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2019/05/05

大学英語教育についての私見(キーワード:リベラル・アーツ/教養課程、教科書、多様性、英語教員の専門性、「グローバル化」と教育、「応用言語学」とTESOL)

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今まで10年間、いろいろな大学で英語を担当させて頂いてきました。この間、幸い、現任の各大学をはじめ、いずれの大学も、とても温かい上司や先輩の先生方に恵まれ、大変、良い環境で英語教育のご機会を与えて頂けたことに感謝致しております。

10年間の大学英語教育(および、大学以外を含めると15年)、より具体的には、大学は6校(および、高校は3校(進学校2校、大学附属校1校)、中学校は1校(1学期のみ))の経験に基づいて、大学英語教育について、以下、若干の私見を書かせて頂こうと思っております。

(なお、以下は言うまでもなく私個人の私見であり、出講先の大学とは一切関係ありません。また、内容もあくまでも、一般論として、日本の大学全体について述べたものであり、特定の大学等を念頭に置いたものでは全くございません。)

(1) リベラル・アーツの理想とそこでの英語教育と英語教科書に関する私見

現在、大学の英語教育では、[1-1]教科書選択が各担当教員に委ねられている大学と[1-2]教科書指定(選択リストからの選択の場合も含む)の大学があるようです。私は前者[1-1]にも大いにメリットがあると考えております。昨年出版した拙著『意味論と語用論に基づく最上級英文法理論―変項・認知・文脈からの英語母語話者の言語知識の解明』(Amazonの目次はこちら)第11章で書きましたように、日本の大学の英語教育が大学附属語学機関ではなく、大学教養課程(リベラル・アーツ課程)の中に設置されていることを正面から受け止めて英語教育・言語教育の理念を考える必要があると思います。

優れた大学の英語教育は、それぞれの教員がそれぞれの持ち味をフルに発揮して、全体として良い雰囲気の教育が成り立っていると思います。大学の教養課程では、単に語学力を高めることを目的とするのではなく、多様な講義科目の中で学生の価値観・視野の広がりを大事にすべきだと思います。英語力だけを重視するのならば、語学学校や英会話学校で足りるところが大きいと思います。自由主義教育の理想は、今の大学にとって最も大事な部分だと私は考えております。個々の教員がそれぞれの持ち味を出して、自由な教科書選択をすることで、全体としても上手くいくと私は思います。専門学校や語学学校のような統一カリキュラムとは別の、多様性を重視する姿勢が大学教育のリベラル・アーツの理想に通じると思います。

したがって、上記の問題は、根本的には、各個人がそれぞれの創造性と責任で自由闊達とした雰囲気の中で活躍する自由主義経済の理想を目標とするのか、全体的な統一性を重視する計画経済の発想を取るのか、という点に行きつくと思います。(ただし、貧富の差の大きい資本主義経済に陥ることなく、自由主義経済の理想を追求することが大事だと私は考えております。)

以上のような大学教養課程の理念的な観点からも、そして、自由主義経済の理想の観点からも、教科書の選択について、[1-1]の意義は大きいと思います。

なお、日本国憲法第23条では「学問の自由」が保障されており、例えば、下記で、「大学における教授の自由」についても説明されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1

また、実質的な英語力の伸び(何かのスコアアップという狭義の「英語力」ではなく)という点でも、個々の教員がそれぞれの持ち味と強みを存分に発揮し、履修者も各自の関心に合った好きな授業を選べる、という方式は大いに優れた結果を期待できるものと思います。

私個人は、ストーリー性のある教材を選び、各回の講義が連続性を持ち、また、履修者の関心・興味が継続するように留意しております。そして、内容に基づく指導法・Task-basedの指導法を取り入れております。また、listeningでもreadingでも膨大なインプットを確保する授業を行っております。どのような英語の特定的スキルを身に付ける場合でも、英語を、普通に使用し、海外の研究者等と対等に英語を使いこなすためには、まずは、膨大な英語に触れている、という「量の問題」をクリアーすることが大前提になるためです。この観点からも、特に学部1,2年の英語教育は、特定目的のための英語や特定スキルの英語の前に、膨大な英語に触れるための総合的な英語の科目が重要だと思います。

