2023年3月20日
【追悼文】「高見先生との四半世紀の思い出」
『学習院大学英文学会誌 高見 健一 教授 荒木 純子 教授 追悼号 2022』
- 開始ページ
- 18
- 終了ページ
- 21
- 記述言語
- 日本語
- 掲載種別
- その他
- 出版者・発行元
- 学習院大学英文学会
私の学習院大学在学当時(1992〜1996年)の英語学の先生は岸田緑渓先生(英語史)、今井邦彦先生(関連性理論、英語音声学)、澤田治美先生(意味論)のお三方であったので、実は学部生の時に高見健一先生には習ってはいない。私は大学院は青山学院に進学したので、そう考えると、高見先生に習ったことは偶然が重なった結果であった。すなわち、私の記憶が正しければ、1997年に今井先生のサバティカルが決まって、学部の「英語学概論」に東京都立大学助教授(当時)だった高見先生が、大学院の「英米語学特殊研究」に同じく明治学院大学教授(当時)だった外池滋生先生が非常勤に呼ばれたのだと思う。しかし、澤田先生が関西外国語大学に異動されることになり、もう一つの英米語学特殊研究も高見先生に依頼されることになったということである。
私は当時、博士前期課程の2年生で青学大学院の授業を複数受けながら、高田馬場にある保善高等学校でも相当数の非常勤を教えていた。そんな忙しい生活であったが、英語学徒として機能的構文論で著名な高見先生の名声はもちろん存じ上げていたので、貴重な機会だと思い、お願いして先生の大学院の授業を聴講させて頂くことになった。確か初回授業には博士後期課程の英語学の院生として井門亮さん(群馬大学)、森(野村)美由紀さん(大妻女子大学非常勤)、吉村(中村)愛理さん(学習院大学非常勤)がおられたと思う。後に先生は2003年に研究社から『日英語の自動詞構文』、2004年にJohn BenjaminsからFunctional Constraints in Grammar: On the Unergative-Unaccusative Distinctionという大著を久野暲先生と共著で出版されるのだが、この授業内容はその元になったトピックで、「非対格仮説を批判的に考える」という趣旨の授業であった。受講当時はわからないことの方が多かったが、20世紀後半から現在に至る言語学の中心的な課題の一つである非対格仮説に関わる言語現象を一通り学ぶことができた、とても有益な授業であった。
上述の如く、毎週水曜の午前中に4時間保善高校で教えた後(12時半終了だったと思う)、高田馬場から駆け足で目白の学習院の北1の古い教室に急ぐという無理なスケジュール(学習院の3限は1時開始)をこなしていた私は、自分が発表にあたっている日に定期試験の打ち合わせが急に昼休みに入ってしまい、聴講の自分が発表にかなり遅刻するという失態を犯したことがあった。今、思い出しても胸が苦しくなるが、教室に着いた時に先生が「そんなに恐縮されないで」と言って下さったことは、気恥ずかしい中で感謝の気持ちでいっぱいだった。
私は当時、本当は3年掛けて修士論文を書くつもりだった。(当時、青学の英米文学専攻大学院は博士後期課程進学が大変厳しく、博士に進学したいなら修士論文を3年掛けないと進学できないなどという根拠のない噂があった。)しかし、先生の授業を受けていた1997年11月頃、学習院そばの目白の喫茶店で、先生の暖かい助言と熱心な説得のお蔭で修論を2年で書く決意をしたのだった。
このエピソードからも窺われるが、高見先生は本当に「気遣いの人」であった。生成文法に真っ向から挑むKuno and Takamiの鋭い議論展開を見れば、非常に厳しい人が想像されるし、「世界の高見」(元日本大学教授故松山幹秀先生の言)なんだから、もっと威張っていてもおかしくないのだが、実際のご本人はいつも心配りを欠かさない方で感銘を受ける(上記、澤田先生の奥様も同じことを言われていた)。
また、私は千葉修司会長時代、2005〜2007年に日本英語学会理事会書記・編集委員会書記を務めたのだが、大変な激務であった。(ちなみに高見先生はその前の中島平三会長時代の事務局長であった。)編集委員会業務で査読結果を締切期日までに送り返してくれない編集委員の方々に苦労することは日常茶飯事であったが(あんな短い期間に査読させられるので無理からぬことだと思う。しかし)、編集委員の高見先生はただの一度も締切に遅れられたことがなかった。また、必ず丁寧なメール本文もあった。
