研究ブログ

2018/10/09

勅語原義草稿

Tweet ThisSend to Facebook | by 森 新之介

緒言

 明治23年(1890)10月30日付で公示された315字の勅語は、後に「教育ニ関スル勅語」と称されるようになる。この所謂「教育勅語」は短文でありながら、または短文であるからこそ、今日までに数百もの訳註を生んできた。

 稿者がその幾つかを見たところでは、亘理章三郎編『教育勅語通解』(金港堂書籍、1917)が最も簡明穏当であるが、従い難い箇所もある。井上哲次郎『勅語衍義』(敬業社・哲眼社、1891)や文部省訳(『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告』、1940)、佐々木盛雄訳(『甦える教育勅語――親と子の教養読本――』、国民道徳協会、1972)、そして近時の高橋陽一訳(教育史学会編『教育勅語の何が問題か』、岩波書店、2017)などに至っては、誤読曲解に満ちている。

 私見では、教育勅語は漢文訓読調の和文としてよりも、むしろ日本漢文の訓読文として読解することではじめて意味が通るものである。前掲『教育勅語通解』の訳註がかなり穏当である理由も、著書3人の亘理以外2人が漢学者の諸橋徹次と森本角蔵であったことと無関係でないであろう。

 本稿では以上の問題意識により、教育勅語を訳註した。ただし、誤謬遺漏などもあるに違いないため、公表後も随時補訂していく。

凡例

原文(除く日付と御名御璽)

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

註釈

朕惟フニ

 勅語全体に管到している。

我カ皇祖皇宗

 「皇祖」は直後に「国ヲ肇ム」とあるため神武天皇を指し、「皇宗」は歴代天皇を指す。「皇祖」を天照大神とする説もあるが、従い得ない。ただし、天照大神が天皇の祖先でないという意味でない。

国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

 対句。

 「宏遠」は広大。「遠い昔」の意でない。また、広大な構想で始めたということであり、国が広大だったということでない。

 「徳ヲ樹ツ」は「道徳を立てる」でなく「徳沢を施す」の意。用例として、『孔子家語』致思篇第8に「思仁恕則樹徳、加厳暴則樹怨」とあり、このような「怨」の対義語としての「徳」は徳沢恩恵。

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ

 「克ク忠ニ克ク孝ニ」の語順だからといって、この勅語が忠を孝より重んじていると見る必要はない。直前で君恩について説いているためこの語順になっただけかも知れない。

世々厥ノ美ヲ済セルハ

 「世々」は「よよ」と訓む。代々。

 「美」は美風。

 「済セル」は「成し遂げた」の意。

 出典は『左伝』文公十八年の「世済其美、不隕其名」であり、杜預の註に「済成也、隕隊也」とあり、孔穎達の疏に「「世済其美」、後世承前世之美。「不隕其名」、不隊前世之美名」とある。後世の者が前世から承け継いだ美風を成し遂げ、その名を汚さないこと。そのため、「厥ノ美ヲ済セル」は後の「爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スル」と関連する。

此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス

 「此レ」「此」は「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セル」を指す。「我カ皇祖皇宗」からを指すとする説が多いが、従い難い。もしそうであれば、「世々厥ノ美ヲ済セルハ」でなく「世々厥ノ美ヲ済セリ」と文が切られているべきであろう。

 「精華」は「最も美しいところ」の意。真髄などでない。また、我が国体において最も美しいところということであり、我が国体が万国のそれらにおいて最も美しいということでない。

 「淵源」は起源、由来。根本などでない。

爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ

 儒学の五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)に近いが、兄弟や夫婦について別(けじめ)や序(序列)でなく友や和を強調するなど、やや相違もある。また、4者の並べ方も同じでない。

恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ

 対句。前者は「恭倹の精神で自己を保ち」の意で、後者は「博愛の精神で衆人に及ぼし」の意。

 「博愛の精神を衆人に及ぼし」の意でなく、衆人に及ぼすべきものは仁愛など。 前文で説いた家族友人という自分に身近な人たちへの仁愛などを、より広い、身近でない人たちにも及ぼしていくべきことを説く。「衆ニ及ホシ」の用例は見出し難いが、恐らく「及物」(物に及ぼす)を平易に言い換えたものであろう。

学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ

 「以テ」の前後で対応している。学問を修めて智能を啓発し、仕事を習って徳器を成就する。

 「徳器」は徳行と才器。朱熹『小学』善行篇第6に「徳器成就」とあり、明の陳選『小学句読』は「徳器」を「行成曰徳、才成曰器」とする。

進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ

 対句。

 「進テ」は「世に出て」の意。

 「世務ヲ開キ」は「世のためになる事業を始め」の意。

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

 「緩急」は危急。外寇(外敵の襲来)などを指す。

 「義勇公ニ奉シ」は「義勇の精神を公に奉仕し」でなく「義勇の精神で公に奉仕し」の意。なお、これを「兵士になって戦い」の意に解する必要はない。この勅語は不特定の国民を対象としたものであるため、もしそう解すると女なども兵士になって戦うということになってしまう。

 「以テ」は直前の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」だけを承ける。「爾臣民父母ニ孝ニ」からの全体を承けるとする説も多いが、従い得ない。それでは「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ」の「以テ」が説明できなくなり、また「父母に孝であることによって皇運を扶翼する」などということにもなって不自然。「進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ」からを承けるとする説もあるが、やはり従い難い。

 「天壌無窮」は『日本書紀』で「宝祚」(皇位)が永久に栄えることを言った語。そのため、「天壌無窮ノ皇運」の「皇運」は皇位の意とする説が多いが、従い得ない。これは皇国の運勢すなわち国運の意。もし皇位の意に解すると共和制国家に妥当しないことになり、後の「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」と整合しなくなる。