最近はacademic writingという(英語教育で流行の?)言葉もよく聞くようになりました。言うまでもなく、優れたwriting能力の育成には、質の高い英文を読み、聞き、量の壁を突破する必要があります。そのため、学部1,2年の段階では、academic writingのテクニカルな点の明示的な指導よりも、膨大なインプット量を確保するための(そして、学生の意欲を維持するための、ストーリー性等のある興味深い)総合的な英語が重要だと思います。(もちろん、基礎的なparagraph/essay writingは学部の段階でも大切だと思います。)私がacademic writingに正式なコースで触れたのは、英国の大学院に留学した際の、大学院の講義が始まる直前の9月にpresessional advanced academic writingというコースだったと思います。それでも十分に間に合いました。そのようなテクニカルなwritingのスキルよりも、専門分野の文献を膨大に読んでいれば、自然とその書き方についても学べました。私の英語学習は常にインプット重視型であったと記憶しております。presessionalのコースで役立ったのは、paraphraseの仕方、それによる引用の仕方、そして、厳密な引用の重要性です。Paraphraseの能力の育成はまだまだ日本の(大学の)英語教育は十分ではないと推察致しております。また、academic writingのような、「ライティング指導」という言葉に、十分な説得力を持たせるためには、英語教員自身が、英語で書かれた、一貫した内容の、純然たる学術研究書(一般向けの解説書や教科書除く)の公刊実績を有していることが望ましいと思います。


狭義の「言語使用」(e.g., Can do list)やその達成度・何かのスコア・アップに重点を置いた英語教育だけでなく、大学のリベラル・アーツ教育の理念に照らして、そのような狭義の「言語使用」・達成度・スコアのみに一元化されない、様々な角度(perspectives)からの英語教育が重要であると思います。狭義の「言語使用」は、あくまでも、そのうちの1つのperspectiveということだと思います。今、(例えば、研究の世界では)求められている人材とは、何かの試験で高いスコアを取る人材よりも、世界中の研究者と、英語を用いて、信頼関係を構築し、それを長期的に維持し、そして、英語母語話者とも対等に議論し、そして、一定の敬意を払われる人材だと思います。(このことの重要性については、研究以外の他の分野でも、本質は異ならないのではないでしょうか。)

画一化や統一化とは逆の、リベラルで余裕とゆとりのあるリベラル・アーツの中で学生の自発的な学ぶ意欲は高まると私は考えます。英語教育が多文化主義やグローバル化を推進するのであれば、英語教育それ自体が画一化・統一化の方向に向かうのではなく、多様化の方向に向かうことが望ましいと私は思います。例えば、CEFRやCan do listはあくまでも1つの基準と捉え、他の多様な方向性の可能性を柔軟に残しておくことが望ましいと私は思います。


(2) Methodologyの問題と英語教員の専門性の問題
現在、私の見聞では、日本の大学の英語教員の指導法は、[2-1]内容重視、コミュニケーション重視、Task-basedの英語教授法を取り入れている英語教員、[2-2]昔ながらの文献購読のような、和訳重視の授業に分かれているように思われます。私は[2-1]を行ってきましたので、[2-2]が日本の大学で行われているとは思っていませんでしたが、お聞きしたところによれば、そういった授業も依然としてあるように思います。
(念のため付言しますと、私は和訳に全面的に反対しているわけではなく、特に、英語を苦手とする大学生に親身に基礎力をつけさせようとする場合、部分的な和訳は有効だと考えております。また、基礎の基礎を学生と共に考えることは私にとっても、文法の真理を考える楽しい時間です。)

