昨年3月の『現代思想』に掲載された記事です。長さの関係から2つに分けます。『現代思想』への寄稿時に、ネット上で公開する可能性があることは、編集者に伝え、了解を得ています。
1年経って、事故の状況は基本的に変わっていないものの、安倍晋三氏が「節目越えた」と述べ会見をやめ、住宅支援打ち切りと帰還が進められるなど、現実をごまかしながらの「平常化」は一層進んでいますが、基本的な状況は変わっていないので(とはいえ避難者や悪性疑いの方の数のようにある程度具体的なことがらには変化があります)、このまま公開します。
メディアなどでしばしば見られるこのような表現は、東京電力福島第一原発事故は今まさにこの瞬間も進行中なのだから、通常の日本語の解釈では誤りである[1]。2011年3月に放出された放射性物質の量は大気への放出だけで推定90万テラベクレルにおよび[2]、現在も平時とは比較にならない量の放射性物質が放出され続け[3]、事故初期に大量にばら撒かれた放射性物質の除染は十分には進まないまま[4]、広い範囲に拡散した放射性物質は放射線を出し続けている。
避難者は依然として10万人近くおり[5]、福島県に限定された「県民健康調査」が2015年11月30日に出した甲状腺検査の結果は先行検査ベースで推定される悪性率の2.8倍となっていながら[6]、対応は進んでいない。また、福島県以外では汚染の激しい地域についてさえ体系的な健康調査はなされないまま現在に至っている。被曝量の評価そして健康対策の観点から極めて重要な初期被曝については曖昧にされたままである[7]。
国会事故調が「この事故が『人災』であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」と指摘し、「今回の事故は、これまで何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局及び東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られ ないまま 3.11を迎えたことで発生したものであった」と述べているにもかかわらず[8]、事故そのものの責任はほとんど問われないまま[9]、全電源喪失の危険を指摘されながら対策を取る必要はないとして東京電力福島第一原発事故を引き起こすことにつながる安全対策の欠如を支えた人物が[10]再び首相の座に戻って以前と変わらぬ無策を放置したまま原発の再稼働を推進している。
そしてそうした責任を問わないまま、また事故の解明もしないまま、事故が引き起こした膨大な損失を無視して「原発停止は国の損失」といった発言が政財界からなされ[11]、原発を称揚したり放射線の健康影響を矮小化する一部「専門家」の発言やメディアの報道も続いている[12]。
したがって、2016年3月を「事故から5年」として「事故」を振り返り、振り返る振舞い自体によって「事故」を過去のものとする「年に一度のイベント」[13]に同調するわけにはいかないが、いずれにせよ多くの人が「事故から5年」を語ることが想定されるのであれば、それを契機に、現在進行中の事態を5年前の出発点に立ち戻りつつ捉え直すことで明確になるものもあろう。ここでは、この5年間、とりわけ2014年から政府が大規模に展開し現在も続けている「リスクコミュニケーション」を改めて追い直し[14]、現在私たちが置かれている状況を確認することとしたい。
原発事故後、原子力や放射性物質に関係する「専門家」の反応は大きく三つに分かれた。すなわち、発言しないで距離を置く、自分が有している(と考えた)「科学的」知識を持ち出して事故およびその影響を解釈しようとする、科学的知識と専門的技術を活用して事故の状態と事故が引き起こした状況を把握しようとする、である。メディア等を通して最も目立ったのは二番目の反応であった[15]。
二番目の反応に属する「専門家」の発言は、発言者の誠実さいかんに拘らず、かなりの程度、事故と事故が引き起こした状況を見誤った。典型的なものをいくつか挙げておこう。
爆発は水素爆発であり、メルトダウンは起きており、柏キャンパスの線量が高いのは圧倒的に福島第一原発事故に起因する放射性物質の影響であり、コウナゴから基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたことから、これらの発言が誤っていたことは既に事実に照らして明らかになっている。ところで、原発事故後現在まで「専門家」と称する人たちがかなり頻繁に誤った発言をしてきたとしても、また、「爆破弁」という存在しないものを専門家が誤って持ち出すことは考えにくいにせよ、専門家や研究者が誤ること自体はさほど希なことでもない。
重要なのは、むしろ誤り方である。これらの誤りは、既往の一般化された「科学的」知識(であるとその「専門家」が考えたもの)をほとんどアプリオリな正解として持ち出し、それに従えば事故は「このようにあるべき」であるというかたちで状況を解釈しようとしたことから来ている[18]。この形式の思考は、仮に持ち出された知見が科学的に妥当なものだったとしても[19]、事故を前にほぼ必然的に誤る。というのも、事故が事故として認識され問題化されるのは、まさにそれが定常的な状況から逸脱した出来事であるからであり、そこで科学や専門性に要請されるのは「まさにその事故」の状況を明らかにすることだからである[20]。さらに、この形式の誤り方は、事故の現実を前に補正されるかわりに、事故を「まさにその事故」として問題とする人々、すなわち事故に対して妥当な認識力を有する人々への批判に向かった。
【5】の議論は、人々が問題にしているのは「放射線そのもの」であると決めつけない限り成立しない[22]。しかしながら、人々が問題にしているのは「まさにその事故」であり、絶対安全だと言われていた原発が爆発し大量に放出された放射性物質がどこにどのくらいあるのかも十分には明らかにされず管理もされないまま存在し被曝を強いていることであり、さらにそれに対して責任を負う東電や行政が十分な対応をせずに(あるいはできずに)いる状況である。その状況に対して「XXXそのもの」に「科学的」に差異がない、という議論が有効であると考えるのは、道路脇のビルの五階の窓から撒かれた水で濡れて怒っている通行人に水の専門家が「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません」と言うことが有効だと考えるのと同じで、単に問題を把握できていないだけである。
