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2019/07/28

2019年7月20日おしどりマコさん「投票ブギウギagain」で話したこと

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小学校4年生のとき、合唱会で、クラスで男女1名ずつ、前に出て歌う役にさせられて、それが嫌で嫌で、学校に行けなくなったことがあります。フランスの友人が全く別の文脈で「大人になってシャイであるということがあるのか?」と言っていたことがあって(彼女は実はシャイ)、なるほど確かにそれはそうだなと思ったことがあります(ただし、大人になってシャイでないように振舞えないほど特定の様式でのコミュニケーションが苦手な人もいるでしょうから限定は付きます。目安としては「自分はシャイだ」と言える程度の人ということになるでしょうか。)

7月14日の「投票ブギウギ」に続き7月20日の「投票ブギウギagain」でおしどりマコさんの友情演説をしました(有名な「宮崎早野論文」の倫理上の・概念をめぐる・科学的な観点からの問題点を丁寧に指摘した高エネルギー加速器研究機構の黒川眞一名誉教授も同じ日に応援演説をしています)。

動画は下記にあがっています。



あまり関係ありませんが、14日の友情演説は最初に10分前後と言って9分54秒、20日は12、3分と言って12分55秒で、パートナーに「すごいでしょう」と自慢したら「それはこういうときにそんなに大切なこと?」と言われました。

私の話は人を元気にするような話しではないので、時間を守ることは大切です。

さて、以下に粗い下書きをあげておきます。

***

みなさんこんばんは。
影浦です。

賑やかで朗らかな雰囲気の中ですが、少しだけ硬い話をします。
朗らかさを保ったまま、12、3分お付き合いいただけますと幸いです。

おしどりマコさんの活動の原点にある、

「遠くの誰かが誰も踏みにじられないように...」

この言葉について考えてみます。

そしてそれが、

「政治というのは、ごはんを食べながら、お茶を飲みながら生活の話をすること」

というおしどりマコさんの政治観、そして

情報を公開し共有し整理し誰もが活用できるシステムを作る

という政策と、どう繋がるか、お話しします。

今回の参議院選挙には、いわゆる「当事者」と呼ばれる人が、複数、立候補しています。

全国比例区の何名かだけお名前をあげると、社民党の大椿ゆうこさん、れいわ新選組の渡辺てる子さん、木村英子さん、ふなごやすひこさん。立憲民主党の石川大我さん。

色々な課題が見落とされてしまう社会の中で、「当事者」と言われる人々が立候補することは、とても大切なことだと思います。

そして、そうした当事者と協力して丁寧に活動をしてきた方々が立候補していることも、とても大切なことです。

立憲民主党大阪選挙区の亀石倫子さん、新潟選挙区の打越さく良さん。共産党神奈川選挙区のあさか由香さん、大阪選挙区のたつみコータローさん。


ところで、政策や政治的決定の影響を直接受けるという意味で当事者でありながら、選挙を含む政治的なプロセスに参加できない人たちがいます。

制度的に、あるいは手続き上の問題で、選挙に参加できない人たちがいます。18歳未満の人たち。住所を失ってしまった人たち。日本に住み、日本語で暮らしながら、日本国籍を持っていない方々。

また、どのように制度を整備しても、構造的に、決して、当事者として意思決定に参加できない人たちがいます。

未来にこの社会で暮らす人たちです。

原発事故の収束には、とても長い時間がかかります。将来、長い年月にわたり、それぞれのときに、その作業に従事する人たち。

憲法が変わってしまったときに影響を受ける人たち。

「遠くの誰かが誰も踏みにじられないように...」

おしどりマコさんが言う「遠くの誰か」には、地理的に遠くにいる人たちだけでなく、当事者でありながら意思決定に参加できない、こうした人たちも含まれています。


未来について、私たちは、ともすると現実感と具体性のないものと感じがちです。

実際には、そうではありません。

今、専門の研究者から具体的な問題を多数指摘されていながらも進められている、大学入試における民間英語試験の導入を考えてみましょう。

受験を控えた多くの人たちは、これからその影響を受ける当事者でありながら、先に言った制度的な問題がゆえに、選挙を通した意思決定に参加することはできません。

また、5年後に、10年後に、20年後に、40年後に、未来の自分が当事者になっている、年金の問題。未来の自分に代わって、自分たちにかわって意思決定に参加できるのは、今、ここにいる私、私たちです。


未来の人は意思決定に参加できない。それは実際には、私たちのすぐ足元とつながっている。

このことは、また、私たちのすぐ足元の出来事をめぐる、大切な課題を思い出させてくれます。

今、ここに当事者としていて、制度的には政治に参加することはできるけれど、社会の雰囲気の中で、当事者であることを否定された人たちがいます。

原発事故後の「自主避難者」はそうした人たちです。大きな声で周囲から「自主」避難者、勝手に避難した人たち、「本来の避難者」ではない人たちと言われ、当事者であることを言い出しにくくなってしまう状況。

こうした方々は、遠くにいるわけではありません。すぐ近くにいるけれど、「私たち」が気づかずにいることで、あるいは気づいても自分とは関係ないと思うことで、「私たち」の側から距離を作ってしまった人たちです。

おしどりマコさんは、こうした人たちの声も、丁寧に聞いてきました。

そのことを踏まえて考えると、

「遠くの誰かが誰も踏みにじられないように・・・」

というおしどりマコさんの言葉には、

「すぐ隣に、目の前に、足元にある、誰かが踏みにじられている状況を遠くに追いやってしまわないように」

という意味も含まれていることがわかります。

「政治というのは、ごはんを食べながら、お茶を飲みながら生活の話をすること」

身近なところから政治を始めようというおしどりマコさんのこの言葉が、遠くの誰かが踏みにじられないようにという言葉と、ここで重なり合います。


それでは、ここまでのお話は、おしどりマコさんの大切な政策の一つ、

情報を公開し共有し整理し誰もが活用できるシステムをつくる

ことと、どうつながるのでしょうか? 

最後にこの点を考えてみましょう。

おしどりマコさんが作ろうとしている

「情報を共有し誰もが使えるようにするシステム」

は、
前向きに色々やろうという観点からは、自分が関心を持つことについて、きちんとした情報に基づき、一人一人が考え、朗らかに話し合い決めることができるようにするものです。

ところで、私たちが、

「誰かが踏みにじられている状況を遠くに追いやってしまう」

とすると、それはどうしてでしょうか?

そもそもその状況に関心が向いていないから、関心が向いていても自分には関係ないと思っているから、および/あるいは諦めているから、です。

そもそも気づいていないとき、自分が気づいていないということにさえ気づいていない。自分が知らないということさえ知らないないならば、そこに、関心を持つような何かがあるかもしれないことが、そもそもわからない。ですから、関心を向けようがありません。

そのようなときには、どうすればよいのでしょうか。

実は、それにもかかわらず、何か欠けているのでは? 気づいていないものがこの辺にあるのでは? と気付く手がかりを提供することはできます。

果物屋さんに、サクランボとメロンとパイナップルとマンゴーが並んでいるとき。サクランボとメロンが好きで、それだけに関心を向け、ネット通販で買って食べていると、そこに何がないか、気づきにくいかもしれません。一方、普段から果物屋さんに言って、なんとなくでも、どんな果物が並んでいるか、全体を見ていると、あ、7月の旬の果物で、だとすると桃があるはずなのだけれど、でも今日は桃がない、と気付くかもしれません。

自分が関心を持つもの、自分が欲しいもの、だけではなく、少し柔らかく距離をとって眺めてみると、こんなものもある、ということに気づき、さらにそれだけでなく、こんなものがないのでは、と気づくことができる。

おしどりマコさんは、「システム」という言葉を使っています。

それは、自分の関心にあったものだけを表示してくれる個人向け推薦機能のようなものではなく、果物屋さんの店先のように、「他に何があるか」「全体の中で自分は何に関心があるか」を見通しよく示してくれる役割を持つものと考えることができます。

全体を見通すことで、自分は何を選び何を選んでいないか、自分の状況を理解し自分で決めることがやりやすくなります。

私たちは、社会的な課題についてだけでなく、私的な領域でも、すぐ身近にあるはずのものに距離を作ってしまい、後悔することがしばしばあります。朝起きて、まだ目覚めていないパートナーを見て、あなたと出会えてよかったと思いながら、パートナーが起きてきたときに、それを言葉にするのではなく、すぐ朝食ができるから顔を洗ってと言ってしまうとき。

きちんと気づいて対応できたり、あとで気づいて後悔したりすることの背後に、身についた冷笑のスタイルの中で、あるいは日々の生活に追われる中で、私たちはどれだけの喜びや、痛みや、悲しみや、怒りを、自分についても、他の人についても、気づかないまま逃してしまっているでしょう。

そして、断片的な情報の洪水の中で、全体を把握できず、そうであるがゆえに無力感に襲われ、自分では何もできないと諦めていることにさえ気づかないまま諦めてしまっている中で、どれだけの喜びや、痛みや、悲しみや、怒りを、取り逃がしてしまっているでしょう。

おしどりマコさんが提案している、情報を共有するシステムは、関心を持つことについてきちんと話をして考えていく基盤となるだけでなく、足元で、自分が関心を持っていなかったことに気づくことを可能にし、聞き漏らしてきた小さな声を、さらには自分自身が押し殺してきた声を、聞きとることを促してくれるきっかけを与えてくれるものです。

そして、全体を見渡すことを可能にすることで、諦めを押し付けてくる呪いから逃れ、自分も色々な意思決定に参加できると考え一歩を踏み出す見通しときっかけを与えてくれるものです。


明日、2019年7月21日は第25回参議院選挙の投票日です。

本日、ここに来る前に、私は期日前投票をしてきました。

遠くの誰かが誰も踏みにじられない未来を共に作っていく一歩として。
誰かが踏みにじられている状況を遠くに追いやってしまわないために。
そして、お茶を飲みながら社会と政治について当たり前に語ることができる朗らかな未来のために。

日常生活の中で大変なこともたくさんあるかと思いますが、ともに一歩を踏み出し、そして、歩みを、進めていきましょう。

どうもありがとうございました。


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2019/07/19

2019年7月14日新宿西口地下広場おしどりマコさん投票ブギウギで話したこと

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2019年7月14日新宿西口地下広場で、立憲民主党全国比例区で立候補しているおしどりマコさんの投票ブギウギで少しお話しをしました。そのときの映像が公開されています。



それとは別に、粗いものですが、原稿下書きを以下に掲載します。実際に話したこととはズレがあります。

-------
こんにちは。影浦です。

おしどりマコさんの政策をめぐって、少しお時間をお借りして、お話しします。しばらくの間、言葉の羅列におつきあいください。

半径5メートルから変えて行こう。
誰か任せにせず、誰も自己責任の荒野におきざりにしない。

これらは、おしどりマコさんの政策の重要なポイントです。

あれ? でも半径5メートルを変えて行くって、一人一人がやるのですよね?

とすると、それもまた自己責任? 

でも、誰も自己責任の荒野におきざりにしないって言っていませんでしたっけ?

そもそも、「誰か任せにせず」と、自己責任の荒野におきざりにしない、はどうつながるの?

というわけで、まず自己責任から考えてみます。

2015年12月9日、厚生労働省は2014年の国民健康・栄養調査結果を発表しました。

その中で、厚労省は、所得が低い家庭は食生活が穀物に偏り栄養バランスが欠けているので、「食事の内容を見直すなど健康への関心を高めてほしい」と述べています。

各自食事をちゃんとしろ、そしてそれは自己責任だ、というわけです。

もう一つ、例をあげましょう。桜田義孝元オリンピック・パラリンピック担当相は、今年の5月29日、「子どもを3人くらい産むようお願いしてもらいたい」と述べています。「子どもを産まないのは産まない人間が悪い、自己責任で子どもを産め」という感じですね。

そして、おしどりマコさんが福島の農家の被曝について報じていること。

福島県農民連が政府交渉で、放射線管理区域に相当する被曝状況で農業を行うことについて問いただしたところ、「農業は自営業なので放射線管理区域という概念は当てはまららない」から自分で対応をと言われました。

自己責任で対処しろ、ということです。

でも、少し考えてみてください。何か変だと思いませんか?

そもそも、完全に一人一人、生きることが自己責任で、一人一人の問題ならば、他の人がそれについて何か言うことはない。「自己責任です」とさえ言う必要はありません。政府もいらない。

それにもかかわらず、「自己責任」という言葉が投げつけられる。

私たちは、たった一人で生きて行くことはできないので、役割を分担し、また必要な仕事を委託したりして社会を構成しています。

私たち市民は、有権者として、政治家や行政には、収入の多寡に拘らず健康な生活を送ることができる環境の整備や、子どもを産むかどうか自分で決められる制度の整備を行うよう、仕事を委託しています。

誰かに向けて「自己責任」と言う言葉を使うのは、とりわけ仕事を委託された人が他の人に「自己責任」と言うのは、仕事を委託された人たちが本来やるべきことをやっていないか、何か余計なことをやっているという点を、見えなくし、本来責任を負うべきではない人たちに責任を押し付ける、そうした歪んだ効果を持ちます。

そうはしない。

おしどりマコさんは、

誰も自己責任の荒野に置き去りにしない。

と言う言葉で、そう宣言しています。

そして、一人一人がそうしないだけでなく、そのために必要な制度を作りましょう、と。

ところで、皆さん、 #KuTooキャンペーンをご存知でしょうか?

