい人間関係があります。

こういった、「大学とは根本的に何か」という問いについては、いずれ、一般書籍あるいはこのブログで私の考えを纏めて公表したいと考えています。ただし、前者の可能性については、あくまでも、私は研究書を優先することを第一に考えております。学究に身を投じる者として、あくまでも、新しい仮説を提案する単著の純然たる真理探究の学術研究書(翻訳書、解説書、教科書、参考書等を除く)で勝負したいと考えております。既存の知識を纏めるだけでは新しい研究成果とは言えず、まさに、研究者の任務は新しい仮説・理論を提案することだと思います。

いずれにしても、大学は持続的な研究と教育が不可分の関係にあり、前者なしの後者はありえません。そして、前者こそ、研究者・学者をそのようにたらしめているものです。そして、大学という存在の中枢・本質とは、当然、この真理探究の研究とそれに裏打ちされた教育だと思います。

10年前にお世話になったコレッジとは、今でも温かい結びつきがあり、これもコレッジの素晴らしさでもあると思います。当時、私を受け入れてくださった所属コレッジには、今でも、本当に感謝致しております。私の研究人生の中でも最も温かくして頂いた記憶があります。


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