研究ブログ

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「スキマの小集落:中国貴州省石村の創造性」

「論文」欄に新作の情報を追加しました。

田原史起(2023)「スキマの小集落:中国貴州省石村の創造性」『農村計画学会誌』第42巻第3号、102-108頁、2023年(Fumiki Tahara, "Small hamlets in the "niche": Creativities of the Stone Village, Guizhou, Province, China,” Journal of Rural Planning, 42(3), pp. 102-108, 2023)。

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農村社会学リーディング・リスト更新

農村社会学リーディング・リストを1年半ぶりに更新しました(といっても、前のバージョン大きく増えたわけではないですが)。今学期のゼミも内部と外部の学部生、院性、研究者の方々を巻き込んで、多様なメンツで「農村社会の研究」を進めていきます。

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便利な村の落とし穴

 2006年に江西花村への訪問を始めたあたりで、筆者の農村根拠地開拓の基本的なパターンが確立されてきた。新しい研究拠点を開拓する必要があるとする。すると、まずは上海で大学教員をしている顔の広い詹さんを通じ、希望する地域出身の学生を紹介してもらう。詹さんは日本留学の経験があり、筆者とは大学院の同窓の関係にある。
 紹介してもらう学生は、理想的には大学院の修士課程くらいの院生が良い。なぜかというと、大学の学部生では研究がどういうものなのか、何の為にやるのか、社会調査がどういうものなのか知らない場合が多い。いっぽうで博士課程の院生だと逆に自分自身の研究スタイルが完成されすぎていて、こちらのやり方に合わせてくれない場合があるからだ。
 候補の学生が見つかると、研究協力の承諾を得たうえで、一緒に学生の出身地に行く。協力者の仕事は主に二つ。一つは現地につながる彼/彼女らの家族のネットワークを使用させてもらうこと。特に中国では、現地との「つながり」がないとそもそも調査自体が展開できないので、これは最重要。親戚に幹部がいたりして、有力な家族であればなお好都合である。もう一つは、現地で調査者と行動を共にし、特に「方言通訳」としても働いてもらうことだ。各地の農村で生活する人同士の方言、特に高齢の方の言葉を聞き取るのは至難の業である。
 協力者への謝礼として、一度の同行、10日間程度の村の調査につき5,000元を支払う。日本円にすると7万5000円ほどである。2022年の現在であれば、5,000元の価値ははかなり下がってしまっただろうが、10年前では学生さんに取ってはまずまずの報酬だったはずである。
 中国西南部、貴州省での根拠地探しもこうして始まった。まず、例によって華東師範大学の詹さんに、貴州出身の学生が周囲にいないかどうか尋ねてみた。大学院生では心当たりがないが、学部生なら一人いるという。隆艶さんという女子学生である。2010年8月、甘粛省「麦村の調査を終えたその足で、貴州省黔西南プイ族苗族自治州の中心都市、興義の実家に帰省中の彼女を初めて訪ねた。
 2010年の段階では「西部大開発」も深化して、貴州のような山岳地帯にも次々と高速道路が開通し始めていた。省都の貴陽から省西南端にある興義まで、高速バスを飛ばしてわずか5時間ほどで到着してしまう。
 まずは広範囲で調査の候補地となりそうな作業である。「根拠地」にふさわしい村を探す中で、貴州省貞豊県を訪れ、数泊した際のこと。研究協力者とその元クラスメートたち4人ほどで、ある村の実家に帰省中の医学部生を訪ねた。彼によると、この村では伝統的な農村の手工業として紙漉きが今でも続いており、地場産業として成り立っているという。興味深いので、紙漉きの現場を見学に出かけた。
