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2016/11/11

「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(2)

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 2016年5月7日、京都新聞に「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う」という見出しの記事が掲載されました。この記事をめぐって、このブログでは、次の二つについて検討しています。
  1. 見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて
  2. 「哲学者」千葉雅也氏の発言について
このうち、第一の点は、「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で検討しました。ここでは、第二の点について検討します。

 前回のブログ「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で既に記事の関連部分を掲載しましたが、ここでも改めて掲載します。

 今年1月、京都市中京区の市立芸術大ギャラリー@KCUA(アクア)で催されたあるイベントがアート界に波紋を広げている。若手アーティストによる「88の提案の実現に向けて」と銘打った企画の一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目があったからだ。「表現の自由」として許されるのか。人権侵害として非難されるべき行為なのか---。

 【・・・】

 立命館大准教授の哲学者千葉雅也(37)は、論争が巻き起こっていること自体に批判的なまなざしを向ける。「突出した行為に対し、ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない。特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」と分析する。

 では、表現と人権の利害調整をどのように考えればよいのか。千葉は「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 これから千葉雅也氏の発言を検討していきます。その際、第一の点、すなわち「見出しに掲げられた「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か」という問いについて」、「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)」で検討したことは前提とします。お読みになっていない方は、まずこちらからお読みください。また、この「ワークショップ」については案内サイトを、当日の経緯については「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」をご覧下さい。

 千葉氏の発言は、文言自体は一般論に見えますが、京都新聞の記事の話題の範囲で述べられていることから、「デリヘルを呼ぶ」という企画のあったワークショップに適用されることを前提として、以下の検討を進めます。


A. 「突出した行為に対し」

 千葉氏の発言は、「デリヘルを呼ぶ」企画を「突出した行為」と評価しているものと理解できます。しかしながら、実際には、前回の検討で明らかにしたように、この行為は、「デリヘルを呼ぶ」という企画自体が陳腐であることに加え、

何人かの人があつまって、特に考えもなしに撮影自由・出入り自由で複数人がいる場にデリヘルを呼ぶことを、その影響も考えずに提案してみた。

という、個人個人が独立してものを考えない内輪の集団に典型的に見られる、その意味では極めて凡庸で陳腐な行為です[1]。

 セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、アカデミックハラスメントなどと同質であって、このような行為をもたらす機序は「自分たちの仲間内のノリに従って相対的に弱い(と自分たちが思い込んだ)相手に矛先を向ける」という、不幸にしてとてもよく見られるものの一変形です。このような、内輪の集団に典型的に見られる機序に従って、行為が歯止めなく他人の侵害に向かうことを「突出」と言う言葉で表すことは不可能ではありませんが、それは、あくまで陳腐で凡庸な思考様式にもとづく行為がやはり「内輪のノリでなんとなく」が歯止めを失うという陳腐で凡庸な機序により逸脱的に肥大するというだけで、わずかなりともポジティブな価値を認めうるものではありません。

 前回は、「デリヘルを呼ぶ」という行為とそれに対する認識に見られる、性差別的な側面を確認し、それを維持した上で、似たかたちを取る例を挙げました。性差別的な視点は、相対的に弱い相手を同定する際に男性の仲間内で共有される視点として特に目に付くものですが、仲間内で思い込んだ「弱いもの」を同定する視点は、他にもあります。障がい、人種、病気、学歴(東大生による暴行事件ではこの視点も入っていました)、収入、年齢、見かけなどが、すぐに思い浮かびます。

 このレベルで「デリヘルを呼ぶ」という企画の特徴を把握すると、これに類する出来事はさらに増えます。

 例えば、長谷川豊氏は、2016年9月19日、「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか? 今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と題されたブログで、「人工的な装置を使って、週に3回ほど病院に行き、血液をキレイな状態に変えてもらう訳です。でなければ死んでしまいます」と言いつつ、先天性の患者以外を自業自得とひとくくりにし、透析患者があたかも働いていないかのような前提で、保健で透析を支える「アリ」に対し透析患者を「キリギリス」に見立て、「キリギリスは餓死しなければいけないのです。でなければ、アリさんはやる気を失うのです」と述べます。

