研究ブログ

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前期の最後に

 ようやく前期の遠隔授業も終わりがみえてきました。前期の最後となる今回は、学生諸君ではなく、世間一般に問いかけたいと思います。

  直近の【3288】でも「#椿井文書 の絵図と城館発掘結果が合致するのは、作成年月日が戦後で、作者は研究職の誰かだから」と述べるように、素人さんたちの主張はあまりに支離滅裂なので私の立場が揺らぐ心配はありませんでしたが、正直なところをいうと、ごく一部の人が素人さんたちの発言を真に受けている様子は少しだけ気にはなっていました。幸い私の場合は、過去に執筆した論文がいつでも証明してくれるので黙殺すれば済むのですが、そうではない人の場合を想像すると、誹謗中傷が拡大する当事者の気持ちが少しだけわかって恐怖を感じました。そして、これが人を死に追いやるのかと思うと怒りも感じました。

 しかし、研究の時間を割いてまでして、素人さんたちの相手をするのは明らかに無駄です。ところが、このタイミングで史料閲覧機関が悉く閉鎖したため、日常の研究業務が滞り始めました。これも何かの運命だと思って、空いた時間で素人さんたちの発言を分析してみようと軽い気持ちでこのブログを始めてみました。そうしたところ、SNSでの誹謗中傷が社会問題として話題になってきたので、歴史学者なりにこの問題を分析するのもそれなりに意味があるのではないかと思い始めてきました。そこで、学生を相手にゼミの前後や飲み会などでしているような話を積み重ねつつも、せっかくの機会なので世間に問うことも視野に入れてみました。

 前々回も述べましたように、中傷とは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」です。根拠がない時点で、この行為自体はとても恥ずかしいものなのですが、とくにSNSが発達してから、こうした問題は世の中に蔓延しています。その理由の一つは、匿名で発信できるということにあるかと思います。そしてもう一つの理由は、自らの姿を鏡で客観的にみることができないためでしょう。

 匿名ゆえの自由な発言にはそれなりの意義があることは認めます。また、そういう世界があるおかげで、実名で勝負するという研究者の世界にあるプロ意識の存在は際立ちます。では、自らの姿を鏡でみせるにはどうしたらよいか思案しました。それへの回答の一つが、この史料編の作成です。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200722.pdf

 我々歴史学者は、文字を扱うプロです。文字を鉄パイプ程度の武器にしかできない素人さんたちとは異なり、私たちは文字のあらゆる活用方法を知っています。そこで、素人さんたちの姿を映し出す鏡として史料編を作成してみた次第です。素人さん以外の方々も、この史料編をみて誹謗中傷になりかねない批判はやめておいたほうがよいと気付いていただければ幸いです。そして鏡を作成したら、次はそれの見せかたが課題となってきます。

 素人さんは私の研究について、【2025】では「馬部隆弘氏の新規性は大阪府で椿井文書かもしれない文書類を見つけた点で、滋賀県や京都府では戦前戦後と自治体史では史実ではない事が書いてある #椿井文書 だと書かれていたんだけどな」とおっしゃいます。椿井文書の存在は広く知られているので、私の研究には新規性があまりないといいたいようです。【2546】でも「椿井文書自体は昔から有名だった」、【2790】でも「畿内でよく知られた椿井文書が新しい発見かの様に語られる先行研究軽視」などとおっしゃっています。では、何が椿井文書であるのか、克明にした研究がかつてあったのでしょうか。素人さんたちの言い分は、病気の存在を知っていることと病気の治療方法を知っていることを同一視しているようなものです。

 問題の本質は、椿井文書の存在が知られているのになぜ使われてしまうのかというところにあるのですが、それすら理解できていないようです。手前味噌になりますが、私の研究はそのカラクリを明らかにした点に価値があると自負しています。ですから、これから我々が進むべき方向や進んではいけない方向を示すことができたのではないでしょうか。

 それと同様にこのブログでも、事実に基づいた私の発言が、曲解されて誹謗中傷となっていくカラクリを分析してきました。そのカラクリを共有するだけでも、世の中が間違った方向に進むのを多少なりとも抑止できるのではないかと考えています。これが、歴史学者としての私なりの鏡の見せかたです。

 素人さんの発言は、いつも同じ内容の繰り返しで単調になってきました。史料的にも十分なサンプルが集まりましたので、そろそろ自身の姿をみてもらうという実験に移ってもよいかと思っています。ご協力いただける方は、このブログをツイッターで紹介していただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

 素人さんは【2892】で「馬部隆弘氏は主張するけれど、出典に書かれていない記載が根拠だから立証不可能。お年召しの方ばかりになったけれど、穂谷村の人達には謝罪するべきだと思うんだよ。」とおっしゃいます。誤ったことを記載しているので、謝罪しろというのです。【2919】でも「書いていないのに書いてある事にして「裁判記録を椿井政隆に頼んで改竄してもらった」と言われても、旧穂谷村の人達は困ると思うんだよ。この点は旧穂谷村と枚方市へ謝罪した方が良いと思う。」とおっしゃいます。この件については、素人さんたちがあれこれ手を加えたうえで、私が史料を改竄したというありもしない事実を創り出したことは、すでにこのブログで説明しました。

 ですから、【2964】で「この件は論文を修正した上で、旧穂谷村と枚方市へ謝罪するべきだと思う」とおっしゃいますが、『この件はツイッターを修正した上で、私と周辺関係者へ謝罪するべきだと思う』とそっくりそのままお返しします。素人さんたちの発言は、端からみれば誰の目にも明らかな誹謗中傷ですので、間違ったことを言ったら謝罪すべきだというご自身の発言に責任を持ってほしいものです。

 素人さんは、【1550】で「歴史学界は、」「みんなで謝罪に行くか、きちんとした訂正検証論文を書かないといけないのでは?書きっぱなしは無責任だと思う」とおっしゃいます。私の研究不正は、私だけの問題でなく、私の研究不正を放置している歴史学界全体の問題なので、皆で訂正するなり再検証するなりの必要があるとのことです。これも、そっくりそのまま『ツイッター上の方々は、みんなで謝罪に行くか、きちんとした訂正検証ツイートを書かないといけないのでは?書きっぱなしは無責任だと思う』とお返ししておきます。素人さんたちの不正は、ツイッターの世界にいる皆さんが放置した責任かもしれません。ですから、素人さんたちの改竄について是非とも再検証をしてください。その素材として、史料編をご活用いただければ幸いです。

 【1551】では「謝罪するべきでは。でないと、予算も、学問の自由も、無くなってしまうよ。これって、歴史学者が嘘の史料を作った上で穂谷村が裁判資料を改竄したと主張したわけでしょ?」とおっしゃいます。歴史学の自浄作用がなくなれば、予算も学問の自由もなくなってしまうといいたいようです。であるならば、自浄作用がなくなれば、ツイッターの世界の自由もなくなってしまうかもしれませんね。

 これまで、素人さんたちに絡まれた方々も多くいらっしゃいます。ですからツイッター上では、素人さんたちのことをみてみぬふりをする方たちばかりです。素人さんについて「そういう行動する時点でアレさが際立ってるので、早く病院行ってください」とおっしゃる方もいるので、素人さんたちの存在や異常な行動については広く知られているようです。その方々はすでにお気づきだと思いますが、素人さんとは議論がどうしてもかみ合いません。なぜなら話の根拠がないからです。しかし、これ以降は、史料編という共通の土台のうえで議論が可能です。このように史料を共有して議論を深めようとするのも、歴史学の発想です。

 なにも、素人さんたちと論戦をしてほしいと言っているわけではありません。そんなことをしても、素人さんたちのことですから、史料編の内容はなかったことにして自身が誹謗中傷されたと思い込んでしまうだけです。そうなると、改めて根拠のない反論をしてくるはずなので、不毛な議論を繰り返すのみで問題の解決にはつながりません。この史料編を読んで何を思うか、リンクを貼って少しずつでもいいのでご意見や感想をツイートしてくださるだけで結構です。

