研究ブログ

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最近の勉強・研究

  1. 「100de名著」の『エミール』を読む会継続中
  2. 『啓蒙の弁証法』を読む会継続中
  3. 日本公民教育学会での発表済。研究方法の妥当性とか、分析結果をもっと洗練させられるんじゃないかとかコメント拝受した。対面開催にも良さがあることを認めざるを得ない
  4. 社会科教育学における「省察」概念の意味についてデータ収集と分析済。あとは文章にして考察する
  5. 『主権者を疑う』と『法の近代』読了。新書界隈で似たテーマのものが同時期に刊行される現象。主権者と主権は違いますよというメッセージは近い。前者は主権という概念の歴史がとても勉強になったし、読みやすい文体だった。後者の「近代的な態度のパラドクス」を軸に歴史を見るのは新鮮で面白かった
  6. 「批判的実在論って何ですか」と聞かれて答えを考えてたときに、社会科教育学の認識論・存在論的バックグラウンドってほぼ批判的実在論なのでは、と思いました。緑ハンドブックだと客観主義・解釈主義・批判主義の三本柱で整理されてるけど、大概の研究が「事実こうなってます(客観主義・解釈主義)➡こうすべきだと思います(批判主義)」という流れなので、三本柱で分けにくい。批判的実在論だと「(こうすべきだ➡)事実こうなってます➡(やっぱり)こうすべきです」なので、社会科教育学にぴったりな印象がある。客観主義・解釈主義をどれぐらい厳密に考えるかにもよるけど。少なくとも社会調査方法論の議論ほどは厳密じゃないと思うけど、どうなんですかね
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【メモ】カスタムしたPPTのテンプレートを新規作成時に反映させる方法

トップ画面(ログインして最初の画面)で右クリック>新規作成 から作成するPPTのテンプレート(フォント、フォントサイズ、色など)を編集する方法

以下のサイトに詳細記載あり。

https://kaffeinerd.co/2022/01/22/post-4470/

以下該当内容のバックアップ代わり

  • C:\Program Files\Microsoft Office\root\vfs\Windows\SHELLNEW に保存されている「POWERPOINT」を編集する

なお、"C:\Users\***\AppData\Roaming\Microsoft\Templates に「Blank」というPPTファイルを「.potx」形式で保存する~という方法は、すべてのアプリ>Powerpoint>テンプレート から新規作成する人向け。

 

発表の場が変われば変わるものはスライドマスターから編集して、発表の場が変わっても変わらないものはこの方法で編集しておけばグッと楽になりそう!

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最近読んで面白かった研究:馬場(2009)「算数・数学教育における社会的オープンエンドな問題の価値論からの考察」

馬場卓也(2009)「算数・数学教育における社会的オープンエンドな問題の価値論からの考察」『数学教育学研究』15(2)、pp.51-57

これは面白い。特に52ページ>2-3からの具体的な授業のところで、価値論とは無縁そうな算数・数学教育にも価値論が大きく関わっていることを具体的な子どもの学びから示しているところが面白い。
例えばこんな問題が出されたとする。

  • ケーキが5個ある。祖父母、両親、あなた、妹で分けるとすればどう分ける?

ここで「5÷6=0.833…で、約0.8個でしょ」と思ったら!
なんとそうではないんでないか、というのがこの論文のポイント。

この問題に対する子どもの発言

  • 子どもに対して多くあげてください
  • お年寄りは糖分を控えめにしてください

これを読んだときに、「算数で『分ける』と言えば、等しく分けるということでしょうという価値観、もっと言えば『平等とは同量であることだ』という平等概念が前提になっているでしょう?」と問いかけられた(気がした)。

確かに算数・数学には「等しく」とか「同じ」とかいった言葉が出てくるが、その意味は陰に陽に1つに絞り込まれていたように思う。

本論文は算数・数学教育における隠れた価値論の存在を指摘し、「どのような価値観が背後に存在するのかについて理解する」(p.55)ことが重要だと言う。

本論文は算数・数学教育の社会的意義を問う射程を持っているんだなーと受け取った。社会科だと社会的意義があり余り過ぎて、何がこそ社会的意義があるのかという話になるが、算数・数学科の場合そもそも社会的意義って大事だよねというところから始めているのが新鮮だった&本論文がその説得に成功しているように思われる点が面白かった。

