研究ブログ

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西村玲氏と『西村玲遺稿拾遺』

執筆公表の背景

2016年2月2日、日本思想史研究者の西村玲氏が急逝した。
享年43。
私を含めた多くの人たちは突然の訃報に驚き悲しみつつも、当初公表された多臓器不全という死因を信じた。
疑うべき理由も見当たらなかった。

西村氏は生前、著書『近世仏教思想の独創――僧侶普寂の思想と実践――』(2008、トランスビュー)を刊行していた。
そして三回忌を前にした2018年1月、西村玲氏論文集刊行委員会により遺稿集『近世仏教論』(法蔵館)が刊行された。
私は同書を西村氏の両親から郵便で贈られた。

翌年、没後3年を前にした2019年1月25日付で、西村氏の両親は『西村玲遺稿拾遺――一九七二~二〇一六――』(私家版、以下『遺稿拾遺』と略す)を刊行した。
私はやはり郵便で贈られた同書を読み、西村氏の死が自殺だったことをはじめて知った。
その書影と数頁を撮影してTwitterに掲載すると大きな反響があり、朝日新聞記者の小宮山亮磨氏の目にも留まった。
2か月半後の4月10日付で、西村氏の両親などに取材した小宮山氏の記事2本が朝日新聞デジタルに掲載され、より大きな反響があった。

すると、西村氏の日本学術振興会特別研究員SPD時代の受け入れ研究者であった末木文美士氏は、9日後の19日付で『bunmaoのブログ』に記事「朝日新聞小宮山亮磨氏の記事に関する私見」を掲載し、小宮山氏の記事に抗議した。
これを読んだ私は21日、末木氏にメールで「若手などがあのブログ記事を読んでどう感じるかをお考えください」と伝えた。
末木氏からの返信などを容認できなかった私は23日、メールで絶交する旨を伝えた。

その後も末木氏は、月に1度くらいの頻度でブログに記事を掲載していった。
読んで同意できるような記事はなかったが、私はすでに末木氏と絶交しており、また西村氏の遺族でも抗議されている小宮山氏でもなかったので、異を唱えるべきでないと思っていた。

末木氏は11月4日付の記事「なぜフェイク記事が書かれたのか?」で、

『遺稿拾遺』はあくまでも関係者の間だけに配布されたものでしたが、それが広く伝わったのは、同書を受け取られた方の一人M氏がツイッターで書いたことによります。

と述べ、実名を伏せつつもはじめて私に言及した。
ただしこの記事では、小宮山氏の記事には問題があるもののM氏のTwitter掲載はそうでない、とも解釈できるような論調だった。
そのため、やはり私が異を唱えるべきでないと思っていた。

だが末木氏は昨月、1月8日付の記事「プライバシーはどこまで公共化してよいか」で、小宮山氏の記事は「決して不特定多数に公にされていいものでは」ない事実を不特定多数に公にしており、「私は許されないと考えます」「死者を侮辱するものです」と非難した。
この記事で末木氏は「M氏」こと私に言及していないが、もし小宮山氏の記事が秘匿されるべき事実を暴露しており西村氏を侮辱しているのであれば、西村氏の最晩年と最期が分かる画像数枚をTwitterに掲載した私も同罪だということになろう。

私に、異を唱える資格と必要が生じた。

私と西村玲氏

そもそも私と西村玲氏は、ともに東北大学日本思想史研究室出身の日本思想史研究者だった。
ただし、西村氏は2004年3月に同大学院博士課程を修了して東京の実家に戻り、私は2006年4月に早稲田大学から東北大学大学院博士課程前期に進学したため、仙台での接点は全くなかった。
日本思想史学会の大会などでも知り合う機会はなかった。

最初に接点が生まれたのは2011年の秋、私が某所で「興福寺奏状」について研究発表した頃だった。
この奏状は少なくとも大部分が解脱房貞慶により起草されたものであり、大学院で当初貞慶などを研究していた西村氏は私の研究発表に興味を持った。
人を介して問い合わせてきたのでメールで少し遣り取りすると、私の説を面白がってくれた。
そして同年12月23日、西村氏は名古屋大学で開催された研究集会「宗論というテクスト」で研究発表「17世紀東アジア仏教のキリスト教批判」を行い、この研究集会に参加していた私は同夜の懇親会で西村氏に挨拶した。
最初で最後となった会話は、5分か10分くらいの短いものだったように記憶している。

その後、私が拙稿の抜き刷りや拙著の献本を郵送すると、西村氏はいつも叮嚀な返事を呉れた。
ただ、2015年10月末に抜き刷り3本を郵送した時は返信がなく、翌年2月上旬に訃報が伝わってきた。

率直に言って、私にとって西村氏は特別な研究者でなかった。
だから私は西村氏の両親に弔問も弔電もしなかった。
2016年12月23日に東京大学で開催されたシンポジウム「近世日本仏教思想研究の過去と現在――西村玲氏追悼研究集会――」には参加したものの、同日公表された遺稿集刊行の企画には関与しなかった。
論文集刊行委員会から寄付を呼び掛ける一斉送信メールが届いても、応じなかった。

しかし2018年1月に遺稿集『近世仏教論』が刊行されると、何故か献本が、前述のように西村氏の両親から郵便で贈られた。
私は非礼にも、西村氏の両親に礼状などを返さなかった。
黙殺したと言ってもよい。
しかし翌年1月に『遺稿拾遺』が刊行されると、何故かこれも献本が西村氏の両親から郵便で贈られた。
西村氏の両親から私へのこれら厚意の意味は、今も理解できずにいる。

事情とは何か

末木氏は記事「プライバシーはどこまで公共化してよいか」でこう述べた(一部前引)。

遺族も、〔娘である西村玲氏の…引用者註〕死に至る事情はあくまでも自費出版という形で、事情の分かる方にだけ公開しました。それは、決して不特定多数に公にされていいものではありません。

何かを説明しているようでいて、何の説明にもなっていない文章である。
私家版として刊行された『遺稿拾遺』を贈られた者が分かっていた事情とは、何なのか。

末木氏はこの2か月前の記事「なぜフェイク記事が書かれたのか?」で、こうも述べていた。

遺稿となった論文を集めた『近世仏教論』が2018年2月に法藏館から出版されました。〔…〕なお、その出版費用の一部は、友人たちが結成した「西村玲氏論文集刊行委員会」で募金し、それに多くの方が賛同して、ご寄付くださいました。その時に、氏のお父様から、そこに入らないものを別の形で出せないか、という相談を受け、自費出版という形がよいのではないか、という意見を述べました。その後、その本はご両親の編集で『西村玲遺稿拾遺』として2019年1月29日付で私家版として出版されました。〔…〕この本をどの範囲の方にお送りしたかは存じませんが、論文集出版の際にご寄付くださった方にはすべて配布されたようです。この『遺稿拾遺』の中で、初めてご両親は玲氏が自死であったことを明らかにして、彼女の最後の頃の日記をも併せて収録しています。

末木氏によれば、遺稿集『近世仏教論』刊行費用の募金に応じた者すべてに『遺稿拾遺』が贈られたという。
これは、両親は西村氏の「死に至る事情」を「自費出版という形で、事情の分かる方にだけ公開しました」という説明と矛盾する。

西村氏の生前唯一の著書となった『近世仏教思想の独創』の版元トランスビューの元社長である中嶋廣氏は、ブログ『一身にして二生を経る――左脳リハのための書評と日記――』でこう述べている。

西村玲さんが死んだ。自殺だった。〔…〕私は末木文美士先生から、亡くなったことを、メールを頂いて知ったが、あまりに唐突で、何が何だかわからなかった。〔…〕今度、ご両親が編まれた、『西村玲 遺稿拾遺ーー1972~2016』を頂いて、それが自殺であることが、初めて分かった。それにしても、考えられない。そういう思いを持って、本を読み進めていった。

(2019年2月18日付記事「それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(1)」)

私には、「それにしても、なぜ」、という言葉しか出てこない。

(2019年2月28日付記事「それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(6)」)

