研究ブログ

研究ブログ

日本哲学会公募ワークショップ

さる5月19日、首都大学東京で行われた「Reasoning論の哲学的新展開 ―生命・心・法をめぐって」(オーガナイザ:岡本賢吾先生、提題者:木本周平氏・西村友海氏・太田)で「自己欺瞞のreflective reasoning」というタイトルの提題を行いました。日曜の早朝という時間にもかかわらず多くの方にご来聴いただき、貴重なコメントもいただきました。どうもありがとうございました。資料は「資料公開」からと「業績一覧」リンクの両方からダウンロードできます。

 プレ研究会の段階から「このような形態のreasoningは希望的観測と区別がしにくいのではないか/「欺瞞」の特徴がわかりづらいのではないか」というコメントがあり、その都度回答はしてきたのですが、思い当たる節があるので記しておきたいと思います。
 スライドにあるようなTrope, Gervey, Libermanら社会心理学者の提示した推論パターンは、もともとがMotivative Reasoningとして提示されたものです。引用された彼らの論文のタイトルにMotivative Reasoningの語があります。ただこの論文が収められている論文集のタイトルはThe Mythomanias: The Nature of Deception and Self-deception であり、自己欺瞞研究で最初にこの成果を取り入れたのがデフレ説の支持者であるAlfred Meleであったりと、この研究成果自体が(必ずしも欺瞞の含意をもつものではない)Motivative Reasoningとself-deceptionの両方に用いられてきたという経緯があります。
 このあたりの二義性は「「信じたいことを信じる」が「自分をだます」」にどのようにして関連付けられるのか、そこに何らかのプラスアルファが必要になるのか」という問題につながっていくと思われます。ワークショップではこの疑問に明確な解答を与えることができなかったので、さらに今後の課題としたいと思います。
0

応用哲学会

4月7日・8日に応用哲学会第10回大会が名古屋大学東山キャンパスで行われ、8日に「無知の責任と無知による行為の責任」というタイトルで発表しました。
しかし、10回という回数に深い感慨を覚えます。2008年の名古屋哲学フォーラム(テーマは「現代形而上学」でした)のあと、何となくの流れで翌日の設立総会に赴き入会したとき、私の方はさしたる決意も何もなかったのですが、こうしてテーマを自由に設定できて良質かつ丁々発止の質疑応答がどこででも見られるというイベントがこんにちまで続いてきているというのは奇蹟だと思うのです。事務局および開催校の皆様に感謝申し上げます。日々、研究者であるのか何なのかわからない身分の者も発表の場を与えていただけるのもひとえに皆様のおかげであります。深謝。

発表の反省点は多々ありますが、今回とりあげたG. Rosenの議論に対して、彼や他の反論者が提示している認知的な要因で反論を提示できずつい外的要因に頼ってしまったことが大きいです。あと「無知」といっても全般的・根本的な無知なのか、普段は知っていたけどたまたまその時知識が抜け落ちたのか、一時的なものか(一部の差別的思考に見られるように)ライフスパンを通じての無知なのか、などの場合分けを明確にしないと論点が曖昧になるということもフロアからの質疑で明らかになり、今後の課題となりました。
予想外に多くの皆様にご来聴いただき、かつ貴重なコメントおよび質問もいただくことができて光栄でした。みなさまどうもありがとうございました。
※資料は業績一覧の「口頭発表」欄にハンドアウトのリンクを張っておりますので、引き続きコメントなどありましたらいつでもお願いいたします。
0

ワードマップ『心の哲学』発売中です。

告知が遅くなってしまいましたが、共著者として参加いたしました『ワードマップ 心の哲学』が7月初旬に発売されました。
私は「I−13 心的因果をめぐる諸説」の節を担当しております。
拙著『心のありか』の内容をぎゅっと凝縮し、心的因果の問題とは何か、解決のオプションにどういうものがあるかを紹介しました。
他にも錚々たる著者の方々が各項目を執筆しており、内容も心の哲学の基礎から意識、脳、神経倫理学まで多岐に渡っております。
ぜひご一読ください!
0