少し粗く言うと、女性のパンプスが実質上強制される職場があるけれど、パンプスは辛いので、選べるようにしよう、というキャンペーンです。

職場でパンプスをはくことを明示的に、あるいは暗示的に、強制されることがある。でも足の痛みや変形を、他の人に代わってもらうことはできません。

周りがある行動を押し付けたり、ある環境を押し付けて、その結果、苦しいことが起きたらそれは押し付けられた側が背負う。

今広まっている自己責任はこういうものです。

これに対して、自分が履くものを自分で選ぶ、これは何と言うでしょうか。

#KuTooキャンペーンを始めた石川優美さんは、「自分で決めること」「自己決定権」という言葉を使っています。

放射性物質を拡散させたのは、農家の方々でしょうか? 違います。

それを踏まえるならば、本来、被曝を自己責任で管理するというのは、適切な言葉ではありません。自分が決める状況にないまま、他人の責任放棄の帰結を押し付けられているのですから。

さて、おしどりマコさんのもう一つの大切なメッセージ、

半径5メートルから変えて行こう。

についてお話しする準備ができました。

「誰か任せにせず、誰も自己責任の荒野におきざりにしない」

これは、本来は不適切な「自己責任」の大合唱の中で、失われた、あるいは奪い去られた自己決定権を取り戻す、さらに、自己決定権が失われないような、そして最初から発揮できるような環境をつくることと言うことができます。

そして、「誰か任せにせず」に自己決定権を使っていこう、ということです。

今、本来責任を負うべきでないことについて声をあげても「自己責任」と言われることで、一人一人の切実な声がかき消されている。

おしどりマコさんだけでなく、社民党の大椿ゆうこさん、立憲民主党宮城選挙区の石垣のりこさん、共産党大阪選挙区のたつみコータローさん、れいわ新選組のわたなべてるこさん、他にも複数の、このことを憂慮し、状況を変えようとする候補が、今回、複数の政党から、参院選に出ています。

この状況を変えるために、どうするか?

ここで政治家に投票したあとは政治家まかせにしてしまうと、自分で決めることができる環境づくりは、途中で止まってしまいます。

半径5メートルから変えていこう。

おしどりマコさんは政治家としてすべきこと、できることをやる。私たち一人一人も、できることをやる。

日々の生活に疲れている中で、それは大変なことかもしれません。マコさんの「置き去りにしない」環境を作ることは、その状況でいきてきます。

最後に、おしどりマコさんの具体的な政策の一つである

情報を公開して、共有すること

について考えてみます。

一見したところ、抽象的ですが、消費税についても、学費についても、労働環境についても、労働者の権利についても、奨学金についても、生活保護についても、すべてについて、一人一人が決めることに参加できる条件を整える、その一番の基盤となるところの一つが、きちんとした情報を誰もが確認できるようにすることです。

原発をめぐる権利回復、自己決定権の回復に向けて前向きに一歩一歩進めると同時に、情報を確認し、共有して、一歩一歩一人一人が進むための足場をきちんと作ろう、

それは、おしどりマコさんがずっとやってきたことです。

7月4日、おしどりマコさんは東京電力前で最初の街宣を行いました。そこで、東京電力の人たちは敵ではない、きちんと話をできる状況を作り一緒に考えて行きましょうと言っています。

意見がすべて一致する人はいない。でも、きちんとした情報を共有したうえで、私たちは、それを足場に、社会を作って行くことができます。

誰かが勝手に決めたことややったことについてのしわ寄せを「自己責任」の合唱の中で誰かが不当に押し付けられるのではなく、誰とどんな社会に生きて自分は何をするのか、朗らかに決められる社会を作って行くことができます。

今日、私は、ここで、まさにこの話をすることで、私の半径5メートルを変える一歩を、「誰か任せにしない」一歩を、恐る恐る踏み出しました。

おしどりマコさんとともに、小さな、けれども朗らかな社会へむけた大きなうねりになりうる一歩を、踏み出してみませんか。

ありがとうございました。



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2019/02/13

宮崎・早野論文をめぐる問題に関する若干の誤解について

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2019年2月2日、Japan In-depthというサイトに医療ガバナンス研究所理事長上昌広氏による


という記事が掲載されました。

宮崎・早野論文(下記Aで説明します)をめぐる問題については、ネット上でもそれなりに整理されているにもかかわらず、この記事をはじめとして混乱も見受けられます。ここでは、あまり範囲を広げず、この記事(便宜上「終わらせていいのか」と呼びます)に見られる混乱の主なものを見ていくことにします。

「終わらせていいのか」が公開されてから時間がたってしまいましたが、この文章が、宮崎・早野論文をめぐる問題の適切な理解に多少なりとも貢献できれば幸いです(この日本語は適切なのかしら・・・)。

A. 宮崎・早野論文

ここで「宮崎・早野論文」とは、以下の二本の論文を指します。便宜的に、第一論文、第二論文と呼ぶことにします。
第一論文がアラビア数字で1なのに対して第二論文はローマ数字のIIですが、連続の論文です。ものすごく簡単に要約すると、第一論文は空間線量率を使って個人線量率を評価する方法を提案するもの、第二論文はそれを使って個人の生涯被曝線量を求めようというものです。

B. 宮崎・早野論文をめぐる問題

まず、宮崎・早野論文をめぐる問題を簡単に整理します。

かなりの部分はハーバー・ビジネス・オンラインに掲載された牧野淳一郎「データ不正提供疑惑・計算ミス発覚の個人被曝線量論文。早野教授は研究者として真摯な対応を」(2019年1月10日、以下「真摯な対応を」)や小宮山亮磨・大岩ゆりによる朝日新聞記事「市民の被曝線量を過小評価した論文 専門家が新たな疑問」(2019年1月16日、以下「新たな疑問」)に書かれています[1]。倫理面の問題については黒川眞一・島明美「住民に背を向けたガラスバッジ論文」『科学』(2019年2月号)が詳しく論じています。

(1) データの提供と位置付けをめぐって

論文では、約5万9000人分のデータを解析しているが、その中で約2万7000人分は本人の同意を得ていないものである。実際、第一論文の表1、2012年第3四半期の部分がN=59056となっています[2]。宮崎・早野論文として発表された研究に関する研究計画書(以下「研究計画書」)の「8 研究対象者の選定方針」には、「閲覧解析の対象者はデータを本機関に提供する同意があったものに限られる」と明記されています。

「研究計画書」の承認申請を行う前の2015年9月13日に早野氏が解析結果を公表していた[3]。「研究計画書」は2015年11月2日に福島県立医科大学学長に提出され、審議結果通知書は2015年11月27日、申請結果通知書(承認)は2015年12月17日に出されています。早野氏の発表は結果通知の3カ月以上前になされたものです。

「研究計画書」の記述と実際のデータの扱いとが一致していない。「研究計画書」「11 研究方法」の「(1) 手順・相関関係図」では「データベース化:伊達市における作業」として「ID付与者の居住地を航空機による空間線量モニタリングの角メッシュと突合」があがっていますが、実際には「GIS化したデータは早野教授に依頼して作成した」、「GIS化したデータは納品してもらっていない。伊達市はもっていない」「GIS化したデータは伊達市から提供したものではない」との指摘が2018年12月6日伊達市議会でなされています[4]。

論文中の記述とデータの扱いが一致していないところがある。第一論文の「1. Introduction」末尾にある「Ethics statement」には緯度と経度を100分の1にして「擬似匿名化」したとありますが、同論文図3にはそれよりも詳細な緯度経度情報が示されています。

(2) 数値の意味付けをめぐって

ガラスバッジ・データの妥当性が検討されていない。個人線量のデータのもととなった伊達市のガラスバッジは、東京新聞が明らかにしたところでは、7割の家庭で屋内に置きっぱなしだったため、そもそもデータとしてそのまま使うには不適切であることが示されています[5]。

第一論文で導かれた、空間線量率と個人線量率の比の平均0.15(実際には中央値らしい)を、追加実効線量を評価するために日本政府が採用した基準に基づき算出される係数0.6と比較して4分の1と述べている。被曝の管理に中央値を考えるのはそもそも適切ではありません。基準は半数の人がそれ以下ならばよいというかたちではたてられませんしたてられていません[6]。

これらの問題は、(1)で見た倫理上の問題がなかったとしても、また、以下でみる数値の操作をめぐる問題がなかったとしても、極めて深刻なもので、論文の主な帰結の意義を失わせるものです

(3) 数値の操作をめぐって

第一論文では「グラフ中で線量が「ゼロ」の人が多すぎるなど、不自然さがある」[7]。

両論文とも平均値と中央値の扱いが混乱している[8]。

第二論文で三つに分けた地区(高い方からA、B、C)それぞれにおける空間線量率と個人線量率の比の平均が算出根拠なしに出てきている。第二論文では対象を「継続してガラスバッジを使っている人」に絞って再計算したと書かれているので数値が異なる理由はわかるが数値の妥当性を検証できない。

「黒川レター」(注[1]参照)で指摘されているように、第二論文には不可解な不整合が複数ある。これについては項目を改めすぐ下の(4)で主なところを説明します。

(4) 「黒川レター」で指摘された第二論文における数値操作の不適切さ(主なもの)

どれが「主なもの」かについての判断は人によって異なるかもしれませんし、また、いずれも重大といえばその通りなのですが、ここでは選択的に紹介します。

はじめに、見通しをよくするための準備を少し。第二論文は空間線量率と個人線量率の関係を使って個人の生涯被曝線量を求めようというものでした。本稿での整理に関わる範囲で論文の展開を簡単に示すと以下のようになります。
  1. 空間線量率の時間推移を一般的なかたちでモデル化する(これが第二論文中の式(1)で示されるf(t)):ここでf(t)は第4回の航空機サーベイ(t=0.65年)で正規化されている(f(0.65)=1)。
  2. f(t)にt=0.65での空間線量率H_{10}^{*i}と空間線量率から個人線量率への換算係数c^iをかけた式を積分し、それに初期被曝(4カ月)の平均外部被曝量の推定値Iを加えることで、時間tにおける累積被曝線量を求める(この式がH_P^iで第二論文中の式(2))、上の^iのiはA地区・B地区・C地区のいずれか)[9]。
  3. このH_P^iをt=70まで外挿して生涯累積線量を求める[10]。
第二論文では、
  • H_{10}^{*A}(0.65) = 2.1 uSv/h, c^A = 0.10;
  • H_{10}^{*B}(0.65) = 1.4 uSv/h, c^B = 0.12;
  • H_{10}^{*C}(0.65) = 0.8 uSv/h, c^C = 0.15
となっています。また、事故後4カ月の平均外部被曝量の推定値Iは1.4 mSvとなっています。

第二論文中、図2はf(t)と航空機モニタリングを重ねたもの、図5はA・B・C各地区についてガラスバッジ測定の累積の箱ひげ図に式(2)に基づく累積線量の推定値を重ねたもの、図6はA地区における線量率についてガラスバッジ測定の箱ひげ図と推定モデルの曲線を重ねたもの、図7は図6を積分して累積の線量を求めたものです(で図5-1すなわちA地区のものと図7で推定の曲線は本来同じ、実測は対象者数が異なる)。図6と図7からは、除染の影響が観察されないという結論が導かれています[11]。

さて、以上の準備を踏まえて、「黒川レター」で指摘されている主な問題を簡単に見ていきましょう。

第一に、与えられた式(1)では図2が書けない。第二論文の説明によるとf(0.65)=1になり、図2は実際そのようになっていますが、与えられた式ではf(0.65)=0.413...となります。正規化係数が式(1)から落ちていることが原因です[12]。下図では点線で描かれた曲線が第二論文の式(2)に従ってプロットしたもの、実線で描かれた曲線が図2に実際に描かれているものです。



第二に、図6の曲線はf(t)に2.1(これはH_{10}^{*A}(0.65)の値)と0.1(これはc^Aの値)をかけたものに基づき求められるはずだが、実際にやってみると、図6の曲線には合致しない。図6の曲線はむしろH_{10}^{*A}(0.65)とc^Aの積を0.21ではなく0.33くらいで算出したものと合っているという話です。下図では実線が0.33、点線が0.21で描いた曲線です。図6は確かに0.33で描いた曲線とほぼ重なります。



第三に、図6を積分したものが図7のはずだが、図6ではガラスバッジ測定の中央値よりも理論曲線の値がほぼ一貫して小さいのに、図7では逆になっている

第四に、図6の曲線に合わせて積分をすると36カ月までで4.8 mSvくらいになるはずなのに、図7では2.7 mSvくらいになっている(なお、図7では、事故後4カ月の平均外部被曝量推定値1.4 mSvが足されていないように見えますが、それを足すと図5-1と一致するはずだけれど一致していません)。下図では実線が図6の曲線にあわせてH_{10}^{*A}(0.65)とc^Aの積を0.33で描いたもの、点線が0.21、短破線が図5に目視であわせたもの、長破線が図7にあわせたものです。



