研究ブログ

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2018/12/31

生きている哲学

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疑問に持たない人は持たないのだろうが、いいかげん人生の残りもあまり多くないのを自覚すると、さて、残りで何ができるか、と、冷蔵庫の残飯整理のようなことを考え始める。

自分の専門としては、哲学なわけだが、アカデミックな意味で「哲学」とされているものが、とくに現代哲学とやらが、あまり意味がないのではないか、といぶかっている。そもそも哲学に、現代も古代もあろうものか。もちろん、歴史的な事実として、「古代哲学」や「中世哲学」、「近代哲学」と名付けるのはわかるのだが、それらもまた、現代に問うているから哲学なわけで、逆に歴史的な事実にもなっていないうちから「現代哲学」などというのは、ありうべくもあるまい。

以前、フランスなどでは高校で哲学を教えているということに、いたく感銘を受けた。が、その中身を知るにつれて、ばかばかしくなった。現に、ヨーロッパを何度か旅しても、フランスの本を何冊も読んでも、中等教育以上を受けたはずのフランス人が国民性として哲学的になったとは、とうてい思えない。

日本でも、やたらフランス「哲学」押しの哲学学者がいるが、かれらの生き方からして、あまり感心できたものではない。どこか人間的におかしい。哲学が生きているとは思えない。実際、読んでも、向こうで人気とか評判とかいうものが、やたら難解な文体や造語のわりに、我々にいったい何の意味があるのか、理解できない。まさに思想的なアイドルで、熱狂的なファンがいるだけで、まるで哲学的KPOPのように思える。

フランス哲学といっても、むしろ古いモンテーニュやパスカルなどは、以前から繰り返し読んでいる。当時の人物評などが多く、わかりにくいところも少なくないが、そこには人間観察の普遍性があり、いまの時代にも照応する。なぜああいう哲学を、フランス人はできなくなってしまったのか、そのことの方が興味深い。

デカルトにしても、当時からすれば、自己啓発の成功哲学。ホッブス的な意味でゼロ状態の移民が集まった米国の熾烈な競争社会で生まれてきた多種多様な啓蒙思想については、どういうわけか米国のアカデミックな哲学関係者ですら関心を示さない。日本においても、西田だ、岡倉だなんかより、福沢や渋沢、松下幸之助などの実業家の思想が、大きな影響を与えてきた。いや、日本人の人生観や世界観のもっと根底には、自然と向き合う米作りのような生きている哲学がある。

おそらく「現代哲学」などというアイドル的思想は、ファンがいなくなれば、同時に消えてしまうだろう。修道士がいなくなった後の中世の神学のようなもの。一方、古代から繰り返し読まれてきた古典哲学、そして、これまで言葉にならなかった生活哲学、また、神無き時代に暗中模索されている成功哲学のようなものは、次の時代にもまた、哲学であり続けるのではないか。

いまさら同輩ごときに評価されたいとも思わないので、軽佻浮薄なアカデミズムの流行を追わず、やるべきことをやろうと思う。そんなことを年の瀬に考えた。
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2018/11/27

哲学入門書が増えている

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気のせいかもしれないが、哲学入門書が増えているような気がする。これは、とても喜ばしいことだ。

とにかく、昔はひどかった。個人趣味の強いラッセルの通史なんかのほかは、東大同門の原稿の寄せ集めみたいのしかなくて、それも自分の専門研究対象を一言でまとめるのがヘタすぎて、ただのとっかかり。明治にできた漢語訳術語も、ズレが大きく、結局、原書に当たらないとさっぱりわからなかった。それが、なんだかいまはいろいろ。

うちらの世代だと、こういう仕事をしようものなら、おまえなんかには50年早い! などと、教授連中がすぐマウンティングしてきた。通史や若手を潰せば、自分たちの方に読者がつくと思っていたのだろうか。実際は、連中の半端な解説書なんかすっとばして、原書へ。彼らの本は、図書刊行費補助で数百部だけ刷られて、図書館に入っているが、「のである」文体で、主語述語の対応もおかしく、日本語として読めたものではなく、実際、だれも読まないだろう。

