禅問答

禅問答

天地の再創造

創世記の冒頭に

はじめに神は天と地とを創造された

とある。

しかし創造の三日目に

神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。神はそのおおぞらを天と名づけられた
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。

とある。

つまり、天と地とは、最初に創造され、また三日目にも創造されたことになる。

また創造の一日目に

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけやみを夜と名づけられた

とある。

しかし創造の四日目には

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

とある。

つまり、昼と夜とは、創造の一日目に分けられ、また四日目にも分けられたことになる。

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創造の順序

創世記の第一章では、先に動物が創造されて、人間はその後に創造されたことになっている。

しかし、おなじ創世記の第二章では、人間が先に創造され、その他の動物は人間より後に創造されたことになっている。

これらの矛盾する記述が「両方とも正しい」ということは不可能である。したがって、どちらか一方、または両方が間違っていることが明らかとなる。

もし創世記の第1章が正しければ、第2章に記されている創造説は、聖書の記述に反するので正しくない。もし創世記の第2章が正しければ、第1章に記されている創造説は、聖書の記述に反するので正しくない。

つまり聖書の少なくとも一部が間違っていることが、進化論など持ち出さなくとも聖書自身の自己矛盾によって論理的に証明されてしまう。

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全知全能

主なる神は、アダムやエバと次のような問答をしている。

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。
女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。(創3:8-13)

上記から、次のようなことがわかる。

  • 主なる神は、木の間に身を隠したアダムとエバがどこにいるのかわからず、「どこにいるのか」と尋ねた。
  • 主なる神は、彼らがすでに裸を自覚して隠れていることを知らず、呑気に歩んでいた。
  • 主なる神は、彼らがなぜ善悪を知る木の実を食べたのか、何者が彼らをだましたのか、本人たちに聞かなければわからなかった。

さて、このような神を全知全能だと言えるだろうか。

もちろん神が真に全知全能で、上記をすべて承知した上でトボけていた、という可能性は否定できない。

カインがアベルを殺した後、神はアベルと次のような問答をしている。

彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。
あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。(創4:8-12)

つまり神は、カインを尋問するまでもなく、アベルの「血の声」を聞いて彼の死と遺体の所在を知ることができた。

にもかかわらず神は、わざわざカインに「弟アベルは、どこにいますか」と尋ねている。

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偶像崇拝

アブラハムの甥ラバンは、偶像(テラピム)を崇拝していた。

そこでヤコブは立って、子らと妻たちをらくだに乗せ、またすべての家畜、すなわち彼がパダンアラムで獲た家畜と、すべての財産を携えて、カナンの地におる父イサクのもとへ赴いた。
その時ラバンは羊の毛を切るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラピムを盗み出した。(創31:17-19)

ラバンはついにヤコブに追いついたが、ヤコブが山に天幕を張っていたので、ラバンも一族と共にギレアデの山に天幕を張った。
ラバンはヤコブに言った、「あなたはなんという事をしたのですか。あなたはわたしを欺いてわたしの娘たちをいくさのとりこのように引いて行きました。……今あなたが逃げ出したのは父の家が非常に恋しくなったからでしょうが、なぜあなたはわたしの神を盗んだのですか」。
ヤコブはラバンに答えた、「たぶんあなたが娘たちをわたしから奪いとるだろうと思ってわたしは恐れたからです。だれの所にでもあなたの神が見つかったら、その者を生かしてはおきません。何かあなたの物がわたしのところにあるか、われわれの一族の前で、調べてみて、それをお取りください」。(創31:25-32)

ナホル家はアブラハムが召命される前の分家だからとして説明はできるだろうが、ヤコブまでがラバンの偶像を「あなたの神」と呼んでいる。

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アロンの生存

エジプトでイスラエル人が増えたため、

パロはそのすべての民に命じて言った、「ヘブルびとに男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし女の子はみな生かしておけ」。(出1:22)