図7はH_{10}^{*A}(0.65) = 2.1, c^A=0.1で描いた累積線量(点線)よりも値が小さく推移しており、大体、H_{10}^{*A}(0.65)*c^A=0.19くらいに合致するようです。図5-1では、35カ月のところで4.7 mSv程度、40カ月のところで5 mSvくらい、50カ月のところで5.5-6mSvくらいになっています。初期被曝の推定値1.4 mSvを引くと図7に重ねることができますが、図5-1の曲線は、大体、H_{10}^{*A}(0.65)*c^A=0.23-0.24という感じです(短破線)。こちらは、H_{10}^{*A}(0.65) = 2.1, c^A=0.1よりも少し高い値を使ったものになっているようです。

第五に、70年後までの生涯累積被曝の推定値は図6に基づくと論文で報告されている18 mSvではなく26 mSvになる

(5) 早野氏の「見解」をめぐって

2019年1月8日に、二論文の著者の一人である早野龍五氏が文科省記者クラブに「伊達市⺠の外部被ばく線量に関する論⽂についての⾒解」を貼出しました[13]。

「見解」では、技術的な問題について、「2018年11月16日に」Journal of Radiological Protection誌から、黒川氏から第二論文に関するレターが届いたのでコメントするよう連絡を受けたこと、早野氏が自ら「作成したプログラムを見直すなどして検討したところ、70年間の累積線量計算を1/3に評価していたという重大な誤りがあること」に「初めて気づ」いたことが述べられています。また、「誤りは第二論文の累積線量の導出に限ったもの」とあります。「見解」別添の資料では、個人線量分布について「3カ月の時間平均を真ん中の月で代表させて表示」した図6を単純に足したために3分の1に過小評価されたこと、「正しくは3倍すべきだった」こと、「また曲線の積分式にも同様な誤りがあり3倍されるべきだった」こと、「図5でも同じ誤りがあった」ことが述べられています。

上で見た「黒川レター」の問題指摘と「見解」とを突き合わせてみるとすぐにわかりますが、「見解」の説明は「黒川レター」の指摘に答えるものにはなっていません。そもそも図6における曲線が本文の記述と合致していないことについて答えていませんし、「黒川レター」が指摘している数値の不整合についても何も述べていません。さらに、仮にガラスバッジのデータを足し合わせるとき3分の1にしたとしても、f(t)に基づく式を積分する操作は3カ月の値を真ん中で代表させていたからそれを3倍するのと「同様な」操作ではなく(f(t)に係数を掛けたものを時間単位と線量単位に注意して普通に積分するだけです)、3分の1に過小評価されたガラスバッジデータの箱ひげ図中央値と式から導いた曲線がそれなりに重なっていることは不可解です。図7の箱ひげ図と曲線を3分の1にしたとしても、中央値と曲線との関係が図6と図7でねじれていることは説明できません。また、3倍しても図6と図7は合わないようです[14]。

同意を得ていないデータを使ったことについては「私たちが伊達市から受け取ったデータには同意の有無を判断出来る項目がなく、さらに幾度となく委託元である伊達市側に解析内容を提示した際にも対象者数に関するご意見なく、適切なデータを提供いただいて解析を行ったと認識しておりました」とあります。

実際にはGIS化作業を早野氏が行っているなど、早野氏が「研究計画書に記載された手順とは無関係に市から早野氏にGIS化依頼した際に渡されたデータを使って」論文を書いたことが具体的な状況から示唆されています[15]。また、2019年2月8日に公開されたOurPlanet-TVの記事「千代田テクノルのデータを研究に使用認める〜宮崎・早野論文」は、論文の1本に関係する解析を、個人線量測定会社「千代田テクノル(本社:東京都文京区)」から提供を受けたデータを使って市からデータを受け取る前に終えていたことを第一著者の宮崎真氏が認めたと報じています。これらを考えると、同意の有無を判定できる項目の有無とは別に、早野氏が1月8日に出した「見解」は、データをめぐる研究倫理の点でもきちんと問題に答えたものではないことがわかります。

なお、ちょうどこの部分を書いた直後に、黒川眞一氏による「黒川名誉教授緊急寄稿。疑惑の被ばく線量論文著者、早野氏による「見解」の嘘と作為を正す」という記事がハーバービジネスオンラインで発表されたので、そちらもぜひお読みください。「レター」の科学コミュニケーション上の位置付けも含め、問題が整理されています。


以上のまとめを踏まえて、「終わらせていいのか」の検討に入ることにしましょう。よろしければ左下の「>>続きを読む」をクリックしてください。


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2018/08/13

言葉が紙に書かれていること

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整理してから公開しようと思っていたメモがいくつかあります。これからしばらく十分な時間を取るのは難しいことが判明したため、多少粗いままですが、公開していくことにします。

ここでは、言葉が紙に書かれていることについて[1]。

2017年5月14日、当時LINEの上級執行役員を務めていた田端信太郎氏が、twitter上で

憲法って、ただの紙の上に書かれた文章ですよね。。。

と発言しました(それに対する反応やLINE社の対応についてはこちらを参照)。

この一文には、次のような文が続きます。

実際に餓死しそうな人がいるときに、「憲法」がアンパンを恵んでくれたりするのですか? 誰か、生身の人間が、お金を出してアンパン買うところから始まりますよね?

ここから、田端氏が、

だから有効性に欠く

という方向でこう言っていることが伺えます(「意図理解」が得意な人はこんな手続きを経なくてもわかるのかもしれません)[2]。

ところで、政治的にどのような見解を持っているかは別にして、憲法が紙に書かれているだけのものだから実効性がないと思うともなく思っている人は少なからずいそうです(私の周りにもいたりします)。

そこで、

言葉/憲法が紙に書かれていること

について考えることにします。結論を先取りして言うと、田端氏が示唆するように

だから有効性に欠く

のではなく、

まさに紙に書かれていることが、民主的な社会で有効に機能する条件である

ことを見ます。

田端氏の発言は、紙に書かれた言葉と体やモノを動かす物理的な行動を対比する枠組みになっていますが、ここではもう一歩基本的なことに立ち戻って、憲法が紙に書かれていること、より一般的に言葉が紙に書かれていることの意味を考えます。


A. 紙に書かれていることと頭の中にあること

まず言葉が紙に書かれていることと頭の中にあること(とりあえず頭の中でも考えが言葉で表されているとして)との違いを確認しましょう。

憲法が出発点だったので、「規則」(に類するもの)を想定します[3]。とある会社で、社長が、

我が社の就業規則は私の頭の中にある

と断言している状況を想像しましょう。

第一に、社長の頭の中にのみ存在する「就業規則」は、従業員との間で明示的な合意の対象とならないので一般的な意味で規則と呼ぶことはできません。仮に社長が、自分の頭の中にある自分では「規則」と思い込んでいるものを例外なく一貫して適用したとしても、それが奴隷的拘束に相当するような「規則」であることはいくらでもありえます[4]。

第二に、この状況下では、ある日は職員が9時に出勤したら時間通りなので何も言われないけれど、別の日は30分の遅刻として扱われる、ということが起こりえます。これはさすがに現実にはなかろうという例ですが、これに類することは、色々とあります。実際、上司の気まぐれで同じ行動について部下を非難したりしなかったりするのは、(モラル)ハラスメントの典型的なパターンの一つです[5]。

規則を紙の上に書き出すことは、それを明示的な合意の対象とすることを可能にし、また、相対的に力のある人間が恣意的に変更したりできない状態にするという点で、規則が規則であるために本質的なことです[6]。

より一般的に言うと、民主的な社会では、意図ではなく明示的な言語表現とそれが示す概念に第一義的な重要性が認められます。これは言語表現と人間関係の関係から論理的に要請されることです。極めてプライベートな人間関係を除いて、人間間の関係(したがって社会)は、個々人の頭の中にあるもの(思いや意図)ではなく、明示的に表現された言葉を介してしか成り立ちません。2018年現在で日本語を母語とし日本に暮らす人に考慮する範囲を絞ったとしても、圧倒的に大部分の人間関係は、直接「意図」を推測したり共有したりできる範囲には収まりません[7]。

というわけで、法令が言葉で表され紙に書きとめられることは、法令が法令であるための基本的な要請であるとともに、デタラメな法令の成立や恣意的な運用に歯止めをかけることを可能にする条件でもあります。

一般に、社会の成立と個人の社会参加はこれを前提としています。社会制度の維持管理運用を委託された国会議員や官僚には、中でもとりわけこの点を尊重することが求められますが、現在、不幸にしてこの最も基本的な点が、現実に踏みにじられているだけでなく踏みにじられることが極めて深刻な問題であるという認識の共有がなされていないという二つのレベルで、ないがしろにされています。

例えば、「働き方改革法案」をめぐって、自由民主党所属の長尾たかし衆議院議員は、2018年5月24日、twitter上で

過労死を増やそうなどと考えている与党議員はただの一人もおりません。断言いたします。あらぬレッテルを貼り過労死問題を政局に利用する姿勢こそ非難されるべきです。

と述べています。法案の文言を具体的に参照せず、与党議員がどう「考えている」かを「断言」することは、法案をめぐる議論に対して何の意味もありません[8]。それにも拘わらずこのように言ってしまうことは、長尾たかし議員が、法律をはじめとする表現され共有された言葉と人の「意図」とを区別できていないことを示唆しています。

意図を言語表現の検討に混入すると(注[7]も参照してください)、議論は権威主義の押し付けに変質し、やりとりは人格攻撃になって、社会の基盤は破壊されます[9]。

2015年5月20日、安保関連法案をめぐる民主党岡田克也代表(当時)との討論で、安倍晋三首相は、

我々が提出する法律の説明は正しいと思いますよ。私は総理大臣なのですから。

と言っていますが、これは安倍首相が議論と権威主義の押し付けを区別できていないことを示しています。民主的な社会はこうした言葉が放置されると破壊されます[10]。


B. 公文書改竄

少し脇に逸れて、紙に書かれていることの意味を具体的に考えてみます。

2018年3月、財務省が大量の公文書改竄に関与していたことを朝日新聞が報じました。森友学園への国有地売却をめぐる文書で、決済文書が300カ所以上にわたって改竄されていたものです。

上の話と重なりますが、決済文書の社会的位置づけについては、長野県短期大学の瀬畑源准教授が、「日本人が「公文書改ざんの重大性」にピンと来ないのはなぜか?」(2018年3月19日)の中で、明確に述べています[11]。

特に決裁文書は、行政機関が組織として最終的な意思決定を下した証拠となるものであり、行政の正確性を確保し、責任の所在を明確にするものである。

特定の人物の恣意で行政が行われるのではなく、憲法や法律といったルールに従うのが、近代国家の姿であり、決裁文書はその基本を支えるものである。

この問題の位置づけについては他にも、籏智広太「森友文書改ざん、専門家が語る本当の問題点とは 問題が矮小化されないために、知っておきたいこと。」(BuzzFeed News, 2018年3月14日)にもまとまっています。

公文書が改竄されると、直接行政に関わった人以外が(本当は関わった人も含めて、ですが)行政プロセスについてきちんとチェックできなくなるので民主的な社会の大元にある条件が崩壊することになります。社会全体が、社長の恣意的な判断のもとでモラルハラスメントが横行する会社、および/あるいは(「哲学者」が好きな表現ですね)データを改竄して不適格品を市場に出す不良企業のようになってしまいます。

とはいえ、こうした解説だけでは、一体何が問題なのか、直接自分が影響を受けたと感じられるわけではないので、やはり実感を持ちにくいかもしれません。

公文書----紙に書かれた国・行政の記録----が改竄される状況を放置すると何が起きるか。抽象的にしか捉えることのできない「民主主義」が破壊されるだけでなく、私たちが当たり前と思っていることがいつの間にかそうではなくなる状況が起こり得ることになります。

昔、どこかの本の中で次のような話が紹介されていました[12]。

森で道に迷った若者(ではなかったかもしれない)が、森の中の一軒家にたどり着いてそこに一人いたお爺さんに泊めてくださいと頼んだら、お爺さんが自分は様々な経験をしてきて退屈しているので「そんな馬鹿な」と自分に言わせるような話をしたら泊めてやると言う。

そこで若者は次のような話をした。

この森で道に迷ってあるいているとき、小さな立派な祠があってその中にあった文箱を開けてみたところ証文が入っていてそこに「お爺さんの財産の半分はお爺さんのものではない」と書かれていた。

それを聞いたお爺さんは思わず「そんな馬鹿な」と叫んだので、若者はめでたくその晩お爺さんの家に泊めてもらえましたとさ。

紙の上に書かれた言葉を軽視し、それが改竄されたときにきちんと対応しない[13]。そのような社会では、こうした「そんな馬鹿な」が起きることを止めることができませんし、「そんな馬鹿な」が起きたときにそれが不当であることを証明できませんから、被害の補償も原状回復もできなくなります(これは次の話題に関係してきます)。

公文書の改竄が放置されると次のような「そんな馬鹿な」も起きる可能性が出ますし、公文書改竄を放置するとそれによる被る損害に対する救済措置を取ることができなくなります。

  • 長年付き合ってきた相手と結婚しようとしたら、実は自分はすでに知らない人と結婚していたことを発見した。
  • 自分には子どもが二人いるのに一人しかいないことにされていた。
  • 自分の家がいつのまにか抵当に入っていた。
  • 払った税金を再び請求され、払わないでいると財産を差し押さえられた。
  • (公文書ではありませんが)大学を卒業したはずなのに卒業していないことになっていた。

手元に自分が書類の写しや一部を持っていたとしても、その正当性が確認できなくなりますから、意味がなくなってしまいます[14]。

Lawrence LessigはFree Cultureの中で、次のように述べています(「図書館」は広く紙に記された文書を正当なものとして参照できる条件が存在していること、と解釈してください)。