ちなみに本論文は冒頭で、OECDによる「数学的リテラシー」が数学の社会的意義を求める概念であることを確認している。そのため本論文はOECDによるリテラシー概念を算数・数学教育の社会化のテコとして使っている点も面白い。

社会科だと、いかにOECDによる主として経済社会への社会化へどう対抗するか(そして、どう民主主義社会への社会化につなげていくか)という問いを提示するための踏切版としてOECDが取り上げられそうなもんだけど。

ほかにもいろいろ論文が出ているようなのでそれらも読んでみる。

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『公と私の系譜学』(ゴイス、2004、岩波書店)

アメリカで生まれ、ドイツやアメリカで大学教員を務めたレイモンド・ゴイスの”Public Goods, Private Goods”の訳書『公と私の系譜学』読んだ。

前々から気になるタイトルだったのでdポイントがたまった最近に購読。
系譜学の方法を用いて、「公」という概念の多義性を明らかにすることで「唯一の『公』と『私』の区別は存在しない」ということを主張する。

ざっくりまとめれば「公」には以下の意味がある

  1. 「誰であっても」参入できる領域
  2. 友人や顔見知りに答礼すべき領域
    (ここまで古代ギリシャの例から析出)
  3. すべての人に関連する、もしくは影響を与えるものの領域
  4. すべての人に関連すると考えられている領域に対する権力を持つ集団
    (ここまで古代ローマの例から析出)

そして、これだけ多様な「公」概念がある以上、「公共善」を一意に決めることはできない、と結論される。

ここで終わると悲しいだけなんだけれど、最後にこの本の主張が書かれていた。

最初の問いはこうなる。いったいぜんたいなぜ、われわれは公と私を区別したいと欲するのか。われわれにとっての目的や価値を何なのか。(p.106)

つまり、公と私を分けることをやめようと言うのではなく、「なぜ私たちは公と私を分けたがるのか」を問おうと言っている(と思う)。

最近「個人的な問題はみんなの問題だ」という発想もあるみたいだし、私もその発想に同意するところもある。でも、本書は「なぜあなたは『個人的な』と『みんな』と表現するのか」を問い返すんだろうなと。

もちろんキレ返される可能性もあるけど、こうやって問い返されることで、そもそも何らかの問題を「個人的なもの」と受け取る発想を持っていないか、と考える方向も見えそう。
つまり、「私の問題」を「みんなの問題」に位置づけなおすだけではなく、「みんなの問題」が「私に生じているだけ」と言い換えることで、問題化戦略を複線化できそう。攻め筋は多い方がいいと思う。

社会科界隈だと”Common Good”というさらにややこしい概念があるんだけれど、本書で言うところの”Public Good”に内包されるか?
どなたか「そうだよ」「いや違うよ」とご意見あれば教えてください。

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権力って便利だよね

修士論文「真正な民主主義教育としての社会科教育実践ストラテジーー教師-生徒観の非対称的権力関係に注目してー」を提出して幾星霜。

記憶もぼんやりとしながらも、査読論文に挑戦しようかしらと思い、教育的関係に関する研究を読み直し始めた。
そのなかで気になったのが「権力」という言葉・概念の意味。

平たく言えば「教師が子どもをコントロールする力」という意味だけど、本当に教師は子どもをコントロールできているか?というと、この意味は怪しい。
もちろん「コントロールしている!」というケースもあるんだろうが、「いやー、なかなかコントロールはできてないですね~」とか「そもそもコントロールなんて思ってないですよ…」というケースも多いのではないか。
6月末に公立高校の授業を観察させていただき、こうした疑いの念が強くなった。

批判的教育学とか批判理論、規律訓練型権力的な発想ならそれでもいいかもしれないが、社会科教育学が好きな自分としてはやはり実際の授業の様子を無視できないし、↑のような先生方のケースも考慮したい。

なんだか「教育的関係=教師が子どもをコントロールする関係性」と定義するのは(少なくとも)社会科教育学では使い勝手が悪いような気がしてならんのであった。そして、できれば「権力」というあいまいな言葉で教育的関係を分かった気になってしまうのをやめたい。(権力概念のあいまいさについてはルークス『現代権力論批判』など)

じゃあ何として定義するんだという話ではあるので、教育哲学・教育思想ではなく、教科教育の文脈で教育的関係を定義したり、記述したり、考察したりすることに興味ある人や研究室ないのかしら。
いまだとMo先生ぐらいなのかなあ。