 初めての調査地に行く際は、静かに、目立たないように行動するのが肝要である。だが、この時は村民が伝統的な石造りの水槽で手漉用の簀桁(すけた)を用いて作業をしているのに興味を惹かれ、不用意にも数枚、写真を撮ってしまった。また大学生のグループで目立ってしまったのもいけなかった。さらにまずいことに、その村出身の学生が、筆者が日本人であることを村民にベラベラと喋ってしまった。
 急速な展開で、村に着いてわずか30分ほどしか経っていないのに、猛スピードで公安の車が駆けつけた。村民の誰かが通報したのである。「日本人が来て写真をばちばち撮っていますよ!」と。無理もない。2010年、携帯はすでにかなり普及していたし、道路も素晴らしく良いときている。
「何をしている?」
「ちょっと署まで来てもらおうか」
というわけで、大学生らと共に公安派出所まで連れていかれ、事情を聞かれる。
「政府の許可なく勝手に『調査』しているのだな」
「すいません。自分は日本の大学の研究者で、『調査』というより、純粋に中国の農村社会の発展ぶりと特徴を理解しようと思って、拠点となりそうな村を探しているのです…」
 ここはできるだけ正直に、誠実に説明するに限る。「調査」という中国語には、学術的な意味合いよりは、諜報活動的なニュアンスがつきまとう。このニュアンスを避けるのであれば、「考察」ないしは「調研」などと言い換えた方が良い。
 ところが研究協力者の大学2年生の女子、隆艶は血気盛んで、公安に刃向かい、「おい!てめえらの警察手帳(工作证)を見せてみろってんだよ。後で親戚の関係者に知らせて、処分してもらうからな!」などと絡む。公安の男性も「何を生意気なっ!」とすごい目で睨んでくる。あわや一触即発的な空気に。
「まあ、まあ、まあ…」と逆に筆者は彼女を宥め、「ここは自分らが引っ込めば済むことだから」と場を収める。
 実際、公安当局が駆けつけてしまった時点で、この村を拠点調査地にできる可能性は絶たれているといってよい。どれだけ交渉しても無駄である。あとは低姿勢を通し、さっさと引き上げるに限るのである。普通、彼らの管轄するテリトリーから出てしまえば、わざわざ追ってくることはない。中国の「官場」の人々にとっては、自分の管轄範囲で問題が起きないことだけが重要である。
 こうしてこの日は、付近の湖水に隣接した景観地までパトカーで送ってもらい、その後の行程は観光に切り替えることにした。こちらが素直に「非」を認めれば、中国の公安だって人の子、意外に親切なのである。隆艶も「さっきは貴方、とっても怖かったですよ〜」などと普通に話している。
 さて、「転んでもタダでは起きない」ために、この農村調査の失敗から何を学びとるか?
 都市部に近いか、あるいは舗装された幹線道路に隣接した村は、農村調査の研究拠点としてもふさわしくないということである。道が良く、研究者にとってアクセスが良い便利な村は、外国人研究者を捕まえに(追い出しに)くる公安にとっても便利な村だからだ。
 もちろんこれは、やや表層的にすぎる理由であるが、もう一つ、より本質的な理由として「代表性」の問題がある。代表性というとわかりにくいが、要は「その村はあなたが知りたいと思っている対象地域の中で、どれくらい普通の村ですか?」ということ。村を選ぶのは対象地域をより良く知る為だから、地域全体の中で、普通ではない、特殊な村を選んでしまうと、全体的な理解も偏ってきてしまう。だから、少なくとも社会学的な農村調査では、できるだけ「普通の村」を選んで重点的に調べるのである。2010年の貴州農村で、都市化した村、幹線道路に隣接して便利な村はまだまだ少数で、現地の平均的な農村よりも恵まれ、豊かである可能性が高い。考えてみれば、この村で紙漉きが地場産業として新たに展開できているのも、製品の集荷に便利な交通条件があるからである。
「うまい話には裏がある」のが世の常だが、農村調査に便利な村というのもどこかに落とし穴が潜んでおり、疑ってかかる必要があるようだ。だから、見通しの良い表通りを歩くのは避け、不便な横道や裏道に鈍臭く入り込んで、地味な村を探すのが良い。少なくともそちらの方が、自分の性分には合っている。

