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鉛筆 発散…するのか…収束…するのか…(その2)


タイトルを

『発散…するのか…収束…するのか…』

という事で、記事を先に描いた。僕としては、数学の援用として描いた。此処に、先に描いた記事は、
僕個人の収束地である無限遠点の説明と、それから、収束する、発散するという事の
意味の説明が甘かったと感じている。これらを受けて、

1、他人にも解る『無限遠点』の提示とその説明
2、他人にも解る『収束する』『発散する』という事の現実的な意味する処


この2点を意識して、改めて、似て異なる記事を、自身のホームページの方に描いた。

数学の援用として、他人にも解る物を意識して、僕は描いた。
(理解されるのか、受け入れられるのかは別だけれど)


内容として、それぞれの記事にしか描いてない事もあるから、両方を読んでほしい…

けれども…先に描いた通り…

どうするのかは、あなたが決めて下さい。

初めて見る人…要は、同じタイトルの記事が2つあります。
それぞれ、別々の場所に…(その1)は、多分、この記事の下に、それから、
その2は、以下のページの方に

ホームページ:『AGM(数学、柔道) TAKUMARO'S FACTORY

クリックするのが嫌な人や、人に僕を紹介をしたいときは、

『takumaro』で検索

とお伝えください。それで、直ぐに僕に辿り着きます。

では。

takumaroは今日も往く!
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泣く 発散…するのか…収束…するのか…


始めに

始めに…こういう記事が、多くの人に理解されるとは、初めから僕も思っていない。
そして、また、期待もしていない。理解される事を求めても仕方がない。でも…
少数の人々なら…本当に少数の人なら…

簡単にこれからする僕のお話を言ってしまえば…

『人、それぞれが、『個性』を活かす。あるいは、『個性』に気付く。(この国は認めてはいないが…)』
『法則に(個性に)したがった行動を積み上げていく。(良くも、悪くも…経験を積んで行く。)』

最後に
『それぞれの目的地に辿り着く』

自身の個性に気付き、経験と行動を積み上げて、自身の目標を達成する。目的地に辿り着く。

極めて、当たり前の話
を僕はしている。ただ…現実社会には色々な事があるし、
また、考えられない事も起こる。それらを、数学を用いて、自身の経験を元に
書き起こした。そういう内容のお話になる。数学としてのツッコミ処は、多分、
満載なのだろう。僕でも思う。数学を用いて描いては観た。
どうしても…曖昧さは、残る。というか…僕の個人的な、かなり強引な数学の援用なのだろう。

多分…少数の人だけだ。理解を示すのは…
そもそも…理解できない人の方が、大多数だろう。
でも…理解できなくても…もし、あなたが、この先を読むのなら、
このお話を読んだ後に、もしかしたら、『何か』が遺るのかもしれない。
あなたにとっての、良い意味での効果を期待して…という微かな希望を持って、
これを描いた。勿論、僕の個人的な事情も含んでいるが。

『あっつ!(あなたにとって、良い意味でも、悪い意味でも)』
と思うのか…
『カチン!!!』
とくるのかは、僕には解らないが。

この先は、あなたにお任せする。


発散…するのか…収束するのか…(ここから本文)


『発散する』『収束する』という言葉は、
無限に続く(1番目、2番目、3番目、…そしてn番目、nの値が極めて大きい)、
数列が大きなn番目の時に、その数列がどういった挙動を示すのかに用いられる。
要は、数学における言葉の一つだ。僕は、この感覚の方が強かった。

大きなn番目の時に
1、数列が具体的な値を持つ。(あるいは、具体的な値へと限りなく近づいていく)
このような時に、
「数列が『値』に『収束する』。(例えば…数列が『0』に収束する)」
等と用いる。

大きなn番目の時に
2、数列の値が、どんどん限りなく大きくなる、
このような時は、『+∞』と表現をする。
逆も、同様で、どんどん小さくなる時は『-∞』と表現をし、その上で、
「数列が『+∞』(あるいは、『-∞』)に『発散する』。
等と用いる。

『発散する』にしても『収束する』にしても、僕の場合は、数学の中で、
その数列がどのような挙動をするのか、という感覚の中で用いる事が殆どだった。

しかし、ここ最近、僕自身の思考の挙動を観察したときに、どうも、自身の中で、
『発散する』事と、『収束する』という事を、繰り返しているような感じがした。
ここで、言った意味は、上記と近いのだが、(近いと感じている)
改めて、そもそもの言葉の意味を確認すると…

『発散』:意味
①(その内部に籠っている、『におい』や『光』、『熱』などを)
あたりに広がるように出すこと。また、そういう状態になること。
②(情熱などを)適度に行動に現して、ストレスを解消すること。

『収束』:意味
①それまでまとまらなかったものの間に次第に関連付けや歩み寄りが見られ、
最後に一本化が実現する(ようにする)こと。
②数学としての意味。(先に上記に書いた通り。)

(『発散』、『収束』、それぞれの意味は、新明解国語辞典第6版より)

