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南国雑記帳(全卓樹)

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2014/11/04

若手研究者はつらいよ;ポストノーマル科学の美しき新世界

Tweet ThisSend to Facebook | by T_Zen
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学内の仕事に関係した宿題で、「現代思想」という雑誌の今年の8月号の「ポスト・ノーマル時代のサイエンティストのお仕事」という記事を読む必要がありました。科学史家の塚原東吾先生と脳生理学者の美馬達哉先生の対談です。

論点は多技に渡っているのだけれども、そのなかで幾つかの話が、私が近年感じている絶望感、というと言い過ぎかもしれないが、居心地の悪さを、はっきり言語化する手助けになりました。

それで私の「ポストノーマル・サイエンスなうんざり感」について書いてみようと思います。この居心地の悪さ、鬱陶しさ、憂鬱さは、科学研究の前線で仕事をしている全ての人が、多かれ少なかれ感じているのではないかと思うからです。

美馬先生が「ソーカルのサイエンス・ウォーズ」に関して、とても面白いことを言っておられます。外部の批評家ではなく、自身が日頃生理学研究のカティングエッジに立っている方の発言です。若い人にはピンとこないでしょうが、これは10年ほど前にアカデミアを騒がせたアメリカ発の「事件」です。アラン・ソーカルという、頭はいいが子どもじみたいたずらが好きな少々性格が悪い素粒子物理学者がいて、彼がポストモダン哲学の専門誌に、もっともらしい業界用語を連ねてでたらめに書いた「論文」を送りつけました。それが査読を通って載っちゃったあとに、あれはただの悪戯だと告白したからさあ大変、理系対文系の大騒ぎになりました。

ソーカル自身が何を考えたか、本当のところはわからないのですが、ポストモダンの哲学者が、素粒子論を始めとする物理の先端研究から、各種概念を曲解して、それを自分たちの議論の補強というか、ただの飾りの意匠として使って、好き勝手な議論をしているのが、腹立たしかったのかもしれません。

「お前らのはただの言葉遊びじゃないか」とケンカを売られたポストモダン哲学の側も、真っ赤になって怒ったのは言うまでもありません。

その論争がどう落ち着いたのか、私はちゃんと追って無くて知らないのですが、美馬先生は次のように指摘されます。今の科学研究が、ある意味当時のポストモダン哲学と類似の、ソーカル流の悪戯に対してあまり耐性のないものになっているのではないか。それを我々科学者自身、十分自覚してシニカルな態度で研究をやっているのではないか、と。

ソーカル事件当時は「科学は『検証可能な真実』に立脚してて、業界内の喝采以外に良し悪しの判断基準が無いポストモダン哲学なんかとは、学問の硬度が違うんだ」と、科学者は信じてて、その信念は社会全体でも広く共有されてたと思うのです。

ところが科学研究の現状はどうでしょうか。

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ご存知のように今の科学者は、論文数、その論文の載る雑誌のイムパクトファクタ(IF)、そして中長期的には論文の引用回数、といった数値化できる指標で評価され、その評価が研究費の配分に反映され、っていう風になっていて、これで品質管理がなされて、内部的な公平感を担保して業界の平安を保ち、外部に向けては税金の投入が正当化されるわけです。

しかしこれも長くやっていると、科学者も動物なので、システムに上手に適合してショートカットを取ることが多くなります。手間暇才能の大量投入が必要な研究の実際の中身の充実より、数値指標を手っ取り早く上げプレゼン技術を上げるほうがずっと簡単ですから。だんだん科学者の中でも研究費獲得技術に特化したプロみたいな行動様式が、目立つようになってきます。

「科研費申請書の上手な書き方」なんて本がベストセラー上位にいたりするのを見て、うんざりしない人がいるでしょうか。もし私が審査員やってて、誰か言葉のうまい人文系の人が「逆ソーカル」になって、サイエンスの何かの分野の言葉だけ覚えて申請書書いて、それをギフトオーサーシップなどで論文数を上手に嵩上げしたのが回ってきたら、騙されて大金あげちゃわないという自信はないです。