これが『遺稿拾遺』を贈られた者の殆んどに共通する反応だろう。
私もそうだった。
『遺稿拾遺』を読む前から分かっていた事情などなく、読んで茫然とした。

死者とプライバシー

私が『遺稿拾遺』の一部を撮影し、その画像数枚をTwitterに掲載したことについて、末木氏は記事「なぜフェイク記事が書かれたのか?」で

彼女の非常にプライベートな心情が、事情を知らない不特定多数の人たちの間に流され、話題とされるのは、彼女にとってあまりに残酷すぎます

と述べた。
故人の代弁者であるかのような文章だが、何が残酷かを決められるのは末木氏でない。

末木氏は同じ記事「なぜフェイク記事が書かれたのか?」で、『遺稿拾遺』を「これは、外に発表した文章だけでなく、手紙や日記類、そして写真や年譜をも含め、本当にご両親の愛情のこもった素晴らしい編集の本です」と称讃した。
だが、西村氏は2016年1月25日付の両親宛の遺書で、自分の死について

突然の事故で、と言えばいいと思う。

(『遺稿拾遺』p.333)

と書いていた。
手紙や日記、遺書などを刊行してほしいと言い残していたのでない。
「非常にプライベートな心情」が私家版で特定少数に読まれることは西村氏にとって余りに残酷でなく、Twitterや新聞報道で不特定多数に読まれることは西村氏にとって余りに残酷だ、という末木氏の主張は何を根拠にしているのか。

仮に末木氏が、西村氏の両親が『遺稿拾遺』を私家版として刊行したことも、私がその画像数枚をTwitterに掲載したことも、小宮山氏が朝日新聞デジタルで記事にしたことも、すべて秘匿されるべき事実を暴露しており西村氏を侮辱するものだと主張するのであれば、賛同できないものの理解できる。
しかし末木氏は、西村氏の両親が私家版として刊行した『遺稿拾遺』を称讃し、私がその画像数枚をTwitterに投稿したことを非難せず、小宮山氏が朝日新聞デジタルで記事にしたことだけを非難している。
これは私にとって全く理解できない。
小宮山氏を非難するのであれば、西村氏の両親をも私をも非難すべきである。

私は決して、遺族となった西村氏の両親を弾除けとして自己弁護したいのでない。
また、小宮山氏を弁護したいのでもない。
末木氏の主張は理解できないと批判したいだけである。

なお、小宮山氏の初報記事が4月10日付で出た後、フリーランス・ライターのみわよしこ氏の記事「高学歴ワーキングプア女性を自死から救えなかった社会保障制度の限界」が『ダイヤモンド・オンライン』に、ノンフィクション作家の広野真嗣氏の記事「「就職氷河期世代」孤独と悲哀の事件簿」が『文芸春秋』8月号にそれぞれ掲載された。
これら2本の記事は小宮山氏のそれと概ね同じ論調だと考えられるが、何故か末木氏は全く言及せず、以後も小宮山氏の記事だけを非難している。

自殺の原因

末木氏は昨年4、5月、ブログでこう述べていた。

簡単に言えば、〔小宮山氏の…引用者註〕記事の中の事実に大きな誤りがあるわけではないのですが、一部の事実のみを記すことで、あらかじめ用意した結論に無理やり結びつけるという手法であり、読者をミスリードするものです。

この記事の問題点ですが、確かに取り上げられたN氏(享年43歳)が、安定した収入を伴う研究・教育職に就いていなかったことは事実です。そのことが精神的な不安定を招き、その後プライベートな問題で自死に追いやられたということも、まったく間違っているとは言えない面があります。ただ、人の生死を無理やりに一つの原因に結び付けるのはしてはならないことです

(以上、4月19日付「朝日新聞小宮山亮磨氏の記事に関する私見」)

人間は複雑なものですし、自死の直接の引き金ははっきりしていても、それ以前の因果関係ということになれば、複雑であって、必ずしも一つに断定できません

(5月16日付「死者を利用してよいのか」)

これらを読んで私は大いに失望したが、今考えればそれでも僅かに理性の感じられる記事だった。

当初、西村氏が自殺した原因を一つに断定してはならないと主張していた末木氏は、7月12日付の記事「人文学はなぜ理解されないのか?」で

〔西村氏は…引用者註〕結婚に問題があって自死したのであって、大学に職が得られずに自死したわけではない

と述べ、自殺の原因は研究職への就職難でなく結婚の失敗だったと一つに断定するようになる。
昨年7月以来の末木氏の主張によれば、西村氏が自殺したのは結婚に失敗したからであり然るべき研究職を得られなかったからでなく、またその結婚は然るべき研究職を得られなかったことと関係がない、という。

西村氏は自殺の3か月ほど前、日記2015年11月6日条にこう書いた。

大学に職がなく、安定を求めて結婚したら、相手が統合失調症で、自分が病気になりかけて、離婚を決めたけれど、応じてくれない。安定に目がくらんだことを認めつつ、認められない。

(『遺稿拾遺』p.324)

この箇所について、末木氏は記事「なぜフェイク記事が書かれたのか?」でこう述べた。

『遺稿拾遺』をすべて読めば明らかですが、就職問題と結婚・離婚を結び付けて書いているのは、この箇所だけです。この頃の彼女は結婚の失敗で非常に追い込まれて、自分の人生はすべて失敗で、それは自分の責任だと、自分を責めていました。〔…〕それはうつ病の一つの兆候なのでしょう。そこから、日記のような書き方になったのでしょう。『遺稿拾遺』全体を通して読めば、ここの書き方に違和感を持つはずです

「もう年だから、そろそろ結婚して、生活を安定させなければ」という意識や焦りは誰にもあることです。それは彼女にもあったでしょう。それは事実だったと思います。しかし、結婚の時に経済的安定だけを最優先に考えるというドライな割り切りをする人は、非常に特殊でしょう。彼女がそのように打算的な性格だったとは、おそらく彼女を知っている人は誰も認めないでしょう

末木氏によると、以下のようなことになる。
西村氏は結婚に失敗して実家に戻った後、日記2015年11月6日条で、自分は大学に職がないから安定を求めて結婚したと書いた。
しかし、これは鬱病の兆候である過剰な自責感情によるものであり事実でなく、このように就職問題と結婚を結び付けた箇所は『遺稿拾遺』で他にない。
西村氏が生活の安定だけを最優先にして結婚したなどということを、その人柄を知る人は誰も認めないだろう、と。

これを読んで私は、よくもここまで荒唐無稽で支離滅裂な文章を公表できるものだと思った。
その理由は大別して2つある。

1. 11月6日の精神状態

『遺稿拾遺』の「年譜」によれば、11月6日より前か後かは詳らかでないが、西村氏は同月、精神科で精神安定剤を処方されたという(p.408)。
4日前の日記2日条には

本当に、わずか二、三ヶ月でどうしてこんなにひどいことになったんだ。もう先のことも、前のことも考えない。本当に立ち上がれるのかどうか。

(『遺稿拾遺』p.323)

とあり、この時期の精神状態が健全でなかったことは疑いない。
だが、問題の6日条には

人生をリセットしてやり直したい。……でも、それは一番危険だ。もっとひどくなる。だからまずは現状維持だ。生きるためにやるんだ。イヤとかスキとか言ってる場合じゃない。健康に生きていきたい。父と母を見送って、一人で生きて、孤独死まで行くか行けるかも分からない。何も分からないけど、今、何か始めちゃダメだ

(『遺稿拾遺』p.324)

ともある。
西村氏は、自分の精神状態が健全でないことや無理に行動するとかえって悪化するだろうことを理解しており、未だ死や自殺にも言及していない。
そのため当時、事実認識について錯乱するに至り証言能力を失っていたとは考え難い。

なお、末木氏の「この頃の彼女は〔…〕、自分の人生はすべて失敗〔…〕だと、自分を責めていました」(前引)という主張は、この「人生をリセットしてやり直したい」という箇所を根拠にしたものかも知れない。
しかし、西村氏は同日条で

いっぱいいっぱいの先生方のおかげで三十代は恵まれてた

(『遺稿拾遺』p.324)

とも書いており、決して「自分の人生はすべて失敗」だと考えていたのでない。

2. 遺族の証言

西村氏と長年同居していた父の茂樹氏は、『遺稿拾遺』の「あとがき」で、娘が結婚を考えるようになった心の流れについてこう書いている。

二十校以上の大学にポストを求める願書を出して、その都度「貴意に添えず」という回答を得、要求された大部な願書が読まれた形跡もなく返されてきた〝実績〞に鑑みて、状況はこれから悪化することはあっても良くなる見込みはないと判断した。〔…〕とつおいつ考えた末に、彼女自身言うところの「非常口」を開けるしかないと思った。結婚――。研究は好きなだけやってよろしいというような奇特な男がもしいれば、安定した生活の中で好きな勉強ができるかもしれない。大きな期待をしたわけではないが試してみようと思った。