しかしモーセは、パロの娘の気まぐれと、姉(おそらくミリアム)の小芝居によって生き延びたという。逆に言えば、このようなことが無ければヘブル人の男子は生き延びられなかった、生き延びたモーセは運が良い、あるいは神の加護があった、等と言いたいのだろう。

ところでモーセには、アロンという3歳上の兄がいる。アロンが生き延びた理由や経緯については説明されていないが、アロンが生まれた時にはまだパロが上記の命令を出していなかったとでも言うのだろうか。

そもそもパロの娘は

「これはヘブルびとの子供です」(出2:6)

と知りつつこれを養育している。これはパロの命令に違反してはいまいか。

さらに、モーセは成長後、同胞のヘブル人がエジプト人に虐待されているのを目撃して、エジプト人を打ち殺している。これらのヘブル人は、どうやって生き延びてきたのだろうか。

モーセが80歳でエジプトを出た時、男子だけで60万のヘブル人が従った。これらはすべてパロの虐殺命令を逃れて生き延びた者たちだったのだろうか。それとも、すべてパロの命令以前に生まれた男子で、モーセよりも年上だったのだろうか。

もっとも、この60万人のうち59万9998人は、カナンの地に到着する前に皆殺しにされるのだが。

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出エジプトの年

ヤコブとレアとの間にレビが生まれた。レビがコハテを生み、コハテがアムラムを生み、アムラムがモーセを生んだ。

ヤコブ一家はヨセフのいるエジプトへ移住したが、この時の一行にコハテも含まれていた(創46:11)。つまりコハテは、カナンで生まれてエジプトへ移住した者である。

コハテは133歳で死に(出6:18)、アムラムは137歳で死んだ(出6:20)。そしてモーセは80歳でパロと語り(出7:7)、エジプトを脱出した。

仮にコハテが生まれてすぐにエジプトへ移住して133歳でアムラムを生んだとし、アムラムが137歳でモーセを生んだとしても、モーセが80歳の時点ではヤコブ一家のエジプト移住から350年しか経過していない。この「350年」は、可能な最大の年数である。

しかし、「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間」は「430年」だったと聖書は言う(出12:41)。

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反芻するイワダヌキ、四本足で歩く昆虫

聖書は「岩たぬき」を食べてはならないと言う。

ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。
すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。
岩たぬき、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。
野うさぎ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。(レビ11:4-6)

ただし、反芻するものと、ひずめの分れたもののうち、次のものは食べてはならない。
すなわち、らくだ、野うさぎ、および岩だぬき、これらは反芻するけれども、ひずめが分れていないから汚れたものである。(申14:7)

聖書にいう「岩たぬき」がイワダヌキ目ハイラックス科のイワダヌキだとすれば、これは反芻しない。何か別の動物をイワダヌキだと誤認ないし誤訳した可能性もあるが、おそらくは聖書の著者がイワダヌキを反芻動物だと誤解していたのだろう。

聖書は無謬で無誤だという立場からは、これは大問題のようにも見える。しかし聖書は昆虫を四本足としているくらいだから、岩たぬきが反芻するかどうかなど大した問題ではないのかも知れない。

羽があり、四本の足で動き、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。(レビ11:20)

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ゆめ幻のごとく

主は預言者に対して、幻を以て自らを示し、夢を以てこれと語るとされる。ただモーセに対してのみは、口ずから語り、明らかに言うらしい。

主は雲の柱のうちにあって下り、幕屋の入口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。彼らふたりが進み出ると、彼らに言われた、
「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」。(民12:5-8)

イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。(申34:10)

つまり(スピノザが指摘したように)、モーセより後の預言者は、すべて幻と夢を以て主と語った者である。

主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。……」(ヨシ1:1-2)

主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。(エレ1:11)

主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。(ヨナ1:1-2)