まあ実際は、書かれた文面と同等以上に申請者の実績を見て判断するので、今直ちにこんな事は起こりません。それに大概は、良い研究者はその気になれば良いプレゼンターになれることが多いものです。プロにならば学問的に重要な課題を、時流に合わせて受け入れられやすい言葉にして、噛み砕いて書くこともできるはずです。科研費をはじめとした通常の研究費は、全体で見れば非常によく機能していて、高い水準の研究を安定してうみだしている、と公平な外部の人が見ても現状を判断するでしょう。

それでも研究者はみな「本当に実現したい夢」はとりあえず心の内に封印して、予測可能な、凡庸で上質な「良い子の研究計画」を人に見せて生きていくわけです。それをやり続けてると、本当の夢の方がどこかに消えてしまう場合もあるかもしれません。嘘や不誠実の本当の悲劇は、嘘も方便といってた自分自身の作り話を、しまいに自分で信じてしまうことなのです。

静寂につつまれた知恵の一刻に「初心」を思い出して、憂鬱な思いにとらわれる老科学者の図です。

われわれ老科学者はそうやって憂鬱の思いにとらわれて、酒でも飲んでいればいいだけですが、若い人の心はいかばかりでしょう。ボスが言っている言葉から粉飾をとれば「高いIF雑誌に出やすい研究をやろう。研究費を取りやすい研究をやろう」だとすれば、賢い若手はそれを直覚します。

真理の探求は建前だけで、現状の研究生態系を維持するためだけに自動運動している、魂のない人工無能みたいなので、研究社会全体が満たされている、と院生時代やポスドク時代に感じてしまった若手の絶望感は想像するに余りあります。

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話がこれで終われば、まあ結局、サイエンティストの社会も「業界」にすぎない、それに気づくのが昔は中年以降だったのが、今は二十代ですでに気づいてシニカルになってる、ってだけのことでしょう。

そんなこんなで、才ある人を集めて、凡庸でも上質な研究が積み上がれば、それで科学は十分進歩していくわけです。画期的な研究の多くにしても、実際はそんな風な「凡庸で上質な」研究から、瓢箪から駒のように生まれているのです。いまさら古き良き牧歌的な時代に戻りたいと言っても、それは土台無理な話なのでしょう。知的活動までもが制度化され官僚化された時代病の一つの症例にすぎない、「ノーマル・サイエンス」の憂鬱、ってわけです。

ところがここに「大型競争資金」ってのが加わります。

これは従来の研究資金とは、由緒来歴が全く違うわけです。はっきり言えば従来はコンクリートに行っていた公共投資が、知識産業時代とかってことで、一部が科学技術に振り分けられてきたわけです。従来の科学技術投資の何十倍、何百倍が、「割とすぐに役に立つ」という名目の研究に、今までとは違った論理と違った様態で大量に入ってきたわけです。

巨額資金の目的は情報化社会の推進、とか長寿社会の健康増進、とかはっきりしている一方、今までの延長線上ではない「画期的なイノベーション」が要求されます。そのため、従来のノーマルサイエンスのいろんな風習が、あえて無視されることになります。トップダウンで選ばれた少数精鋭のプロジェクトリーダーが、自分の責任で若い人を大量に集める。そうして集めた軍団の中では「成果主義」が貫かれ、特別な成果を認定された例外を除き、大部分の若手は短期雇用の綱渡りをすることになります。プロジェクト全体は大規模で膨大なので、個々の研究者は全体を分割された部分を請け負う形になります。

研究者社会も現代の社会経済一般の「新自由主義的」な構造を反映している、ってわけです。

研究の建前上、この研究資金の受益者は「一般社会」であって、それゆえ「一般社会への直接のサイエンスアウトリーチ」が必要になります。研究成果は「Nature」「Science」という高IF雑誌に載せた上、プレスリリースを行って、一般紙でも広報してもらわないといけません。研究者に以前にも増して、プレゼンテーション能力が求められ、言葉選びのセンス、カメラを前にした振る舞い、服装選びのセンスまで求められるようになります。