通史や概論は、大切だ。全体像がわからなければ、個々の部分も何の意味があるのか、何の議論で出て来た概念なのか、わからない。それがあまりに欠けていたことが、哲学衰退の大きな原因の一つだろう。教養学部が解体され、学閥系列が衰退し、補助金を注ぎ込んでも専門図書が出せなくなって、マウンティングする立場の連中の力が弱まったことが、新しい世代のチャンスになったのだろう。飲茶とか、小川仁志とか、小島優子とか、田中正人とか、けっこうおもしろい。ほかにもいろいろ出ており、それが理系出版社だったりする。

ただ、ちょっと気になるのが、やはり手に負いきれないのか、原書ではなく、まさに旧世代の寄せ集め事典からの孫引きっぽい説明が多いこと。1項目のために、ヘーゲルの『大論理学』を数ヶ月がかりで原書で読んで理解するような手間をかけていないこと。旧世代の事典がダメだから、新しい取り組みが必要なのに。どうしても手に負えないのであれば、せめて近年の海外の事典の解説を読んだ方がいい。

一方、専門研究者が、世の枝葉末節を採り上げて、哲学ぶるのは、あまり感心しない。人工知能とか、生命倫理とか、自動運転とか、ネットやスマホとか。それは、テニスコートの線上のボールの判定のような話。世間の関心を引くかも知れないが、どのみち答えが無い、世の中(の力のある連中)のが好きに決めていくべき話だ。哲学が扱うのは、まずテニスコートとは何か、テニスとは何か、みたいな原理原則の部分で、些末なところは、そこからおのずから判断されることになる。
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2018/07/18

研究室のエアコンが壊れている

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猛暑だ。だが、おかしい、研究室の中は、炎天下の外より、さらに暑いのだ! 調べてもらったら、私の研究室のエアコンが壊れている。ほかのいくつかの研究室でも、そうなのだとか。1986年のポンコツ建物なので、配管が詰まって冷水が来ていないんだそうだ。で、うちに来るはずの冷水は、かろうじて生き延びている他の諸研究室の老朽エアコンに回って、そっちらへんは効きがよくなるのだとか。くやしいのぉ~。

配管の中を棒でつつくかなにかして直してくれんか、と頼んだら、ムリ、配管を取り換えるしかない、でも、いま、新学科の新校舎を建てていて、大成建設が手一杯なんだと。予算措置を含め、半年以上かかるみたいな話だった。窓を開けたところで、風が抜ける部屋の間取でもなし、こんなとこにいたら、命が危ない。というわけで、朝も休憩時間も、ひたすら流浪の民。

とにかくバブルのころの建物は、設計も、建築もひどい。省エネなんていう概念もないから、中と外の仕切りもなく、廊下がそのまま外につながっていて、冷房がダダ漏れ。おまけに動線もぐちゃぐちゃで、ドアのあるところですら、開けっぱなしにならざるをえない。安全耐用年数を見込んで定期的にメンテナンスをするという、建てた後の保守管理方法の設計もなされていない。だから、こうなる。壊れてから考える。日本中、こんなのばっか。冷房が壊れたなんて、堤防決壊よりまし。

ま、言ってどうなるものでなし、のらネコのように、涼しいコーナーを探して、学内をさまようばかり。研究室なんてところで研究をするわけでもないのだから、さして問題は無いようだが、うちの大学、学内の無線ネットも無い。研究室の有線LANだけ。学生の提出レポートは、研究室の直結パソコンでないと見られない。基本的に自動で返信や集計の処理ができるようにしてあるので、しばらくほっておくしかあるまい。
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2018/07/06

雨で休校

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大雨で全日休校だそうだ。大学の最寄の近鉄は動いているが、ほかでダメなところが多いらしい。学生はもちろん教員の多くが来れまい。私のように来てしまってから言われても、どうかと思うのだが、どのみちすぐ帰ろうにも、混雑がひどいので、ここでこんなことを書いてるわけだ。