 「皇運」の先行用例として着目すべきは、幕末維新期の

皇国之衰運ヲ挽回シテ、外ハ慢夷之胆ヲ呑、内ハ生霊ヲ保テ奉安
叡慮、〔…〕度奉存候
(徳川家茂の孝明天皇への奉答書、文久4年[1864]2月14日)
偏に
皇運挽回之至誠を以
聖朝を輔弼し、幕府を扶助し、藩屏之任を竭度と之赤心ニ候
(島津茂久と久光の連署建言、慶応2年[1866]7月9日)
皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ
(坂本龍馬「船中八策」、慶応3年[1867])
皇運挽回セザルアランヤ、豈外蕃ヲ制スルノ術ナカランヤ
(中岡慎太郎「時勢論」、同年)
今日 皇国之衰運ヲ挽回シ 皇威ヲ海外ニ耀シ奉ル儀ハ
(太政官五藩の総裁宮への連署建言、明治元年[1868]2月7日)
などであろう。これらは外敵により危機に瀕した国運を挽回するという用法であり、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という文脈に合致する。

 なお、明末の藕益智旭「陳罪求哀疏」(崇禎12年[1638])にも「始見外寇猖獗、饑疫洊臻、国政乖張、元気侵蝕、願修成道力、興隆正法、黙扶皇運」とある(「外寇猖獗」は後金の侵攻を指す)が、幕末維新期の用例との関係は未詳。また、細川広世『明治政覧』(原書房、明治18年[1971])の「一朝ニシテ将軍ノ職ヲ辞スルニ至レリ此全ク紀綱ノ弛緩スルノミナラス皇運ノ挽回ト時勢変遷ノ然ラシムル所」(中編「藩治及廃藩」)などの「皇運」は皇室の運勢を指すように見える。当時そのような意味が新しく生じていたため、「天壌無窮ノ皇運」の「皇運」についても誤解が生じたのかも知れない。

 「扶翼」は「助け支える」の意。

 「ヘシ」は「父母ニ孝ニ」まで管到している。

是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

 「これらを行えば結果として天皇への忠になる」と説くが、「忠になるためにこれらを行え」とは説いていない。

斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所

 「子孫」は「皇祖皇宗の子孫である天皇や皇族」の意。殊に明治天皇自身を指す。

之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス

 対句。「之」は「斯ノ道」を指す。

 「古今」は昔と今、「中外」は国内外。なお、「中外」を宮廷内外とする説もあるが、それでは余りに狭くて対句の「古今」と釣り合わないため、従い得ない。

 「通シテ」は「一貫して」、「施シテ」は「施行して」の意。ただし、ともに「照らして考えて」ほどの意。

 「謬ラス」「悖ラス」はともに「間違いでない」の意。

 出典は「君子之道本諸身、徴諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑」(『礼記』中庸篇)。全体として、「これは現代日本でだけ妥当するものでなく、古今東西どこででも妥当する普遍のものだ」の意。

朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 「徳ヲ一ニセン」はその徳を純一にすること。出典は『尚書』商書「咸有一徳」篇の「徳惟一動罔不吉、徳二三動罔不凶」。


大意

朕はこのように思う。我が皇祖皇宗は国を広大に始め、恵みを深厚に施した。我が臣民がよく忠でありよく孝であり、億兆の心を一つにして、代々祖先からの美風を成し遂げてきたことは、我が国体の最も美しいところであり、教育の淵源もまた実にここにある。汝たち臣民は父母に孝であり、兄弟に友であり、夫婦は互いに睦まじくし、朋友は互いに信じ、恭倹の精神で自己を保ち、博愛の精神で衆人に及ぼし、学問を修め仕事を習い、そうすることによって智能を啓発し徳器を成就し、世に出て公益を広げ世務を始め、いつでも国憲を重んじ国法に遵い、もし危急があれば義勇の精神で公のために奉仕し、そうすることによって天壌無窮の国運を扶翼すべきだ。このようであれば、ただ朕の忠良な臣民だというだけでなく、また汝たちの祖先の遺風を顕彰することもできるだろう。

この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓であり、その子孫も臣民もともに遵守すべきものであり、古今や内外に照らして考えても間違いでないものだ。朕は汝たち臣民とともに拳々服膺して、みなその徳を純一にしたいと希望する。

私見

  • 皇祖皇宗が道徳を作ったとか、「皇祖皇宗ノ遺訓」より前に道徳はなかったとかいうことは説いていない。
  • 日本が他国より優れているとは説いていない。そもそも、日本と他国を比較していない。
  • 父母に孝であれ(「父母ニ孝ニ」)などとは説いているが、天皇に忠であれとは説いていない。これまで汝たち臣民は天皇に忠だったと強調し、今後もそうであることを期待してはいるが、命令してはいない。
  • 「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」は、「たとえどの国においても、国民は危急があれば義勇の精神で公のために奉仕し、そうすることによって自国の国運を扶翼すべきだ」という一般論を前提として、「日本においては天壌無窮の国運を扶翼すべきだ」と説くものだと考えられる。そう解釈しなければ、後の「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」と整合しない。

補記

  • 当初、「徳ヲ一ニセン」については「一徳一心すなわち君臣が心を一つにして協力すること。用例として、漢の桓寛『塩鉄論』世務篇第47に「天下和同、君臣一徳、外内相信、上下輯睦」とある」と書いた。これは、『尚書』の偽古文「咸有一徳」篇が出典にされることはないだろうと臆断したためである。また後に、元田永孚『経筵進講録』(『元田先生進講録』)第13篇「書経咸有一徳」に「君臣一徳、上下一和致しまして」云々とあることを知り、その旨も追記した。
    しかし、渡辺幾治郎『教育勅語の本義と渙発の由来』(福村書店、1940、p.284)によれば、「徳ヲ一ニセン」は三島中洲の進言によるもので「咸有一徳」篇を出典としており、元田も非常に感激したという。また、元田『新年進講録』明治24年進講(元田竹彦・海後宗臣編『元田永孚文書』2、元田文書研究会、1969)には「君臣一徳」とあるものの、その直後に上下一和はない。永田は、君が心を純一にし臣も心を純一にすれば、結果として君臣が親睦し互いに和らぐと考えていたらしく、すなわち君臣一徳を上下一和と同義としていなかったらしい。
    以上の理由により、旧註を撤回した。