 これも同じかたちをしています。

 もしかすると、こちらについてのみ「酷い」と思われる方もいるかもしれません。とはいえ、この発言も、会社などでそう少なからず見られる「あいつ使えない」といったやはり凡庸で陳腐な、「自分はできると思っている仲間内のノリに基づく何となくの発言」を逸脱的に肥大させただけのものに過ぎませんし、批判を受けたのちの長谷川氏の応答はまさにそうした意識を内面化し気づきもしないという、これもまた当たり前に見られる状況を示しているに過ぎません(「過ぎません」という言葉で表される陳腐さが深刻な被害を及ぼすことが大きな問題であることはこれまでも述べてきました。ここで「過ぎません」というのは、これがもたらす被害の深刻さを軽視するものではありません)。

 「デリヘルを呼ぶ」を企画しあるいはそれに参加した何人かの人々が、自分たちの平凡な、けれども他人に危害を加えることになる可能性のある行為を正当化するために持ち出したのは「芸術」でした。これに対し、長谷川氏が正当化に持ち出したものは「日本の再生」「経済」です。前回見たセクハラ・アカハラ上司は「頼りになる大人」を、女性に集団暴行を加えた学生は「学歴」を正当化に持ち出していました。いずれの場合でも、自分たちだけで了解している仲間内の「俺達ってすげえ」という無根拠な集団的自意識に一見したところポジティブな印象を与える言葉をかぶせることで、凡庸で陳腐な欲望を逸脱的に肥大させて他人に向ける言い訳に使うという点は、これも残念ながら極めて普通に見られるな機序です(共通していること自体が、その平凡さを明確に示しています)。

 千葉氏の言葉からは「デリヘルを呼ぶ」という企画がどのように「突出した行為」と見なしうるのかわわかりません。これまでの検討で、唯一、言葉として「突出した」と言えるのは、陳腐で凡庸な欲望を逸脱的に肥大化させたという点だけです。実際にはそれが「突出した行為」でないことは既に示しましたが、それ以外に整合的な解釈の使用がないので、これを「突出した行為」と見なしていると少しの間仮定してみましょう。


B. 「ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない」

 「突出した行為」に対する「批判」の「殺到」は「ある種の羨望の裏返し」と千葉氏は述べます。ここで皆さんに質問です。

数人で集まって「デリヘルを呼ぶ」という企画を立て、それを「芸術」の名のもとに正当化しようとする行為

羨ましいですか?

勤務時間外に部下の女性を連れ出し「料理が出来ない? 男からしたらありえないぞ,それ」と言って相手に自己否定感を植え付け、それを「頼りになる大人」の行動として正当化する行為

羨ましいですか?

女性を集団で暴行し、それを「彼女らはアタマが悪いからとか,バカにして」正当化する行為

羨ましいですか?

先天性でない透析患者は自己責任だから保健は不要、「キリギリスは餓死しなくてはならない」と述べてそれを「日本の再生」「経済」を持ちだして正当化する行為

羨ましいですか?

 私は、まったく羨ましくありません。こうした行為を耳にしたとき、自分がそんなことをしたり言わないできてよかったと、心の底からほっとします。同時に、気づかないうちにしたり言ったりしてきたのではないかと本当に不安になりますし、思い当たることにたじろぎます。いずれにしても、ほんのわずかも羨ましくありません。自分は一生そんなことをしたくないし、誰もがそんなことをしないことを心の底から望みます。

 ところで、この段落(すぐ上の「私は、」から始まる段落)を読んだ段階で、違和感を感じられた方がいるかもしれません。それは、当然です。

 そもそも「羨ましいか?」という問いに対し、それを拒否するのではなく、羨ましいとか羨ましくないと答えることは、答える人が、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」の目線に自分の目線を重ねることによってのみ可能です。「羨望の裏返しにすぎない」という発言は、呼ばれたかもしれないデリヘルの人、部下の女性、暴行を受けた女性、殺せと言われた透析患者には自分を重ねる人が存在することを想定していません。すなわち、千葉氏の発言では、侵害を受けるかもしれない側の人とそれに目線を重ねる人の存在は、最初から排除されています。そして、上の段落の答えは、暫定的に千葉氏の発言が前提としてしまっている目線を共有した上でなされたものでした。