何かしら知ってたり興味ある方おられたら、メールでもチャットでもください。(LinkedIn始めようかなあ)

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オンラインの研究会に参加した(感想ほか)

ZOOM開催されているオンラインの研究会に参加した。
公民科(公共、政治経済、倫理など)を中心に、不定期で学校の先生たちの実践が報告される。
そして、その実践への質問や感想などを話しあう……のだけれど。

今回参加したテーマは「模擬投票の実践」。
選挙や政治参加の単元で、模擬投票を実施した先生の報告があったが、
特に今回「政治的中立性」の話が難しかった。

理解の限りだと、「法律的に党派性はダメだから中立であることが要請されている。でも何が中立なのか目安がないから、手探りでやっている」という感じだった。
だから「自分の実践は政治的中立なのか?」と自問している、と。

何が難しいかと言えば、①法律的(教基法14条らしい)に求められているからやらないといけないけど、何をやればいいのか分からないから困っているという難しさ、②教えているつもりが洗脳になってしまっているのではないか、という難しさ。

①はまあ仕方ないよねと思ったけど、②がなー。
もちろん、②を共有できる先生もおられるんでしょうけども、①が先立つ回答をもらったのでちょっと想定外。
個人的な関心として、指導洗脳の違いがあったので、②が気になっていたし、てっきりみんなそうだと(なぜか)思いこんでいた。
(もしかしたら、回答いただいた先生が自分に気を使って簡潔に説明してくれた?)

うーむ。①出発だと、判例が出れば解決されるんだろうか。
でも①があるのって②だからでは?と思うと、問題として②のほうが根本的な気がする。
(そして、自分的にはそちらのほうが興味ある)

社会科教育系のいわゆる論文だったり発表だったりは②出発な印象だったので、①を想定外に感じてしまった。日々授業されている先生方にとっては①が切実な理由になるんだろうなあ。
でも、①出発だと「何が中立なのか」の判断規準が不明、②だと「先生の言うことに理由もなくしたがっている状態はダメ」と判断規準が作れるので、やっぱり②として考えたいんだけども、
これは共有できなさそうでもある。

……とここまで書いておきながら、①か②かみたいな研究っぽい議論を避けたい気持ちもある。
個人的にはオンライン研究会だと細かい&先行研究を見ながら合意を取っていく密なコミュニケーションが取れないから。
せっかくいろんな人がウェルカムな雰囲気で話せるので、授業研究みたいなことを期待しもしている。
研究的な厳密さよりも、「この授業の目的は何で、それを達成するための構成ってどんなんだろう?」を考えたい。
(これまで見てきた限りだと、目的と構成が気になるものが多かったというのもある)

参加させてもらっている割にはいろいろと思わずにはいられないのであった。

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【図解まとめ】小玉重夫(2009)「教育改革における遂行性と遂行中断性―新しい教育政治学の条件―」

この前、仲間内で行った読書会のために作成した図解。

「教育の政治化」って何なんだろうなと思って幾星霜、だんだんと分かってきたような感じがするので以下メモ。

  1. 「政治化」には2つの意味がある。
    1. 「子ども」を「保護の対象・進歩の象徴(教育学的子ども・青年把握)」としてではなく/としても「共同体の一員・社会の形成者(政治的子ども・青年把握)」として(も)捉えるようにする
    2. 教育学を「教育行政から指示・方向性を受け取って、その遂行を行うもの」だけでなく、「教育行政へ指示・方向性を与えるもの」としても捉えるようにする
  2. 教科教育で「政治化」と言うとき、「教育行政へ指示・方向性を与える」より前のステップである「なぜ『教科』なのか」を問うことと説明することとが現状重視されている(例えば 草原(2021)「21世紀の教科教育とその新しい研究」
    1. 教科のなかでも「なぜXX科があるのか」「XX科の存在意義は何か」など、「なぜ『教科』なのか」を考えることはあまりないという認識が前提
    2. しかし「なぜ『教科』なのか」がないと、XX科が果たしてきた役割や意義も吟味されないまま、時の教育行政・世論によってXX科が消えたり復活したりする(高校の教科・科目再編など?)
    3. 最終的には教育行政(世論)へ「……というのがXX科の存在意義なんだ」と提示できることが目指されるものの、まず教科教育界隈が「なぜ『教科』なのか」を考えることが先立つ

 

もうちょっとすっきり整理できそうだけど現状ここまで。

 

小玉重夫(2009)「教育改革における遂行性と遂行中断性―新しい教育政治学の条件―」日本教育学会『教育学研究』76(4)、pp.14-25

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/76/4/76_KJ00005983123/_pdf

 

 

小玉2009「教育改革における遂行性と遂行中断性―新しい教育政治学の条件―」の奥村的まとめを図解しました。

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教育学研究科修了から就職、独立研究者へー独立研究者…?ー

3.独立研究者…?