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2018/05/10

ある研究会に参加して

Tweet ThisSend to Facebook | by 森 新之介
私は昨年、ある研究会に参加した。

会場で受け付けの手続きを済ませると、係員から「参加費として約5千円を支払うように」と求められた。
私は「はて、プログラムに「参加費有料」などと書いてあっただろうか」と思いつつも、「きっと書いてあったけど見逃してしまったのだろう」と思い、言われるままに支払って領収書を受け取った。

数日後、研究費の受給元の経理担当者にその研究会のプログラムと参加費の領収書を提出し、立て替えた参加費を支出するように求めた。
すると経理担当者は、
プログラムには参加費として約5千円を徴収する旨が書かれていない。
プログラムでなくともよいから、約5千円の参加費徴収を証明する文書を主催団体から取得して提出せよ。
と求めてきた。
言われてみてプログラムを読み返すと、確かに「参加費として約5千円を徴収する」という旨は書かれていなかった。

そこで私は主催団体にメールして、参加費約5千円の徴収を証明する文書を送るように求めた。
私は以前に同じ研究会に参加した時もそのような文書を求め、提供されていたので何も問題ないと思われた。

しかし主催団体の担当者(某研究機関准教授)からは、そのような文書の提供を拒否されてしまった。
その理由は、
参加費約5千円には、懇親会費など、研究費での支出が不可能な費目が含まれており、これについて証憑を発行することは不適切であろう。
約5千円は諸経費まとめての額面であり、これを費目別に分けて、書類を作成することも困難だ。
というものだった。

そこで私は、次のように返信した。
私の研究費での支出が可能か不可能かは、貴団体が判断すべきことでないと考える。
先日のメールでも伝えたように、参加費の領収書はすでに会場で受け取っているので、あとは貴団体があの研究会で参加者から一律に参加費約5千円を徴収したという文書を取得したいだけだ。
但し書きや名目などは「参加費(含む懇親会費など)」などでよいので、送ってほしい。
このメールにはなかなか返信がなかったので、私は次のようなメールも送った。
私は「文書を偽造して送れ」などと求めているのでもないのに、何故「参加者から一律に参加費約5千円を徴収した」という文書を提供することが出来ないのか、理解できずにいる。
研究費で処理できたはずの参加費が、貴団体が速やかに文書を送らなかったことが原因で処理できなくなるということも有り得る。

すると、主催団体の担当者から次のようなメールが来た。
あなたが求めている文書は提供できないが、それに近い文書は添付して送る。
昨今、科研費の不正利用が大きな問題となっており、早稲田大学も過去に大きな傷を負った前例があることはあなたも知っているだろう。
科研費の不正使用の罰則に連座制が適用されていることも知っているだろう。
近年は毎年必ず研究倫理講習会を行わなくてはならず、その際の資料や毎月届く学振からのメールには、不適切な会計処理により生じた事例の紹介が後を絶たない。
特に、酒の混じった懇親会のために公費を使うことは非常に危険だ。
前途有望な研究者がこうした事故に巻き込まれてしまうと、将来の道は閉ざされたも同然になるだろう。
あくまでグレーゾーンの領域であり、当方がこれに正式に関わることになると、日本の風土ではもはや許されないことになるだろう。

主催団体の担当者から提供された「それに近い文書」を研究費の受給元の経理担当者に提出すると、「これでよい」との回答を得た。
しかし私は、最初の問い合わせから解決までに数か月を要したこともあり、納得が行かなかった。
そのため、主催団体の担当者に次のようなメールを送った。
今回の貴団体の対応には今も全く納得できずにいる。
そもそも私は「科研費で処理する」などということは一言も言っていない。
何故貴団体は、私が(所属大学の個人研究費でもどこかの財団からの研究費でもなく)科研費で処理するはずだと決め付けたのか。
「研究費での支出が不可能な費目」「科研費の不正利用」などということは、率直に言って余計な世話だ。
仮に私が書類の偽造を依頼し、貴団体がそれに応じたのであれば連座ということにもなるだろう。
しかし、以前にも言ったように、私はただありのままの事実を裏付ける書類を提供してほしいと依頼しただけだ。
何故貴団体が連座制の適用を危惧するのか、全く理解できない。
以前にも言ったように、研究費で処理できるかどうかは研究費の受給元の経理担当者が判断すべきことであり、貴団体が判断すべきことでない。
もし研究費で処理することが不適切であれば、経理担当者が処理を拒否するだけのことだ。
今回私が会場で「プログラムに明記されていない参加費約5千円」を求められるまま支払ったのは、貴団体が後日適切に対応するに違いないと信じていたからだ。
まさか研究費で処理できなくなるかも知れないとは思わなかった。
今後、貴団体の研究会で「プログラムに明記されていない参加費」を支払うように求められても、素直に応じるべきかどうか躊躇せざるを得ない。
もし私の言うことにどこかおかしなところがあれば、後学のため指摘してほしい。

