長坂真澄

J-GLOBALへ         更新日: 17/11/23 23:15
 
アバター
研究者氏名
長坂真澄
 
ナガサカマスミ
eメール
masumi.nagasakamail.gpwu.ac.jp
URL
http://www.gpwu.ac.jp/guide/info/prof_list/04nagasaka.html
所属
群馬県立女子大学
部署
文学部 総合教養学科
職名
准教授
学位
哲学博士(フランス、トゥールーズ大学), Dr. phil. des.(ドイツ、ヴッパータール大学), 哲学修士(フランス、トゥールーズ大学/ベルギー、ルーヴァン・カトリック大学/ドイツ、ヴッパータール大学), 文学修士(京都大学)

研究キーワード

 
 

経歴

 
2016年4月
 - 
現在
群馬県立女子大学 文学部 総合教養学科 准教授
 
2014年4月
 - 
2016年3月
大阪大学 人間科学研究科 特別研究員PD(日本学術振興会)
 
2013年10月
 - 
2015年9月
トゥールーズ‐ジャン・ジョレス大学 ERRaPhiS (Équipe de recherche sur les rationalités philosophiques et les savoirs) 協力研究員
 
2010年4月
 - 
2010年10月
ヴッパータール大学 哲学科 リサーチ・アシスタント
 

学歴

 
2009年10月
 - 
2013年9月
ヴッパータール大学博士課程 Kultur- und Geisteswissenschaften / Philosophie
 
2009年10月
 - 
2013年9月
トゥールーズ大学博士課程 École Doctorale Allph@ (Arts, Lettres, Langues, Philosophie, Communication) ERRAPHIS (Équipe de Recherche sur les Rationalités Philosophiques et les Savoirs)
 
2007年4月
 - 
2013年3月
京都大学大学院 文学研究科 思想文化学専攻 博士課程
 
2008年10月
 - 
2009年9月
ヴッパータール大学 Kultur- und Geisteswissenschaften / Master Philosophies française et allemande dans l'espace européen (ERASMUS MUNDUS)
 
2008年2月
 - 
2008年9月
ルーヴァン・カトリック大学 Philosophie / Master Philosophies française et allemande dans l'espace européen (ERASMUS MUNDUS)
 
2007年9月
 - 
2008年2月
トゥールーズ大学 UFR de Lettres, Philosophie et Musique / Master Philosophies française et allemande dans l'espace européen (ERASMUS MUNDUS)
 
