研究ブログ

研究ブログ

「価値論」(D.グレーバー)が心に染みた

 分厚いページをめくりながら、残りが減ると悲しくなる学術本に何冊出会えただろう。1人の学者としてグレーバーとは同時代を受け止めて生きてきた気がしている。この本は2001年に出版されているので、私が博士論文を提出した頃だ。その前に出会えなかったのはしかたがない。90年代の終わり頃、私は互酬性と贈与論に取り憑かれており2つの論文を書いた。まさに当時、「互酬性」が切れ味の悪い用語であり、あらゆることを意味しうるので、限りなく無意味に近い(p.342)という事実に直面していた。そこで、私は「互酬性」をあらゆる分野の論文から定義することから始めなくてはならなかったのである。一旦納得をして問いを仮置きし、個別領域を耕して四半世紀過ごした。ようやくいま意味論に戻っている。このタイミングで邂逅したから染み入るのだと思う。
 そうなのだ。ミクロ経済学的に人の行為をとらえる社会工学から退出したのに、社会学研究ですら「ミルトン・フリードマンが書いたかのような」(p.63)研究が席巻していく時代。ポストモダンの学問が新自由主義を強化する側に立つ、あるいは少なくとも疑義を挟む力が足りていなかったのは本当だ。その反動は再びコミュニズムの復権とマルクスへの回帰へと向かっているようにみえる。だが、それだけではうまくいかないと私も考えている。手に余る重い問いであるが。
 グレーバーはM.マルクスとM.モースを読み解いて、人が革命に従事するとはどういうことなのか、一つの解釈にたどり着いている。人が生きるに値すると想像した社会を、現実のものにしようとする闘争に加わることが革命なのだ。彼の闘争はアナキストとしてオキュパイ運動に従事することであったり、究極には「自由」を好みながらも新自由主義から遠ざかる可能性を探るものだ。痛いほどわかる。そこにしか抜け道がない。でも、人間はほっておけばホッブズ的闘争状態になるものではないと彼は信じるに至った。確信を持つまでに時間がかかったのだろう。彼がアメリカの地を追われ、イギリスに流れ着いたのは象徴的だ。2つの社会の小さくて大きい差異を感じるエピソードだ。
 原初的な人間の関係性の中には他者の尊重が当初から入り込んでおり、それは意外に個人主義的で市場のある世界と似ていると暫定的な結論を得て、彼は安心したに違いない。人間の発達は自己中心性から出発するとしたピアジェに繰り返し疑義が挟まれるのはそのためだろう。私も子育てをしながら観察しピアジェに疑念を持った。その後多くの研究で人間の生まれながらの利他性に着目がされていったようだが。百聞は一見にしかず。
 「価値をめぐる抗争はつねに、最終的には、政治的なもの」(p.189)になる。新自由主義的価値の全域化に抵抗する方法は1つではない。けれども、価値は個人ではなく社会に意味付けられていかなければ意義あるものとはならない。これまでに男性が価値あるとしたモノ、(例えば地位と金)を平等に欲しいと目標に定めるだけでは、フェミニズムは新自由主義的価値を強化する側にとどまる。もちろん日本女性はそれを手にしていないのだから、現在、シンプルに「もっと欲しい」と声を上げる意義はある。私もとりあえず手に取って手放したのは憑き物を落とすためでもある。結局のところ、こだわり続けてきた一元化した価値をまずは複数化していくためにどうしたらよいのか、という論点は究極実践されなければ浅薄なものにとどまる。とりあえず方向は間違っていなかった気がする。
 さて、今年彼が亡くなった年齢を迎える私としては、もう少し長生きを目指しながら抗争の戦略を練ろう。

0

社会的地位が高い人がベタすぎる性差別をするわけ

「研究者ブログ」なるものを初めて書いてみるにふさわしい案件が発生。

 東京オリンピック・パラリンピック大会(!)の森喜朗会長が、理事に女性が加わると発言が長くなって会議が長引く、と懸念を表明した。その後、気が進まないのに謝罪会見をして、質問に前のめりでかぶせていく発言スタイルを披露し、逆ギレする姿をさらした。ついでに自分も話が長くなると告白。会議での姿を想像させてくれた。こういう方々の姿は飽き飽きするほどよく見かけるので、どうしてこういった人が、あろうことかJOCのトップに、いまだ君臨してしまうのかを考えてみたい。