時を戻して、修論を2年で書く決心をした時も、『英語青年』に載った松原史典さん(京都女子大学)の記事の元になった安田女子大学大学院の博士論文を読みたいことを伝えたら、そのすぐ翌週に持って来て、貸して下さった。想像以上に厚く、重いもので驚いたが、普通、他大の院生のために自宅から持って来てはくれないと思う。
また、1998年のことだったと思うが、高見先生を飲み会にお誘いしたら、健康的な方が良いからと仰り、上述の森さん、田中江扶さん(信州大学)、長谷部郁子さん(筑波大学非常勤)と一緒に高尾山登山にお誘い下さったことも良い思い出である。
書くと切りがないのでこの辺でやめるが、後年1999年3月に、先生の授業を一緒に受けていた家内(旧姓森美由紀)と結婚した旨の手紙をお送りしたら、すぐに速達の手紙が先生から送られてきて、中には「これでご夫婦でおいしいものでも食べて下さい」という丁寧なお手紙と新券(いわゆるピン札)の一万円札が入っていた。四半世紀近く経った今でも使わないで取ってあるが、なかなかできないことだと思う。
先生の学問的業績については多言を要しないので記さないが、研究者の姿勢として立派だと思う点のみ記すと、あれだけ偉くなられても、English Linguistics, Linguistic Inquiry, Languageのような厳しい審査のある学会誌に投稿され、かつ毎年のように著書を出されていたことが挙げられる。それは「謎解きの英文法シリーズ」の最終巻11巻目『助動詞』(くろしお出版)が亡くなる直前の2022年1月に出版されたことからも窺われる通りである。そして、それらの著書や論文が形になる前には久野先生と気の遠くなるような往還を重ねていたと想像される。あの明快な無駄のない議論展開は私も常々見習いたいと思うし、若い研究者や院生、学部生も、どの理論を専攻しているかを問わず、先生の議論を参考にすべきである。例えば、先生のLI 28(1997)の「否定の島」やLg 77(1999)の「数量詞の作用域」に関する論文について、従来の生成文法的説明の反例は全ての研究者が耳を傾けるべきものである。「外池先生との思い出」(『より良き代案を絶えず求めて』開拓社)にも記したことだが、私は数多くの生成文法学者に習ったけれども、一番樹形図を書くのが早かったのは外池先生と高見先生であった。高見先生は批判している生成文法のことを実によく理解されていた。
ここまで読むと先生の温和な面だけが強調されてしまうと思うが、先生は時折、目の奥に研究者としても教育者としても厳しいものが光っていた。授業中の発表者に向けられた「わかりやすく、わかりやすく!」という短い言葉は今も忘れない。また、私は三省堂でも売られていたMetropolitan Linguisticsに二度投稿したことがあるのだが、査読委員の高見先生による詳細かつ的確なコメントに驚き、「都立の人はいつもこれだけのアドバイスと方向性を与えてもらえるんだ」と羨ましく思ったと同時に、「しかし、都立の院生はいつも大変なことだろうな…」とも思った。私の博士論文の外部査読者に高見先生のお名前が挙がったと漏れ聞いた時も正直、「そうならなくて良かった」と思った自分がいた。(なお、結局、外部査読者は仮定法の専門家である千葉修司先生に依頼されたのだが、私の博論はたくさんの付箋と共に返却されたのだった。)
さておき、その後、母校学習院に都立大から中島先生と高見先生が着任されたことは(私としては驚いたことだったが)周知の通りである。中島先生が学習院初等科長を務められた間、中島先生の代役で英米文学科の英文法と3・4年ゼミを担当することになったことは不思議な感慨であった(当時、四十代の真野泰先生が教務委員でいらっしゃった)。私は2010年に故郷の北海道に戻ったが、北海道教育大学旭川校在職中、北海道大学の集中講義にお見えになった高見先生の授業を再び聴講できたことも良い思い出である。その後、旭川の祖父母が亡くなって、私は2016年に再び東京に戻って来たが、そのご挨拶に先生の研究室をお訪ねした時が先生とゆっくりお話しした最後だった気がする。(余談だが、お訪ねした際の学習院の研究室には真野先生と大修館書店の小林奈苗さんがおられ、『英語教育』「[対談]謎めきの英文法―動能構文、不定詞と動名詞、冠詞をめぐって」という特集号の対談をされている場面であった。)