 より自然な順序で、千葉氏の発言の性質を整理しましょう。
  • 千葉氏の発言は、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしている。
  • その上で、千葉氏の発言は、「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると決めつけている。
これらの発言は、対象となる出来事に関与する最低限の要素をさえ考慮できていないという点で、認識のプロセスとして不十分なものに基づいており、その当然の結果として、単純に経験科学的に検証しうる事実のレベルで完全に誤っているのです。

 実際、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」に言葉を寄せている方々は、被害を受けかねなかった人たちの目線で、「デリヘルを呼ぶ」という行為を何となく思いついた数人の人たちに対し、その人たちとその行為には侵害行為を別にして何一つ突出したことは存在しないし、何一つ羨むべきことはないという明確な評価を与えています。この議論を無視して、「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という紋切り型の言葉でこの出来事をめぐる論争を表すことは、論争そのものを見ないことによってしか可能になりません。

中間整理(1)

 ここまで、千葉氏の発言に見られる特徴を整理します。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。


C. 特権性を許さない日本的な平準化欲望と、アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び、

 ネットで検索すると、デリバリーヘルスの料金は、15,000円から30,000円程度のようです。「年収の分布」によると(統計元は国税庁平成26年民間給与実態統計調査結果)、男性サラリーマンの年収は300万円台(18.3%)、次いで400万円台(17.4%)が多く、200万円台(13.2%)と500万円台(12.8%)、600万円台(8.4%)と続きます。デリバリーヘルスのサービスを呼ぶことは、さほど「特権的」なことではなさそうです。

 また「デリバリーヘルス」「接待」でネットを検索すると、「幹事様必見! デリヘル(風俗)接待コース」といったサイトが上位に複数出てくることから、「何人かの人が集まってデリバリーヘルスのサービスを」というのもどうやら「特権的」なアイディアとは言えそうにありません。

 さらに、その行為を「芸術」と呼ぶことは、たぶん無料で、何の「特権」もなくてもできます。

 千葉氏の発言は、数人の集団が撮影可で不特定多数の人が出入りする場所に「デリヘルを呼ぶ」行為のどこに特権性があるかは書いていないので、もしかすると何か千葉氏しかご存じない特権性があったのかとも思いますが(まあ「デリヘルを呼ぶ」という行為を「芸術」と呼べるまでに徹底的な反省的知性の欠如はある種「特権的」かもしれませんが、でも随所に見られますし・・・)、上で見たように、千葉氏の直前の発言にはある事象に対して妥当な思考の表現が有するべき重要な属性のいくつかが欠けており経験科学的に容易に検証可能な事実についても誤りがあることから推測すると、ここでもまた、単に発言に持ち出された観念が現実と乖離していたと推測する方が妥当性は高いと思われます。

 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」は、むしろ、まったく逆のかたちで妥当します。

 男だから何か偉いとか、学歴が何か偉いと思う観念、自分が「芸術」だと思っていることが偉いと思う観念など、自分は相対的に上位にあると思っている人たちがそれを維持するために持ち出しがちな実体(個人における)と乖離した観念は、けれども対応するものが明示的なあるいは暗黙の制度として一部で依然として維持されている程度には凡庸なもので、その制度の中で相対的に優位な場にある自分たちよりも下位にあるものはまさに制度として維持されているがゆえにその制度で押し付けられた立ち位置が「平準化」の基準点と見なされ、つまり「現状」の維持が「平準」の基準であり、それを逸脱すると叩かれる、ということは非常に頻繁に見られます。「当たり前に働く女性」はその典型です。「生活保護を受ける女性」もその典型です。むしろこうした極めて「日本的な」(日本に限りませんがそれでも私の知るいくつかの場所と比べてやはり強いという点で「日本的な」という、通常、一定の条件がなければ使うことを避けるべき用語を千葉氏の言葉を借りて使います)制度的配置において、平準化された中の相対的に優位にある集団のその中でまた平準化された思考と行動の発露の典型的なものとして、