このメールについて、主催団体からは今に至るまで返信がない。
私はやはり納得できないままだった。

しかし後日、私は偶然に次のページを見付けた。
【Q4474】学会への出席にあたって、学会参加費の中に夕食のレセプション(アルコール類も提供される)費用が含まれており、この部分だけ切り離すことはできないとのことでした。
こうした場合に、学会参加費を科研費から支出することはできませんか?
【A】学会参加費の中にその費用が組み込まれ不可分となっているようなレセプションは、学会活動の一環として企画されていると考えられますので、その際にアルコールが供されるか否かを問わず、参加費を科研費から支出することは可能と考えます。
なお、実際には、様々なケースがあると思われますので、一般常識的に見て学会活動を超えるようなケースまで可能とするものではありません。
(文部科学省研究振興局学術研究助成課「その他の費目についての質問」、平成23年6月登録)
つまり、主催団体の担当者の「あなたは科研費で処理しようとしているのだろう」という推測が臆測であっただけでなく、そもそもたとえ科研費で処理するにしても問題はなかった。

この件から、私は2つの教訓を得た。
第1に、研究費の使用方法については、たとえどこかの研究機関の教授が言うことであっても、鵜呑みにしてはならないということ。
第2に、「所属研究機関の事務員が理不尽なことを言って研究費の適切な使用を妨げてくる」という研究者たちの不満はよく聞いていたが、研究費の適切な使用は事務員だけでなく同じ研究者によっても妨げられるということ。

ちなみに、「何故あの主催団体の担当者は、会場で領収書が発行されているのに、"参加者から参加費を徴収したことを証明する文書"の提供を最後まで頑なに拒んだのか」は、今でもよく分からない。
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2017/11/07

2つの文章への反応

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私が一昨日公表した2つの文章「末木文美士の余録への応答」「私が日本思想史学会を退会した理由について、現在までに3人から反応があった。

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末木文美士氏から以下のメールがあった(原文ママ)。

日本思想史学会の退会は残念ですが、私の問題提起から、議論が発展するとすれば、大変ありがたいことです。
特に若い研究者の方々からの反応のありますことを期待しております。

ブログへのコメントの仕方が分かりませんので、個人メールで失礼します。
もし可能でしたら、ブログのコメントにアップしてください。

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ある会員(60歳台、教授)から非常に長文のメールがあった。
その末尾に次のようにあった(註を除いて原文ママ)。

〔退会したことであなたに…引用者註〕不利益があるとすれば発表媒体の候補の一つを無くしたという程度で、それ以上の損失はないと思います。
今後ともしっかり研究されることで、上記の人たちを見返してください。
研究は少しくらいハングリーなほうがよい研究ができると思います。

これには「今後ともご指導ご鞭撻のほど、何卒宜しくお願い申し上げます」と返信した。

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ある会員(30歳台、非常勤)から以下のメールがあった(原文ママ)。

学会誌は往復書簡・意見をやりとりする場所であってもいい(一昔前は論争の現場でもあったらしいので)と思うので、今回の学会評議員の判断は失策であると感じます。
ただ、若手としてはやはり退会はデメリットが大きすぎるとも危惧します。
論文内容でのやり合いは私としては問題無い行為だと思い信じますが(ただし、これすら「不遜」だとして嫌う「大家」も多くいるらしいですね)、今回のような手続き面での「しこり」は、森さんの主張の正当性を加味しても、やはり若手にとってかなり危険だと思うのです。
少なくとも任期のない常勤職を得るまでは。(人事がかかわる人間関係については、裏で暗躍する権力者が多いらしいです。)

これには「全く仰る通りです。何も付け足すことがありません」と返信した。

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2017/11/05

私が日本思想史学会を退会した理由

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私は2017年10月24日、日本思想史学会(以下、適宜「学会」と略す)を退会した。
その退会理由は多くの人にとってどうでもよいことだろうが、私にとってはそうでないため、ここで説明したい。



事の始まりには、同学会の会誌『日本思想史学』第49号(2017年9月刊行)に掲載された末木文美士氏の余録「第48号特集コメント記事への応答」があった。
別稿「末木文美士の余録への応答」で述べたように、末木氏の余録は私にとって理解も受忍もできない、極めて心外なものであった。
しかし、私は末木氏の余録が原因で日本思想史学会を退会したのでない。
末木氏余録への応答を日本思想史学会のニューズレターに寄稿したい、と同学会に要望したものの却下され、その却下理由に承服できなかったから退会した、ということである。

末木氏は同学会の評議員であるが、この要望却下という決定には関与していない。
そのため、もし森は末木氏が原因で退会したと考えている人がいれば、それは全くの誤解である。


拙宅に『日本思想史学』第49号が郵送されてきたのは、10月16日のことであった。

私は5日後の21日、日本思想史学会にメールを送信した。
内容は次のようなものであった(以下、メールや会話の内容はすべて大意)。

そもそも第48号所載の私のコメント記事は、一昨年の大会シンポジウムでの私のコメント内容に沿ったものだ。
末木氏は、一昨年の大会シンポジウムでの私のコメントに応答したければ、当日の全体討論で応答すべきだったと考える。
もし当日の全体討論で応答していれば、私もまたその場で応答できていた。
そうせずに第49号に余録を寄稿して掲載されたため、私は誤解を払拭する機会を奪われてしまった。

私には学会の場を借りて応答する権利があると考える。
そのため、今年末発行予定のニューズレター第27号に応答を寄稿したい。
もし紙のニューズレターでそのための紙幅を割き得ないということであれば、紙では応答の題目だけを載せて本文は学会HPのニューズレターにのみ載せる、ということでもよい。

このメールを送った時、私は要望は快諾されるだろうと考えていた。
しかし、それは誤りであった。

翌22日、学会からメールで返信があり、私の要望を却下する旨が通知された。
また、それとともに、末木氏余録が掲載されるに至った経過などについて説明があった。

一昨年の大会後、末木氏から、あなたのコメント記事への応答を寄稿したいという要望があった。
その理由は、森氏のコメントには「重要な指摘」があり、大会当日の全体討論はそれに応答するところから議論が展開したが、第48号では質問が投げ掛けられたまま応答がない状態になっているため、とのことだった。
そこで今回(第49号)、前例のないことだが、「余録」として末木氏の「第48号特集コメント記事への応答」を掲載した。

