研究ブログ

研究ブログ >> Article details

2016/11/07

「科学的に見て心配ない」

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
電力中央研究所の、「原子力技術研究所 放射線安全研究センター」ウェブサイトに、放射線Q&Aのページがあります。そこに、次のように書かれています。

Q. 原爆症のニュース等から、多量の放射線を浴びると危険であることはわかるが、少量でも放射線>を浴びると危険なのか?

A. ・・・リスクの認知の仕方(どのような要因のリスクをどの程度危険と感じるか)は人それぞれに異なります。一般的に「放射線」は、原爆、原子力発電所の大事故などの悲惨なシーンを想起させるため、客観的・科学的に評価されたリスク要因間の比較よりも、人々のリスク認知において、他のリスク要因よりもより「危険」と認知される程度が強いといえます。しかし、実際の放射線影響は、広島・長崎の原爆被爆者12万人を戦後50年以上調査しても100ミリシーベルト以下の低線量域においては明確なデータは得られておらず、十分にわかっていません。
 (1段落省略)
 ・・・これまでの種々の研究から、少ない線量(200ミリシーベルト以下)の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではないといえます。

さて、2016年時点の科学的知見として、「100ミリシーベルト以下の低線量域においては明確なデータは得られておらず、十分にわかっていません」と言うのが不適切であるという点はさておき[1]、この「A」の中には、放射線が引き起こす健康被害について、これまで蓄積された科学的知見を知らなくても気づく、奇妙な部分があります。

最後の段落の「少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではないといえます」という部分です。

話を簡単にするために「発がんリスク」だけを考えましょう。同じ程度の発がんリスクをもつ別の要因についてよりも、被曝をより深刻なリスクと見なしている人に対して、「客観的・科学的に見てそのレベルのリスクではない」ということは(まあつまり、「A」の第一段落に書かれていることは)、状況が整っていれば、必ずしも科学的に不適切な発言ではありません(とはいえ、繰り返しになりますが「100mSv以下ではなんともいえません」といった前提で話すならば当然不適切ですから、この「A」は第一段落も不適切です)。

けれども、ここではっきり述べられているのは、

少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではない

ということです。診断のために、ちょっと状況を変えましょう。

ここでおみやげに持っていったチョコレートは、客観的・科学的に見て喜ぶような量ではない。

落としてしまったブルーベリーの数は、客観的・科学的に見て悲しむような量ではない。

シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスクは、客観的・科学的に見て心配するような数ではない。

言葉のかたちを踏まえると、「A]の最終段落、そして上であげた3つの例では、「客観的・科学的に見て」の適用対象は、次のようなものであることがわかります。

少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係
チョコレートの量と人が喜ぶこととの関係
落としたブルーベリーの数と人が悲しむこととの関係
シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスクと人が心配することとの関係

注意しましょう。

いずれの場合でも「客観的・科学的に見」た言明は、「少ない放射線を浴びることのリスク」(繰り返しになりますが、2016年の段階で「100ミリシーベルト以下の低線量域においては明確なデータは得られておらず、十分にわかっていません」というのは科学的に不適切ですから、この「A」はこの範囲でも科学的ではありません)、「チョコレートの量」「落としたブルーベリーの数」「シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスク」ではなく、

少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係
チョコレートの量と人が喜ぶこととの関係
落としたブルーベリーの数と人が悲しむこととの関係
シドニーの夜の暴力事件に巻き込まれるリスクと人が心配することとの関係

をめぐるものとしてなされています。そうであることを示す表現の形式になっています。

ここで、次の点を確認しておきます。
  • 科学が、対象の記述と説明に関わるものであって、「べきだ!」に関わるものではないこと。「太陽は西からのぼるべきだ!」というのは科学ではありません[2]。
  • 実際に「少ない」(200 mSv以下!)被曝線量の影響を心配する人たちが存在すること。
  • 「心配」は、「物事の先行きなどを気にして、心を悩ますこと。また、そのさま。」(デジタル大辞泉)と定義されることからわかるように、人々の気持ちの状態に関連する概念であること[3]。
さて、少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係に関する科学的言明の形式は、極めて常識的に、リスクに対応した不安を感じる人の発生を把握できるようなモデル化を行う、ということになります。その形式は、典型的には

かくかくの条件でこのくらいのリスクがあるとき全体のうちこのくらいの比率の人が心配する可能性はこのくらい

といったかたちになります。まあ設定によりどこまで何を考慮するかは異なりますが[4]。

ところで、「A」は、そんなかたちになっていません。それ以前に、そもそも、

「少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではない」

というのは、心配する人がいるという事実の前に、「少ない放射線を浴びることのリスクと人が心配することとの関係」に関する記述としては「客観的・科学的に見て」誤っています。したがって、この言明は、科学の適用過誤として最初から誤っており、また、科学的なものと見做したとしても事実との関係において誤っている、ということになります。

つまり、客観的でも科学的でもありません。

ここまで診断すると、実際にこの表現で言われているのがどういうことか、はっきりします(というか、最初から明らかではあったのですが)。この言明が言っているのは、

このくらいの線量がもたらすリスクで心配などすべきではない

ということに過ぎません。

「すべきではない」と言ってしまうと、あまりに非科学的な押し付けであることが生々しく露呈してしまうので、「客観的・科学的に見て」という言葉を使って、客観的・科学的であるかのような装いをつけようとした、ということに過ぎません。