これらの「主の言葉」は、すべて幻か、あるいは夢の中で聞こえてきたものであった。

ヨシュアが死んだ後、イスラエルの人々は主に問うて言った、「わたしたちのうち、だれが先に攻め上って、カナンびとと戦いましょうか」。
主は言われた、「ユダが上るべきである。わたしはこの国を彼の手にわたした」。(士師1:1-2)

この問答は、集団幻覚か、あるいは多くの人々が一緒に寝て一緒にみた夢ということになる。

サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。(サム上3:3-4)

これなどは、まさにサムエルが「寝ていた時」に主に呼ばれたのであって、夢そのものだろう。

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人身御供

モーセの神は、モレク信仰を非難し、「自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる」ことを禁止する。

あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。(申18:10)

しかしこの神は、人間を奉納物として受け入れるらしい。

ただし、人が自分の持っているもののうちから奉納物として主にささげたものは、人であっても、家畜であっても、また相続の畑であっても、いっさいこれを売ってはならない。またあがなってはならない。奉納物はすべて主に属するいと聖なる物である。
またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。(レビ27:28-29)

ここで捧げられた「人」とは、異民族の捕虜や奴隷であろうか。それとも、イスラエル人であっても主人から「奉納物」とされれば殺されたのであろうか。

異民族の捕虜については、男を知らない処女を「主にみつぎとした」例があり、これはわざわざ「主がモーセに命じられたとおり」だと明記されている。おそらく彼女らは燔祭として焼き殺されたのだろう。

彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。……(民31:7)
モーセは軍勢の将たち、すなわち戦場から帰ってきた千人の長たちと、百人の長たちに対して怒った。
モーセは彼らに言った、
「あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか。……
子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。
ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。……(民31:14-18)

その獲物、すなわち、いくさびとたちが奪い取ったものの残りは羊六十七万五千、牛七万二千、ろば六万一千、人三万二千、これはみな男と寝ず、男を知らない女であった。
そしてその半分、すなわち戦いに出た者の分は
羊三十三万七千五百、主にみつぎとした羊は六百七十五。
牛は三万六千、そのうちから主にみつぎとしたものは七十二。
ろばは三万五百、そのうちから主にみつぎとしたものは六十一。
人は一万六千、そのうちから主にみつぎとしたものは三十二人であった。

モーセはそのみつぎを主にささげる物として祭司エレアザルに渡した。
主がモーセに命じられたとおりである。(民31:32-41)

さて、士師エフタは、戦勝への感謝として、自分の一人娘を燔祭に捧げている。

エフタは主に誓願を立てて言った、
「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。……(士師11:30-31)

やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。
エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、
「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった。わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。……(士師11:34-35)

父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。(士師11:39)

イサクの時には寸前で制止したが、エフタの時には「娘を火に焼いてささげる」ことを神は嘉納したようだ。

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いと高き神と主

「神」とは、「神々」のうちの一人(一柱)であるらしい。

神は神の会議のなかに立たれる。
神は神々のなかで、さばきを行われる。(詩篇82:1)

聖書の「神」や「主」が複数形であらわれるシーンとしては、下記などが有名だろう。

神はまた言われた、
われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。(創1:26)

主なる神は言われた、
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。(創3:22)

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、
「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。(創11:5-7)

あまり有名でない例も挙げておく。

スリヤの王の家来たちは王に言った、「彼らの神々は山の神ですから彼らがわれわれよりも強かったのです。(列上20:23)

もちろん聖書の全体的な傾向としては、「主」は他の神々より優れたもの、あるいは比較すらできないものとして描かれることが多い。

主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、
だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、
ほむべくして恐るべきもの、
くすしきわざを行うものであろうか。(出15:11)

では「主」が神々のトップ、あるいは「神の会議」の議長かというと、どうやらそうでもなかったような痕跡がある。

いと高き者は人の子らを分け、
諸国民にその嗣業を与えられたとき、
イスラエルの子らの数に照して、
もろもろの民の境を定められた。
主の分はその民であって、
ヤコブはその定められた嗣業である。(申命記32:8-9)