末木氏としては、すでに大会シンポジウムであなたのコメントに応答したということらしい。
しかし、あなたのメールによると、大会当日に末木氏からの応答はなかったという認識のようだ。
応答があったかどうかについては、一昨年のことであり全員記憶も曖昧で、水掛け論に終わってしまい藪の中だ。
あまり生産的でない。

基本的には、会誌所載の大会シンポジウム特集は、大会シンポジウムのやり取りを載せるものだと考えている。
その意味で、昨年(第48号)のあなたのコメント記事と今年(第49号)の末木氏の余録で、一昨年のシンポジウムの成果報告としては十分だと考えている。
さらに今回の余録についてあなたからの応答を掲載するということになると、シンポジウム以上の議論になってしまうのでないかと考える。
その意味で、さらに学会のニューズレターなどの媒体において、議論を延長させることには躊躇する。


同22日、私は再び学会にメールを送信した。

私がこれ以上何かを言っても決定は覆らないだろうが、少し説明を補足する。

先のメールでも述べたように、私のコメント記事は実際のコメントに沿ったものだ。
そのため、もし末木氏が「森のシンポジウム当日のコメントには重要な指摘があり、応答したい」と考えたのであれば、第48号所載の自分の報告記事の末尾に「付記 当日のシンポジウムでは森からこれこれのコメントがあり云々」などと書いて応答すればよかっただろう。
何故「第48号が刊行されたことではじめて応答の必要が生じた」かのような話になっているのか、理解できない。

正確に言うと、末木氏余録の5点のうち、第2、第4点については余録と同じ趣旨の応答があったが、第1、第3、第5点については応答がなかった。
言うまでもなく、これは「私の記憶によれば」ということだが、第1、第3点についてあのような応答があれば忘れはしないだろう。
特に第3点は私にとって全く心外なもので、忘れるはずが、というよりその場で黙っているはずがない。

私としては、末木氏のあの余録がすでに「シンポジウム以上の議論」になっていると考える。

最後に1つ。
これを言うと、聞き分けのない子供の駄々のように受け取られてしまいかねず、あまり言いたくないが、何故末木氏が「要望」すると「前例のない対応」が認められ、私が「要望」するとそうならないのか、ということが理解できずにいる。

何れにせよ、私の応答のニューズレター掲載が認められないということは承知したので、応答は他日ブログかどこかで公表することにする。
ただ、その時「何故応答の公表媒体を日本思想史学会と無関係な場にせざるを得なかったのか」という理由は書くことになるかも知れない。
これは他意あってのことでない。

このメールを送信した時、私はまだ退会を考えていなかったが、送信後に考えを改めた。
ただし、翌23日〆切の原稿があり多忙であったため、すぐには退会の意思を伝えられずにいた。

23日、学会から再びメールで返信があり、説明が補足された。

誤解のないようにしておきたいことがある。
あなたは、末木氏の要望は認められ自分の要望は認められなかったと考えているようだが、そのようなことはない。

大会シンポジウムの報告者は末木氏であって、あなたはそのコメント役だったということを理解すべきだ。
大会当日のシンポジウムでは、あなたの刺激的なコメントで、問題がはっきりして議論が展開したと記憶している。
その意味で、コメントは末木氏の言うように「重要な指摘」を含んでいたと考える。
今後、それを自身の研究で発展させていけばよい。


翌24日、私は学会にメールを送信し、退会を届け出た。
そして、次のように伝えた。

「何故報告者の余録は認められて、コメント役の応答は認められないのか」は、やはり理解できずにいる。
末木氏の余録の特に第3点は私のコメントへの重大な誤解であり、私にはこれを放置しておくことはできず、汚名を払拭する必要がある。
その汚名払拭の場が与えられない理由について、理解できず承服できないまま学会に留まることは、「今後また同じことがあってもよい」と言っているも同然だということに気付いた。

最後まで学会から明快な説明が得られなかった私の疑問は、次のようなものである。
末木氏は、私のコメントに応答したいのであれば、第48号所載の自分の報告記事の稿末で応答すべきだったのでないか。
学会は、応答の機会を活用しなかった末木氏のために、何故前例のない余録の寄稿を認めたのか。
シンポジウムから逸脱した議論を掲載したくない、ということであれば、そもそも末木氏余録を掲載すべきでなかったのでないか。
末木氏の「第48号特集コメント記事への応答」と題された余録、すなわちシンポジウムから1年後に刊行された会誌所載の私のコメント記事へのそのまた1年後に刊行された会誌所載の応答が、何故シンポジウムから逸脱した議論でないと言い得るのか。

また、学会は、私からの要望を「仮に森の応答をニューズレターに掲載したとして、それが生産的な議論になるか」という視角からしか受け止めていなかったように見える。
私が応答をニューズレターに寄稿して実現したかったことは、生産的な議論よりも汚名の払拭である。

言うまでもなく、末木氏には私に汚名を着せようなどという意図は全くなかったに違いない。
もしかしたら、汚名を着せられたなどという考えは私の誤解でしかないのかも知れない。
しかし何れせよ、学会は、私が汚名を着せられたと考えていること、そしてそれを雪ぎたいと考えていることに全く関心がないように見えた。
自分たちが会員への不当な評価汚損に加担してしまったかも知れない、ということにも全く関心がないように見えた。

