基本情報

所属
新潟産業大学 経済学部 文化経済学科 教授
拓殖大学 大学院 言語教育研究科 客員教授
学位
文学修士(1987年3月 駒澤大学)

連絡先
ktakehikner.takushoku-u.ac.jp
通称等の別名
茶名(茶道 裏千家):小林 宗健(こばやし そうけん)
研究者番号
40267670
J-GLOBAL ID
200901017229927378
researchmap会員ID
1000211548

外部リンク

小林 健彦(こばやし たけひこ)


 1962年(昭和37年)生まれ。新潟県柏崎市出身。学習院大学 大学院 人文科学研究科 史学専攻 博士後期課程 単位取得 満期退学。現職は、拓殖大学 大学院 言語教育研究科 客員教授、新潟産業大学 経済学部 教授。専門は歴史工学、日本語運用史、災害対処文化史、対外交渉史等。主な著作物には、『定本 上杉謙信』(共著書、高志書院、2000年5月)、『越後上杉氏と京都雑掌』戦国史研究叢書13(単著書、岩田書院、2015年5月)、『韓半島と越国』(単著書、DLMarket Inc・シーズネット株式会社・ブックパレット、2015年)、『災害対処の文化論シリーズ Ⅰ』~『災害対処の文化論シリーズ Ⅸ』(計9冊、単著書、DLMarket Inc・シーズネット株式会社・ブックパレット、2015年~2023年)、『日本語と日本文化の歴史基層論』(単著書、DLMarket Inc・シーズネット株式会社・ブックパレット、2017年)、等がある。

FC2ブログ「小林健彦教授の 著作日記
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bookpalette:電子版・製本版サイト

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電子書籍(製本版。普通の紙の本。及び、電子版)の詳細説明、ご案内サイト(URL)は以下の通りです。下記URLを検索エンジンにコピー&ペーストしてご利用ください。又は、本サイトの下部にある「書籍等出版物」よりもアクセスすることができます。尚、各書籍のデータ内容は、最新の知見を反映させる為、随時、更新を致しております。その為、ご案内するのは、最新版となります。

韓半島と越国  ―なぜ渡来人は命がけで日本へやって来たのか
https://www.seichoku.com/item/DS2005991

シーズネット株式会社 B5版 350頁

 

ブックパレット電子版 https://bookplt.com/viewer/tOnJDC7xUk3QxADgla3k6aCw7MBjYMlfiEqdYeFfdnwfBfQ4fC1377


災害対処の文化論シリーズ Ⅰ  ―古代日本語に記録された自然災害と疾病
https://www.seichoku.com/item/DS2005635

シーズネット株式会社 B5版 308頁

 

ブックパレット電子版https://bookplt.com/viewer/8AbdBwNa7q3a1IUefKWugEq6vBR7OisP7yVpJur4XwCpeIMFIA1377


災害対処の文化論シリーズ Ⅱ
―室町時代より江戸時代の地震災害と対処の生活文化
https://www.seichoku.com/item/DS2005639
シーズネット株式会社 B5版 245頁

 

ブックパレット電子版

https://bookplt.com/viewer/heqnywzgVizjsv1JW75n4RWgD6BYJppGMI85vqyXHJ4qQNI5Of1377



災害対処の文化論シリーズ Ⅲ  ―新潟県域に於ける謎の災害
https://www.seichoku.com/item/DS2005965
シーズネット株式会社 B5版 226頁

 

ブックパレット電子版 https://bookplt.com/viewer/FZYmuqvUueGPkYYw8Bg7L705PSXMC1HzfkSkf80w2vRDAKIFiD1377



災害対処の文化論シリーズ Ⅳ  ―北陸、新潟県域の古代と中世
https://www.seichoku.com/item/DS2006110
シーズネット株式会社 B5版 261頁

 

ブックパレット電子版

https://bookplt.com/viewer/AD101MBLRv6nX1twUqPzDYlcZb0phnsv78EowkD218mlzVmus01377