 前々回も述べたように、素人さんは「批判と誹謗中傷の境界」をとっぱらってツイートしています。しかし本来は、その一線を越えていないかどうか立ち止まって考えることこそが重要です。その一線が史料編のコメントのなかのどこなのか、みんなが少しずつ考えるだけでも、誹謗中傷が発生するカラクリを共有できるのではないでしょうか。それだけでも大きな前進だと思います。よろしくお願いします。

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新たな時期区分案について

 先日、このブログでもお伝えしたように、素人さんたちの動きはしばらく安定期が続いていましたが、6月末から支離滅裂期間に入りました。素人さんたちが七夕に関する私の所説に物申したいのは以前からも述べてきた通りで、予想通りそれに関するツイートが連発されました。そして七夕を過ぎると、嘘のように静かになりました。なんともわかりやすい方々です。ですので、時期区分を新たに追加したいと思います。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200718.pdf

 6月14日更新のこのブログでは、第10期まで時期区分していましたが、新たに第11期と第12期を加えることとします。

第1期2017年8月14日~2019年5月9日(【1】~【26】)634日で26ツイート
第2期2019年5月10日~2019年5月19日(【27】~【180】)10日で154ツイート
第3期2019年5月20日~2019年5月29日(【181】~【536】)10日で356ツイート
第4期2019年5月30日~2019年7月12日(【537】~【1025】)44日で489ツイート
第5期2019年7月13日~2019年9月23日(【1026】~【1047】)73日で22ツイート
第6期2019年9月24日~2020年3月18日(【1048】~【1054】)177日で7ツイート
第7期2020年3月19日~2020年3月26日(【1055】~【1287】)8日で233ツイート
第8期2020年3月27日~2020年4月5日(【1288】~【1448】)10日で161ツイート
第9期2020年4月6日~2020年5月25日(【1449】~【2602】50日で1154ツイート
第10期2020年5月26日~2020年6月28日(【2603】~【2922】)34日で320ツイート
第11期2020年6月29日~2020年7月7日(【2923】~【3229】)9日で307ツイート
第12期2020年7月8日~2020年7月17日現在(【3230】~【3285】)10日で56ツイート

 時期区分の根拠は次の通りです。(少数点以下第3位を四捨五入)

第1期 1日あたり0.04ツイート 稀につぶやき始める。
第2期 1日あたり15.40ツイート つぶやきが急増する。
第3期 1日あたり35.60ツイート さらにつぶやきが増加する。
第4期 1日あたり11.11ツイート つぶやかない日が出始める。
第5期 1日あたり0.30ツイート 連日つぶやくことはなくなる。
第6期 1日あたり0.04ツイート ほとんどつぶやくことがなくなる。
第7期 1日あたり29.13ツイート 突如として激しくつぶやき始める。
第8期 1日あたり16.10ツイート つぶやく数がおちつく。
第9期 1日あたり23.08ツイート 再度つぶやく数が急増する。
第10期 1日あたり9.41ツイート つぶやく数が改めておちつく。
第11期 1日あたり34.11ツイート つぶやく数が激増する。
第12期 1日あたり5.60ツイート つぶやく数が激減する。

 さて、第12期はいつまで続くのでしょうか。私は、さほど長くは続かないと読んでいます。

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無知が招く誹謗中傷

 前々回は、『河内鑑名所記』の原本に記された「はたほこ大明神」というくずし字を読めない素人さんが、その文字をトリミングして消去した事例を紹介しました。そして、その画像をもとに、『河内鑑名所記』の原本には「はたほこ大明神」とは記されていないと主張し、私の揚げ足をとろうとするのです。また、前回にみた事例では、私が触れてもいない西井長和氏所蔵史料を引用したことにし、疑わしい史料を用いていると批判していました。前回以降のわずかな期間にも、【3267】で「馬部隆弘氏は式内社片野神社は本当は星田神社の交野大明神と、片山長三の実弟・西井長和の「星田懐古誌」p.28-29,昭55掲載の極楽寺神名帳を根拠に云われる」と述べているように、素人さんたちの発言は無限ループで読者を疲弊させます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200717.pdf

 誤解とはいえ、それを根拠に悪意をもって研究不正となじってくるわけなので、客観的にみれば明らかな誹謗中傷です。最近は、SNSでの誹謗中傷が話題になっていますが、研究者も他人事ではないといえるでしょう。そこで私は、誹謗中傷と受け止めてただ泣き寝入りするのではなく、研究者として積極的に対処しようと考えました。【2048】でも指摘されているように、「ネットで誹謗中傷されていると思うような人だと、新しいものは生まれないはずです」から。

 その試みが、素人さんたちの発言を誰しもが自由に見ることのできる史料として残したうえで、その内容を分析するこのブログです。史料としてみることで、少し距離を置いて冷静に読むことができるようになり、誹謗中傷という表層から掘り下げて、問題の核心にも少しずつ迫ることができるようになりました。この分析結果が、SNSでの誹謗中傷を少しでも減らす一助となればと思っています。

 このように視角を変えることで、新たに見えてきたことをいくつか紹介しておきます。まずは、通常の歴史学とは異なる新たな分析方法についてです。2019年に私への批判が高揚しているところに、外的インパクトが加わると素人さんたちは支離滅裂な発言を始めました。その仮説をより確実なものとするには、実験を繰り返して、同じような結果になるか検証しなければなりませんでした。そこで、2020年3月の新書発刊直後に、素人さんたちを対象とした論文を公表しました。それによって得られた実験結果は、まさに私の期待通りでした。このように、通常の歴史学にはない実験という方法が目新しい点といえるでしょう。

 しかも、この実験の結果、期待していた発言もいくつか得ることができました。私の論文について、【2091】で「馬部氏は文書で反論したから、それでいいのでは?うちも反論するだけです。」とおっしゃるのです。知識レベルに雲泥の差があることを自覚せず、私のことを対等だと認識していることがこれでわかりました。だから臆することなく発言するわけです。勘違いしているようですが、私は「反論」しているわけでなく、たしなめているんです。

 このブログで最初に述べたように、「金銭的・時間的余力」があるため、ついつい偽史に入れ込んでしまう点に私は北河内の地域性を感じています。これが意味するところは、日常生活に必ずしも必要とされない歴史をわざわざ勉強したり、それによって自らの知識レベルが高いと錯覚したりする傾向にあるということです。もちろん皆が皆というわけではなく、こういう傾向にある人が多いという意味ですが、多いだけに連鎖反応も起こりやすいです。この傾向は、かつて枚方市で窓口業務をしていたときに市民の方々から得た発言で、身にしみて感じていました。しかし、史料的根拠を明示できないため、この点については論文では印象論に留まっていました。そのため、【2051】で「地域性なのか、学者に異常に冷淡かも。相手にしてない。」ともおっしゃるように、学者を学者と思わない地域性を文字に残してくれたことは大変貴重な成果といえます。学者の意見を軽視したうえで、利益獲得や宣伝のためには偽史だろうが何だろうが手段を選ばずに用いるというしたたかな地域性についても、素人さんたち自らがエビデンスを残し続けてくれています。

 臆することがない理由は他にもあります。【2677】で、「批判と誹謗中傷の境界、うちらにはやはりわからないなぁ。法曹家の意見はうちらの直観とかなり違うし。」ともおっしゃるのです。「批判と誹謗中傷の境界」がないという一言から、無責任な発言が続くのも思わず納得してしまいました。

 納得した理由は次の通りです。中傷とは、『広辞苑』によると「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」です。批判とは、いうまでもなく「事実」に基づいて行うものです。我々研究者は、批判が誹謗中傷にならないように、その発言の根拠が「無実」ではなく、「事実」であることを慎重に確認したうえでことに及びます。批判が誹謗中傷になった瞬間、無知をさらすことになってしまい、研究者として致命傷を負うからです。それに対して、無知をさらしても匿名なので特に恥ずかしくない素人さんは、「事実」か「無実」かを特に慎重に判断する必要はありません。それに伴い、「批判と誹謗中傷の境界」もとっぱらってしまうわけです。

