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はじめに
ここでは、私が過去にまとめた文書やWeb資料などを転載したり、アーカイブとしてまとめることを意図しています。
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進化と社会心理学

(*ニフティの自分のサイトで公開していた個人記事からの転載(2002年頃の記事))

僕の専門分野は、社会心理学である。修士号は「社会情報学」だが、社会心理学における情報科学的な観点からの諸研究を続けている。特に、人間行動に関わる分析や、社会的ネットワーク,人工社会などに関する研究と発表を行っている。Java,C++などのプログラミング,そして複数のOSによる研究開発を行ってきている。

確かに、私の研究分野と進化や生物情報,バイオインフォマティクスとはかけ離れていると感じられるかもしれない。しかし、社会心理学は、その成立当初からすでに自己,人間関係,集団,社会システムにおいて、そのダイナミズム性が認識されていたと思われる。だが、その方法論的,技術的観点に恵まれてはいなかったと思っている。そのため、個々の領域に関する理論・実証に先鋭化するのみだったのではないか。しかし昨今の潮流において、幾つかの考慮するべき動きが現出してきている。それがシミュレーション研究による検証であり、進化的観点からの検証である。私は、既に遺伝的アルゴリズム(GA)を活用した人工社会シミュレーション研究を行い、研究発表してきており、こうした潮流を大きく発展させていきたいと考えている。

人間行動と認知における遺伝的特性とその影響は、昨今の遺伝学や生物情報学的な諸研究から解明が進んでいる。夙に、こうした諸知見は社会的生物たる人間の認知・行動を探究する社会心理学においても、その重要性と意義は高まりつつあると思う。実際、既に海外では、進化社会心理学と称する動きも出てきていることは事実である。しかし、ゲノム解析やこれに基づく人間行動のあり方を問うまでには到らず、社会的関係性や集団属性に関する「進化的パースペクティブ」を示しているだけなのが現状と思われる。社会心理学や社会科学におけるゲノム科学や生物情報学的知見と手法に裏付けられた進化的観点からの諸研究は、これからと考えている。

生物情報に関して、各種のシミュレーション研究が今後も重要なウェイトをもつだろうと考えていることは事実である。しかし、それだけでなく、人間の認知・行動,そしてこれに関わる多くの部分が遺伝的特質で説明と予測が行われていくことになるのは、時間の問題である気もする。既に、そうした倫理的懸念も惹起されていることもあり、社会的コンセンサスをいかに形成し、その技術的手法をいかに社会的に活用していくべきかを考える必要があると思われる。社会心理学を専門とする者として、こうしたゲノム科学とその社会的適用に関する社会的合意に関する諸研究も重要な課題として探究していきたいと思う。

常世論

(*ニフティの自分のサイトで公開していた個人記事からの転載(2002年頃の記事))

最近、気のせいか、死や医療をテーマにしたドラマなり、映画とか、そうしたものが増えてきている気がする。
昔から生と死に関して、哲学とか、文学を読んで考えてきたこともあり、一つの疑問を持っていた。
常世を「とこよ」と読むべきか、「とこつよ」と読むべきなのかということである。読み方云々よりも、当然、学術的な意義や由来をむしろはっきりさせたかった。
10代のある日、大学でも講師をしたことのあるらしい国語の先生に尋ねたことがある。先生は少し考えて、「とこよ、でしょう。とこつよの方が古いでしょう。とこよの方が良いと思われます。」という返事だった。広辞苑でも、常世を常世の国と同義として、下記のように定義している。

とこよ‐の‐くに【常世の国】
古代日本民族が、遥か海の彼方にあると想定した国。常の国。神代紀上「遂に―に適(イ)でましぬ」
不老不死の国。仙郷。蓬莱山。万四「吾妹児(ワギモコ)は―に住みけらし」
死人の国。よみのくに。よみじ。黄泉。(古事記伝)
また、とこつよも、常つ国として出てくる。
とこ‐つ‐くに【常つ国】
死の国。よみのくに。黄泉。雄略紀「謂(オモ)はざりき…―に至るといふことを」
『常世論』に見られるように、常世(とこよ)については、文化人類学や民俗学など、幾つもの探究がある。沖縄などに伝わるニライカナイのことであるとか、あるいは桃源郷なり、ニルバーナのことであるとか、諸説ある。各伝来される諸文化からの影響も多分にあると思われる。つまり、「あの世」のことであり、時に理想境を意味していることもあるのかもしれないが、少なくとも「この世」ではない。

ところで、ひところ、臨床における哲学,あるいは死生学と呼ばれる研究分野が注目を集めたことがある。勿論、今もというか、一層研究が進んでいる訳だが、これまで日本ではそうした「死」を通じて、生きることの意義を真剣に考える分野が欠落していた可能性がある。しかし、これまで空海などの思想や、古来からの死生観をみれば、必ずしも日本人が死と生について、全く向き合わないで来たということでもない。