我々は,自分たちが読んだことを覚えているものを,立ち戻って再び見ることができる状況を当然と思っている。・・・公共図書館で新聞を見ることができる。・・・いずれにせよ,図書館を使って,自由に/無料で過去のものを思い起こすことができる。歴史を記憶しないものはそれをくり返す,と言われる。これは正しくない。我々は誰もが歴史を忘却する。重要なのは,忘れたことを立ち戻って再発見する方法があるかどうか,である。・・・図書館は,コンテンツを集めて維持することで,それを行う。・・・自由な社会はこの知識を前提とする[15]。

「歴史を記憶しないものはそれを繰り返す」という言葉は、一般に、悪事や悲惨な出来事について言われることですが、身近なところでは、自分が購入した家屋が自分のものとして記録されず、繰り返し自分が所有しているはずの家を購入させられる悪夢のような状況も表わしています。


C. 言葉の拘束力と物理的強制力

冒頭で引いた田端氏のtweetでは、「紙の上に書かれていること」と対比されているのは物理的な行動/力のようです。で、前者は有効でないことがほのめかされている。当該tweetは、「前者だけでは」ではなく「前者は」と読む方が自然ですが、まあ以下では「言葉だけでは意味がない」という、言葉に対するありがちな批判も緩やかに含めて考えることにします。

体系的に論を展開するのではなく、いくつかの視点から、社会を構成するためには言語の拘束力を前提とすることが必須であること、実際に言語/記号は拘束力を有することを示すにとどめます。

間接的なところから言えば、2018年8月12日、安倍晋三首相が次期国会に自民党「改憲」案を提出すると述べたことは、紙の上に書かれたものにすぎない文言が拘束力を有していることを示しています。そうでなければ無視すればよいのですから[16]。

言葉で人を脅すことで脅迫罪が成り立つのは、言葉が拘束力を持つからです。頭の中で思っているだけでは脅迫罪にはならない一方、脅迫罪を構成するかたちで言葉を使ったときに「意図」はどうだった・・・と言うのは無効です[17]。

信号は物理的に車を止めるわけではありませんが、人は(大体)、信号で止まります。8月10日発JAL587便を予約したときに、その便が飛ぶことを前提としたやりとりをJALと利用者の間で保証しているのは、言語表現として提示された情報だけです。

赤信号で止まるのは止まらないと罰則があるからだ、そしてその罰則は物理的なものだ、とか、飛行機が飛ぶのは飛ばないと問題が発生するからだ、そしてその問題は物理的なものだ、という主張は、事実に関しても概ね間違いですし、論理的にも成り立ちません。

まず、単純な事実として、私たち(の多く)は(大体の場合)、物理的な帰結を避けるために赤信号で止まったり、予定通り飛行機を飛ばしたりするわけではありません。誰かと出かける約束をしたときに、大体その約束通りに行動するのは、相手に殴られるのが怖いからではなく、単に約束したからです。

「今日は酔っ払って体が動かないので皿洗いはあなたがやってください」とパートナーに言うとき、やってもらえないときには物理的な暴力に訴えるという前提で言う人はあまりいません[18]。

また、論理的に考えると、規則や法の根拠を物理的な強制力を有する法執行機関の存在に求めるわけには行きません。この理屈では、法執行機関が規則や法を犯したときに法執行機関の法律違反を取り締まる強制力を有するメタ法執行機関が求められ、それは無限背信します。


D. というわけで

順番を逆にしてまとめると、

言葉は拘束力を有する
言葉が紙に書かれ共有されることで言葉は社会の基盤として機能する

ことになります。



注など

[1] 念のため、「紙に書かれている」は比喩的な表現です。ポイントは、(a) 勝手に書き換えられないこと、および(b) 誰もが共通に参照できること。

[2] ところで、「実際に・・・」からの二つの文は(ここでは詳しく検討しませんが、田端氏による他のいくつかのtweetを考えるならば、奇妙にも)餓死しそうな人には食べ物が提供されるべきという前提で話を進めています。けれども、田端氏による他のいくつかのtweetを考えるならば(ここでは詳しく検討しませんが・ちなみにこの反復は意図的です)、「始まり」はそもそも餓死しそうな人には食べ物が提供されるべきであるという点を共有することであるはずです。

では、それはどうして共有されているかというと、多少強引に言えば、憲法第25条で

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

と規定されているからです(事実と当為をめぐる議論は省略します)。

とはいえ、実際にはこの規定は、市民が飢えない(だけでなく健康で文化的な生活を送ることができる)ような社会の実現を国の義務として求めるもので、個々の「生身の人間」の善意に依存しなくてもよいように社会を構成する原則を定めているものです。この点を考えると田端氏の発言は、餓死しそうな人がいてはいけないという点は維持しながら、その価値が社会の基盤として憲法に規定されており、また憲法はその価値の維持を国の義務としているという点を無視することで、憲法の存在を軽視するとともに、「飢えない」ことを個々の「生身の人間」の責任にすり替える、よくある自己責任論のバリエーションに過ぎません。その点では田端氏の他のtweetとも整合性が取れています。

[3] 実は、「規則」は言語表現の基本的な作用をとてもよく表すものです。

[4] 労働基準法第89条は、10人以上の労働者を常時雇用している会社は就労規則を作成し、労働基準監督署長に届けなくてはならないと定めています。就労規則は「紙に書かれたもの」です。

[5] 一貫性の欠如が常にハラスメントの構成要件というわけではありません。そのことは「第一」の点が示しています。

[6] 独裁政権で独裁者の頭の中にある「規則」は暴力の一環であって規則ではありません(このように言うためには規則と合意の関係だけではなく規則と統整的理念の関係も整理しておく必要があるのですが、ここではちょっと強引に言い切っておきます)。

[7] そのうえで論じられる「意図」は言語表現に先立つものではなく言語表現に認められるある属性を示すために用いられる簡便なラベルに過ぎません。

[8] この法案の問題点については、法政大学の上西充子教授が繰り返し指摘しています。例えば、「〈インタビュー/高プロ制ここが問題〉長時間労働が野放しに/上西充子法政大学教授」(機関紙連合通信社2018年5月10日)などを参照してください。

[9] 残念ながら、複数の政治家が、問題のある発言をしたのちに「意図はなかった」という何の説明にもならない「言い訳」をする状況が目につきます。

例えば、2017年11月23日、自由民主党衆議院議員の山本幸三氏は、北九州市で開かれた同党の三原朝彦衆議院議員の会合で、三原氏のアフリカ支援について「なんであんな黒いのが好きなんだ」と発言し、その後、批判を浴びて「差別の意図はなかった」と述べています。

また2013年7月29日、自由民主党の麻生太郎副総理兼財務・金融相は、ワイマール憲法下でナチスが政権を奪取したことについて「あの手口に学んだらどうか」と延べ、批判を受けて、ナチスを肯定する意図はなかったと述べています。

[10] 組織、制度や社会機構は、それに関与する人の善意や意図や配慮や・・・といったことに依存するならば失敗です。2018年8月、自由民主党の石破茂議員が内閣人事局を見直すと発言したことに対し、自由民主党の稲田朋美議員が2018年8月11日、twitter上

私は担当大臣として人事局を作った。縦割りを排し、省益ではなく国益のために邁進する霞が関への必要な改革だった。機構・定員・級別定数の人事機能を三位一体で集約。審議官以上の幹部人事も官邸がチェック。制度の成否はリーダー次第だ。

と述べていますが、「成否」が「リーダー次第」であるような「制度」は失敗している制度です。

[11] 瀬畑源『公文書問題 日本の「闇」の核心』(集英社新書)もお読みください。

[12] たぶん、ですが、森本哲郎『ことばへの旅』のどこかだったのではないかと思います。とするともう40年ほど前のことなので、紹介する内容もはなはだ曖昧ですが(とはいえ古いほど記憶が曖昧になるわけではない)。

[13] 麻生太郎財務相の引責辞任は当然で、内閣総辞職に相当します。その上で、経緯の明確化としかるべき責任の追求が(刑事責任も含めて)必要な事態ですが、麻生氏は辞任せず内閣もそのままです。

研究の世界で言うと、捏造されたデータに基づく論文が発表され、撤回されずにあたかも妥当な論文であるかのように読まれ参照され引用され続けるようなものです。科学は捏造や剽窃によっては破壊されませんが、それが妥当な科学的成果と同等のものと見なされたときに破壊されます。

不正に怒りの声を上げたとき「怒るのは変」というのは、これと同じです(原発事故後、「科学者」を自称する人たちの中に、こうした、科学を破壊する振舞いをした人たちがいました)。

[14] 文書の改竄だけでなく、不当な解釈やそれに基づく不適切な対応をゴリ押しすることでも、社会の基盤は破壊されます。安保法制のゴリ押し、山口敬之への捜査がきちんとなされないことなどは、その例です。

現在、「言葉の意味は使用によって変わる」などと文脈を制限せず脳天気に言う人たちは、社会を支える基盤としての言葉とそれが紙に書かれていることの破壊に極めて鈍感で、結果として社会基盤の破壊に加担してしまうことになります。

[15] 2018年6月、兵庫県芦屋市議会で公明党の徳田議員が「図書館の自由に関する宣言」を批判し、「蔦屋のように、人がいなくてもDVDを借りたり返したりできるようにするためにも、民営化の手法を検討するべきだ」と主張したそうです(副島圀義氏のフェイスブックから)。

図書館の軽視は、公文書の軽視と、人類の知識の記録や歴史的出来事の記録を保存し共有し確認するという、民主的な社会の原則を軽視することと結びついています。

関連してこちらもご覧いただければ幸いです。

[16] とりわけ与党議員や行政の中では、かなり憲法違反と判断できる行動が見られますが。

[17] ハラスメントの少なからぬ部分は言葉を介してなされ、しかもハラッサーは「相手のためを思ってやった」「よかれと意図してやった」などと言うことがあります。前述の長尾たかし氏のtweetも参照。

[18] 実際にやってもらえないことをきっかけに暴力に訴えることと、そのように言うときにそれが受け入れられるかどうかは受け入れられなかったときに暴力に訴えるかどうかに依存していると考えてそのように言うことは別です。


18:13 | Impressed! | Voted(3) | Comment(0) | 社会情報リテラシー講義
2018/07/20

長澤雅男先生

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2018年3月11日、長澤雅男先生が亡くなられた。

卒業論文と修士論文の指導教員は長澤先生だった(現東洋大学教授の戸田愼一さんが当時助手で、研究の手続などは戸田さんにもものすごく多くを教わった)。

1982年に先生が書かれた『情報と文献の探索』(丸善)という本がある。この本は、衝撃だった。もちろん最初からその(この「その」はあとの部分を受ける)ようなことを考えていたので図書館情報学という奇妙な研究室に行ったのだが、改めて世界の知識は有限であることをてらいなく素直にかつ具体的に示しているこの書物を見て、それでもやはり衝撃を受けたのである(あまり関係ないけれど私のパートナーは中学校でフランス語の辞書を手にしたとき「これ一冊でフランス語の世界が構成できる」と興奮したという)。

フーコーは次のように言う(アクサンはLaTeXのコードで示す)。

La question que pose l'analyse de la langue, \`a propos d'un fait de discours quelconque, est toujours: selon quelles r\`egles tel \'enonc\'e a-t-il \'et\'e construit, et par cons\'equent selon quelles r\`egles d'autres \'enonc\'es semblables pourraient-ils \^etre construits? La description du discours pose une toute autre question: comment se fait-il que tel \'enonc\'e soit apparu et nul autre \`a sa place?

英語だとまあ、こんな感じ(Kageura, 2012から):

The question that the analysis of {\it langue} raises, in the face of a certain fact of discourse, is always: from what kind of rules was this {\it \'enonc\'e} constructed, and, consequently, from what kind of rules can other {\it \'enonc\'es}, that resemble this one be constructed? The description of discourse raises a completely different question: how is it that this {\it \'enonc\'e}, and nothing else in its place, appeared?