 【3116】で「好き放題書くなら、ブログでいいのでは?うちはもう好き放題で書いてるべ。」といい、続く【3117】では「他人に有料で文章を販売するのはとても責任があるもんね。」とおっしゃいます。無料のSNSだったら、無責任に誹謗中傷をしてもよいというお考えなのでしょうが、そんなこと許されるわけありません。公言するからにはそれなりの責任が生じます。【3117】では続けて、「電子書籍ですら国立国会図書館で保管される。子々孫々に(うちは子供いなくとも、うちの家系は残るわけで)恥をかかせることはできないよ。」とおっしゃっています。このブログも、史料集を完成させることに目的の一つがありますので、最終的には編集しなおして冊子にするつもりです。つまり、国立国会図書館に納本されるわけなんですが、子々孫々に恥をかかせることがなければよいですね。

 皆さんも、卒論のなかで先行研究を批判することになるはずです。素人さんの事例をみてもわかるように、無知に基づく批判は誹謗中傷になりかねません。また、論文での批判が誹謗中傷になった瞬間、無知をさらしてしまうことになります。これらのことを肝に銘じておいてください。

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文末脚注も大事な情報

 論文では、あらゆる史料を駆使して議論を構築していきます。いうまでもないことですが、その典拠を明示しなければ、議論の客観性は担保できません。とはいっても、引用史料の典拠を本文で逐一記すと非常に煩雑になります。そこで論文では、史料の典拠を文末脚注に整理することで、円滑に議論を組み立てていきます。

 逆にその論文を検証するのであれば、脚注にある史料に逐一あたっていくという作業が必要になります。今回はそれを怠るとどのような結果になるのか、いつもの素人さんたちにご登場いただいて説明しておきます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200711.pdf

 私は『由緒・偽文書と地域社会』442頁で、次のように述べています。

「交野社」を蘭阪が「カタノ大明神」と呼んでいることと、国内神名帳をもとに作成した勧請神名帳には「交野大明神」がよくみられるという一致に注目したい。勧請神名帳は広く流布していることから、蘭阪もこの手の史料を目にしていた可能性が高い。つまり、延喜式神名帳との連続性も踏まえているのである。

 延長5年(927)にまとめられた「延喜式神名帳」には、全国各地の主要な神社がリストアップされており、そのなかに交野郡内の神社として「片野神社」の名があげられています。この神社の所在は、江戸時代になると忘れ去られていました。そこで並河誠所という人物が、交野郡坂村にある一宮は郡内で氏子が最も多い神社なので、これがかつての片野神社だと主張しました。それに対して三浦蘭阪という人物は、交野郡星田村にある「交野社」が片野神社に該当すると批判します。ところが現在は、並河誠所の説が通説となっています。

 並河誠所の主張は、後世の氏子数という極めて薄弱な根拠しかないのに対し、三浦蘭阪の主張には史料的な根拠が数々あります。そのため、どうみても三浦蘭阪の説のほうに軍配があがると私は判断しました。拙著では、三浦蘭阪が根拠としたと思われる史料を逐一検証していますが、上掲の一文はその一部にあたります。

 ここで私が注目したのは、星田村の「交野社」のことを三浦蘭阪が「カタノ大明神」と称していることです。延喜式神名帳と同じ時代に、国単位で主要な神社をリストアップした国内神名帳と呼ばれるものがあります。当然のことながら、延喜式神名帳と国内神名帳は重複する箇所が多いはずですが、河内国の国内神名帳は残念ながら残っていません。ただし国内神名帳は、中世になると各地の神前仏前などでの行事で使われる勧請神名帳に転用されます。そのため、国内神名帳の内容は、少しずつ形を変えつつも広く世の中に伝わっています。したがって、勧請神名帳は延喜式神名帳をベースとしながらも、少しずつ手が加わったものと評価できます。その勧請神名帳にしばしばみられるのが、「交野大明神」という呼称なのです。つまり、三浦蘭阪はいずれかの勧請神名帳を目にしている可能性が極めて高く、かつその内容と延喜式神名帳の間の連続性も知っているということになります。

 私のこの解釈に対して、素人さんたちは西井長和『星田懐古誌』上巻(交野詩和会、1979年)に掲載される次の写真を画像として貼り付けて、たびたび批判を加えてきます。

 

 

 この画像は、西井長和氏が所蔵される天文4年(1535)の勧請神名帳の一部です。個人が所蔵していることからもわかるように、勧請神名帳は比較的広く流布していました。この画像を貼り付けて【1046】では、「西井長和の星田懐古誌と馬部隆弘氏の由緒・偽文書と地域社会449頁を時系列にすると、馬部氏が引いた西井所蔵1535年神名帳の交野大明神書き込みの年代をいつとするかによって三浦蘭阪1834年の交野大明神が初出にもなる。原本何処だろう?」とおっしゃいます。西井氏所蔵の勧請神名帳を引用して私は議論しているけれども、画像によると「交野大明神」は行間への書き込みなので、天文4年から時期が下る可能性もあるといいたいようです。

 【1054】でも「#馬部隆弘 氏の由緒・偽文書と地域社会の片山長三の弟・西井長和所蔵の天文四年(一五三五)奥書の神明帳の交野大明神=星田神社=河内国交野郡式内社片野神社説はこの通り本文に書き添えられた物で真贋不明ではないかしら」ともおっしゃっています。行間への書き込みなので、この情報は「真贋不明」らしいです。【2672】でも、「馬部氏が片埜神社は星田神社という根拠の、片山長三の弟・西井長和所蔵(現在行方不明)の天文四年(一五三五)奥書の神明帳の交野大明神は、ちょっと記載が小さすぎて、後から付け足したものに見えるけどどうなんだろう?」とおっしゃっています。

 西井氏ご所蔵のものは、数ある勧請神名帳のうちの一つに過ぎません。ですから、他の勧請神名帳と比較すれば、写し忘れがあったから後で行間に書き足したことは明白です。しつこいようですが、【2716】でも「馬部氏も引く1941年西井長和「星田懐古録」(1979)28頁「ここに掲げた写真は編者所蔵の天文四乙未年の奥書のある神明帳である。」と同様の指摘をしているので引用しておきます。何がいいたいのかというと、素人さんは上掲拙著の一文に付けている文末脚注を明らかに見落としているということです。その脚注には、次のように史料の典拠を明記しています。

「恒例修正月勧請神名帳」・「花鎮奉読神名帳」(三橋健『国内神名帳の研究』資料編、おうふう、一九九九年)。勧請神名帳については、三橋健「研究の意義、方法及び範囲」(同『国内神名帳の研究』論考編、おうふう、一九九九年)。

 このように、私は西井さんのご著書も引用していませんし、ましてや西井さんご所蔵の勧請神名帳も引用していません。私が引用している勧請神名帳には、行間ではなく本文にしっかり「交野大明神」と記されています。

 最近になって素人さんたちは、勧請神名帳が西井さんご所蔵の一点物というわけではなく、世の中に流布しているものだとようやく気付いたようです。すると、あの手この手で主張を変えてきます。【2718】では「河内国の観心寺恒例修正月勸請神名帳」「は馬部隆弘氏が引いた西井長和「星田懐古録」(1979)28頁の神名帳とほぼ同じ。馬部氏はこれを式内社が並べられた神名帳と勘違いされたのでは?」とおっしゃっています。勧請神名帳に並ぶ神社名と延喜式神名帳に並ぶ式内社が完全に一致しないことは、「片野神社」から「交野大明神」へと呼称が変化しているように、私だって把握しています。このように中世的な変化を遂げつつも、式内社の痕跡を残したものが勧請神名帳なのです。こうした私の理解は、上掲の拙著の一文を読んでいただければわかるかと思います。むしろ、「勘違い」をしているのは、勧請神名帳が世の中に流布していることを知ってもなお、私が西井さんご所蔵の勧請神名帳を引用していると主張する素人さんですよね。

 【2731】でも「河内国の観心寺恒例修正月勸請神名帳」「は式内社を列挙したわけじゃない。」とおっしゃいますが、そんなことは百も承知です。さらに別の素人さんが【2741】で、「馬部さんは「式内社」が列挙された神名帳だと思ってたのね、「交野大明神」が掲載された、河内國の歓心寺の正月の勧請の神名帳を。それで星田神社が式内社片野神社だと思い、片埜神社を攻撃した。」とおっしゃいます。しれっと、西井さんのものから観心寺の勧請神名帳にすりかえたうえで、これは式内社を列挙したものではないという主張に重点を移すわけです。連携プレーを駆使しながら、必死になって主張を軌道修正している様子が伝わってきます。