2005年4月
 - 
2007年3月
京都大学大学院 文学研究科 思想文化学専攻 修士課程
 

受賞

 
2017年3月
宗教哲学会 第4回宗教哲学会奨励賞
 
『宗教哲学研究』第29号掲載の論文「レヴィナスにおける主体の脱領域化―カントを背景に」による。
2014年11月
日本現象学会 研究奨励賞
 
発表「アポリアの始まり――若きデリダのフッサール『算術の哲学』読解――」(『現象学年報』第30号に掲載)による。

論文

 
長坂真澄
Interpretationes - Acta Universitatis Carolinae : Studia Philosophica Europeanea   (1-2/2016) 102-117   2017年8月   [査読有り]
本論考は、レヴィナスにおける無起源的他性という構想の形成について、批判哲学の背景から考察するものである。この目的のため、本論考はデカルトにおける神の実在証明、カントにおける超越論的理想の存在証明批判を辿った上で、レヴィナスのカント理解の変遷とともに、レヴィナスの中期から後期にいたる、他性をめぐる議論の深化を捉える。かくして本論考が示すことを試みるのは、デカルトによる神の実在証明とカントによるこの証明の批判を融合させるときにこそ、他性の無起源性が要請されるということである。
無限の理念――存在と存在者の彼方で:レヴィナスによる『カントと形而上学の問題』読解より
長坂真澄
フランス哲学・思想研究   (21) 218-229   2016年9月   [査読有り]
無限の理念を称揚するレヴィナスの哲学は、有限性を軸とするハイデガーの思考と対照をなす。本論考の目的は、無限についてのレヴィナスの言説を、ハイデガーが有限性を論じる書、カント書(『カントと形而上学の問題』)のレヴィナスによる読解から、再検討することにある。なぜレヴィナスは、ハイデガーの有限性の思考の意義を理解しながら、無限の理念を自らの哲学の旗印にとることができたのか。この問題を考察するために、我々は、カント書において言及される、無限の理念としての超越論的理想の概念に着目する。
長坂真澄
宗教学研究室紀要   (12) 62-79   2015年12月   [査読有り]
本論考は、デリダの1964-65年講義原稿『ハイデガー:存在の問いと歴史(学)/物語』に依拠し、以下のことを示す。デリダがハイデガーの『存在と時間』を、ハイデガー後期著作から遡行的に読解することで、形而上学の解体、つまり、脱‐物語、脱‐隠喩という延期の運動として捉えていたということである。それを示した上で、本稿は、この延期の運動が、デリダの「差延」概念へとつながることを提示する。
Con-tangence et archi-facticité – Jacques Derrida et Didier Franck autour d’Edmund Husserl
長坂真澄
Interpretationes - Acta Universitatis Carolinae : Studia Philosophica Europeanea   4(1) 167-185   2015年11月   [査読有り]
本論考は、D・フランクの処女作『身体と物体』、及び、デリダの『触覚――ジャン=リュック・ナンシーに触れる』所収の二章を突き合わせることで、フランクとデリダのフッサール読解の交差と差異を辿る。特に焦点となるのは、『イデーンⅡ』第二部の読解である。その中で浮かび上がるのは、フッサール現象学のアポリアに対する二つの相反する態度である。それは我々に、現象学の外部への向かい合い方に対する問いを投げかける。
La citoyenneté comme calcul de l'incalculable
長坂真澄
Jean-Michel Counet (dir.), La Citoyenneté. Actes du XXXIVème Congrès de l'Association des Sociétés de Philosophie de langue française (ASPLF). Louvain-la-Neuve / Bruxelles 21-25 août 2012, la Société Philosophique de Louvain (Bibliothèque Philosophique de   483-495   2015年10月   [査読有り]
本論考は、デリダのレヴィナス読解を軸に、市民性という概念を、「計算不可能なものの計算」の構造を持つものとして考察する。後期レヴィナスの「市民」概念には、二重性が確認される。一方で、「市民」は、計算不可能なものとしての「倫理的自我」に対置される、計算可能なものである。他方で、「第三者」が介入することの必要性から、この計算可能性は、「計算不可能なものの計算」として考察される。
長坂真澄
Horizon-Studies in Phenomenology   3(2) 21-34   2015年4月   [査読有り]
L・テンゲィは、現代フランス現象学の特徴を、可能性と現実性の関係の転倒のうちに見る。その顕著な例として彼が挙げるのが、M・リシールの現象学である。リシールは、カントの超越論的理想批判を継承するが、テンゲィはこの批判のうちに、可能性と現実性の関係の転倒を見出す。本稿は、テンゲィとは独立に、リシールのフッサール、ハイデガー読解を辿ることで、テンゲィのテーゼを確証することを試みる。
長坂真澄
表象   9 182-196   2015年3月   [査読有り]
本論考は、マルク・リシールが、これまでの現象学の何を問題とするのかを考察するものである。リシールは、フッサール、ハイデガーの現象学において、存在神学的形而上学の残滓、つまり超越論的理想の措定があるとする。本稿は、まず、カントによる超越論的理想の批判を簡潔に辿った後、リシールがこの批判をいかにフッサール、ハイデガーに対して差し向けるかを観察する。
長坂真澄
宗教哲学研究   (32) 109-122   2015年3月   [査読有り]
本論考は、デリダの『声と現象』を、信をめぐる考察として提示するものである。そのために本稿は、『声と現象』の骨格をなす三つの還元――指標、言語、直観の還元――を抽出し、それらの還元が、認識、思念、表現の不一致を浮かび上がらせることを示す。この不一致からこそ、信の問題系が現れることになる。というのも、信とは認識なき思念に対応するからであり、認識なき思念の表現とは、信の発露にほかならないからである。
長坂真澄
現代思想   43(2) 308-321   2015年1月   [招待有り]
デリダ哲学において、形而上学はしばしば存在‐神学と形容され、超克の対象とされてきた。本論考は、そもそも「存在神学」批判の創始者であるカント、それを独特な形で継承するハイデガー、また、存在神学批判をめぐって展開されるレヴィナスとデリダの議論を経由することで、デリダの存在‐神学批判とは何であるのか、それはいかなる形をとるのか、その先に見えてくるものは何なのかを明らかにしようとするものである。
長坂真澄
京都大学宗教学研究室紀要   (11) 3-21   2014年12月   [査読有り]
『精神について』(1987)においてデリダは、ハイデガーの思索を支える礎の部分に、約束(Zusage)という形のもとで、信への開けがあると論じる。本稿は、後期デリダによるハイデガー「語りの本質」読解を、彼の「隠喩の退き」(1978)における同講演の読解の延長線上に置くことで、信への開けの言説が、彼の長きにわたるハイデガー読解を通して形成されるにいたったことを示すことを試みるものである。
アポリアの始まり――若きデリダのフッサール『算術の哲学』読解――
長坂真澄
現象学年報   (30) 133-140   2014年11月   [査読有り]
本論考は、『フッサール哲学における発生の問題』等における、初期デリダによるフッサール『算術の哲学』読解を辿ることにより、以下のことを示すものである。第一に、デリダがフッサールの面したアポリアを、その哲学的考察の出発点としていること、第二に、彼がそのアポリアを、カント由来の「いかにしてア・プリオリな綜合判断は可能か」という問いの継承として捉えていること、第三に、彼がこの問いを、フレーゲのフッサール批判から発展させていることである。
長坂真澄
Interpretationes - Acta Universitatis Carolinae : Studia Philosophica Europeanea   2(1) 53-69   2013年6月   [査読有り]
本論考の目的は、デリダの『フッサール哲学における発生の問題』における、フッサールの「生活世界」概念をめぐる考察を出発点にとり、デリダ哲学の発端にあるアポリアを示すことにある。デリダは、超時間的な理念性が、時間的な実在性からいかに発生するかという問題の枠の中で、「生活世界」の概念について考察する。彼が着目するのは、この概念が持つ両義性である。それは、一方では感性的、実在的でありながら、他方では非実在的な可能性であるとされるからである。
長坂真澄
Horizon-Studies in Phenomenology   1(2) pp. 64-83   2012年12月   [査読有り]
本論考は、フッサールの1913年から1915年の講義録に現れる「超越論的観念論の証明」に依拠し、フッサールがカントから借用しつつ独自に展開する統整的理念の概念、「カント的意味における理念」と、無矛盾律との相互依存関係を示すことを目的とする。その際、我々の考察の手がかりとなるのは、「現実性」から完全に自由な「単に理念的な可能性」と、「現実性」にある程度拘束された「実在的可能性」の、フッサールによる区別である。
不可能性の可能性――デリダのフッサール読解から浮かび上がる信の概念――
長坂真澄
フランス哲学・思想研究   (N° 17) pp. 161-169   2012年9月   [査読有り]
本論考は、デリダ後期哲学において浮上する「信」の概念の形成過程を、デリダ初期のフッサール現象学読解にすでに潜在している「信」の主題の鉱脈を浮き彫りにすることにより、明るみにもたらすことを目的とするものである。デリダはフッサール哲学の最初期から最後期までの諸著作を、いかにして実在性の只中から理念性が発生するかという問題を軸として読解する。この発生はアポリアとして捉えられ、アポリアにおける信が要請されることになる。
長坂真澄
Interpretationes - Acta Universitatis Carolinae : Studia Philosophica Europeanea   Vol. 1(No. 2) pp. 57-70   2012年5月   [査読有り]
「不可能なものが可能なもののただ中に宿っているのでなければならない」――本論考は、著作『アポリア』におけるデリダのこうした構想を、彼のハイデガー再読を通して明らかにするものである。本再読でデリダは、ハイデガーが「不可能性の可能性」と形容する「死への存在」を再考察する。この定式は、差し当たり「実存的不可能性の実存論的可能性」として理解できるが、デリダはこれを「不可能性としての可能性」と再解釈し、このアポリアをめぐる考察を展開する。
長坂真澄
表象   Vol. 6 pp. 125-139   2012年3月   [査読有り]
本論考は、デリダの『ならず者たち』後半に収録された論考に依拠し、デリダの「デモクラシー」をめぐる問いを、カント、フッサールにおける超越論的仮象の問題から、考察しようとするものである。カントは理性に内的な病としての超越論的仮象と戦い、フッサールは自然主義、客観主義という仮象と戦った。それに対し、我々が示すことを試みるのは、デリダが論じる「来るべきデモクラシー」が、ただ単に超越論的仮象に対置させられるのではなく、むしろ「あたかも超越論的錯覚であるようなもの」であるということである。
長坂真澄
宗教哲学研究   Vol. 29 pp. 70-83   2012年3月   [査読有り]
本論考は、レヴィナスの「メシア的テクスト」に着目し、カント由来の、理性的努力と無条件の恩寵との両立不可能性というパラドックスを通して、知の信をめぐる二つの運動を明らかにするものである。レヴィナスにおいては、一方で、宗教が理性の成熟とされるのに対し、まさに宗教をあらゆる神秘化から隔離する必要性から、他方で、宗教は主体性のあらゆる可能な知の彼方に位置づけられる。本稿は、これを知の二重化と捉えるのではなく、知の二つの運動――水平的、及び、垂直的運動と捉える。
長坂真澄
現代思想   Vol. 40-3 pp. 190-207   2012年2月   [招待有り]
本論考は、レヴィナスの思想発展の各段階にあらわれる懐疑論の概念を追うことで、レヴィナス哲学における真理基準遡行の足跡を辿るものである。フッサール現象学における直観に基づく真理概念、また、ハイデガーの実存論的分析論における存在の開示としての真理概念を、レヴィナスは、懐疑論を克服しえない真理概念と捉える。対して彼は、自己の絶対的外部であるような他者への応答としての、存在の彼方を証言する言語のうちに、真理概念を打ち立てる。
長坂真澄
Interpretationes - Acta Universitatis Carolinae : Studia Philosophica Europeanea   Vol. 1(No. 1) pp. 113-123   2011年2月   [査読有り]
本論考は、レヴィナスがいかに倫理的言語を身体から出発して捉えるかを辿るものである。レヴィナスは、現象学における全面的反省の不可能性の問題を、身体という反省の「剰余」として捉える。さらに、他者の身体は、他者の「飢え」を表現し、言語による道徳的審問と結び付けられることから、身体の問題は、倫理的言語の問題へと発展させられる。ここで、関係不可能な絶対的他者となおも関係するというパラドックスを遂行する言語は、「証言」として捉え直される。