まず、[2-2]の指導法を取る英語教員の発想は、根底には、英語の授業が直接、個別の知識を伝授する場であると思っている点があると思います。そのような発想の根底には、その教員自身が受けた英語教育が背後にあると思います。(なお、言語学等の一部の若手研究者で英語教育に従事している方々の間には、海外留学・多文化体験に消極的な方々が少なくないように思います。文化面を考えれば、数日の海外学会主張と留学は文化面での吸収も異なるものです。また、日本の大学院で指導教授やその他の教員に従うことを第一として日本に閉じこもるだけでなく、若いうちに多様な文化を吸収することは大事なことだと私は思います。特に、英語教員は英語圏への留学が重要だと思います。ただし、大学英語教員の専門性という観点から言えば、あくまでも内在主義的な言語学・英語学の専門知識を備えた上での文化経験の必要性であり、文化研究の専門家は文化研究の専門家であり、言語や英語そのものの専門家とは区分されるべきだと思います。英語教育の専門家であるためには、英語そのもの・言語そのものの専門家であることが必要条件である、と私は考えます。

『最上級英文法理論』第11章でも書きましたように、生成文法や認知言語学を大学院で学んだだけでは、良き英語教員になるための基礎が身についているとは言えない、と私は思います。どのような分野の研究者であれ、「英語教員」として英語の授業を担当するのであれば、最低限の英語教授法の訓練を受けているべきであると思います。さらに、そのような教授法の訓練や研修だけでなく、経験年数が重要であることは言うまでもないと思います。

さらに、大学の数学の担当教員が、数学そのものの専門家であるのと同様に、英語教員も英語そのものの専門家である必要があると思います。このことの実現のためには、「英語」あるいは「言語」の存在そのものを積極的に認めた上で、その専門家である必要があると思います。(特に、英語教員は、他の言語ではなく、狭義の「英語」の専門家である必要があるのは言うまでもないと思います。)10年間の大学での教育と研究を通じて私が実感したことは、<「英語に関係する領域」の専門家>は多くいても、<「英語そのもの」の専門家>は多くはない、ということです。

研究対象言語(分析対象言語)について付言しますと、英語教育の専門家とは、生成文法であれ、認知文法であれ、理論的枠組みを問わず、日本語等の英語以外の言語ではなく、英語を研究対象とする研究者だと私は思います。この点は、英語教員の専門性を考える際に、見落とされがちな、しかし、重要な点だと思います。

纏めれば、大学英語教員は、英語教授法の訓練や経験を一定程度有しつつ、かつ、英語そのもの(特に理論英語学のコアである意味論や統語論)の専門家でもある必要があると思います。後者については、「言語そのもの」の性質の研究に正面から向き合う研究態度が必要だと思います。(なお、高等教育の教員にとって、研究と教育は表裏一体です。)

私は20代のときに、都内の優れた語学学校で、母語話者のTESOL/TEFL等の専門家による英語のみによる内容重視の指導法で訓練を受け、その課程も修了しています。また、その他の、TESOLの教授法の研修会等にも多々参加して参りましたので、TESOL等の教授法についても一定程度存じ上げているつもりです。

なお、SLA等の言語習得研究は「英語に関係する研究」であって、「英語そのものの研究」ではない、と私は考えます。(英語そのものの研究とは意味論や統語論の、名実ともにコアである理論言語学です。)私が英語教授法の一定程度の知識と言って、指しているものは、SLA等の専門知識ではなく、内容重視の授業そのものの極めて実践的な知識と授業観です。(なお、SLAについて付言すれば、英語の定冠詞の意味について、妥当ではない前提に基づいて議論が行われている場合があり、岩﨑(2018)の「あとがき」で述べた通り、そもそも、当該のSLA研究が依拠する、定冠詞の意味理論が妥当でなければ、どのような実証研究を行っても、依拠する意味理論というスタート地点で疑問符が付くと思います。また、同様に、定冠詞の意味を教えることが成功するためには、まずは、スタート時点で、妥当な意味理論に基づいている必要があります。)

しかし、最近は、そのようなTESOLが万能ではない、という点を、私は言語学の研究者かつ英語教育の実践者として感じるようになりました。特に、教材という点では、世界中で使われているTESOLの教科書等を見ても、内容的に、高等教育の学生の知的好奇心を満たすものとは言えないものがあるように思います。また、20代のときに語学学校や大学でTESOLの母語話者の英語教員に、言語そのもの(英語そのもの)についての質問をしても、私の知的好奇心を満たす十分な答えは返ってこなかった、と記憶しております。根底には、「言語」そのものの専門知識の欠如があると思います。