現在、放射線被曝の影響に関して最も有力な科学的知見は、放射線による健康への影響(発がん)に閾値はなく、線量に比例して発症の確率は増え、かつ発症した場合に重篤度の違いはない、というものである[23]。この知見は、社会的な基準を定めるための前提ともなっている。原発事故後、しばしば100 mSv以下では影響がないかのような発言を専門家が行い、そうした報道もなされたが、それらは科学的に不適切なのである[24]。
標準的な科学的知見を前提とし、健康を害するリスクは可能な範囲で最小限に抑えるという当然の基準に従うならば、(i) いずれにせよ避けられない自然放射線による被曝及び(ii) 生活上必要と自ら判断して行う行動で受ける追加的な被曝を人々がしているから、それ以上の被曝は避けた方がよい、とりわけ他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝は受け入れない、というのが妥当な判断であり、(i)と(ii)が避けられないなら他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝も受け入れるべきだとするのは非論理的である。ビールを十分飲んだから支払いをして帰ろうとしていたAさんの前に現れたBさんがAさんにさらに無理矢理ビールを飲ませようとしてAさんが拒否している状況に対しAさんは既に十分ビールを飲んでいるのだからBさんが強制するビールを拒否するのはおかしいと言うならば、その発言は論理的でも科学的でもない。仮に強制がなかったとしても、こうした主張は論理的ではない。仮にそうした議論が(自称)「科学者」によりなされるとしてもこの点は変わらない(話者の属性に依存して変わるならばそもそも論理性や科学性ではない)。
問題を把握し損ねた上で、こうした議論は人の批判へと向かう。【5】のまとめ(1)-(6)は、【5】の主題が「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない」という枠組み以外で状況を認識する人たちであり、内容がそうした人々への批判であることを示している[25]。このような発言がいかなる機能を持つかを確認するために、【5】における「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります」という記述について、喩えをさらに展開してみよう。
「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません。この点、怒りのあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」
「ビールそのものに、Aさんの自己判断由来かBさんの押し付け由来かの差異はありません。この点、酔ったあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」
紙幅の都合からこれ以上紹介できないが、原発事故後から現在まで、次のパターン、すなわち、(1) 科学的と称しながら「これまでの科学的知見に基づけば」という規範的な観点から状況を解釈しようとして、本来ならば科学的な知識を活用できる点においても誤り、(2) しかもしばしばその「科学的知見」自体が当該主題に関する科学的知見の現状からは不適切で、(3) そうした誤りと問題点把握の失敗を補正することなしに、自分の考えを共有しない人を問題化する[27]、というパターンに従った発言は「専門家」「科学者」を称する人々により数多くなされてきた[28]。
さらにこうした「専門家」「科学者」の発言は(当然のことながら)、(4) 自分が批判の対象とした人々の発言内容そのものは検討の対象とせず(だからこそ「人」を批判する)、(6) 議論の内容においてではなく自分が「専門家」「科学者」であることに訴えることで議論の正当性を支えようとする[29]、というかたちを取ることになる。
3. 「リスクコミュニケーション」
原発事故後に展開された事故や被曝の影響をめぐる「リスクコミュニケーション」は、このような「科学的」議論とほぼ同じかたちをしている。それだけではなく、そうした「科学的」議論における誤った科学的知見、とりわけ100mSv以下では影響が見られないとする考え方に依拠してもいる[30]。ここでは、政府が展開している「リスクコミュニケーション」の流れを追いつつ、この点を確認することにしよう[31]。
「リスクコミュニケーション」は、2011年3月の段階からそうとは名付けられないまま始まっていた。
2011年3月19日、日本産婦人科医会は寺尾俊彦会長名義で「福島原発事故による妊婦・授乳婦への影響について」という声明を公開し[32]、その中で「妊産婦や、授乳婦そして、新生児、乳幼児に対して、放射線被ばくを心配する声が上がっています」とした上で、「放射線被ばくによる影響は、事故が起こった場所からどれだけ離れているかによって、異なります」、「レベル7であった史上最大のチェルノブイリ原発事故の時でも、約50キロ離れていれば、健康を守るのに十分であったと記録されています」のように誤ったこと、「現時点で報道されている被曝線量では、原発のすぐ近くで大量に被曝した場合は別として、妊婦、胎児、授乳等には特に悪影響を及ぼさないレベルであると考えられます」(実際の被曝線量は報道されていない)のように誤解を招くことを述べた上で、「誤った情報や風評等に惑わされることなく、冷静に対応されますようお願い申し上げます」と述べている。
翌20日には、首相官邸災害対策ページに、「東北・関東の方へ----雨が降っても、健康に影響はありません。」という表題で、次のような呼びかけが掲載された[33]。