今学期は、大雨だの、地震だの、休校が多い。越前屋のような文科省の御意向で、講義回数はこなさないといけないから、補講ということになるのだろうが、いまどきの大学、入試関連で、どこも日程が目いっぱい。ただでさえ7月末日までの春学期なのに、8月に食い込ませるのだろうか。昨今、学生も、遊びに行く以前にカネが無く、夏はアルバイトを入れている場合が多いので、どのみち集まりが悪かろう。

いっそ、勉強しナイト!なんてって、夜に補講したらどうか。BBQで盛り上げて、花火でもやりながら講義。たまにはそういう日もあっていいように思う。シラバスで縛られ、ただ単調に淡々と回数だけをこなすなんて、通信制の大学でもあるまいに、味気ない。

全学連以前、もっと昔。父のころの大学の話を聞くと、クラスも小さく、けっこうアバウトで、近所の農家から鳥をもらってきてみんなで焼いた、とか、野郎だらけの美大から女子学生だらけの音大まで、道路の下にトンネルを掘った、とか、いろいろエピソードがある。それでいて、あれだけ成果が出ていたのだから、すこしは今のやり方を反省してはどうか。人間は電子部品じゃない。規格どおりに物事を運ぼうとしたって、モーティヴェーションが下がる一方。

本来、大学なんて臨機応変で、勉強になりさえすれば、なにをやってもいいはず。それが学問の自由。自由というのは、好き勝手というのではなく、自発性、調べてみたい、学んでみたい、という内発的なところを生かすこと。それを外側から管理しているうちに、混沌が死んでしまった。

もっとも、それだけの内発性のある教員は減った。二流以下の大学の教員なんて、高校教師のように、カリキュラムどおりで、おもしろくもなんともない。おまけに人の足まで引っ張る。いま、東大を頂点として、公立中高一貫校で、オックスブリッジ型の考える入試へシフトしているが、やってみよう、考えてみよう、という意欲を潰してしまっているのは、いまの凡庸な大学教員とそれを取り囲むがんじがらめの制度であるような気がする。

さいわい、うちの大学、理事長=学長が太っ腹なので、ほかに比べれば、はるかに恵まれている。それでも文科省がうるさいのは、ほかとかわりない。もっとも、日本に限ったことじゃない。スイスとかドイツとかも、予算を含め、やたら大学への制度「改革」がひどいらしい。しかし、「改革」して、良くなっていないんだから、そういうの、止めればいいのに。にもかかわらず、だから「改革」だって。

なんだかわからない混沌の価値がわからないやつらが、やたら切り分けてダメにする。混沌だからといって、そこになにもないわけじゃない。その混沌こそ、内発性の原初。そういうわけのわからないところを残しておく度量がないやつらから、その度量以上のものは出てくるまい。

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2018/06/25

サバティカルと非常勤

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7~10年の連続勤務で1年の有給休暇。たいていの大学で制度としてはある。が、実際に取れるのは、同一分野の教員が全体でダブついている旧国立か、分野の狭い私立。昔のように「本年は開講せず」で済めばいいが、通常講義ですらシラバスに縛られ、一回抜けても補講が義務づけられる時代。実際となると、なかなか1年も抜けるのは難しい。それで、けちくさい大学だと、サバティカルの間の非常勤を探して来い、その分、給与からさっ引くぞ、なんていうところもある。

たしかに、だらだら連続でやっているだけだと、使い回しのノートをしゃべっているだけの惰性の教員も出てくる。たまには他の大学に行って、人の講義を聴いて我が身を振り返るというのも大切。とはいえ、サバティカルを取っても、ただ自宅でだらだらしているだけで、研修にも出ない、本も書かない、ぺらい論文だけ、なんていう教員も、少なくないような。