(p.365)

結婚は然るべき研究職を得られないから開ける非常口だ、と娘は語った。
『遺稿拾遺』に明記されたこの遺族による証言を、末木氏は何故か無視し、就職問題と結婚を結び付けた箇所は同書で日記2015年11月6日条以外にないと主張している。

なお、遺族に取材した広野氏は記事「「就職氷河期世代」孤独と悲哀の事件簿」で、

西村が両親に突然、「私、結婚する」と言い出したのは四十二歳の春だ。そして「非常口を開けるしかないと思うの」と言葉を継いだ。大好きな研究を続けるために、大学教員のポストを諦める決断だった。研究を続けていいといってくれる男性と結婚すること――両親に負担をかけることなく安定した生活を送り、家事を終えてから仕事をすればいい、という理想の生活を描いてみせた。

(p.175)

と書いている。

平常心と愛

これと関連してもう1つ、末木氏の主張には大きな誤りがある。

前引のように、西村氏は日記2015年11月6日条に「大学に職がなく、安定を求めて結婚した〔…〕。安定に目がくらんだことを認めつつ、認められない」と書いていた。
父の茂樹氏も、『遺稿拾遺』の「あとがき」でこう書いている。

この話〔結婚…引用者註〕はお互い承知の〝契約〞であるように見えた。〔…〕玲は、食わせてもらう限りは、と誠実に〝契約〞を守るべく努力した。相手を愛そうという気持ちにもなったし、家事を抜かりなくやらねば、と料理の勉強もした。これまで女性とつきあったこともない十四歳上の相手でも、平常心が傾いているときにはすべてプラス要因として受け入れられるのだ。

(p.366)

娘は結婚するから相手を愛そうとした。
当時は平常心が傾いていた、と。

末木氏の主張はこれらと正反対である。

彼女は結婚の際に非常に慎重でした。知り合って半年ほど交際し、それから入籍しても直ちには同居せず、半年ほどは遠距離で行き来して、それで大丈夫と判断してから、同居に踏み切っています。

「職がないから、焦って結婚して失敗した」などという短絡的な因果関係のストーリーが成り立つわけもありません。

(以上、記事「なぜフェイク記事が書かれたのか?」)

もちろん誰でも生活の安定を求めるということはあるでしょう。けれども、それは結婚する二人の相互の愛情があることを前提として言えることであり、それが愛情よりも優先するはずがありません。

職を得られないから、相手をよく選ばずに結婚して、それが悲劇を招いた、というような筋書きを描くのは、あまりに彼女を侮辱するものではないでしょうか。

(以上、記事「プライバシーはどこまで公共化してよいか」)

末木氏によれば、西村氏は結婚に非常に慎重であり、だから入籍後も半年間は同居しなかった。
結婚したのは、当然の前提として2人が愛し合っていたからだ。
短絡的な因果関係のストーリーで侮辱してはならない、と。

だが『遺稿拾遺』の「年譜」によれば、西村氏が2014年11月に挙式してからも翌年4月まで東京の実家に留まったのは、年度末まで講義の予定があったからだという(p.405)。
「短絡的な因果関係のストーリー」を作り上げているのは、末木氏でないのか。
また、前提としての愛ということを言うのであれば、西村氏は愛する研究を続けるため、そして愛する両親に生活費を依存しないようにするため、結婚という非常口を開けたと考えられる。

何度どう考えても

父の茂樹氏は『遺稿拾遺』の「あとがき」で、

病死や事故死と違って、自殺は故人のそれまでの生の積み重ねの結果であって、たとえ本人でも死に至った経緯を解きほぐして要約することはできない。〔…〕複合要因をほぐして説明してみても虚しいだけである。玲ならば「因縁」と言ったかもしれないが、「運」という言葉に、日が経つにつれて、そうとしかいいようのないこととして私は納得する気持になった。この本は、玲がどのような条件下で、どのように生きたかを可能なかぎり追ってみたものだが、それで本人が死に至った経緯を説明しきれるものではない。結局は、「運」という言葉に還ってしまうのだ

(pp.367-68)

と述べている。
愛娘を失った遺族としては、そういうことにならざるを得ないのかも知れない。

だが私は、付き合いの短く浅かったただの同業者だからか、学振SPDに採用され日本学術振興会賞と日本学士院学術奨励賞も受賞し、将来を非常に嘱望されていた西村氏が然るべき研究職を得られず困窮したことを、どうしても運の問題と考えられずにいる。
もし然るべき研究職を得ていれば、あのような非常口を開けることはなかっただろう。
そしてもしあのような非常口を開けなければ、そこから転落することもなかっただろう。

何度どう考えても、末木氏の主張は荒唐無稽で支離滅裂だということにならざるを得ない。

いともたやすく行われるえげつない行為

数年前の某学会で、私はA氏が司会を担当するB氏の研究発表を聴いた。
以下の事件描写は、当時の自分の日記に依拠したものである。

発表主題は、○○(過去のある人物)をどう評価すべきかということについてだった。
さほど刺戟はなかったが、深く考えられていない問題について叮嚀に再考しようとする、私にとっては好感の持たれる発表だった。

発表途中、発表者のB氏が
「この時、○○はこう述べました」
と言うと、あろうことか司会のA氏が
「それは違う。
○○がそう言ったのは後年のことだ」
と発言した。
発表者B氏は
「いえ、私は○○が当時そう述べたことをこの目で読んで知っています」
と応じ、司会A氏も一歩も引かず、言った言わないの水掛け論になった。
すると、聴衆として会場にいた研究者C氏が割って入り、
「議論は質疑応答の時間ですればよいでしょう」
と取り成して発表は再開された。

発表が終わると、質疑応答に移る前に司会A氏が
「あまり指導教員みたいなことは言いたくありませんが、発表するんだったらもっとちゃんと整理しておかないと。
勉強不足でしょう」
という暴言を吐いた。
なお、当然ながらと言うべきか、A氏はB氏の指導教員でなかった。

質疑応答では、まずC氏が質問し、B氏が答え、次に別の誰かが質問し、B氏が答えた。
その2人目に応答している時、今度はC氏が割って入り、
「違う!!
○○はそんなことを言ってない。
あなたは○○の文献をすべて読んだのか。
私は専門家だからそんな嘘を言ってもダメだ」
と激昂した。
これにもB氏は、終始紳士らしく
「先生、すみませんがそれは賛成できません」
と言って応じた。
実に立派だった。

ちなみに、このC氏の不規則発言を、司会のA氏は全く仲裁しようとしなかった。
直前に自分も不規則発言していたということを差し引いても、あれは明らかに司会としての怠慢だった。
しかも、司会A氏は質疑応答の途中で
「さっき私はああ言いましたが、もしかしたら○○は当時そう述べていたのかも知れませんね」
と自分の発言を修正したが、発表を妨害したことについては一切謝罪しなかった。

こうして、A氏とC氏の所為で、会場は研究発表の場らしからぬ怒号と殺伐とした空気に包まれた。
ベル掛の学生も恐ろしくなったのであろう、時間切れを告げるベルが鳴らされることもなく、質疑応答は大いに延長された。

発表終了後に、私はB氏に一言
「あなたの毅然とした対応に感銘を受けました」
と伝えたかった。
しかし、発表終了後もずっとC氏がB氏に説教を続けており、終わる気配がなかったのでその場を去った。
後でB氏の姿を探したがついに見付けられなかった。

なおその後、A氏は同学会の会長になった。

この業界はどこかおかしい。

河野有理氏の2つのFB記事について

本項は、河野有理氏が先日公表した2つのfacebookエントリー(記事)と、それらへの過大評価を批判するものである。

以下、引用では原文の改行を適宜省略する。
また、下線はすべて引用者による。

事実経過と執筆動機

まず、事実経過を簡単に整理する。
笹倉秀夫氏は1988年に『丸山真男論ノート』(みすず書房)を刊行し、これを増補改訂して2003年に『丸山真男の思想世界』(みすず書房)を刊行した。
2006年、苅部直氏は『丸山真男――リベラリストの肖像』(岩波書店、岩波新書新赤版1012)を刊行した。
そして今年7月30日付で、笹倉氏は書評「苅部直『丸山真男――リベラリストの肖像』考」(『早稲田法学』93-4)を刊行した(以下、「笹倉書評」と略す。なお、このような紀要は奥付の刊行日と実際のそれが大きく異なることもあるが、同誌同号は8月2日付で早稲田大学中央図書館などに到着し、同8月から早稲田大学リポジトリでも公開され始めていたことが確認できる)。