 他の研究者はどうかわかりませんが、私の場合は「はじめに」と「おわりに」と脚注をみたうえで論文を読み始めます。主張点とともに、どのような素材を扱っているのかをあらかじめ把握しておくと、手っ取り早く理解ができるからです。ゼミ発表の様子をみていると、脚注をしっかりみていない人がいるようですが、実は脚注も論文のなかの重要な要素であることを理解していただけたかと思います。

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くずし字は読めたほうがよい

 活字史料が充実している分野では、くずし字を読む機会は少ないです。とはいっても、くずし字の読解はやはり日本史を研究するうえでの基礎技能なので、できるだけ身につけておいたほうが無難です。今回は、簡単なくずし字すら読めない素人さんが実際におかしてしまった過ちを、反面教師として紹介します。

 大阪府交野市にある機物神社は、七夕伝説の織姫を祀る神社となりつつありますが、これは近世中期に始まる由緒が徐々に拡大していった結果です。そのことを示すため、私は『由緒・偽文書と地域社会』253頁で、近世前期の機物神社について次のように指摘しました。

機物神社の初見史料は延宝七年(一六七九)の『河内鑑名所記』で、そこでは「はたほこ大明神」とされる。『日本国語大辞典』(小学館)によると、はたほこ(幢)とは、「小旗を上部につけたほこ。または、ほこを上部につけた旗竿」で「朝儀や法会の儀仗として用いる」ものである。このように、本来は織女との関係性を窺わせる神社ではなかった。

 この私の指摘に対しても、素人さんらしい意見が次々に提示されています。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200709.pdf

 例えば【598】では、「はたほこの旗は「織物」だから、天棚機比売大神が祭神でも何も矛盾がない」とおっしゃいます。素人さんの思い込みの激しさはもうおわかりでしょうが、こういうのを拡大解釈や屁理屈といいます。ホコの先に織物がぶら下がっているから、織姫を祀っているはずだというのは短絡的に過ぎます。素人さんは、物干し竿にタオルがぶら下がっているだけで、織姫を思い出すのでしょうか。

 当初は、ホコの先に織物がぶら下がっていると述べていましたが、【1179】になると「はたほこもまた「織物」」とさらに解釈が拡大します。そして【1924】でも「機織神社の件も馬部隆弘氏の指摘は変で、彼の言う通り「はたほこ」ならそれも織物です」、【1927】でも「機織神社の件も馬部隆弘氏の指摘は変だと思う。彼の言う通り「はたほこ」ならそれも「織物」の一種だし」と、拡大解釈は留まることを知りません。

 日本語の構造からして、ハタホコはハタの付いたホコです。ホコの付いたハタではありません。チョコバナナはバナナの付いたチョコではなく、チョコの付いたバナナです。チョコバナナはスーパーのお菓子売り場とは無縁の存在だと述べたところ、チョコバナナはチョコの一種だからそんなはずはないと批判しているようなものです。

 素人さんの進撃はさらに続きます。刊本の『河内鑑名所記』には、次の図版のように、右上隅の枠内に変体仮名を用いて「はたほこ大明神」と記されています。

 

 それに対して素人さんは、『河内鑑名所記』の原本にあたる次の図版を掲げます。

 

 これを貼り付けたうえで、【786】で「馬部隆弘氏は機物神社は昔ははたほこ(憧)で、織女や七夕と無関係と書いたけど、原作者直筆の河内鑑名所記に貼られた絵にはこの絵」「の様に枠内の神社名や村名が無」いと述べます。たしかに刊本で「はたほこ大明神」と記されているところが、原本では空白となっています。これは、もしかしたら鋭い指摘かもしれません。

 しばらくのちの【1924】でも、同じ図版を引用して「河内名所鑑の初版の図画の現代語訳が出版されていますが、はたほこも何も描いてない」とおっしゃいます。「原作者直筆」から「初版」に変わっていますが、引用されているのは刊本のもとになった原本なので「初版」ではないです。【1925】でも「初版にはないんですよね。機物神社に「はたほこと書いてあったとしても、絵師が後から描き足したものなので記録とまではいえない」、【1927】でも「そもそも初版には「はたほこ」の文字は無い。「はたほこ」は絵師が後から付け足した」とおっしゃいます。

 要するに、三田浄久が執筆した原本には「はたほこ」が記されておらず、刊本を作成した際に絵師か彫師が追加で入れたわけなので、記録たりえないというのが素人さんのもう一つの主張のようです。最近では、【2955】で「初版に無いなら挿絵の絵師の誤記をまず疑うのが普通では?」、【2957】で「後の絵師のミスプリだと思う」と私の研究姿勢まで批判します。だったら、「はたほこ」は織姫を意味するというさっきまでの議論は、いったいなんだったのかとなってしまいます。結局のところ、ただ単に私の説にいちゃもんをつけたいだけなんでしょう。

 では、素人さんが引用する原本の図版上端をみてください。素人さんがトリミングしているため全文は読めませんが、何か文字があります。トリミング前の原本にあたってみると、「はたほこ大明神 此上けんしの滝」と記されていました。枠内に書き込みがあると作画の邪魔になるため、三田浄久は原本では表題を枠外に記しているんです。『河内鑑名所記』に掲載される他の挿絵も、ほとんどはそうなっています。

 素人さんのことなんで、これすらも他者が後世に書き込んだものとおっしゃるかもしれません。そこで注目されるのが、表題の左側に追筆で「二合」と記していることです。この書き入れも、ほとんどの挿絵にみられます。そのほか、原本のページによっては、時折「未不合」や「いまた不合」との記述もみられます。これらは、できあがった刊本の原版と原本を校合した際に、三田浄久が記した「チェック済」を意味するメモでしょう。初校段階では、問題がある部分のみに「未不合」や「いまた不合」と記し、再校段階で校了に近い意味で「二合」と記していったものと考えられます。挿絵に関していえば、原本の枠外に記された表題が、挿絵のなかに正しく反映されているかどうかも確認事項となったはずです。したがって、枠外の表題は原本作成当初から三田浄久が記していたものと考えられます。これでも「はたほこ」は記録たりえないといえるでしょうか。

 通常であれば、肝心の情報をトリミングして消去したうえで、他者を批判するというのは明らかな不正です。しかし、消去しているとはいえ、「○た○こ○明神」と読むことは可能です。つまり、悪意をもって消したわけではなさそうです。ということは、この程度のくずし字も読めないのに、プロの研究者を批判していることになります。とても恥ずかしいですね。

 せっかく歴史を学ぶのですから、簡単なくずし字くらいは読めたほうが、このような恥もかかずに済むと思います。

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データ分析の方法

 以前、このブログで、素人さんの行動パターンから時期区分を試みました。そのなかの最末期が第10期で、現在進行形で進んでいます。2020年5月25日の64ツイートをピークに、翌26日以降ツイート数が一気に減少するので、この安定期をひとまず第10期と措定しました。

 ここまでのブログでは、どちらかというと活動期の素人さんに注目しがちでした。歴史の研究は、このように関心のある時期ばかりに焦点をあててしまうという問題に陥りがちです。それでは、主観的で独善的な分析になってしまう可能性が高いです。みなさんも気をつけておいてください。

 ということで、せっかく安定期に入ったので、ここ一ヶ月あまりはこれまで手をつけていなかった安定期のデータ分析を進めていました。このように、時期区分をして全体を俯瞰的にみていれば、視線の偏りに気付きやすいという利点もあります。

 いろいろな分析をしてみたのですが、ここでは一番わかりやすい事例を紹介しておきます。一日あたりのツイート数についてデータを整理したところ、ある特徴に気がつきました。どうやら、ツイート数の増減に一定の周期があるようなのです。そこで、グラフにしてみると次のような結果を得ることができました。

 このグラフをみてもわかるように、安定期に入った5月26日以降、おおむね5日に1回ピークを迎えるような周波を描くのです。その理由については、まだ確実なことはいえませんが、おそらく忘れた頃にツイートしないと気が済まないのだと思われます。逆にいえば、まわりから何か刺激を受けないと忘れてしまうということです。第6期には、素人さんたちによる私への批判が半年近く途絶えていましたが、現在はそのころと違い、連日のように椿井文書の話題がツイッター上に登場します。この差が結果に出ているものと思われます。