Misc

 
ジャック・デリダ著/湯浅博雄、大西雅一郎訳『信と知―たんなる理性の限界における「宗教」の二源泉』書評
長坂真澄
週刊読書人   (3174) 4   2017年1月   [依頼有り]
小手川正二郎著『甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解』書評
長坂真澄
週刊読書人   (3087) 4   2015年4月   [依頼有り]
思索と詩作の間―デリダのハイデガー読解より
長坂真澄
宗教哲学研究   (31) 137-138   2014年3月
Faith as the Possibility of Impossibility in Derrida’s Thought: Beyond the Husserlian Notion of “the Idea in the Kantian sense”
長坂真澄
京都エラスムス計画 成果論文   
本成果報告は、信の概念を、「決定不可能性のただ中における決定」と同根源的であるような、「不可能性の可能性」として提示するものである。この目的のため、本報告は、デリダの前期と後期における「信」の概念の変化の要点を、フッサールについての議論を交えて俯瞰する。この変化は、前期には「暴力」と捉えられ、後期には「私のうちの他者の決定」と位置づけられる、「決定」概念の変貌とパラレルをなす。
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/daikokai/thesis/index.html
The notion of faith in a Derridian reading of Heidegger: departure from Heidegger’s notion of ‘trace’
長坂真澄
京都エラスムス計画 成果論文   
「信は思索のうちにはいかなる場所も持たない」というハイデガーに反し、デリダは、ハイデガーの「証言」概念に、信の場所を見いだす。本成果報告は、デリダのテクスト「差延」や「ウーシアとグラメー」を典拠とし、ハイデガーの「痕跡」概念をめぐるデリダによる読解を辿ることで、その意味を探ろうとするものである。その際、同時期のデリダによるレヴィナスの「痕跡」概念読解を考慮に入れる。
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/daikokai/thesis/index.html