で、まあこの差異は最も簡単には博物学的な列挙と「科学」的な規則による機序の説明というかたちで現れるのだけれど、ここで二つの決定的に重要な問題がある。

第一に、列挙は何を列挙するかがわかっていないとそれ自体重大な理論的問題を含んでいること(それがわかっている上での現実的な問題とは別に・もちろん現実的問題を軽視するわけではない)。
第二に、静的に列挙するだけではなくその様態をきちんと書こうとすると、適格性ではなく現実的存在可能性に沿ってダイナミズムを書かなくてはならないこと。

しばしば、第一番目の問題は、愚鈍な記述によってのみ突破口が開かれる。それができないと第二の問題には到達できない。

最近、図書館情報学関係の学会で、記述の発表に対し「それは何を目的としているのですか?」という質問が出ることがある。

根本的な無理解に基づく質問で、勘違いも甚だしい。それが目的なのである。もしそのような質問をする視点に自らの研究を置くのならば、そこで真面目に勝負すればよい。それは、普通には、言語処理や情報処理に足を置くことを意味する。

長澤先生の『情報と文献の探索』にはこの点をめぐり図書館情報学という奇妙な領域が担う、この世界において本質的な重要性が表出されている。

それが理解できない人と、長澤先生への気持ちを追悼の場として共有したくはない、という程度には、つまりとてもたくさん、長澤先生にはお世話になった。
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2018/06/02

「・・・について」と「・・・についてどうである」:権利の侵害について、少し

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いささか強引に言い切ってしまうと、言語表現の形式を日常生活の中で自動的にどこまで使い分け操作できるかは、単に自分を賢く見せたりするパフォーマンスとしてでなく、不当な状況に気づきそれを修正していくためにも大切です。

以下は、当たり前のことではありますが、それを侵害して平然としていたり、さらにその侵害に気づかぬままそれを流布させたりする状況があるので、改めて言葉にしておくことにしました(別に書いておこうと考えていることが二つあるのですが、それらの前に)。

* * *

竹山先生の『定理のつくりかた』を紹介した文章に書きましたが、かちっとした本を丁寧に「読む」ために、最低、以下の5層で手を動かしながら読むことを学生には勧めています。
  • 文字通り論理展開を追う(一文一文を論理式に落とすつもりで)
    • その際、各文の最初の数語をノートに書き出すとよい
    • 新情報・旧情報を意識する
    • 外延集合(疑似外延集合でもよい)を想像すること
  • キーワードを書き出す
    • 定義を言えるかどうか確認する
    • キーワード間の関係を統合的関係と系列的関係の双方から図式化する
    • キーワードを定義で置き換えて読んでみる
    • この際、索引を活用する
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について」という指示的要約を、句の形式で与える
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について何が言われているか」という報知的要約を文のかたちで与える
  • 項・節・章といったより大きなまとまりごとに構造を可視化する
    • 目次を段落単位まで詳細化してみる
    • 目次を手引きに、別の構成ができないか考える

このうち、3番目の「何について」と4番目の「何について何が言われているか」をきちんと区別することは、本を読むときだけでなく日常生活の中でもとても大切というお話し。

* * *

これを区別する習慣がないと、私たちは、3番目の評価を飛ばして4番目の「何が言われているか」の部分にのみ目が向いてしまいがちです(n=まあ二桁の大きくも小さくもないところくらい)。そのように読んでしまうと、数学の証明も教科書を追っている間はわかるように感じますが、教科書を置いて、証明を自分で再構成しようとするとよくわからなくなったりします。

数学の証明のような「むずかしい」ことだけではなく、日常生活の中でもこの区別はとても大切で、この部分を明確にすることで可視化できる権利侵害はかなり(トークンとして)あるように見受けられます。

例えば、婚約者の親に挨拶に行ったとき(一応男女の組で女性が男性の親に挨拶に行ったものとします)、婚約者の親が

結婚したあとも仕事は続けていいですよ。

と言ったとしましょう(変な例で申し訳ありません)。

この発言を「何について」の観点から評価しましょう。

パートナーの両親には、私の仕事について、結婚後だろうが結婚前だろうが口を出す権利など一切ない。

それにもかかわらずこのような発言をしてしまったのですから、この親は、他人の権利を尊重するという基本的な社会の概念を理解していないことになります。謝罪して撤回させないと、「悪意なく」、権利のないことに口を出す資格を得たと意識するともなく思い込み権利侵害を続ける恐れがあるでしょう。

ところで「何について」を飛ばして「何が言われたか」の評価をしてしまうと、もしかすると「仕事を続けてよい」という部分を取り上げて「理解のある親」と肯定的に評価してしまいかねません(このような典型的な例を改めて対象化してしかるべき文脈で出して論ずるならば「そんなことはない」と思うかもしれませんが、すぐ下で見るようにそう簡単ではありません)。

ここで重要なのは、「何について」が不適切なので、そのレベルで話を却下し撤回させ、「何が言われたか」をめぐる議論には入らないことです。

会社で上司が

Aさんは今日は暑苦しい格好をしているね。綺麗じゃないね。

と言ったとき、Aさんに味方する気持ちでAさんの同僚のBさんが

そんなことはないですよ。Aさんは涼やかですよね。

と言ってしまうならば、Bさんの「意図」(というのは言語表現の属性として検証可能な対象として扱われるものでない限り一刻も早くゴミ箱に捨てるべきものです)とは別に、上司がAさんについて言う権利のないことを口にしさらにBさんもその権利のない話題を継続することでAさんへの侵害を認めてしまうことになります。

この状況では

会社でそのようなことを話してはいけません。

というのが適切な対応になります。「何について」のレベルで評価し、不適切ですね、というので終わり。

つまらなくなる? 華やぎがなくなる? 生の充実感がなくなる? 

Aさんであれ誰であれ、別にあなたをつまらなくなくさせるために、周りを華やかにするために、あなたに生の充実感を持たせるために、仕事をしているわけではありません。とりわけ相対的に権力のある側が自分の感情の維持を部下に求めるのはモラハラです。

* * *

2018年5月10日に自民党の加藤寛治衆議院議員は、「(結婚する女性は)3人以上の子どもを産み育ててほしい。これが世のため人のためになる」と語ったことが、メディアで報じられました。

この発言に関して、あるべき対応は、単に「あなたにはそのように言う権利は何一つない」であって、それでおしまいです。

誰の発言であれ同じですが、政治家の発言である場合、権利侵害に加えて、本来政治家の任務がそれぞれの選択が楽しくできるような社会環境を整えることにあることを考えると、それをやらずに(という点の説明は省略します)権利のないことに口を出すような政治家は政治家としても失格ということになります。

ところで、東京新聞はこの発言を2018年5月11日朝刊で取り上げていますが、そこでは、発言の紹介に続いて、

子どもを産まない女性への配慮にかける発言。

と書かれています。配慮に欠ける以前にそもそもそのようなことを言う権利がないという視点は抜け落ちています(意図とか配慮とか社会においては本来どうでもいいものであるべきです。配慮がないと問題が起きるような制度は制度としては失敗です。すべて同時に赤になったり青になったりする信号のある交差点では運転者に配慮が求められますがそれは信号が信号としてまともに機能していないからです)。

加藤氏の発言に対して、そもそもそのような発言をする権利を加藤氏は有していないという確認がないがしろにされた結果、どのような状況になっているかは、長崎新聞が2018年6月1日に報じています。見出しは

加藤氏の「3人以上産み育てて」発言に肯定的意見 「人口減少を踏まえた」と自民県連女性局役員ら


というものです。

この長崎新聞の記事は、加藤氏の発言も、その話題ではなく主張に対して賛成等々意見を言うことも、そもそも不適切だという当たり前の確認はなされないまま、自民県連女性局役員らおよび関連する発言を紹介していることで、越権行為の容認を強化することに貢献してしまっています。

自民党県議の江真奈美県議が共産党の女性県議らと「結婚・出産は個人の自由。自民党の議員もいま一度考えて」と訴えたことは紹介されていますが、「結婚・出産は個人の自由。」であるからそもそも子どもを何人産むべきかといった議論そのものが妥当性に欠くという話に記事がなっていないのはとても大きな問題です。

肯定的意見であろうが否定的意見であろうが、そのような「意見」をそもそも言う権利はない、ということを確認しないと、ずるずるとこうした越権行為が看過される状態が続き、それに社会が麻痺してしまうと、モラハラを前提とした社会関係がそうと気づかれないまま蔓延してしまうことになります。

* * *

子どもを産まない女性への配慮にかける発言」という文言と権利がないこととの関係についてはもう一つ整理しておかなくてはならないことがあるのですが、長くなるのでやめます。大まかな方向性だけ、科学とのアナロジーで示しておきます。

科学は捏造によっては破壊されません。捏造がまっとうなものと同じものとされ区別されなくなると破壊されます。

直接関係ありませんが、教育は、この境界にどうしても関わってしまう微妙なものです。

* * *

ある話題について、そもそもそれが話題として提出されることの妥当性は、それに肯定的な述語を与えるか否定的な述語を与えるかとは独立に評価されなくてはならないこと、それをしないとどうなるか、どうなっているかを少し見てみました。

実は、話題の位置付けを独立して評価するときには、述語の性格を見ることが有効な場合がありますが、それについてはやはり長くなるのでここでは述べません。そのうち機会があったら扱いたいと思います。

* * *

最後に、冒頭で使った「自動的に」について一言(よりも長くなるけれど)。

あまり考えもせず何となく「1点刻みの入試の弊害」といった空疎な言葉を空疎に繰り返す人がいます。「情報リテラシー」についても「情報を主体的に読み解く」という空疎な言葉を繰り返すことで「情報リテラシー」の欠如を自ら行動で示しつつ「情報リテラシー」の重要性を主張していると思い込んでいる情報リテラシー研究者(?)が私のそう遠くない周りにも少なからずと言ってよい程度に見受けられますが(とはいえそうした人たちも一部の「現代思想」屋さんたちのように括弧付きの「哲学者」が括弧付きであることを喜んだりという絶望的な内輪の倒錯に自足するまで堕してはいないことを喜ぶべきなのではありましょう。レストランでどうにもならない料理が出てきたときにシェフが私は括弧付きの「シェフ」だからなどというのがもちろん完全に無効であって私たちのまっとうな生活はそれが無効であることに支えられているということに括弧付きの「哲学者」さんたちは思いをめぐらせるほうがよいでしょう。もちろん「ね、わかるでしょ」に自閉した仲間内のごっこ遊びを何かと勘違いしている人たちには難しいかもしれませんが)、冒頭の「自動的に」という言葉はこの「主体的に」と対立するものとして意識的に用いたものです。

「リテラシー」の原義である「読み書きの力」そしてもう少し広げて「言葉を扱う力」は、母語(と一応位置付けられる言葉)と第二言語以降の言語を対比してみればすぐさまわかるように、その到達状態においては自動的なものです(車内放送は「自動的に」わかってしまうのが「言葉を扱う力」を身につけている状態であって、「主体的に」聞き取らなくてはならないのはその欠如を意味しています)。一般に基盤を構成する力やスキルは「してしまう」ようになることが到達の状態であって、それらを「主体的に」やらなくてはならないならばそれはきちんと身についていないことの言い換えに過ぎません(主体的に歯を磨こうとか、排泄は主体的にトイレでしますとか、何に似ているかというと「週末男の料理」のようなものに似ていて、一刻も早くゴミ箱に捨てたい感じですね)。

* * *

お口直しにこちらもどうぞ。
09:34 | Impressed! | Voted(1) | Comment(0) | 社会情報リテラシー講義
2018/03/11

竹山美宏『定理のつくりかた』森北出版, 2018年3月, 2000円+税

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デカルトが疑いつつ存在する私は疑えないと言ったとき、その疑えなさは論理的に取り出されたものであって実体としての私が措定されたわけではないが、それだからこそ、その疑えなさを出発点に展開された思考の全てが今度は疑いつつある私の普遍性を論理的に支えることで、私たち一人一人の皮膚の内側とそこに維持された存在を反映した観念は相対的な権威の不当な押し付けを拒む存在であり相対的な権威の不当な押し付けを拒むべき存在であることを、完全に明らかにした。

そのはずだった。

記号における思考は、そのように展開されるはずだった。高度な科学に限らず、人間において、一般に。

人間にとってどうしても必要な存在への認識を開くために欠かせない記号における思考は、けれども、頻繁に悪用され、不当な言葉が多用され、そうした不当な言葉を用いた相対的な権威の押し付けは、しばしば個人の皮膚の内側にまで入り込み、その存在を蝕んできた。不幸にして、その状況は悪化さえしているように見受けられる。

* * *

本書『定理のつくりかた』の「まえがき」には、次のようにある。

この本の目的は、中学校程度の数学の知識を前提として
数学者はどんなふうに問題を立てたり、解いたりするのか?
という問いに対する私なりの答えをお話しして、読者のみなさんと数学の研究の疑似体験をすることです。

第一に、本書は数学の本である(版元のサイトには、「読み終えるころには、初めて見る問題でも、『数学者ならこう考える』と自然に思い浮かぶようになるでしょう」、「数学に興味のある高校生・大学生はもちろん、『数学者ってどんなふうに問題をとらえているのだろう?』と、知的な関心をもっている大人の方でも楽しめる内容になっています」とある)。第二に、本書は「体験をする」ための本である。

ここでは、第一の点を少し脇に置いておく。本書が扱っている主題は数学だが、本書は、その範囲を超えて、数学を題材として、記号において考えること、およそ考えることとはどういうことかを理解し、理解すると同時に身につける感覚を少しだけ感じ取り、その、身につける感覚を通して考えている状態と考えていると考えていることとの微妙な違いを感じ、人を考えることに向けて開いていくための優れた、そして極めて稀な手引きとなっているからである。

「まえがき」の最後の方に、次のような一節がある。

数学が、大学入試のように人間を選別するためのものではなく、本来は人々がともに生きていくことのなかから立ち上がる喜びに根差した営みであることを、改めて確認したいと思います。

少し進歩的な考えをもった人が感動しそうな一節である(なんだか偉そうだけど、私も感動しました)。けれども、ここでは感動を少し我慢しよう。本書は「数学が、大学入試のように人間を選別するためのものではなく、本来は人々がともに生きていくことのなかから立ち上がる喜びに根差した営みである」という主張に感動するためにあるのではなく、それを「確認する」ためにある。それを疑似的に「体験」しつつ。

したがって、こうした素敵な部分を観念的にではなく(少し極端な例を出すとガロアが若くして決闘で倒れたことをロマンチックに捉えて数学に憧れる、といった感じで捉えるのではなく)、「考えること」に関する極めて具体的なプロセスに関するものであると捉えることが大切になる。