 ここ最近は、データも蓄積されたので、あらかじめ一日あたりのツイート数を予測すると、おおむね当たるようにもなっていました。ところが、想定外のことが起こってしまいました。6月末に素人さんとは別の方が私の勤務先ホームページでの対談をツイッターで引用し、それが拡散したために、またもや火が付いてしまったのです。これで、実験は振り出しに戻ってしまいました。

 しかし、これはこれで別の分析を始めないとなりません。インパクトを与えると支離滅裂になってしまうという例の特徴の分析です。その仮説を裏付ける事例はたくさん出てきましたが、3例ほどに絞ってあげておきます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200706.pdf

・事例1
 以前もこのブログで、「太閤検地南河内の奉加帳云々という記録」という謎の史料を素人さんが想像で創り出した話をしました。それがさらに飛躍して、【3025】では「伝博士王仁墓も今確認されている中で最も古い記録である『当郷旧跡名所誌』(津田史,1957)にあるように、太閤検地の際に南河内の奉加帳に書いてあった云々だから、正確には枚方市ではなく南河内の伝承」になりました。

・事例2
 以前もこのブログで取り上げたように、素人さんたちは『ヒストリア』に掲載された拙稿の文章を画像にして貼り付けたうえで、査読をうけていない、史料を改竄していると私をたびたび批判しています。【3163】では、改めてその画像を貼り付けたうえで「馬部隆弘氏が引用した文章は引用元の『津田史』片山長三,1957には無かったので、津田村との裁判記録を穂谷村が椿井政隆へ頼んで贋作させたという説は成立出来ない。この論文が掲載された「史敏」は大阪大学の馬部隆弘氏達が立ち上げたもの。」とおっしゃっています。『ヒストリア』を引用して『史敏』の話をされても困ります。

・事例3
 以前もこのブログで、利用申請もせずにツイッターに史料の画像をあげてしまうという非常識な素人さんたちの行動を紹介しました。【1125】で「「椿井家古書目録」は国立民俗博物館で拝見し現物の複写も所有しています」とおっしゃっていたので、いつかやるかもしれないと心配していましたが、【3177】で「椿井家古書目録」の画像を貼り付けています。利用手続きの方法については、国立歴史民俗博物館のホームページを参照したほうがよいでしょうね。

 今回は、データ分析の事例を紹介しました。データを集めれば集めるほど、確度の高い予測ができるようになるというのがわかっていただけたでしょうか。

 そして、明日は年に一度の七夕です。例年のことですが、大荒れになることが予想されます。

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論文の読み方

 素人さんたちは、【986】で「「朱智」と付いたら #椿井文書 の根拠は、古い記録には無く新しい記録にあるのはフェイクだからというシンプルなものだけど、それって歴史学的に正しいの?」と私につっこみを入れます。おそらくこれは、「まず間違いなくいえるのは、「朱智」という文言が入ったら椿井文書ということである」(拙著『由緒・偽文書と地域社会』328頁)という一文に対する提言です。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200705.pdf

 そのうえで、ネットで必死に検索して、【2107】にあるように、「もと朱智明神・白髭大明神と稱す」という「須智荒木神社」の存在を見つけ出します。そして、【2106】で「馬部隆弘氏は「朱智」があれば #椿井文書 という。ならば伊賀市の須智荒木神社も椿井文書になる」というのです。

 前掲した拙著の一文は、「三 南山郷士関係の椿井文書」という節のなかの「2 寺社縁起と著名人発給文書」という項の冒頭に記したものです。つまり、南山城地域に残る寺社縁起などから、椿井文書を拾い出すための手法として提示したわけです。素人さんは、ここまで読み進めて節のタイトルを忘却してしまったのでしょう。私のゼミでは、発表者に論文を要約したレジュメを作成してもらっていますが、発表者以外も論文を読み進めていくなかで、いま自分がどこにいるのか見失わないように、あらかじめ章・節・項などのタイトルを抜き書きした簡単な目次を手元に置いて読むことをおすすめします。

 なお、【1796】では、「中国語圏の検索サイトではお名前で「朱智」さんが出てきますね。それは考慮外でいいのかしら?」などと、さらには海外まで飛躍してくれます。ここまでくるとお手上げです。素人さんは【1006】で「うちは馬部さんの飛躍の方が大きいと思う」、【3143】でも「飛躍が多すぎて。立証できてないかもと思いました」とおっしゃいますが、見解に距離が生じているのは私が飛躍しているからではなく、ご自身があらぬ方向に飛躍しているからだということに気付いていないようです。

 私の議論では、古代の「延喜式神名帳」に登場する綴喜郡内の「朱智神社」が、早い段階で所在がわからなくなっていたということをまず証明しています。そのうえで、椿井政隆は綴喜郡天王村にある牛頭天王社こそが、かつては朱智神社であったとみせかけるような偽文書を量産したと指摘しました。よって、南山城地域の寺社縁起などに「朱智」の文言が入れば、椿井文書だと説明したわけです。

 この説明について、【2272】では、「延喜式の朱智(スチノ)神社は山代國旧綴喜郡(京田辺市・八幡市他)の範囲の何処かには存在していた」とおっしゃっているので、どうやら前半部分には納得しているようです。と安心したところに、【2266】では「延喜式に山代國綴喜郡(京田辺市・八幡市他)式内社・朱智(スチノ)神社は出てくるから、馬部氏の定義だと延喜式が偽文書になってしまう」などとおっしゃるので、目が点になってしまいます。

 批判精神は大事ですが、何でもかんでも批判するのではなく、合理性がそこに伴っていなければなりません。どこかの一文を抜き取って、説明不足だと批判しても、実は同じ論文の別の部分ですでに説明済みということもあるかもしれません。繰り返しになりますが、まずは章立てを抜き書きして、だいたいどういう論理展開で説明するのか全体的な構造を把握して読み進めると、そういうミスも少なくなると思います。

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史料の扱い

 発言の前提として知っておくべきことを素人さんたちはことごとく見落としているため、みているこっちまで思わず赤面してしまいます。その様子は度々みてきましたが、今回も一例をあげておきましょう。【3105】では、「田中教忠(1838-1934)の収集品に「椿井家古書目録」があったのだけれど、椿井政隆につながるのは「椿井」という苗字だけで作者不明。なぜ馬部隆弘氏はこれを椿井政隆とつなげたのかがわからない」とおっしゃいますが、「椿井家古書目録」のなかには「広雄見聞雑輯録」なども入っています。「広雄」は椿井政隆の通称です。

 ここから学ぶべきは、議論に必要な史料は、網羅的に目を通したうえで発言すべきということです。とはいえ、作業量が膨大になればなるほど、史料収集には見落としがつきものです。ですから、恥をかかないように何度も見直しをすることも必要です。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200704.pdf

 私も公言するからには、上掲史料編の網羅を前提としていますが、やはり人間ですので時折見落としや写し忘れもあります。そういったものは、補遺として補充するよう心掛けています。例えば、【22】と【23】の間に見落としがあれば、【補遺22a】のように補充しています。複数あれば、【補遺22b】【補遺22c】のように追加しています。

 今回は、3ヶ月ほど前に素人さんのツイートをみていて、ショックをうけたある明治時代の史料の画像について紹介しようと思っていました。ところが、上掲史料編のどのツイートに貼り付けられていたのか、さっぱり思い出せません。そこで見直しをしたところ、コピペ忘れが発覚しました。

 それが、【補遺1163a】の「明治四十四年五月一日 氏地津田村大字津田住人 三宅源治郎正隆誌(印鑑)」郷社三之宮神社古文書傳来之記(108頁, #椿井文書 馬部隆弘,中公論新社,2020)のコピー。他にもこの印鑑が押された三宅源治郎正隆の文書は存在するのだろうか?」というツイートです。ここに画像が貼り付けられている「郷社三之宮神社古文書傳来之記」という史料は、三宅さんという個人が所有される文書群に含まれます。事情があって、その画像はここには貼り付けませんが、かつて私も枚方市の職員として史料閲覧の対応をしていましたので、この画像がツイートに貼り付けられるまでの経緯はおよその察しがつきます。ですので、今回はこの事例を素材にして、史料閲覧から利用までの流れについて説明しておきます。卒論執筆にあたって史料を閲覧する人にとっては、ここから気をつけるべき点をいくつか学べるはずです。