書籍等出版物

 
Bergson Jankélévitch Levinas
Flora Bastiani (dir.) (担当:共著)
Éditions Manucius   2017年1月   
終わりなきデリダ――ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話
齋藤元紀/澤田直/渡名喜庸哲/西山雄二編 (担当:分担執筆, 範囲:「デリダとハイデガー、サルトル、レヴィナス」に関する文献案内)
法政大学出版局   2016年11月   
リクール読本
鹿島徹/越門勝彦/川口茂雄編 (担当:共著, 範囲:第II部第11章(113-121) リクールとフッサール──独断的形而上学の超克をめぐって)
法政大学出版局   2016年7月   
Rencontrer l'imprévisible - À la croisée des phénoménologies contemporaines
Flora Bastiani et Svetlana Sholokhova (dir.) (担当:共著, 範囲:« Il » de l’Illéité / « il » de l’il y a : La philosophie de Levinas et le scepticisme)
Le Cercle herméneutique   2013年4月   
本書は、フランスの現象学を形成した哲学者たち、とりわけ、E・レヴィナス、M・アンリ、H・マルディネの思考を起点に、予測不可能なものとの出会いについて考察するものである。J=C・ゴダール、J=F・レイ、J=M・サランスキをはじめとする、フランス、チェコ、ルクセンブルク、グルジア、ルーマニア、ロシア、中国、日本出身の14人の現象学研究者が、他者との出会い、意味の生成、他性をめぐる体験と試練について思考をめぐらす。分担部分 第2部第5章
人文学と制度
西山雄二編 (担当:分担執筆, 範囲:エラスムス・ムンドゥス)
未来社   2013年3月   