災害対処の文化論シリーズ Ⅴ  ―浪分けの論理、水災害としての津波
https://www.seichoku.com/item/DS2005630
シーズネット株式会社 B5版 388頁

 

ブックパレット電子版https://bookplt.com/viewer/E8ChfNW1SuXzB8SRmErwif63mwFEIY3RCaFc9OxIuogO2wjdDX1377


日本語と日本文化の歴史基層論
―平清盛・徳川家康・坂東太郎に見る呼称とうわさの文化
https://www.seichoku.com/item/DS2006032
シーズネット株式会社 B5版 238頁

 

ブックパレット電子版

https://bookplt.com/viewer/SZqqqNAuNSMHViM748NwFsFhSoUdFUrSrTG3DX4glnZVBAiuk61377



災害対処の文化論シリーズ Ⅵ  韓半島における災害情報の言語文化
―倭国に於ける災害対処の文化論との対比に於いて
https://www.seichoku.com/item/DS2005654
シーズネット株式会社 B5版 317頁

 

ブックパレット電子版

https://bookplt.com/viewer/1zTLgLNnxJA0W4lKpKljPMlL29sC4js4WCgZywkOQvCbBYJ28c1377



災害対処の文化論シリーズ Ⅶ  韓半島における災害情報の言語文化
―三国遺事にみる災害対処の文化論

https://www.seichoku.com/item/DS2005651

シーズネット株式会社 B5版 252頁

 

ブックパレット電子版

https://bookplt.com/viewer/ZlYHSc9OkUfFK2UwwEZe2j9qhQD92nzGqfg1rhhTvw2xfiidHr1377

 

災害対処の文化論シリーズ Ⅷ 日本の古典に見る災害対処の文化論 

ー日本的無常観の形成

https://www.seichoku.com/item/DS2006114

シーズネット株式会社 B5版 307頁

 

ブックパレット電子版 https://bookplt.com/viewer/nqjvIqG8wJofEj4anjjJzn6qayR1kv0SCxtKMBL4ftougQyLKy1377

 

災害対処の文化論シリーズ Ⅸ 日本の古典に見る災害対処の文化論 

ー「今昔物語集」の霊鬼

https://www.seichoku.com/item/DS2005659

シーズネット株式会社 B5版 274頁

 

ブックパレット電子版

https://bookplt.com/viewer/rd4AFX3nnoVDJ3lC0m681V6pVbL8T9SbMg1E9cKkCm0fkMdcWB1377

 

 



拓殖大学 大学院 言語教育研究科 小林健彦の紹介ページ
http://www.takushoku-u.ac.jp/academics/linguistics/faculty/kobayashi.html

https://graduate.takushoku-u.ac.jp/language/kyouin/kyouin01/ktakehik/index.html

新潟産業大学 経済学部 小林健彦の紹介ページ
https://www.nsu.ac.jp/academics/professors/tkobayashi/

CiNii Articles 小林健彦の論稿一覧ページ
https://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002551537

J-GLOBAL 小林健彦のページ
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901017229927378&rel=0

新潟県生涯学習情報提供システム ラ・ラ・ネット 小林健彦の紹介ページ
https://www.lalanet.gr.jp/search/searchdtl.aspx?stdycd=29493&knd=11&ht=1&pageSiz=10&pageNum=1&cd00=2&cd20=202&cd20R2=202

国立国会図書館サーチ 小林健彦の著作物検索結果一覧
iss.ndl.go.jp/books?ar=4e1f&page=1&search_mode=advanced&except_repository_nos[]=R100000038&except_repository_nos[]=R100000049&except_repository_nos[]=R100000073&rft.au=%E5%B0%8F%E6%9E%97%2F%2F%E5%81%A5%E5%BD%A6

新潟産業大学リポジトリ 小林健彦の近年の論稿一覧(PDFファイルでご覧頂けます)
https://nsu.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=7

 

注:本HPに掲載をした研究業績、社会貢献活動等は、その全てを記入したものでは無く、近年のもの、また、

  主要なものに限定しております。

 