 素人さんたちも【1603】で「古文書は究極の個人情報」、【2053】で「古文書なんてみせるもんじゃないと思う。究極のプライバシーだし」などとおっしゃるように、特に近世以降の比較的新しい時代の古文書は、現在もまだそこにお住まいの方の個人情報も含まれるため、扱いに慎重となる必要があります。【774】でも、「彼らって古文書みれるから、いわば究極の個人情報入手可能者で。その人達の倫理観がその程度って、かなり怖い」とおっしゃるように、近世以降の研究をするには個人情報への配慮という倫理が求められるのです。

 さて、「郷社三之宮神社古文書傳来之記」について、【1096】では「日本史学界では今現在原本閲覧不可の1911年津田村・三宅源治郎正隆が書いた文書-大学院時代に馬部隆俊氏が発見した-に記載された1895年木津村今井家で文書を買った際にそこで見た近畿圏の古文書は椿井政隆の #椿井文書 という伝聞記録を、誰か査読したり原本を確認されたりしたのですか?」とおっしゃいます。この史料の内容を疑っているようですが、信用に足ることは以前もこのブログで述べました。ですので、この点については再論しません。

 また、私がこの史料を「発見」したという説明が、【1914・1916・1918・2551・2552・2628・3072】などでもなされますが、それが事実誤認であることも併せてすでに述べた通りです。この史料は、昭和40年代に始まる枚方市史編纂の過程で見出されており、マイクロフィルムで撮影ののち、返却されています。私はこの史料の現物は閲覧しておらず、枚方市の市史資料室に架蔵される写真帳にて閲覧しました。

 どうして私が「発見」したことにしたいのかというと、【1132】で「馬部隆弘氏が大学院生時代に枚方市で勤務してみつけた、原本閲覧不可能な1911年三宅源治郎が書いた「郷社三之宮神社古文書伝来之記」。複写は枚方市立図書館で馬部氏が保管したという。」とおっしゃっていることからおよその推測が付きます。さきほど引用した【1096】と併せて考えるならば、原本は私しか見ていないので、そんなもの信用できないといいたいようです。

 その点は、【733】で「本当に津田村の三宅源治郎正隆著の「郷社三之宮神社古文書伝来之記家」が実在するのならば、だけど。他の歴史学者は誰も目にしたことがないはず。」とおっしゃっていることからも明白です。ここでは、私が捏造したといいたいようです。そうかと思えば、【737】の「三宅さんをそうやって脅して、古文書を公開できないようにしているそうですね。」 ともおっしゃいます。私は、どこまでひどい奴なんでしょうか。

 多くの市役所や博物館では、地域の貴重な歴史資料を守るため、個人所有の古文書を撮影して記録に残しています。また、研究目的の人に便宜を図るため、写真帳などにして閲覧対応しています。

 それらは個人がお持ちの情報なので、利用するにあたって、原則として所蔵者の許可が必要です。その一方で研究するにあたっては、膨大な量の史料を処理する必要があるので、それらをメモするたびに、逐一所蔵者の許可を得ていては非常に煩雑になります。そのため、研究目的でのメモ程度の複写については、現場の判断で対応しています。その後、実際に論文や発表などで利用する段階になったときに、文書で所蔵者の正式な利用許諾を得るというかたちをとっている機関が多いです。

 ですから、【2592】で「古文書や家系図を「善意」で閲覧許可したら、延々と書籍の中で祖先を捏造者と書き続けられることになっている」とおっしゃいますが、そのようなことはありません。利用する段階になって、何に利用するかを説明したうえで許可をいただきます。私も三宅さんからそうして許可をいただきました。先に「閲覧許可」をもらっておいて、あとは好き放題書くなんてことはありません。

 注意すべきは、このやりかたではメモ程度の複写物の管理について、その人の研究者倫理に委ねるしかないということです。もちろん研究者も、倫理にもとる行為をしてしまって、その噂が広まってしまえば、この業界で生きづらくなるのでルールはきっちり守ります。例えば、不動産業者など明らかな営利目的で利用を申請してくることもありますが、その場合は所蔵者に確認をとります。しかし、研究目的ですと主張されると、市役所としては、それを否定することはなかなかできません。

 また利用申請にあたって、著書や論文などではなく、ホームページなどネット上への掲載を希望する場合は、許可を得ていない人が際限なく利用してしまうし、それこそ個人情報が拡散してしまうので、少なくとも私が担当していたときは拒否していました。どうしても使いたいという場合は、念のために所蔵者に確認していましたが、通常は拒否されます。研究目的と主張しながらも、明らかに研究者とはみえない人に対しては、ネットにあげたり他者に渡したりしないようにしっかり注意していました。

 ここまでの説明で、私が何をいいたいのか、だいたいおわかりいただけたかと思います。素人さんたちは、史料が個人情報の塊とわかっていながら、所蔵者の許可なくツイッター上に公開しているのです。そんな人たちに、私は研究者倫理がないといわれているのですが、素人さんたちのいう研究者倫理とはいったい何なのか理解に苦しみます。

 みなさんも、近世以降の史料は個人情報の塊であることや、所蔵者のご理解があってそれらが利用できるということを、しっかり念頭に置いて研究を進めてください。あと枚方市は、個人情報保護の観点からも、素人さんに対して警告するべきだと思います。【1597】で「令和元年5月に」「私が枚方市立図書館を訪問した」とおっしゃっているので、そのときの閲覧申請をまずは確認してください。

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続 伝承と学説

 前回は、古い文献に記されているからといって、必ずしもそれがそのときに伝承されているわけでないという話をしました。今回は、そういうものを伝承と呼んでしまうと、いったいどのような問題が生じるのか、具体的な事例をみてみたいと思います。

 枚方市のホームページのうち「七夕伝説ゆかりのまち・枚方市」というページには、次のような文章がみられます。

天野川流域の枚方市と交野市の一帯は、かつて「交野ヶ原」と呼ばれ、桜の名所として、また平安貴族の狩り場として知られていました。当時の貴族は、天野川の川砂が白く光って見えることから、天上の天の川になぞらえ、「七夕」を題材にした数多くの歌が詠まれました。「伊勢物語」には「狩り暮らし棚機津女(たなばたつめ)に宿借らむ、天の河原に我は来にけり」と、在原業平がこの地を訪れた際に詠んだ歌が収められています。また、「七夕」にまつわる地名や名所が数々見られ、今でも枚方・交野には、彦星と織姫の「七夕伝説」が継承されています。

枚方市では、地域資源である「七夕」を市内外に広く発信するため、「七夕伝説ゆかりのまち・枚方市」のPRや郷土愛の醸成に向けたさまざまな取り組みを進めていきます。

 北河内には「七夕伝説」が継承されているらしいです。そして、その伝承を「地域資源」と捉えてPRするとともに、これに基づいた郷土愛を醸成しようと枚方市は取り組んでいるようです。

 細かい指摘をさせてもらうと、『由緒・偽文書と地域社会』443頁などで述べているように、「交野ヶ原」は交野郡の北部なので交野市域は含まれません。「「七夕」にまつわる地名や名所」が、比較的最近になって次から次に創られた経過は、『由緒・偽文書と地域社会』255頁で述べています。在原業平の歌については、同じく『由緒・偽文書と地域社会』272頁で次のように指摘しました。

酒宴を開こうと、惟喬親王一行は天野川の畔にたどりついた。ここで惟喬親王が天の川をテーマに歌を詠むよう指示すると、在原業平は眼前の天野川を天上の天の川になぞらえて歌を詠んだ。これをいたく気に入った惟喬親王は、返歌に困るほどであった。つまり、業平は惟喬親王の及びもつかぬ機転を利かせて歌を詠んだのである。これは地上の天野川が天上の天の川とは全く結びつかなかったことを示している。もし、地上の天野川に七夕伝説があれば、業平の歌は非常に平凡で、短絡的な歌である。『伊勢物語』の作者が業平をそのような凡才として描いていないことは周知の事実である。