この笹倉書評は当初、一部の人々の目に触れただけで、さほど話題になっていなかったらしい。
しかし11月末(殊に12月3日)以降、Twitterで一部の人々の目に触れてやや話題になった。
これを承けて河野有理氏は、facebookで2つの記事(ともに無題)を公表した。
本項で批判する2つの記事とは、これらのことである(以下、それぞれ「第1記事」「第2記事」と略す)。
また、河野氏は15日に第2記事に「追記1」「追記2」を追記し、記事本文を僅かに修正したが、本項の論旨に関わるような修正はない。

河野氏は第1記事で、笹倉書評が話題になっていることについて、「業界の評判に関わることですので簡単に一言します」とした。
そして河野氏の2つの記事を読んで、ある研究者は「さすがプロの仕事」と評し、またある研究者は「なるほど」「よく理解できた」と述べたことを私は確認している。
しかし、河野氏による2つの記事の公表と、それへの他の研究者たちからの高い評価は、「業界の評判」をかえって低下させるものだったと考えられる。
本項の執筆公表に至った所以である。

なお、河野氏の所謂「業界」がどの業界を指すかは明らかでない。
私の専門は日本中世思想史研究であるため、もし狭く丸山真男研究業界などの意味であれば私は非同業者ということになり、もし広く日本思想史研究業界や人文科学業界の意味であれば私は同業者ということになる。
ただし、たとえ前者であっても、近傍業界の者として意見表明する資格はあるだろうと考えている。

怠慢とは何か

河野氏は第1記事の冒頭と末尾で、それぞれ次のように述べていた。

(本エントリーのみ公開仕様にします。拡散していただけますと幸いです)下記のような論文〔笹倉書評…引用者註〕が一部で話題のようです。業界の評判に関わることですので簡単に一言します。結論から言うと、この論文での著者〔笹倉氏…同前〕の主張(苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』と笹倉秀夫『丸山眞男論ノート』は似すぎている)は、ほぼ「言いがかり」だと私は考えます。

最後に、もちろん、苅部直氏は私の兄弟子にあたる人、そうした身びいきを割り引いてみる必要はあるでしょう。疑問を持たれたかたにおかれてはぜひ、笹倉書評だけでなく、実際に苅部本と笹倉本を読み比べてみることをお勧めします。そしてできれば松澤、石田、飯田諸氏の業績と丸山自身の作品にも。そうした作業を一切行う気もない、単に「事おこれかし」の怠惰な野次馬が、笹倉氏すら主張していない「盗用」や「剽窃」という強い言葉を使って本件を炎上させようとしていることについては、本当に残念な人々だなあという気持ちになります。

この第1記事を読んだ時、私は原典を確認して「読み比べてみる」べきだという河野氏の主張に共感しながらも、幾つかの不満を懐いた。
その一つは、笹倉書評について「ほぼ「言いがかり」だ」などの「強い言葉」を用いていながら、そう主張するための根拠が殆んど示されていないことにあった。

すると河野氏は、2日後の第2記事の冒頭で次のように述べた。

この件につき公開エントリーはこれで最後にします。前エントリーでは、早急な初期消火の必要を感じていたため、笹倉氏の書評を真に受ける必要がない旨のみお伝えしました。また、手元には笹倉氏の『丸山眞男論ノート』がありませんでしたので参照できず(『思想世界』の方は所蔵)、判断を留保していた部分があったのですが、今回改めて笹倉氏の書評を検討し併せて新書における先行研究の取り扱い方について論じて、前回の言葉足らずを補いたいと思います。

私はこれを読んだ時、驚愕した。
河野氏は「笹倉書評だけでなく、実際に苅部本と笹倉本を読み比べてみる」などの「作業を一切行う気もない」人々を「怠惰な野次馬」「本当に残念な人々」と酷評していながら、自分がその「笹倉本」を確認していなかったからである(恐らく昔読んだ時の記憶はあったのであろう)。
また、そのことについて河野氏は第2記事で全く反省を示していない。

これについて、河野氏は当時原典を確認する時間がなかっただけで、確認しようとする意志(「行う気」)はあっただろうから問題ない、というような会通を試みる人がいるかも知れない。
しかし、仮に当時時間がなかったとしても、確認していない旨を明記しなかったことは問題である。
「業界の評判に関わることですので」「早急な初期消火の必要を感じていたため」という理由があったとしても、原典を確認せずに笹倉書評は「ほぼ「言いがかり」だ」などと述べ、その記事を「拡散」するように呼び掛けるなどは、研究者として黙認されるべきことでないであろう。

新規性と独創性

河野氏は第2記事で

笹倉氏が提示する「論点」にはいわば専売特許が成立するのでしょうか。これについては、(a)新規性、(b)独創性に分けて考えてみたいと思います。笹倉氏の名誉のために言えば、(a)新規性について、笹倉本はそれを誇る権利があると思います。〔…〕ただ、〔…〕笹倉氏の議論にこの点で「独創性」を認めることは難しいと思います。

と述べた。
また、順序は前後するが、ここで引用した文章の中略箇所では

この点、笹倉氏には新規性と独創性を同一のものと強引にみなして苅部本を論難する姿勢が見られると思います

とも述べた。

「新規性」も「独創性」も、研究成果の意義を評価する時などによく用いられる語である。
しかし、その意味や関係については自明でない。
私の見聞から言えば、「新規性」と「独創性」は殆んど同義として用いられることも多い。
本項執筆のため少し調べてみたところ、「新規性」と「独創性」は違うという見解(例えば、新津善弘・菊間信良「学生,若手研究者向け論文書き方術」[『電子情報通信学会 通信ソサイエティマガジン』2008-4、p.37])は見付けられたが、そこでの「新規性」と「独創性」の解釈は河野氏のそれと同じでなかった。

根拠が示されておらず、しかも「これについては、(a)新規性、(b)独創性に分けて考えてみたいと思います」という書き方であることからして、この分類法は河野氏独自のものだとも考えられる。
仮に私が見付けられなかっただけで河野氏以外もこの分類法を用いていたとしても、根拠が示されていないことと書き方からして、河野氏独自のものだと考えることは不自然でない。

そのため第2記事は、河野氏は「笹倉氏には新規性と独創性を同一のものと強引にみなして苅部本を論難する姿勢が見られると思います」と批判するため、「新規性」と「独創性」は同じでないという自分に都合のよい分類法を強引に考え出した、という印象を読者に与え得るものとなっている。
なお、それ以外にも河野氏の2つの記事には問題が幾つもあると私は考えるが、本項の主題から逸脱する虞があるためここでは論じない。

疑惑は払拭されたか

河野氏は第2記事の末尾で次のように述べた。

これだけ言を尽くしても、本件について、依然として閉鎖的な学界内部の庇い合いだの、岩波書店や東大の権力だのという妄想を抱く人は一定数残り続けるのでしょう。下衆の勘繰りを抱かれるのはご自由ですが、いやしくも本件について評価を下されようという場合には、一方当事者の主張を鵜呑みにしないという原則を守って頂ければと思います。

河野氏によれば、これら2つの記事を読んで「閉鎖的な学界内部の庇い合いだ」と考えることは「妄想」「下衆の勘繰り」だという。

しかし、これまで述べてきたように、河野氏の記事には
  1. 原典を確認することなく、笹倉書評について「ほぼ「言いがかり」だ」などと述べ、記事の拡散を呼び掛けた
  2. 幾つかの主張について根拠を示しておらず、詭弁のように見える
という問題があると考えられる。

これらの問題がある2つの記事を仮にある人が読んで、河野氏は自分の兄弟子に当たる研究者を庇うために結論先行の記事を公表して拡散させた、と考えたとしても、私がそれを「妄想」「下衆の勘繰り」と評することはないかも知れない。
まして河野氏の2つの記事が同じ業界の研究者たちから高く評価されていれば、「閉鎖的な学界内部の庇い合いだ」と考える人も出てくるであろう。