優れた英語教科書の作成や優れた、英語の伝授には、英語そのもの(英語の意味論や統語論)についての知識がどうしても必要であると思います。それらなしで、すなわち、「言語」についての認識と専門知識を欠いた大学英語教育は、(私の学生時代にTESOLの英語教員が十分に答えることができなかったように)学生の知的好奇心を十分に満たすことはできないと思います。また、より根本的には、理論言語学なしの英語教育は「なぜ、大学のリベラル・アーツ課程に英語が設置されているのか」という根本的な理念的問題に答えることができないように思われます。(この点は、拙著『最上級英文法理論』第11章をご参照ください。)

したがって、私は、[2-2]が不十分なばかりでなく、[2-1]にも満足できず、[2-1]に加えて、十分な英語そのもの(の意味論や統語論)に関する知識を英語教員が有していることが必要である思います。(ここで言う英語の専門家とは、何らかの理論的枠組みで英語以外の言語(英語以外の外国語や日本語)を研究して研究者ではなく、英語そのものを研究している研究者のことを私は指して使っています。)

また、英語教員が各学部に籍を置いている場合(あるいは、その学部の英語を担当する場合)、例えば、経済系の学部であれば、経済学のバックグラウンド(B.A.等)を持つ教員の方が、実際の英語のディスカッション等に貢献しやすいと思います。(同様のことは、他の学部・学科の英語にも当てはまると思います。)それぞれの学部に籍を置くこと(あるいは、その学部の英語を担当すること)を積極的に良い方向にもっていくことは大事だと思います。総じて、英語教員には、英語そのものに対する専門性、英語の授業の展開力に関する経験と見識に加えて、英語以外の他の学問領域の一定程度の知識が必要(B.A.等)であると私は思います。

また、World Englishesの時代ですので、それらを豊富に含んだDVD, CD等を用いれば、instruction等に用いる、教員の使用言語にこだわる必要はないものと思います。(ただし、group discussionのときには、教員も学生もすべて英語で、教員は各グループを巡回し英語で必要に応じてdiscussionの進行をassistする必要があると思います。)

以前よりもだいぶ緩和されてきた感がありますが、一部の方々は、母語話者の英語が絶対である、とまだ思っている場合があるようです。母語話者の英語が第一、という発想は、World EnglishesEnglish as an International/Global Languageの時代にはそぐわなくなってきたと思います。これは、海外の研究者(英語圏以外の海外の研究者との英語でのやりとりを含む)と日常的にやりとりしている研究者ほど実感するものと思います。母語話者ということだけで過信することなく、英語教員の専門性(英語そのものの専門的知識と英語を教えることに対する経験と知識)の観点を大事することが重要だと思います。

なお、高等教育では、教育と研究が表裏一体であることを考えれば、「大学における、英語教育の専門家」とは、研究において日々、海外の研究者等とのやりとりに英語を使っていることも必要条件になると思います。自らが英語を使って、厳格な研究を進めていること、そして、その結果として、地道な研究業績(以前の記事で述べた厳格な、オリジナルな仮説・理論の提案を明確に伴う研究; 一般向けの解説書や教科書等を除く)を有していることが、「大学における、英語教育の専門家」であるための必要条件であると思います。特に、英語で書かれた純然たる学術研究書を有していることが望ましいと思います。(出版も、オンライン公開も、そのいずれもなされていない博士論文は、当然、公刊された書籍には相当しないと思います。)研究に裏打ちされていない教育というのは、高等教育ではありえないと思います。

偉大な学者は学位論文のトピックのみに留まりません。私の尊敬するある先生は、哲学の学位を取得された後、非常に影響力の大きい、日本語学の大著もお持ちです。そのクラスの先生方はたいてい、生涯の論文数で100本を超え、ご著書(参考書の類等除く)も複数冊出されています。尊敬する認知言語学の大御所の先生もご著書の数も数え切れず、そして、論文数も100本を超えていらっしゃると思います。そして、これらの先生方は現職かそうでないかを問わず、生涯に渡ってproductive, activeであられるということです。非常にスケースの大きな先生方に尊敬の念を抱かざるを得ません。私も今後も研究を謙虚に続けていきたいと思っております。