 このように、業平の歌は平安時代にこの地に七夕伝説がなかったことを示しています。そして上掲の文章に続けて、次のように述べました。

その後も、紀行文などに天野川はしばしば散見する。『伊勢物語』と重ね合わせながら叙述するのは紀行文の常套手段であり、天野川にさしかかれば『伊勢物語』の世界を踏まえながら七夕を歌枕にした一首が詠まれることが多い。したがって、紀行文や和歌では七夕と天野川が常にセットで登場するが、それをもって地元に七夕伝説が存在したとすることはできない。

 ですので、私は七夕伝説の有無を論じるうえで、七夕に関する文献を逐一丁寧にあげる必要はないと判断しました。

 ところがそれは、素人目には揚げ足取りのチャンスにみえてしまうようです。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200702.pdf

 素人さんは【264】で、「天野川水源が貝原益軒が書いた田原の里「此谷のおくに、星の森有。星の社あり。其神は牽牛織女也」「馬部隆弘先生否定の七夕伝承はあるよ」と指摘しています。このように、私が引用していない貝原益軒の『南遊紀行』をとりあげて、七夕伝承の存在を主張するのです。

 さらに【346】では、「中山観音寺跡の牛石(長山長三氏の云う牽牛石)は牽牛星だけど、交野市の古地図にある牽牛は場所的にかなり近い」と、これまた私が引用していない「金丸又左衛門役地絵図」を取り上げます。この絵図では、東高野街道の南側にあたる星田村の星田神社部分に「牽牛」と記しています。ところが素人さんは、東高野街道の北側にあたる茄子作村の中山観音寺跡と「古地図にある牽牛は場所的にかなり近い」と述べます。この事例は、街道の右と左の違いもわからない素人さんの地理感覚を紹介する際に、以前もこのブログでとりあげました。

 そして【1235】~【1238】では、立て続けに次のように指摘します。「専門家から見て、馬部隆弘氏がかつて10年間勤務していた地域の伝承は、他の地域の伝承とは違い全て観光目的の詐欺的行為であったと学問的に結論可能?」「現在生きている枚方市民がお願いして、伊勢物語の在原業平の御伴が、枚方市の天の川のほとりで、たなばたつめの歌を詠んでいただいたわけではないし、枚方市民がお願いして川の名前を天の川とつけていただいたわけでもないし、」「枚方市民がお願いして17世紀の古地図に「牽牛」と書いてもらったわけでもないし」「枚方市民がお願いして貝原益軒の南遊紀行に「星の森有。星の社あり。其神は牽牛織女也」と書かれた田原の里の天の川を枚方市に流してもらったわけでもない」

 さまざまな伝承があるとおっしゃりたいのでしょうが、これらは伝承ではありません。広い意味で学説です。それを「伝承」や「伝説」だと称してPRすることは、素人さんのおっしゃる「観光目的の詐欺的行為」にあたるかもしれません。ただし、このような汚い言葉が適切かどうかはまた別の問題です。広い意味での学説については、『由緒・偽文書と地域社会』272頁の続きの文章で次の一言で表現しました。

地元で七夕が意識され始めるのは、近世の在村知識人が『伊勢物語』を認識しはじめた頃である。

 それまでは、主として京都にいる上流階級のなかだけで『伊勢物語』が共有されていましたが、江戸時代になると、北河内の村役人層までその裾野が広まります。ここで初めて地元でも七夕が意識されはじめます。注意したいのは、村落全体にそれが及んで七夕にまつわる伝承や習俗を生んでいるわけではないということです。つまり、伝承としての七夕ではなく、知識としての七夕が地元の知識人層に限定して広まっているのです。七夕に関する記述があるから、それが記されたときに七夕に関する伝承があるというのは、短絡的な発想といえます。

 素人さんたちが提示してくれた文献を並べると、その点はより明確となります。そこで、それぞれが記す織女と牽牛の所在を下記に整理しておきます。

・元禄2年(1689)『南遊紀行』織女:田原谷の奥/牽牛:田原谷の奥
・元禄6年(1693)「金丸又左衛門役地絵図」織女:倉治村機物神社/牽牛:星田村星田神社
・享保20年(1735)『五畿内志』織女:倉治村機物神社/牽牛なし
・享和元年(1801)『河内名所図会』織女:星田村妙見宮/牽牛なし
・昭和34年(1959)『石鏃』14号 織女:倉治村機物神社/牽牛:茄子作村中山観音寺

 本当に脈々とした伝承があったならば、こんなに二転三転するわけがありません。当時の知識人の、その場、その場での思いつきに近い学説だから、これだけ差異が生じるわけです。

 事実関係がわからない場合、「○○という史実がある」と言ってしまうと嘘になりますが、「○○という伝承がある」ならば許されるような気になってしまいます。前々回の話を踏まえるならば、学術的な意味ではなく、『広辞苑』での①の意味にあたる「伝え聞くこと。人づてに聞くこと」を採用して、「言われていることは事実」という言い訳ができるからです。

 しかし、いったん伝承があると公的かつ大々的に言い始めた以上、そう簡単には引き下がることはできれません。なぜなら、素人さんのように、枚方市の政策にどっぷり巻き込まれた被害者も大勢いるからです。つまり、枚方市は、今後発言を正しても批判され、正さなくても批判されるという窮地に追い込まれたわけです。しかも、ホームページをみても明らかなように自ら蒔いた種なので、言い逃れのしようもありません。伝承ではないものを伝承としてしまうと、最終的にはこのように八方塞がりとなってしまいます。

 では、この問題のそもそもの原因はどこにあったのでしょうか。おそらくそれは、伝承を大事にしているという姿勢をみせつつも、伝承は史実でなくともよいからどんな話でも盛り込めるという、伝承の資料的価値を軽んじている見方に起因しているはずです。伝承には資料的価値があるからこそ、その扱いには慎重になるべきなのです。みなさんも、伝承という言葉を慎重に使うだけでなく、公的機関が安易に伝承と称しているのを耳にしたときは、疑う姿勢を持っておいたほうがよいと思います。

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伝承と学説

 前回は、学説が広まることは伝承とはいわないという、極めて当たり前のことを述べました。前回も引用しましたが、素人さんは【1559】で「1733年「五畿内志」の学説からの影響だと何代かに渡ってるけど、馬部隆弘氏は伝承ではな」いとする私の考えを代弁してくださっています。前回はこの点に深く触れなかったので、今回はどれだけ古くても、学説は伝承ではないということを補足説明しておきます。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200627.pdf

 並河誠所は、享保20年(1735)に刊行が始まる『五畿内志』のなかで、枚方市藤阪に所在する歯痛に効き目のある「オニ」の墓という自然石を紹介しています。そして、地元の住民は「オニ」の墓と誤った訛りで呼んでいるが、これは漢字を日本に伝えた「王仁」の墓だと指摘しました。この関係から、歯痛に効くオニの墓という伝承の存在が読み取れるとともに、王仁の墓というのは学説ということもわかります。

 それから約1世紀のちに、椿井政隆は並河誠所があたかもみたかのような「王仁墳廟来朝紀」なる椿井文書を創作します。著名な『五畿内志』の典拠を装うことで、「王仁墳廟来朝紀」の信憑性を確保しようとするのです。また、『五畿内志』の学説は危ういとすでに当時から指摘されていましたので、こうすることによって『五畿内志』の学説には根拠があることも示せます。このように、私が王仁墓に着目した目的は、『五畿内志』と椿井文書の相互関係を説明することにありました。

 ですから、王仁墓の学説がどのような変遷をたどっているのかという点については、脚注のなかで必要最小限しか触れていません。具体的には、『由緒・偽文書と地域社会』に所収される「椿井文書の基礎的考察」という論文の註(44)にあげた2例のみです。一つは、「当郷旧跡名勝誌」という史料のなかにみえる「寛文九年(一六六九)にすでに王仁墓説がある」という情報です。もう一つは、「元禄一一年(一六九八)の題辞を持つ「本朝学原浪華鈔」」の情報です。前者はこの学説の初見事例として、後者は並河誠所がもっとも目にした可能性が高い文献としてあげておきました。