後に、今回の経過をよく知るある評議員からは、メールで次のように伝えられた。
なお、このメールは学会にも同報されていた。

大会シンポジウムのコメント記事への応答が会誌に掲載され、それにコメンテーターが応答できない可能性があるとなると、今後は大会シンポジウムのコメンテーターの引き受け手がいなくなるのでないか、とりわけ若い会員に忌避されるようになるのでないか、ということを危惧する。
少なくとも、コメントが萎縮するということはあると考える。
あなたが退会を選択するのも理解できる。

今回の経過をよく知る別の評議員からは、「私に言わせれば、あそこで退会という選択肢は有り得ない」と言われた。
私は、「私に言わせれば、あそこで退会しないという選択肢は有り得なかった」と答えた。

今回の経過をよく知っているのかどうかよく分からないまた別の評議員からは、「自分の意に副わない文章が会誌に掲載されたからと言って退会していれば、どこの学会にもいられなくなるだろう」と言われた。
その時の私は、「話せば長くなる」としか答えられなかった。


私も当然、退会の届け出前に、退会することによって生じるかも知れない不利益について考えた。

ブログで末木氏余録への応答や退会の理由を公表しても、それらを読む人は僅かしかいないのでないか。
それ以外の人たちは、森は末木氏に批判されたからと言って学会を退会してしまうくらい狭量不遜だ、と考えてしまうのでないか。
また、私の末木氏余録への応答や退会の理由を読んだ僅かな人でさえ、やはり森は狭量不遜だ、と考えてしまうのでないか。
もしそのような悪評が生じ、広まってしまえば、私は現職の任期が切れた後に研究職を得られなくなるのでないか。

しかし、こうも考えた。

末木氏に着せられた(と少なくとも自分では考えている)汚名を受忍することはできない。
このまま学会に留まれば、また同じようなことがあるかも知れず、少なくとも同じようなことがあってもよいと言っているも同然になる。
もし学会に留まって次の研究職を得られなければ、私に何が残るのか。
汚名しか残らないのでないか。
そうであれば、何をすべきかは明らかだろう。

今回の経過をよく知っているのかどうかよく分からないが、私のことをよく知っているある会員は、私の退会という選択について「あなたらしいと言えばらしいけれども」と呆れ笑いしていた。

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2017/11/05

末木文美士の余録への応答

Tweet ThisSend to Facebook | by 森 新之介
本稿は、『日本思想史学』第49号(2017年9月刊行)に掲載された末木文美士の余録「第48号特集コメント記事への応答」への応答である。

  1. 経過
本稿の論旨などにも関係することであるため、まず末木余録が同誌同号に掲載されるに至った過程を略述する。
一昨年(2015年)10月に開催された日本思想史学会2015年度大会シンポジウム「思想史学の問い方――二つの日本思想史講座をふまえて――」で、末木と筆者はそれぞれ報告者の一人とコメンテーターの一人となった。
末木は「二つの日本思想史講座と日本思想史の問い方」と題して報告し、筆者はそれに「末木文美士報告へのコメント――両講座における中世研究の課題――」と題してコメントした。

なお、筆者が末木報告にほぼ限定してコメントしたのは、そうするように大会委員から要望されていたからである。
また、シンポジウムの副題にある「二つの日本思想史講座」と筆者の所謂「両講座」とは、ともに日本思想史学会の会員が中心になって企画されたぺりかん社『日本思想史講座』5巻と岩波書店『岩波講座日本の思想』8巻を指している。

当日、末木は報告に配布資料を用い、筆者はコメントにスライド(森コメント.pdf)を用いた。
筆者たちは事前に他の登壇者や大会委員を交えてメールでの打ち合わせを重ねていたため、当日の報告とコメントがそれぞれどのような内容になるかは、互いに予め把握していた。
筆者は資料を聴衆に配布しなかったが、スライドの打ち出しを末木たち登壇者だけには配布した。

登壇者の報告とコメントの内容は、例年の大会シンポジウムがそうであるように、次の年すなわち去年(2016年)9月刊行の同誌第48号に特集記事として掲載された。
記事は報告者とコメンテーターが各自作成したものであり、末木の報告記事は「思想/思想史/思想史学――二つの日本思想史講座と日本思想史の問い方――」、筆者のコメント記事は「両講座における中世思想史研究の課題」(シンポ抜刷.pdf)という題名であった。
末木余録の所謂「第48号特集コメント記事」とは、筆者のこのコメント記事を指している。

  1. 余録寄稿の不審
学術雑誌に新刊書の書評が掲載され、その書評に不満のある著者が反論文などを同じ雑誌に寄稿する、ということは他誌で稀にある。
筆者も以前、そのような応酬の当事者になったことがある。
しかし、シンポジウムのコメント記事への応答が掲載されたという例を、筆者は『日本思想史学』でも他誌でも他に聞いたことがない。

それは通常、もしコメントの内容に不満などがあれば、シンポジウムの全体討論で応答すればよいからである。
1年後にコメント記事が掲載されるのを待って、そのまた1年後に応答を寄稿するなどということは不自然である。
もしそうしなければならない理由があるとすれば、それはコメンテーターが当日コメントしなかった新規内容をコメント記事に盛り込んだ時だけであろう。

では、筆者のコメント記事はどうであったか。
筆者のコメント記事の本論は、シンポジウム当日のコメント内容を一部省略しつつ整理したものであり、追加はない。
ただし本論以外では、後註3で

末木の用法で「冥」「顕」は、それぞれ「死者を含む了解不可能な他者の領域」「神仏の世界」と「了解可能な人間間」を意味する(ぺりかん講座中世巻「総論」21頁)。
ただし、史料用語と分析概念が混同されており従い得ない。

という批判を追加し、また稿末に

付記 当日は報告で取り上げられる箇所を中心に、末木担当巻を論評した。
それ以外は今後俎上に載せられるべきであろう。
研究状況が停滞すれば、相互批判は生じ難くなる。
両講座の中世研究には事実の誤認や論理の飛躍、陳腐な通念、新奇な仮説なども散見され、それらを検証することなく「今日」「未来」に役立てようとすることは危険である。