学位のブランド名だけずっと大事にしていて、その後、研究量が鈍化していくのでは国際化に耐え得るとは思えません。日本の大学の一部の研究者がときどき誤解しているのがこの出身大学院のブランド名だけを過信する誤謬です。本当の国際化とは、欧米のジャーナルでも扱っていないような画期的な研究を日本から発信していくことです。英語を常にコミュニケーションのツールとして持っておく必要はありますが、発信言語は英語にこだわる必要はないと思います。本当に価値ある研究は日本語で書かれていても、海外の研究者から注目を集めると思います。フランスのパリ大学が英語で講義をしないのと同じ理屈です。そして、最も問われるべきは生涯に渡って研究を続ける持続力です。

日本の英語教育は、常に、その時々の、何らかのキーワードやキー概念の流行に踊らされている(部分がある)ようにも思います。本当に根がしっかりとした研究・教育は流行に左右される必要はありません。真理探究の研究とそれに裏打ちされた教育は、どしっとした揺るぎないものです。抽象的な「言語」の存在を積極的に認め、その認識と専門知識を持った英語教育が、国際的に敬意を払われる人材育成には必要だと思います。


「抽象的な「言語」についての認識」を欠いた英語教育(言語教育)に陥らないように、まずは、英語教員が、「言語」そのものの存在を積極的に受け止め、「言語」とは何か、について深く考える必要があると思います。


また、音声面等のtokenに重点を置き過ぎている懸念もあります。World Englishesの多様性への抵抗感を払拭しさえすれば、個々の「正しい」とされる発音に過度に拘る必要はないと思います。音声はtokenであり、言語の本質は抽象的なtypeにあります。Postal (2018)[Prof. Paul M PostalのMs., Seven Discourses on the Ontology of Natural Languages]参照。例えば、Postal (ibid.: 52)は以下のように述べています。

"If e.g. articulatory systems were really parts of natural language, it is hard to see how one could communicate in natural language without them.  But of course that is the norm in modern societies."


上記と言語哲学上の立場は異なりますが、関連するかもしれないこととして、Chomsky (2010)も<音韻論や形態論は外在化に関わっており、観察も容易なために多くの研究があるが、統語論と意味論には直接的に入手可能な証拠はない>という趣旨のことを書いていたと思います。(この点に関して*は*、私もChomskyに賛成です。私が統語論と意味論に関心があるのは、上記も理由の1つだという感じが致します。研究は精密に論理的に纏めるものですが、まずは直観レベルの「感じ」は大事だと私は思います。)

一方で、もちろん、膨大なインプット量確保、という点では、音声は重要だと私は思います。

(3)「グローバル化」と教育について
「グローバル化」という言葉が定義不明なまま1人歩きし、何となく良いものという暗黙の前提に用いられるのは、論理的な議論ではないと思います。論理的な議論のためには、まずは、「グローバル化」という言葉の定義の明示化、そして、そのことの意味自体をじっくりと精査する必要があると思います。(この点に関するさらなる詳細は省略致します。)

欧米の大学院で学んできたことを伝達するだけの人材ではなく、欧米の一流の研究者と伍して対等に議論できる人材、そして、欧米の学界の研究枠組みとは別の(それを踏まえつつ、それを超える説明力を持つ)根本的に斬新な新しい枠組み・理論を提案できる人材が求められていると思います。

言語学で言えば、Chomskyの最近の生成文法の枠組み(例えば、phase理論やlabel理論)を日本語に当てはめる研究だけでなく(私はその種のタイプの研究には一切コミットしておりません)、例えば、日本語学の良き伝統と欧米の言語哲学が合流したような西山意味理論にこそ、日本が世界に発信する良き理論的基盤があると考えております。

 「英語教育」を「狭義の英語教育」や「狭義の教育」という観点からだけでなく、また、表面的な何かのスコアアップという観点からだけでなく、もっと広い視点から考えていくことがよりよい結果をもたらすと私は思います。「実用」という言葉も狭く捉えることなく、広く捉えれば、世界中の研究者やその他の方々とやり取りし、円滑な関係を構築し、それを長期に渡って維持する、というのが英語がもたらすものの1つだと、私は、私自身の経験から感じております。

