講演・口頭発表等

2019年12月21日

川端康成「虹いくたび」論―〈生〉の希求/彷徨の物語として―

令和元年度 第2回 関西大学国文学会研究発表会
  • 辻秀平

開催年月日
2019年12月21日 - 2019年12月21日
記述言語
日本語
会議種別
口頭発表(一般)
主催者
関西大学国文学会
開催地
関西大学
国名
日本

【発表要旨】「虹いくたび」は、『婦人生活』(同志社刊)に昭和25年3月から連載された川端康成の長篇小説である。本作は従来の川端研究の中で、通俗的な〈中間小説〉として位置付けられており、先行研究は僅かしかない。
川端は敗戦前後に相次いだ知己の死を経る中で、人間の生や死の意味を様々に考え、《現在の〈生者〉が過去の〈死者〉を語る》ことに対する問題意識を抱くようになる。こうした意識のもとで書かれた昭和20年代前半の川端作品は、〈死者〉の存在の意味や、〈生者〉と〈死者〉との関係性を様々に模索するような傾向がある。「虹いくたび」はこうした背景の中で生まれた作品であり、〈生者〉と〈死者〉との関係性を巡る、当時の川端の問題意識が表れたものであると考えられる。この点を検討するにあたり、登場人物(=〈生者〉)を、過去の〈死者〉とどのように関わっているのか、という観点のもとで三つに類型化した。第一に、〈死者〉の存在や記憶を忌避する水原や青木のような壮年の父親たち、第二に、〈死者〉の記憶に囚われ続ける娘の百子、そして第三に、〈死者〉の存在に囚われず幸福の中で生きる百子の異母妹・麻子や、その友人である夏二のような若者たちである。
第一および第二の類型に含まれる登場人物は、〈死者〉との間にわだかまりを有するという共通項がある。壮年の父親たちは他人の子を妊娠した百子を堕胎させ、その責任を〈死者〉に転嫁するかのような言動をとる。また百子は不幸のスパイラルに陥っていく。
それとは対照的に麻子や夏二は、〈死者〉と敢えて関わろうとはせず、「生きてゐる人のため」に生きるという、オルタナティブな〈生〉の姿を示している。こうした〈生〉の姿は百子にとって得難いものであり、百子は麻子や夏二のような幸福な〈生〉を希求しながらも、それが得られないまま物語が終わる。
〈死者〉との間にわだかまりがある〈生者〉たちは、互いに傷付け合いながら不幸へと陥っていく。それに対して、〈死者〉と敢えて関わりを持たない〈生者〉たちは、前者とは異なる次元で、幸福な〈生〉を送ることが約束されているのである。「生きてゐる人のため」に生きる〈生者〉の姿は、如上の問題意識に対する一つの回答であると考えられる。そして、こうした〈生〉の姿が描かれたことは、以後の川端作品を考える上で重要な論点を提起しているように思われる。

リンク情報
URL
http://kokubun.sakura.ne.jp/wp/2019/11/29/%e4%bb%a4%e5%92%8c%e5%85%83%e5%b9%b4%e5%ba%a6%e3%80%80%e7%ac%ac2%e5%9b%9e%e3%80%80%e9%96%a2%e8%a5%bf%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e5%9b%bd%e6%96%87%e5%ad%a6%e4%bc%9a%e7%a0%94%e7%a9%b6%e7%99%ba%e8%a1%a8%e4%bc%9a/