 すると素人さんは【1820】で、「『王仁墳廟来朝紀』の内容は貝原好古の『八幡宮本紀』や松下見林『本朝学原浪華鈔』や石橋直之『泉州志』にも書いてあるのになぜそれらは引用しなかったのか?」と指摘します。どうやら、元禄2年(1689)の『八幡宮本紀』を引用していないのが気に食わないみたいですが、議論するうえで不要な情報だからです。「本朝学原浪華鈔」については、引用していないことにして「隠蔽している」と指摘する例の手法なのか、単純に見落としているのか、その真意はよくわかりません。

 さらに【1305】では、「なぜ馬部隆弘氏は「当郷旧跡名勝誌」の「御墓谷の中宮百済王の墓」は書かないの?」、【1703】でも「馬部隆弘氏は伏せてるけど五畿内志以前の『当郷旧跡名所誌(1682)』に百済王墓と書いてある」という指摘がなされます。【1719】でも、これらのことを「引用も考察もしてない」とおっしゃいますが、「当郷旧跡名勝誌」は上述のように引用しています。また、「当郷旧跡名勝誌」の史料的性格については、素人さんたちは未読のようですが、「城郭由緒の形成と山論」という『由緒・偽文書と地域社会』にも所収している論文で分析しています。

 そこでも述べたように、津田山をめぐる山論にあたって、津田村は自らの主張を通すためにさまざまな由緒を創作していました。「当郷旧跡名勝誌」は、それらを盛り込んだかなり危うい史料です。ですから、文中にある「古老ノ伝説」もどこまでが実際のものなのか疑う必要も多分にあります。そのため私は、素人さんたちのように「当郷旧跡名勝誌」の内容や作成年代を鵜呑みにはせず、さきほど引用した註(44)でも「実際にはもう少し時代が下る可能性はある」と指摘しています。

 たしかに、素人さんたちがおっしゃるように、「当郷旧跡名勝誌」の「御墓山之山」という項目には、現在伝王仁墓がある小字「御墓谷」の地について、「古老ノ伝説ニハ中宮村住居之百済王ノ御墓ト云ヘリ」と記されています。

 それとは別の「上ノ堂ノ事」の項目では、かつて津田村に存在した「上ノ堂」について次のように記しています。

太閤当国小山城御取立テノ時ニ、奉行小野木六助ト云人、此堂ヲコボチ用木トシマヒシヨリ、一宇モナク、クサムラシゲリ荒果テケリ、サレドモ人畜トモニ悪敷スレバタヽリ有リ、カヽル霊地ノ無下ニ失セ果ンコトナゲカワシトテ、御地頭地下人頭梁シ、寛文九乙酉暦ニ郡中令奉加、小庵ヲ結ビ、釈迦ノ木仏安置シケル也、此奉加帳ニ人王十六代応神天皇ノ御宇ニ、百済国ヨリ王仁来朝シテ中宮村ニ殿作リシ居住アリテ、此ノ上ノ堂ヲ建立有リ、逝去ノ時石ノ櫃ニ納メテ土入ス、御墓山是ナリト云ヘリ、何レノ記録ヨリ考ヘタルラン、イブカシ

 現代語訳するとこうなるかと思います。豊臣秀吉が南河内の小山城(藤井寺市)を築いたときに、奉行の小野木六助という人が上ノ堂を壊して材木として用いてしまって以来、建物はひとつもなくなり、草叢が茂って荒れ果ててしまった。けれども、人も畜生も悪くあたれば祟りがある。このような霊地を無下に失ってしまうことは嘆かわしいといって、当時の領主と百姓が取り仕切って、寛文9年に交野郡中で寄付を募り、小庵を建てて釈迦の木仏を安置した。その寄付を募ったときの「奉加帳」の巻頭言に、「応神天皇の時代に百済国より王仁がやってきて中宮村に御殿を造って居住し、津田村には上ノ堂を建立した。逝去したときに石の櫃に入れて土葬した。「御墓山」はこれだ」と記されている。どの記録より考えたのか疑わしい。

 このように「当郷旧跡名勝誌」では、中宮村を本拠とした百済王氏の初代として王仁を措定しています。そしてその王仁の墓と「中宮村住居之百済王ノ御墓」を同一視しています。ですから私は、さきほどから引用している註(44)のなかで「当郷旧跡名勝誌」の「中宮村住居之百済王ノ御墓」を王仁の墓と解釈しています。上掲の「何レノ記録ヨリ考ヘタルラン、イブカシ」の続きには、「御墓モ此時代ニハ、ミサヽキト申テナキ事也」との記述もありますが、これは明らかに応神天皇の時代には古墳であって墓石ではないという意味です。この点も註(44)に引用しているので、私が「中宮村住居之百済王ノ御墓」を王仁の墓と解釈していることは、読めばわかるはずです。「引用も考察もしてない」というのは完全に見落としで、考察しているからこそ「百済王」氏の墓とはしなかったのです。

 そのうえで、原文は確認できませんが、「当郷旧跡名勝誌」が引用する寛文9年(1669)の奉加帳を確認しうる王仁墓の初見事例と判断しました。そしてそれは、「何レノ記録ヨリ考ヘタルラン」と指摘されているように、伝承としてではなく学説として登場します。論文中ではあまり多くは語っていませんが、「当郷旧跡名勝誌」はしっかり分析しており、決してその存在を「伏せてる」わけではありません。

 おもしろいのは、素人さんたちの「当郷旧跡名勝誌」の解釈です。【1931】では、「『当郷旧跡名勝誌』の南河内の奉加帳に記録されていた??」とおっしゃいます。たしかに「小山城」は南河内に所在しますが、どこをどう読んだら南河内の奉加帳の話になるんでしょう。そして【1942】では、「#王仁 末裔氏族関連の社寺が南河内地方にあるけれど、これが『当郷旧跡名勝誌』の南河内の奉加帳の件のどこかなんだろうか?」とも述べます。南河内の王仁関連史跡と南河内の奉加帳という架空の史料の対比を始めるのです。さらに【1943】では、「『当郷旧跡名勝誌』は、」「御墓山の王仁埋葬地のお話では太閤検地で南河内の飛地か相続地と書いてるみたい」ともおっしゃいます。「太閤」の時代の「南河内」での築城の話が、どこをどう解釈したらそうなるのか全くわからないのですが、王仁埋葬地の飛地を検地した話になるのです。

 このあと奉加帳は、【2203】で「太閤検地の奉加帳」、【2365】でも「太閤検地南河内の奉加帳云々という記録」とみえるように、太閤検地関係の史料として確定してしまいます。さらにこの説を鵜呑みにした別の素人さんは、【2838】で「『当郷旧跡名所誌』(1682)で太閤検地時の博士王仁の墓について」「懐疑的な意見と同時に伝承を記録しているようです」とおっしゃっています。

 史料読解の能力が想像以上に低いレベルなので、どのような思考回路になっているのかよくわかりませんが、おそらくわかりそうな単語を所々拾い読みして、無理矢理くっつけて解釈したのでしょう。史料は一言一言丁寧に解釈しなければならないということを改めて教えてくれる好例といえます。そもそもの史料解釈が間違っていたら、そのうえの立論もすべて崩れ去ってしまいますので、みなさんも気をつけてください。

 素人さんたちは、以上のように王仁墓に関する言説を並べたうえで、「王仁墳廟来朝紀を椿井政隆作の贋作とみなしても、伝承内容は変わらない」という表題を付けた次の一覧表をわざわざ作成し、【2451】や【2777】などで度々引用して私を批判します。

 椿井文書が実際は新しいものだとしても、伝承内容は変わらないと言いたいようですが、素人さんはこの一覧表でも伝承と学説を混同しています。とはいえ、素人さんの指摘はある側面では当たっています。なぜなら、このなかで伝承といえるのは「オニ」の墓のみで、それ以外は学説なので、たしかに「伝承内容は変わらない」からです。もう少し補足するならば、「王仁墳廟来朝紀」は学説を「伝承」のごとく変換しているので、いい加減これを伝承として鵜呑みにするのはやめましょうね、というのが私の言いたいことなんです。

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