2010年6月19日
近代日本における討論史研究に関する予備的考察
日本コミュニケーション学会第40回年次大会
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- 記述言語
- 日本語
- 会議種別
- 口頭発表(一般)
- 主催者
- 日本コミュニケーション学会
- 開催地
- 明治大学駿河台校舎
本稿の目的は、近代日本の討論史研究の問題点と可能性について予備的考察を行うことにある。日本におけ る討論の史的研究は非常に手薄であり、一部の例外を除いて、研究時期も明治初期から 20 年代に偏っている。 そのため、福沢諭吉や慶應義塾社中によって日本に討論が導入され、自由民権運動が高揚する明治 10 年代に討 論活動は隆盛を迎え、国会開設後の明治 23 年以降に衰退するという見方が通説となっている。しかしながら、 こうした討論史観は、単線的かつ一面的な見方であり、実証研究に基づくものではない。
本稿では、既存の討論史研究の問題点を整理した後、明治中期から大正期にかけての討論史研究のあり方に ついて若干の提言を行う。まず、明治 20 年前後に全国各地で設立され始める青年会(後の青年団)での討論活 動に着目し、明治中期以降も討論が行われていたことを明らかにしていく。特筆すべきは、青年会・青年団に おける討論が、不特定多数の聴衆に対するアピールの手段ではなく、会員相互の知識交換や自己修養の手段と 捉えられていたことである。本稿では、当時の史料を読み解きながら、民権結社による討論会と青年会・青年 団における討論会の違いを論じていく。
次に、大正期における討論史研究のあり方を考察する。大正期は一般的には演説・討論の消失期と考えられ ているが、実際は、弁論部を中心に演説が流行し、雄弁熱が高まっていたことが井上義和の研究によって分か ってきている。本稿では、中央大学の辞達学会を例に取り、当時の弁論部では、演説だけでなく、擬国会など の討論活動も行われていたことを明らかにする。同時に、大正期には、労働者や婦人団体により討論会が開かれるなど、「実社会」でも討論が行われていたことも示していく。
最後に、既存の討論史研究の大半が、演説と討論を一括りに捉え、その結果として、演説研究の中に討論研
究を埋没させていることの問題を指摘し、本稿を締めくくる。
本稿では、既存の討論史研究の問題点を整理した後、明治中期から大正期にかけての討論史研究のあり方に ついて若干の提言を行う。まず、明治 20 年前後に全国各地で設立され始める青年会(後の青年団)での討論活 動に着目し、明治中期以降も討論が行われていたことを明らかにしていく。特筆すべきは、青年会・青年団に おける討論が、不特定多数の聴衆に対するアピールの手段ではなく、会員相互の知識交換や自己修養の手段と 捉えられていたことである。本稿では、当時の史料を読み解きながら、民権結社による討論会と青年会・青年 団における討論会の違いを論じていく。
次に、大正期における討論史研究のあり方を考察する。大正期は一般的には演説・討論の消失期と考えられ ているが、実際は、弁論部を中心に演説が流行し、雄弁熱が高まっていたことが井上義和の研究によって分か ってきている。本稿では、中央大学の辞達学会を例に取り、当時の弁論部では、演説だけでなく、擬国会など の討論活動も行われていたことを明らかにする。同時に、大正期には、労働者や婦人団体により討論会が開かれるなど、「実社会」でも討論が行われていたことも示していく。
最後に、既存の討論史研究の大半が、演説と討論を一括りに捉え、その結果として、演説研究の中に討論研
究を埋没させていることの問題を指摘し、本稿を締めくくる。