この「いと高き者」と「主」とが同一神格であればよいが、そうでもないような気配もする。神々のトップは「いと高き者」で、彼が采配して各神へ嗣業を割り振った。このとき「主」へ割り振られた者がヤコブであるとも読めるのではないか。

「主」が全世界の主ではなく、限られた国や民のみを嗣業とする(嗣業として与えられた?)者であることは、下記にも傍証を得る。

主をおのが神とする国はさいわいである。
主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。(詩篇33:12)

もちろん、至高神たる「主」が全世界の民を神々へ割り振り、ヤコブを自己の直轄として手許に残した、とも読めるのだが。

ちなみに、「いと高き神」については、下記の記事がある。

アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた。
その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である
彼はアブラムを祝福して言った、
「願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラムを祝福されるように。
願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」。
アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。(創14:17-20)

この「いと高き神」は、アブラハムの氏族が独占する神ではない。複数の民族の神々を束ねる至高神、とまではいかなくとも、複数の民族が共通して崇める神ではなかったろうか。

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パレスチナ人問題の最終的解決

エリコ大虐殺

そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。(ヨシ6:20-21)

アイ大虐殺

イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。
こうしてヨシュアはアイを焼いて、永久に荒塚としたが、それは今日まで荒れ地となっている。(ヨシ8:24-28)

エルサレム大虐殺

アモリびとの五人の王、すなわちエルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王は兵を集め、そのすべての軍勢を率いて上ってきて、ギベオンに向かって陣を取り、それを攻めて戦った。……ヨシュアとイスラエルの人々は、大いに彼らを撃ち殺し、ついに彼らを滅ぼしつくしたが、彼らのうちのがれて生き残った者どもは、堅固な町々に逃げこんだので、民はみな安らかにマッケダの陣営のヨシュアのもとに帰ってきたが、イスラエルの人々にむかって舌を鳴らす者はひとりもなかった。(ヨシ10:5-20)

マッケダ大虐殺

その日ヨシュアはマッケダを取り、つるぎをもって、それと、その王とを撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼして、ひとりも残さず、エリコの王にしたように、マッケダの王にもした。(ヨシ10:28)

リブナ大虐殺

こうしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、マッケダからリブナに進み、リブナを攻めて戦った。主が、それと、その王をも、イスラエルの手に渡されたので、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼして、ひとりもその中に残さず、エリコの王にしたように、その王にもした。(ヨシ10:29-30)

ラキシ大虐殺

主がラキシをイスラエルの手に渡されたので、ふつか目にこれを取り、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼした。すべてリブナにしたとおりであった。(ヨシ10:32)

ゲゼル大虐殺

その時、ゲゼルの王ホラムが、ラキシを助けるために上ってきたので、ヨシュアは彼と、その民とを撃ち滅ぼして、ついにひとりも残さなかった。(ヨシ10:33)

エグロン大虐殺

ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、ラキシからエグロンに進み、これに向かって陣をしき、攻め戦った。その日これを取り、つるぎをもって、これを撃ち、その中のすべての人を、ことごとくその日に滅ぼした。すべてラキシにしたとおりであった。(ヨシ10:34-35)

ヘブロン大虐殺

ヨシュアはまたイスラエルのすべての人を率いて、エグロンからヘブロンに進み上り、これを攻めて戦い、それを取って、それと、その王、およびそのすべての町々と、その中のすべての人を、つるぎをもって撃ち滅ぼし、ひとりも残さなかった。すべてエグロンにしたとおりであった。すなわち、それとその中のすべての人を、ことごとく滅ぼした。(ヨシ10:36-37)