雨が降っても、健康に影響はありません。ご安心ください。
場合によっては、雨水の中から、自然界にもともと存在する放射線量よりは高い数値が検出される可能性はありますが、健康には何ら影響の無いレベルの、極めて微量のものであり、「心配ない範囲内である」という点では普段と同じです。
(1)特に急ぎの用事でなければ、雨がやんでから外出する。
(2)頭髪や皮膚が、あまり雨で濡れないようにする。
(3)頭髪や皮膚が雨に濡れても心配は無いが、気になる場合は、念のため流水でよく洗う。
繰り返しますが、これらの措置を取らなければ健康に影響が出るという意味ではありません。「安心」を、より確かなものにするための対応です。
緊急時に行政的な対応を進めながらもそれが追いつかない中で(ただし、事故前に定められていたSPEEDIによる放射性物質拡散予測は活用されず、安定ヨウ素材の配布もなされなかったことを思い起こそう)市民に対応を呼びかけることは必要であろうが、そうであったとしても、この呼びかけの中に、「雨が降っても、健康に影響はありません」という科学的に不適切な断言があり、「安全」への言及はなく、その一方で「安心」「心配」という、心の状態に対する語が5回使われていることは注目に値する。
【5】のように人々に対する批判的なトーンはないものの、これらはいずれも、科学的に不適切な知見に依拠しながら、人の心の状態を一方的に決めつけ、それを問題としている。以後の政府による「リスクコミュニケーション」も同じ形式を取る。
2011年11月、「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」が設置され、12月22日に報告書を出した[34]。報告書は、政府と東電の不作為により人々が被る被曝を喫煙、肥満、野菜不足、受動喫煙といった個人の選択に依存する要因と比較しつつ、100mSv以下では健康への影響は「他の要因による発がんの影響によって隠れてしまうほど小さい」といった主張のもとに(注[24]も参照)、緊急時の避難指示基準である「20ミリシーベルトの被ばくによる健康リスクは、他の発がん要因によるリスクと比べても十分に低い」とする。それを出発点に、「100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくであっても、住民の大きな不安を考慮に入れて、子どもに対して優先的に放射線防護のための措置をとることは適切である」にように、「住民の不安」を持ち出し、「政府、東電には東電福島第一原発事故の責任があり、低線量被ばくによる社会的不安を巻き起こしていることに対して真摯な対応が必要である」と述べる。低線量被曝が、実際の健康リスクを介さずに「社会的不安」に接続され、それによって政府と東電の責任の対象が「社会的不安」にすり替えられていることに注意しよう。これにより、事故と汚染に対する具体的な対応は、「参考レベルとして、例えばまずは2年後に年間10ミリシーベルトまで、その目標が達成されたのち、次の段階として年間5ミリシーベルトまでというように、漸進的に設定して」除染を行い、「長期的に追加被ばく線量を年間1ミリシーベルト以下とすることを目指す」とされる。法令で定められた一般公衆の追加被曝限度である年間1ミリシーベルトは軽視され[35]、国の方針である「予防的措置の原則」[36]も無視される。その上で、対応の一つとして「政府、専門家は、住民の目線に立って、確かな科学的事実に基づき、わかりやすく、透明性をもって情報を提供するリスクコミュニケーションが必要である」と、情報の一方的押し付けとしての「リスクコミュニケーション」を提言している(注[14]を参照)。
これを受けて2012年に環境省が設置した「原子力災害等の健康不安対策調整会議」は、2012年5月31日に「原子力被災者等の健康不安対策に関するアクションプラン」を策定する[37]。提言されている具体的内容を検討する紙幅はないが、冒頭の「今般事故により、放射線による健康影響、特に低線量被ばくの健康影響については、多様な意見があることなどもあり、今般事故の被災者をはじめとする国民の方々は言い尽くせない不安を抱えるに至ったと認識している」という言葉が、プランの基本的な方向性を示している。人々の不安はその原因である放射性物質による汚染と健康影響という具体的な問題と切り離され(注[26]も参照)、その上で、問題は、汚染そのものではなく「不安」であるとされているのである。
2013年11月20日には、原子力規制委員会「帰還に向けた安全・安心対策に関する検討チーム」が、法令基準であるとともに政府が除染目標として定めていた年間追加被曝量1ミリシーベルトを事実上撤回し[38]、20mSvで帰還を可とする見解をとりまとめた。そして2014年には、被災者に帰還を促すという特定の目的のもとで「リスクコミュニケーション」が展開されるに至る。それが復興庁を中心とした予算規模数十億の「帰還に向けた放射線リスクコミュニケーションに関する施策パッケージ」である[39]。
一方、避難や移住の支援、汚染の低減、被曝防護の具体的な対策は大きく立ち遅れた。2012年6月27日に施行された「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律」(子ども被災者支援法)は、運用の基本方針策定が1年以上遅れた上、2015年8月25日に閣議決定された改定方針により、ほぼ骨抜きにされた[40]。2015年6月12日には、住民の多くが戻らない・判断できないとしている中、政府は「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」の改訂で「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」を2017年3月までに解除し、対象地区住民への慰謝料の支払いを2018年3月で終了する方針を示している[41]。東電福島第一原発に近い地域では、「風評被害」対策として学校での「地産地消」を進めたり[42]、高い線量の地帯を含む清掃ボランティアに高校生が参加するなど[43]、被曝の低減とは逆行する政策や活動も行われている。