重要下の画像は⑪の電子書籍に収載されている写真です。これは、京都府京都市東山区に所在する六道珍皇寺(当初は真言宗東寺に属したが、現在は臨済宗建仁寺派)にある「小野篁(おののたかむら)冥土通いの井戸」です。朱色の燈籠の右側に見えるのが井戸枠です。この場所は葬送地であった鳥部(辺)野(とりべの)に隣接していたことから、異界との境界領域(アジール)としての「六道の辻」であると見做されていました。小野篁が亡き母親の霊へ会う為に当寺を訪れた時から、彼は冥途に通じるとされたこの井戸を使い始めたと伝えられています。又、「矢田地蔵縁起」に依れば、大和国の金剛山寺(矢田寺)満慶上人は篁の仲介に依り、菩薩戒を受ける為に閻魔庁へ赴いたのもこの井戸からであったとしています。これらの所伝よりは、日本中世に於ける地下世界観の萌芽をも窺うことができます。説話集である「今昔物語集」に描かれた霊鬼とは、人が創造し畏怖した「モノ」でした。そこには古代から中世に至る日本人の対災異観・対災害観が色濃く反映していました。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅨ 日本の古典に見る災害対処の文化論 ー「今昔物語集」霊鬼』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

 

                             

                                             本項に掲載した画像は全て小林健彦が撮影したものです。

 

重要下の画像は⑩の電子書籍に収載されている写真です。これは、徳島県兵庫県の淡路島とを結ぶ大鳴門橋です。お茶園展望台(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦)より大鳴門橋、鳴門海峡、淡路島方面を臨んだものです。鳴門海峡は幅が約1.4キロメートルあるものの、可航幅が狭い上、渦潮強潮の発生等に伴なって流向が複雑であり、現在でも尚、船舶の乗揚げ事故や、船舶同士の衝突事故が発生する海上交通の難所ですここは関門海峡、来島海峡と共に、日本三大潮流の名数にも数えられる危険な場所の1つなのです。「土左(佐)日記(とさのにき)」に於ける承平5年(935)正月30日より翌2月1日にかけての描写は、正に「土左日記」に於ける船旅のクライマックスでした。30日条では、海賊が夜の出動はしないという確定的な情報の下、夜中であったにも拘らず、紀貫之らが乗船していた船は土佐の泊(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦高砂付近。大毛島の南東沿岸域)よりの出港を試みるのでした。海賊が夜、船を出すことが無かったのは、彼らが夜間航行の危険性を熟知していたからに他ならないのです。当時、無敵に思われていた海賊も、海の恐ろしさは身に染みていたのでしょう。30日と1日との対比、それは、動と静、陰と陽とのコントラストであり、切迫感をも感じさせ、見事な演出であると言えるでしょう。「からくかみほとけ(神仏)をいの(祈)りて」と「かいぞく(海賊)もの(物)ならず」との表現法対比よりは、いささか、作者である紀貫之本人の軽い人間性が垣間見えたりもしますが、やはりそれは創作や演出に依る心情描写ではなく、本心からのものであったものと見られます。それ故、余計な演出を書き加えなくても、読者に恐怖と安堵の対比より齎される臨場感を持たせるには十分な要件を兼ね備えていたものと考えられます。この都へ帰還する船旅は、貫之にとって、精神的・肉体的には非常に辛く、別の意味に於いてとても悲しいものでした。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅧ  日本の古典に見る災害対処の文化論 ー日本的無常観の形成』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

                         