なんやかんやで就職した後、大学院で学んだ知識や培った能力は企業戦士としてだけ活用されているのか?
……そういうわけでもなく、「修了後も研究活動は続けたい!」という思いはあった。

しかし、大学に属していない、教育学・研究活動とも関係ない企業にいる自分が「研究」しているといえるのか
という悩みに答えるアイデンティティが「独立研究者」。

というのを指導教員にアドバイスいただいたけど、今でもそれって何なんだろうと思う。「研究者」と言うと(教育学の場合)「大学に所属していること」が前提なので、「大学に所属していない」ということは言う必要があるけど、うまいフレーズが思い浮かばない。

そこで自分が何をやっているのか整理し、そこから「独立研究者」ってこういうもの!と言えるようにしておく。

例えば一日のスケジュールはこんな感じ

8:00 起床(立ち上がるという意味。目は7:30ぐらいに開いている)

9:00 始業(リモートなので通勤なし)

~打ちあわせだったりタスクだったり~

12:00 休憩(自室で済ませる:外で食べる/買う=2:1ぐらい)

13:00 再開

~打ちあわせだったりタスクだったり~

18:00 終業(PCをシャットダウンする)

19:00 自由時間

24:00 就寝

基本的には19:00以降の自由時間に研究関連の本を読んだり、研究の打ちあわせの準備をしたりする。

大学にいる人たち(院生・大学教員)も随時打ちあわせなり授業なりあると思うが、それでも9:00-18:00の間で1時間以上は研究関係のインプット・アウトプットができると思う。

それに対して、私の場合研究と関係がないこと(仕事)で1日が満たされているので、院生・大学教員に比べると圧倒的にインプット・アウトプットが少ない。(仕事は仕事で面白い)

そのため、日常的な行動としてはとてもじゃないが「研究をしています」とは言えない。そのため、日々の行動(インプット)ではなくアウトプット(発表やら論文投稿やらディスカッションやら)で「研究者」の皆さんと同じことをすることが「研究をしています」と言うためには必要なのかもしれない。

「これこれをしているから研究している」ということ自体おかしな話なのかもしれないが、ひとまず発表・論文投稿など「研究」と思しきことをしていれば「研究者」と言っていいだろう!ぐらい、ゆるく考えておく。

そうすると「研究者」から「大学に所属していること」が分離され、「独立=大学に所属せず」「研究者=発表・論文投稿等を行っている人」というアイデンティティが確保できそう。

とここまではあくまで自分自身の心の持ちようなので、発表するときに記入することが多い「所属」欄には何を書けばいいのかいまだわからないまま。(独立研究者と書いていたけど、ある大学教員に「所属は籍がある場所であって、独立研究者は籍じゃないから『所属』欄に書くのはおかしいんじゃないか」と冗談めかされた。迷いものだ。)

なんにせよ、大学に所属せず「研究をしている」というのが教育学の場合「理論と実践」問題を解くうえでも大事なんだろうなーと思いつつ、「大学に所属していること」と「研究」とが密接につながっている現況、「研究をしています」というのにためらいを感じないわけではない。

いい感じの表現だったり、何らかアイディアがあったら教えてください。

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教育学研究科修了から就職、独立研究者へー教育学は役に立つか?ー

【前回はこちらから】

2.教育学は役に立つか?

「役に立つか」という聞き方がどうなのかと思うけども、直感的には「役立っている」と言える。
「役に立つ」がどういう状態なのか、「役立つ」だけがすべてではない、というのは前提で以下。

① 「誰に伝えるか?」に応じて、伝え方を変える練習ができた
教育学をやったからこそのものというわけではないかも。でも対象に応じて同じことを違う仕方で伝えるのは「授業を作って発表する」という場面で特に鍛えられた。

授業を作った(そして添削された)人には当たり前かもしれないけど、本読んでわかったことをそのまま授業にはできない
わかったこと・調べたことを授業・単元として再構成するためには校種(小学校、中学校、高校)、学年、クラス、生徒、他クラスの進捗etc......
いろいろ考えて「この内容を誰に伝えるか?」を第一に決める。