若手法哲学研究会

2月26日に早稲田大学で行われた「若手法哲学研究会」で発表しました。
当日配布資料は「資料公開」からDLできます。

内容は、上官に脅されてスレブレニツァ虐殺に加担したDrazen Erdemovicの行為が、脅迫(=生命の危機)によって弁明されうると主張したたGideon Rosen論文(http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1467-8349.2014.00233.x/epdf)のサーヴェイと、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所において事件がどのように扱われたかの判例研究との比較考察を行いました。
まだアプローチの方向性がぼんやり見えてきた段階で、それを明確なものにして来たる某学会に備えたいと思っています。

質疑では、最初にErdemovicの告訴理由となった「人道に対する罪」の成立経緯から戦争を裁判で裁くことの是非など有益なコメントを多くいただいた一方で、内容のまとめ方にわかりづらい部分や誤訳が見つかるなどミスもあり、また「モチベーションを明確にすべき」という声があるなど準備不足を痛感させられることにもなりました。
今後はRosen論文に対するスタンスを固めるとともに、戦時下の非道徳的(非人道的)行為の特殊性についても調べてみたいと思っています。ともあれ、ご来場いただいた皆さんの熱意あるコメントやご質問に感謝いたします。
私の他に鈴木康文さん、蝶名林亮さんも発表されたのですが、3人トータルで7時間半!という白熱した研究会になりました。盛会のうちに終了することができ、大変うれしく思います。

最後に、「こういう事例の場合は実際の出来事ではなく架空の事例で論じたほうがよいのではないか」というコメントについて一言。
これに関しては倫理学の方法の特色がうまく伝えられなかった力量不足でもあるので、そういう声があるのは想定の範囲内でした。ただ思考実験となるとこれまた「現実での苦悩や痛みが考慮されておらずけしからん」という意見が聞かれ、そうなるとどちらを扱うのも難しそうだ、ということを痛感いたしました。
0

日本法哲学会(つづき)

報告内容に関して、某先生から懇親会でご指摘いただいた論点をひとつ。

自己欺瞞が非難されるケースは2つあります。
①自己欺瞞的信念(に基づく行為)が原因で何らかの被害が発生した場合
②被害が生じる生じないに関係なく自己欺瞞はよろしくないとされる場合

①は自己欺瞞は責任の対象になりえますが、その場合は法的責任が主となります(道徳的責任も付随して生じえますが副次的なものとなります)。そして②の場合は、問われるのは責任の有無ではなく「よき生であるかどうか」です。

今回の報告では②を出発点に自己欺瞞の責任の問題を考えたのですが、某先生の見解ではその問題はありえないのではないか、ということでした。

しかし、②の意味で自己欺瞞の責任を問うている論文は少なからずあるので、そこにおける「責任」がどういう含意で想定されているのかを考える必要があります(某先生ならその問題の立て方自体がミスリーディングだ、とおっしゃるかもしれません)。
また、「非難の対象になること」を即「責任が生じること」と解した上で考察を行なったのはやや性急だったか、という反省もあります。

上記の論点について、さらに考えを深めてゆきたいと思います。
0

日本法哲学会

11月8・9日に京都大学で行われた「日本法哲学会・学術大会」で報告を行いました。
タイトルは「自己欺瞞に責任を問えるか」というタイトルで、「自己欺瞞者は信念を制御が不可能であるがゆえに責任を課すことが困難である」という主張に対し、信念の制御の不可能性を支える論証の反例を示し、併せて他者への影響によっては有責とすることができる、という内容でした。