多少の「読み」も含めて、改めて整理しましょう。「A」の次の言葉。

「少ない線量の放射線を浴びることのリスクは、客観的・科学的に見て心配するような大きさではない」

  1. 「少ない線量の放射線を浴びることのリスク」に関する「科学的」知見を提示する(ちなみに、この段階で、リスクについて提示された知識は科学的に不適切なものだった)
  2. 「心配すべきじゃない」という主張を正当化するために、その範囲での「客観的・科学的」知見を、適用対象に関する科学的過誤を犯して「客観的・科学的に見て心配するような大きさではない」として、心配と強引に結びつけた(ここは科学的に不適切どころか科学以前のごまかし)
結局のところ、何のことはない、違う振舞いをする人を押さえつけるために「客観的・科学的」を持ち出す、よくあるマウンティングのパターンに過ぎません。で、よくあるパターンに見られる2つの誤り(科学的知見そのものの誤りと適用の過誤)を両方とも犯している、という(ここで検討してきたのは後者です)。

個人的には、このQ&Aを作成した方が、ここで書いてきたようなことは十分に意図していたことを期待します。というのも、ナチス・ドイツで初代国民啓蒙・宣伝大臣を務めたヨーゼフ・ゲッベルスは、次のように述べていて、それは、意識された逸脱よりも、より一層、恐ろしいことだからです。

プロパガンダは、それを通して操ろうとしている相手が、自分は自由意志で行動しているのだと信じ込むときに、最もうまくいっている。

プロパガンダの秘訣は、次の点にある。プロパガンダが説得しようとする対象が、プロパガンダが伝える考えに、自分が染まっているとさえ気づかないまでに完全に染まるようにすること。

ここまで書いてウェブサイトを検索したら、東京大教授の早野龍五さんによる「科学的には心配ない」という言葉が東京新聞2016年3月5日付け紙上で紹介されているのを発見しました(11月9日追記:これに関するtogetterまとめがありました)。少し調べてみると、早野龍五教授は、2011年3月22日、関東を汚染した雨が降っていたときに「春雨じゃ濡れてまいろう」とツイートした人物のようです。

「科学者」を自称する人たちのこうした言葉がするすると公共領域に出てしまうメディアの状況は、とても不健康なものです。Tayが、24時間のうちに人種差別主義者・ナチス擁護者になるのも、不思議はありません。

それに対する歯止めをどうするか。一言で言うと「言語のデカルト的使用」をきちんと守り、伝え、その領域を広げる、というのがポイントかな、と最近思っています。

「守り、伝え、広げる」のだけはなく「使用」にも、勝手な放言と比べるとはるかにたくさんの時間がかかります。でも、美味しいご飯を味わうときには、それぞれが求める時間があり、その時間にそれなりに沿って味わうとより幸せであるように、ある対象について考えるためにはそれが求める時間があって、その時間にそれなりに沿って考えるのは幸せなことでです。


注など

[1] 実際には、特に近年の研究で、100mSv以下でも影響があることは「仮説」ではなく「知見」として蓄積されてきています。詳細な文献紹介は「論文等の紹介 そのX by みーゆさん」としてtogetterにまとめられています。また、低線量での健康被曝に関する最近の研究は、濱岡豊「長期低線量被曝研究からの知見・課題と再分析」(『科学』2015年10月, p. 985-1006)に著者本人の分析とともに紹介されています。それにもかかわらず、こうした「主張」は繰り返しなされてきました。たとえば、2011年3月29日に『日経メディカル』は「国立がん研究センターが放射線影響について緊急記者会見 100mSv未満の線量なら発がんリスクなし」という見出しの記事を発表しました(担当記者は大滝隆行氏)。山下俊一福島県健康リスク管理アドバイザーは2011年5月3日に二本松市で行った講演で「何度もお話しますように100mSv以下では明らかな発ガンリスクは起こりません」と述べています。また、事故直後に「海の魚はヨウ素を取り込みにくいので安心してよい」と誤った断言をした中川恵一東京大学病院准教授は「100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません」と述べた上で「現在の福島市のように、毎時1 uSvの場所にずっといたとしても、身体に影響が出始める100 mSvに達するには11年以上の月日が必要です」と、影響がないかのような表現を使っています。いずれも科学的な知見を十分に踏まえた主張とは言えません。

[2] もちろん、科学的にはこう考える「べきだ」というのは普通にあります。この場合は、対象に対してこうある「べきだ!」と述べているのではなく、対象に対する科学的認識はこうある「べきだ!」と述べているので、レベルが違います。「太陽が地球の周りを回るべきだ!」と言うことと、「太陽が地球の周りを回ると考えるべきだ!」と言うことは違います。

[3] 菊島勝也・村田英代 (2007) 「心配性者における安全追求行動と思考の制御困難性」『愛知大学教育実践総合センター紀要』第10号, p. 261-267.によると、心配は「worry」に対応するもので、その「worry」は「否定的な情緒を伴った、制御の難しい思考やイメージの連鎖。不確実だが、否定的な結果が予期される問題を心的に解決する試み」(Borkovec, Robinson, Pruzinsy & DePee, 1983)と定義されているようです

[4] 被曝(によるリスク)の大きさに対応して全員に共通の心配する確率pを与えて、大きさnの集団についてB(n,p)を考えるというのが最も素朴なイメージの一つでしょう。もちろん、研究ではもっときちんと考えるでしょうが。



05:26 | Impressed! | Voted(3) | Comment(0) | 社会情報リテラシー講義

みんなの翻訳

辞書