研究ブログ

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ナヴァリヌイ氏の死について、作家アレクシエーヴィチ氏へのインタビューから

数日前にНаша Ніва紙より、ナヴァリヌイ氏の死について作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏へのインタビュー記事が出た。

Алексиевич: Новый Гитлер с новыми технологиями страшнее того, что мы знаем из истории
(アレクシエーヴィチ氏「新たなテクノロジーを駆使する新たなヒトラーは我々が歴史から知っているものよりも恐ろしい」) 

記事の中でもピックアップされているが、アレクシエヴィチ氏が述べている次の一節は、ナヴァリヌイ氏の死がベラルーシにとって何を意味するかを端的に指摘しているように思う。

 

「独裁者は互いに学んでいる。ナヴァリヌイの死は世界中の独裁者にあらゆる行為が許されうる底なしの可能性を開いた。いうまでもなく、我らがベラルーシにとっては自明のことである。今や、私たちはあらゆることが起きるのだと予想できる。」

 

これは、もはや彼女が指摘するまでもなく、恐らく全てのベラルーシ人がナヴァリヌイ氏の死を知ったときに直感したことだろうという確信がある。

インタビュー中で言及があるが、ベラルーシでは2020年の大統領選挙後の政権への抗議活動の中で逮捕され、今も投獄されている(とされる)ヴィクタル・ババルィカ(ヴィクトル・ババリコ)氏、マリヤ・カレスニカヴァ(マリヤ・コレスニコヴァ)氏、ミカライ・スタトケヴィチ(ニコライ・スタトケヴィチ)氏の獄中での消息は一年以上不明となっている。この3名について、アレクシエーヴィチ氏が「彼らについての最悪の知らせがいつあってもおかしくない」とコメントしているが、これには根拠がないわけではない。日本国内では報道されていないが、ベラルーシでは2020年以降の投獄者の中で、既にヴィトリド・アシュラク氏とアレーシ・プーシキン氏という2名の活動家が獄中で不審死を遂げているからだ。ヴィトリド・アシュラク氏については遺族に遺体が引き渡された際に頭部が激しく損傷していたことが大きな問題となった。

 

ナヴァリヌイ氏の死についてのニュースを目にしながら、ベラルーシで起きていることについても改めてもっと知られてほしいと感じている。

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「方言禁止記者会見」について

 TBSのバラエティ番組「櫻井・有吉THE夜会」内にて、沖縄出身の俳優である二階堂ふみさんが「方言禁止記者会見」なるものに挑戦した企画が物議を醸している。企画の内容は、「沖縄方言」で質問を投げかけられる擬似的な記者会見で、二階堂さんは質問者につられることなく標準語で返答せねばならないというもの。方言札を用いた戦前の沖縄での方言撲滅(母語抑圧)と標準語強制の歴史を彷彿とさせる、あまりに差別的な企画だという非難の声には私も同意で、これが善か悪かと問われれば悪でしかないだろう。

 一方で、こうした企画が疑問を抱かれずに放送にまで至ってしまった背景には、製作陣の沖縄の歴史に対する無知や配慮の無さだけではなく、社会においてそもそも方言というものがいかに価値付けられてきたかも深く関わっているように思う。社会言語学者の井上史雄は、『日本語の値段』(2000年、大修館書店)の中で時代毎に日本社会で生じた方言の価値を次のように類型化している。

[第1類型] 明治〜戦前:撲滅対象としての方言
[第2類型] 戦後:記述対象としての方言
[第3類型] 戦後〜平成:娯楽の対象としての方言

 ここで重要なのは、これら3つに類型された価値は時代とともに取って代わられて変遷したのではなく、時代を追うごとに積み重なるように重層的に現れていったという点である。即ち今現在は第1類型から第3類型までの3つの価値が、その比重は時代と共に変化したとはいえ、社会に同時に存在している。

 「娯楽の対象としての方言」はもうかなり我々には馴染み深いもので、問題の「方言禁止記者会見」より前からバラエティ番組では多様な形で方言が取り上げられてきた。中には方言話者の言葉づかいを嘲笑的にあげつらうような差別的なものを見かけることもあったように記憶している。第3類型の娯楽の対象という価値は、一見すると第1類型の撲滅の対象という価値を覆すものとして現れたように思われるかもしれない。もちろんそのような側面はあるにせよ、実際には第1類型の撲滅の対象という価値が優勢だったときに築かれた標準語と方言の不均衡な関係と地続きになっている側面もあるのではないだろうか。現状では方言がかなり多方面で娯楽の対象となり得ているがために忘れられがちだが、本来かなりセンシティブなトピックであることはもっと意識されるべきだろうなと思う。

 井上氏の先の著書では、第2類型の価値についても、方言研究者の中で研究対象として高い価値を見出されやすい方言とそうでない方言があるという方言間の格差についても言及していて興味深かった。

 ちなみに今回と同様の「方言禁止」企画は、12月に長崎弁を母語とする俳優の仲里依紗さんが挑戦したらしく、こちらは大きな批判は無かったという。その点を取り上げて、「なぜ今回沖縄ばかり」と批判する意見も見かけた(主に番組を擁護する側の意見として)。方言撲滅については沖縄での暗い歴史が広く知られているが、全国の他の地域でも行われたのであり、長崎弁の禁止が企画として番組に取り入れられたことも無論早期に批判されるべきであったと思う。ただ悲しい話だが、方言を差別的に扱う行為に対して、私たちの側にも鈍感になりかちな方言があるのは事実なのだろう。当事者が差別だと感じていなければよいのではという考えも浸透しているかもしれない。しかし、方言に限らず母語使用を不当に制限したり、意図せずに出た母語を嘲笑の対象とし娯楽として消費するという行為のグロテスクさに対して感覚が麻痺してしまうのは恐ろしいと感じる。

 娯楽の対象としての方言は、その扱い方ひとつで自身の母語や言語観を相対化し、視野を広げるきっかけともなりうるもので、ぜひ良い形で続いていってほしいなと思っている。

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