死生学は、タナトロジーと英語では表現されている。タナトスというギリシャ神話における死を司る神を示す言葉から来ている。タナトスは、精神分析における死への衝動としても使われる専門用語でもある。タナトスの母親が、夜を司る女神であり、双子の兄弟が眠りを司るヒュプノスである。つまり、夜を基点に死と夢は、対峙している。

タナトロジーが示すのは、「死への準備教育(デス・エデュケーション)」である。ハイデガーが指摘するように、人間存在は、「死への存在(Sein zum Ende)」である。「死を通じて、生きる意義と生命の尊厳」を考え、教育しようという趣旨である。死の教育を通じて、生きる意味やいかに生きるべきかの問いを自らの探究の中で考えることを教える必要があると思う。このことは、中高生の倫理の授業でも良いから、もっと一層取り入れられるべきである。まして、この昨今、イジメや暴力による殺傷事件が多発してきている中、死と生に対する基本的な教育は、まさに必要だと思う。死や医療をテーマにしたドラマなり、映画がそうした役割を担っているのであれば良いが、そうでもない。切なさを伝えるだけでは、今一つな気がする。

ノート・レポート 人工社会研究の特異性

(*ニフティの自分のサイトで公開していた個人記事からの転載(2002年頃の記事))

人工社会モデル・シミュレーション研究で考えることがある。僕は社会心理学で人工社会モデルによるシミュレーションを行なっている。結局、こうした研究をするためには、幾つかのハードルを一人で、あるいは共同研究なら複数人が下記の異なる領域・分野をこなしつつ、かつ統合・再構築する必要があるということである。

理論的側面:社会心理学研究をするのであれば、少なくとも特定領域の専門知識や方法論,理論的視座について明るくないと、システムの構築はおろか、発想すら浮かばないと思う。また、出力された結果,これは、予期されていたものもそうだが、全く予期していなかったことについて、専門的な観点からの意味付けや発見を発見として見出しがたいと思われる。まして、考察や論述などの際に有意義で豊富な知見を引き出しうるかは、この側面でどれだけの蓄積があるかで決る気もする。
技術的側面:シミュレーションを行なうためには、少なくとも現状ではプログラミング言語を一つ以上使いこなせることが必要不可決な条件である。これはできればオブジェクト指向言語であることが望ましい。今現在、オブジェクト指向言語はいくつもあるが、代表的な言語はJava,C++がある。他にもいくつもあるが、OSや動作環境に極力依存しないものが望ましい。

また、シミュレーション自体を行なうためにも、幾つかの関門があると思う。これは研究者自身の能力である。即ち①構想力,②設計力,③技術力である。構想力は、問題発見能力であり、異なる領域などにおける関連性を見出すことができ、洞察をもたらす力である。つまり、異なる専門分野や体系を再構成できる能力を指している。②の設計力は、①における構想やアイディアを基に具体的に実現するためのプランを策定する能力である。現実と懸離れたアイディアは企画倒れで終わる。現実化するために必要な要素を抽出し、出来ないこと・不要な個所を精緻化しつつも、捨象する能力である。③は、①と②で行なった構想・設計を具体的に現実化する能力である。ソフトウェア開発なら①は、全体の俯瞰的状況やアイディアを構想し、②UMLなどを活用して具体化する作業、③は実際のコーディングといった具合になるだろう。しかし、これらの能力は実験・調査研究でも同様に求められるものであろう。

しかし、こうした理論的側面と技術的側面,個々の能力を独りで兼ねることがどれほど困難かは、実際にやってみようと思っているだけの人には分かりづらいであろう。文理系や狭隘な専門性を超えて各分野の知見を総合し、かつそれらを再構成して、分析を施していくということをやっていかねばならないと思う。

数理科学や情報科学に関する関連予備知識や最新知識にも常に親しむことが必要であるし、場合によっては、そちらが専門といいきれるくらいの柔軟さがないと踏み込んでやって行くことが困難な状況もある。例えば、遺伝的アルゴリズムを使うのであれば、分子生物学やバイオインフォマティクスの名前くらいは知っておいた方が良いだろうし、生物学的素養は最低限必要になると思う。

人工社会の多くの研究が経済システムや社会的資本の問題をはじめ、国際問題に関することである。僕は社会心理学を研究しているつもりであるが、実際問題としては、社会学をはじめとして政治学,経済学,国際関係論に関する分野にも手をつけざるを得ない。結局、人工社会モデルは、現実の社会の「箱庭」を再現する過程でもあることを否応なく実感している。そうした中で考えることは、社会心理学の特異性と独自性,そして関連する他学問との連関構造である。
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