講演・口頭発表等

 
長坂真澄
上智大学哲学会 第87回大会   2017年10月29日   
本提題は、現代のフランス語圏の現象学を、カント哲学の現象学的再構築として捉えるものである。その見取り図の起点は、カント『純粋理性批判』が持つ二つの大きな課題、すなわちヒュームの懐疑論の克服と、デカルト的存在神学の反駁にある。前者の課題は、ア・プリオリな能力としての構想力という問題系に、後者の課題は無限の問題系に対応する。フッサール、ハイデガーの現象学において大きな変革をこうむるこれらの主題を、フランス語圏の現象学は、カント『判断力批判』の再読解から新たに捉え直す。
感性と悟性の共通の根――ハイデガー『カントと形而上学の問題』とカント『判断力批判』の交差点
長坂真澄
2017年9月17日   Heidegger-Forum in Japan
本発表の目的は、ハイデガーの『カントと形而上学の問題』が示した、超越論的構想力を感性と悟性の隠された共通の根とする読解を、『純粋理性批判』とではなく、むしろ『判断力批判』と対照させて再考察することによって、この解釈が持ちうる新たな可能性を探究することにある。この目的のため、本発表は、『判断力批判』におけるア・プリオリな綜合判断としての直感的反省的判断における構想力の働きと、それがなす「概念なき図式化」に着目する。
『信と知』 [招待有り]
長坂真澄
シンポジウム「デリダと宗教的なもの」   2017年7月15日   脱構築研究会
本発表は、デリダ「信と知――たんなる理性の限界における「宗教」の二源泉」の日本語訳発刊を機縁に、この書をカント『単なる理性の限界内における宗教』を背景に、紹介したものである。発表者はカントが語る「根元悪」と「類推の図式論」であるキリストの形象に着目し、それがいかに宗教と遠隔-科学技術的理性を結託させる自己-免疫性という、デリダの語る「根元悪」へと発展するかを考察、提示することを試みた。
長坂真澄
XXXVI ème Congrès de l’ASPLF (Association des Sociétés de Philosophie de Langue Française)   2016年8月24日   
本発表は、リシールによるカントの超越論的図式論の刷新を検討するものである。論考「思考の現象学的起源」(1980)において、リシールは、『判断力批判』における「図式化」に着目し、『純粋理性批判』の図式論では明らかではなかった思考の起源が示されていると考える。『純粋理性批判』において、図式は概念の感性化を可能にするが、『判断力批判』では、反省的直感的判断において「概念なき図式化」が起こる。そこでは、判断すなわち「思考」と、美を「感じること」との区別不可能性という形で、思考の起源が語られるのである。
無限のアンティノミー:リシールのカントール読解を考察する
長坂真澄
日仏哲学会   2016年3月19日   日仏哲学会
本発表は、リシールの論考「カントール集合論における超越論的錯覚」(1986)での錯綜した議論を論証づけることを目的とする。そのため、第一に、この論考を理解する上で重要となる、カントールの対角線論法と、これを応用するリシャールのパラドクスを概説する。第二に、リシールのカントール批判を、リシャールの議論の応用として提示する。第三に、リシールのゲーデル不完全性定理への言及を手がかりに、カントに立脚するリシールのカントール批判が、現代に持ちうる意味を考察する。
長坂真澄
Journée d’études « Mises en pratique de la pensée d’Emmanuel Levinas »   2015年12月10日   
超限と無限:カントールを経由するテンゲィのフッサール論
長坂真澄
日本現象学会   2015年11月8日   
フッサールは無限の統一体の直観を語る。それは、超越論的理想の認識を標榜することではないのか。テンゲィはこの問いに、フッサールが馴れ親しんでいたと推測される、カントール超限集合論を経由することで応えようとする。カントールは従来の無限の議論を、規定可能な超限から考察する。テンゲィが示そうとするのは以下のことである。超限集合において各要素の網羅的規定を前提するカントールに対し、フッサールの「開かれた無限」の直観は、要素の網羅的規定を前提せず、それゆえ超越論的理想の措定を前提しない。
長坂真澄
Colloque international de Philosophie : Représentation et Altérité - Esthétique et Epistémologie à partir d’Emmanuel Levinas   2015年7月9日   
本発表では、ハイデガー『カントと形而上学の問題』のレヴィナスによる読解を辿ることで、以下のことを明らかにした。ハイデガーはこの書において、純粋直観と純粋概念の綜合をおこなう超越論的構想力の役割を肥大化させる。超越論的感性論は超越論的構想力を根源として書き換えられ、さらにその超越論的感性論に、超越論的弁証論が扱う問題さえもが還元される。レヴィナスはそれに対して、超越論的弁証論の重要性を強調する。
存在と存在者の彼方――デリダのハイデガー『カントと形而上学の問題』読解より――
長坂真澄
日仏哲学会   2015年3月21日   
本発表では、「ウーシアとグラメー」等に散在する、デリダのハイデガー『カントと形而上学の問題』(カント書)読解を検討することで、カント書が、デリダの差延概念に何をもたらしたのかを考察した。一方で、デリダはカント書の「自己触発」概念から、差延概念を展開させる。他方で、カント書のカント哲学自体からの乖離は、デリダ自身のハイデガーに対する距離、つまり、デリダの差延概念の独自性につながっていると考えられる。
長坂真澄
Journées d‘hommage à László Tengelyi – Tagung László Tengelyi zu Ehren   2015年2月9日   Charles University in Prague, Faculty of Humanities – Erasmus Master Mundus EuroPhilosophie
L・テンゲィは、現実を可能性からの移行として捉える存在神学的形而上学に対し、いかなる可能性にも先行されない現実を語る、現象学的形而上学を対置する。この主張を考察するために、本発表では、M・リシールのフッサール読解とテンゲィのフッサール読解を対置した。リシールはフッサール『間主観性の現象学』のうちに存在神学的形而上学を見るが、テンゲィは同じテクストのうちに、現象学的形而上学を捉える。
なぜ「存在」の語に抹消線は引かれなければならなかったのか ――哲学の哲学による自己批判としてハイデガーの思索を読む:デリダの『ハイデガー』講義(1964-65年)より
長坂真澄
日本現象学会   2014年11月30日   
本発表では、デリダの1964-65年講義原稿『ハイデガー:存在の問いと歴史(学)/物語』に依拠し、デリダがハイデガーの『存在と時間』を、ハイデガー後期著作から遡行的に読解することで、形而上学の解体、つまり、脱‐物語、脱‐隠喩という差延の運動として捉えていたことを示した。その上で、この運動が、デリダの「差延」概念へとつながると考えられることを提示した。
デリダと存在神学
長坂真澄
2014年11月21日   脱構築研究会
デリダ哲学において、形而上学はしばしば存在‐神学と形容され、超克の対象とされてきた。本発表では、そもそも「存在神学」批判の創始者であるカント、それを独特な形で継承するハイデガー、また、存在神学批判をめぐって展開されるレヴィナスとデリダの議論を経由することで、デリダの存在‐神学批判とは何であるのか、それはいかなる形をとるのか、その先に見えてくるものは何なのかを明らかにすることを試みた。
Face à l’ontothéologie – Kant, Heidegger et Levinas
長坂真澄
Journées d'études - LIRE HEIDEGGER Réflexions sur les lectures de Heidegger dans la philosophie française contemporaine   2014年10月23日   
本発表では、存在神学の超克をめぐる哲学の歩みを、カント、ハイデガー、レヴィナスに依拠して浮き彫りにすることを試みた。カントは『純粋理性批判』超越論的弁証論において、存在神学の誤謬をつく。ハイデガーは、独自の立場から、カントの存在神学批判を継承するが、そのあり方はカントから大きく乖離する。レヴィナスは、ハイデガーの存在神学批判が、かえってカントのいう意味での存在神学へと陥る危険を持つと指摘する。
長坂真澄
Le XXXVe Congrès de l'ASPLF   2014年8月29日   ASPLF (Association des Sociétés philosophiques de langue française)
本発表では、デリダの「不‐可能なもの」の概念を、シェストフ、レヴィナスを経由することで明確化することを試みた。その際、「不可能なものの可能化」の二つのあり方を、水平的運動と垂直的運動と区別した上で、さらに後者を、懐疑論的言説あるいは相対的自己批判が行う「箱入れ(emboîtement)」型の運動と、絶対的自己批判が行う「箱出し(déboîtement)」型との運動とに区別し、両者の重なりを論じた。
長坂真澄
Unterwegs zu einer phänomenologischen Metaphysik – Festtagung für László Tengelyi zum 60. Geburtstag   2014年7月12日   
L・テンゲィは、現代フランス現象学の特徴を、可能性と現実性の関係の転倒のうちに見る。彼はその代表的な例が、M・リシールの現象学であるとする。リシールは、カントの超越論的理想批判を継承するが、テンゲィはこの批判のうちに、可能性と現実性の関係の転倒を見出す。本発表では、リシールをテンゲイとは独立に読解することで、テンゲィのテーゼを論証することを試みた。
長坂真澄
SIREL (Société Internationale de Recherche Emmanuel Levinas)   2014年7月9日   
レヴィナスにおいて、「自己批判」は「不可能なもの」を露わにするが、その「不可能性」こそが「現実」の条件となる。この「自己批判」概念は、『全体性と無限』から『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方』にいたる行程において、一方では連続性を、他方では非連続性を持って発展する。本発表では、この連続性と非連続性を、レヴィナスにおける、デカルトとカントの宥和の試みの道のりとして提示した。