「ゆっくりとお話しした最後だった」理由は、2017年に先生は中島先生の退職記念パーティの司会をされていたが、1次会終了後、即座に帰宅され、その頃から本調子ではないという話を漏れ聞いていたからである。すなわち、その後、先生は大学を休職され、メール等のやり取りはずっと続いていたのだが、こちらも気を遣って、会食等の機会は努めて持たないようにしていた。最後にお会いしたのは2019年9月、慶應義塾大学言語文化研究所主催の言語学コロキアム(講師:今井先生、中島先生、外池先生、西山佑司先生)の会場だったと思うが、話したのはほんの立ち話程度であった。今、思い返すと、学習院大学等にもう少し足を運んでおけば良かったと悔やまれる…。
こちらとしては、先生は2021年4月に復職され普通にオンライン授業もされていたのでご快復の道を歩まれていると思っていたが、12月に容態が急変して、入院されたと伺った時は涙が溢れた。私と家内でお見舞いとお手紙を、そして別の機会に、川﨑修一先生(日本赤十字看護大学)、関田誠先生(東京電機大学)、鴇﨑敏彦先生(日本獣医生命科学大学)とも共同でお見舞いとお手紙をお送りした。奥様から看護師さんを通して手紙をお渡し頂いたと伺った。そして、先生は一時期、危篤状態だったのが、奥様や主任の真野先生から3月に入られて車椅子で短時間なら起きられるようになったと伺っていたので、快方に向かわれたと信じて疑っていなかった。そうであったので、4月2日に真野先生から先生の訃報を伺った時は驚きで声を挙げてしまった。
ご葬儀は家族葬であったので、当然、参列も叶わず、未だに先生が69歳の若さで亡くなられた実感が湧かない。また、名著「謎解きの英文法シリーズ」がこれからも長く英語教員や英語研究者に残っていくという意味で、高見先生は我々の心の中にずっと生き続けるであろう。しかし、あの読んでいてワクワクする高見先生の新しい文章にはもう二度と出会えないのである。残された我々が引き継ぐべきは「経験事実に基づいた英語学、言語学の理論構築」であろう。私は先生の直弟子ではなかったが、四半世紀に及ぶご厚誼に改めて深く感謝しつつ、心よりのご冥福をお祈りしたい。
(文教大学准教授、英米文学科1996年度卒業)
私は当時、博士前期課程の2年生で青学大学院の授業を複数受けながら、高田馬場にある保善高等学校でも相当数の非常勤を教えていた。そんな忙しい生活であったが、英語学徒として機能的構文論で著名な高見先生の名声はもちろん存じ上げていたので、貴重な機会だと思い、お願いして先生の大学院の授業を聴講させて頂くことになった。確か初回授業には博士後期課程の英語学の院生として井門亮さん(群馬大学)、森(野村)美由紀さん(大妻女子大学非常勤)、吉村(中村)愛理さん(学習院大学非常勤)がおられたと思う。後に先生は2003年に研究社から『日英語の自動詞構文』、2004年にJohn BenjaminsからFunctional Constraints in Grammar: On the Unergative-Unaccusative Distinctionという大著を久野暲先生と共著で出版されるのだが、この授業内容はその元になったトピックで、「非対格仮説を批判的に考える」という趣旨の授業であった。受講当時はわからないことの方が多かったが、20世紀後半から現在に至る言語学の中心的な課題の一つである非対格仮説に関わる言語現象を一通り学ぶことができた、とても有益な授業であった。