私はそのようなことを憂慮している。

ある研究会に参加して

私は昨年、ある研究会に参加した。

会場で受け付けの手続きを済ませると、係員から「参加費として約5千円を支払うように」と求められた。
私は「はて、プログラムに「参加費有料」などと書いてあっただろうか」と思いつつも、「きっと書いてあったけど見逃してしまったのだろう」と思い、言われるままに支払って領収書を受け取った。

数日後、研究費の受給元の経理担当者にその研究会のプログラムと参加費の領収書を提出し、立て替えた参加費を支出するように求めた。
すると経理担当者は、
プログラムには参加費として約5千円を徴収する旨が書かれていない。
プログラムでなくともよいから、約5千円の参加費徴収を証明する文書を主催団体から取得して提出せよ。
と求めてきた。
言われてみてプログラムを読み返すと、確かに「参加費として約5千円を徴収する」という旨は書かれていなかった。

そこで私は主催団体にメールして、参加費約5千円の徴収を証明する文書を送るように求めた。
私は以前に同じ研究会に参加した時もそのような文書を求め、提供されていたので何も問題ないと思われた。

しかし主催団体の担当者(某研究機関准教授)からは、そのような文書の提供を拒否されてしまった。
その理由は、
参加費約5千円には、懇親会費など、研究費での支出が不可能な費目が含まれており、これについて証憑を発行することは不適切であろう。
約5千円は諸経費まとめての額面であり、これを費目別に分けて、書類を作成することも困難だ。
というものだった。

そこで私は、次のように返信した。
私の研究費での支出が可能か不可能かは、貴団体が判断すべきことでないと考える。
先日のメールでも伝えたように、参加費の領収書はすでに会場で受け取っているので、あとは貴団体があの研究会で参加者から一律に参加費約5千円を徴収したという文書を取得したいだけだ。
但し書きや名目などは「参加費(含む懇親会費など)」などでよいので、送ってほしい。
このメールにはなかなか返信がなかったので、私は次のようなメールも送った。
私は「文書を偽造して送れ」などと求めているのでもないのに、何故「参加者から一律に参加費約5千円を徴収した」という文書を提供することが出来ないのか、理解できずにいる。
研究費で処理できたはずの参加費が、貴団体が速やかに文書を送らなかったことが原因で処理できなくなるということも有り得る。

すると、主催団体の担当者から次のようなメールが来た。
あなたが求めている文書は提供できないが、それに近い文書は添付して送る。
昨今、科研費の不正利用が大きな問題となっており、早稲田大学も過去に大きな傷を負った前例があることはあなたも知っているだろう。
科研費の不正使用の罰則に連座制が適用されていることも知っているだろう。
近年は毎年必ず研究倫理講習会を行わなくてはならず、その際の資料や毎月届く学振からのメールには、不適切な会計処理により生じた事例の紹介が後を絶たない。
特に、酒の混じった懇親会のために公費を使うことは非常に危険だ。
前途有望な研究者がこうした事故に巻き込まれてしまうと、将来の道は閉ざされたも同然になるだろう。
あくまでグレーゾーンの領域であり、当方がこれに正式に関わることになると、日本の風土ではもはや許されないことになるだろう。

主催団体の担当者から提供された「それに近い文書」を研究費の受給元の経理担当者に提出すると、「これでよい」との回答を得た。
しかし私は、最初の問い合わせから解決までに数か月を要したこともあり、納得が行かなかった。
そのため、主催団体の担当者に次のようなメールを送った。
今回の貴団体の対応には今も全く納得できずにいる。
そもそも私は「科研費で処理する」などということは一言も言っていない。
何故貴団体は、私が(所属大学の個人研究費でもどこかの財団からの研究費でもなく)科研費で処理するはずだと決め付けたのか。
「研究費での支出が不可能な費目」「科研費の不正利用」などということは、率直に言って余計な世話だ。
仮に私が書類の偽造を依頼し、貴団体がそれに応じたのであれば連座ということにもなるだろう。
しかし、以前にも言ったように、私はただありのままの事実を裏付ける書類を提供してほしいと依頼しただけだ。
何故貴団体が連座制の適用を危惧するのか、全く理解できない。
以前にも言ったように、研究費で処理できるかどうかは研究費の受給元の経理担当者が判断すべきことであり、貴団体が判断すべきことでない。
もし研究費で処理することが不適切であれば、経理担当者が処理を拒否するだけのことだ。
今回私が会場で「プログラムに明記されていない参加費約5千円」を求められるまま支払ったのは、貴団体が後日適切に対応するに違いないと信じていたからだ。
まさか研究費で処理できなくなるかも知れないとは思わなかった。
今後、貴団体の研究会で「プログラムに明記されていない参加費」を支払うように求められても、素直に応じるべきかどうか躊躇せざるを得ない。
もし私の言うことにどこかおかしなところがあれば、後学のため指摘してほしい。

このメールについて、主催団体からは今に至るまで返信がない。
私はやはり納得できないままだった。

しかし後日、私は偶然に次のページを見付けた。
【Q4474】学会への出席にあたって、学会参加費の中に夕食のレセプション(アルコール類も提供される)費用が含まれており、この部分だけ切り離すことはできないとのことでした。
こうした場合に、学会参加費を科研費から支出することはできませんか?
【A】学会参加費の中にその費用が組み込まれ不可分となっているようなレセプションは、学会活動の一環として企画されていると考えられますので、その際にアルコールが供されるか否かを問わず、参加費を科研費から支出することは可能と考えます。
なお、実際には、様々なケースがあると思われますので、一般常識的に見て学会活動を超えるようなケースまで可能とするものではありません。
(文部科学省研究振興局学術研究助成課「その他の費目についての質問」、平成23年6月登録)
つまり、主催団体の担当者の「あなたは科研費で処理しようとしているのだろう」という推測が臆測であっただけでなく、そもそもたとえ科研費で処理するにしても問題はなかった。

この件から、私は2つの教訓を得た。
第1に、研究費の使用方法については、たとえどこかの研究機関の教授が言うことであっても、鵜呑みにしてはならないということ。
第2に、「所属研究機関の事務員が理不尽なことを言って研究費の適切な使用を妨げてくる」という研究者たちの不満はよく聞いていたが、研究費の適切な使用は事務員だけでなく同じ研究者によっても妨げられるということ。

ちなみに、「何故あの主催団体の担当者は、会場で領収書が発行されているのに、"参加者から参加費を徴収したことを証明する文書"の提供を最後まで頑なに拒んだのか」は、今でもよく分からない。

2つの文章への反応

私が一昨日公表した2つの文章「末木文美士の余録への応答」「私が日本思想史学会を退会した理由について、現在までに3人から反応があった。

--

末木文美士氏から以下のメールがあった(原文ママ)。

日本思想史学会の退会は残念ですが、私の問題提起から、議論が発展するとすれば、大変ありがたいことです。
特に若い研究者の方々からの反応のありますことを期待しております。

ブログへのコメントの仕方が分かりませんので、個人メールで失礼します。
もし可能でしたら、ブログのコメントにアップしてください。

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ある会員(60歳台、教授)から非常に長文のメールがあった。
その末尾に次のようにあった(註を除いて原文ママ)。

〔退会したことであなたに…引用者註〕不利益があるとすれば発表媒体の候補の一つを無くしたという程度で、それ以上の損失はないと思います。
今後ともしっかり研究されることで、上記の人たちを見返してください。
研究は少しくらいハングリーなほうがよい研究ができると思います。

これには「今後ともご指導ご鞭撻のほど、何卒宜しくお願い申し上げます」と返信した。

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ある会員(30歳台、非常勤)から以下のメールがあった(原文ママ)。

学会誌は往復書簡・意見をやりとりする場所であってもいい(一昔前は論争の現場でもあったらしいので)と思うので、今回の学会評議員の判断は失策であると感じます。
ただ、若手としてはやはり退会はデメリットが大きすぎるとも危惧します。
論文内容でのやり合いは私としては問題無い行為だと思い信じますが(ただし、これすら「不遜」だとして嫌う「大家」も多くいるらしいですね)、今回のような手続き面での「しこり」は、森さんの主張の正当性を加味しても、やはり若手にとってかなり危険だと思うのです。
少なくとも任期のない常勤職を得るまでは。(人事がかかわる人間関係については、裏で暗躍する権力者が多いらしいです。)