原発事故が引き起こした汚染とそれがもたらすリスクを評価し、避難や移住の支援、汚染の低減、被曝防護等に対する具体的な対策を施す代わりに、人々の「不安」を対象として「リスクコミュニケーション」を展開するという政策の形式は、前節で見た、事故が引き起こした現実の状況を把握することに失敗しながら、人々の「恐怖」や「パニック」を問題にする「専門家」の発言の形式と対応している。「専門家」が他人の発言内容を議論の対象としなかったのと同様に、「リスクコミュニケーション」の対象とされる人々の主張は考慮されない。こうした「リスクコミュニケーション」は、事故と汚染の現実を扱う具体的な政策の欠如(【5】においては対応して状況認識の欠如)とともに、それ自体、人々に「不安」さらには不満を引き起こし、被曝、被曝への不安に加えて、大きなストレスを強いる。
被曝から子どもたちを守る活動をしている市民が事故から4年目に述べた言葉を引こう。
遠い所に居れば尚のこと、おそらく年に一度のイベントとして振り返るような、そのような存在になってしまったのかもしれないと、原発事故をテーマにする記事や番組が多くなったここ最近を眺めながら、そんな風に感じています。
風評被害という言葉が広まったことにより、私たちは今、「実態のない放射能被害に対して不安を抱き続ける問題のある人」という強引な決めつけによって、不安を抱くことを否定され、手放すことを急がされています。
国が膨大な予算を投じて行っている「リスクコミュニケーション」は、放射能に対する不安な心を取り除くために、あらゆるところで展開されており、専門家や医者たちが、今現在の内部被曝のデータを見せ、癌の要因や他のリスクと比較をしながら、放射能の影響はないと安心を促します。
不安を取り除くことによってなにが改善されるのかと言えば、汚染がなくなるわけでもなく、被曝の影響が軽減されるわけでもありません。
具体的な対策は進まないまま、不安を取り除くことのみを急かされることを、受け入れてしまってもいいのでしょうか。
そもそも、リスクコミュニケーションとはリスクを減らすための改善策を話し合うことであり、具体的な改善策も進まないまま、安心を押し付けるリスクコミュニケーションに対し、おかしさを否定できないことは、原発を受け入れたこと同様に、権利を放棄してしまったということなのではないでしょうか。
原発というモンスターは、事故が起こっても尚、人々の心を支配し続け、大切なものをどんどん奪っていきます。
事故によって日常も大切なものも奪われてしまったのに、更に差し出し続ける理由はなんなのかと、クレイジーなリスクコミュニケーションに呑まれてしまっているこのおかしさに、疲れ果てた心から血を流しながら迎える、あれから5度目の3・11です[44]。
4. 2016年 「リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」
具体的な汚染や被曝の対策を事故前に定められていた基準や手続きも含めてないがしろにし、被曝を心配する人を問題とする政策は、「原子力緊急事態」だからとして正当化された。次の発言は、このことを示している。
「今回皆様方を混乱におとしめている一つの理由は、年間皆様方はだいたい1mSv被曝をすると1年間に、ですから一般公衆はこれよりも被曝をさせてはならないというのが「平常時」の約束事であります。では、この1ミリシーベルトを私たちはどこまで守り、あるいは安全の指標とできるかどうかということを、今、この福島で問われています。何度もお話しますように100mSv以下では明らかな発ガンリスクは起こりません。」[45]
「非常時に平常時の法律が適用されなくなるのは当たり前でしょう。」[46]
ところで、2006年に全電源喪失の危険性を指摘されながら安全対策を放置し、現在、安全対策を十分見直さないまま原発再稼働を推進している安倍晋三首相は、2015年11月、国会閉会中の衆参予算委員会審議で憲法における「緊急事態条項」の必要性を強調し、2016年1月8日には、憲法改正において「緊急時に国民の安全を守るため、国家と国民が果たすべき役割を憲法にどう位置付けるかは、極めて重く大切な課題だ」と述べている。
緊急事態について、2012年4月27日に出された「自民党改憲草案」第98条第1項には、
我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。[47]
とある。「内乱等」の「等」はいわゆる「霞ヶ関文学」の典型で、「事実上何でも入れられるようにしてしまう」機能を持つので[48]、政府は恣意的に緊急事態を宣言することができる。緊急事態が発令されると、「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができ」、「何人も、当該宣言に係る事態において・・・国その他公の機関の指示に従わなければならず」、また「衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる」[49]。つまり、「緊急事態」が宣言されると、
1. 行政府が立法府(国会)の役割を担うことができ、
2. 市民は政府の支持に従わなくてはならず、
3. 市民が立法府の代表を選ぶ権利は停止されうる、
ことになる。
国会は一応市民を代表するものであるから、その承認なしに法律(相当の規則)を作って政治をやることは、日本という「国」に関わる意思決定に市民を関わらせないことであり、国が市民のものではないこと、市民が主権者ではないことを示している。実際、例えば、自由民主党の西田昌司参議院議員・副幹事長は、2012年11月「そもそもそもそも国民に主権があることがおかしい」と述べている。「緊急事態条項」は、基本的に、国を政府のものとし、国民を国の所有物として操作の対象とすることを可能にする条項なのである。この点は、石破茂氏の次のような発言に典型的に示されている。