世の中は日進月歩。国際標準のカリキュラムも、どんどん代わる。大学の状況からして、各国、激変している。ただ、そういうのは、名目のきれいごとの理念と、現場の学生や教員の軋轢摩擦と、かなり乖離していることが多く、現場でじっくり観察して、多方面からグチを聞いてみないと、ほんとうのところはわからない。逆に、迎え入れる側も、他の大学の様子がわかって、良い刺激になる。そういう意味でもサバティカルは双方の大学のアップデートのためにも重要だ。

そろそろ私もいろいろ煮詰まってリカレントしたいのだが、やはりかんたんには状況が許さない。同期の加藤先生がバイエルンに行っていたようだが、うらやましいばかり。空気が変われば発想も変わる。年をとっても、まだまだ学ぶべきことは多い。

とはいえ、こんな話、昨今の万年非常勤の先生方からすれば、論外の待遇格差と思われるだろう。ただ、この業界、芸能に似て、当たるも運、外れるも運なところがある。専任が立派だとは思わないが、多忙さに潰されて業績が無い、あっても的外れで時代遅れな万年非常勤を見ると、いかんともしがたい。

せめて若手くらいはチャンスを、と思う。この業界のリクルートは、公募など当て馬の茶番、実際は指導教員や学会その他の裏の斡旋による場合が多い。だが、弟子として優秀であることは、教員として優秀であることを保証しない。現に、戦後の相続連鎖で、この有様。世界に通用する人材を採れているとは言いがたい。

それで、話は戻るが、むしろ強制で現役専任教員にサバティカルを取らせ、そこに完全公募の若手非常勤を5回x6人、あてがってはどうか。言わば、大学側の味見試食会。つまり、サバティカルで教員がどこかの「学生」になり、「学生」が教員になる。当たりはずれがあっても、5回くらいなら、ひどいことにもなるまいし、数十分だけの模擬授業ではなく、5回もやれば、教育実習並みに実際の学生側からの感想も出てくるだろう。

「余人に代えがたい」というのもいいが、カリキュラムとしての標準化も大切なところ。なにが標準的か、既存のロートルが鉛筆を嘗めて捏ち上げるだけでなく、若手非常勤たちから吸い上げることも、一つの方法ではないだろうか。八方ウインウインの新しい制度を考えないと、教員はもちろん、学科や大学、そして業界も八方塞がりで煮詰まってしまう。
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2018/05/21

M学院大学某教授の地位確認のゴタゴタ

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別に事情に詳しくもないのだが、同年代同分野の同業者のこととして、気にしてはいた。が、結局、今年も解決していないらしい。なにやってんだか。

事情を知らないくせに、面識もまったくないのに、口を挟むのはどうかとも思うが、しょせんは下衆の野次馬。印象としては、ちょっと売れたくらいで図に乗りすぎたと思う。渡辺昇一とか斉藤孝とかの路線を狙っていたのだろうか。人生感動ポルノまっしぐらの姜尚中みたいなのもいるし、政治学や社会学だと、そんなのでも研究だと言い張れば通ってしまうこともある。だから、気持ちは少しはわからないでもないが、個人的には大学の方に同情する。

なにより教養の倫理学の概論でヘーゲル一辺倒というのは、論外だと思う。個人の研究に学問の自由があるとしても、学生相手の大学としての講義は、私物ではあるまい。それぞれの講義は、カリキュラム全体の中での位置づけがある。専門課程の特論ならともかく、初歩の学生に一般教養を身につけさせる、という目的からすれば、いくら自分の専門がヘーゲルであっても、自分の専門外も勉強し、できるだけバランス良く、その科目全体に目配りして、一通りはなんか話を聞いたことがある、というところまで持っていくのが筋ではないのか。ヘーゲルだけで学問は完結しているのだ、ヘーゲルさえ学べば、すべては学べるのだ、などというのは、まさにヘーゲル主義者の傲慢たるゆえんで、人気があろうとなかろうと、こんなシラバスを平気で出すこと自体、職員と揉める以前に、全学部の全教員からしても、もとも彼のような学問的偏見を持った人物の採用は、教養センターの人事として不適格だった、と言わざるをえない。