これには「全く仰る通りです。何も付け足すことがありません」と返信した。

末木文美士の余録への応答

本稿は、『日本思想史学』第49号(2017年9月刊行)に掲載された末木文美士の余録「第48号特集コメント記事への応答」への応答である。

  1. 経過
本稿の論旨などにも関係することであるため、まず末木余録が同誌同号に掲載されるに至った過程を略述する。
一昨年(2015年)10月に開催された日本思想史学会2015年度大会シンポジウム「思想史学の問い方――二つの日本思想史講座をふまえて――」で、末木と筆者はそれぞれ報告者の一人とコメンテーターの一人となった。
末木は「二つの日本思想史講座と日本思想史の問い方」と題して報告し、筆者はそれに「末木文美士報告へのコメント――両講座における中世研究の課題――」と題してコメントした。

なお、筆者が末木報告にほぼ限定してコメントしたのは、そうするように大会委員から要望されていたからである。
また、シンポジウムの副題にある「二つの日本思想史講座」と筆者の所謂「両講座」とは、ともに日本思想史学会の会員が中心になって企画されたぺりかん社『日本思想史講座』5巻と岩波書店『岩波講座日本の思想』8巻を指している。

当日、末木は報告に配布資料を用い、筆者はコメントにスライド(森コメント.pdf)を用いた。
筆者たちは事前に他の登壇者や大会委員を交えてメールでの打ち合わせを重ねていたため、当日の報告とコメントがそれぞれどのような内容になるかは、互いに予め把握していた。
筆者は資料を聴衆に配布しなかったが、スライドの打ち出しを末木たち登壇者だけには配布した。

登壇者の報告とコメントの内容は、例年の大会シンポジウムがそうであるように、次の年すなわち去年(2016年)9月刊行の同誌第48号に特集記事として掲載された。
記事は報告者とコメンテーターが各自作成したものであり、末木の報告記事は「思想/思想史/思想史学――二つの日本思想史講座と日本思想史の問い方――」、筆者のコメント記事は「両講座における中世思想史研究の課題」(シンポ抜刷.pdf)という題名であった。
末木余録の所謂「第48号特集コメント記事」とは、筆者のこのコメント記事を指している。

  1. 余録寄稿の不審
学術雑誌に新刊書の書評が掲載され、その書評に不満のある著者が反論文などを同じ雑誌に寄稿する、ということは他誌で稀にある。
筆者も以前、そのような応酬の当事者になったことがある。
しかし、シンポジウムのコメント記事への応答が掲載されたという例を、筆者は『日本思想史学』でも他誌でも他に聞いたことがない。

それは通常、もしコメントの内容に不満などがあれば、シンポジウムの全体討論で応答すればよいからである。
1年後にコメント記事が掲載されるのを待って、そのまた1年後に応答を寄稿するなどということは不自然である。
もしそうしなければならない理由があるとすれば、それはコメンテーターが当日コメントしなかった新規内容をコメント記事に盛り込んだ時だけであろう。

では、筆者のコメント記事はどうであったか。
筆者のコメント記事の本論は、シンポジウム当日のコメント内容を一部省略しつつ整理したものであり、追加はない。
ただし本論以外では、後註3で

末木の用法で「冥」「顕」は、それぞれ「死者を含む了解不可能な他者の領域」「神仏の世界」と「了解可能な人間間」を意味する(ぺりかん講座中世巻「総論」21頁)。
ただし、史料用語と分析概念が混同されており従い得ない。

という批判を追加し、また稿末に

付記 当日は報告で取り上げられる箇所を中心に、末木担当巻を論評した。
それ以外は今後俎上に載せられるべきであろう。
研究状況が停滞すれば、相互批判は生じ難くなる。
両講座の中世研究には事実の誤認や論理の飛躍、陳腐な通念、新奇な仮説なども散見され、それらを検証することなく「今日」「未来」に役立てようとすることは危険である。

という提言を追加した。

この2箇所だけは追加であり、もし末木がこれらに応答するために余録を寄稿したということであれば、理解できる。
しかし末木余録は、この2箇所に全く言及せず、それ以外の、すなわちシンポジウム当日の内容を記事化した箇所にのみ応答している。
このことを筆者は理解できない。

何故末木は、シンポジウム1年後の報告記事で応答せず、2年後に応答として余録を寄稿したのか。
報告記事は報告内容を記事化するものであるから、本論で報告へのコメントに応答すると不自然になる、ということは理解できる。
しかし、もしそうであれば、筆者がコメント記事でしたように報告記事の稿末で付記することは可能であったろう。
何故そうすることもなかったのか。

これらの生じて然るべき疑問に、末木は余録で全く答えていない。
ただ冒頭に

第48号掲載の特集の拙稿に対する森新之介氏のコメントに対して、応答したい。

とあるだけで、何故シンポジウム1年後の報告記事で応答しなかったのかについて、説明はない。

  1. 第2と第4、第5の応答
末木は余録で、筆者のコメント記事の5箇所に応答している。

第2と第4については「その通り認めたい」、「適切である。〔…〕反省したい」と述べ、筆者からのコメントを受け容れている。
何故そのようなコメントの余地が生じたかという末木の理由説明には、筆者にとって理解し難い箇所もあるが、本稿では立ち入らない。

第5について、末木は筆者からのコメントに賛同しているようにも見えるが、していないようにも見える。
ただし、これはあくまで注意喚起のようなものでもあったため、当初から賛同は期待していなかった。

筆者にとって問題となるのは、残る第1と第3の応答である。

  1. 第1の応答
第1の応答は、筆者の次の文章へのものである。

末木は、ぺりかん講座中世巻の「総論」で「近年の中世思想研究はきわめて進展が著しく、従来の常識はほぼ完全に転覆している」(25-6頁)と述べた。
しかし評者は、中世思想史研究でそのような活況を実感できずにいる。
平成18年、本誌第38号の「編集後記」は古代と中世の投稿論文について「減少傾向に歯止めがかからない」と警鐘を鳴らしており、本学会の大会でも研究発表は久しく低調である。
中世研究などは現在、極めて危険な状況にあると考えられるが、両講座にそのような危機意識は見出されない。

〔…〕

研究状況の停滞は、両講座の構成にも影を落としていないか。
末木が「多様な分野の研究者の協力」(報告資料)と述べたように、隣接諸学からの寄稿が多い両講座は華やかである。
しかしこれは、思想史学での中世研究が停滞しているため自給率が低下し、隣接諸学からの輸入に依存して成り立っているとも見得る。
また、隣接諸学での思想研究は人物よりも集団や時代全体に着目し、哲学や教理への考察が不十分になり易いという嫌いがある。
そのため両講座の中世研究は、哲学史や教理史から離れて文化史や精神史に傾き、思想史らしさをやや失っているかも知れない。

この筆者のコメント記事に、末木はこう応答した。

森氏は「中世思想史研究は活発か」という問題を提起し、それに否定的な見方を示している。
氏は、「日本思想史」という領域を閉じた自立的な領域と見ているようだが、私はその見方には反対で、日本思想史はもともと複合的な分野であり、単一の学会ですべてを網羅できず、多分野の成果を総合的に見るべきと考える。
その点、沢井啓一氏のコメントは示唆に富む。

ここで末木の所謂「沢井啓一氏のコメント」とは、同シンポジウムで筆者などとともにコメンテーターを務め、議論全体にコメントした沢井啓一のコメント記事「〈日本思想史〉は存立可能なのだろうか?」を指している。
筆者も、沢井のコメント記事は示唆に富む優れたものだと考えている。
しかし、沢井は近世儒学を専門としているため、そのコメント記事は必ずしも中世思想史研究の現状に妥当しない。

では、筆者の考える中世思想史研究の現状とはどのようなものか。
言うまでもなく、どの学問分野にも癖や偏り、得手や不得手がある。
日本文学界や日本史学界で中世思想史研究が活発でも、それだけでは必ず不足や遺漏が生じてしまうため、日本思想史学界で中世思想史研究が低調でもよいということにならない。

そして、日本思想史学会は日本思想史学界で唯一の全国学会である。
東北大学と立命館大学にそれぞれ日本思想史研究会があるものの、規模は遥かに小さく、またそこで中世研究が活発だという話も聞こえてこない。
そのため、斯学唯一の全国学会である日本思想史学会における中世研究の低調は、十分に深刻な問題である。
筆者がこれを危惧したのは、決して末木が言うように「「日本思想史」という領域を閉じた自立的な領域と見ている」からなどでない。