デビル大虐殺

またヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、デビルへひきかえし、これを攻めて戦い、それと、その王、およびそのすべての町々を取り、つるぎをもってそれを撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼし、ひとりも残さなかった。彼がデビルと、その王にしたことは、ヘブロンにしたとおりであり、またリブナと、その王にしたとおりであった。
こうしてヨシュアはその地の全部、すなわち、山地、ネゲブ、平地、および山腹の地と、そのすべての王たちを撃ち滅ぼして、ひとりも残さず、すべて息のあるものは、ことごとく滅ぼした。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。(ヨシ10:40)

ハゾル大虐殺

ハゾルの王ヤビンは、これを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、およびアクサフの王、また北の山地、キンネロテの南のアラバ、平地、西の方のドルの高地におる王たち、すなわち、東西のカナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、山地のエブスびと、ミヅパの地にあるヘルモンのふもとのヒビびとに使者をつかわした。そして彼らは、そのすべての軍勢を率いて出てきた。……
その時、ヨシュアはひきかえして、ハゾルを取り、つるぎをもって、その王を撃った。ハゾルは昔、これらすべての国々の盟主であったからである。彼らはつるぎをもって、その中のすべての人を撃ち、ことごとくそれを滅ぼし、息のあるものは、ひとりも残さなかった。そして火をもってハゾルを焼いた。(ヨシ11:1-11)

マドン・シムロン・アクサフその他の大虐殺

ヨシュアはこれらの王たちのすべての町々、およびその諸王を取り、つるぎをもって、これを撃ち、ことごとく滅ぼした。主のしもべモーセが命じたとおりであった。(ヨシ11:12)

全地の大虐殺

こうしてヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブの全地、ゴセンの全地、平地、アラバならびにイスラエルの山地と平地を取り、セイルへ上って行く道のハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアルガデまでを獲た。そしてそれらの王たちを、ことごとく捕えて、撃ち殺した。(ヨシ11:16-17)

アナクびと大虐殺

その時、ヨシュアはまた行って、山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から、アナクびとを断ち、彼らの町々をも共に滅ぼした。それでイスラエルの人々の地に、アナクびとは、ひとりもいなくなった。ただガサ、ガテ、アシドドには、少し残っているだけであった。(ヨシ11:21)

平和の到来

こうしてヨシュアはその地を、ことごとく取った。すべて主がモーセに告げられたとおりである。
そしてヨシュアはイスラエルの部族にそれぞれの分を与えて、嗣業とさせた。
こうしてその地に戦争はやんだ。(ヨシ11:23)

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レビ人のみ

モーセ五書に繰り返される「レビ人しか祭司になれない」というルールを、サムエル記は知らないようだ。

サムエル記は、サムエルをエフライム人だとしており(サム上1)、またユダ族であるダビデの子たちが祭司になったという(サム下8)。

後代に属する歴代志はすでに「レビ人しか祭司になれない」と考えていたらしく、サムエルをエフライム人ではなくレビ人だったとし(歴上6)、またダビデの子たちは祭司ではなく大臣であったと変更している(歴上18)。

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聖書における自殺者

アビメレクはやぐらのもとに押し寄せてこれを攻め、やぐらの入口に近づいて、火をつけて焼こうとしたとき、ひとりの女がアビメレクの頭に、うすの上石を投げて、その頭骸骨を砕いた。
アビメレクは自分の武器を持つ若者を急ぎ呼んで言った、「つるぎを抜いてわたしを殺せ。さもないと人々はわたしを、女に殺されたのだと言うであろう」。
その若者が彼を刺し通したので彼は死んだ。
(士師9:52-54)

戦いは激しくサウルに迫り、弓を射る者どもがサウルを見つけて、彼を射たので、サウルは射る者たちにひどい傷を負わされた。
そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの無割礼の者どもがきて、わたしを刺し、わたしをなぶり殺しにするであろう」。
しかしその武器を執る者は、ひじょうに恐れて、それに応じなかったので、サウルは、つるぎを執って、その上に伏した。
武器を執る者はサウルが死んだのを見て、自分もまたつるぎの上に伏して、彼と共に死んだ。(サム上31:3-5)