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消えた『圭山郷誌』の謎

 東京大学のある教授の主宰するプロジェクトで、雲南省石林イ族自治県の農村調査団が組織され、当時大学院の博士課程の院生だった自分にも声がかかった。「雲南集市研究会」と呼んでいた。「集市」とは農村部の定期市のことで、中国では2020年代の現在でも全国の農村で開かれている。
 現地調査は、1997年、1998年の2回にわたり実施された。中国経済の専門家を中心に構成される調査団の中で、筆者の場合は現地農村の社会学的な側面からから情報を補充することが期待されていた。
 石林県は当時、路南県といったが1998年頃に改名した。「石林」とは、県内にある景勝地の名称である。いわゆるカルスト地形で、石灰岩がニョキニョキと屹立する独特の景観で知られる。
 団長の教授は、前年に行われていた予備調査で、ある郷の主力幹部から、前年に起こった、とある興味深い事件について少しだけ見聞し、興味をお持ちだった。この事件の詳細について聞き出すよう、教授は筆者に期待をかけられていたようだった。教授は権威ある学界の大御所である。そんな方が、ヒヨッコの大学院生にわざわざ声をかけ、調査団に参加させてくれたのだ。期待に応えねば…という心理的圧力がかかっていた。
 ある日の昼食の際、当の郷幹部、Pさんの隣に座ることになった。「一緒に酒を飲んで、腹を割ってもらい、話を聞き出さねば…」というわけで、現地の農民の酒であるトウモロコシ酒(包谷酒)を現地流に、大きな飯茶碗になみなみとついで隣のPさんと酌み交わし始める。
 しかし、考えてみればすぐわかるが、多少なりとも政治的に敏感な事件についての話を、現地の幹部がほとんど初対面の外国人に話すはずがない。しかし、教授に期待されている手前上、幹部から話を聞き出すための努力はせねばならない。トウモロコシ酒の度数は、50度はあるだろう。Pさんはイ族で、見るからに屈強で酒の強者。こちらは数杯飲んだだけで撃沈され、何も聞き出せなかったばかりか、マイクロバスの窓から激しく嘔吐したのちに再起不能なまでに潰れてしまい、午後のインタビューはすべてフイになった。
 日本の研究者からなるこの調査団は、筆者がのちに「プロジェクト型」と呼ぶことになるスタイルをとっていた。昆明の雲南省社会科学院という正式な研究機関をカウンターパートして、政府の公式なルートで石林県政府→圭山郷政府というように役所を訪問し、インタビューを繰り返すというやり方である。日本社会をそのまま現地に持ち込んでの、集団行動が前提となる。チーム全員、あるいは少人数のグループに分かれて県や郷の関連部門のオフィスを訪れ、幹部や責任者のフォーマルなインタビューを行うことが中心で、現場を「見る」要素は少ない。筆者以外のメンバーは全員、経済学者で、現地調査の情報はどちらかといえば補助的なもののようだった。統計データが入手でき、概況などが聞き取れればいいのかもしれない。しかし、自分の場合は社会学的アプローチで、実際に農村を歩き回って現地の生活ぶりそのものを見たい。現場を見ることをせず、最初からオフィスでインタビューではどうにも消化不良になってしまう。
 そこで1998年の第二回目の調査では、他の団員が引き揚げた後も一人でしばらく現地の圭山郷に残り、郷政府の援助を得ながら、郷内の村々を周り、フィールドワークを展開することにした。一年目の調査時に、地元でしか手に入らない『圭山郷誌』(雲南大学出版社、1993年)を入手していたので、これに基づいて詳細な人物名リストを作るなど、入念な準備もしていた。ちなみに中国全土で刊行されている『〇〇誌』という地名を冠した資料は、歴史から地理、農業や文化にいたるまで、地域社会に関する様々な情報が網羅されており、特定地域のケース・スタディをする際にはとても重宝する。
 郷政府の車を出してもらい、村々を周り、村民委員会でインタビューを行ったり村を歩いたりして何日か経った頃、訪問先にも持参していた『圭山郷誌』が見当たらなくなっているのに気付いた。「どこかに置き忘れたのか?」と気になりつつも、そのままになっていた。