そもそも、末木は「多分野の成果を総合的に見るべきと考える」と述べながら、その「多分野の成果」である両講座が「思想史らしさをやや失っているかも知れない」とする筆者のコメントに全く言及していない。
末木は、両講座は思想史らしさを失っていないと考えているのか、それともやや失っているがそれでもよいと考えているのか。
この問題への応答がなければ、末木は筆者からのコメントに応答したことにならず、ただ「氏は、「日本思想史」という領域を閉じた自立的な領域と見ているようだ」という筆者への誤解を公表し、拡散しただけになってしまおう。

  1. 第3の応答
第3の応答は、筆者の次の文章へのものである。

宗教儀礼や密教に注目すると、これまで「脱呪術」として高く評価されてきた親鸞や道元などは評価し難くなる。

この筆者のコメント記事に、末木はこう応答した。

親鸞や道元について「「脱呪術」として高く評価されてきた」として、その従来の評価を鵜呑みにしている点である。
そのような評価を見直すことが、今日の中世研究にとって最も重要なことと考える。
「脱呪術」というウェーバー的な表現自体が、すでに「呪術」という否定的な価値評価を含む言葉を用いていて、適切と言えない。
親鸞に関しては、拙著『親鸞』(ミネルヴァ書房、2016)に私見を述べたので、ご覧いただきたい。

これは筆者にとって、全く理解できない、そして決して受忍できない批判である。
筆者はただ、親鸞や道元などは「これまで「脱呪術」として高く評価されてきた」という「従来の評価」を紹介しただけであり、それを「鵜呑み」になどしていない。
何故「従来の評価」を紹介すると、それを「鵜呑み」にしたことになってしまうのか。

なお、筆者はシンポジウム当日のスライドでは1箇所「脱呪術」を鉤括弧なしで用いた。
しかし、これは図表中の表記であり、より視認し易くするための措置であった。
また、末木の応答は筆者のスライドでなくコメント記事へのものであるため、批判の根拠がスライドでの表記であったとは考えられない。

そのため末木の、筆者が「今日の中世研究にとって最も重要なこと」と考えられるような「評価を見直す」ことなく「従来の評価を鵜呑みにしている」という批判は、全く根拠のないものである。

私が日本思想史学会を退会した理由

私は2017年10月24日、日本思想史学会(以下、適宜「学会」と略す)を退会した。
その退会理由は多くの人にとってどうでもよいことだろうが、私にとってはそうでないため、ここで説明したい。



事の始まりには、同学会の会誌『日本思想史学』第49号(2017年9月刊行)に掲載された末木文美士氏の余録「第48号特集コメント記事への応答」があった。
別稿「末木文美士の余録への応答」で述べたように、末木氏の余録は私にとって理解も受忍もできない、極めて心外なものであった。
しかし、私は末木氏の余録が原因で日本思想史学会を退会したのでない。
末木氏余録への応答を日本思想史学会のニューズレターに寄稿したい、と同学会に要望したものの却下され、その却下理由に承服できなかったから退会した、ということである。

末木氏は同学会の評議員であるが、この要望却下という決定には関与していない。
そのため、もし森は末木氏が原因で退会したと考えている人がいれば、それは全くの誤解である。


拙宅に『日本思想史学』第49号が郵送されてきたのは、10月16日のことであった。

私は5日後の21日、日本思想史学会にメールを送信した。
内容は次のようなものであった(以下、メールや会話の内容はすべて大意)。

そもそも第48号所載の私のコメント記事は、一昨年の大会シンポジウムでの私のコメント内容に沿ったものだ。
末木氏は、一昨年の大会シンポジウムでの私のコメントに応答したければ、当日の全体討論で応答すべきだったと考える。
もし当日の全体討論で応答していれば、私もまたその場で応答できていた。
そうせずに第49号に余録を寄稿して掲載されたため、私は誤解を払拭する機会を奪われてしまった。

私には学会の場を借りて応答する権利があると考える。
そのため、今年末発行予定のニューズレター第27号に応答を寄稿したい。
もし紙のニューズレターでそのための紙幅を割き得ないということであれば、紙では応答の題目だけを載せて本文は学会HPのニューズレターにのみ載せる、ということでもよい。

このメールを送った時、私は要望は快諾されるだろうと考えていた。
しかし、それは誤りであった。

翌22日、学会からメールで返信があり、私の要望を却下する旨が通知された。
また、それとともに、末木氏余録が掲載されるに至った経過などについて説明があった。

一昨年の大会後、末木氏から、あなたのコメント記事への応答を寄稿したいという要望があった。
その理由は、森氏のコメントには「重要な指摘」があり、大会当日の全体討論はそれに応答するところから議論が展開したが、第48号では質問が投げ掛けられたまま応答がない状態になっているため、とのことだった。
そこで今回(第49号)、前例のないことだが、「余録」として末木氏の「第48号特集コメント記事への応答」を掲載した。

末木氏としては、すでに大会シンポジウムであなたのコメントに応答したということらしい。
しかし、あなたのメールによると、大会当日に末木氏からの応答はなかったという認識のようだ。
応答があったかどうかについては、一昨年のことであり全員記憶も曖昧で、水掛け論に終わってしまい藪の中だ。
あまり生産的でない。

基本的には、会誌所載の大会シンポジウム特集は、大会シンポジウムのやり取りを載せるものだと考えている。
その意味で、昨年(第48号)のあなたのコメント記事と今年(第49号)の末木氏の余録で、一昨年のシンポジウムの成果報告としては十分だと考えている。
さらに今回の余録についてあなたからの応答を掲載するということになると、シンポジウム以上の議論になってしまうのでないかと考える。
その意味で、さらに学会のニューズレターなどの媒体において、議論を延長させることには躊躇する。


同22日、私は再び学会にメールを送信した。

私がこれ以上何かを言っても決定は覆らないだろうが、少し説明を補足する。

先のメールでも述べたように、私のコメント記事は実際のコメントに沿ったものだ。
そのため、もし末木氏が「森のシンポジウム当日のコメントには重要な指摘があり、応答したい」と考えたのであれば、第48号所載の自分の報告記事の末尾に「付記 当日のシンポジウムでは森からこれこれのコメントがあり云々」などと書いて応答すればよかっただろう。
何故「第48号が刊行されたことではじめて応答の必要が生じた」かのような話になっているのか、理解できない。

正確に言うと、末木氏余録の5点のうち、第2、第4点については余録と同じ趣旨の応答があったが、第1、第3、第5点については応答がなかった。
言うまでもなく、これは「私の記憶によれば」ということだが、第1、第3点についてあのような応答があれば忘れはしないだろう。
特に第3点は私にとって全く心外なもので、忘れるはずが、というよりその場で黙っているはずがない。

私としては、末木氏のあの余録がすでに「シンポジウム以上の議論」になっていると考える。

最後に1つ。
これを言うと、聞き分けのない子供の駄々のように受け取られてしまいかねず、あまり言いたくないが、何故末木氏が「要望」すると「前例のない対応」が認められ、私が「要望」するとそうならないのか、ということが理解できずにいる。

何れにせよ、私の応答のニューズレター掲載が認められないということは承知したので、応答は他日ブログかどこかで公表することにする。
ただ、その時「何故応答の公表媒体を日本思想史学会と無関係な場にせざるを得なかったのか」という理由は書くことになるかも知れない。
これは他意あってのことでない。

このメールを送信した時、私はまだ退会を考えていなかったが、送信後に考えを改めた。
ただし、翌23日〆切の原稿があり多忙であったため、すぐには退会の意思を伝えられずにいた。

23日、学会から再びメールで返信があり、説明が補足された。

誤解のないようにしておきたいことがある。
あなたは、末木氏の要望は認められ自分の要望は認められなかったと考えているようだが、そのようなことはない。

大会シンポジウムの報告者は末木氏であって、あなたはそのコメント役だったということを理解すべきだ。
大会当日のシンポジウムでは、あなたの刺激的なコメントで、問題がはっきりして議論が展開したと記憶している。
その意味で、コメントは末木氏の言うように「重要な指摘」を含んでいたと考える。
今後、それを自身の研究で発展させていけばよい。