という提言を追加した。

この2箇所だけは追加であり、もし末木がこれらに応答するために余録を寄稿したということであれば、理解できる。
しかし末木余録は、この2箇所に全く言及せず、それ以外の、すなわちシンポジウム当日の内容を記事化した箇所にのみ応答している。
このことを筆者は理解できない。

何故末木は、シンポジウム1年後の報告記事で応答せず、2年後に応答として余録を寄稿したのか。
報告記事は報告内容を記事化するものであるから、本論で報告へのコメントに応答すると不自然になる、ということは理解できる。
しかし、もしそうであれば、筆者がコメント記事でしたように報告記事の稿末で付記することは可能であったろう。
何故そうすることもなかったのか。

これらの生じて然るべき疑問に、末木は余録で全く答えていない。
ただ冒頭に

第48号掲載の特集の拙稿に対する森新之介氏のコメントに対して、応答したい。

とあるだけで、何故シンポジウム1年後の報告記事で応答しなかったのかについて、説明はない。

  1. 第2と第4、第5の応答
末木は余録で、筆者のコメント記事の5箇所に応答している。

第2と第4については「その通り認めたい」、「適切である。〔…〕反省したい」と述べ、筆者からのコメントを受け容れている。
何故そのようなコメントの余地が生じたかという末木の理由説明には、筆者にとって理解し難い箇所もあるが、本稿では立ち入らない。

第5について、末木は筆者からのコメントに賛同しているようにも見えるが、していないようにも見える。
ただし、これはあくまで注意喚起のようなものでもあったため、当初から賛同は期待していなかった。

筆者にとって問題となるのは、残る第1と第3の応答である。

  1. 第1の応答
第1の応答は、筆者の次の文章へのものである。

末木は、ぺりかん講座中世巻の「総論」で「近年の中世思想研究はきわめて進展が著しく、従来の常識はほぼ完全に転覆している」(25-6頁)と述べた。
しかし評者は、中世思想史研究でそのような活況を実感できずにいる。
平成18年、本誌第38号の「編集後記」は古代と中世の投稿論文について「減少傾向に歯止めがかからない」と警鐘を鳴らしており、本学会の大会でも研究発表は久しく低調である。
中世研究などは現在、極めて危険な状況にあると考えられるが、両講座にそのような危機意識は見出されない。

〔…〕

研究状況の停滞は、両講座の構成にも影を落としていないか。
末木が「多様な分野の研究者の協力」(報告資料)と述べたように、隣接諸学からの寄稿が多い両講座は華やかである。
しかしこれは、思想史学での中世研究が停滞しているため自給率が低下し、隣接諸学からの輸入に依存して成り立っているとも見得る。
また、隣接諸学での思想研究は人物よりも集団や時代全体に着目し、哲学や教理への考察が不十分になり易いという嫌いがある。
そのため両講座の中世研究は、哲学史や教理史から離れて文化史や精神史に傾き、思想史らしさをやや失っているかも知れない。

この筆者のコメント記事に、末木はこう応答した。

森氏は「中世思想史研究は活発か」という問題を提起し、それに否定的な見方を示している。
氏は、「日本思想史」という領域を閉じた自立的な領域と見ているようだが、私はその見方には反対で、日本思想史はもともと複合的な分野であり、単一の学会ですべてを網羅できず、多分野の成果を総合的に見るべきと考える。
その点、沢井啓一氏のコメントは示唆に富む。

ここで末木の所謂「沢井啓一氏のコメント」とは、同シンポジウムで筆者などとともにコメンテーターを務め、議論全体にコメントした沢井啓一のコメント記事「〈日本思想史〉は存立可能なのだろうか?」を指している。
筆者も、沢井のコメント記事は示唆に富む優れたものだと考えている。
しかし、沢井は近世儒学を専門としているため、そのコメント記事は必ずしも中世思想史研究の現状に妥当しない。

では、筆者の考える中世思想史研究の現状とはどのようなものか。
言うまでもなく、どの学問分野にも癖や偏り、得手や不得手がある。
日本文学界や日本史学界で中世思想史研究が活発でも、それだけでは必ず不足や遺漏が生じてしまうため、日本思想史学界で中世思想史研究が低調でもよいということにならない。

そして、日本思想史学会は日本思想史学界で唯一の全国学会である。
東北大学と立命館大学にそれぞれ日本思想史研究会があるものの、規模は遥かに小さく、またそこで中世研究が活発だという話も聞こえてこない。
そのため、斯学唯一の全国学会である日本思想史学会における中世研究の低調は、十分に深刻な問題である。
筆者がこれを危惧したのは、決して末木が言うように「「日本思想史」という領域を閉じた自立的な領域と見ている」からなどでない。

そもそも、末木は「多分野の成果を総合的に見るべきと考える」と述べながら、その「多分野の成果」である両講座が「思想史らしさをやや失っているかも知れない」とする筆者のコメントに全く言及していない。
末木は、両講座は思想史らしさを失っていないと考えているのか、それともやや失っているがそれでもよいと考えているのか。
この問題への応答がなければ、末木は筆者からのコメントに応答したことにならず、ただ「氏は、「日本思想史」という領域を閉じた自立的な領域と見ているようだ」という筆者への誤解を公表し、拡散しただけになってしまおう。

  1. 第3の応答
第3の応答は、筆者の次の文章へのものである。

宗教儀礼や密教に注目すると、これまで「脱呪術」として高く評価されてきた親鸞や道元などは評価し難くなる。

この筆者のコメント記事に、末木はこう応答した。

親鸞や道元について「「脱呪術」として高く評価されてきた」として、その従来の評価を鵜呑みにしている点である。
そのような評価を見直すことが、今日の中世研究にとって最も重要なことと考える。
「脱呪術」というウェーバー的な表現自体が、すでに「呪術」という否定的な価値評価を含む言葉を用いていて、適切と言えない。
親鸞に関しては、拙著『親鸞』(ミネルヴァ書房、2016)に私見を述べたので、ご覧いただきたい。

