研究ブログ

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禊教祖・直門遺跡めぐり(2)


 村越守一の屋敷跡の次ぎは少々離れていますが、井上正鐡が天保十四年(1843)五月二十五日に流人船で船出した地である、深川万年橋を訪れました。村越守一屋敷跡である東墨田テニスコートからはいろいろな経路が可能ですが、とにかく南下してから、新大橋通りに出て、西に向かい、森下の交差点から三つ目の信号〈新大橋を渡る少し手前)を左折します。200メートルほどで芭蕉記念館があり、辺りにコインパーキングもたくさんあるので適宜に駐車し、記念館に入ります。芭蕉については、井上正鐡も「花下(はなのもと)大明神」として尊崇し、遺文にもよく出てきます。なお、正鐡が流された天保十四年は、芭蕉の150回忌で、吉田家から「花下大明神」の神号が正式に下されています。
 この記念館の常設展示の中には、深川周辺の古地図がありますが、注意深くみると、この記念館と隅田川をはさんで丁度対岸にあたる、正鐡の生地である秋元但馬守中屋敷が記されたものもあったりします。裏手から隅田川の堤防に出られますが、対岸にひときわ高くそびえる47階建ての建物が平成17年に竣工した「トルナーレ日本橋浜町」〈中央区日本橋浜町3-3〉で、秋元家中屋敷の大部分に相当する街区が「日本橋浜町三丁目西部地区第一種市街地再開発事業」の対象となって建設されたものです。
 隅田川の堤防を少し川下〈200メートルほど〉に向かって歩くと左手から小名木川が合流します。合流点の突端は、記念館の史跡展望庭園となっていて芭蕉の像がありますが、そこから小名木川の対岸に見える「グリーンコーポ清澄」という集合住宅のあたりが、船手役所の組屋敷跡です。この船手役所が流人船を管轄しており、出帆の日には、すぐ脇の万年橋のたもとに見張り場所が設けられて、小伝馬町の牢屋敷から護送され来た流人はここで見送りの人々と別れを告げ、夕刻に出帆することとなっていたのでした。
 このあたりの風景を、同時代人である葛飾北斎が、天保年間に「富岳三十六景」の「深川万年橋下」として描いています。この図の画面中央にある万年橋の左側の建物が、御船手組屋敷であり、万年橋の下から遠望する対岸の塀に囲まれた武家屋敷の一つが生地の秋元家中屋敷でした。古地図を参照すると、万年橋下の小名木川から見ると、正面には陸奥棚倉藩松平家の下屋敷、その右に秋元家があり、さらに常陸麻生藩新庄家の上屋敷がありました。正鐡が遠島に処せられた当時は、甥の教鐡が生家の安藤家を継いで、中屋敷に住んでいたようです。正鐡は自らの出生の地を目の当たりにしながら、最期の地に旅立ったのでした。
 さて、芭蕉記念館の周辺で「深川飯」を食してから、車に乗れば、新大橋通りに出て、新大橋を渡ればすぐに「トルナーレ日本橋浜町」につきます。当時を偲ぶよすがは全くありませんが、「浜町神社」という幕末に町内の方々によって勧請された神社がありますので参拝しました。実は、再開発前にこの地域を訪れたことがありましたが、細かい街区に分断され、たくさんの住居や店舗が密集していました。この「トルナーレ日本橋浜町」の開発は、不思議なことにほぼ秋元家中屋敷の敷地と一致しているので、私の感じでは、この再開発で当時の屋敷の「広さ」が復元できたのではないかと思っています。
 そのあとは、新大橋通りをさらに西に向かい、人形町の「水天宮前」の交差点を右折し、北上して約600メートルほどいくと小伝馬町の交差点があり、少し過ぎて刑場の跡地である大安楽寺の角を曲がると牢屋敷跡の「十思公園」があります。車は、公園の周囲にはパーキングメーターがありますので使えます。ここにあった牢屋敷に、井上正鐡は、天保十二年(1841)十一月二十四日から翌年二月十六日までの約三ヶ月、正鐡の妻男也と、高弟三浦隼人の妻采女は十一月二十四日より十二月二十四日までの一ヶ月間入牢し、その間の十二月二十二日にには、三浦隼人が獄死したのでした。さらに、正鐡は十三年(1842)十一月二十八日から翌年五月二十六日までの約半年間の入牢の後に遠島となったのでした。
 今回の史跡めぐりは、ここを見学後大雨となりましたが、予定通り解散できました。次回は、井上正鐡が梅田村での公然布教を開始するに先立って、取締の避難所、道統の温存場所としていくつか開拓した拠点のひとつである秩父日野澤村と、三浦知善が隠れ住んで念仏修行に励んだ一ツ木村を訪問するツアーを考えています。日野沢には正鐡が自ら刻んだ神号石、一ツ木には、知善が念仏した赤ん坊を抱いた子育て観音を祀る観音堂があります。
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禊教祖・直門遺跡めぐり(1)