 筆者には「辺境フェチ」とでもいう奇妙な志向がある。現地の集落地図を見て、ハズレのそのまたハズレに小さな集落があり、ほとが住んでいることが分かると、どうしても行ってみたくなる。そこで郷政府の事務員で小生の面倒を見てくれていた小吉(漢族)に頼みこみ、郷政府運転手であるどんぐり眼の何大哥(イ族)の運転で、ジープを駆って辺境の村に向かった。
 音質の悪いカー・ステレオからは、1990年代末に大流行した歌謡曲「小芳」が流れている。1960〜70年代の文化大革命当時に農村に下放した都市の知識青年が村でねんごろになった少女を懐かしみ、「あの日々を一緒に過ごしてくれてありがとう〜」と歌う内容だ。その歌詞が、圭山郷の山の景観に重なってくる。
 石林県の県境に近い辺境集落を興味深く見学した後、県境を越えて隣県の弥勒県に移動し、小さな鍋料理屋を見つけて夕食をとることになった。何大哥は運転手なのだが、ここで酒に手を出してしまった。まあ、彼らにとって飲酒運転は日常茶飯だろうし問題はないだろう、と自分も考えた。
 とっぷりと日が暮れた中、来た時とは別ルートで圭山郷に引き返す。しばらく走り、道を間違えたことに気づいた。何大哥が暗闇の中でハンドルを切り返そうと車をバックさせた瞬間、ジープの車体が「ぐらり」と大きく揺れ、溝にはまり込んでしまった。あっ!と思ったが、幸い、我々に怪我はなかった。しかし、溝にはまったジープは自力では元に戻れない。万事休す。
 そのうち野次馬たちもやってきて、「こりゃあ、無理だわ…」と虚な目で事態の成り行きを傍観している。こういう時の、他人の苦境に対する一般人の非協力の態度は印象的である。何時間かが経過し、圭山郷から郷政府の郷長らも出動してくる騒ぎとなった。郷政府が各方面に連絡を取り、そこがたまたま何かの工事現場で、クレーン車が一台、停めてあったことが幸いした。最終的にはクレーンの運転手を探し出してジープに綱をかけ、溝から引っ張り出してもらい、ようやく帰宅の途に着くことができた。
 この事件以降、郷政府の人々が筆者の調査にあまり協力的でなくなった。小吉の態度もどことなくよそよそしい。忙しいので車が出せないなど、いろいろ言い訳をして、筆者が村に行くことを阻んでいるようにも見える。
 やむなく、当初の予定を早めに切り上げ、調査は終了することにした。滞在中の食費、宿泊費などもきっちり精算して、帰りの車を依頼した。石林の県城に向かう車中で小吉が明かしたのは、あの消えた『圭山郷誌』は、どこかの村民委員会でインタビューした幹部が筆者の見ていない隙に「回収」したのだという。筆者が詳しい人物表などを作成しているのが、スパイ(的な)活動に見えたようだ。できるだけ現地の詳細を知らせたくない気持ちから、幹部を『郷誌』の回収行動に駆り立てたようだ。
 この失敗体験からも分かることは何か?
 中国の地方政府の幹部・スタッフたちにとり、社会調査にやってくる外部者は「未知の存在」であり、やってくる前はどのような事態になるのか、誰にも予想ができない。調査者が何を知りたいのか、情報を何に使うのか、受け入れる側は知らない。そのような中で、公式ルートで入ってきた相手である限り、上級政府に対する礼儀上も、とりあえず調査者を受け入れておくのは構わない。
 だが、それも面倒が起こらない範囲においてである。今回のジープ事故のような偶然の要素も働き、調査者の存在とその活動が面倒なものであることが明らかになる場合がある。さらに、現地政府は調査内容の学術的意義などには興味は持たないが、今回の「人物リスト」のように、彼らの目からすれば「異常に詳しく」現地を知ろうとする行為は、疑惑の念を生じさせる。筆者の経験から一般的に言って、「一覧表」形式のデータは危ない。これを受け入れ者である「官」たちの目に触れさせるのは、恐怖と疑惑を増大させるので得策ではない。警戒した相手は、激しく拒絶することはなくとも、のらりくらりと非協力を示すことにより、調査者が自ら引き上げるように仕向けるであろう。中国語で言えば、「多一件事不如少一件事」(面倒は少ない方が良い)。これが中国の「官場」の基本的な行動ロジックである。
 ところで、あの日のジープが溝に嵌まった事件の際、現場に駆けつけた郷長が雲南弁で筆者にかけた第一声が今でも印象に残っている。
「食事は済みましたか?」(𠺝吃了饭?)