研究集団を率いるリーダーには、ヴェンチャー企業経営者の才能が必要になります。第一級の研究業績を残した経歴はもちろん必須の前提ですが、それだけでは数十億から数百億円の予算と、数十人数百人の集団の総指令は務まりません。集団には複数の中間管理者も必要です。30代40代の助教准教授といった、従来は独立研究者と考えられた壮年層は、自分の研究の推進よりもむしろ、研究チームを統括する中間管理職としての役割が大きくなり、会議で顔をあわすたびに「忙しすぎて研究する暇がない」と言い合う事になります。専属の財務担当秘書から、広報担当のアーティスト、果ては研究戦略を俯瞰し助言する軍師の役割を担う、プログラム・オフィサーまでを抱えることになります。

塚原・美馬両博士のいう「ポスト・ノーマルサイエンス」の、美しい新世界へようこそ!

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さて実際の研究の最前線で日々「戦って」いるのは若き俊英たち、ポスドク、院生たちです。

頭の回転が早く、ボスの次々と繰り出す新課題をそつなくこなし、あれこれとと湧いてくる新しいトレンドに素早く対応し、チームプレイを巧みにこなして皆で論文を量産し、国際学会で世界中を飛び回って見事な英語で講演を行い、ブログとツイートでフォロワーを唸らせ、サイエンスカフェの巧みな語りで老若男女を魅了し、テレビカメラの前で爽やかに微笑む。学問的スキルと社会的スキルが見事にバランスし、ハイテクで、グローバルで、マスメディア、ニューメディア両方に完璧に対応している。

現代の若い科学者が成功するためのハードルの、なんという高さでしょう。

学問を職業として行おうとすると、本当の野心はとりあえず皆から隠して、制度化したノーマル・サイエンスの枠組みにおさまる「生産的」な研究を行い評価を得る術を学ばねばならない。それと同時に、研究仲間の内だけでうける従来型枠組みを離れて「パラダイムを転覆するイノベーション」をやってるんだと、マスコミを通じて大衆社会に直接訴える言語的ならびにそれ以外の能力が必要です。そして一人でも仕事ができ、空気もよく読め、場合によっては研究室の中の不都合を見て見ぬ振りをしながら、明るく前向きに研究に励む必要もあるでしょう。

あるいはこういうのを「ブラックな職場」でのダブルバインドな「無理ゲー」というのかもしれません。

そしてこのような美しき新時代に、昔ながらの「本当の学問」を志した若者が感じるであろう絶望、場合によっては絶望と怒りは、どこへ持っていけばいいんでしょうか。自らに二重の偽装を施して真実の道を歩み続けられるのは、本当の強い精神のみでしょう。

アテネ最盛期の古典ギリシャ、戦国時代の中国、ルネサンスのイタリア、20世紀初頭の欧州、といったように、他と隔絶して知的活動の盛んだった、いわば知的ビッグバンが起きた時代が、いくつかあると言われます。創造的活動に携わると自負する者はだれしも、そのような時代に生きたかったと思うでしょう。たしか毒舌家のバートランド・ラッセルが、ニーチェについてこんなことを言ってた筈です。「ニーチェの哲学を一言で要約すればこうである:私はペリクレス時代のアテネかチェーザレ・ボルジア時代のイタリアに生まれたかった」

ヤーコブ・ブルクハルトが不朽の著作で記述している通り、文明史上のビッグバンが起きた時代はすべて、技術革新のもたらした富の蓄積と、複数の政治権力の競合という条件が並立し、競合する権力が競って知的イノベーションに投資したものです。その他にも、表層的でない人間理解に基づくこなれた制度設計など、幾つかの条件が揃っていることが必要なのでしょう。途方もない法螺話への大投資が無駄になるなか、その副産物のような辺縁での一見ちいさな発見が、しまいにパラダイムシフトに繋がったりすることも往々です。

今の科学への大投資も、そのような時代の到来を呼び込もうという、人類史的な試みなのかもしれません。おそらく上に挙げたような輝かしい幾つかの例の陰に、それに十倍百倍して、それを目指して失敗した試みがあるのだと思います。我々の向か嘔吐してるのが、そのいずれなのか、私の曇った水晶玉に、何か映っているのは見えるのですが、それがなんなのか、私の弱った視力では判然としません。
14:04 | 投票する | 投票数(28) | コメント(0) | 悪戯