長坂真澄
Journées de recherches en phénoménologies   2014年3月6日   Fonds Michel Henry
本発表では、デリダのフッサール読解を通して、デリダのフッサールからの分岐点となる「否定」の問題を採り上げた。発表者は、デリダの『フッサール哲学における発生の問題』等のテクストに依拠しつつ、以下の三つの問題を考察した。第一に、何らかの存在者の不在として捉えられるゼロの問題、第二に、具体的な知覚の不可能性において捉えられる無限の問題、第三に、否定判断の前‐述定的根源としての知覚経験をめぐる問題である。
長坂真澄
日本現象学会   2013年11月10日   
本発表では、デリダ『フッサール哲学における発生の問題』における、フッサール『算術の哲学』の読解を辿ることにより、以下の三点を示した。第一に、デリダ哲学の出発点に、発生のアポリアの問題があること、第二に、デリダがフッサールをカントの批判的継承者として捉えること、第三に、発生のアポリアを、デリダがフレーゲから受け継いで発展させることである。それは、直観の不可能性というアポリアとして主題化される。
長坂真澄
Journée doctorale - Présentation des sujets de thèse   2013年4月26日   
過去の口頭発表「思索と詩作の間―デリダのハイデガー読解より」を下敷きに、フランス語にて考察したもの。
知の不可能性において語ること―ジャック・デリダ『声と現象』 再読
長坂真澄
日仏哲学会   2013年3月30日   
過去の口頭発表“Relire Derrida, La voix et le phénomène – sous le fil conducteur de l’« Idée au sens kantien » (Wiederlektüre von Derridas Die Stimme und das Phänomen – unter dem Leitmotiv der “Idee im Kantischen Sinne”)” を下敷きに、日本語にて考察したもの。
長坂真澄
宗教哲学会   2013年3月23日   
本発表では、デリダのハイデガー読解の構図を、「隠喩のルトレ」等のテクストから浮かび上がらせることを試みた。そこで問題として扱われるのは、存在と存在者の区別、またそれに依拠する、思索の語りと形而上学的言語との区別である。デリダは、「存在の家」といった、外見上は隠喩的に見えるが隠喩ではないとされるハイデガーの言い回しに着目する。そこから露わになるのは、区別が保証されえず信を要請する地点である。
長坂真澄
Le stage intensif de printemps Erasmus Mundus Europhilosophie   2013年2月12日   Amical (EuroPhilosophie)
本発表では、シェストフからレヴィナス、デリダへと至る思索の系譜を、フッサールの必当然的明証性の概念に対する彼らそれぞれの異議申し立てを軸に辿った。シェストフは、<夢の中の夢>という「入れ子構造」における明証性について考察する。レヴィナスは、この形象の逆転である、<目覚めの中における目覚め>を、明証性の絶え間ない批判として考察する。さらにデリダは、明証性の批判と自らの脱構築の試みを重ね合わせる。
長坂真澄
Lectures lévinassiennes : Une autre voie phénoménologique   2012年12月10日   Les Archives Husserl/ENS, Le département de philosophie de l’Ecole Normale Supérieure de Paris et le Collège des études juives et de philosophie contemporaine de l’Université Paris IV Sorbonne/Centre Emmanuel Levinas
本発表では、L・シェストフが「メメント・モリ」、「真理とは何か」において展開する懐疑論をめぐる議論を背景に、レヴィナスにおいて懐疑論的言説の可能性と連動して捉えられる、存在の彼方についての言説の可能性を考察した。『フッサール現象学における直観の理論』、『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』等で現れる懐疑論の概念は、シェストフを背景にすることで、より明確に理解される。
長坂真澄
Autrement qu’être ou au-delà de l’essence d’Emmanuel Levinas   2012年12月8日   Les Archives Husserl/ENS de Paris, Le Département de philosophie de l’Ecole Normale Supérieure de Paris, le Collège des études juives – Centre Emmanuel Levinas de l’Université Paris-Sorbonne
本発表では、『存在とは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』を、「存在論の中の存在論の彼方」を示す書として、つまり、「Aの中でのAの彼方」という構造を提示する書として理解することを試みた。そのために、我々は、「身代わり」概念に存する「存在論の彼方」という構造、及び、「第三者」概念に存する「存在論の中」という構造の両者を抱合する、「デモクラシー」の概念に着目した。
ディディエ・フランクとジャック・デリダ――両者のフッサール読解をめぐる交差と亀裂から浮かび上がる問い―― 
長坂真澄
日本現象学会   2012年11月18日   日本現象学会
過去の口頭発表“Con-tangence et archi-facticité – Jacques Derrida et Didier Franck autour d’Edmund Husserl” を下敷きに、日本語にて考察したもの。
長坂真澄
École d’été UFA (Université Franco-allemande) / DFH (Deutsch-Französische Hochschule)   2012年9月14日   
本発表では、現前の形而上学の批判として読解されてきた、デリダ『声と現象』の新たな解釈を提示した。我々は本書を、デリダがフッサール哲学のうちに見出す三つの「還元」を軸に読み解いた。それは、指標の還元、言語の還元、直観の還元である。この三つの還元が露わにするのは、認識、思念、表現の不一致である。そこから浮かび上がるのは、認識、すなわち知の不可能性においてこそ、思念、すなわち信が表現されることである。
Citoyenneté comme calcul de l’incalculable
長坂真澄
Le XXXIVe Congrès de l'ASPLF   2012年8月22日   ASPLF (Association des Sociétés philosophiques de langue française)
本発表では、デリダのレヴィナス読解を軸に、市民性という概念を、「計算不可能なものの計算」の構造を持つものとして考察した。後期レヴィナスの「市民」概念には、二重性が確認される。一方で、「市民」は、計算不可能なものとしての「倫理的自我」に対置される、計算可能なものである。他方で、「第三者」が介入することの必要性から、この計算可能性は、「計算不可能なものの計算」として考察される。
長坂真澄
Colloque international : Métaphysique, Morale et Temps / Bergson, Jankélévitch, Levinas   2012年7月10日   SIREL (Société Internationale de Recherche Emmanuel Levinas)
本発表では、ベルクソンとレヴィナスがそれぞれ展開する、二種の多様性概念の区別を軸に、レヴィナス哲学をベルクソン哲学の批判的継承として提示した。両者の違いは、第一に、レヴィナスによる、ハイデガーの存在論的差異の導入、第二に、レヴィナスによる、存在の彼方の位相差として捉えられる時間性概念の発展にある。とはいえ、ベルクソンの「持続」概念とレヴィナスの「隔時性」概念は、共通のひらめきによって貫かれている。
Con-tangence et archi-facticité – Jacques Derrida et Didier Franck autour d’Edmund Husserl
長坂真澄
Die Kontingenz und die Faktizität in der Phänomenologie   2012年5月5日   Amical (EuroPhilosophie)
本発表では、D・フランクの処女作『身体と物体』、及び、デリダの『触覚――ジャン=リュック・ナンシーに触れる』所収の二章を突き合わせることで、フランクとデリダのフッサール読解の交差と亀裂を辿った。その中で浮かび上がるのは、フッサール現象学のアポリアに対する二つの相反する態度である。それは我々に、現象学の外部への向かい合い方に対する問いを投げかける。
Die Post-Phänomenologie der Bezeugung und des Versprechens: Derrida’sche Lektüre Heideggers
長坂真澄
Doktorandenkolloquium / Institut für phänomenologische Forschung   2012年1月30日   
本発表では、デリダの60年代から90年代の様々なテクストにおいて展開されるハイデガー読解の中から、「証し」、「約束」、「痕跡」、「ある神」という概念をめぐるデリダの考察を辿った。信と思索とを常に区別するハイデガーに対して、デリダは、ハイデガーの思索のうちに、現前と非現前の彼方、存在の彼方の痕跡を見出し、それが、いかなる知による保証も持たないという意味で、信を証示すると考える。
長坂真澄
日仏哲学会   2011年9月11日   
