研究ブログ
拙稿も掲載された『ソシオロゴス』45号が公刊されました。
拙稿「検閲と娯楽――1930年代のラジオ番組をめぐる制作・統制・報道のインタラクション」も掲載された『ソシオロゴス』45号が2021年11月13日に公刊されました。
同号に掲載されている論考は以下の通りです。
- 太田美奈子 「無線/有線からみる地方のテレビ受容――青森県三戸郡田子町の事例から」
- 今井聖「『指導死』概念は何をもたらしたのか――遺族の語りから見る社会的経験の変容」
- 福永玄弥「『毀家・廃婚』から『婚姻平等』へ――台湾における同性婚の法制化と『良き市民』の政治」
- 毛里裕一「検閲と娯楽――1930年代のラジオ番組をめぐる制作・統制・報道のインタラクション」
- 野村駿「集団による音楽活動成立の条件――あるバンドの結成から解散までをたどって」
- 矢吹康夫「見た目問題のモデルストーリーから距離をとる当事者たち――マイフェイス・マイスタイルの『ヒロコヴィッチの穴』を事例にして」
- 平島朝子(関朝子)「障害という差異が本質化されない運動経験はいかなるものか――タンポポ運動におけるPさんの事例から」
- 杉山怜美「ファンのライフコースからみるメディアミックス作品の経験」
- 大尾侑子・陳怡禎「〈貢献〉するファンダム――デジタル空間における日本/台湾アイドルファンの実践を事例に」
- 「ロゴスとミュートス(3)――長谷川公一氏インタビュー:社会の総体を物語として描く」
同号から表紙の目次の文字組が変更されています。女子美術大学のデザイン科の学生の方の手による創刊時のスタイルに回帰されたとのことで、同号には当時の経緯も記されていて(pp.181-182)興味深かったです。
定価1,600円で販売されています(ISSN 0285-3531)。なお同誌掲載論文は、公刊後1年を目処に、同誌ウェブサイト上で無料公開されます(インタビュー記事はウェブ公開の対象外のようです)。
拙稿の抄録は以下の通りです。
検閲に代表されるような、マス・コミュニケーションを対象とした言論統制策は、合法/非合法というコードを外挿することにより日常的な価値判断を組織化しなおす契機となることもあれば、規制を課すことによって新たな内容の考案を賦活し、水路づけることもある。本研究では、まず、草創期から1930年代半ばごろまでの日本におけるラジオ放送に合焦して、番組の制作とそれに対する検閲、さらには新聞での両者の動向の報道という3つの実践が相互をどのように規定し、影響しあっていたかを検討した。その上で、この時期に放送された2つの娯楽番組をとりあげ、「時事的話題に触れる即興的な娯楽番組」という新機軸が、同時代の検閲実践をいかに意識しながら制作され、喧伝されたかを分析した。
現代でも表現活動は有形・無形の何らかの統制のもとで行われているといえるかと思いますが、両者の影響関係を検討する上で、「検閲」が明示的には禁じられていなかった戦前の状況はなお有益な参照対象になると考えました。
本稿は次のような構成となっています。
1 はじめに
1-1 研究の目的——ラジオに対する検閲を相互作用の相で捉えること
1-2 研究の方法——「消極的規制」の下での相互作用への注目と新聞報道の位置づけ
1-3 研究の焦点——娯楽番組の新機軸という指し手
2 ラジオへの検閲が新聞で報道されるということ
2-1 放送に対する検閲
2-2 検閲の失敗と成功
3 ニュースバリューを生む構図
3-1 規律違反
3-1-1 制作者のみならず検閲者にも向かう帰責
3-2-2 放送と新聞とのあいだの規範の二重構造
3-2 紛争・対立
3-2-1 官対民
3-2-2 省庁間の所管争い
3-2-3 新聞の当事者性
4 禁忌としての時事と媒介としての娯楽
4-1 「軟尖問答」という指し手
4-2 「軟尖問答」の製作
4-3 「軟尖問答」」への検閲
4-4 指し手としての「軟尖問答」の意義
4-5 「1932年風景」における齟齬
5 小括
査読者のお二方や査読会議のオブザーバーの方々からいただいたご意見・ご質問に答えることで、ようやく目鼻をつけることができた論考です。もちろん、なお残る瑕疵の責はひとり筆者である私が負うべきものです。
※拙稿の抜き刷りをご所望の方は、mourihrkz[アットマーク]gmail.comまでご連絡ください。
(2023-06-09追記:同誌サイト上にて公開されました。)
拙稿「検閲と娯楽:1930 年代のラジオ番組をめぐる制作・統制・報道のインタラクション」の第一回査読会議がオンラインで行われます。(2021/2/7 13:00-)
雑誌『ソシオロゴス』45号に投稿した拙稿「検閲と娯楽:1930 年代のラジオ番組をめぐる制作・統制・報道のインタラクション」に対する第一回査読会議が、以下の要領でオンライン開催されます。
毛里裕一(所属先なし)
検閲と娯楽——1930年代のラジオ番組をめぐる制作・統制・報道のインタラクション
査読者: 長谷正人(早稲田大学)、飯田豊(立命館大学)
第1回査読会議
日時: 2021年2月7日(日)13:00~
備考: zoomを使いオンラインで実施します。傍聴をご希望の方は、お名前を明記の上、返信を希望されるアドレスから
censorshipandentertainment[at
mark]gmail.com宛にメールにてご連絡ください。後日zoomのIDをお知らせします。
なお、お知らせいただいた個人情報は今回の査読会議の連絡にのみ用い、会議終了後に破棄致します。
2020/12/12 「ピースサインという自意識——『写る文化』の変曲点の史的検討」というタイトルでオンライン報告する予定です。