上述の如く、毎週水曜の午前中に4時間保善高校で教えた後(12時半終了だったと思う)、高田馬場から駆け足で目白の学習院の北1の古い教室に急ぐという無理なスケジュール(学習院の3限は1時開始)をこなしていた私は、自分が発表にあたっている日に定期試験の打ち合わせが急に昼休みに入ってしまい、聴講の自分が発表にかなり遅刻するという失態を犯したことがあった。今、思い出しても胸が苦しくなるが、教室に着いた時に先生が「そんなに恐縮されないで」と言って下さったことは、気恥ずかしい中で感謝の気持ちでいっぱいだった。
私は当時、本当は3年掛けて修士論文を書くつもりだった。(当時、青学の英米文学専攻大学院は博士後期課程進学が大変厳しく、博士に進学したいなら修士論文を3年掛けないと進学できないなどという根拠のない噂があった。)しかし、先生の授業を受けていた1997年11月頃、学習院そばの目白の喫茶店で、先生の暖かい助言と熱心な説得のお蔭で修論を2年で書く決意をしたのだった。
このエピソードからも窺われるが、高見先生は本当に「気遣いの人」であった。生成文法に真っ向から挑むKuno and Takamiの鋭い議論展開を見れば、非常に厳しい人が想像されるし、「世界の高見」(元日本大学教授故松山幹秀先生の言)なんだから、もっと威張っていてもおかしくないのだが、実際のご本人はいつも心配りを欠かさない方で感銘を受ける(上記、澤田先生の奥様も同じことを言われていた)。
また、私は千葉修司会長時代、2005〜2007年に日本英語学会理事会書記・編集委員会書記を務めたのだが、大変な激務であった。(ちなみに高見先生はその前の中島平三会長時代の事務局長であった。)編集委員会業務で査読結果を締切期日までに送り返してくれない編集委員の方々に苦労することは日常茶飯事であったが(あんな短い期間に査読させられるので無理からぬことだと思う。しかし)、編集委員の高見先生はただの一度も締切に遅れられたことがなかった。また、必ず丁寧なメール本文もあった。
時を戻して、修論を2年で書く決心をした時も、『英語青年』に載った松原史典さん(京都女子大学)の記事の元になった安田女子大学大学院の博士論文を読みたいことを伝えたら、そのすぐ翌週に持って来て、貸して下さった。想像以上に厚く、重いもので驚いたが、普通、他大の院生のために自宅から持って来てはくれないと思う。
また、1998年のことだったと思うが、高見先生を飲み会にお誘いしたら、健康的な方が良いからと仰り、上述の森さん、田中江扶さん(信州大学)、長谷部郁子さん(筑波大学非常勤)と一緒に高尾山登山にお誘い下さったことも良い思い出である。
書くと切りがないのでこの辺でやめるが、後年1999年3月に、先生の授業を一緒に受けていた家内(旧姓森美由紀)と結婚した旨の手紙をお送りしたら、すぐに速達の手紙が先生から送られてきて、中には「これでご夫婦でおいしいものでも食べて下さい」という丁寧なお手紙と新券(いわゆるピン札)の一万円札が入っていた。四半世紀近く経った今でも使わないで取ってあるが、なかなかできないことだと思う。
先生の学問的業績については多言を要しないので記さないが、研究者の姿勢として立派だと思う点のみ記すと、あれだけ偉くなられても、English Linguistics, Linguistic Inquiry, Languageのような厳しい審査のある学会誌に投稿され、かつ毎年のように著書を出されていたことが挙げられる。それは「謎解きの英文法シリーズ」の最終巻11巻目『助動詞』(くろしお出版)が亡くなる直前の2022年1月に出版されたことからも窺われる通りである。そして、それらの著書や論文が形になる前には久野先生と気の遠くなるような往還を重ねていたと想像される。あの明快な無駄のない議論展開は私も常々見習いたいと思うし、若い研究者や院生、学部生も、どの理論を専攻しているかを問わず、先生の議論を参考にすべきである。例えば、先生のLI 28(1997)の「否定の島」やLg 77(1999)の「数量詞の作用域」に関する論文について、従来の生成文法的説明の反例は全ての研究者が耳を傾けるべきものである。「外池先生との思い出」(『より良き代案を絶えず求めて』開拓社)にも記したことだが、私は数多くの生成文法学者に習ったけれども、一番樹形図を書くのが早かったのは外池先生と高見先生であった。高見先生は批判している生成文法のことを実によく理解されていた。