フロアからは、自己欺瞞に「させる」社会的要因に目を向けるべきではないのか、有責性の裏付けが不十分ではないか、などの質疑がなされ、自分の論考の不十分な点が明白になった形で、手探りしつつ応答してゆくことで考えを深めることができました。
また、懇親会では、興味深いテーマであるという声をいくつかいただき、大いに勇気づけられました。
その1週間ほど前に雑誌になった自分の論文の誌面を見てことの大きさに愕然とし、他の優れた掲載論文の中に自分みたいなのが混じってしまってよいのかと不安に駆られましたが、開催校のスタッフの皆様にも会員の皆様にも温かく迎えていただき、心より感謝しております。
ハードルが高くても挑戦してよかった、と安堵しつつ、すっかり腑抜けになってしまった今日このごろです。

実はこちらの学会の業績発表システムがこれまで経験したことのないものでした。まず、エントリーから学会発表当日まで約1年あること(今回は締切が延長になったため10ヶ月程度)。哲学系の学会ではエントリー・採用から当日は3ヶ月程度のところが多いと思われますが、1年となると、モチベーションの維持や健康管理など長期的視点が必要になってきます。
もうひとつは、「学会誌への投稿論文と同内容で学術大会報告に応募することが可能である」というシステムで(もちろん別々の応募でも可)、報告要旨としての査読に加えて投稿論文としての査読を通過するというものです。
自分が所属した学会では、報告はどちらかというと論文の原型のような役割で、報告原稿を加筆修正して論文に仕上げて投稿という形をとりますが、今回の方式では投稿論文が報告の概要も兼ねるため、エントリー段階で論文の形にできる程度には完成されていなければならない、ということになります。自分で選択したとはいえ、なかなかにプレッシャーがかかりました。
(くわしくはこちらのPDFの5−6ページをご参照ください。ちなみに、もう来年度の募集が締切間近です)
http://www.houtetsugaku.org/_userdata//news29.pdf

このように、何もかもが初めてづくしで年初から緊張の連続だったのですが、大変有益な経験をさせていただきました。
特に、詳細かつ鋭い査読コメントが驚異的な早さで届くのには驚かされました。実は一部不採用の意見が出され掲載には紆余曲折があったのですが、その審査経過も具体的に連絡いただき、すべてのコメントを送付いただくなど、全てにおいて透明性の高い信頼できる査読でした。
この場を借りまして、匿名の3人の査読者の先生方に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
0

学会発表のお知らせ

気が付くと10月も半ば。もうすぐです。

11月8日(土)・9日(日)に京都大学で行われる、日本法哲学会学術大会において発表を行います。
私の発表は8日(土)9:50〜からです。
リンク先でプログラムと予稿を見ることができます。
日本法哲学会学術大会プログラム・予稿集

観光シーズンたけなわの上に学会シーズンでもあり、
ご来聴いただくのは困難ではありますが
記憶のどこかにとどめていただければ幸いです。

発表のもとになった論文が『法哲学年報2013』掲載が決定しておりますが、諸般の事情でアップできません。
発売され、出版社の許可がいただければ直ちにアップしたいと思います。
0

さいきんのわたくし

昨年の授業終了時以来ブログの更新をしていません。
SNSにはこまめに参加しているので生存証明はできていると思うのですが(笑)、研究状況について軽くご説明を。

今年は非常勤の授業がないため、無所属での1年となります。
2月に母が病気療養から1年半ぶりに自宅に戻ってくることになり、そうなるとまとまった作業はむずかしいかもしれないと思い、今までの発表2本を論文にまとめ、退院前に駆け込みで投稿しました。
(とはいえ、介護というほどではないものの、家族の体調に目配りしつつ改稿作業というのはやはりきつかったです…)
うち1本は掲載が決定、もう1本は別の学会誌に投稿し、再投稿での審査中です。

何本か論文化されていない発表原稿があり、しかも学会費滞納などから投稿不可能なのが気になっていたのですが、とある法哲学者の方から「責任の問題を扱っているのなら投稿してみては」とお声をかけていただき、昨年末から投稿と同時に入会手続きをし、年明けに入会が承認されました。
どのような貢献ができるのか、そもそも私がそこに加わっていいのかという疑念は未だに拭えませんが、ここまでの研究会活動や査読のコメントからは、自分の哲学的思考の能力を鍛錬する新しい可能性が開けたのではないかと感じていて、正しい選択ができたと思っています。ご紹介いただきました某氏に感謝です。