同じ内容でも「誰に」が変われば伝え方も変わる。
最初に何を聞くか、どのような返答が来るか、何を資料として出すか。「授業を作る」だけでも「誰に伝えるか?」をかなり考える。

しかもそれを発表するとなるとなおさら。
大学院の授業で発表するなら、授業理論や教育思想をきちんと伝え、それと授業との対応関係を説明しなければならない(そうじゃない場合もある)。
授業はあくまでも「子ども」に伝えることが第一なので、今度はそれを研究者」向けに再構成する。

学問知を「子ども」に伝えるために再構成➡作った授業を「研究者」に伝えるために再構成

 

② 「何のために」やるのか?を考える習慣がついた
教育学のなかでも教科教育学(社会科教育学)を勉強したからか、「なんのために」をまず考える。と指導された。授業を作るにしても「その授業をなんのためにやるのか」、発表するにしても「その一文はなんのために入れているのか」(言い方はもっと優しい)。

教育は教育する側が意図をもって組織・計画するものだから、教育を学ぶなかで「誰が、何のために」を考えるようになるんじゃないかと思う。
こういうことは研究するうえで必須だけども、日常的に目的を考えるようになってどういう行動だったり資料だったりがいいのかを判断できるようになった(やるかどうかは別)。

 

ほかにも歴史学とか地理学とか経済学とかいろいろ勉強できたのも社会科教育学をやったからだと思う。

何でも教育(教えるー教えられるのコミュニケーション)に見える、なんてのもあるかもしれないけど、社会生活一般でのコミュニケーションに関する汎用的な能力に絞って言えば①②が挙げられる。
そしてこれらが就職に活きたかもしれない。
こうやって考えると、「教育学=教師のためのもの」はもったいない

 

(なお、教育学よりも社会科教育学のほうがアイデンティティは強い)

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教育学研究科修了から就職、独立研究者へーなぜ教師にならなかったのか?ー

月並みなタイトルだけど、割と経験談みたいなのがネットになかったので参考資料の気持ちで記録。

  1. なぜ教師にならなかったのか?
  2. 教育学は役に立つか?
  3. 独立研究者…?

※1を書いたあとで「これは長くなるな……」と思ったので、とりあえず1まで。2以降は別のブログに。

1.なぜ教師にならなかったのか?

なかなか答えるのが難しい。「就職した先輩に『うち受けてよ』と誘われたから」ではダメかもしれないので、自分なりに理由付けを2つほど。

① 教育学を「教師になるためのもの」と捉えるにはもったいないと感じたから
教育学部に進む人の大半が「教師になりたい(少なくともなることを考えている)」人なので、「教育学を学んだなら、将来は教師だね」と考えるのは当然だと思う。
でも本屋で「教育学」の棚に行けば分かるけど、「教育」は学校だけのものではない、つまり「教師になるためのもの」ではない。公民館でやっている講座だって「教育」だし、企業の研修だって「教育」。意図的・計画的に自分たちの文化や知識を伝達している生物って人間だけなのでは、と思うぐらい世の中は教育にあふれている

であれば教育学は人間の行動とか社会の成り立ちとかを「教育」というコミュニケーションから考える分野なのかもなあと思った。これだけ「教育」にあふれた世界は、教育学を活用することでもっとクリアに、良さも悪さも見えてくるのではないか……

そのためには教育学を学んだ自分が学校の外で「教育学って教師のためのものじゃなくて……」というのをアピールするのもいいかなと思った。簡単に言えば「教育学ってもっと活用できるんじゃないの?」ということになります。


② 教師を取り巻く現状に不安を覚えたから

これはシンプル。某バトンで分かったように、なかなか教師を取り巻く現状は厳しい。もっと頑張れという批判も「応援」の顔をしているし、何より「子どものため」という文句に弱い社会なので、どうしても教師へ負担が集中する。①と関わって「教育=学校の役割&教師の仕事」だと思っている今の社会では特に。GIGAで配ったタブレットを家庭でどう使おうが知らんがなと思うけども、それも教師の仕事だと思っているような社会ではなかなか自分はきついなと思った。

だいぶ回り道だけど、じわじわと「教育」とか教育学とかにまつわる「(誤解を恐れず言えば!)誤解」を解いていくことが不安を解くことになるのではないかと期待しています。

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