なので、本書を、「本来は人々がともに生きていくことのなかから立ち上がる喜びに根差した営みであることを、改めて確認する」ことができるようなかたちで読むためには、少しだけ大切なことがある。
  • 読み飛ばさないこと。もちろん、何度も読むことを考えて最初は読み飛ばしたってよいかもしれない。細部を、一見したところ簡単なことでも、一つ一つ丁寧に確認していくこと。
  • 書かれている内容について理解するだけでなく、書かれている内容について理解するとはどういうことかを一つ一つ確認すること。
  • さらに、記号において考えるとはどういうことかという観点から本書を体験するために、記号や言葉を取り上げ、それを追ってみること。
さて、一般に、丁寧に「読む」ために、最低、以下の5層で手を動かしながら読むことを学生には勧めている。
  • 文字通り論理展開を追う(一文一文を論理式に落とすつもりで)
    • その際、各文の最初の数語をノートに書き出すとよい
    • 新情報・旧情報を意識する
    • 外延集合(疑似外延集合でもよい)を想像すること
  • キーワードを書き出す
    • 定義を言えるかどうか確認する
    • キーワード間の関係を統合的関係と系列的関係の双方から図式化する
    • キーワードを定義で置き換えて読んでみる
    • この際、索引を活用する
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について」という指示的要約を、句の形式で与える
  • 論述のまとまり(段落を目安)ごとに「何について何が言われているか」という報知的要約を文のかたちで与える
  • 項・節・章といったより大きなまとまりごとに構造を可視化する
    • 目次を段落単位まで詳細化してみる
    • 目次を手引きに、別の構成ができないか考える
さて、あとは読んでください、ぜひ、というのもあまりに無責任なので、以下では、まず目次を示して、それから、いくつかの部分や言葉を取り上げ、「体験」、それも理解するだけでなく理解するとはどういうことかを体感する体験をするための、ヒントを(というと偉そうですみません、私が楽しんだ読み方のいくつかです)示そう。

* * *

まず、目次。分量の関係で節見出しまで(読む際に目次と索引のコピーを取っておくとよいでしょう。版元が目次と索引のpdfを提供してくれるとありがたいです)。

第1部 定理をつくるための考えかた

第1章 問題の立てかた
1.1 問題をはっきりさせる
1.2 問題の読みかた
1.3 問題を書き下す
1.4 問題を立てるときの難しさ
第2章 問題を解くための考えかた
2.1 過去の経験を生かす
2.2 アイデアを得るための方法
2.3 議論の進めかた
第3章 答えの書きかた
3.1 答えを書く目的
3.2 どのように答えを書くのか
3.3 答えには何を書くのか
3.4 自分の答えを見直す
第4章 新しい問題のつくりかた
4.1 データを変える
4.2 一般化する・特殊化する
4.3 逆を考える
4.4 ほかの事項と関連づける

第2部 数学の技法

第5章 場合分け
5.1 どのようなときに使うのか
5.2 場合の分けかた
5.3 積み重ね型の場合分け
5.4 場合分けで注意すべきこと
第6章 数学的帰納法
6.1 どのようなときに使うのか
6.2 数学的帰納法の考えかた
6.3 累積帰納法
6.4 数学的帰納法を使うときの注意
第7章 対偶の利用と背理法
7.1 対偶の利用
7.2 背理法

第3部 ピックの定理をめぐって

第8章 問題を立てる
8.1 何が問題なのか
8.2 問題の主要部分を明確にする
第9章 問題を解く——公式を見つける
9.1 規則性を探る
9.2 公式を予想する
9.3 一般化する
第10章 問題を解く——証明する
10.1 簡単な場合に証明してみる
10.2 格子三角形についての証明
10.3 一般の格子三角形についての証明
第11章 答えを書く
11.1 証明を振り返る
11.2 当たり前に思えることもきちんと考え直す
11.3 議論を簡潔にする

* * *

次に、いくつかのポイントを取り上げて。


冒頭。「1.1 問題をはっきりさせる」(p. 2)の「三角形の面積について考えよう」。次のような、興味深い記述がある(引用はいずれもp. 3)。

はっきりした問題とは、ほかの人が内容を正しく理解できるように文章として書き下された問題のことである。

自分の問題を文章として紙などに書き出してみると、それが自分の問題意識をきちんと表現しているかどうか、客観的に検討できます。そして、この検討を通して、自分が何を問題としているのかを、さらにはっきりさせられるのです。

その上で、「正しい読みかたで読めるように問題を書き下せれば」、「きちんと伝わるはず」なので、というかたちで、「問題の正しい『読みかた』」に移っていく。ここで、「正しい」という言葉が使われていることに注意しよう。「主体的に情報を読み解く」という「情報リテラシー」の主張が「読み解く」とは何かを自明のものとし、それも極めて緩いレベルで自明のものとしている中、「正しい」という言葉に賭けられているものは大きい。

読み方の第一は「言葉を理解する」(pp. 4-5)。

ここで与えられている、「整数」の定義(p. 4)を、「これは知ってた」とか「改めてなるほど」と読むだけではなく、この、小さな段落に書き込まれている100文字程度の文字の列が、どのように「定義」になっているのか(これが「定義」と言えるのはどうしてで、そうすると「定義」とは何で)、私たちはそれを読んだとき何を前提としているから何が理解できるのか、それを通して定義を「きちんと理解すること」とはどのようなことかを確認しよう。


記号について。例題1.1(p. 4)には「素数p, q」というかたちでpとqが出てくる。そして、「式の意味を理解する」(pp. 5-6)には、

文字式を扱うときには、その文字が何を表しているのかを押さえておかなくてはなりません。

とある(脚注で「付録 文字式の扱いかた」への参照が出ているので、ここで息抜きに、付録を読むのもよい)。

それに従って、次々と(そんなに多くはないけれど)現れる、文字が何を表しているかに留意しつつ読んでみよう。p、q、n、a、b、α、A、B、C、β、γ。第1章の終わりまでに出てくるこれらの文字がそれぞれ何を表しているかに留意することに加え、次のことを考えてみよう。
  • それらが果たしている役割はすべて同じか、役割タイプがあるか
  • 記号ではなく単語で同様のことはできるか

第2章(別に全章を扱うわけではありません)。例題2.2あるいは例題2.6について、概念と、名付ける対象となるポイントを列挙してみよう。

ちなみに、この辺では「具体(例)」という言葉が目につく。具体例、だけでなく「具体的」という言葉が使われているところで、「具体的」ってどういうことだろうという疑問を頭において指差し確認していくのはとても楽しい。


第3章。3.1と3.2には進歩的な人なら感動せずにはいられない記述がある(私も感動しました。進歩的じゃないけど)。例えば、3.2(p. 45)。

 自分の答えが正しいかどうか、その判断を他者にゆだねるのは少し怖いことです。「あなたの答えは間違っている」と指摘されるかもしれないからです。他者の思考を予測することは誰にもできないので、どうしても不安になってしまいます。
 この不安から逃れるためなら、暴力や権威を持ち出して強制的に自分の正しさを認めさせたくなるかもしれません。しかし、そうやって他者に「あなたは正しい」と言わせても、それは口先だけではないかという疑いが残ります。意識的であれ無意識的であれ、自分が強制しているという事実からは逃れられないからです。
 よって、「自分の答えが他者によって正しいと認められた」という実感を得るためには、他者が自分の頭で検討できる自由を確保しておく必要があります。そのゆな自由がなくなったとき、数学は喜びのない形だけのものになってしまうでしょう。

ここでもまた、観念的に感動するのを少しだけ我慢しよう。以下のような言葉がこれに続く。

 他者が自分の頭で検討できる自由を守り抜くためには、他者が正しさを検討できるように答えを書くことを心掛けなければなりません。この配慮が失われてしまうと、正しさの根拠が、それぞれの個人の納得ではなく、その場の権威や大勢にすり替わっていきます。

感動すべきなのは、感動的な記述そのものではなく、本書全体を通して書かれている淡々とした具体的な手続きが、それを介して世界への理解を開いてくれる体験なのである。

もう一つ、「自分の頭」「自由」「配慮」「納得」がすべて、普遍的な「正しさ」に向かうものであることに注意しよう。「他者が正しさを検討できるように答えを書くこと」を具体的に追わなくてはならない理由はそこにある。

笑い話にもならないが「他者が自分の頭で検討できる自由を守り抜くためには、他者が正しさを検討できるように答えを書くことを心掛けなければない」と怒鳴りつけて何も感じない権威主義者はそう少なくない。明晰さは意志と自分が思い込んでいるところにではなく思考する技術の解像度に支えられる。そして意志と意志と自分が思い込んでいるものを分けるのは思考する技術の解像度を身につけ使えるかどうかである(ちょっと極端だけど)。

さらに、正しさを検討されて崩壊した主張を「アイロニー」と誤魔化すことが何か知的であるかのような風潮も、安手の「思想」の中には残っているではないか。


ざっくり飛ばす。6.3の「累積帰納法」。累積帰納法を導入する際の記述は次のようなものである。

現代数学で数学的帰納法とよばれる論法には、前節で説明したものよりも強力なバージョンがあります。

さて、ここで「強力」とはどのような意味だろう。それを確認するために、6章を最初から読み直してみよう。ついでに、「以上の議論の流れは」(p. 93)の「以上」の範囲と、それからここで「議論」と呼ばれているものが、どのような範囲の何をどのレベルで指すのかを、そうでないものとともに書き下してみよう。


第8章、図8.28(p. 127)。ページをめくる前に、この図を丁寧に見てみよう。じっくり見よう。そして色々な三角形を作って見よう。それは自然に第9章を先取りした思考を展開することになる。その上で、ページの右上を見ると「第8章 問題を立てる」とある。

私たちは「問題を立てている」のだった。

そこで、自分に(穴子を最後に注文するみたいな少し倒錯したかたちの)ご褒美をあげることにして、先を読み進めるのではなく第8章を最初から読み直してみよう。そうすると「格子点上の図形の面積について考える」という問題に「認識を広げるために言葉を使って考える」ステップが重なってくる。

それを通して、前向きに「できる」ことが、一体、足元でどのようなものに支えられているか、嬉しい驚きとともに「わかる」。「自分の言葉で」「具体的に」語ることは、共通の言葉が世界を捉える様を体験することに支えられる、ということが腑に落ちる(かもしれない)。

howを丁寧に追っていくときに触れることができ、そしてそれ以外の経路では民主的なかたちでは触れることができないwhatの体験とはどのようなものか、そのようなものが存在することとともに、気づくきっかけを提供してくれる。

* * *

総論に戻ろう。

本書を読むためには、まず、人間という存在の一番底で、記号が世界との関係を「正しく」拘束しうるという理念に、私たちが賭けることが必要となる。とはいえ、意識はしなくてもよい。時間を取って、丁寧に、書かれている内容について理解すると同時に書かれている内容について理解するとはどういうことかを一つ一つ確認しながら本書を読めば、要所要所で確認や息抜きのために立ち止まったとき、そして本書を読み終えて振り返ったときに、自分が記号が世界との関係を正しく拘束しうるという理念に当たり前に賭けていたことに気づくだろう。

何よりも幸せな体験である。

本書が扱っている主題は数学だが、本書は、その範囲を超えて、数学を題材として、記号において考えること、およそ考えることとはどういうことかを理解し、理解すると同時に身につける感覚を少しだけ感じ取り、その、身につける感覚を通して考えている状態と考えていると考えていることとの微妙な違いを感じ、人を考えることに向けて開いていくための優れた手引きとなっている。

私は大学に所属しているし新入学の季節でもあるので、特に大学の新入生に、文理を問わず読んで欲しいとまず思うが(最初に読むべき本の1冊として推薦する)、高校のグループ読書の教材としても、企業の社員教育にも----モデレータが必要かもしれないが----使えると思う。

と、ここで能天気に話を閉じることができればいいのだけれど、悲しいことにそうはいかない。ここではあえていささか変則的に、本書がテーマとしている数学の部分はあまり表に出さないように書いてきた。けれども、冒頭で述べたように本書はあくまで数学の本であり、まず第一に数学ができるようになるために必要な考え方を提供するものであり、したがって、本来、数学を考えるための一つのステップとして読まれるべきものである。

それにもかかわらず、ここでは、記号において考えること、およそ考えることとはどういうことかを理解し、理解すると同時に身につける感覚を少しだけ感じ取り、その、身につける感覚を通して考えている状態と考えていると考えていることとの微妙な違いを感じ、人を考えることに向けて開いていくためのなかなか得難い良質の手引きとして、そのような役割を担うことを標榜した、あるいはタイトルに『勉強の・・・』とか『情報リテラシーと・・・』とか『論理的・・・』とか『批判的・・・』といったそれらしいキーワードを含む、数学を題材としない図書がそれなりにあるにも拘らず(困ったことにそれらの多くは読み捨て型の消費本で再読に値しないのだけれど基盤習得のための再読型っぽい装丁だったりする)、本書を取り上げた。それは、それなりに目をとおしたこれらの本のほとんどが、とりわけ2011年の東京電力福島第一原発後、そして振り返って見ればその遥か前から、存在を認識するための基盤として記号が維持しなくてはならない条件がかなりの程度維持されていなかったことが明確になっていたにも拘らず、依然としてそれに対する危機感などほとんどもたずに、あたかもその条件が成立しているかのような幻想のもとで「ね、わかるでしょ」というもたれあいに依拠しつつ条件の崩壊に拍車をかけることにしか貢献していないためである。

真実は勝利しない。真実は、すべてが消滅した後に残るものなのである。
(チェコスロバキア「プラハの春」の1968年6月28日『二千語宣言』から)

この、冷たく硬い言葉は、圧倒的に正しい。それにも拘らず、というよりもそれだからこそ、私たちは、社会を可能な限り真実と齟齬のないものにしようと努め、存在に触れる認識を得ようとする。そして、冷静に認めなくてはならないが、その中で、記号においてのみ可能になる領域は極めて大きい。

その記号が、意図的なあるいは「言葉の意味は使用によって変わる」といった(現象の領域においては正しくなくもない)発言を含む意図しない悪用により、存在に触れる認識を可能にする機能を失いつつあるときに、私たちは、本書で真実に向かうためのステップとして硬く用いられる、意図や理解を先取りしてわかられるものではなくそれによって理解が可能となるようなものとして与えられた、pやq、aやbやαといった硬い記号、定義を与えることができるとともに記号によって操作可能な概念を明示してくれる記号表現が、数学の領域においてだけではなく記号において考えること一般について、その条件がどのようなものであるかを示してくれていることに、心から感謝しなくてはならない(この文章を読んで下さった方々が、ここで使った「ならない」を相対的なものと受け取らないことを願います)。

すべてが消滅する前に、人類が数学という認識の手法を有していたことに、そして数学を介して竹山氏が本書で記号における普遍的思考を救済する道筋を提示してくれていることに、私は心から感謝する。


2018年3月11日
東京電力福島第一原発事故が8年目に入る日に
公文書改竄をめぐる状況に注意を奪われつつ
影浦 峡


19:57 | Impressed! | Voted(3) | Comment(1) | 社会情報リテラシー講義
2018/02/04

新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社, 2018年.

