1974年4月 - 1976年3月
東北大学大学院工学研究科博士課程前期 (工学修士):*****東北大学は本多磁石や八木アンテナの発明から始まり、独創技術で世界に認知。最近の同窓生では光ファイバーの西沢潤一博士・アモルファス合金の増本健博士・ノーベル賞の田中耕一名誉博士などを輩出。在学当時の青葉工業会(工学系同窓会)会長は松前重義博士(無装架ケーブルを用いた高音質長距離多重通信方式の発明者、逓信省技師・総裁、衆議院議員、日本の技術者[電気情報技術者]の3[5]%を輩出した東海大学創設者)。町中が金属材料研究所を誇とする雰囲気があった。どこの大学でも材料学生の入試合格点は低い。ところが、教会の英会話学校で、医学部学生が金属の院生というだけで敬意を表された。これは、歴代金属系教官OB群が発明した世界的研究成果群の残影であり、身の引締る思いがした。 **金属材料工学専攻はMITの教育制度を参考に専門教育を改革した直後のカリキュラムと、材料関連54講座で日本の40%を越える巨大教官群による物理・化学・数学を基盤とした金属学を中心とした充実した講義には、将来における仕事の種を探すべく集中して参加し、必ず質問した。特に状態図計算の西澤教授相変態論の講義と、高村京大教授のMicro-twinとErriot MIT教授の鉄鋼精錬の集中講義は秀逸で感動した。2週間のErriotの特別講義では、毎時間質問していたら、精錬のある教授から「質問するのは失礼だ!」と注意された。しかしながら、実父の納税額以上は必ず知識・知見を得る主義だったので、馬耳東風で続けた。一方、1週間ほどで、Eriottが質問の出ない大学院生に「そんなに興味がないのか?」と怒りだし、東北大学のErriotの弟子はNishiだけだと叫ばれた。名誉なことだが、なによりも、日米の大学における教育姿勢の違いを強く感じた。東海大学教員で授業を実施する際には、建学の原点である世界基準の技術者を養成するためにErriotの講義姿勢を目標とした。 **金属材料研究所鉄鋼材料学講座:増本研究室<Pd-Cu-Si合金の非晶質形成の臨界冷却速度の決定[増本健:わが人生記(アドスリー2020) p72参]:努めて止まぬ精神で1年半の試行錯誤の末,合金融体試料の冷却曲線測定に成功し,博士論文の中核が完成>。(主査:増本教授、副査:西澤泰二教授、ゼミ指導:井口泰弘助教授)。後に、RQ4国際会議で、20代で日本代表パネリストに抜擢され招待講演。これは、"天の時"と、テーマ選定した増本先生の"先見の明"のおかげに尽きる。小倉助教授・井上明久院生・奈賀博士から研究第一主義を実践教示。安彦・和久・木村博先輩や福島・十代田・高野・山名・石川・古屋院生と、熊谷・村田・花田・佐藤教官や富沢・木村久道・ガラス工作の二瓶技師や事務職・秘書団、さらにスポーツ大会(福島十代田富沢古屋西木村と控え井上のThe Prince of Kinkenチームは金研駅伝で3位。常勝増本・熊谷卓球最強ペアーを木村・西組で撃破)、花見、芋煮会や一番町が活力の元。<老父の代理で3週間渡米等の家業の手伝いもしたが,四六時中あらゆる金属技術の修得に集中。累積修行時間は1万時間以上>
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