アヒトペルは、自分の計りごとが行われないのを見て、ろばにくらを置き、立って自分の町に行き、その家に帰った。
そして家の人に遺言してみずからくびれて死に、その父の墓に葬られた。
(サム下17:23)

ジムリはその町の陥るのを見て、王の宮殿の天守にはいり、王の宮殿に火をかけてその中で死んだ。(列上16:18)

そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、
「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。
しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。 (マタ27:3-5)

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山の神

唯一神となる前のヤハウェは、どうやら山の神であったらしい。

暴風の神とする説、雷の神とする説もあるが、とりあえず下記を掲げておく。

それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。(創22:14)

そしてヤコブは山で犠牲をささげ、一族を招いて、食事をした。彼らは食事をして山に宿った。(創31:54)

あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物にまさる。(創49:26)

モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。(出3:1)

さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、(出19:3)

ところでこのことは、エリヤの時代にまで降っても、周辺の民族には記憶されていたようだ。

スリヤの王の家来たちは王に言った、「彼らの神々は山の神ですから彼らがわれわれよりも強かったのです。もしわれわれが平地で戦うならば、必ず彼らよりも強いでしょう。……」(列上20:23)

その時神の人がきて、イスラエルの王に言った、「主はこう仰せられる、『スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう』」。(列上20:28)

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聖書における人肉食

神罰としての人肉食

それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わず、わたしに逆らって歩むならば、わたしもあなたがたに逆らい、怒りをもって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。
あなたがたは自分のむすこの肉を食べ、また自分の娘の肉を食べるであろう。
(レビ26:27)

飢饉による人肉食

この後スリヤの王ベネハダデはその全軍を集め、上ってきてサマリヤを攻め囲んだので、サマリヤに激しいききんが起った。……
イスラエルの王が城壁の上をとおっていた時、ひとりの女が彼に呼ばわって、「わが主、王よ、助けてください」と言ったので……
王は女に尋ねた、「何事なのですか」。
彼女は答えた、「この女はわたしにむかって『あなたの子をください。わたしたちは、きょうそれを食べ、あす、わたしの子を食べましょう』と言いました。
それでわたしたちは、まずわたしの子を煮て食べましたが、次の日わたしが彼女にむかって『あなたの子をください。わたしたちはそれを食べましょう』と言いますと、彼女はその子を隠しました」。
王はその女の言葉を聞いて、衣を裂き、――王は城壁の上をとおっていたが、民が見ると、その身に荒布を着けていた――そして王は言った
「きょう、シャパテの子エリシャの首がその肩の上にすわっているならば、神がどんなにでもわたしを罰してくださるように」。
(列下6:24-31)

永遠の命のために

イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。
これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
(ヨハ6:53-59)

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偽りの筆

エレミヤ書は、燔祭を否定する。

万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、
「あなたがたの犠牲に燔祭の物を合わせて肉を食べるがよい。
それはあなたがたの先祖をエジプトの地から導き出した日に、わたしは燔祭と犠牲とについて彼らに語ったこともなく、また命じたこともないからである。(エレ7:21-22)

主は言われる、ユダの民はわたしの前に悪を行い、わたしの名をもってとなえられる家に、憎むべき者を置いてそこを汚した。またベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。
わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。(エレ7:30-31)

しかしモーセの神は燔祭や犠牲を繰り返し命じており、アブラハムの神はイサクの燔祭を命じている。

そのため(かどうかは知らないが)エレミアは、律法を「書記の偽りの筆」による「偽り」だと主張する。

空のこうのとりでもその時を知り、山ばとと、つばめと、つるはその来る時を守る。
しかしわが民は主のおきてを知らない。
どうしてあなたがたは、『われわれには知恵がある、主のおきてがある』と言うことができようか。
見よ、まことに書記の偽りの筆がこれを偽りにしたのだ。(エレ8:7-8)