「これは国家の独立の為だ、出動せよ」と言われた時に、いや行くと死ぬかも知れないし、行きたくないという人がいないという保証はどこにもない。だから国防軍になったらそれに従えと。それに従わなければその国にある最高刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら懲役300年[50]。
この配置が、本稿で見てきた原発事故後の被災者に対する「リスクコミュニケーション」のあり方とほとんど同じであることに注意しよう(ちなみに、「国民に主権があることがおかしい」と述べた西田昌司議員は、注[21]で述べたように、追加被曝1ミリシーベルトは妥当ではないと発言した人物でもある)。原発事故後、状況を認識し損ねた発言が「科学者だから」として正当化されたと同様、「緊急事態」へ向けた議論は「私は総理大臣ですから」と正当化される[51]。
「これは国家の財政の為だ、帰還せよ」と言われた時に、いや帰還すると健康を害するかも知れないし、帰還したくないという人がいないという保証はどこにもない。だから政府が帰還を決めたらそれに従えと。それに従わなければ慰謝料なら慰謝料の支払い停止。避難支援なら避難支援の支払い停止。」
自民党改憲草案の緊急事態条項は、「リスクコミュニケーション」として、先取りして実施されてきたのである。
前節末尾で引いた千葉由美氏の言葉で本稿を閉じよう。
目には見えない放射能汚染を生み出す原発事故は、当事者が当事者であることを自覚することが難しく、福島の問題として幕引きをしてしまえば、この支配構造から抜け出すことは難しいのだと思います。
火を着けた者が消しながらも利益を受け取り続けるという構図に対して、大きな理不尽さを感じ、心が動き、身体が動き、変えるための動きに至るためには、一体なにが必要なのか、どこがカギを握っているのだろうかと見つめています。
これまでも存在していたすべての問題に共通することだなと、鈍感だった自分を恥じる日々でもあります。[52]
注・参考文献
[1] とはいえ本稿でもこの観点からは本来不適切な「事故後」「事故直後」といった言葉を用いる。
[2] 「原子力安全に関するIAEA閣僚会議に対する日本国政府の報告書----東京電力福島原子力発電所の事故について----」(http://www.kantei.go.jp/jp/topics/2011/iaea_houkokusho.html)では77万テラベクレル、2012年5月における東電評価の最終推定値で90万テラベクレル(http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu12_j/images/120524j0101.pdf)。環境への影響をチェルノブイリと比較したまとまったレビューとしてSteinhauser, G., Brandl, A. and Johnson, T. E. (2014) "Comparison of the Chernobyl and Fukushima nuclear accidents: A review of the environmental impacts," Science of the Total Environment, 470-471, pp. 800-817. 情報は、東京大学大学院総合文化研究科の小豆川勝見氏と、おしどりマコ・ケン氏に負っている。
[3] 大気中の放出については、東京電力と経済産業省が定期的に報告している。おしどりマコ・ケン「【資料まとめ】大気中に放出される放射性物質の推移」(2016年1月22日 http://oshidori-makoken.com/?p=1938)、「隣国の核実験より、国内の原発事故の情報を!!」(2016年1月22日 http://oshidori-makoken.com/?p=1922)も参照。汚染水漏れの一例としては、「屋上の汚染水、港湾外に流出 福島第1の2号機」(日本経済新聞2015年2月24日)、また2015年末には海側遮水壁の導入により汚染水の量が増えて汚染水管理にさらなる問題が生じていることが報じられている(「福島原発 汚染水が増加 海側の地下水、濃度が高く」毎日新聞2015年12月30日)。汚染水をめぐっては、木野龍逸『検証 福島原発事故・記者会見3----欺瞞の連鎖』(岩波書店, 2014年)のほか、おしどりマコ・ケン氏の取材記事がDAYS JAPANに掲載されることがある。
[4] 例えば、「大半の森林、除染せず 環境省方針、生活圏から20メートル外」(福島民友2015年12月22日)。なお、除染対象となる森林の除染費用は約1200億円と産業総合研究所が試算しており、全域の費用は2兆円を超えると推定されている(「森林全域で2兆円超」福島民友2016年1月11日)。森林の放射性物質が生活圏へ移動することは十分考えられるし、キノコや山菜、動物などの高い汚染状況は続くことになる。
[5] 関西学院大学災害復興制度研究所・東日本震災支援全国ネットワーク・福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク『原発避難白書』(人文書院, 2015年)が避難の状況を丁寧に追っている。
[6] 牧野淳一郎 (2016) 「3.11以後の科学リテラシー no. 39」『科学』 86(1), pp. 28-32.本格調査の資料は https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/20145b/kenkocyosa-kentoiinkai-21.html にある。おしどりマコ・ケン「小児甲状腺がん「多発」認める。」(DAYS JAPAN, 2015年7月号)も参照。
[7] 初期被曝が曖昧にされたまま基準が緩められていった経緯については、study2007『見捨てられた初期被曝』(岩波科学ライブラリー, 2015年)が明晰に論じている。
[8] 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)報告書要約版, 2012年7月5日.p. 6, p. 11.