重要下の画像はの電子書籍に収載されている写真です。これは、大韓民国慶尚北道月城郡陽北面龍堂里に所在する、統一新羅時代における寺院の跡です。新羅国の古都である慶州市の市街地より約25キロメートル程、南東方向に行った場所にあります。日本海にも程近い立地です。寺院呼称である感恩寺とは、父祖より受けた恩恵に感謝するとした語義であるとされます。文武王海中王陵(2枚目の画像)である大王岩より北西方向へ約723メートル程の、大鍾川北側河口付近には、大王岩の遥拝所である利見台もあります。利見台より、更に、北西方向へ約737メートル行った場所には、この感恩寺三層石塔東塔(写真の手前側。高さ約13.4メートル)が建っています。即ち、東塔より東南方向へ約1.39キロメートルの場所が、大王岩の石棺部分に当たるのです。感恩寺金堂には地下空間があり、これは龍に化した文武が、大王岩より大鍾川を遡上して当寺にまで、往来することができる様にと配慮して、造られたものであるとされます(「恩寺寺中記」に言う処の「排金堂砌下。東向開一穴。乃之入寺旋繞之備」)。1959年には、大韓民国国立博物館に依る発掘調査、修復作業が行なわれ、当寺が薬師寺式の伽藍配置を持っていたことが判明しています。又、西塔(写真奥)第三層塔身軸部上面にあった長方形の舎利孔よりは、統一新羅時代の舎利荘厳具が発見されています。この感恩寺と利見台、そして、文武王海中王陵とは、当地特有の自然災害を防ぐ目的で設置、運用されていたことが分かってきました。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅦ  韓半島における災害情報の言語文化 ―三国遺事にみる災害対処の文化論』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

      

              当該画像の元素材はフィルム写真です。

 

重要下の画像は⑧の電子書籍に収載されている写真です。これは、新羅国の第30代国王であった文武王海中王陵、その中心部分の画像です。大韓民国慶尚北道慶州市陽北面奉吉里(韓国の東海岸)にあって、この大王岩が所在する場所は、直近の海岸線より、直線距離で約200メートル程の海中です。文武王陵碑に依れば、西暦681年文武王は56歳で死去し、その遺言によって、遺体は死後10日にして火葬に付され、遺灰は感恩寺の東方に当たる日本海海中、この大王岩に葬られたのです。これは、7世紀末期当時の韓半島・朝鮮半島にあっては、極めて異例なことでした。当時、遺体を火葬することは極めて稀有なことであったものと見られます。そして、なぜこの様な場所に墳墓が築造されていたのでしょうか?従来、言い伝えられている様に、日本・倭国に対する備えだったのでしょうか?実は、当時の韓半島・朝鮮半島ならではの自然災害が、この海中王陵を中心として整備された諸施設には大きく関係していることが分かってきました。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅥ  韓半島における災害情報の言語文化 ―倭国に於ける災害対処の文化論との対比に於いて』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

                 当該画像の元素材はフィルム写真です。

 

重要下の画像は⑦の電子書籍に収載されている写真です。これは、山椒大夫伝承に基づいて建てられた安寿姫と厨子王丸姉弟の供養塔です。実際の墳墓ではありません。新潟県上越市中央の関川河口左岸にあります。森鴎外に依る歴史小説、「山椒大夫」のモチーフともなった安寿姫と厨子王丸伝承ですが、両者共に、その活動に関わる一次史料が見当たらないこともあり、実在可能性は著しく疑われます。その意味においては、室町初期頃の成立とされる軍記物、「義経記(ぎけいき)」に見られる源義経、武蔵坊弁慶主従等の当地における逸話や、それを基にしたものと考えられる史蹟等との共通項も見られます。この供養塔がいつ頃設置されていたのかは不明ですが、現に、供養の対象とされ、又、信仰の対象であることも事実です。安寿姫と厨子王丸姉弟の伝承は、原素材としての何らかの事実が存在していた可能性も排除することはできないのですが、ただ、それが事実であったか、否かの世界とは別に、そうし不幸な人間の境遇に共感し、その存在(霊)を供養しなければならないとした、当時の日本人の心情は、確実に創作であると認識をされていた筈の恋愛小説に対しても、「源氏(物語)供養」を必要な行為であると感じ、実施をしていた人々の心情とつながるものでしょう。詳しくは、『日本語と日本文化の歴史基層論 ―平清盛・徳川家康・坂東太郎に見る呼称とうわさの文化』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

 

