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2018/04/15

異郷訪問譚の往路と復路での長さの違いについて

Tweet ThisSend to Facebook | by ogt

異郷訪問譚というのは、文字通り、訪問者にとっての異郷を訪問者が訪れる形式を持つ物語のことである。物語や語りの研究は、民俗学が扱う一分野でもある。勝俣は、上代の日本の異郷訪問譚に見られる特徴を次のようにまとめた(勝俣二〇〇九)。

 

異郷訪問譚とは、現世の地上世界、神話であれば葦原中国から、それ以外の異郷を訪れる話である。訪問者は神か人間であり、異郷へ行くためには、特殊な手段・方法が必要とされる。また、多くの場合、選ばれた少数者のみしか異郷を訪れることはできない。異郷は、現世と同じく光溢れた明るい世界である場合と、暗黒で陰湿な世界の場合の両方がある。前者の場合は、そこが地下や海の果て、海中、天上などに位置していることを除けば、風景・住人や建物の様子、動植物も地上と変わらない、あるいは、現実の地上世界より遥かに立派であることが多い。後者は勿論、生者にとって、暮らし場所ではなく、恐ろしく穢れた場所でもあり、死者にとって相応しい場所であることが多い。

 

訪問者は異郷を訪問する。その後、訪問者が再び故郷に戻ってくる物語もあるが、戻ってこないものもある。

異郷訪問譚の形式は、上代日本の物語だけに出現する訳ではない。例えば、古いものでは、旧約聖書に書かれた、ヤコブがハランの地を訪れる物語(ヤコブ物語)や、新しいものでは、宮崎駿の長編アニメーション映画『千と千尋の神隠し』なども、典型的な異郷訪問譚の形式による構造であると言える(大喜多 二〇一四a、七七‐八九)。これらの物語の主人公である訪問者は、異郷への訪問を通じて飛躍的な成長を遂げるのである。

ヤコブ物語の場合、異郷に訪問する前のヤコブは、いつも天幕のなかにいる弱い人であった。ところが、異郷への訪問の後、見違えるほど成長して故郷に帰ってきた。『千と千尋の神隠し』の場合も同様で、主人公である千尋は、もともとは依頼心の強い子どもだった。しかし、異郷への訪問後、現実世界に戻るときの千尋はしっかりとした娘として成長を遂げている。いずれの場合も、訪問者の成長に影響を与えた主な要因は異郷での経験である。主人公は異郷で苦難に直面する。そして、それを克服した。

これらの異郷訪問譚は、言わば、書物や映画のなかに描かれた物語である。しかし、一方では、現実に生きる我々が経験する「物語」でもある。

ここで、異郷訪問譚の形式をいろいろなものにあてはめてみたい。身近なところで言えば、小学生にとっては、小学校での生活が広義での「異郷」に相当するだろう。子供たちは、朝に家を出発し、日中は学校で過ごす。そして、夕刻には家に帰ってくるのである。朝出かける時には知らなかったことを、子供たちは学校で学ぶ。そして、夕方には、少し成長した姿で帰宅する。会社員にとっては会社が「異郷」である。また、知らないところへ我々が旅行をする場合も、まさしく、旅行先が「異郷」になる。こうした「異郷」での新鮮な出会いが我々を成長させるのである。考えてみれば、私たちの生活には「異郷」への訪問があふれかえっている。

ところで、「異郷」を訪問し、故郷へと帰還する一連の道程を考えると、往路と復路では時間が流れる速度に違いが感じられるようだ。つまり、初めての場所を我々が訪れる場合、相対的に時間がゆっくりと進むように感じることが多い。それに対して、帰り道はあっという間である。仮に、一人の人の生涯自体を一つの異郷訪問譚として見做してみても、若い頃では、時間が進む速度が緩慢である。子供たちにとっては日々が新鮮であり、濃密な時間を過ごす。一方、齢が加わると、逆に、時間が迅速に進むように感じる。こうした時間感覚に関する相対的な差異は何によるのだろうか。デイヴィッド・イーグルマンらは、人の時間感覚を、その人があらたに摂取する情報量と関連付けた。確かにそのような見方もあるかもしれない。

例えば、上述の『千と千尋の神隠し』での、千尋が銭婆の家に訪問する場面では、往路が列車と徒歩による緩慢なものであるのに対して、帰路は、白龍の姿になったハクの背中に乗ることによる迅速な移動である。また、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を異郷訪問譚の一種として見做し、蜘蛛の糸を登った中空を異郷とした場合(大喜多 二〇一四b、一六〇‐一六三)、お釈迦様が垂らした蜘蛛の糸をカンダタが登る速度が緩慢であるのに対して、糸が切れて落ちるのはあっという間である。さらに、「イザナギの黄泉国訪問」の場合もそうである。イザナギによる黄泉国訪問の帰路は往路と違って駆け足によるものである。

これから詳しく確認しなければならないが、筆者の管見では、他の異郷訪問譚の場合でも、後半を前半よりも短く描いた作品は多いようだ。おそらく、前半が長く後半が短い物語構造の方が、前半が短く後半が長い構造よりも、人の心性をより反映しているのだろう。その作品の鑑賞者にとっても、後半が長い物語は間怠っこしいように筆者は思う。

 

引用文献

大喜多紀明、二〇一四a、「アニメーション映画『千と千尋の神隠し』にみられる二重の異郷訪問譚構造について―ミハイ・ポップの「裏返し」モデルを適用した場合―」『国語論集』、一一号、七七‐八九、北海道教育大学釧路校国語科教育研究室

大喜多紀明、二〇一四b、「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』について――異郷訪問譚としての解釈」『国語論集』、一一号、一六〇‐一六三、北海道教育大学国語科教育研究室。

勝俣隆、二〇〇九、『異郷訪問譚・来訪譚の研究―上代日本文学編』和泉書院。

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初出:大喜多紀明、2014、「異郷訪問譚の往路と復路での長さの違いについて」『民俗文化』 (609) 7047-7048、滋賀民俗学会。


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