[9] 古川元晴・船山泰範『福島原発、裁かれないでいいのか』(朝日新書, 2015年)。個人の責任だけではなく、東電の責任もなし崩し的に曖昧になっている。例えば、2015年末にも、「除染の費用負担を定められている東電が、2013年末以降の計画分について環境省の請求に応じない姿勢を示している」ことが報じられた(東電 除染費負担応じず・・・13年末以降の計画分」毎日新聞2015年12月28日 http://mainichi.jp/articles/20151228/k00/00m/040/074000c)。
[10] 共産党の吉井英勝議員が2006年12月13日に提出した「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」(http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a165256.htm)に対し、安倍晋三内閣総理大臣は同年12月22日、「衆議院議員吉井英勝君提出巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問に対する答弁書」(http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b165256.htm)で、基本的に対策の必要はないと答えている。
[11] 例えば経団連の榊原定征会長は2016年1月15日、新潟県の東京電力柏崎刈羽原子力発電所を視察した際に「原発が止まっているのは国として損失だ」と発言している(「経団連会長「原発停止は国の損失」 柏崎刈羽の再稼働要請」日本経済新聞2016年1月15日 http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS15H2R_V10C16A1EE8000/)。経済的側面からの議論については、藤堂史明「原発再稼働をめぐる経済的論理」『新潟大学経済論集』第96号 2013-II, 49-65. も参照。
[12] 事故直後の「専門家」の発言は影浦峡『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く』(現代企画室, 2011年)、事故後約2年間に見られた「専門家」の発言については影浦峡『信頼の条件----原発事故をめぐる言葉』(岩波科学ライブラリー, 2013年)が分析している。メディアについては名嶋義直・神田靖子編『3.11原発事故後の公共メディアの言説を考える』(ひつじ書房, 2015年)が扱っている。最近のものについては、ネットで検索すれば見つかる。
[13] 千葉由美氏「あれから4年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」(「測ってみっぺ!いわき」http://maeveherb.jugem.jp/?eid=178)
[14] 「リスクコミュニケーション」を「」で括っているのは、原発事故後政府や「専門家」が展開する「リスクコミュニケーション」が、通常リスクコミュニケーションとして理解されている、健康リスクや環境リスクの規模を評価し、それらリスクの重要度や意味を共有し、そしてそれらリスクの管理や対策のための意思決定や行動、政策を決めるために関連するアクターが参加して行うコミュニケーション(WHO (2001) Water Quality: Guidelines, Standards and Health. London: IWA. p. 317-318)とは異質なものだからである。吉川肇子「リスク・コミュニケーションのあり方」『科学』82(1)、平川秀幸他『リスクコミュニケーション論』(大阪大学出版会, 2011年)も参照。
[15] ちなみに第三の対応をした専門家として、京都大学の今中哲二氏や(少し遅れて)小泉昭夫氏、東京大学の森口祐一氏や小豆川勝見氏、獨協医科大学の木村真三氏などがいる。なお、本節の議論は、岩波『科学』の企画で行った筑波大学数理物質系の竹山美宏氏との対談、『科学』編集部田中太郎氏の発言からヒントを得ている。対談の内容は『科学』2016年4月号に掲載される予定である。
[16] https://twitter.com/kikumaco/statuses/46557470369398785
[17] http://megalodon.jp/2011-0521-2238-09/www2.u-tokyo.ac.jp/erc/QA.html
[18] これが典型的な非科学的態度であることに注意しよう。あまたの科学論で論じられているが、手近なところとしてはR. P. ファインマン(大貫昌子・江沢洋訳)『聞かせてよ、ファインマンさん』(岩波現代文庫, 2009年)を参照。
[19] 実際にはそうではない場合も多かった。「爆破弁」のように存在しないものが持ち出されたり、「100mSv以下では健康影響は出ない」といった非科学的な発言も見られた。後者については注[24]も参照。
[20] 医者に行くときのことを考えるとわかりやすい。私たちが医者に行くのは、一般的な医学的知見をめぐる講釈を聞きたいからでも、検査や診察なしにそうした一般的知見を自分の症状に適用して解釈して欲しいからでもなく、専門的な検査と診察に基づいて身体の状況を明らかにするとともに対策を示して欲しいからである。
[21] 大河内直彦「科学的思考で地球とエネルギーの未来を考える」(2012年7月, http://special.nikkeibp.co.jp/as/201207/next_nippon/vol6/page6.html)。大河内直彦氏は独立行政法人海洋研究開発機構海洋・極限環境生物圏領域プログラムディレクター(当時)。この発言は、影浦峡「『科学的』であることを市民の側から考えるために」(『科学』2013年11月)でも取り上げている。
[22] さらに言うと、原発由来の放射性物質による放射線と天然由来の放射線とに差異がないというのは、どのレベルで同一性を見るかに依存する。セシウム137を認定できるのは差異があるからである。