 私の父と1つしか違わないこの83歳という年齢が重要だ。彼らは小学生のうちに終戦を迎え、黒塗り教科書である日突然「民主的教育」を受けることになった世代である。戦後ひもじかったという記憶が優越して、ほぼ被害者意識しか持たずに済んでいる。同じ先生がある日突然反対なことを言う。土台に女性差別の日常があるところから、急に戦後「女と靴下」が強くなった、と言われサザエさんのように陽気に専業主婦を謳歌する女性たちに囲まれ、これぞ平等と素朴に信じることができていたのである。つまり、人権とか平等のなんたるかを身体的に学ぶ機会が全くなかった。

 また、肝心なのは彼らの世代には「上の世代」が欠落していること。少し上世代の戦中派は信じていたものを全て失ったし、戦争に行き若くして亡くなっている男性も多い。年齢階梯制で女性蔑視の社会では、高齢男性に権力が集中しやすいが、森会長の世代は丸ごと上の世代が抜けており競争も少なく高度成長を謳歌し、弱い立場や苦境にたたされる経験をせずにすんでいる人が多い。結果としてのびやかに自説を主張しながら長らく人生を謳歌できる、類いまれな世代がうまれた。無邪気なやりとりで、ついラグビー協会を「ウチの協会」といってしまうあたりが、「ウチの会社」と私物のように話してしまう企業幹部を想起させる。

 そういう人が権力の座につくとどうなるかというと、自分と異なる意見を言う男性はダメなやつと見下し、組織から排除していく。自分が語るのを素直に聞く人を側に置いてかわいがる。女性は最初から見下しているので、何か話しても聞いていない。奇しくも森会長は記者会見で、「最近は女性の話を聞かないから」とつい口走ってしまったが、本当だろう。話を聞こうとしない人にとっては、女性が話すと確かに「長い」と感じるかもしれない。

 男性のイエスマンで場が固まらないように議論のダイバーシティを確保するため、意思決定の場に女性を入れようとルール化が進んでいるわけで、会議を長引かせる人は立派に務めを果たしている。ラグビー協会はどうやらそうらしい。その意味で記者会見で「JOCの会議では、女性がわきまえておられる」と話してしまったことは致命的だった。本人はいまだ腑に落ちていないようだが。JOCは民主的な議論ができる場ではないらしいと露呈したことになる。

 ただただ「オレ様が正しい」と主張したい時でも、研究者はまわりくどく巧妙に理由をつくりながら競争するのだが、この世代の政治家はベタすぎる差別を繰り返す。変わったのは彼らではなく報道する側と時代だ。単に若い人や女性に「オレはずっとこう言ってきた」と主張しても、この発言はありえない、と違和感を持つ人が増えただけのことだ。常識とはこうやって変わっていくものだと、ちょっぴり嬉しく思う。30年前にこの発言は報道されなかったんじゃないか。きっと笑い、をとって終わりでしょ。

 さて、てっぺんに君臨しているやっかいな人を、理事たちは、あるいは政治家どうしで、クビにできるだろうか。どんなに上に横暴な人が座ろうとも、その下にいる人たちは責任を負っているし解任もできるはずだ。見て見ぬ振りをする人は同罪である。でも、その下の人々はそんなにものびやかに人生を謳歌した経験がなく、つねに蹴落とされないかと戦々恐々として育っている。つまりは意見をいえるほどの気骨ある男性陣は下の世代にそうそういない。

 残念だけれどこの案件は国内問題で終わらないところが致命的だ。世界では、女性アスリートがどれほどジェンダー平等のアイコンになっているのか、政治的に先鋭的なのかを、日本の常識しか知らない人はわからないだろう。トランプは米国でホワイトハウスに居座ることはできなかった。けれどミャンマーでは軍部がトップに居座ろうとしている。まだこの国では反逆しても直ちに殺されるまでには至らないと信じよう。 

 どちらに転んでいくのか、日本の明日の姿を見極めるためにも目が離せない。

 

 

0