 

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英文ジャーナル投稿記

 近頃、兼ねてから投稿中であった拙文(Heteronomous rationality and rural protests: Peasants’ perceived egalitarianism in post-taxation China)が、China Information誌にオンラインで掲載された。
 
https://journals.sagepub.com/doi/pdf/10.1177/0920203X221108994
 
 最初から予想された通り、査読付き英文ジャーナルへの投稿は紆余曲折の道のりを辿った。本邦の地域研究、ことに中国研究学界では日本語による成果発表が昔も今も大部分を占める。だから、英文ジャーナルへの投稿は余程の酔狂者の作為に属すると思われる。だが将来において、後続に筆者と同様の物好きな学徒が現れないとも限らない。そこで、筆者の一経験、投稿から掲載に至る過程を一つの記録に留めておくことも無意味ではなかろうと愚考し、この小文をしたためる。
 縁起
 2021年の初め、参加していた某研究会で配分されていた個人予算が少し余る見通しとなった。何か有効な使途を考えねばならない。まず、コロナの状況下では出張費に充てることはそもそも無理。次に、物品や書籍などで無理やりお金を使うのも、研究成果を生み出し、世に問うという本来の目的からして、あまり積極的ではない。
そんな時、一番、前向きな予算消化法として思い浮かんだのは、自分がこれまで日本語で書いたものを英訳し、その原稿の「英文校閲費」として予算を支出することだった。
 英訳した原稿を、海外の英文ジャーナルに投稿して公表し、世界の読者を獲得する。有意義な作業であることは明らかだ。ただし、論文が掲載されるまでには、まず慣れない英語で自分の論文を訳し、ジャーナルのポリシーやフォーマットに合わせて投稿し、査読者の厳しい批判に心が折れ、なんといってもいい歳になって論文を「却下」される屈辱に耐え、却下されなかった場合も原稿を何度も、何度も修正し、…というかなり根気のいる作業が待っている。これまでの経験から、それは分かっていたはずだった。
 しかし、あえてチャレンジすることにした。海外の査読つきジャーナルに投稿して採用されたのは、実は2010年のEurope-Asia Studiesが最初で最後(掲載までに3年を要し、2013年掲載)、しかもこの時の中露農村比較の論文は、ロシアでのフィールド・ワークから英語論文執筆の作法まで、師匠のM先生にまさに「おんぶに抱っこ」で助けられた結果、採用されたと思っている。中国研究者の端くれとして、せめて1本くらいは英文ジャーナルに中国農村に関する研究論文を載せておきたい。しかも自力で。簡単に言えば、「これで終わりたくない」という気持ちが鎌首をもたげてきたのである。