 
 この5月22日、禊教発祥の地である足立区梅田の梅田神明宮隣地に所在する単立の神道教会「唯一神道禊教」の「第1回教祖・直門ご遺跡めぐり」のガイドを行いました。3台の乗用車に10人が分乗するという小イベントではあったが、禊教に関心のある方が、関係地を訪問するのにも参考になると思うので、行程などを紹介してみましょう。(敬称略)
 集合場所は、禊教の立教地梅田神明宮です。所在地は、東京都足立区梅田6ー19-1で、東武伊勢崎線の梅島駅から徒歩なら10分位のところです。梅島駅を降りたところに通っている道が、旧日光街道で、東京方面へしばらく南下すると「梅田神明宮通り」の入口があります。数年前までは「梅田神明宮通り商店街」の小さなアーケードがありましたが、今では取り払われてしまったので、ほんの小さな行灯型の表示だけになり、見つけにくくなってしまいました。車の場合は、梅田神明宮に向かって、旧日光街道側からの一方通行です。車一台が徐行して通れる程度の細い道ですが、タイルで舗装され、個人商店がぼちぼち軒を連ねている下町の商店街です。梅田神明宮はその中程にあります。
 梅田神明宮には数台の車を止めるスペースがあります。境内には、教祖井上正鐡時代からあった本殿(享和年間の棟札あり)、拝殿(明治七年造営)、末社の「井上神社」、「ご本家」といわれた教祖旧宅があります。これらは、昭和五十九年に大規模な改修を行って現在に至っていますが、そのほか、教祖時代以前からの手水鉢(文化十二年)や、「教祖之碑」ほかいくつかの石碑があります。
 梅田神明宮から、右折(一方通行のため左折できません)で出ると、数十メートルで、都バス(浅草寿町~足立梅田町)の通る道に出ますので、左折します。なお、左折しないで、直進すると稲荷神社があり、その本殿裏(遍照院旧境内)には、井上正鐡の梅田奥津城がありますが、それは後日言及することにしましょう。さて、左折して道なりにしばらく走ると、荒川放水路の土手下に出ます。右手が川上ですが、左折して荒川左岸の土手下、首都高速の下を約6キロほどを川下に向かって走っていくことになります。日光街道(国道4号)の下を通り、東武小菅駅、東京拘置所を過ぎて、水戸街道(国道6号)の下を通り、京成四ツ木駅を過ぎたら間もなく木根川浄光寺(葛飾区東四つ木1-5-9)があります。
 ここは、井上正鐡の高弟で、財政的な支援者でもあった村越正久をはじめとする村越一族の菩提寺であり、寺社奉行による取締と、井上正鐡の死去により、全く衰微してしまった井上正鐡門中が、直門三浦知善により復興する「安政の復興」の舞台でもありました。この寺は天台宗に属し、元は浅草寺の末寺でした。本尊は薬師如来で「木下川薬師」と呼ばれており、「江戸名所図会」にも記述があります。大正年間に、荒川放水路建設のため現在地に移転してきました。
 村越正久は、井上正鐡が梅田での開教の後に、ピンポイントで伝道した近隣のキーパーソンでした。「實伝記」には、毎日村越家の屋敷(「梅屋敷」)の堀に釣りに出かけ、正久が研究していた梨の栽培に事寄せて布教したという逸話が載せられています。入門は天保11年7,8月とされています。そして、後に教派神道の「禊教」開祖となる坂田鐡安は、村越正久の弟であり、明治前期の大成教禊教の教師のうち9割がその流れを汲んでいた村越守一もまた、村越正久の弟だったのです。
 本堂の左側に墓地の入口があり、木戸のすぐ脇を右に曲がると村越家の墓域があります。一番奥に正久夫妻の墓が平成七年ごろまでありましたが、現在では東北地方に改葬されて所在不明です。その手前に村越守一家の墓があり、その中に全く一族と同等の扱いで、正鐡の高弟三浦知善の墓が祀られています。守一の墓碑は大成教管長の平山省齋の書です。なお、三浦知善の夫で天保年間の取締のおりに獄死した三浦隼人もこの寺に埋葬されたのは確からしいのですが、(『在島記』『万世薫梅田神垣』による)墓碑は見つかっていません。また、墓地入口の木戸を直進すると、歴代住職の墓域があり、その中に井上門中であった五十九世但唱の墓があります。この人は、焼失していた伽藍を再建し、将軍の御成りを再開するまでに復興させた後、三浦知善の門に入り、井上門中の「お祓い修行」のバリエーションとして「高声念仏」を唱導しました。これは、「弾誓流高声念仏」として独特の展開をとげましたが、墓碑には「井上正鐡の又門人と成り、神祇道を学ぶ」とあります。この辺りでは、去る3月11日の震災で、かなりの揺れがあったようで、いくつもの墓石が崩れたようで修理された跡がありました。
 次は、村越正久の屋敷跡に行きます。この地域は、大正年間の荒川放水路の開削により、大きく地形が変わっているので、なかなかその跡をたどるのが難しいです。まず、浄光寺の門を出てから、来た道をすこし戻り、綾瀬川と荒川にかかる「木根川橋」を墨田区側に渡ります。ほぼ正面に、スカイツリーが見えます。わたりきったところで信号を左折し、荒川右岸の土手沿いの道を約1キロほど川下に向かって走った東墨田3丁目21番附近や江戸川区平井7丁目30番附近が、「木根川梅屋敷」といわれた村越本家(治郎兵衛)の跡地です。ここは、蛇行する中川に突き出た半島状の場所だったようです。土手上道路わきの植え込みの中に、江戸川区教育委員会によって、建てられた案内板があります。今では、この案内板のほかには、何も当時を偲ぶよすがもありませんが、先ほど訪れた浄光寺の本堂の屋根が対岸に見えたり、埋め立てた河川敷の形のままに曲がって連なっている団地があったりして、地形の名残がわずかに読み取れます。この梅屋敷については、昭和41年の区境変更にあたって編纂された、江戸川区郷土資料室編『平井梅屋敷について』(昭和41年・江戸川区教育委員会)という冊子が、詳しいです。また、実際の訪問者による資料としては、『クララの明治日記(下)』(昭和51年・講談社)には、1879年3月8日に訪問した時の記事があり、五百本の梅林や、屋敷の様子が描かれています。また、勝海舟が、この屋敷の保存に尽力した経緯が、『勝海舟全集』の「海舟別記巻五」に「木下川田地の事」として記されています。
 つぎに、村越守一の屋敷跡を訪れます。村越守一は、正久の実弟ですが、屋号を「西の家」という分家伊三郎家の養子になっていました。初代伊三郎夫婦は文政三年(1820)にそろって没していますので、守一はまだ七歳でしたから、実態はどんなものでしたでしょうか。若いころの守一は相当な無頼漢で、親戚中がかなり手を焼いたようです。一度目の取締の後である天保十三年(1842)に正鐡に入門しており、正鐡が存命のころには重要な地位を占めてはいませんでした。それが、三浦知善の「安政の復興」以降には大活躍し、明治前期には守一門下が井上門中の多くの部分を占めるまでになるのでした。
  守一の曾孫である故村越陽氏(平成元年没)によると、屋敷跡は現在の西墨田三丁目19番の墨田区西墨田テニスコートだといいます。「西の家」(にしのうち)という屋号だけあって、梅屋敷の北西200メートルほどの場所です。このあたりの中川は、とてもきれいに整備されています。
(つづく)
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大成教禊教系の教会や活動の現状


