研究ブログ

2017/02/15

糖鎖データベースに必要な要件

Tweet ThisSend to Facebook | by SNatsuka
 特定の構造をもった生体分子が相補性により特異的な受容体に結合して機能情報を伝えるというのが、分子生物学で通常考えられている情報伝達の方法です。サイトカインしかり、転写因子しかり、酵素と基質しかり、抗体と抗原しかりです。このような分子認識系では、ありふれた一般構造よりも、極微量で特殊な構造をもった分子が重要な機能を担っていると考えるのが普通です。実際、糖鎖の認識系についても同様に語られる場合が多くあります。しかし、この一般図式は、両者の間に厳密に特異的な関係性が結ばれている場合にのみ成立します。何のことか。つまり、関係が多対多の場合、そのような特異的な構造と機能の独占的特異的な結びつきは成立しません。 
 あまり認知されていないことですが、生体は分子構造の特異性が低い認識系も持っています。その代表例の一つが、糖鎖とレクチンによる分子認識系です。レクチンは糖に結合するタンパク質ですが、その結合特異性は低く親和性も低い。そのイメージは「緩やか」です。マンノースに結合するレクチンがグルコースに結合したり、果てはフコースやN-アセチルグルコサミンにくっついても驚くことではなく、そもそもが「なんとなく」ネチャネチャしている程度の結合なのです。 
 なぜそのような緩やかな特異性なのかについては、その程度が丁度「良い加減」の認識機構が存在するというのが答えです。もう少し話を詰めると、特異的に単一の構造を選択して結合するのではなく、類似構造の濃淡を緩やかに認識する機構であるということです。同様の認識系には例えば、
1.臭いを認識する時、特定のケモレセプターへのシグナルの有無で臭いが決まるのではなく、異なる複数のレセプターに入る強度の相対比によって或る特定の臭いを認識する。
2.光の色を認識する時、個々それぞれの色に対応するフォトレセプターが存在するのではなく、3種のレセプターに入るシグナルの強度比によって何百万種もの色を識別している。
などがあります。このような濃淡認識による多対多の認識機構が、糖鎖とレクチンの間でも行われていると考えると理屈が通りそうです。

 この仮説を受け入れると、糖鎖の構造を解析する際に何を見れば良いかが決まってきます。それは、極微量で特殊な構造をもった糖鎖分子ではなく、むしろその場にあるありふれた糖鎖の濃度比であるということです。どこまで微量成分を分析すれば良いのかは、レクチンによる濃度比認識の解像度によって決まります。何れにせよ発現している糖鎖構造の全体像を、まるで風景を見るような方法で描き出す解析手法が必要です。つまりはそれが「糖鎖アトラス」なのです。
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2017/02/15

事業としての「糖鎖アトラス」プロジェクト

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 「糖鎖アトラス」は、生物体がもつ糖鎖の見取り図です。昔からあった言葉ではなく私が勝手に名付けました。「アトラス」は天空を支える神の名であり、地図帳の意味で使われます。私達が使っている糖鎖解析法は糖鎖マップという名前なので、それを個体丸ごと分集めたものという意味で「糖鎖アトラス」です。単純な命名です。天空を支えるくらいの力仕事であると同時に基盤的なインフラ整備事業との含意もあります。
 生物体がもつ遺伝子の総体はゲノムと呼ばれ、既に沢山の種でその分子構造が明らかにされています。それを読みとる事業はゲノムプロジェクトで、ヒトのものは1990年に30億ドルの予算が組まれ10数年で完成しました。 核酸、タンパク質に続く第三の生命鎖である糖鎖において同じコンセプトの事業をやろうとするのが「糖鎖アトラス」プロジェクトです。まだ世界中のどの国でも予算は組まれていません。この先、どこかの国でやり始めるかどうかも分かりませんが、待っていても埒が明かないので、勝手に始めてしまおうということです。
 実験手法は既に論文やホームページで公開してあります。やろうと思えば誰でも出来るように準備は整えてあります。ただ、仕事量が多いので片手間でとはいきません。特に、糖鎖の構造を一つずつ決定する仕事に少なからぬ労力と資金が必要です。もちろん私達は既に始めていますが、とても小さな一つの研究室で完成できる規模の仕事ではありません。
 ゲノム解析も当初は「意味がない」などの非難の声がたくさんありました。しかし今の生命科学はゲノム情報なしでは成り立ちません。「全面的にゲノムデータベースに依存している」と言っても言い過ぎではないでしょう。「糖鎖アトラス」も将来そのような価値を持つと想像しています。そのようなものを日本発で作れる可能性に何かを感じて頂ければと思います。
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2017/02/15

細胞社会学という野心

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 細胞社会学(Cell Sociology)はRosine Chandeboisが1976年に提唱した概念で、多細胞生物を細胞の社会として捉える学問分野です(1)。その後、日本の糖鎖生物学者の草分けの一人である永井克孝先生も折に触れこの概念を述べられていました。しかし、いまだそれは概念にとどまっており、具体的な実体を持った学問分野として成立しているわけではありません。
 糖鎖は細胞社会のコミュニケーションツールだと、私達は考えています。理由はすこぶる単純で、すべての細胞は多種多様な糖鎖によって覆われており、細胞に出会う時には必ず最初に糖鎖分子に接触するからです。社会は構成員の関係性によって成り立っています。そしてコミュニケーションにより社会的関係性は認識され変化していきます。つまり糖鎖分子の認識系は細胞社会の成立と変化を支える分子システムであると、私達は推測しているのです。
 昔、核酸化学は分子の配列が遺伝情報と繋がったことにより分子生物学に発展しました。蛋白質化学は分子の立体構造が機能情報と繋がったことにより構造生物学に発展しました。そして今、糖質化学は糖鎖生物学を経て、次の段階である細胞社会学へと昇華しようとしています。学者の端くれとしては、その瞬間を見届けたいと、そしてでき得ることなら中の人として関わりたいと思っています。
(1) Chandebois, R., Cell sociology: a way of reconsidering the current concepts of morphogenesis, Acta Biotheoretica25, 2-3: 71-102 (1976).
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