[23] 例えば、大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構のKEK放射線科学センターが提供している「暮らしの中の放射線」(http://rcwww.kek.jp/kurasi/)は「被ばく線量と影響の現れ方」の項目(http://rcwww.kek.jp/kurasi/page-55.pdf)で「被ばくをすれば、だれでも必ずガンになるというわけではありません。ただ、被ばくしなかった場合に比べ、発病の確率が高くなります。これを、確率的影響といいます。/遺伝的影響や、身体的影響のうち白血病や固形ガンなどの症状は、被ばく線量が増加するほど発生確率も単調に高くなり、発病した場合の重篤度は被ばく線量の大小には関係しないという特徴があります」と述べている。
[24] 2011年3月29日に『日経メディカル』は「国立がん研究センターが放射線影響について緊急記者会見 100mSv未満の線量なら発がんリスクなし」という見出しの記事を発表した(担当記者は大滝隆行氏、http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/cancernavi/news/201103/519137.html)。山下俊一福島県健康リスク管理アドバイザーは2011年5月3日に二本松市で行った講演で「何度もお話しますように100mSv以下では明らかな発ガンリスクは起こりません」と述べている。また、事故直後に「海の魚はヨウ素を取り込みにくいので安心してよい」と誤った断言をした中川恵一東京大学病院准教授は「100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません」と述べた上で「現在の福島市のように、毎時1 uSvの場所にずっといたとしても、身体に影響が出始める100 mSvに達するには11年以上の月日が必要です」と、影響がないかのような表現を使っている(「放射線の「正しい」怖がり方とニュースの読み取り方を知る」KK news 2011年8月22日 URL:http://www.kknews.co.jp/kenko/2011/0822_5a.html)。低線量での健康被曝に関する最近の研究は、濱岡豊「長期低線量被曝研究からの知見・課題と再分析」(『科学』2015年10月, p. 985-1006)に著者本人の分析とともに紹介されている。
[25] 【5】は「人の行動」を主題にしながらそれに対して科学的な認識の手続きを取っていないという点でも非科学的である。ここで問題になっているのは人文社会科学と自然科学の相違といったものではなく、単に科学的態度である。
[26] ちなみに、原子放射線に関する国連科学委員会(UNSCEAR)2000年報告書のAnnex Jは、「環境汚染が広い範囲で引き起こした心配は、当初見なされていたような放射線恐怖症と言うべきではなく、計測も所在確認も困難であるような、現実の目に見えない脅威である」(paragraph 386)と述べている。
[27] 議論において内容ではなく論者の性格を批判/非難する行為は、「ad hominem attack」として知られる有名な過誤である。原発・脱被曝を主張する人の一部にも、対人攻撃型の発言をする人は存在するが、多数の市民はそもそも被曝を避ける政策を行政に実現させたり具体的な権利の回復や補償を求めており、それは対人攻撃による自己満足とは両立しないため、被曝防護の体制づくりを求めて活動している市民はあまり対人攻撃をしないようである。
[28] 【4】の発言(海の魚はヨウ素を取り込みにくいので安心してよいという誤った断言)を行った中川恵一東京大学病院准教授はその一年後に「事故から1年を迎えましたが、『放射線パニック』は収まる気配がありません」(毎日新聞, 2012年3月11日)と書いている。人文科学系の領域でも、「しかし、まだphysicalな被害がほとんど顕在化していないにもかかわらず、なぜ人々はここに不安を抱くのだろうか」と、汚染の具体的な状況や言説の具体的な状況を分析することなく「不安を抱く人々」を主題化する発言は見られた(東京大学一ノ瀬正樹氏、2011年7月8日)。比較的新しい例としては、小野昌弘「放射能おばけという民主政治の毒(1)」(2015年1月3日, http://bylines.news.yahoo.co.jp/onomasahiro/20150103-00041982/)がある。
[29] 【5】では「科学者の一人として」という話者の位置づけに発話の意義が支えられている。
[30] 2016年1月13日に開かれた自民党環境部会で西田昌司参議院議員は、国が除染の長期目標とする「年間追加被ばく線量1ミリシーベルト以下」の妥当性をめぐり、「科学的根拠より政治判断が優先された」と述べている(「『1mSv以下』再考求める声も----自民環境部会」電機新聞2016年1月14日)。
[31] 政府主導のリスクコミュニケーションに関連する情報は、復興庁「放射線リスクコミュニケーション」(http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat14/index.html)、首相官邸の「 東電福島原発・放射能関連情報」特に「原子力災害専門家グループ」サイト(http://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka.html)、