翌24日、私は学会にメールを送信し、退会を届け出た。
そして、次のように伝えた。

「何故報告者の余録は認められて、コメント役の応答は認められないのか」は、やはり理解できずにいる。
末木氏の余録の特に第3点は私のコメントへの重大な誤解であり、私にはこれを放置しておくことはできず、汚名を払拭する必要がある。
その汚名払拭の場が与えられない理由について、理解できず承服できないまま学会に留まることは、「今後また同じことがあってもよい」と言っているも同然だということに気付いた。

最後まで学会から明快な説明が得られなかった私の疑問は、次のようなものである。
末木氏は、私のコメントに応答したいのであれば、第48号所載の自分の報告記事の稿末で応答すべきだったのでないか。
学会は、応答の機会を活用しなかった末木氏のために、何故前例のない余録の寄稿を認めたのか。
シンポジウムから逸脱した議論を掲載したくない、ということであれば、そもそも末木氏余録を掲載すべきでなかったのでないか。
末木氏の「第48号特集コメント記事への応答」と題された余録、すなわちシンポジウムから1年後に刊行された会誌所載の私のコメント記事へのそのまた1年後に刊行された会誌所載の応答が、何故シンポジウムから逸脱した議論でないと言い得るのか。

また、学会は、私からの要望を「仮に森の応答をニューズレターに掲載したとして、それが生産的な議論になるか」という視角からしか受け止めていなかったように見える。
私が応答をニューズレターに寄稿して実現したかったことは、生産的な議論よりも汚名の払拭である。

言うまでもなく、末木氏には私に汚名を着せようなどという意図は全くなかったに違いない。
もしかしたら、汚名を着せられたなどという考えは私の誤解でしかないのかも知れない。
しかし何れせよ、学会は、私が汚名を着せられたと考えていること、そしてそれを雪ぎたいと考えていることに全く関心がないように見えた。
自分たちが会員への不当な評価汚損に加担してしまったかも知れない、ということにも全く関心がないように見えた。

後に、今回の経過をよく知るある評議員からは、メールで次のように伝えられた。
なお、このメールは学会にも同報されていた。

大会シンポジウムのコメント記事への応答が会誌に掲載され、それにコメンテーターが応答できない可能性があるとなると、今後は大会シンポジウムのコメンテーターの引き受け手がいなくなるのでないか、とりわけ若い会員に忌避されるようになるのでないか、ということを危惧する。
少なくとも、コメントが萎縮するということはあると考える。
あなたが退会を選択するのも理解できる。

今回の経過をよく知る別の評議員からは、「私に言わせれば、あそこで退会という選択肢は有り得ない」と言われた。
私は、「私に言わせれば、あそこで退会しないという選択肢は有り得なかった」と答えた。

今回の経過をよく知っているのかどうかよく分からないまた別の評議員からは、「自分の意に副わない文章が会誌に掲載されたからと言って退会していれば、どこの学会にもいられなくなるだろう」と言われた。
その時の私は、「話せば長くなる」としか答えられなかった。


私も当然、退会の届け出前に、退会することによって生じるかも知れない不利益について考えた。

ブログで末木氏余録への応答や退会の理由を公表しても、それらを読む人は僅かしかいないのでないか。
それ以外の人たちは、森は末木氏に批判されたからと言って学会を退会してしまうくらい狭量不遜だ、と考えてしまうのでないか。
また、私の末木氏余録への応答や退会の理由を読んだ僅かな人でさえ、やはり森は狭量不遜だ、と考えてしまうのでないか。
もしそのような悪評が生じ、広まってしまえば、私は現職の任期が切れた後に研究職を得られなくなるのでないか。

しかし、こうも考えた。

末木氏に着せられた(と少なくとも自分では考えている)汚名を受忍することはできない。
このまま学会に留まれば、また同じようなことがあるかも知れず、少なくとも同じようなことがあってもよいと言っているも同然になる。
もし学会に留まって次の研究職を得られなければ、私に何が残るのか。
汚名しか残らないのでないか。
そうであれば、何をすべきかは明らかだろう。

今回の経過をよく知っているのかどうかよく分からないが、私のことをよく知っているある会員は、私の退会という選択について「あなたらしいと言えばらしいけれども」と呆れ笑いしていた。

原稿検討会を開催して

今日、ある論文を投稿した。
この論文については先日、原稿検討会を開催していたので、そのことについて少し書いておきたい。

「原稿検討会」という名を聞いたことがない人もいるだろう。
私が付けた名なので無理もない。

私は院生の頃から、論文を刊行して抜刷を渡して、それでやっと間違いを指摘してもらうことが出来るというのは効率が悪いな、と思っていた。
どうせなら、論文を投稿する前に間違いを指摘してもらった方がいいに決まっている。

しかも私の今回の論文は、これまで書いてきた論文とは少し違う問題を対象にしていた。
対象が書き慣れている問題であれば必要なかっただろうが、少し新たな挑戦だったので、投稿前にその分野の人たちに検討してもらいたかった。
このような考えにより、先日開催した会では投稿前の原稿を数人の研究者(非常勤講師と院生)に検討してもらった(アカギの生前通夜みたいなものである)。

もちろん、公刊どころか投稿すらしていない原稿を他人に見せることには危険もある。
私のように論文は単著が当たり前という業界にいる者にとって、これはかなり抵抗があった。
しかし、今回の原稿の主要箇所はすでに某学会で発表していたし、検討会の参加者も信用できる人だけを選んだので、問題ないと判断した。

開催した結果、私の原稿に間違いは全く指摘されなかったものの、誤字を1箇所指摘してもらうことが出来た。
これだけ見ると何だか労多くして功少なかったような印象になるかも知れないが、実際には非常に活発で有意義な議論が展開された。
参加者たちも原稿検討会への参加は初めてだったので、とてもよい刺戟になったようだった。

なお私は開催の1週間ほど前、参加者たちに
> 私は以前からの信条として、他人から有益な助言を頂いてもそれが口頭によるものであれば、原稿の註などで「○○氏からの教示による」などと書かないことにしています。
> ですから、来週の検討会で皆さんから有益な助言を頂いても、そのことを原稿の註などで書きません。
> もし「そうであれば何も助言したくない」ということであれば、来週の検討会ではただ私の原稿を読んでくださるだけで結構です。

と伝えてあった。
これは事前にハッキリさせておいてよかったと思っている。

博士号を取得し学生でなくなると、こういう会を開く必要も機会もなくなるだろうが、それでもやはり非常に有意義で刺激になった。
いつかまたこういう会を開きたい。
そしてもし今回の参加者が原稿検討会を開催する時は、私も恩返しを兼ねて参加していろいろ発言したい。

「『帝王略論』を読む会」完走のご挨拶

「『帝王略論』を読む会」は2014年秋から虞世南『帝王略論』5巻を読み進め、この度、無事に完走いたしました。
主宰者として、読書会にご参加くださった各位、特に1回以上ご担当くださった

  • 会田 大輔
  • 蒋 建偉
  • 田熊 敬之
  • 付 晨晨
  • 三浦 雄城
(五十音順、敬称略)

の各位には心よりお礼申し上げます。

開催記録

  1. 2014年9月27日(土)喫茶室ルノアール 池袋パルコ横店
  2. 2014年11月1日(土)喫茶室ルノアール 池袋西武横店
  3. 2014年12月6日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  4. 2015年1月24日(土)喫茶室ルノアール 高田馬場早稲田通り店
  5. 2015年2月28日(土)喫茶室ルノアール 市ヶ谷外堀通り店
  6. 2015年4月11日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  7. 2015年5月30日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  8. 2015年7月4日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  9. 2015年8月4日(火)早稲田大学 戸山キャンパス
  10. 2015年9月10日(木)早稲田大学 戸山キャンパス
  11. 2015年11月5日(木)早稲田大学 戸山キャンパス
  12. 2015年12月3日(木)早稲田大学 戸山キャンパス
  13. 2016年1月23日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  14. 2016年2月16日(火)早稲田大学 戸山キャンパス
  15. 2016年3月15日(火)早稲田大学 戸山キャンパス
  16. 2016年4月16日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  17. 2016年5月29日(日)早稲田大学 戸山キャンパス
  18. 2016年6月19日(日)早稲田大学 戸山キャンパス
  19. 2016年7月2日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  20. 2016年8月27日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  21. 2016年10月8日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  22. 2016年12月3日(土)早稲田大学 早稲田キャンパス
  23. 2017年1月21日(土)早稲田大学 早稲田キャンパス