重要下の画像は⑥の電子書籍に収載されている写真です。これは、古墳ではありません静岡県袋井市中新田にある中新田命山(いのちやま)と呼ばれる人工の築山です。直近の太平洋の海岸からは、約1.2キロメートルほど北側にあります。延宝8年(1680)閏8月6日東海地方へ襲来した台風により、現在の静岡県の太平洋沿岸部では、おびただしい高潮被害を受けたとされます。この小山はその被害発生を受けて築造したものであるとされています。それは、当該災害後に於ける新田開発に付随した、横須賀藩の藩営事業であったものと推測されます。築造に当たっては、横須賀藩よりの技術支援を受けていたらしい。但し、正確な竣工日時等の情報は、はっきりとはしていません。又、この約1キロメートル程西方にある大野命山築造との先後関係に関しても、はっきりとはしていないものの、『遠江資料集』に収載される「横須賀根元歴代明鑑」(大須賀町)に依れば、この中新田命山は、当該延宝期の高潮災害後の構築であるとされ、その後に発生していた高潮の際には、集落の人々はこの築山に登って難を避け、約1.3キロメートル程、北東側に所在し、丘陵部の南端にあった横須賀地区よりで食料品等を調達し、命山の頂上部で海水が引くのを待ったとされます。これは、高潮よりの避難施設ですが、最近ではその特長が見直され、現代版命山津波避難施設としても、新規に整備が進められています。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅤ  ―浪分けの論理、水災害としての津波』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

 

重要下の画像は⑤の電子書籍に収載されている写真です。これは、京都府宮津市の宮津湾沿岸部丘陵上に建つ真名井(まない)神社と、その入口正面左に建つ真名井原波せき地蔵堂です。「真名井原波せき地蔵(堂)」には、大宝元年(701)3月26日発生の地震時に起こったとされる、高さ10丈(30メートル以上)の津波を、ここで押し止めたとする伝承が残されています。「波せき」とは、ここで津波を「塞き止め」た、又は「堰」となって防いだ、とする語源より派生したものと推測されます。同社は日本三景天橋立の北側付け根付近の丘陵上にあって、天橋立を遠方眼下に臨みますが、その存在には留意をする必要性があるものと考えられます。画像で社名を示す石柱の右側に建つのが波せき地蔵堂です。直近の宮津市江尻の海岸よりは約650メートル、地蔵堂の標高は、約40.2メートルです。鼓ヶ岳の麓にあり、この場所より海を直接見渡すことはできません。神社南東側の標高の下がった場所には、「難波野」という地名残されています。当社や波せき地蔵の存在は、大宝元年地震の発生によって、若狭湾内の凡海郷(おおしあまのさと)が海底に没したという、「冠島(大島)、沓島(小島)伝説」と合わせて検証されるべきものでしょう。それはまた、死者の世界、沈没した海底世界としての「龍宮城」伝承、浦島太郎の物語とも密接に関わっているものと推測されます。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅣ  ―北陸、新潟県域の古代と中世』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

 

重要下の画像は④の電子書籍に収載されている写真です。これは、新潟市西区赤塚にある佐潟(さがた)と呼ばれる潟湖(せきこ)で、上潟下潟よりなります。新潟県のみならず、古来、日本の沿岸部では、こうした低湿地帯が広範に広がっていました。かつては海とも接続していた入り江で、そこは漁場であると共に、陸上交通路の未発達な時期においては、天然の良港でした。現在の新潟平野にはこうした「」がいくつも存在しています。かつての入り江の名残ですが、新田開発、干拓事業によって、ほとんどの「」は消滅しました。平安時代も中頃に差し掛かった寛治6年(1092)、越後国の内、取り分け、現在の新潟県中越(ちゅうえつ)地域より下越(かえつ)地域にかけての日本海沿岸には大規模な津波が押し寄せ、それに依り、沿岸部の地形に大きな変化が起きたとされています。これは、同3年7月に制作されたとする、「越後国図(繪)」に付記されていた、「寛治六年寺泊ノ下ヨリ、角田、古潟、砂山、飛山、榎嶋等大波ニテ打崩シ、海トナル」、とした記事に基づくものです。これが事実であったのか、否かについては判然としませんが、こうした「」の生成、消滅に何らかの影響を与えていた自然現象の発生も想定されます。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅢ  ―新潟県域に於ける謎の災害』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

