Researchlog by Noriko Arai

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2012/11/20

科学と文学が記述できること・できないこと

Tweet ThisSend to Facebook | by norico
瀬名秀明さんの「エヴリブレス」が徳間文庫から刊行されることになり、どういうわけかSF初心者の私が「解説」を依頼されました。「エヴリブレス」のご紹介もかねて、ここに全文を掲載します。

「科学と文学が記述できること・できないこと」

1956年の夏、ダートマス大学において集中的な会合を開くことが提案された。提案者は、後に人工知能の大御所となるジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、ナザニエル・ロチェスター、クロード・シャノン。彼らは、人間の知的活動とは何か、人間はどのように学ぶのか、その活動はコンピュータによってシミュレート可能か――こうした問いを科学として真っ向から探究することを呼びかけた。このダートマス会議によって、AI(Artificial Intelligence, 人工知能)という分野が誕生し、科学者によってコンピュータと共棲する社会の具体的イメージが「当然起こる未来」として語られるようになったのである。

しかし、人工知能という企ては、何も1956年に突如始まったわけではない。その起源は、近代科学そして近代哲学のスタートまでさかのぼることができる。

ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレオより前の時代、世界は生物に喩えて説明がなされていた。石は元来、大地に属していた。だから、手を放すと、まるで母を慕うように石は地に落ちる。一方、炎は太陽に属していた。だから、煙になると母である太陽を目指して、上へ上へと昇っていく。このような説明が、アリストテレスに始まり、レオナルド・ダ・ヴィンチに至るまで受け継がれた揺るぎなき世界観であった。

ところが、ガリレオはそれとはまるで異なる方法で世界の理を表現した。それは、数学である。「一瞬」のうちに起こる落下という物理現象を、ガリレオが数式で表して見せたとき、「世界はいつかすべて数式で表現できるのではないか」という、近代科学の原動力となるアイデアが生まれた。哲学者で政治学者であったホッブスは「法学要綱」さらに「リヴァイアサン」の中で、理性は計算可能であると述べ、「弱いAI」につながる概念を提示している。ここにおいて、ごく少数の公理と、計算可能な理性によって、人間が本来到達可能なすべての真なる命題に到達することを目指すという近代科学の方法論が明言されたのである。

この近代科学の方法論をイデオロギーにまで膨らました張本人は、ルネ・デカルトであろう。彼は方法序説という80ページに満たない小冊子を発表することで、私たち人類を近代という時代へ、「数学記述主義」ともいえるイデオロギーの中へ放り込んだのである。一方、それに対して、デイヴィッド・ヒュームは論理のもっとも痛いところを次の一文で突いた。「私の指を傷つけるよりも、全世界を破壊する方がましだ、という決断は理性に反するものではない」と。論理的整合性は、皆が同じ結論にたどり着くための十分条件にはなり得ない。

だが、それは哲学における対立にしか過ぎない、と多くの「科学者」は考えた。なにしろ、「科学的である」とは「数学で記述できる」と「実験で確認できる」の二つとほぼ同義語として用いられており、実践者や思想家が科学者に「格上げ」されるには数学記述主義を受け入れるより他なかったからである。

さて、デカルトから始めるイデオロギーを忠実に、しかも無意識に受け継いだ人が、アラン・チューリングである。彼は23歳のとき、現代のコンピュータの原理となるチューリング機械というアイデアを発表した。それはまさに、「(合理的に)わかるとは、何か」に関する計算モデルであった。チューリングのアイデアに基づいて作られた現代のコンピュータとは、その意味で、「数学で世界の理は表現できる」という近代科学のイデオロギーを、忠実に、また極端な形で具現化しようと試みた人工物だといえよう。
となれば、「人工知能は可能か」という問いは、デカルトやホッブスの末裔である近代合理主義と、ヒュームの末裔である経験主義のどちらが「真の世界」に近いのかを三百年の時空を超えて問うテーマだともいえる。


瀬名秀明がBrain Valley以降、一貫してテーマとしてきたのも、まさにそのことだろう。コンピュータの脳であり母語である数学という言語は強靭さと柔軟さを兼ね備え、しかも必要に応じて成長していく。しかし、意外なところに脆さを抱えてもいる。数学が持つこれらの特性は、私たちの未来を、人工知能と共棲する私たちの未来を、どのように形づくるのか。彼は、その具体的なイメージを現在生み出されつつある技術から見定めたいと考えているのだろう。「エヴリブレス」でも近作「希望」でも、声や視野あるいは腕など、身体機能の一部を失い、それを技術によって補う人々が繰り返し登場する。これも、彼が考える「人の機能は機械によって置き換えることが可能か」という問いの立て方の現れではないだろうか。

「コンピュータは自らの意思を持たない」あるいは「コンピュータには真のクリエイティビティはない」と切って捨てて、安全な場所からコンピュータと人間の境界を描くのは易い。あるいは、逆に、「コンピュータは人間と同じく意思と感情を持ちうる」として、それを描くのも易い。瀬名秀明が探り当てようとし、ときに信じ、ときに迷い、それでも描こうとし続けるのは、デカルトやヒュームそして、今、多くの科学者や哲学者が格闘している、「科学が記述できること・できないこと」の境界イメージである。

「デカルトの密室」までは、「なぜ私はそこに境界線があると思うのか」をエビデンス・ベースで硬質に描く傾向があったが、「エヴリブレス」や「希望」ではその緊張感がすっと消えてなくなっているように感じる。自らがこのテーマに対して持つパースペクティブに関して、作者が自信を深めている証しなのではないだろうか。


さて、ここから先はやや雑談である。
友人である「セナさん」とお酒を飲むと、いつも彼の小説のヒロインの話になる。私が「ねぇ、こんなに美人で聡明できれいな心を持っている女性が、10年も20年も音信不通になった主人公を愛して待ち続けるなんて、あり得ないわよ。だって、他の人が放っておかないもの」と言うと、セナさんはやや不服そうな顔をする。「それに、名前がいつも杏子とか真理子とか栞なのね。騒々しくて男にだらしがない明美というヒロインの話も読んでみたい」というと、今度は困った顔をする。
彼はクールなリアリストである一方、根っからのロマンチストなのである。

エヴリブレス (徳間文庫)
瀬名秀明
徳間書店(2012/11/02)
値段:¥ 660


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