仮にも旧約正典とされるエレミヤ書が、同じく正典であるモーセ五書を「偽り」としている。

モーセの律法を「偽り」だとするのが聖書の教えであれば、我々は何を信じればよいのだろうか。

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悪魔に従って動くイエス

それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「……もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。……」。
イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。
(ルカ4:5-12)

悪魔は、イエスを跪かせたり飛び降りさせたりすることはできなかったが、イエスを高い所へ連れて行ったりエルサレムに連れて行ったりすることはできたらしい。

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モーセとエリヤ

これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。
すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。
ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。
このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
(ルカ9:28-33)
六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた
ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
(マタ17:1-3)

写真も何もない時代、ペトロたちはイエスの傍らに立つ2人を見て「これはモーセだ」「エリヤだ」と判ったのか。

それとも、彼らがペテロらに対し「自分はモーセである」「エリヤである」と名乗ったのか。

あるいは、イエスが弟子に向かって「こちらがモーセとエリヤだ」とでも紹介したのか。

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信仰とは

「ヘブル人への手紙」は、信仰について下記のように述べる。

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブ11:1)

「望んでいる事がらを確信する」とは、何か根拠があって「確信する」のではなく、自分が「望んでいる事がら」を、ただ「確信する」という意味らしい。

たとえば「神に救ってほしい」と希望して、そのまま「神は我々を救う」と確信することが「信仰」だということのようだ。

同様に「まだ見ていない事実を確認する」というが、この「確認」も何か根拠がある必要はなさそうに見える。「ヘブル人への手紙」作者の考える「確認する」とは、我々の考える「確認」とは異なる概念のようだ。

「ヘブル人への手紙」作者は、イエスの復活に立ち会わなかった。著者が十二使徒であれば、イエスの復活に立ち会った者である。著者がパウロであれば、自らを回心させた奇跡について述べたであろう。しかし「ヘブル人への手紙」作者は「まだ見ていない事実を確認すること」を「信仰」だと述べる。

この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。(一コリ1:21-22)

神の存在なり何なりは、しるしや理性によっては裏付けられないらしい。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。(ヘブ11:3)

「客観的・合理的な根拠が無い事柄を、ただ信じる」。それが「ヘブル人への手紙」のいう「信仰」の意味だ。

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神はただひとり不死

パウロは、テモテに対してこう書き送っている。

神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。(一テモ6:16)

ところが、ヘブル人への手紙は、サレムの王メルキゼデクについて、こう述べる。

彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。(ヘブ7:3)

つまり、メルキゼデクも不死なのであり、「神はただひとり不死を保ち」という聖書の記述はウソである。

もちろん、メルキゼデクが不死だというのがウソであれば、「神はただひとり不死を保ち」はウソではなくなるが、いずれにせよ聖書の少なくとも一部がウソであることは否定しようがない。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/107257/ff1773c623fb5ee9bbbeb4b64b7e2f9a

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クレテ人はいつもウソつき

パウロは、テトスに対してこう書き送っている。

クレテ人のうちのある預言者が 「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」 と言っているが、この非難はあたっている。
(テト1:12-13)

もしクレテ人がいつもウソつきなら、このクレテ人の預言者が言うこともウソでなくてはならない。

つまり、「クレテ人がいつもウソつき」というのはウソであって、「クレテ人は本当のことを言う」ことになる。

ということは、この預言者のいう「クレテ人がいつもウソつき」というのは本当であって、この預言者を含むクレテ人は「いつもウソつき」である。 つまり、この預言者のいうことはウソである。

であれば、「クレテ人がいつもウソつき」というのはウソであって、「クレテ人は本当のことを言う」ことになる。

ということは、この預言者のいう「クレテ人がいつもウソつき」というのは本当であって、(以下、無限ループ)

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/107257/f3c4f0efeda2261f929971f672592345

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