【追記1】
ここで、大学英語教員の専門性として、英語の語用論を知っていれば、英語の意味論や統語論を知らなくてもよい、ということにはならないと思います。私は「言語そのものに関する研究領域」で、内在主義的意味論と統語論を意味しています。語用論は、「言語そのものの研究」というよりも「言語に関係する」要素を多く含んだ研究領域であると思います。すなわち、「言語そのもの」に加えて他の多種多様な要因も含んだ領域である、と考えます。(語用論のモジュールを措定する関連性理論を除きます。ただし、私は関連性理論に強く賛成しているわけではありません。)以上の点から、私は、<「英語そのもの」の専門家>は、<「言語そのもの」の専門家>である必要があり、<「言語そのもの」の専門家>とは、内在主義的意味論と統語論の専門家であることを指しており、結果として、<「英語そのもの」の専門家>は内在主義的英語意味論と英語統語論の専門家である、と考えております。「内在主義的意味論と統語論」に「だけ」を付けておりませんので、必要条件として挙げております。(くれぐれも誤解がないように付言すれば、もちろん、語用論は、とても重要な研究領域だと私も思います。しかし、「言語そのもの」を扱うのは、語用論というよりも、内在主義的意味論である、という点を指摘しているだけ、という点にご留意頂ければと思います。音韻論、形態論の位置づけについては、私の狭義の専門を超えるため、ここでは、保留致します。)以上の議論からも、「応用言語学」という分野名を冠するからには、「言語そのもの」の基礎研究である内在主義的意味論・統語論の「応用」を、少なくとも、伴っている必要があると思います。一般に、「応用●●●学」は、基礎科学としての「●●●学」の実質的な「応用」を伴っている必要があります。【以上、Aとします】

そして、それが、「英語教育の専門家」、「言語教育の専門家」であるための必要条件であると思います。【以上、Bとします。】ただし、前者の場合、英語の内在主義的意味論・統語論という重要な脚注が付されると思います。

なお、上記のAとBは独立であり、Bに異論のある方がいらっしゃったとしても、Aは独立に成り立ちます。Aを否定するのは難しいと思います。もし、基礎科学としての内在主義的意味論・統語論等の「応用」を伴わずに、単に、「実践的」という意味で、appliedという言葉を使っているのでしたら、「応用言語学」という名称でなく、別の名称(例えば、「実践的英語教育学」とか「実践的英語教育研究」、あるいは、言語に関係する社会的要因の研究ならば、「社会言語学」あるいは「言語社会学」あるいは「言語と社会の研究」etc.)の方が分かりやすいのではないでしょうか。なぜ「言語学」を名称に含めたいのか(あるいは、なぜ「応用」を含めたいのか)、という点は、やや興味深い点ではあります。
(以上、※1とします。)

また、仮に、「応用言語学」全体のうちの、ほんの一握りの研究が、本当に内在主義的意味論・統語論等の「応用」を伴っていたとしても、「応用言語学」の領域全体にそうであるとは言えず、やはり、直前のパラグラフで私が述べたことは維持されます。(以上、※2とします。)

また、仮に、ある「応用言語学者」がその他の領域、例えば、認知言語学も研究領域としている場合、正しくは、その研究者個人の研究領域の1つが(「応用言語学」に加えて)認知言語学でもある、ということであると思います。それは、研究領域の範囲ではなく、研究者個人のカバーする研究領域のことだと思います。

仮に「認知系の応用言語学」という場合には、それは、認知言語学や認知科学を言語教育に明示的に「応用」している場合です。実際、認知言語学を言語教育に「応用」している研究もあります。ただし、ここでも、上記の※2は成り立ちます

ただし、認知言語学は内在主義的意味論というよりもむしろ外在主義的意味論である、と私は思います。(形式意味論(真理条件的意味論)についても、おおよそ、同様に言えると思います。)私が「言語そのもの」の研究と言って指しているものは、内在主義的な言語学(内在主義的な意味論と統語論等)です。"Cognitive"が意味しているものは、言語そのものではありません。(言語と密接に関係がありますが。)ここで私が強調している点は、「言語そのもの」を研究する基礎科学を「応用」したとき、「応用言語学」と呼べるということです。すなわち、「言語そのもの」の研究である、内在主義的な言語学を言語教育に明示的に「応用」した場合にこそ、「言語そのもの」の研究を言語教育に「応用」した、と言えると思います。ただし、ここでも、※2が成り立ちます