くわえて、シラバスの参考書に驚く。どーでもいい自分の小説みたいなのまで、参考書として、学生に売りつけていやがる。これまた、そんなのも、講義に関係があるのだ、と屁理屈を捏ねるのだろうか。私も、東大で、講義内容と関係が薄い、法外な価格の教科書を大量に売りつけられてきたが、学生は紙くずの処分場所ではない。あいつらを反面教師に、私は、きちんと所定の給与をいただいている以上、プリントでもなんでも必要な教材は基本的に教員が準備するもの、と心得ている。参考書としては、無償で入手可能なものか、碩学先人の著書で、自分の及ばないところのものを、自分の講義の至らぬ不徳を恥つつ、慎んで名を上げさせていただくものではなかろうか。

さらに、受講制限だの、講義録音だので事務方とやりあったとか。これも面倒なやつだなぁ、と思う。大学というのは、一人でやっている人気商売の講演会ではない。多くの教員が多くの教室でチームとして学生たちのに教育に当たる。事務方は、その調整役で、大学全体としてのバランスに気を配るのは当然。もちろん一方的に事務方の下請をやっているわけではないが、事務方もまた同じチームのメンバーとして、どうするのが学生たちのためになるのか、を第一に、ともに考えるのが筋。講義の品質、効果や安全などを鑑みれば、ときには学生の意向どおりにするのが最善とは限らない。いい年して、このあたりを履き違え、学生たちを煽って、自分のワガママを押し通そうとするなどというのは、倫理的に人間として問題がある。

うちの大学も、大教室は教務でいつでもモニタできるようになっている。カメラまであって、他の教室にもプロジェクターで配信できる。モニタされたり、録画されたりしたら困るようなことは、いくら学生相手でも、そもそも大学の講義という場で口にすべきことではないのではないか。逆に、ずいぶん昔の話だが、自分の例で言えば、こんなことがあった。通信制の大人の学生が、私の講義のスライドにガイコツのサブミナル画像が表示されていて、あの先生は私たちを洗脳しようとしている、などと教務に「告発」した。教務の方からの連絡で、とりあえず講義で使っているパワーポイントを一緒に見てもらったのだが、その後のやりとりですぐに、その学生が、全日制に行かれないほどの精神の病を抱えていて、それも、かなり悪化していることがわかり、一件落着。その学生のためにも、早く発覚してよかった。

こういうときのためにも、いっそ講義なんか、全部、録画録音していてくれたら、とさえ思う。もっとも、テレビや新聞のように、文脈を無視し、特定の言葉だけ切り抜いてつぎはぎにされて文句をつけられても怖いので、そんなこと、うちの大学なら心配するまでもないのだが、じつは自分でも、講義はもちろん、ちょっとした会議でも、なんでもみな採って保存している。音声認識が進んだら、いつか講義録を機械的に文章に起こし、労無く一儲けをしようと企んでいるのだが、いまのPCの技術では、そこまでいっていないようだ。

で、結局、これまた私と同年代の根田先生と若手?の清水先生がやってるらしい。根田先生は、哲学ではなく倫理学とはいえ、東大で同時期だから同じ講義を取っていたこともあるとは思うのだが、恐縮ながら記憶がはっきりしない。いずれにせよシラバスを見るかぎり、以前に比べ内容的に穏当な感じだ。もともとキリスト教系の大学であり、倫理学はその根幹に関わる。シラバスからすると、大学側は、客寄せ型の古いマスプロ講義ではなく、学生ひとりひとりも主体的に参加させ考えさせる双方向性を求めていたのだろう。

ま、ひとごとは、どうでもいい。私も、大教室講義が少なくないが、これからの時代、大教室であっても、学生たちも主体的になる工夫が必要なのだろう。今年も、youtubeなんかも活用して、いろいろ実験してみているが、うまくいくだろうか。 
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2018/05/04

