研究ブログ

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国際語としての日本語・日本語教育

2015年8月に国際語としての日本語教育に関する国際会議をブラジル・サンパウロで開くことになった。2013年3月にサンパウロ大学の松原先生と起案してから約1年半。準備は着々と進んでいる。

公式サイト
http://ejhib2015.com/

もともとは継承語・バイリンガル・アイデンティティに関する日本語教育シンポジウムだったが、紆余曲折を経て国際語になった。それはなぜか。
海外移住する日本人、国際結婚の増加、在日外国人の増加、SNSの発達などが原因で、個人における言語と地域の複層化が地球規模で進んでいる。私はバイリンガルではないが、私も一日の中で英語を含む複数の言語を同時に扱って生きている。アイデンティティは日本人かもしれないが、複数の国への留学経験もあるせいか、言動があまり日本人らしくないと言われる。
食生活はもっと顕著に複文化だ。和食だけを三食食べる日は一日もない。
このように、日本語・日本人の複言語・複文化化は決してバイリンガルや継承語話者に限定される話ではない。
また、海外の日本語教育に目を転じても、日本語の学習動機や日本語能力は非常に多様である。挨拶レベルにとどまることもあれば、会話はできなくとも小説は読める学習者もいる。ひどい母語なまりで話す外国人もいる。旧占領地では未だに日本人のように(?)日本語を流ちょうに話す外国人もいる。共通語として日本語を使う外国人同士もある。

国際語として認知されている英語やスペイン語などは、その国や地域ごとの英語やスペイン語が発達した。そして更に英語にいたっては世界中の英語学習者が、様々なお国なまりや母語干渉を含んだ形でユーザーを拡大させている。言語変化に対する寛容性が国際語の一つの大きな条件だろう。

しかし、現在の日本語教育は基本的に国語ナショナリズムを内包した「正
統日本語」教育であり、「日本語=日本人」の枠組みが維持されていると言われている(田中 2011)。
しかし、その「正しい日本語」とは結局誰のものなのだろうか。そして、日本語の使い手とは、どの段階からそのように言うのだろうか。初級は日本語使用者だろうか。成人の日本人のような話し方ができる段階になって初めて日本語使用者と言えるのだろうか。そのような形で正統日本語を唯一無二の存在として信仰を強制すれば、結局日本語ユーザーの広がりは小規模なままで留まってしまうことが危惧される。日本語ユーザーを広げることが日本語教育のミッションの一つだとするなら、正統日本語教育への偏向は改めることが必要だ。もちろんこの主張は正統日本語教育を否定するものではない。正統日本語教育は日本語教育の一つと考えることが重要だ。

今後は「正しい日本語」だけを信仰するのではなく、日本語を様々なバリエーションのある連合体として捉え、「八百万の日本語」信仰にシフトすべきである。山の手東京方言、関西方言、ギャルの日本語、ベトナム日本語をなどがあっていいのである。
そして、日本語使用者の個性、母語、多様性、帰属社会、人間関係、使用目的等にセンシティブな言語教育を提供することが求められるのではないだろうか。
つまり、グ
ローバル化や複言語•複文化の枠組みの中で、日本語を正統性の軸から開放し、「多様な個人と世界に開かれた日本語」としての国際語化が求められている。そうした日本語のための日本語教育や、新たな言語教育観の提案が求められると言える。

そのための第一回の会議をサンパウロという世界最大の日系コロニ―で行えることは非常に意義深い。是非日本語教育や日本語学、日本文学の専門家にサンパウロに来ていただき、国際語としての日本語の未来を語ってもらいたいと思っている。
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Can-do ベースと材料ベース

ある分野における行為と、別のある分野における行為との間に同じ関係性を見いだすことができる。言語記号論で有名な池上嘉彦氏はその現象を「相同性」という言葉で規定する。

<相同性>とは、抽象的な定式化では、X という分野におけるaとbの関係は Y という分野におけるcとdの関係に等しい(いくらか簡略化した形では、Xという分野におけるaの位置づけは、Y という分野におけるcの位置づけと等価である) 
http://www.princeton.edu/pii/documents/pii_ikegami_makino.pdf

池上氏の日本語と日本文化の相同性の例として「見立て」を挙げる。

「見立て」は伝統的な文芸・美術・芸能・作庭などから商業デザインや広告・建築など様々な創造の場で行われており先行研究も膨大に見られいまや「見立て」を抜きに日本文化を語ることは難しい。例えば茶道の民器を茶道具に見立て芸術作品へと高める捉え方や華道の天地人を見立てた活け方、和菓子や料理の命名やその風趣四神の方角に見立てて造られた平城京全国に見られる「~富士」という命名など枚挙にいとまがない。
http://homepage2.nifty.com/jcla/japanese/2012/abstract/WS2.pdf