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教育に従事する人、教育政策や教育研究に従事する人、AI研究、言語処理研究に従事する人、政策を決める役割を担う人、小中学生の子どもを持つ親、民主的な社会で社会的・政治的・経済的な活動に参加する人、つまりすべての人に。

本書は、対象化されたテーマをめぐる明示的な議論を前向きに追うというかたちで読み、暫定的に自分を世界の外において、その議論を理解することを「読むこと」と規定するならば、読みやすい。けれども、本書には、そのような読み方をするだけでは読み落としてしまう、大切なことが含まれている。非常に大雑把に言うと、それは私たちが私たちについてわかっていないことに謙虚になったときに初めて見えてくるわかっていること(あるいはわかっていなさ)をめぐるもので、「意識さえせずにwhatは分かっているという前提でhowを論ずるときに事態はどのようになるか」をめぐるものと言える。この部分は、「意識さえせずにwhatは分かっているという前提でhowを論ずる」ように読まれると、読み落されがちになる。

もう一つ、もしかすると本書を読むことを難しくしているいささか外的な要因があるかもしれない。ある分野の研究に関係する人に向けてではなく広い範囲の読者に向けて、一応のところ制度的に研究に従事するとされている人が書いた本は、大きく2種類にわけられる。一つは、夢とロマンの本。もう一つは、勇気の本[1]。関連して、基盤の存在を自明としてその上で前向きのパフォーマンスを展開するものと、基盤の理解と共有を試みるもの。本書はいずれの分類でも後者に属するけれど、前者と後者の区別、そしてそれと相関の高い、非科学的・非論理的な概念の曖昧さや緩さと論理的な解像度の操作との区別は、しばしばつけにくい。特に、緩さを抽象性と深さであるかのように装った思想系や社会科学系の著作が「ね、わかるでしょ」という内輪のコミュニティに支えられ跋扈している状況では。

さて、それを「読める」かどうかは、テーマとの近さやテーマに関する専門性とは必ずしも相関がなさそうである。むしろ、教育に従事する人の中で積極的に発言してきた人、教育政策や教育研究に従事する人、AI研究、言語処理研究に従事する人の中には、それが故にその部分を読み落としてしまうこともあるかもしれないので(杞憂かもしれないけど)[2]、そのことを意識して二つの点について簡単に書いておく(そうした人たちのやっていることを貶める意図はまったくない)。内容紹介ではないし、断片的・変則的になる。


まず、「いかにして」と「何を」の境界と関係について。次のところ(これは多分特に教育学者や社会科学系の人たちが注意した方がよいのではと勝手に思っている)。

この本に書かれていることは、画像にも動画にもできません。キーワードを拾ってもわかりません。速読もできません。・・・一文一文を読んで、意味を受け止め、今私がお伝えしたいことをご理解していただく以外に方法はありません。(p. 138)

何を「読む」のか、「意味」はどうするのか、何を「理解」するのか。第2章に書かれたこの部分は、第3章で展開されるテーマを運用として先取りしている。

第3章から、関連するところ(他にもあるけれど)。

 私が最近、最も憂慮しているのは、ドリルをデジタル化して、項目反応理論を用いることで「それぞれの子どもにあったドリルをAIが提供します!」と宣伝する塾が登場していることです。こんな能力を子どもたちに重点的に身につけさせるほど無意味なことはありません。問題を読まずにドリルをこなす能力が、最もAIに代替えされやすいからです。
 小学生のうちからデジタルドリルに励んで、「勉強した気分」になり、テストでいい点数を取ってしまうと、それが成功体験となってしまって、読解力が不足していることに気づきにくくなります。・・・(p. 230)

 ・・・教えてもらうだけではなくて、自分でテーマを決めたり自分で調べたりして学習したり、グループで話しあったり議論したり、ボランティアや職業体験に参加したりというのがアクティブ・ラーニングだということです。(p. 235)

勉強することと勉強した気分になること、わかることとわかった気分になること、考えることと考えた気分になること、読むことと読んだ気分になること・・・(空疎な「主体性」信仰と自己責任論は、親和性が高い)。「求められるのは意味を理解する人材」(p. 232--)といったところを「読む」ためにも。


次に、「何を」をめぐる無知について。本書には「科学の限界に謙虚であること」というタイトルの節がある。別のところを、いくつか断片的になるけれど、紹介する。これは教育学関係者だけでなくAIや言語処理関係者にも。その中には、ちょっと「意地悪」で民主的な観点からはそのままでは辛いところもある。それに正直になってそれと向き合わないと考える力は民主的に共有できない、というのが「勇気」と関係するところなので、それを夢やロマンを語りつつ無意識にマウンティングの振舞いをするものと同じように「読んで」しまわないことが大切になる。

そもそも、「人間の能力を超える」ということがどういうことなのか、よくわかりません。(p. 17)

けれども、AIに「いい感じに政治をしてくれ」と頼むなら、最低限、何が「いい感じ」なのかを数理モデルにして伝える必要があります。(p. 36-7)(「数理モデルにして」以上に大切なのは「何が『いい感じ』なのかを」)

自然言語処理では、そもそも何を計算すればよいのかわからないような問題が山積みです。(p. 83)([3]、また注[2]も参照)

あなたの会社にとって有用なのは成功の情報だけでしょうか。どれだけ投資してもディープラーニングはうまくいかない、という情報こそが今まさに喉から手が出るほど必要なのではありませんか。(p. 105)(レベルは違うけれど)

単に、超越数を発見するための数学の言葉が圧倒的に足りてないのだと思われます。(p. 118)[4]

言語化し数値化し測定し数理モデル化するということは、つまり「無理にかたづける」ことなのです。かたづける腕力を持つのと同時に、そこで豊かさが失われることの痛みを知っている人だけが、一流の科学者や、技術者たりうるのだと思います。(p. 157)[5]


みすずから出ていて5000円なら精読する価値があるとか、東洋経済新報社から出ていて1500円なら気軽に読み捨てとか、三島由紀夫っぽいことは言えない(もちろん経済的には後者の方が気楽だけど)。きちんと読もう、というとハードルが高くなるけれど、「一文一文を読んで、意味を受け止め」るとはどういうことかを意識し実践しながら読もう。そのように読むなら、その上で本書で述べられていることに同意したり反論したりする行為は、自分がその中にいる世界について、自分だけは外に出ることができるという無意識の傲慢さを排除した上で、けれども世界の存在に触れつつ普遍に向けた議論をするという理念に則ったものになる。そのとき、本書に示されている勇気を、(もしこれまでそうでなければ)少しだけ、自分も共有できる、かもしれない[6]。

誠実でないものは中身を誠実に受け止めることはできないので、誠実に誠実でないと評価するしかない。誠実であるものを誠実に受け止めることができるわけでは必ずしもないけれど、誠実に受け止めれば誠実であるものの中にある貴重なものに触れることができる。とはいえ、ここでも誠実であることは誠実な気分になることと区別されなくてはならない。

というわけで、読みましょう。



[1] もう一つ、ここでは扱わないけれど、例えば物理学の研究をしその成果を発表することと、研究について語ることは異なる。後者で、純粋に研究について語ることは難しいしそれを意識してしまいその技術があるならばそれをするためには勇気がいる。さらにその上で、純粋に研究についてだけではなくその位置付けについて、社会的な機能について語るためにはそれに対応した誠実さが必要となる。それを意識しないならば(その場合ほとんど純粋に研究について語る技術は持ち得ない)夢とロマンになりがちである。湯川秀樹さんも朝永振一郎さんも、そうしたことをよくわかていたのだろうと思う。本書から:「なぜ、数十年前に卒業した中学校の記憶と、自分の半径5メートル以内にいる優秀な人たちの印象に基づいて、こんな『餅』の絵を描いてしまったのでしょうか」(p. 239)。まったく関係ないけど、私のパートナーは最初「絵に描いた餅」を「like ... in a painting」のように理解していて、なんだか素晴らしい餅みたいに思っていたので、今でもまず自動的にそう思い、その上で意識的に変換するという。そういうことは色々なレベルで結構あって、私は"intriguing"と聞くとまずネガティヴな印象を持ってしまうし、「便宜」「叢書」はそれぞれまず「べんせん」「ぎょうしょ」と頭の中で読む。「山田美妙」はまず「やまだびしょう」と読む。考えすぎるとだんだんどっちがどっちかわからなくなってくる。

[2] 丁寧で誠実にNLの研究をしている人が東ロボについて「場当たり的な手法をいくら積んでも読解力がつかないのは最初から自明だし、かと言って地道に基礎研究の積み重ねをしているようには見えない」と述べたことがあるので、杞憂ではない気もする。

[3] これは「認知言語学」等、人間の言語に「おける」思考を扱うと称する領域が抱える問題である。問題は、気づかれていて解かれていない、のではなくむしろ、気づかれていないこと。あるいは問題は、ここには論理的な困難が含まれているにもかかわらず、論理的な困難が含まれていることに気づくことも論理的に困難であるために(実はこの部分は厳密ではないけれど)そこに気づかれないこと。

[4] 思考に対して数学基礎論のようなことを行なったのが数学においてだけだということ(あるいはそう理解されるほどに数学基礎論に対応する他の領域のものが見落とされていること)は、不幸なことだと思う。

[5] この部分は、困難が多い。めげずに、例えば「現場の先生たちの危機感」(p. 240--)と関連づけて読んでみよう。

[6] 自分の「業界」との関係で。「情報リテラシー」と言っている大学の関係者の方々、図書館の「調べ学習」と言っている方々には、ぜひ、本書を丁寧に読んでほしいと思います。「情報リテラシー」や「調べ学習」が「B29に竹槍」と同じことになる危機を回避するためにはどのようなことが必要か、対象化された知識をめぐる空疎な議論ではなくそのような議論をする自分も含めて診断のきっかけに、うまくすると、なるでしょう。


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2017/06/20

低強度災害と原発事故・原発を扱ったいくつかの作品

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東京電力福島第一原発事故は7年目に入った(最初の年を1年目とする)。妥当な表現はこのようになるのであって、「東京電力福島第一原発事故から6年以上が経った」とはならない。

原発事故そして原発災害は今も続いている。

言葉を当てはめたとき、それが存在に対応しているものであっても、その言葉に接する側が持っている解釈の体系に吸収され「わかられる」ことで、存在が失われることがある。とても頻繁にある。

それにもかかわらず、ここで6年以上続いている東京電力福島第一原発事故と放射能汚染災害に「低強度災害」という言葉を与えよう。

この言葉のもとにあった低強度紛争(low-intensity warfare)と同様、「低強度」であることは、事故と災害の規模が小さいことを意味はしない(ニカラグアをはじめ中米でアメリカ合衆国が加えた低強度攻撃は膨大な人権侵害を引き起こし犠牲を生んだ)。

低強度災害のもとで生きるためには、一方で、日常的な生活を維持し送りつつ、他方で災害を日常化し忘却しないことが必要になる。日常的な生活を送れないと被害はさらに拡大するし、災害を忘却すると被害を強いられる状況は恒常化される。

ここで、いくつかの作品を紹介しよう。

壷井明さんの『連作 祭壇画 無主物』
http://dennou.velvet.jp/index.html

丹下紘希さんの『トーキョーミラクルラブストーリー
(同じサイトで丹下さんのビデオ作品を他にもいくつか見ることができます。)