環境省「放射線健康管理」サイト(http://www.env.go.jp/chemi/rhm.html)とその下の「放射線による健康影響等に関するポータルサイト」(http://www.env.go.jp/chemi/rhm/portal/)及び「原子力発電所事故による放射性物質対策」(http://www.env.go.jp/jishin/rmp.html)、厚生労働省「東日本大震災関連情報」の「食品中の放射性物質への対応」(http://www.mhlw.go.jp/shinsai_jouhou/shokuhin.html)、文部科学省「安全・安心科学技術及び社会連携委員会」(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/064/houkoku/1347292.htm)や「原子力技術委員会」などにある。
[32] http://www.jaog.or.jp/sep2012/News/2011/sinsai/fukusima_0319.pdf
[33] http://www.kantei.go.jp/saigai/20110321ame.html
[34] 「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ報告書」(http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/twg/111222a.pdf)
[35] 例えば文部科学省パンフレット『放射線と安全確保』(2009年)を参照。管理基準であるため技術的には「穴」があるが、早稲田大学大学院法務研究科の日置雅晴氏は「しかし、少なくとも、事故前に長い時間をかけて、公衆の年間の被曝限度を1mSv以下とすることで、日本国内の一定の合意を形成して原子力事業を行ってきたのであるから、その限界を事故が起こったからといって、十分な議論なしに変えることは許されないというべきである」と述べている(日置雅晴『拡大する放射能汚染と法規制 穴だらけの制度の現状』早稲田大学ブックレット、2011年,p. 49)。次節で関連する話題を扱う。
[36] 「予防的措置の原則」は、第二次(2000年)、第三次(2006年)、第四次(2012年)環境基本計画で謳われている。http://www.env.go.jp/policy/kihon_keikaku/index.htmlを参照。
[37] http://www.env.go.jp/press/files/jp/20079.pdf。概要はhttp://www.env.go.jp/press/files/jp/20078.pdf
[38] 「帰還に向けた安全・安心対策に関する基本的考え方(線量水準に応じた防護措置の具体化のために)」(http://www.nsr.go.jp/data/000047717.pdf)。
[39] http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat1/sub-cat1-1/20140218_risk_communication_package_all.pdf ちなみに、環境省担当の「リスクコミュニケーション」関連事業を、電力会社や原発事業者幹部らが役員を務める「原子力安全研究協会」が2014年度に総額4億1300万円で請け負っていたことが報じられている(「福島事故の健康不安対策 原発関連財団請け負い」(東京新聞2015年11月25日, http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201511/CK2015112502000121.html)。
[40] FoE Japanによる「声明:「子ども・被災者支援法」基本方針の見直しについて~法を無視した「基本方針」は許されない~」(http://www.foejapan.org/energy/news/150710.html)にまとまった説明がある。
[41] http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/kinkyu/pdf/2015/0612_02.pdf
[42] 「コメ地産地消へ回帰 県内の学校給食」(福島民報2013年1月12日 http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/01/post_5963.html)
[43] 「福島の国道6号で一斉清掃活動 5年ぶり再開 」(日本経済新聞2015年10月10日 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG10H59_Q5A011C1CR8000/)
[44] 千葉由美氏「あれから4年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」(「測ってみっぺ!いわき」http://maeveherb.jugem.jp/?eid=178)
[45] 山下俊一福島県健康リスク管理アドバイザーによる二本松市講演(2011年5月3日)
[46] 2012年秋まで「文部科学省の放射線審議会長を務めた京大名誉教授丹羽太貫」氏(北海道新聞2013年1月7日記事より再引用)
[47] https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf
[48] 岸博幸「霞ヶ関文学入門」神保哲生のマル激トーク・オン・ディマンド第47回(2010年03月27日, http://www.the-journal.jp/contents/jimbo/2010/03/post_49.html)
[49] それぞれ「自民党改憲草案」第98条第1項、第3項、第4項。
[50] 2013年4月21日、石破茂幹事長(当時)の発言。
[51] 「われわれが提出する法案の説明としてはまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」(安倍晋三首相の発言、2015年5月20日)
[52] 千葉由美氏「急ぐ復興は誰のため?」(「測ってみっぺ!いわき」2015年12月1日 http://maeveherb.jugem.jp/?eid=184)
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