 今まで書いたもので、英文ジャーナルに載せるのに向いた原稿はなかったか…と思案し、思いついたのが、かつて『アジア経済』(JETROアジア経済研究所)に載せた「弱者の抵抗を超えて─中国農民の『譲らない』理由」。この文章については、本ブログの「頼まれもしないのに自著解題」シリーズでも取り上げた。甘粛省の「麦村」でのフィールドの観察から、農業税廃止後の農民の行動ロジックを「他律的合理性」の概念の下に浮かび上がらせる試みである。
 連戦連敗
 2021年2月中に英訳作業と英文校閲会社による校閲を進める。ターゲット雑誌の字数規定10,000ワードをかなりオーバーしていたため、校閲者の助言に従いワード数を削り、それに伴う修正など行い、何度かやり取りする。料金の少し高い「プレミアム英文校閲」を選んだので、1年以内なら何度でもこうしたやり取りが可能である。3月15日、Journal of Peasant Studies(JPS)に投稿を済ませる。
 ところが一週間後の3月23日、編集部から返事があり、「貴投稿論文はJPSに向いていません。悪しからず」とのこと。原稿はJ.スコットとS.ポプキンのモラル・エコノミー論争に中途半端に触れつつも、あくまで自分の中国のフィールド・データの展開が主体である。どうやらJPSに掲載されるには、細かい事例よりは学界における大きな討論の動向を踏まえる必要があるようだった。
 気を取り直して、次の投稿先を探す上で、数少ない海外の知り合いであるロシア農村の専門家であるS. ウェグレン教授に助言を乞うた。氏のおすすめは、①Eurasian Geography and Economics, ②Journal of Eurasian Studies, ③Post-Communist Economiesというもの。こうしたアドバイスは、当然のことながら彼自身の投稿経験に裏付けられており、世界にあまたある英文ジャーナルからおすすめを選んでいるわけではない。
 それでもウェグレン教授の助言に従い、3月29日、Eurasian Geography and Economics(EGE)にそのままの原稿を投稿。今度は編集部で却下されることなく、査読には進んだ模様である。
 一ヶ月強という速さで、5月11日、当該のEGEから査読結果が戻ってきた。みごと「不採用」が宣告されている。2人の査読者による、厳しくかつ詳細なコメントがついた。それにより、今まであまり自覚していなかった自分の議論の弱さに気付かされた。
 第一に、原稿ではフィールドでのエピソードがそのまま投げ出された形になっており、事例の解釈・分析が不十分である、との批判があった。自分では、エピソードの解釈は「討論」の箇所でまとめて行なっていたつもりだったが、これをエピソードの紹介のすぐ後に持ってきて、しかもそこから何が分かるのか、もっと丁寧な解釈を行うべきだったのである。
 第二に、J.スコットの「弱者の抵抗」(resistance of the weak)フレームは、欧米ではかなり精緻な議論が展開済みで、もはや付け入る余地はないようだった。査読者のコメントからは、大きな潮流について行けていない投稿者に対する憐憫のようなものさえ伝わってくる。明らかに、こうした論争に新たに首を突っ込む、と見做されかねない書き方をするのは得策ではないと思えた。