ハッピーアイランドネットワークの『U235の少年たち』
Trailer 1
Trailer 2

少し捉えにくいけれど、おしどりマコ・ケンさんが連綿と続けている取材と報道


低強度災害という言葉で表される事態は「わかられる」ものではなく、それを前に私たちが立ち止まることを強いられるものとして、すぐここにある。

ここで紹介した作品は、そのために(も)ある。作品そのものに表現されているのだから改めて「わかられる」ことを促す危険を犯して低強度災害などという言葉を導入する必要はない、かもしれない(実は、ずっとそう考えていた)。

昨日、知り合いと二人でこれらの作品をPC上で見直していて(とはいえ、本来のスケールでではない)、これらの作品は見かけ上の肌触りが異なるために(また、別途、ここでは述べない背景もあって)、わかられ、略奪される危険を犯しても、言葉をあてたほうがよいのではないかという結論に至ったため、書いておく。

低強度災害は、「ゆでがえる」という言葉で表されているものと同じではないか、という指摘はありうるだろう。まさにそのようなかたちで「わかられる」ものとしてではなく、低強度災害という言葉が表している存在を前に立ち止まってしまいそれに触れてしまう可能性を開くために、上で引いた作品はある。重要なのは低強度災害という事態で現在の状況をわかることではない。それが表している事態に、その中に私たちがいるものとして、触れること。忘れるのではなく、忘れないと言うことにより忘れるのでもなく。




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2017/03/11

「あれから5年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
昨年3月の『現代思想』に掲載された記事です。長さの関係から2つに分けます。『現代思想』への寄稿時に、ネット上で公開する可能性があることは、編集者に伝え、了解を得ています。

1年経って、事故の状況は基本的に変わっていないものの、安倍晋三氏が「節目越えた」と述べ会見をやめ、住宅支援打ち切りと帰還が進められるなど、現実をごまかしながらの「平常化」は一層進んでいますが、基本的な状況は変わっていないので(とはいえ避難者や悪性疑いの方の数のようにある程度具体的なことがらには変化があります)、このまま公開します。


1. 2016年 東電福島第一原発事故

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故から、2016年3月で5年が経とうとしている。

 メディアなどでしばしば見られるこのような表現は、東京電力福島第一原発事故は今まさにこの瞬間も進行中なのだから、通常の日本語の解釈では誤りである[1]。2011年3月に放出された放射性物質の量は大気への放出だけで推定90万テラベクレルにおよび[2]、現在も平時とは比較にならない量の放射性物質が放出され続け[3]、事故初期に大量にばら撒かれた放射性物質の除染は十分には進まないまま[4]、広い範囲に拡散した放射性物質は放射線を出し続けている。

 避難者は依然として10万人近くおり[5]、福島県に限定された「県民健康調査」が2015年11月30日に出した甲状腺検査の結果は先行検査ベースで推定される悪性率の2.8倍となっていながら[6]、対応は進んでいない。また、福島県以外では汚染の激しい地域についてさえ体系的な健康調査はなされないまま現在に至っている。被曝量の評価そして健康対策の観点から極めて重要な初期被曝については曖昧にされたままである[7]。

 国会事故調が「この事故が『人災』であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」と指摘し、「今回の事故は、これまで何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局及び東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られ ないまま 3.11を迎えたことで発生したものであった」と述べているにもかかわらず[8]、事故そのものの責任はほとんど問われないまま[9]、全電源喪失の危険を指摘されながら対策を取る必要はないとして東京電力福島第一原発事故を引き起こすことにつながる安全対策の欠如を支えた人物が[10]再び首相の座に戻って以前と変わらぬ無策を放置したまま原発の再稼働を推進している。

 そしてそうした責任を問わないまま、また事故の解明もしないまま、事故が引き起こした膨大な損失を無視して「原発停止は国の損失」といった発言が政財界からなされ[11]、原発を称揚したり放射線の健康影響を矮小化する一部「専門家」の発言やメディアの報道も続いている[12]。

 したがって、2016年3月を「事故から5年」として「事故」を振り返り、振り返る振舞い自体によって「事故」を過去のものとする「年に一度のイベント」[13]に同調するわけにはいかないが、いずれにせよ多くの人が「事故から5年」を語ることが想定されるのであれば、それを契機に、現在進行中の事態を5年前の出発点に立ち戻りつつ捉え直すことで明確になるものもあろう。ここでは、この5年間、とりわけ2014年から政府が大規模に展開し現在も続けている「リスクコミュニケーション」を改めて追い直し[14]、現在私たちが置かれている状況を確認することとしたい。


2. 「専門家」と東電福島第一原発事故・汚染・被曝

 原発事故後、原子力や放射性物質に関係する「専門家」の反応は大きく三つに分かれた。すなわち、発言しないで距離を置く、自分が有している(と考えた)「科学的」知識を持ち出して事故およびその影響を解釈しようとする、科学的知識と専門的技術を活用して事故の状態と事故が引き起こした状況を把握しようとする、である。メディア等を通して最も目立ったのは二番目の反応であった[15]。

 二番目の反応に属する「専門家」の発言は、発言者の誠実さいかんに拘らず、かなりの程度、事故と事故が引き起こした状況を見誤った。典型的なものをいくつか挙げておこう。

・東電福島第一原発・原子炉の状況について

【1】「爆破弁というものがあるんですが、そのようなものを作動させて一気に圧力を抜いた、そのようなことともありうるのかと」(2011年3月12日、東京大学教授関村直人氏のNHKでの発言)

【2】「メルトダウンじゃないだす」(2011年3月12日、大阪大学教授菊池誠氏のtwitter上の発言)[16]

・環境・食品等の汚染状況について

【3】「測定点近傍にある天然石や地質などの影響で、平時でも放射線量率が若干高めになっている所があります」(2011年5月21日時点での「東京大学環境放射線情報 環境放射線情報に関するQ&A」。東京大学柏キャンパスの線量が高いことへの回答の第一行)[17]

【4】「海の魚っていうのはもともと海草なんかを食べて、いわゆるヨウ素がたっぷりあるんです。体の中に。ですから、新たにですね、放射性ヨウ素が出てきても、それをですね、体の中に取り込みにくいですね。基本的にはですね、安心して食べていただいて問題ありません。」(2011年3月28日、東京大学病院准教授中川恵一氏の日本テレビNEWS24での発言)

 爆発は水素爆発であり、メルトダウンは起きており、柏キャンパスの線量が高いのは圧倒的に福島第一原発事故に起因する放射性物質の影響であり、コウナゴから基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたことから、これらの発言が誤っていたことは既に事実に照らして明らかになっている。ところで、原発事故後現在まで「専門家」と称する人たちがかなり頻繁に誤った発言をしてきたとしても、また、「爆破弁」という存在しないものを専門家が誤って持ち出すことは考えにくいにせよ、専門家や研究者が誤ること自体はさほど希なことでもない。

 重要なのは、むしろ誤り方である。これらの誤りは、既往の一般化された「科学的」知識(であるとその「専門家」が考えたもの)をほとんどアプリオリな正解として持ち出し、それに従えば事故は「このようにあるべき」であるというかたちで状況を解釈しようとしたことから来ている[18]。この形式の思考は、仮に持ち出された知見が科学的に妥当なものだったとしても[19]、事故を前にほぼ必然的に誤る。というのも、事故が事故として認識され問題化されるのは、まさにそれが定常的な状況から逸脱した出来事であるからであり、そこで科学や専門性に要請されるのは「まさにその事故」の状況を明らかにすることだからである[20]。さらに、この形式の誤り方は、事故の現実を前に補正されるかわりに、事故を「まさにその事故」として問題とする人々、すなわち事故に対して妥当な認識力を有する人々への批判に向かった。

 自ら「科学者」を称する人による次の発言(【5】としよう)はこれを典型的に示している。

 放射能については、怖がるだけじゃなく、もっと「知る」ことが重要です。もちろん放射能は怖いものではありますが、そもそも我々は自然放射線をかなり浴びながら暮らしているわけで、皆さんが日々暮らしている地面からも放射線は出ています。さまざまな食品にも放射性物質はごくわずかですが含まれています。太陽光からはもっと強力な宇宙線がやってきています。人類は太古の昔から、さまざまな放射線とともに生きてきたのです。
 今の一部の人たちは放射能を極度に怖がりながらも、レントゲンや飛行機など通常の生活より多量の放射線を浴びる行為は平気でしています。放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります。
 なぜ、そうなってしまうのか? それは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ということがちゃんと教育されてこなかった、ということが背後にあるのではないでしょうか?
 原子力や放射能についての過度な恐怖はその典型です。科学や技術に対する信頼のみならず、論理的に考えるという姿勢が欠けている。
 ・・・・・・
 科学者の1人として、私もその一助となる活動をしていきたいと思っています。[21]

 【5】の筋は、次のように(多少の補間もしつつ)要約できる。

(1) 放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない。
(2) 人は(原発事故がもたらした)放射線を恐がりながら自然放射線は気にせずまたレントゲンも平気で受ける。
(3) (1)に鑑みると(2)の行動は一貫していない。
(4) このような一貫しない行動は、人が恐怖のあまり「考える」ことを放棄することからくる。
(5) 「考える」ことを放棄するのは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ことが教育されてこなかったからである。
(6) 従って科学的な教育を人に施す必要がある。
(7) 科学者の一人として、自分も(6)に貢献したい。

 まず誤り方を確認しよう。

(a) 原発事故後の問題を把握できていない。

 【5】の議論は、人々が問題にしているのは「放射線そのもの」であると決めつけない限り成立しない[22]。しかしながら、人々が問題にしているのは「まさにその事故」であり、絶対安全だと言われていた原発が爆発し大量に放出された放射性物質がどこにどのくらいあるのかも十分には明らかにされず管理もされないまま存在し被曝を強いていることであり、さらにそれに対して責任を負う東電や行政が十分な対応をせずに(あるいはできずに)いる状況である。その状況に対して「XXXそのもの」に「科学的」に差異がない、という議論が有効であると考えるのは、道路脇のビルの五階の窓から撒かれた水で濡れて怒っている通行人に水の専門家が「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません」と言うことが有効だと考えるのと同じで、単に問題を把握できていないだけである。

(b) 被曝の影響に関する科学的知見を前提とした論理的な議論ができていない。

 現在、放射線被曝の影響に関して最も有力な科学的知見は、放射線による健康への影響(発がん)に閾値はなく、線量に比例して発症の確率は増え、かつ発症した場合に重篤度の違いはない、というものである[23]。この知見は、社会的な基準を定めるための前提ともなっている。原発事故後、しばしば100 mSv以下では影響がないかのような発言を専門家が行い、そうした報道もなされたが、それらは科学的に不適切なのである[24]。

 標準的な科学的知見を前提とし、健康を害するリスクは可能な範囲で最小限に抑えるという当然の基準に従うならば、(i) いずれにせよ避けられない自然放射線による被曝及び(ii) 生活上必要と自ら判断して行う行動で受ける追加的な被曝を人々がしているから、それ以上の被曝は避けた方がよい、とりわけ他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝は受け入れない、というのが妥当な判断であり、(i)と(ii)が避けられないなら他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝も受け入れるべきだとするのは非論理的である。ビールを十分飲んだから支払いをして帰ろうとしていたAさんの前に現れたBさんがAさんにさらに無理矢理ビールを飲ませようとしてAさんが拒否している状況に対しAさんは既に十分ビールを飲んでいるのだからBさんが強制するビールを拒否するのはおかしいと言うならば、その発言は論理的でも科学的でもない。仮に強制がなかったとしても、こうした主張は論理的ではない。仮にそうした議論が(自称)「科学者」によりなされるとしてもこの点は変わらない(話者の属性に依存して変わるならばそもそも論理性や科学性ではない)。

(c) 事故の問題を事故を問題視する人の問題にすり替える。

 問題を把握し損ねた上で、こうした議論は人の批判へと向かう。【5】のまとめ(1)-(6)は、【5】の主題が「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない」という枠組み以外で状況を認識する人たちであり、内容がそうした人々への批判であることを示している[25]。このような発言がいかなる機能を持つかを確認するために、【5】における「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります」という記述について、喩えをさらに展開してみよう。

「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません。この点、怒りのあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

「ビールそのものに、Aさんの自己判断由来かBさんの押し付け由来かの差異はありません。この点、酔ったあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

 いわゆる「二次的加害」と呼ばれる行為にとても近いことがわかるだろう[26]。

 紙幅の都合からこれ以上紹介できないが、原発事故後から現在まで、次のパターン、すなわち、(1) 科学的と称しながら「これまでの科学的知見に基づけば」という規範的な観点から状況を解釈しようとして、本来ならば科学的な知識を活用できる点においても誤り、(2) しかもしばしばその「科学的知見」自体が当該主題に関する科学的知見の現状からは不適切で、(3) そうした誤りと問題点把握の失敗を補正することなしに、自分の考えを共有しない人を問題化する[27]、というパターンに従った発言は「専門家」「科学者」を称する人々により数多くなされてきた[28]。

 さらにこうした「専門家」「科学者」の発言は(当然のことながら)、(4) 自分が批判の対象とした人々の発言内容そのものは検討の対象とせず(だからこそ「人」を批判する)、(6) 議論の内容においてではなく自分が「専門家」「科学者」であることに訴えることで議論の正当性を支えようとする[29]、というかたちを取ることになる。



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