本発表では、デリダ後期哲学において浮上する「信」の概念の形成過程を、デリダ初期のフッサール現象学読解に潜在している「信」の主題の鉱脈を浮き彫りにすることにより、明るみにもたらすことを試みた。デリダはフッサール哲学の最初期から最後期までの諸著作を、いかにして実在性の只中から理念性が発生するかという問題を軸として読解する。この発生はアポリアとして捉えられ、アポリアにおける信が要請されることになる。
長坂真澄
京都ユダヤ思想学会 夏季合宿   2011年9月9日   
本発表では、デリダのフッサール読解における、自己に固有なものと、それに対して外部とされるものとの、絡み合いの問題を考察した。最初期『フッサール哲学における発生の問題』から、晩年の『ならず者たち』にいたる彼のフッサール読解を貫いているのは、この上層と下層の混交の問題である。そこでは、外部性と内部性の絡み合いにおける区別は、決断や約束という形で思考、志向される。
長坂真澄
Summer School in Phenomenology and Philosophy of Mind   2011年8月10日   
本発表では、フッサール現象学における直観と志向性のずれを考察した。まず、フッサールがカントから借用する統整的理念の概念、「カント的意味における理念」を、「直観なき志向性」として位置づけた。次に、志向性と直観の差異から生じる問題として、超越論的仮象の問題を検討した。最後に、この問題は否定的に捉えられるべきではなく、この問題こそがフッサール現象学に豊かさを与えることを示した。
« Il » de l'Illéité / « il » de l'il y a : Levinas et la question de l'antilangage
長坂真澄
„Retrouver un sens nouveau : rencontrer l'imprévisible“, EuroPhilosophie   2011年7月6日   SIREL
本発表では、レヴィナスの懐疑論概念を、デリダによる読解から考察した。レヴィナスは、他者への応答としての言語、存在の彼方を証言する言語のうちに、真理概念を打ち立てる。しかし、デリダが指摘するように、存在の彼方なるものを存在の言説で論証することは、レヴィナス自身の言説を自己転覆的な懐疑論とのアナロジーへと陥れる。レヴィナスはこのアナロジーを逆に活用することで、問題の克服をはかる。
長坂真澄
表象文化論学会   2011年7月3日   
過去の口頭発表“Autoimmunität der Institution der Philosophie: Die Derridasche transzendentale Pathologie” を下敷きに、日本語にて考察したもの。
Autoimmunität der Institution der Philosophie: Die Derrida’sche transzendentale Pathologie
長坂真澄
„Die Institution der Philosophie“   2011年5月6日   Amical (EuroPhilosophie)
本発表では、デリダ『ならず者たち』後半に収録された論考等に依拠し、「制度」が持つ自己免疫性をめぐる問いを、カント、フッサールにおける超越論的仮象の問題の系譜の中で考察した。カントは理性に内的な病としての超越論的仮象と戦い、フッサールは自然主義、客観主義という仮象と戦った。それに対し、デリダが模索する制度は、むしろ「あたかも超越論的錯覚であるようなもの」である。
An Intrusion of Skepticism: The Genealogy of Truth in Levinasian Thought
長坂真澄
Totality and Infinity at 50   2011年5月3日   NALS (North American Levinas Society)
本発表では、レヴィナスの思想発展の各段階にあらわれる懐疑論の概念を追うことで、レヴィナス哲学における真理基準遡行の足跡を辿った。フッサール現象学における直観に基づく真理概念、また、ハイデガー実存論的分析論における存在の開示としての真理概念を、レヴィナスは、懐疑論を克服しえないものとする。対して彼は、他者への応答として、存在の彼方を証言する言語のうちに、真理概念を打ち立てる。
長坂真澄
宗教哲学会   2011年3月26日   
過去の口頭発表“La complicité de la foi et du savoir chez Levinas – en la confrontant avec celle de Kant -” を下敷きに、日本語にて考察したもの。
(Un)zeitlichkeit — Derrida’sche Lektüre Husserls
長坂真澄
„Zeitphänomene“   2011年2月24日   Amical (EuroPhilosophie)
本発表では、デリダがいかにフッサール現象学における時間性と非時間性の問いに取り組むかを考察した。デリダのフッサール読解においては、発生と構造、時間性と非時間性(超時間性、汎時間性)の対立が常に現れる。デリダにおいて、フッサールの哲学的運動は、この両極の一方のみに陥ることを防ぐためになされるジグザグ運動として捉えられる。
Vivre comme un mort - la question de l’idéalité chez Derrida
長坂真澄
„Le monde de la vie“   2011年1月8日   Amical (EuroPhilosophie)
本発表では、デリダ『フッサール哲学における発生の問題』における、フッサールの「生活世界」概念をめぐる議論を出発点に、デリダ哲学の発端にあるアポリアを考察した。デリダは、超時間的な理念性が、時間的な実在性からいかに発生するかという問題の枠の中で「生活世界」の概念について考察する。彼はその際、この概念が、一方では感性的、実在的でありながら、他方では非実在的な可能性であるとされることに着目する。
長坂真澄
International Conference: Readings of Difficult Freedom   2010年7月5日   SIREL (Société Internationale de Recherche Emmanuel Levinas), NALS (North American Levinas Society)
本発表では、レヴィナスの「メシア的テクスト」に着目し、カント由来の、理性的努力と無条件の恩寵との両立不可能性というパラドックスを通して、知の信をめぐる二つの運動を明らかにすることを試みた。レヴィナスは宗教を、一方で、理性の成熟と捉えるが、他方で、知の彼方に位置づける。発表者は、これを知の二重化と捉えるのではなく、知の二つの運動――水平的、及び、垂直的運動と捉えた。
Reconnaissance d’un non-reconnaissable – Proust, Rohmer, Ricœur
長坂真澄
„Genetische Phänomenologie“   2009年12月11日   Amical (EuroPhilosophie)
本発表では、M・プルースト『再び見出された時間』、E・ロメール『冬の話』を題材とし、リクールの『時間と物語』、『承認の行程』での議論を手がかりに、再認/承認/感謝(reconnaissance)という現象が持つ、不可能性の可能性という構造を明らかにすることを試みた。同定や自己措定としての再認/承認はすでに、他者との相互承認(感謝)という剰余を内包する。この剰余は喜びとして体験される。
Décision - Promesse de la ligne dans la crise de folie - un essai de lecture de la philosophie derridienne
長坂真澄
Présentation des mémoires de la Promotion 1   2009年7月15日   
上掲の修士論文(同題目)の概要を発表。
Über den Aufschub in der „Idee im Kant’schen Sinne“ und den Satz vom Widerspruch bei Husserl
長坂真澄
„Grundprobleme der phänomenologischen Erfahrung“, Amical (EuroPhilosophie)   2009年7月3日   
本発表では、フッサールの1913年から1915年の講義録に現れる「超越論的観念論の証明」に依拠し、フッサールがカントから借用しつつ独自に展開する統整的理念の概念「カント的意味における理念」と、無矛盾律との関係を考察した。その際、フッサールの区別、「現実性」から完全に自由な「単に理念的な可能性」と、「現実性」にある程度拘束された「実在的可能性」の区別を考察の手がかりとした。
Décision de Foucault, décision de Heidegger – une recherche de l’héritage à travers la lecture de deux articles derridiens
長坂真澄
„Atelier international sur le rapport Heidegger-Foucault“, Amical (EuroPhilosophie)   2009年1月23日   
本発表では、デリダがフーコーとハイデガーの哲学的営為のうちに、いかに「決定」を読み取り、自らの「決定」概念を発展させてゆくかを考察した。フーコーは、デカルトによる理性と狂気の区別を暴力的決定であるとする。対して、デリダは「コギトと狂気の歴史」において、フーコー自身のこの記述に暴力的決定を認める。さらにこの「決定」概念は、30年後の「アポリア」において、ハイデガーの「決意性」概念と結びつけられる。
Le « surplus » - de la corporéité au langage de l’éthique dans l’héritage lévinassien de la phénoménologie
長坂真澄
„Corporeity and Affectivity, Fifth Central and Eastern European Conference on Phenomenology“   2008年10月2日   
本発表では、レヴィナスがいかに倫理的言語を身体から出発して捉えるかを考察した。レヴィナスは、現象学における全面的反省の不可能性の問題を、身体という反省の「剰余」として捉える。さらに、他者の身体は、他者の「飢え」を表現し、言語による道徳的審問と結び付けられる。ここで、関係不可能な絶対的他者となおも関係するというパラドックスを遂行する言語は、「証言」として捉え直される。