最近、そうした相同的な現象の一つとして日本人の材料ベースがあると感じることがあった。これがいかに様々なレベルで出現するかについて述べたい。

日本の日本語教育では従来文型中心主義がとられてきた。日本語の産出に必要な文型を一通り体系的に学び、文型の周辺にある語彙を体系的に学び、その文型と語彙で産出可能な表現を産出する形態、いわば「材料ベース」である。一方、ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)に象徴される言語学習観は「何ができるか、何をしたいか」から発想され、各言語行動に必要な言語表現を学ぼうとするものでCan-doベースである。Can-doベースで日本語教育を組み直す試みは国際交流基金が推進しているが、浸透するかどうかは疑問である。なぜなら、日本人の材料ベースは日本人の文化の相同性の表出の一つにすぎないからである。

先日、研究仲間と酒を飲んでいたとき、イタリア人と日本人のカップルが、冷蔵庫の中身について相違点を話していた。日本人の妻は必要そうな食材を買い込んで冷蔵庫につめこみ、冷蔵庫の中を開けて、その日作れそうなものを考える。常に冷蔵庫の中には材料がつまり、中には消費されず腐っていくものもある。しかし、イタリア人の夫は何を作るかを決めて材料を必要なだけ買いにいくため、基本的に冷蔵庫に食材が残らない。夫は妻の一見無駄と思える買い方に半ばあきれた様子だった。そして妻は夫の柔軟でない料理の作り方に不満そうであった。

その様子を聞いていた飲み仲間が「それってヨーロッパがCan-doベースで言語使用を考えるのと、日本が文型や語彙をたくさん覚えてから言語使用を考えるのと全くおんなじじゃん」と言った。

いろいろな材料が手元にあると安心し、その材料からどんな言語使用が可能かと考える日本人妻、まず作りたい料理が先にあり、その料理のための材料だけを集めようとするイタリア人夫の思考は確かに言語学習ビリーフとの相同形と思われる。

料理に限らず、恐らく様々なことに材料ベースを見いだすことができる。

 例えば衣服も同じことが言えるだろう。日本人(特に女性)は衣装持ちである。基本的にいろいろな種類の服をそろえたがる。いつ使うか分からない時のために訪問着などの和服も一式持っている。一方ヨーロッパ人はあまり衣装持ちではない。ワードローブに大量に服をつめこむことはしない。

 食器も同様である。日本人は食器持ちである。いろいろな用途のための様々な形の食器が多数、ひと揃い用意されている。我が家も非常に多くの種類の食器がある。贈答品としても多くの食器をもらう。それも5〜6人分ワンセットである。一年に一度しか使わないような食器もある。
それに対してヨーロッパ人の食器は非常に実用的でシンプルである。枚数はあっても形や種類が日本とは全く異なる。
日本人はそうした食器が揃っていないと安心が得られないのではないだろうか。
まさに「備えあれば憂いなし」。
「備え」「揃い」が重要なのである。

 以上述べてきたように、日本人は荷物も貯金も多い。多いことで安心を得る。そして、その使い道は後から考える。そこも重要である。日本人は使わなくても構わない。手元にあることが最も大事なのだ。材料ベースのクラスターは、「備え」や「揃い」志向にまとめられ、その近辺には結果や成果に価値をおかないプロセス志向性が見える。

つまり、何か目的を先に考えてから道具を必要なだけ集めるcan-doのような言語学習観は、そう簡単に日本人の言語学習観として受け入れられないのではないだろうか。
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「大好き」が「好き」に負ける時

 「ねえ、私のこと好き?」
 「好きだよ。」
 「それだけ?」
 「・・・ 大好きだよ。」
 「わたしも大好き!」

 というようなカップルのやりとりにおける「好き」と「大好き」の力関係は、  

「好き」<「大好き」

である。
 しかし、意味を強調するための「大」が、かえって邪魔なことがある。
その最たるものが告白である。
 告白時に女性が男性から

 「お前が好きだ」

 といわれれば
 胸がきゅんとなる女性は多いだろう。

しかし

 「お前が大好きだ」

といわれても
今ひとつきゅんとならない女性は多いだろう。
どうも愛の告白をされた気がしないのだ。
「大」がついたら強調されるはずなのに、なぜだろう。

おそらく「大」をつけると、「好き」がおまけになってしまうのではないだろうか。
告白において大事なことは、自分が特別な気持ちを抱いていることを相手に示すことである。その場合、「好き」か「そうでないか」を伝えることがフォーカスされるべきであり、「好き」の提示以外は余計なことである。
しかし、「大好き」といわれてしまうと、聞き手は「自分が相手を好きなことはわかっているが、その度合いは通常より大きい」、と受け止めてしまう。既に親しい相手なら、「友人として好意を持たれていたのは知っていたけど、その度合いがそんなに高かったのか」と思ってしまうかもしれない。

 つまり、「大」は「好き」に対して、聞き手と話し手との間の共有事項としての読みを強制し「好き」より目立ってしまうのである。認知言語学的にいえば、「大好き」は「大」を前景化し、「好き」を背景化するといえる。
 もっといえば、「大」に限らず、全ての副詞などの修飾表現は、基本的に
聞き手との間に被修飾句の情報を共有していることを前提とする(被修飾語を背景化させる)のではないか。
「もう終わったよ」は終わったことを聞き手と共有し、「もう」を前景化させ
「やっと来た」は来たことを聞き手と共有し、「やっと」を前景化させる。
飾りの言葉は慎重につかわないと、飾られた言葉を脇役においやってしまうかもしれない。