政治学・社会学の科研費

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文学部系教員の間で、とみに話題だ。共同研究にしろ、文系で億単位って、隣接分野ながら、いままでまったく知らなかった。たしかに理系は、機材費がかかる。しかし、政治学や社会学で、いったいなににカネがかかるのだろう。

成果を見たが、雑誌記事が大半で、どれもこれも同じ話を繰り返す、典型的なサラミ。こんなものを長年、継続にしてきた審査そのものの不正が疑われる。盗人に追い銭、というやつだろう。騒ぎになったら、検閲だ、弾圧だ、と逆切れしているが、学問の自由以前に、右か、左か、知らないが、どう見てもまともじゃない。

かんたんに、10年で6億として、年6000万。月500万。5人で割っても、月100万。それだけの金額を文系で使う方が難しい。もちろん、たしかにシロウトが考えるよりはるかに高額な資料もある。が、それは根本原典で、いったん買ったら、それを読み解くのに、数年はかかる。そうでもなければ、オークションにかけられるコレクション系の唯一無二の古書だが、これはもはや一研究室で管理できるようなものではなく、図書館か博物館の予算のはず。

どうも政治活動や社会活動の費用を捻出しているらしい。シンポに国外から著名学者を呼んで接待すれば、たしかに100万くらいにはなる。会場費もバカにならない。だが、きちんと計画されたものであれば、いまどき飛行機代も知れているし、月500万にまではなるまい。もっとも疑われるのが、政治活動や社会活動の補助作業を、法外な価格で縁故の会社などに発注して、そちらに活動資金に移している可能性だろう。

科研費であれば、大学の監査があるが、これまた同類がやっているのでは、ザルも同然。大学評価機構なんかだと、私立の熟練辣腕経営者なんかが入って、かなり厳しくチェックするだろうが、左翼右翼の吹きだまりみたいな大学では、話になるまい。

文学部系の教員仲間でウワサされている一説には、内閣機密費同様、これまでずっと科研費のカネでうるさい教員連中を飼ってきたんじゃないか、とのこと。大学に潜り込ませた密偵として、大学内の学生運動や教員動向などの情報を上げさせるために科研費が使われてきたんじゃないか、と。ほんとか、うそか、わからないが、ショーアップしたプロレス並みの茶番だったのか。

そんなウワサが出るくらい、金額として下衆の我々には想像がつかない。というか、正直なところ、そこまでの金額を使うヒマがあったら、静かに研究したい。とにかく、まともにやっていると、本一冊、読むのにも、繰り返し読み解くのに、やたら時間がかかる。まして、複数資料を突き合わせ、さらにそこから自分の考えを、あーだ、こーだ、と、草稿の山で模索するのに、かるく数年。私も根ツメの気晴らしに余計な駄文を書き散らすことはあるが、やたら政治や社会で活動的な「学者」なんて、人は人とはいえ、理解できない。一を語るには、十を学ぶ必要がある。まして、自分で動き、世間を動かすほどの確信を得るには、一生かかりそうだ。
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2018/04/25

show must go on

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昨日の夜は、こっちはひどい雨だった。それで、今朝、大和川にかかる近鉄の橋が傾いちまった。で、朝の8時前から橋の前後が運休。そしたら、電車が止まったので、講義、行かれません、というメールがちらほら。

おもしろいのが、これが3、4年生だということ。講義はふつうにやった。大半の学生、とくに1,2年生は、ちゃんと教室に来ているのだ。うちの大学の学則はよくできていて、きちんと、2本が止まったら、と、休校条件が出ている。最短の近鉄が止まったって、情報は8時前からテレビやネットでやっていて、雨も上がっているのだし、近鉄の方で迂回線乗り換えの手配もできているのだから、早めに家を出て、それにしたがってくればいいだけのこと。ところが、3,4年にもなって般教を取ってるようなやつらは、それができない。それができないから、3,4年でもまた般教の単位が足らない。