「新しい可能性」と述べたのは、個人的にこれまでの哲学の進め方にちょっと行き詰まりというか疑問を感じていたりしたからでもありますが、それについては別の機会に。

授業を担当していたらこれだけの作業ができたかは怪しいですが、教務をこなしつつ業績を上げている方は少なくないので、引け目を感じてしまうのは避けられないですね。
所属なしの状況をプログラムにどう表記するかということで、今回関係者の皆様に少なからぬお手数とご迷惑をおかけしてしまったので、状況を改善すべく奮闘しております、といったところです。
0

法哲学合同合宿で発表

9月4・5日に東京法哲学研究会と法理学研究会の合同合宿が御殿場高原で行われ、そちらで発表者として参加しました。

私の研究内容をご存知の方は何故法哲学?と不審に思われるかもしれませんが、経緯については別エントリで記すことにいたします。ちなみにこの合宿の発表は11月に行われる日本法哲学会の前哨戦の意味合いもあるようで、私もあれよあれよという間に発表の運びとなったため、やはり学会の雰囲気を知っておいた方がよいと思い、発表のお話を承諾いたしました。

内容は、自己欺瞞的な信念をもつ人に責任を問えるかどうかを扱ったもので、信念の誘導(guidance)コントロールが効かないがゆえに責任を問えるとは限らないという主張に対し、自己欺瞞においてもある程度のコントロールが行われており、他者への悪影響があった場合には責任が生じるだろうということで自己欺瞞の有責性を主張しました。
資料公開ページにレジュメをアップしていますので、興味がありましたらご覧ください。

このテーマは数年前に応用哲学会で発表しているのですが、質疑応答含め20分枠という無茶な選択をしたため十分に展開できなかったのが心残りで、その後少しずつ論文の形にまとめていき、どうにかジャーナル掲載にまでこぎつけたものです。
質問は、やはりというか「他者への害」をいきなり持って来ることの是非もさることながら、「世の中には自己欺瞞によって生きやすくなることもあるがその場合でも責任を追及されるのか」という質問が寄せられました。そして、コメンテーターをお引き受けいただいた某倫理学者からは、道徳的責任の所在を考えさせられる鋭い質問が4点あり、そちらはあまりにも大きいテーマのため少しずつ立場を固められるようにしてゆきたいです。
そして、某大先生からは「自己欺瞞にはいろいろおもしろい側面があるのでなんでそんなつまらないアプローチをするのか」というコメントがありました。これに関しては、概念分析的な側面が「つまらなく」映るのはやむをえないかもしれないなとも思ったのでさほど腹は立たず(笑)、先生からの提案に沿って自己欺瞞を起こさせる規範的状況も視野に入れながら哲学的なアプローチの長所をアピールできれば、と欲張りな構想が…。

他の3名の発表もそれぞれに興味深く、また教養の差にも圧倒されたりしていろいろ刺激的ではありました。

2ヶ月後の本番に向けてまた少しずつ手直しをしてゆきますが、2年弱のブランクはちょっときつかった。今月いっぱいくらいのんびりしたいです(苦笑)。
0

前期授業終了

前期前半、非常勤受業担当日程を無事終えました。
今年は家の事情もあり、完璧に授業をこなすことができるか、そもそも授業を行うことでできるか大きな不安がありましたが、学生さんの熱意もあり完走することができました。学生の皆さん、お世話になった非常勤講師室および哲学助手室スタッフのみなさん、どうもありがとうございました。

テキストはコニー&サイダー『形而上学レッスン』をテキストに、「人の同一性」「自由意志と決定論」「普遍者」の3章を扱いました。シラバス作成当初は1回1章くらいのペースを考えていましたが、学生の十分な理解と質疑応答の時間を考えると、だいたい1章につき2回あまり、という配分になりました。