ある場所に集った人たちが、特に考えもなしに仲間内の「ノリ」で「デリヘルを呼ぶ」ことを、その影響も考えずに提案してみた。それを「芸術」という観念でなんとなく正当化した。

という行為は存在し、そのような平準化された曖昧な理解に、「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」で違和を表明し異議を唱えた人々の行為こそが、この出来事をめぐって観察される光景の中では言葉の最も適切な意味で「突出した行為」でありましょう。それを現状の相対的優位を維持したい人々が典型的な「日本的な平準化欲望」の表明として「特権的」と見なし批判するというわかりやすい図式がここにあります。

 その特権性を前に、状況と乖離していることは少しきちんと調べればわかるにもかかわらずそれをせずに述べられた「ネット上で批判が殺到して『炎上』するのは、ある種の羨望の裏返しにすぎない」そして「特権性を許さない日本的な平準化欲望」といった言葉こそ、まさに2016年の日本が置かれた風景の中で、かくも戯画的な図式にこれほどまでみごとに当てはまってしまってよいのかとたじろぐほどに典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」であることは、これまでの議論と事態そのものが、解釈の余地もないほど明確に示していることであります(実際のところは、そんなことを踏まえるまでもほどに明らかなものです)。

 差別的な視点を内面化し問題さえ認識できなくなっている人たちが内輪で「このくらいやっても大丈夫だろう」と思うこともなく思っている行為に対し、その行為の被害者から反論を受けて「とんでもないことが起きた」と相手を批判しはじめる。これは「欅坂46」のナチス風衣装をめぐっても見られたもので、「日本的な平準化欲望」にまみれた人々が当然の反応を前に「日本的な平準化欲望」に浸りきったがゆえにそれが当然と認識できずに「特権的な」ものと見なし攻撃を始めるという痛々しい行為を、千葉氏の発言は、こともあろうか「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という言葉を発することで今一度反復しています。簡単に言うと「俺らのぬるい欲望に対しお前らが反論する特権は許さない」というわけです。

 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について言うと、この出来事が京都市立芸術大学のギャラリーで、すなわち「アカデミズム」との「共犯関係」においてなされていたことを指摘しておきます。それに対して、たとえば「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」に名を連ねている9名のうち「アカデミズム」に属していると確認できたのは2名です。なお、これに関する問題は、別のかたちで下でまた扱います(「共犯関係」は一般論だという可能な反論も途上で暗黙・間接的にですが扱います)。


D. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」

 「前もっての過剰な配慮」どころか、配慮そのものがなかったことは、企画者たちがなした「デリヘルに(客として)電話するか否か? それはリスキーなのではないか? といった会話」に対し、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏が「それは誰にとってのどんなリスクだということが話されたのですか」と問うたとき絶句して答えられなかったこと、つまり「『デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ』という提案が、誰にとってどんなリスクがあるのかはその時点では誰にも認識されていなかった」ことが示しています。

 「『気にしい』」も、その場に呼ばれて問題を説明したげいまきまき氏に参加者が「デリヘルをここに呼ぶって問題ありますか?」「ダメなんですか?」などと聞いたこと、「『じゃあ何で、"デリヘルを呼ぶ"の項目を消してと言わないんですか?』と半ば揚げ足取ろうとする時の口調で言ってきた」ことなどから、出来事に対する妥当な特徴付けでないことがわかります。

 なお「前もっての配慮」については、「アカデミズム」の話とともに、後ほど関連する問題を扱います。

中間整理(2)

 ここまで、千葉氏の発言をめぐって確認したことを整理します。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。
  5. 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」について言葉に対応する事態を間違えていること。自らの「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という発言自体が、典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」を満たす行為になっていること。
  6. 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について今回の出来事における「アカデミズム」の位置づけを考慮しないしたがって今回の出来事をめぐる記述としては妥当性に欠いていること。
  7. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」について、今回の出来事における事態の推移から理解できる事態の性格とは異なった誤った記述になっていること。