大成教に所属した教会の後身や、そこから展開した活動で現在も存続するものは、現在把握できているのは次の通りである。
神道大成教禊教会本院(千葉県松戸市松飛台)
神道大成教唯一禊教会(静岡県磐田市中央町)
禊神道教会(栃木県宇都宮市塙田町)
唯一神道禊教(東京都足立区梅田六丁目)
唯一神道禊教川越分教会(埼玉県川越市)
神道(総局)(北海道江別市)
一九会道場(東京都東久留米市前沢三丁目)
心身統一合氣道会(栃木県芳賀郡市貝町大字赤羽)
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神道禊教(坂田安弘教主)の現況


 神道禊教(坂田安弘教主)の現況を、『神道禊教教報みちづけ』(132号、平成23年2月)の年賀広告で見てみることにしよう。
 教会としては、東京本部大教会(東京都中央区東日本橋)、鹿沼親授布教所(栃木県鹿沼市上石川)、宇都宮宗家親授布教所(栃木県宇都宮市幕田町)、釧路分院教会(北海道鶴居村幌呂東)、喜多方分院教会(福島県喜多方市西四谷)、古河分院教会(茨城県古河市大手町)、足利分院教会(栃木県足利市本城)、佐野分院教会(栃木県佐野市大蔵町)、猿島分院教会(茨城県境町山崎)、中泉分院教会(栃木県壬生町中泉)、浜松分院教会(浜松市中区三島町)、北濃分院教会(岐阜県山県市船越)、藤枝分院教会(静岡県藤枝市藤枝)、山城教会(京都府城陽市寺田)の名がある。こうした傘下教会の上に、今年は「禊大神宮」の建立を発願したという。
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我が家のこと(1)