授業は、担当者にテキストのまとめを発表してもらい、まずは担当者と他の学生との間で質疑応答のやりとりをしてもらい、そこで教員が解説をしたり考え方のモデルを示したりという手順で行いました。それに加えて、毎週テキストを題材に小問を出題し、回答を提出してもらったものにコメントをつけて返却しました。

コメントシートではそれぞれの学生が設問をしっかり受け止めた上で回答をしてくれており、「目から鱗」的な多様な意見があって、コメントをつける側も力が入らざるを得ませんでした。1クラス分終えるとぐったりしたりもしましたが、こういう疲れは快いものでもあります。

毎年見られるユニークな傾向として、誰かひとりがきっかけとなる質問をするとそれが議論の口火を切ることになり活発な意見交換が行われる、ということがあります。逆に言えば、なんとか口火を切らせないとなかなか議論が始まらないということでもあります。その点で、いかに学生を「乗せて」いくかについて工夫が足りなかった面があったと反省しています。
特に、発言をする顔ぶれが固定してくると、だんだん「その人まかせ」な空気ができあがりつつあったのが気になるところでした。コメントシートでは皆しっかりした見解をもっているので、それを無理強いすることなしにいかに引き出すかを考えてゆきたいです。

あと、これは決して学生への批判ではなくひとつの傾向として考えたいのですが、「普遍者」の章において、普遍者という存在者を認めることで様々な困難が生じますよ、という議論があった後で、代案のオプションとして「まばらな普遍者」「トロープ説」「唯名論」「概念論(conceptualism)」が紹介されており、コメントシートで「普遍者を支持するかしないか。しないとしたらどの代案をとるか」という問題を出したところ、ほとんどの学生が「概念論」「唯名論」支持の回答を出したことに少なからず衝撃を受けました。個々のコメントを読んでみると「ものの性質は私たちが決めているのだ」という思いがいかに強固であるかを思い知らされました。
さらに、テキストで指摘されていた唯名論および概念論の難点のひとつが、「青の概念が適用されるのはそれが青いからだ。それ以上のことは言えない」という結論になってしまい、それでは何の説明になっていないのではないか、ということだったのですが、学生の回答では「そうとしか言えないのだからしかたない」という意見が多く見られたのも気になりました。
ここまで対象の側の性質について目を向けるよう指導してきた成果があったのかどうか、自分の指導能力に疑念をもたざるをえなかったものの、もしかしたらそういう問題ではないのかもしれない、とも思います。
確かに、概念の中には「セクシャルハラスメント」などのように、もともとあった現象にあとから概念およびその適用例が定められた(この見解自体にも異論があるかもしれません)ものもありますが、「青」のような色の性質や「水である」のような自然種の概念はそのようなものとは異なるように思えます。このあたりの違いをいかに捉えるかはむずかしいところなのですが、コメントで後者のような概念においてもやはり「私たちがつくった」と言えるかどうか、という問題提起は行いました。
この回のコメントシートの回答はいろいろ考えさせられると同時に、「人がある意見を強く支持する背景にはどのようなものが関与するのだろうか」という強い関心が湧いてきました。今後その問題を考えていきたいと思います。
【補足】

今回は翻訳テキストを用いて授業を行いましたが、原書の該当部分を同時に配布すべきかどうかにいつも悩みます。
年度によっては(全体的にそのような傾向にあるのかどうかはわかりませんが)英文を読むことを敬遠する学生も多く見受けられます。
コピーマスターを研究室に置いておき、希望者が自由にコピーできるようにしたこともありましたが、利用された形跡があまりないように感じられました。
今回は担当授業が8回と限られており、英文読解と内容理解との両方に時間を割くことが困難であったため、あえて訳文のみで臨みました。
翻訳自体は学生からも「読みやすい」と好評ではあったのですが、やはり原文との微妙なニュアンスの違いで問題点の把握にずれが生じたり、訳語の欠落が見られたりということがあったので、今後、翻訳書をテキストに使う機会があれば原文もともに配布したほうがよいと思った次第です。
0