E. 「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を「理念的」に認めること。

 まず、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」という言葉の(非)論理構造を、出来事との対応とは別に指摘しておきましょう。そもそも、この発言は、法律や憲法への無理解を示しています。そしてそのことは、法律や憲法の勉強をしなくても、中学校までで学ぶ法律の基本的な位置づけを踏まえ、やはり中学校までで学ぶ初等的な論理に従って思考すればわかることです。

 法律は、人間ができることを禁止するものです。人間が「やるときはやる」からこそ、法律や憲法に規程があるのです。人間がどんなにやろうとしてもできないこと、想像もつかない行為を、法律や憲法は禁止しません(Proxima Bへの移住を規制する法律は存在しませんし、想像もつかないことについては禁止することを思いつけさえしません)。「人間は何事かをやるときにはやる存在だ」から、やらない方がよいことを「法律や憲法が禁止」するのです。

 むろん、それを踏まえた上で、論理の破綻と無意味さを通して意識的に「やるときはやる」ことの重要さを強調するためになされた発言だったのかもしれません。もちろん、ここまでで見てきたように、おそらくはそうでなかろう、むしろこの発言は単純な思考力の欠如を示しているものだろうと推測する証拠の方が圧倒的に強くはあるのですが。

 次に、出来事と「法律や憲法」との関係を考えます。「Don't exploit my anger! 私の怒りを盗むな」のサイトに、社会学者の山田創平氏が「表現の自由を守るために」という文章を寄せています。一段落一段落、担々と書かれていますが、すべて重要なので、次の段落に行く前に、まずお読み下さい。


 山田氏が言及しているのは、人体実験を禁じるニュルンベルク綱領とヘルシンキ宣言、それに依拠した、学術機関(美術館や博物館を含み、学芸員やキュレーターにもこの規定の順守が求められます)の倫理規定です。重要な点をあげます。
  • 「かつてナチスドイツはユダヤ人、障がい者、少数民族、同性愛者などをターゲットに膨大な人体実験を行いました。ニュルンベルク綱領はその反省の上に作られました。」
  • 「いわゆる九大事件(九州大学生体解剖事件、1945)や新潟大学事件(リケッチア人体実験事件、1955)など、大学における研究が学問の自由を大きく逸脱し、『人体実験』という、越えてはいけない一線を越えた事例も数多く存在します。」
  • 「今回の出来事に即して言えば、『デリヘル嬢を呼んで話を聞く』というのはインタビュー調査、面接調査、参与観察に該当します。今回、展覧会やワークショップの主催者はほとんど意識していなかった可能性もありますが、セックスワーカーを呼んで話を聞くという計画や実践は、大学や美術館がそれをやる以上『人を対象とする調査・研究』に該当するのです。」
 つまり、この出来事に関連して直接的に問題となる規定は、遡ると、ナチスドイツの人体実験にたどり着きます。それへの反省、また日本でもそう遠くない過去に起きていた学術機関での人体実験への反省から生まれた規定である、ということです。これに対して、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る言葉の中には、この無責任さの中で肯定される「やるときはやる」行為の一つにナチスドイツ下で行われた人体実験までは含まないことを示すものは何一つありません。

 したがって、今回の出来事が違反する規定の歴史的文脈において、「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と言うことは、ナチスドイツにおいて、そして日本においてなされた人体実験も含めて、その存在を現在において否定しないことです。さらに、「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」という言葉は、「アート」において単にそれを否定しないだけでなく「理念的に」は積極的に肯定する側に一歩踏み出したものと解釈できます。