担当経験のある科目

 
 

競争的資金等の研究課題

 
現代フランス現象学におけるカント批判哲学の継承についての研究――「図式」をめぐって
群馬県立女子大学: 特定教育・研究費 科学研究費助成事業申請研究
研究期間: 2017年4月 - 2018年3月    代表者: 長坂真澄
超越論的仮象としての無限とその射程 ――マルク・リシールによるカント哲学の現象学的再構築の探究
群馬県立女子大学: 特定教育・研究費 萌芽的研究
研究期間: 2016年10月 - 2017年3月    代表者: 長坂真澄
« Le beau et le schématisme transcendantal – à partir de la lecture richirienne de la Critique de la faculté de juger »
群馬県立女子大学: 特定教育・研究費 海外渡航
研究期間: 2016年8月 - 2016年8月    代表者: 長坂真澄
ASPLF第36回大会学会発表渡航費用           
デリダ哲学の現代フランス現象学における位置づけの研究--出来事の概念を指標として
日本学術振興会: 科学研究費補助金 特別研究員奨励費
研究期間: 2014年4月 - 2016年3月    代表者: 長坂真澄

社会貢献活動

 
【講師】  群馬県立女子大学  オープンキャンパス模擬授業(高校生対象)  2017年7月22日 - 2017年7月22日
人は言う――「これこれの事実があった」、「それは事実を歪曲している」、 「事実はこうである」等々。あたかも唯一の真なる事実が存在するかのように。 そのような事実を私たちは前提せずにはいられない。さもなくば、あらゆるものが 相対的となってしまう。とはいえ、純粋な事実はそもそも存在するか。 それは誰によって、いかにして捉えられ、記述されうるというのか。 本講義では、フッサール『幾何学の起源』(1936)を手がかりとして、 事実と呼ばれるものについて考察する。
【講師】  群馬県立女子大学  公開講座  (群馬県立女子大学)  2016年10月3日 - 2016年10月3日