 EGEへの掲載の道は断たれた。が、他誌への再投稿のための改稿にあたっては落とし所を少し変えて、「農民の平等主義再考」(peasant egalitarianism reconsidered)というストーリーで全体の議論を練り直すとともに、エピソードの解釈に関してはややしつこいくらいに、歴史的、社会学的解釈を盛り込むことを心がけた。
 以上はかなり大きな修正となった。全部の時間をこの作業に使えるわけではないが、14日分くらいの作業日を使いて修正し、ふたたび英文校閲に発注した。
 英文校閲済み原稿を受け取り、6月13日、思案した挙句、今度はJournal of Rural Studiesという雑誌に投稿。どうにも自分は、「農」の字を冠した雑誌に憧れ・執着を禁じ得ない奇妙な体質だ。一月ほど経ち、流石に査読にまでは進んでいるだろうと思っていた矢先の7月12日、「編集部リジェクト」の通知がきた。「原稿が本誌には向いていない」という、例のそっけない調子だが、何がどのように向いていないのかは書かれていない。編集部で止まっていたのなら、もう少し早く返事をくれれば良いものを。
 アングロ・サクソン世界の外側
 この頃考え始めたのは、地域研究系、中国研究系雑誌への再投稿である。香港の大学でポスドクをしている若い中国人の知り合いも、The China Quarterly(CQ)などへの投稿経験を話してくれた。CQは中国研究のトップ・ジャーナルだけあって、査読者が良いコメントをくれるので、それだけでも勉強になるという。ただ筆者にとっては、とにかく文章が掲載されることのみが重要であって、そこまで高望みする必要は全くない。そこでいくつかの候補から、The China Journalという雑誌に目星をつけ、同じ原稿を投稿した。
 7月20日、編集から返信があり、「採用できない」とのこと。しかし理由ははっきりしており、近頃、近いテーマの論文を採用したので、同じ号に類似の論文を2本載せるわけにはいかないから、というものだった。編集長は中国農村研究者には馴染み深い『チェン村』の著者の一人であるJ. アンガー氏で、親切にも、次の投稿先候補となるジャーナルをいくつか挙げてくれた。7月26日、その中の一つ、China Information(CIN)にすぐさま再投稿した。当該雑誌のウエブ・サイトに書かれていた「アングロ・サクソン的世界の外側にいる学者たちの声を大事にする」という編集方針に惹きつけられた面もある。
 最初の査読結果は2ヶ月後の9月27日に戻ってきた。条件付きで、「大幅な修正と再投稿」(major revision and resubmission)を求めるものであった。査読者の一人は厳しく、もう一人は好意的。しかし、厳しい方の査読者の批判も、根源的であるよりは無い物ねだり的な、「無茶振り」に思えた。むしろ好意的なコメントの方が、説得力あり、修正には役立った。ともあれ、EGEの査読を受けて修正したことが、だいぶ原稿の質を上げたようだ。修正箇所の英文校閲を経て、10月9日、再投稿。
 再投稿の査読は通常、1回目より早いはずだが、なぜか長く待たされた。4ヶ月過ぎたところで催促してみると査読者の一人からの返事待ちとのこと。2022年3月2日、ついに(!)条件付き採用との返事がきた。意外にも更なる修正提案のようなものはなく、ジャーナルのフォーマットに従い形式面を整えるだけで良いとのこと。3月6日、作業を済ませ最終原稿をアップロード。そこからさらに3ヶ月ほど待たされ、6月1日、雑誌編集部による校閲原稿が送られてくる。翌日、執筆者チェックを済ませてすぐに返却。その後、更なる細かい編集を経て、2022年6月26日、オンライン公開となった。
 まとめ
 以上をまとめてみれば、最初の投稿から1年と3ヶ月、5つ目の雑誌でようやく掲載に漕ぎ着けたことになる。国内で、『アジア経済』の査読はかなり厳しいという定評であるが、そこに載っていた論文が元になっていてもこのありさまである。
 第一に、英文ジャーナルはそれこそ星の数ほどあるので、自誌の特徴を出すために、編集部が自らの好みをわりあいにはっきり出すことが多い。つまり、論文の水準以前の問題で、編集部による「門前払い」が数多く起こる。
 第二に、多くの場合、「アングロ・サクソン的」な知的風土に合致するものでないといけないらしいが、それがなんなのか、外側にいる者にはよく分からない。細かい資料やデータなど、日本語で書いたものであれば国内の査読者にはある程度、評価してくれる可能性のある要素も、海外ではそれだけでは説得力を持つとは限らず、むしろそれらをどう解釈し、どう議論するのかが重視されるのだろう。そこでは、これまでの英語圏での議論を踏まえた理論的関心に応答できるものである必要がある、ということかだろうか。
 第三に、このような世界の主流からやや外れた自分のような研究を掬い取ってくれるという意味で、China Informationのような非アングロ・サクソン系(?)の英文雑誌の存在は貴重だろう。若い世代の方々はもちろん、酔狂なベテラン世代の中国研究者にもCINへの投稿をお勧めしたい。
 