 ここで、ナチスドイツ時代の宣伝ポスターを一つ紹介します。

遺伝的欠陥を持つ人間の一生に6万ライヒマルクもかかる。それは他ならぬ君の金だ。考えろ。

  1. この言葉は、長谷川豊氏の発言に(長谷川氏の発言では「遺伝的欠陥」は除外されていますが)たいへん似ています。
  2. 長谷川豊氏の発言においては、「日本の再生」「経済」が正当化に持ち出されました。
  3. この長谷川豊氏の発言と発言の正当化は、「誕生日研究会」のメンバーが女性に集団暴行を加え、その実行を正当化するために「学歴」を持ちだしたことと、同じかたちをしています。
  4. 長谷川豊氏の発言と発言の正当化、「誕生日研究会」のメンバーの行動とその正当化は、何人かが集まって「デリヘルを呼ぶ」という企画をたて、それを正当化するために「芸術」を持ちだしたことと、同じかたちをしています。
 千葉氏の発言は、議論の対象であったはずだった「デリヘルを呼ぶ」という事態を具体的に検討することなしに極めて一般的なものとしてなされ、この経路を逆から辿って、途中で対象を構成する要素に関する具体的な属性の変化から適用不可能になるような制約が存在しないものであったために、今回のケースに具体的に適用される規定の歴史的文脈を介してナチスドイツ下の人体実験に類することまでを「アート」の可能な射程に含め擁護する作用を有しています。

 「他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を『理念的』に認めること」という文言、そして千葉氏のこれまでの発言の中に、ナチスドイツ型の人体実験を「アート」の名目で行うことは否定する要素は、どこにもありません。今回の出来事が、ナチスドイツによる人体実験の反省から作られたニュルンベルク綱領に起源を持つ研究機関の倫理規定に違反する可能性があること、まさにその出来事をめぐって千葉氏が「他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、いかなることもなしうる極端な自由の存在を『理念的』に認めること」と述べていることが導く、これは論理的な帰結です。


F. 「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。

 以上のような帰結を導く発言ののちに、「他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもり」がない、ということは、単純に発言にも発言の一貫性にも責任を取らない放言に過ぎないと自らの発言を見なしているか、人体実験は少なくとも「理念的」には「他人に迷惑をかけ」ることではないと言いたいか、あるいは、この出来事をめぐって千葉氏が発言し記録されたことがその言語の形式において何を意味してしまうかについて考えが及ばない程度に言語における思考に関して未熟であるか、(あるいはその可能な組み合わせの)いずれかであることを示しています。

 既に、「『しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない』と警鐘を鳴らす」ことの性質は明らかですが、少しのべておきます。

 まず、特定の出来事の妥当性を検証しているときに、「あらゆる迷惑行為」を持ち出すのは、典型的な議論の過誤です。そもそも、この出来事をめぐって「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止」すべきという主張が存在していることを千葉氏は示していません。一方で、まさにこの行為がいかに問題かを具体的に論じた主張は極めて目につきやすいにもかかわらず、扱われていません。

 この言葉についてはもう一点、日本社会における「迷惑行為」の実質的な適用範囲を踏まえて、適用の過誤を指摘することができます。経験科学的事実確認と社会科学的概念批判の組み合わせで極めて単純に行えるものです。

 現在の日本では、比較的広い範囲で、セクハラやアカハラよりも、それを訴える行為が「迷惑行為」であると、実質上は見なされがちです(少し調べてみるとわかります。また、不幸にして実感されている方も少なくないと思います)。それと相関して、訴えることをあらかじめ封じ込めようとする圧力も強くあります。

 例えば、性的事件についての報告率は「平成24年版犯罪白書」では18.5%とされており、また、内閣府による2014年度「男女間における暴力に関する調査」では「異性から無理やりに性交された経験(女性のみ)」で被害経験のある人は6.5%となっています。そのうち「相談した人」は31.6%、「警察への相談」はわずか4.3%に過ぎません。

 このことが示唆するのは、実際には、「アートと称してデリヘルを呼ぶ」とか「頼りになる大人」を装ってセクハラとパワハラを続けるとか、自分は「東大生」だからという観念のもとで女性に暴行を加えるといったときに、現在の社会で絶望的に不足しているのは、それを防止しようとする社会的意志であって、この社会的意志の欠落の中で生み出されているのは、千葉雅也氏が述べることとは全く逆に、被害を訴え出る行為が、むしろこうした侵害を当たり前のものとするような雰囲気を受け入れそれを意識するともなく前提として思考する人々によって「迷惑行為」と捉えられ抑圧を受けているという状況です。

 もし「デリヘルを呼ぶ」という企画が未遂に終わらなかったら、派遣された女性は訴えることができたでしょうか?