ツイッターとかで、近隣他大学は休校になったのに、とか、影で煽って文句を垂れているのも、たいていは、3,4年。あのな、芸大はshow must go onなんだよ。向いてないんじゃないかと思う。命が掛かっているような事態ならともかく、電車が止まったくらいで騒いでいたら、東京じゃ暮らせないぞ。なんのためにスマホを持っているのやら。

だいいち、これ、当分、復旧しそうにない。もともと百年も前の橋脚で、そもそも大和川からして、江戸時代に掘削された人工運河で河床が無い。つまり、泥の上に橋脚が置いてあるだけ。これまで傾かなかった方が不思議。クレーンで引っ張って、足もとを補強するとかで当座はごまかせるかもしれないが、それだって、けっこうな大工事。

こんなんで大騒ぎしていて、ずっと休校なんてありえまい。たしかに近鉄が最も速いが、あべの橋と天王寺駅は同じもの。JR関西本線快速で柏原駅に出れば、近鉄道明寺線がピストン輸送して、道明寺駅につながる。けっこう混むにしても、大学は朝が下り、夕が上りで、通勤とは逆方向だから、まだまし。時間的には、プラス1時間にもなるまい。

いなかものは、1回の信号で交差点を渡れなかっただけで、「渋滞」と大騒ぎする。逆に、とかいものは、電車が10分遅れただけで、ぶち切れる。世界の電車やバス、飛行機、道路の感覚からすれば、日本のいなかものもとかいものも頭がおかしい。そもそも日本は、生活を交通機関に依存しすぎているのではないか。あって便利だから使っているだけで、無ければ生きていけない、仕事にならない、というような、ぎりぎりのきわどい生活をしている方が問題だ。

大学生にもなったら、大学の近くに住めばいいだけのこと。学生が本業なのだから、それが当然だと思うのだが、わけのわからないトラブルに巻き込まれるやつにかぎって、わけのわからない屁理屈といいわけと当たり散らしが多い。電車が復旧するまで、モンクッターレが教務とかに絡むのだろうが、大学はおかーさんじゃない。電車の文句は、電車に言えよ。電車だって、安全のためなんだから、しょーがないじゃん、とか、思うのだが、あー、教務は当分たいへんそうだ。
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2018/03/03

多摩美の彫刻が炎上中

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読んだが、よくわからん。ので、一般論で言うと、大学が教員ファーストで、それに学生を割り振る仕組みが限界に来ているのかとも思う。とくに近年、立体造形が、インスタで建築や環境デザイン、舞台演出、芸術計画なんかともオーバーラップし、さらにプロジェクションマッピングみたいなのが出てきて、動的映像媒体化すると、木だ、石だ、金属だ、樹脂だ、という、素材加工技術だけ教えてきた諸先生など、学生側からすれば、お呼びでないのに異端審問!(モンティイパイソンのネタ)というやつだろう。

美術、音楽、ともに、いま、クラシックな大学は、ひどい状況だ。関東の某音大なんか、弟子筋も減って、もはや時間の問題だろう。ネズミ講が逆回転しているような状況だ。一方、分野に節操が無い、なんでもあり総合芸術大学の、うち(大阪芸大)は、うはうは、なはは。この時代に、なんか妙な人気があって、平気で不合格をいっぱい出さざるをえないような大繁盛の大盛況。入試課や教務課の努力尽力で、声優からダンス、ミュージカル、フィギュア、ラノベ、ロボット、よっしゃ、ばっちこーい、だから。

相撲やレスリングもそうだが、内部自治はダメだよ。どんな組織も、自分たちの軸足を変えるようなことを自分たちでやるわけがない。うちは、理事長なんかが芸術系じゃなくて、教育系なのが大きくアドバンテージになっていると思う。学科をほっておいたら、自分たちの同類ばかりを集めたがる。(実際、それでおかしくなっている学科もないではないが。)しかし、分野外で専門知らずの理事会が、まさに無節操に時代に合わせて方向転換して、ぜんぜん違うタイプの先生を、学科に有無を言わせず放り込む。で、多様性と適応力が維持されている。