 天理教徒となり、我が家に宗教への愛憎を強く残した私の祖母しづを中心に、私の家のプライベートな歴史を書いてみたい。宗教との関わりも持ちながら、近代史の中でもまれてきた都市下層民の暮らしが少し描けそうな気がする。
 しづは、明治三十五年(1902)に神奈川県横須賀町に生れた。父は地元の素封家であったらしいが、実母は、戸籍に記された母である父の妻とは別人であった。それでも、幼少のころは大切に育てられたといい、息子である私の父に「わたしゃ、住所は一番地で、幼稚園にも行ってたんだよ」と自慢したそうである。しかし、実母とともに東京に移り、やがて大正九年(1920)に荻原清次と結婚した。
 この清次は、足尾鉱毒の請願に関わる川俣事件で有名な利根川畔の村、群馬県邑楽郡佐貫村川俣で明治三十年(1897)に生まれた。父の梅太郎は、嘉永六年(1853)生れで、郡会議員だか村会議員だかを勤めたような人物だったという。川俣事件は明治三十三年(1900)二月のことだから、四十代後半の梅太郎は何らかの立場で関わっていたかもしれない。だが、清次の幼少のころにはすっかり没落して、「井戸塀(いどべい)」(没落して母屋がなくなり井戸と塀しかないような貧家を表すと聞いている)になっていたという。その話を父はよく聴かされていたらしく、「うちは政治に関わって没落したから、政治に手を出してはいけない」といっていた。しづが私の父に語ったということでは、「館林に行ったら、おばあさん(姑)が、『ちょっと出かけてくる』といって、何か荷物をしょって家を出るとき、背中で『ボンボン』と音がした」という。息子が嫁を連れて帰ってきたので、時計を質屋に入れて、金を工面して来ようとしたのである。その数年後の大正十一年(1922)に梅太郎は亡くなったが、すでにすっかり耄碌していて、村の酒屋などを回り、「お宅に返してない金はないかね」と尋ねては、「梅さんみたいなしっかりした人に返してもらってない金はないよ」といってもらって安心していたという。
 没落して田畑もなかったし、清次は次男だったので、東京へ出て浅草の飾り職人に弟子入りし腕を上げた。「赤坂離宮(現在の迎賓館)の金具は、俺が作った」というのが自慢だった。赤坂離宮竣工は明治四十二年(1909)だから、清次は十二歳で、小僧の一人として働いていたとしてもおかしくはない。
 結婚当初は、結構稼ぎがあったようだ。大正九年(1920)に生れた長女は、一歳にならないうちに亡くなったが、我が家にはその子の戒名が残っている。こんなところにも、生活のゆとりを感じさせる。しかし経営能力は全くなく、田舎者にもかかわらず、「宵越しの金は持たねえ」という気風だけは、江戸っ子風であったので、いい親方の下でいい仕事ができていたときは、それなりの暮らしもできていたようだが、親方が廃業したりしたら、一気に貧乏暮らしとなったようだ。そんな時、しづは天理教に入信することになる。
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禊教(坂田安儀教主)の現況


 最近になって、身曽岐神社から少し離れた形で、坂田安儀氏が、「禊教」としての活動を再興しているという話を聞いていたが、このたび復刊した「みそぎ」第4号までを入手できた。この「みそぎ」誌は、第4次といえるだろう。
 最新号の第4号(平成23年1月)には、年賀広告があり、所属の教会が掲載されている。それには、「三宅島分院教会」(東京都三宅村伊ケ谷)、「伊勢分院教会」(三重県松阪市松名瀬町)、「巨摩分院教会」(山梨県北杜市小淵沢町)、「小南分院教会」(千葉県東庄町小南)、「遠江教会」(静岡県浜松市中区西浅田)、「深津分院教会」(群馬県前橋市粕川村深津)、「美濃分院教会」(岐阜県岐阜市梅林西町)、「八知分院教会」(三重県津市美杉町八知)、「八ヶ岳分院教会」(山梨県北杜市小淵沢町上笹尾)、「伯家神道仙台分祠」(宮城県仙台市若林区清水小路)、「伯家神道諏訪分祠」(長野県諏訪市上川)がある。明治以来の古い門中の「教会」と近年に設立されたと思われる「分祠」があるが、法人、非法人や、法的な包括関係などは、ここではひとまずおいたとしても、影響関係ははっきりと読み取れよう。 近いうちに、「禊教」の昭和末期の「みそぎ」(第2次)や、分派した「禊教真派・神道禊教」の「みちづけ」誌などの記事をもとに、各教会の状況を整理しておきたいと思っている。
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