 「他人に言えない」人が多いという条件を考えると、上で述べた報告率に対応する確率よりも訴える可能性は低いと考えるのがより妥当だと思われます。「デリヘルを呼ぶ」という企画は、「あらゆる(被害者が訴え出るという)迷惑行為をあらかじめ防止しよう」という圧力が蔓延し被害者が「萎縮」する「社会」の中で、安全地帯にいる人々が他人への侵害を行えるような、千葉氏の言葉を借りると「ファシズムに転化しかねない」状況があるからこそ、かくもやすやすと凡庸に陳腐に成り立ってしまったのであり、それによる被害を訴えることは、「ファシズムに転化しかねない」状況に対する極めてまっとうな反対です。

 それを認識せずに(しかしながら「中間整理(1)」「中間整理(2)」でまとめたように千葉氏はこの出来事についてほぼ何一つ認識することに成功していないのですが)、「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と述べてしまう千葉氏が、「法律や憲法」、規定の文脈で、ナチスドイツ下の人体実験を「理念的」に容認する帰結を導く発言をしたことは、これもまたあまりに戯画的ではありますが、当然のことであったと言わざるを得ないほど整合性が取れてはいます。

 検討の対象であるべき出来事の具体性を捉えず、歴史的文脈を捉えず、紋切り型の一般論を持ちだして何か言った気になるという、単純に、記事に記載されている限りでの千葉氏の文言から抽出できる議論の性格は、「ファシズム」という言葉の弛緩し倒錯した使用法も含めて、すぐれて「日本的」に「平準化」された緩さであるという点で「突出した行為」から限りなく離れたところにあるという点も、既に十分に自明ではありますが、ここで指摘しておきましょう。


最後に

 簡単に千葉氏の発言と発言行為の特徴と作用をまとめます。
  1. 凡庸で陳腐な内輪のノリが逸脱的に肥大化したに過ぎない行為を「突出した行為」とあたかも積極的に価値があるかのように評価していること。
  2. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせる人以外は存在しないものとしていること。
  3. 「集まった数人」「上司」「東大生」「長谷川豊氏」に目線を合わせるならば人はその「突出した行為」に羨望を感じると事実に反し無根拠に決めつけていること。
  4. 千葉氏の発言が示す視点に最初から欠落した、侵害を被る人々の視点、千葉氏の発言が示す評価に最初から欠落した「デリヘルを呼ぶ」には何一つ羨望するようなものはないと見なす人々の視点は、すでにネット上で提出されていながら、千葉氏の発言はそれを考慮せず、それを無視した上でしか可能にならない、したがって現実の状況に反する「ネット上で批判が殺到して『炎上』する」という記述をあたかもネット上の議論の記述であるかのように述べていること。
  5. 「特権性を許さない日本的な平準化欲望」について言葉に対応する事態を間違えていること。自らの「特権性を許さない日本的な平準化欲望」という発言自体が、典型的な「特権性を許さない日本的な平準化欲望」を満たす行為になっていること。
  6. 「アートに公共意識を求めるアカデミズムが共犯関係を結び」について今回の出来事における「アカデミズム」の位置づけを考慮しないしたがって今回の出来事をめぐる記述としては妥当性に欠いていること。
  7. 「前もっての過剰な配慮、『気にしい』の蔓延を生み出している」について、今回の出来事における事態の推移から理解できる事態の性格とは異なった誤った記述になっていること。
  8. 「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と述べることが、相対的優位にあると思い込んでいながらそれに気づきもしない自分がそれに気付かされるような反論を「迷惑行為」と見なして防止しようという「特権性(と自分たちが見なすもの)を許さない日本的な平準化欲望」の発露になっていること[2]。
 経験科学的に検証しうる事実認識の誤り、思考の出発点における要素の見落とし、社会科学的概念の操作と経験科学的な分析で認識できる事実関係の誤りに基づき、自ら批判的に述べている行為をまさにそれを批判する言葉を発することによって行っている、千葉氏の言葉は、思考と思考するという行動はこのようなものであってはならないという典型的な在り方を短い言葉の中によく詰め込んだものになっています。