第68回関東社会学会大会自由報告部会「第1部会:メディア・文化」(2020.12.12 10:00-12:30)にて、掲題のタイトルで研究報告を行います。
本年度は自由報告部会は誌上発表というかたちとなります。大会参加者の方には、特設サイト上で配付資料を御覧いただき、ご質問があれば質疑応答用のアドレス宛にメールにてご送付いただくことになります。配付資料ははなはだ不十分なものとなってしまいましたので、お訊ねいただいた方には補足資料を交えながら応答したいと思います。
(2021.1.6追記)
当日の配付資料に一部補足を加え、引用した写真を削除したものを「マイポータル」の「講演・口頭発表等」にアップロードしました。
報告要旨は以下の通りです。
コンパクトカメラから,プリクラ,ケータイに至るまで,写真撮影の日常化と簡便化とが長期に渡って継続的に進んできたなかで,近年,自身のヴィジュアル・イメージに対する感受性の変化を歴史的に検討する試みが幾つか行われている。ただし現状では,そうした検討作業においては,「自撮り」という「撮る文化」の解釈枠組みに基づくものが先行する印象を受ける。
これに対し,本発表は「ピースサイン」の出現と定着に合焦することで,画像・映像としての自己呈示のありようをより長期的に辿りなおすことを目標とする。いまとなっては識域下の半ば自動化した所作と化した観さえあるピースサインだが,撮影者と被写体との非対称性がまだ相対的に強かったころに登場したことにより,初期には一定の緊張関係をはらむものとして前景化する場面もあった。肖像写真としてもスナップ写真としても時に夾雑物扱いされることがあったこの所作は,視点を変えれば,「撮る文化」とも「視る文化」とも完全には重なりきらない,「写る文化」の一定の自律性を示唆するものと位置づけることができる。
具体的に本発表では,まずピースサインの登場経緯について関説されることの多い,Vサインとの継受関係,政治的・社会的メッセージ性の強弱,CMやタレントの影響関係などについて概観・整理する。その上で,一般メディアや専門誌などで散発的に示されてきた違和の表明を分析することで,逆説的にこの所作の特性を浮き彫りにする。さらに,芸能誌の誌面の変遷や写真館の業態拡大などの文脈を補完することで,その普及過程について考察する。
6/10 関東社会学会での個人発表「趣味の自意識/娯楽の自意識」
発表要旨は以下の通りです。
連続講義「いま考える、メディア統制と内なる対抗の歴史」
【2016.10.24追記】まことに残念ですが、以下の連続講義、最少履行人数に達せず開講が見送られることになりました。また別の機会に、柴野京子さん、中野俊子さんのご研究をうかがえればと楽しみにしております。
上智大学文学部新聞学科准教授の柴野京子さんのご企画で、同大学公開学習センターにて、2016年の10月末から11月中旬にかけて、「いま考える、メディア統制と内なる対抗の歴史」と題された連続講義(全3回)が開講されます。受講希望者が集まれば、という条件付きでの開講となりますが、柴野さん、早稲田大学で非常勤講師をされている中野綾子さんによる講義の後、私もお邪魔させていただくことになりました。
連続講義全体のテーマについては、以下のように記されています。
このテーマの下、各回の講義が以下のようなスケジュールで行われます。
まだ他のお二方の講義内容について詳しくは伺っていませんが、恐らくは関連するであろうご研究として、すでに以下のような論考を発表されています。
柴野さんは、書籍・雑誌の流通網の整備から、それがいわゆる戦時新体制の下で再編されていく過程を原資料に基づいて検討されています。
経済原則の超克も謳っていた戦時下の経験の功罪などを検討することで、今日ふたたび再編が迫られている出版流通のあり方に対する歴史的含意を探るようなご講義になるのでは、と期待しております。
一方の中野さんは、敗戦前の従軍生活における読書の経験とそれを文脈づける諸制度との相関関係を精力的に検討されておられます。
中野さんご自身のご関心からはずれるかもしれませんが、まったき自由でも強制でもない読書というものの複雑さを考える上で、きわめて今日的なお話をうかがえるのではないかと楽しみにしております。
お二人のご講義に比べると非常に見劣りがするのですが、私自身は、今年6月のマス・コミュニケーション学会春季研究発表会での報告でも採りあげた、敗戦前のラジオ放送に対する統制の状況と、それに文脈づけられた当時の番組の企画・制作との関係についてお話しできれば、と考えております。時事と「娯楽」なるものとの関係も主題の一つとなるので、あるいはこの辺りから、多少現代的な議論とも接続できるかもしれません。
ともあれ、私の拙い発表は別にして、柴野さん・中野さんの講義は、単なる懐旧譚に堕さない非常に刺激的な内容になると期待されます。個人的にも是非お二人のお話を伺いたいので、もし上記の内容に興味をもたれた方がおられましたら、無事開講となりますよう、下記のリンク先から受講を予約いただければ幸いです(お代を頂くのは誠に心苦しいのですが、今回ばかりはお二方の発表だけで十二分に元がとれると考えます)。
日本マス・コミュニケーション学会2016年度春季研究発表会での報告資料
その際、私の準備が足りず、レジュメが不足していたようです。お運びいただきながら、資料をお渡しできなかった方には心よりお詫び申し上げます。
つきましては、当日配付資料ならびにスライドを、期限を限って公開いたします。お入り用の方は、そちらをご覧いただければ幸いです。
(7/6追記)
公開を終了いたしました。