 

重要下の画像は③の電子書籍に収載されている写真です。神奈川県小田原市浜町にある北條稲荷神社の境内には、の様な平べったい「蛙石(かわずいし)」と呼ばれる岩体があります。この蛙石は、天正18年(1590)4月の豊臣秀吉に依る小田原征伐や、元禄16年(1703)11月23日発生の元禄地震(マグニチュード7.9~8.2の地震。犬吠埼~下田沿岸に津波襲来)、天明2年(1782)7月15日発生の天明地震(マグニチュード約7.0の地震。熱海に津波襲来)の際には、「夜な夜な泣いて、凶事を事前に知らせた」といいます。更に、昭和26年(1951)に発生した火災の前夜には、社殿より火の玉が出来して、それを予告したとも伝えられます。この様な岩体が何かの凶事を予告するという現象。文化論として、どのように捉えたら良いのでしょうか?詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅡ  ―室町時代より江戸時代の地震災害と対処の生活文化』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

 

重要下の画像は②の電子書籍に収載されている写真です。これは、京都府京丹後市網野町網野網野銚子山古墳北東側裾にある浦島児宅址伝承地です。いわゆる、浦島太郎の家の跡ということになります。京丹後市網野町網野、浅茂川流域には浦島伝承が残されています。島児神社の祭神は浦島子であり、この他にも、同町網野所在の網野神社や、同下岡の六神社においてもそれは祭神として祀られています。網野銚子山古墳は全長約198メートル、後円部径約115メートル、同高約16メートル、前方部幅約80メートル、同高約10メートルの前方後円墳であり、日本海側の沿岸域に築造されたものとしては、最大級の規模を持ちます。4世紀末~5世紀初頭のものであるとされますが、被葬者は丹後地域の王権に関わりのある人物であると推定されます。その北東側の少し下がった場所には、浦島児の旧宅址とされる石碑が建てられ、その傍にある「しわ榎」には、龍宮城より戻った浦島太郎が、日本海を見下ろすことのできるこの場所で、持ち帰った玉手箱を開け、皺(しわ)だらけになった悲しみより、自身の顔の皺を千切(ちぎ)っては投げ付けた為に、榎の樹皮が凹凸だらけになってしまったと言う伝承を残しています。これらは、この古墳の被葬者が、海人(あま)支配、日本海交易等、韓半島・朝鮮半島を通じた、中国大陸との関係性を有していたことを垣間見せる事象でもあります。丹後半島地域に浦島伝承(死者の国としての龍宮城、海底世界の物語)が多く残されている背景には、かつて当地を襲っていた大雨、洪水、そして、津波等の「水災害」が大きく関係していたことが想定されます。詳しくは、『災害対処の文化論シリーズⅠ  ―古代日本語に記録された自然災害と疾病』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

 

重要下の画像は①の電子書籍に収載されている写真です。石川県能登半島中央部の能登島にあるツイン石室を持つ須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳。この画像は羨道の内部より、古墳南側にある七尾南湾を臨んだものです。当該古墳の形態、又、その立地地点より推測し、この古墳の被葬者は当地に在来の人ではなく、韓半島・朝鮮半島等より来航した渡来人であるものと推定されます。しかし、なぜこの地に渡来人が?彼らはいつ、何を行なうために、この地へやって来たのでしょうか?このロケーションの謎とは何か?漁業者、倭国の初期海軍としての海人(あま)や、との関係性とは?ここは、その人物と「海」(船舶、航海、交易、漁業、及び、製塩、製鉄、稲作技術の海の道を使った移転等)との強力な繋がりをイメージさせる遺跡です。平成元年(1989)より、同8年にかけて石室の修復工事が実施されました。昭和56年(1981)1月には、国指定史跡となっており、古墳を含む一帯は墳公園として整備されています。詳しくは、『韓半島と越国  ―なぜ渡来人は命がけで日本へやって来たのか』(シーズネット株式会社、ブックパレット)でどうぞ!!