 芸術だと自分が思い込んでいることを言い訳に肥大した好奇心を満たす行為と芸術との区別がつかないくらいに芸術を知らない「芸術家」たちによってでなければ提案されるはずもないと思わざるを得ないような、「芸術」の名を付けてなされた芸術と言うべくもない人権侵害未遂をめぐって、出来事そのものが求める問いと自分が問いだと思っていることの区別がつけられないくらいに問いを問うことを知らない「記者」によってでなければ提出されるべくもないと思わざるを得ないような問いモドキが提出されてしまい、それに対して自分が知性/思考だと思っていることと知性/思考との区別がつけられないくらいに知性/思考を知らない「哲学者」によってでなければ発せられるはずもないと思わざるを得ないような一見したところ言葉に見える列が発せられてしまい、それが問いモドキとともに何か意味があるかのように新聞に印刷されて人目に触れてしまったという、芸術にとっても報道にとっても思考にとってもあまりに殺伐として救いがたい、けれども不幸にして極めて見慣れた凡庸な光景が、ここにあります。

 もうひとつ付け加えておくならば、千葉氏の発言は、原発事故後に、事故そのものを調べることなく一般論を、しかもしばしば誤ったかたちで繰り返した「科学者」と、その位置づけと全体の構造において、ほとんど同じです。

 私たちは、こうした悲惨な状況に対して、当たり前に人権や芸術や思想や哲学や科学を救済していきましょう。どうすればそれができるのか、げいまきまき氏が示唆しています。

私はあい変わらず芸術も生活も人も大切だと思う。特別ではなく大切だと。

科学も、思想も、人権も、美味しい食事も、楽しい会話も、同じように、特別ではなく、大切なものです。空疎な一般論を振りかざして何か言った「気になる」のではなく、一つ一つ言葉を積み重ねましょう。食べログの情報を確認して味わった「気になる」のではなく、一つ一つ料理を味わいましょう。


注など

[1] 「凡庸」「陳腐」といった言葉は、個々人に向けられているものではなく、行動と思考様式に向けられています。論を追っていただければわかるように、「凡庸」「陳腐」という言葉はまず行動そのものに、次に「内輪のノリで何となく・・・をしてしまう」という思考(の欠如)様式に与えられ、そこでは、そもそも「凡庸」「陳腐」であると言えるような「個人」が存在しないこと、がまさに凡庸さ、陳腐さであるわけです。

[2] ちなみに千葉雅也氏はご自身の発言をアイロニーとして読み取れるはずだとこの記事よりも前に書いていますよ、と指摘してくださった方がいました。もちろん、このような記事を書く時に、その程度の可能性は考慮するものです。というかこの記事を読んでそれが考慮されていないと考える方がむしろ不思議ではあります。実際、「アイロニーですよ」と言うことは、「アイロニー」ととても言えないものを、自分が「アイロニー」と思っているもので正当化する、という、まさにこの記事が指摘している構造の単純な反復になっていて、それはまあ当然のことです。この記事が分析したことの一つはまさにそのことなのですから。「デリヘルを呼ぶ」を「芸術」と言ったり差別を「シャレ」「ジョーク」と言うのと同じかたちです(ただし自己申告した評価の方向性は違ったりしますが)。

「京都新聞の記事、「読めない」人は、あのデリヘルアートを評価してるように見えるかもしれない、一言明言しておくべきだったかも、という指摘を受けた。そうかもしれない。あんなのダメに決まってんじゃん、その上で、という話で、あの記事はアイロニーで書かれてるから、読み取れると思ってたけど。」

「「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」(熊本地震のとき)は「シャレ」だとわかると思ってたけど。だってそんなわけないに決まってんじゃん。シャレで書いている。わからない人もいるんだな。」

論理的に当然外挿できることではありますが、一応書いておきます。分析的な検討をしない点は、麻生太郎氏が香港のメディアにAIIBの質問をめぐって「嘲笑」で誤魔化したのと似かよっています。
22:35 | Impressed! | Voted(38) | Comment(0) | 社会情報リテラシー講義

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