和を乱す、なんて言うより、和は適度に乱れていてこそ、おもしろい。テレビの番組でも、作る側が揉めているくらいの方が、画面に緊張感がある。マンネリになってしまうと、先が読めて、おもしろさが無くなる。もちろん、渦中は、しっちゃかめっちゃかになることもあるが、それぞれが、どうにかしなきゃ、と、アイディアとアクションがうまく集まってこそ、活気が生まれる。

文科省は、シラバスだのなんだのうるさいが、大学は運転教習所じゃないよ。運転するなにかそのものを生み出すところ。きっちりと完成してしまっているところには、創発性の余地が無い。いいかげんで、無節操で、はちゃめちゃで、どーすんのよ、と頭を抱えてこそ、その窮地に、どうにかしよう、こうしよう、ああしよう、という、これまで考えもしなかった工夫が生まれる。

もちろん、このきわどいバランスを保つのは、容易ではあるまい。ばらけてしまってはしょうがない。かといって、固まってしまっても是非もない。甘酒を焦げ付かせないように煮詰めていくような火加減。この数十年来、いまの理事長の舵取りは、絶妙だった。さて、これがこの先どうなるやら。まあ、三代目もお坊ちゃまで、アートサイエンスなんていう妙ちくりんなところから、硬直しがちな体制に風穴を開けてきてくれているので、けっこう期待できると思う。
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2018/02/28

なぜ大学哲学は没落したか

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 ひとことで言ってカネにならんからだろう。オリンピック競技のようなものなら、マイナーでもスポンサーが付く。だが、いまどき哲学にパトロンはいない。小学校の図書館にあるような学童小説なら、数もはけるし、テレビドラマや映画にもなる。カネが動く。だが、哲学では話にもならない。

 ようするに、大衆資本主義、もっとかんたんに言えば、通俗かけ算商売とは、哲学はソリが合わない。なら、昔はどうしていたのか、というと、大学というものの基礎に選良高踏主義のような気風があって、世俗の連中とは違って、世界観や人生観を論じ合う土壌があったのだろう。その大学が、大卒資格だけの認定所となり、学生はもちろん教員まで世俗化してしまって、大学人の教養としての哲学もなにもあったものじゃない。

 おまけに、なんだろう、この足の引っ張り合いは。減っていくパイを奪い合って、同業者を貶し合う。その結果、大学再編の草刈場になって、哲学の常勤ポストそのものが激減。おまけに学生も、ナードばかりで、これでは魅力も無く、人気も出ない。おべんちゃらだけでなりたっているような現代芸術の方が、まだ求心力がある。

 だが、この傾向は、日本だけではないようだ。小学校から実学、実学。どうやっても、その延長線上に哲学の出る幕はない。また、知っての通り、一般社会人でも、アッパークラス、アッパーミドルクラスでは、スポーツクラブのジムでのトレーニングが当然になっている。ゴルフからジムにシフトしたのだ。一方、頭の中は、かつては英国パブリックスクールのように『対比列伝』のような史書が必読で、日本においても、司馬遼太郎のような史書が愛読されたが、近年は読書人の経営者や政治家というのは、あまり多く聞かない。大衆的な支持でのしあがってくるためか、サブカルに理解がある方が、ウケがいいらしい。とはいえ、人の上に立つのであれば、せめて『銃・病原菌・鉄』のような文明論的教養書は読んでいてほしいものだが。

 国家官僚や大学教授がもはや選良でなくなり、経営者や政治家が大衆の一部になってしまうと、そりゃ哲学は、変わり者ナードの手に落ちて、いよいよ社会的な価値と魅力を失う。とはいえ、これまた世界的に階層格差が開き始めている。そうなると、一部の選良学校では、子どもの時から帝王学の一部として哲学が復権するようにも思う。ブランドの制服もけっこうだが、知的教養としての哲学は、史書や古典、芸術などとともに、時間をかけて学ぶ必要があるので、圧倒的に階層を差別化してみせる威力がある。それもそれほど遠い話でもない気がする。
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