石川県能登島にある須曽蝦夷穴古墳の羨道より七尾南湾を臨む。被葬者は渡来人であると考えられる。一体、何のために


論文

  81

MISC

  15

書籍等出版物

  18

講演・口頭発表等

  55

所属学協会

  5

共同研究・競争的資金等の研究課題

  9

社会貢献活動

  21

その他

  2
  • 2021年8月 - 現在
    令和3年(2021)8月5日、駐新潟 大韓民国総領事館(権相熙総領事)の一行が、竹ヶ花山・新羅王碑等〔新潟県燕市(旧 分水町)〕を公務視察されるのに際して同行し、その歴史的な経緯、意義等に関して学術的な見地よりの解説を行なった。尚、同年10月5日、令和4年7月11日には駐新潟 大韓民国総領事館を訪問し、権相熙総領事ヘ答礼、並びに、更なる答申や説明を行なっている。当該案件に関しては、現在に至る間、地元自治体(燕市)、権相熙総領事とも連携しながら、関与、交流を継続しているところである。 註:新潟県燕市(旧 分水町)に所在する竹ヶ花山は、古来、新羅国より渡来した王族の墳墓ではないかとされ、その頂上部には明治35年(1902)、長善館主(同市粟生津)鈴木彦岳氏に依る碑銘を持つ「新羅王碑」が建てられた。長善館は、「礼記」に典拠を求め、天保4年(1833)に儒学者の鈴木文台に依り開かれた全寮制の私塾であり、漢学、数学、英語等の科目を教授し、1,000人以上の塾生を輩出したが、明治45年・大正元年(1912)に閉館した。同碑より約30メートル下った場所には渡来した初代の人物(渡来人)の墓所とされる小石柱も建てられているものの、文字等は刻まれていない。現在でも尚、竹ケ花集落の人々に依って、毎年6月第2日曜日の午前10:00より、「新羅王祭」が山上で行なわれており、当該集落の人々が墓守としての祭祀を継承しているのである。この新羅王伝説の形成には、私塾長善館の果たした役割が大きいのかもしれない。 当該集落には、「新羅国最後の国王であった敬順王(第56代)が5人の従者を引き連れ、丸木舟で漕ぎ出た」、「鎌倉時代初期に、韓半島より、旧新羅国に於いて王族であった一族の末裔が寺泊へ漂着し、彼らは同集落に迎え入れられ、定住し農業技術、医学、大陸文化を住民に伝えた」、という伝承が残存している。「新羅王祭」が現在でも尚、地域の人々に依って継承され、行なわれている背景には、韓半島由来の渡来人達がこの地域に齎した技術や文物、文化等に対する深い敬意があるものかもしれない。
  • 2009年6月 - 2009年6月
    新潟産業大学・新潟工科大学の連携協定締結記念講演会パネルディスカッションに於いてコーディネーターを務めた。メインテーマは、「一緒に考えよう! 子どもの将来。」である。取り分け、「社会人基礎力と大学教育」とした具体的サブテーマを設定して、議論を行なった。新潟県柏崎市に所在する2つの私立大学である新潟産業大学、新潟工科大学の連携協定締結記念講演会開催に際して、そのパネルディスカッションのコーディネーターを担当したものである。ここでは、経済産業省が提起した「社会人基礎力の3つの力を構成する12の能力要素」を基にしながら議論を進めて行った。内容は、大学教育に期待されていることとは何なのか?研究と講義との関連性はどうあるべきなのか?学生指導の適切な方向性や手法とは何か?大衆化した大学の進むべき方向とは?大学が行なう地域貢献の在り方とは?こうしたいろいろな課題に関して、参加者で積極的な討論や追究を行なったものである。地方大学の抱える課題や、これから進むべき方向性、立地する地域に対する貢献と言った視角よりの問題追究を試みたが、そこには国際化をも目指さなけれならない地方大学の置かれた現状との葛藤があったのである。時間は80分間である。柏崎エネルギーホールが会場であった。実施日は2009年6月13日である。