以上のいずれのケースでも、※2が成り立ちますので、結論的には、※1は維持されています。

また、tokenではなく、typeとして「言語そのもの」を考える場合にも、意味論と統語論がそうであると思います。(Postal (2018)も参照。)

【追記2】出典:https://researchmap.jp/joyfq21wm-1847698/#_1847698
学術書も[1a-a]オリジナルな理論を提案する単著学術研究書、[1a-b]オリジナルな理論を提案する分筆分担の学術研究書(ただし、次の[1a-c]に相当しないもの)と[1a-c]既存の知識を纏めた解説書・教科書・(言語学等の)事典・用語集・翻訳書、編者の執筆頁数が極端に少ない場合の編者としての業績等は区別されるべきだと思います。すなわち、[1a-a, b]と[1a-c]は厳格に区別されるべきだと思います。[1a-a, b], [1a-c]さらには[1b]まで一括りに「著書」という項目で業績として表示するのはその内実について相当な曖昧性を伴うものです。最近は、言語学関係の辞典・事典や翻訳書が多く出されていますが、研究者の第一の任務はオリジナルな理論・仮説を提案することです。研究姿勢として、言語学の辞典・事典等の二次資料や翻訳書に過度に頼ることなく、先行研究の原典そのもの(一次資料)に当たり、オリジナルな仮説を提案するように努めることが望ましいと思います。これらは英語圏の研究では当然のことですが、日本の言語学の風潮もそういう方向性になることを願っています。また、高等教育における教育は持続的なオリジナルな研究と表裏一体であり、前者は後者を必ず必要とするものだと思います。

【追記3】
私が学生の頃は、有名大学に入るためには、英語の文構造等をしっかりと押さえて、精密に読める、というのは当然すぎる前提でした。その上で、量の問題や(大学入学後に)コミュニケーション・スキルがありました。しかし、最近は、文構造をきちんと理解して英語を読んでいく、ということ自体が十分ではない人が増えてきたのでしょうか。

私は経済学部の学生の時に英語教員の教職課程(多くは、同じ大学の文学部設置の授業)にも出て単位を取り、卒業時に英語の高校の教員免許も取ってあります。そのときに、英米文学・英語学を専攻する学生が多く履修する「口語英語」(という名前だったと記憶しています)という授業にも出ましたが、彼らの「話す」英語力が十分でなかったことを驚いたことを覚えています。また、語彙の面でも十分ではないと感じました。英語の教員を目指す人たちがこれでよいのか、と正直、思いました。(法学部の英語の授業にも出ましたが、少人数のディスカッションの授業で、みなさん、当時、かなり流暢でした。今は分かりませんが。)要するに、辞書を引いて「文献購読」のようことには慣れていても、彼らには、アカデミックな高度な語彙の不足と「話す」訓練の不足があったようです。また、奇妙なのは、私のような者が十分に辞書を引いたり、精読したりする訓練をしていない、と勝手に思い込んでいる人もいるようでした。(そのような作業は、私は大学入学以前に済んでいました。私の出身高校は、当時、在籍していたクラスの38人中10人が東大に、約10人ずつが早慶に、他がその他の大学に、進学したと記憶しておりますので、英語の面でもだいぶ高校のときに既に鍛えられていました。)大学受験の精読型の英語、大学における文献購読の英語は重要です。かつて、特に英語の構造に留意した卓越した指導をなさる予備校の先生もいらっしゃいました。しかし、精読型・購読型の英語で止まっていると、英語の表現がどこか、一定のそれらしきパターンがあり、より洗練された、そして、高度にアカデミックなものになりきれていない場合があると思います。精読型の勉強を踏まえたうえで、さらに、音声面と読書面の両方から、膨大な量に触れ、膨大なインプットを確保する必要があるのです。


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