これは筆者にとって、全く理解できない、そして決して受忍できない批判である。
筆者はただ、親鸞や道元などは「これまで「脱呪術」として高く評価されてきた」という「従来の評価」を紹介しただけであり、それを「鵜呑み」になどしていない。
何故「従来の評価」を紹介すると、それを「鵜呑み」にしたことになってしまうのか。

なお、筆者はシンポジウム当日のスライドでは1箇所「脱呪術」を鉤括弧なしで用いた。
しかし、これは図表中の表記であり、より視認し易くするための措置であった。
また、末木の応答は筆者のスライドでなくコメント記事へのものであるため、批判の根拠がスライドでの表記であったとは考えられない。

そのため末木の、筆者が「今日の中世研究にとって最も重要なこと」と考えられるような「評価を見直す」ことなく「従来の評価を鵜呑みにしている」という批判は、全く根拠のないものである。

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2017/03/16

原稿検討会を開催して

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今日、ある論文を投稿した。
この論文については先日、原稿検討会を開催していたので、そのことについて少し書いておきたい。

「原稿検討会」という名を聞いたことがない人もいるだろう。
私が付けた名なので無理もない。

私は院生の頃から、論文を刊行して抜刷を渡して、それでやっと間違いを指摘してもらうことが出来るというのは効率が悪いな、と思っていた。
どうせなら、論文を投稿する前に間違いを指摘してもらった方がいいに決まっている。

しかも私の今回の論文は、これまで書いてきた論文とは少し違う問題を対象にしていた。
対象が書き慣れている問題であれば必要なかっただろうが、少し新たな挑戦だったので、投稿前にその分野の人たちに検討してもらいたかった。
このような考えにより、先日開催した会では投稿前の原稿を数人の研究者(非常勤講師と院生)に検討してもらった(アカギの生前通夜みたいなものである)。

もちろん、公刊どころか投稿すらしていない原稿を他人に見せることには危険もある。
私のように論文は単著が当たり前という業界にいる者にとって、これはかなり抵抗があった。
しかし、今回の原稿の主要箇所はすでに某学会で発表していたし、検討会の参加者も信用できる人だけを選んだので、問題ないと判断した。

開催した結果、私の原稿に間違いは全く指摘されなかったものの、誤字を1箇所指摘してもらうことが出来た。
これだけ見ると何だか労多くして功少なかったような印象になるかも知れないが、実際には非常に活発で有意義な議論が展開された。
参加者たちも原稿検討会への参加は初めてだったので、とてもよい刺戟になったようだった。

なお私は開催の1週間ほど前、参加者たちに
> 私は以前からの信条として、他人から有益な助言を頂いてもそれが口頭によるものであれば、原稿の註などで「○○氏からの教示による」などと書かないことにしています。
> ですから、来週の検討会で皆さんから有益な助言を頂いても、そのことを原稿の註などで書きません。
> もし「そうであれば何も助言したくない」ということであれば、来週の検討会ではただ私の原稿を読んでくださるだけで結構です。

と伝えてあった。
これは事前にハッキリさせておいてよかったと思っている。

博士号を取得し学生でなくなると、こういう会を開く必要も機会もなくなるだろうが、それでもやはり非常に有意義で刺激になった。
いつかまたこういう会を開きたい。
そしてもし今回の参加者が原稿検討会を開催する時は、私も恩返しを兼ねて参加していろいろ発言したい。
20:43 | 投票する | 投票数(1) | コメント(0)
2017/01/30

「『帝王略論』を読む会」完走のご挨拶

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「『帝王略論』を読む会」は2014年秋から虞世南『帝王略論』5巻を読み進め、この度、無事に完走いたしました。
主宰者として、読書会にご参加くださった各位、特に1回以上ご担当くださった

  • 会田 大輔
  • 蒋 建偉
  • 田熊 敬之
  • 付 晨晨
  • 三浦 雄城
(五十音順、敬称略)

の各位には心よりお礼申し上げます。

開催記録

  1. 2014年9月27日(土)喫茶室ルノアール 池袋パルコ横店
  2. 2014年11月1日(土)喫茶室ルノアール 池袋西武横店
  3. 2014年12月6日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  4. 2015年1月24日(土)喫茶室ルノアール 高田馬場早稲田通り店
  5. 2015年2月28日(土)喫茶室ルノアール 市ヶ谷外堀通り店
  6. 2015年4月11日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  7. 2015年5月30日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  8. 2015年7月4日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  9. 2015年8月4日(火)早稲田大学 戸山キャンパス
  10. 2015年9月10日(木)早稲田大学 戸山キャンパス
  11. 2015年11月5日(木)早稲田大学 戸山キャンパス
  12. 2015年12月3日(木)早稲田大学 戸山キャンパス
  13. 2016年1月23日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  14. 2016年2月16日(火)早稲田大学 戸山キャンパス
  15. 2016年3月15日(火)早稲田大学 戸山キャンパス
  16. 2016年4月16日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  17. 2016年5月29日(日)早稲田大学 戸山キャンパス
  18. 2016年6月19日(日)早稲田大学 戸山キャンパス
  19. 2016年7月2日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  20. 2016年8月27日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  21. 2016年10月8日(土)早稲田大学 戸山キャンパス
  22. 2016年12月3日(土)早稲田大学 早稲田キャンパス
  23. 2017年1月21日(土)早稲田大学 早稲田キャンパス

20:04 | 投票する | 投票数(1) | コメント(0) | イベント