ここまで読むと先生の温和な面だけが強調されてしまうと思うが、先生は時折、目の奥に研究者としても教育者としても厳しいものが光っていた。授業中の発表者に向けられた「わかりやすく、わかりやすく!」という短い言葉は今も忘れない。また、私は三省堂でも売られていたMetropolitan Linguisticsに二度投稿したことがあるのだが、査読委員の高見先生による詳細かつ的確なコメントに驚き、「都立の人はいつもこれだけのアドバイスと方向性を与えてもらえるんだ」と羨ましく思ったと同時に、「しかし、都立の院生はいつも大変なことだろうな…」とも思った。私の博士論文の外部査読者に高見先生のお名前が挙がったと漏れ聞いた時も正直、「そうならなくて良かった」と思った自分がいた。(なお、結局、外部査読者は仮定法の専門家である千葉修司先生に依頼されたのだが、私の博論はたくさんの付箋と共に返却されたのだった。)
さておき、その後、母校学習院に都立大から中島先生と高見先生が着任されたことは(私としては驚いたことだったが)周知の通りである。中島先生が学習院初等科長を務められた間、中島先生の代役で英米文学科の英文法と3・4年ゼミを担当することになったことは不思議な感慨であった(当時、四十代の真野泰先生が教務委員でいらっしゃった)。私は2010年に故郷の北海道に戻ったが、北海道教育大学旭川校在職中、北海道大学の集中講義にお見えになった高見先生の授業を再び聴講できたことも良い思い出である。その後、旭川の祖父母が亡くなって、私は2016年に再び東京に戻って来たが、そのご挨拶に先生の研究室をお訪ねした時が先生とゆっくりお話しした最後だった気がする。(余談だが、お訪ねした際の学習院の研究室には真野先生と大修館書店の小林奈苗さんがおられ、『英語教育』「[対談]謎めきの英文法―動能構文、不定詞と動名詞、冠詞をめぐって」という特集号の対談をされている場面であった。)
「ゆっくりとお話しした最後だった」理由は、2017年に先生は中島先生の退職記念パーティの司会をされていたが、1次会終了後、即座に帰宅され、その頃から本調子ではないという話を漏れ聞いていたからである。すなわち、その後、先生は大学を休職され、メール等のやり取りはずっと続いていたのだが、こちらも気を遣って、会食等の機会は努めて持たないようにしていた。最後にお会いしたのは2019年9月、慶應義塾大学言語文化研究所主催の言語学コロキアム(講師:今井先生、中島先生、外池先生、西山佑司先生)の会場だったと思うが、話したのはほんの立ち話程度であった。今、思い返すと、学習院大学等にもう少し足を運んでおけば良かったと悔やまれる…。
こちらとしては、先生は2021年4月に復職され普通にオンライン授業もされていたのでご快復の道を歩まれていると思っていたが、12月に容態が急変して、入院されたと伺った時は涙が溢れた。私と家内でお見舞いとお手紙を、そして別の機会に、川﨑修一先生(日本赤十字看護大学)、関田誠先生(東京電機大学)、鴇﨑敏彦先生(日本獣医生命科学大学)とも共同でお見舞いとお手紙をお送りした。奥様から看護師さんを通して手紙をお渡し頂いたと伺った。そして、先生は一時期、危篤状態だったのが、奥様や主任の真野先生から3月に入られて車椅子で短時間なら起きられるようになったと伺っていたので、快方に向かわれたと信じて疑っていなかった。そうであったので、4月2日に真野先生から先生の訃報を伺った時は驚きで声を挙げてしまった。
ご葬儀は家族葬であったので、当然、参列も叶わず、未だに先生が69歳の若さで亡くなられた実感が湧かない。また、名著「謎解きの英文法シリーズ」がこれからも長く英語教員や英語研究者に残っていくという意味で、高見先生は我々の心の中にずっと生き続けるであろう。しかし、あの読んでいてワクワクする高見先生の新しい文章にはもう二度と出会えないのである。残された我々が引き継ぐべきは「経験事実に基づいた英語学、言語学の理論構築」であろう。私は先生の直弟子ではなかったが、四半世紀に及ぶご厚誼に改めて深く感謝しつつ、心よりのご冥福をお祈りしたい。
(文教大学准教授、英米文学科1996年度卒業)