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あとは野となれ山となれ

 周知のように、1958年から始まった大躍進運動は大失敗に帰し、餓死や不正常な死亡を含め、全国で2000万とも3000万ともいわれる死者を出した。亡くなったのは基本的に、農民である。全国の農村部の基本的行政単位である県の数を約2000と考えると、一県あたり平均して1万人以上が亡くなったことになる。当時の平均的な県の規模感は20〜30万人だろうから、20人に一人が亡くなったと考えればよい。
 堂金の父によれば、花村でも大躍進後の飢饉の際には皆、木の皮や芭蕉の根、昆虫なども食べたという。奇妙なものを食べた結果、便通が悪くなり死ぬ人も多かった。
 同時に、花村には山林があり、芭蕉などが生えているだけマシだった、という考え方もできる。大躍進後の死亡率が非常に高かった省の一つは安徽省で、江西省は逆に死亡率の低い省の一つだった。その違いを生んだ要因の一つとして、山林の多寡に注目した研究もあるほどである。
 確かに、花村集落の生活は、その周囲の山林すなわち里山と共にある。調理の燃料になる薪は今でも周囲の山からくる。栗の木や竹林も食料をもたらしてくれる。
 3月頃に花村を訪れると、どこの家庭に食事に呼ばれても、タケノコの料理が出てくる。すべて里山の共有部分で取れるものだ。タケノコ採取の範囲に関しては、緩やかな縄張りが存在しているようだ。この一帯のタケノコの権利に関連しては、「十二家」とよんでいるグループがある。堂金が戸主の名前を挙げてくれた。姓は皆、赫である。
「文英、文興、福英、全森、龍党、結明、正英、全有、遠山、加義、財興、福連の12軒や。1998年頃にこのグループが出来たんや」
 とはいえ、タケノコの縄張りは排他的な感じではなく、グループ外のエリアに生えているものを掘っていってもどうということはない。
 花村集落の周辺の里山は、畑として集落住民に分配されている部分もある。1980年代初頭に農地を分配した際、100数十畝ほどの里山の土地も集落住民に分配され、これを各世帯が開墾して畑にしている。
 畑の用途は自由だが、菜の花が多い。春の季節は黄色い花が咲き乱れ、田園風景にアクセントを添える。菜の花の収穫は社庚郷の業者に持っていって菜種油に加工し、自家用とする。自家用の野菜も多くは里山の畑で作る。通りかかると、これからスイカの苗を植えるのだ、という村民が鍬で作業をしていた。
 分配された畑はあちこちに分散していて、堂金の家の場合は合計2畝ほどの土地が7箇所に散らばっている。そのうち実際にいま、利用しているのは3箇所だけで、あとは放置している。
 なぜ放置するのか?直接その理由を聞いたわけではないが、おそらく理由は単純で、家族内の人手が足りないからだ。年間を通じて出稼ぎ中の妻が戻ってくれば、放置している畑の一部も回復して、野菜などを植えることができるだろう。そうすれば、社庚の定期市で購入そている野菜の代金を節約できるが、一人分の出稼ぎの収入はなくなってしまう。どっちを取るか、である。家族の中から誰が、どのくらいの期間、出稼ぎに出るか、その判断はさまざまな要因、たとえば農作業の忙しさや老人・子供のケア・教育に必要な人手などを総合的に判断した上で決まる。十手先まで読む将棋のような中国農民の発想は、「家族経済戦略」を呼んでもいいくらいに合理的である。
 ともあれ、出稼ぎが増えた現在では、集落付近の里山も、もと畑であったところから孟宗竹がニョキニョキ生えてきている。人が減って、山が勢力を拡大しているのだ。
 あとは野となれ山となれ。

 だが、花村の文脈でいえば、山は永久に放棄されてしまったわけではない。いざという時、たとえば出稼ぎ先を解雇された際には、村に戻ってきて、放置してある山林の畑を耕せばよい。その際には山が再び畑になる。
 里山には包容力があり、多くの人手を吸収してくれる。言うなれば農村生活の保険、緩衝地帯、あるいは貯水池のようなものだ。村民の里山の使い方は近づいたり離れたりと、自由自在でこだわりがない。だから、山に戻ってしまった畑を誰かが勝手に開墾して畑に戻しても、文句をいうものなどいない。この、ゆる〜い感じがいかにも花村らしい。
(つづく)
 

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