本当の意味で「好き」が前提となっているカップルの会話場面で、
はじめて「大好き」は「好き」に勝つ表現となるのだろう。

昔の深夜番組で、「だいすき」とCMのきりかわりに女性グラビアアイドルがささやいていたのを思い出す。あれはおそらく、アイドルが自分の彼女になって、自分に囁いているかのような錯覚をあたえる演出だったのではないだろうか。

もしあれが「好き」だったらどうだろう。それはそれでよかったかもしれないが、むしろ男性が女性視聴者に向けて「好きだよ」と言う方が受け入れられるかもしれない。
それは日本では基本的に女性は「受け」で男性は「攻め」だからである。
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「是非」はなぜ「是非」なのか

 今指導している大学院生は小学校の学校配布物の研究をしている。昨日学生が学校だよりや切り取り線プリントの依頼表現について報告していた時、興味深く思ったこと。

「是非ご参加ください」

こうした文言はプリントの各所に見られる。
学生は「是非」って書いてあるから、読めたほうがよいのではないか、と言った。
しかし、「是非〜ください」は読み手にとってしなければならないことだろうか。
実は(というほどでもないが)「是非」は「しなくてもよいが、強くしてほしいと願っていること」に付けるものである。
そのため、検尿のお知らせで、明日までに検尿して容器を提出する場合

「是非明日容器を提出してください」

といったり、
学納金の支払い日の連絡で

「1日までに是非お金をご用意ください」

ということはできない。
この場合は「必ず〜ください」か「〜ください」だろう。
むしろ

「明日講習会がありますから参加してください」

と書かれると、
それはかなり強制が強いものになってしまう。
「是非」を添えることで、参加を強くすすめているというより、
むしろこのイベントは強制ではないことを暗示的に示しているのかもしれない。

学校配布物の依頼表現で外国人の保護者に学んでもらうことは、この「ください」が
「強制」なのか「依頼」なのかを判断できるようになってもらうことではないだろうか。
「是非」のこうした意味は、「必ず」との対比であれば研究や辞書的記述にも記載はある。あとは、どの言語場面でどのように機能するかという知識を集積すること、そして
適切なタイミングで教育できる環境のデザインだろう。

そういうある種のちょっとした語用論的知識だけで解決できる省エネ日本語教育が必要である。
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「どうぞご覧ください」の問題点

 ある中国人留学生から、研究に関する依頼のメールがきた。その学生は論文を日本語で書ける程度なので、当然かなりの上級である。

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~先生
こんにちは。Aです。
Bの分析結果を出しましたので、どうぞご覧ください。
よろしくお願いします。
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「こんにちは」はどうか、というのはさておき、厄介なのは「どうぞご覧ください」である。これに違和感を感じる読者は多いのではないだろうか。

しかし、「どうぞ お/ご〜ください」というのは「お〜になります」と合わせて「尊敬語」として日本語の教科書に書かれている。当然自分では教科書で習った尊敬語のつもりで使用しているのに、なぜいけないのだろうか、と学生は思うはずである。

 また、インターネットで調べると「ご〜ください」を目上に使うと失礼と書いてある生地は結構多い。しかしどれも適切に理由を説明していないようである。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1637.html

 これは結局、誰が、どういう目的で、誰に行為を依頼するかの視点が抜けたことで生じる誤用であり、「誰が、どういう目的で、誰に」の情報を日本語教科書が伝えていないことに問題がある。

「どうぞご覧ください」

は、基本的には、目下の者が、不特定多数またはグループに対し、利益を与える場合に使う表現ではないだろうか。
 例えば、サービスでだしているコーヒーコーナーで、来訪者に対し「どうぞご自由にお飲みください」「ご自由にお取りください」と書く場合、テレビ番組で視聴者に対し「どうぞご覧ください」と呼びかける場合、式典で参列者に対し「ご着席ください」と言う場合である。
(ちなみに、地鎮祭の流れを書いたホームページでは「ご起立願います」「ご着席ください」と書いてあるので、やはり基本は利益を与える依頼に対し「ご〜ください」、そうでなければ「ご〜願います」だろうhttp://party-s.com/gps/p/tejyun/jitinsai09_2.htm)

 そもそも学生の論文修正を積極的にしたいと思っている人ならともかく、忙しい時間を割いて直そうと思っている教員は、「どうぞご覧下さい」といわれると、不快感を示すのではないだろうか。あたかも自分が送ったデータがすばらしいもので、もらった相手は必ず利益を得るはずだという傲慢な表現にすらなりかねない。

また、目下の者が、目上の者から行為を受ける場合はどうだろうか。

「何かお気づきの点がございましたら、お知らせください」
「お客様のご要望をお聞かせください」

これも個人的には厳しいように感じる。「ご連絡願います」「お聞かせ願います」ではないだろうか。

「ご〜ください」の例は、日本語教育文法の中にまだまだ明らかにされていない情報が残されており、上級者になって不利益を被る人がいることの一例である。
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