数学に於いてその数列の挙動を表すために、『発散する』とか、『収束する』など
といった、表現をするのだけれども、そもそも、数学という枠を外しても、
しかも、其処に、数学的な色彩を保ちつつ、『発散』する。とか『収束』する。
という表現をしても良いような気がしている。僕個人的には。

というのは、

誰もが、自分の行動を現すような、固有の数列を保持している。
(これを世間一般では、『個性』とでも言うのだろうか…)


と僕は感じている。僕は『数列』の方がしっくりとくる。専門家だと、
『(連続する)関数』と捉えた方が…という人もいるのだろう。
ここで、『数列』なのか『関数』なのかは、左程、問題ではない。
要は、固有の『数列』であり、固有の『関数』が其処に存在するという事だ。

ここまでの、準備が出来た処で…
確かに、この数年間、僕は、色々な人々を観察する事を同時に続けている。
多分、同時に僕も観察されているのだろうけれど…勿論、僕自身も『僕』を観察している。

その人の…
1番目の挙動、2番目の挙動、3番目の挙動、…n番目の挙動、…
そして、『人生の目的地(あるいは、単純に目標)』
といった具合に…

さて、主観的なのか、客観的なのかという問題もあるのだけれど…
その数列が

『収束するのか?(人生の目的地、あるいは目標に、辿り着けるのか?)』

という問題が浮上する。ある意味、その人、個人にとっては大問題なのかもしれない。
少なくとも、主観的にでも、その数列が
『収束する』
という状態が望ましいとは、僕も思うし、そうあって欲しい。
しかし…実際に、世間では、現実社会では、その数列が

『収束する!(組織に従う!あるいは、『現物』を提示する。これ以上は今回は描かない…)』
という状態を見せないと人は(他人は)動いてはくれない。



『現物』が提示できるのが望ましいが、運が良ければ、
『現物に近い物』を見せても、
もしかしたら、その人は動いてくれるかもしれない。ただ、数学と違う事は、

『現物が奪われる事が在る。そういう人達が確かに存在する。
奪う者と奪われる者の存在。
(例えば…皆さんは『論文』を書いているから良く解ると思う。)』


という事だ。例えば…自分自身が描いた物が、他人が描いた事になる。そういう事だ。
それでも、やはり…ギャンブルをしなければいけない時もある。

『現物を見せる。』

という…でも、残念ながら…観察している限りは…

『その既得権益に帰属するのか?』

という踏み絵を、踏むのか?踏まないのか?を求められるのだろう。

まあ、それも込めて、その人のその挙動も込めて、決断をするしかないのだろう。
勿論、他人が納得できる『現物』を早く創る努力も必要だと思う。

『大学に合格をしました。』
『採用試験に合格をしました。』
『無事に参段に昇段をしました。』

卒業証書が在る。昇段証書が在る。…これらは、このお話に於ける『現物』を意味している。
基本的に、他人は動いてくれる。

「収束するプロセスに入っている状態(収束円の内部にある) ≒ 『現物』」

という処だろうか…ああ、勿論、収束半径をどう捉えるか?という差違もあるが…

さて…その人がどのような固有の数列を保持しているのか…僕の場合は、
算術幾何平均を用いて、その収束する値も込めて、

『AGM(数学、柔道)』

と表現をしている。ただ、問題なのは…このような表現が受け入れられるまでには、
まだまだ、時間は掛かりそうだ。個人的には、かなりの応用もあるように感じている。というのは、
実際には、僕は(名前は出さない)、

『AGM(数学、合気道)』

というモデルを観ていたからこのような表現に辿り着いた。しかも、
僕が感じる限りはそのモデルは確かに収束もしている。一方で…僕の場合は…改めて


『AGM(数学、柔道)』

収束するのか?という大問題を改めて感じている。でも、僕自身を観察して、
『僕自身がしている事は、他人に無限遠点を見せる様な事
(例えば…今、あなたの居る場所から地球の反対側へ辿り着く…
その場所とそのプロセスを他人に(あなたに)見せるという事。)』
という事をしている事と等しい(僕は自身をこのように感じている)。

ただ、個人的には、確かに、数列として

1番目の挙動、2番目の挙動、3番目の挙動、…n番目の挙動、…
そして、『人生の目的地(あるいは、単純に目標)』
といった具合に…何処かに近付いてはいるようだ。
基本的な数学の『収束する』の意味に於いて(収束半径はともかく…)…

それでも、客観的にみても、数学としても、言葉の意味でとしても、確かに僕は
『発散する』という事と、『収束する』という事を繰り返しているようだ。
例えば…
先に、言葉の意味を提示したように、こうした記事を此処に書いて公表する
という事は、僕の内部に籠っている『何か』を『発散する』という事でもあるし、
また、同時に他人が良く解らない物を、『現物』を見せるという形式に載せて、
このお話でいう『収束する』という事をしている。とも取れる
(収束半径はともかく…)。
だって、少なくとも、

『あなたは、これを記事として読んでいるのでしょ…』
(現物を見せれば、確かに人は動く…)

さて…
何処まで往けるのか?
まあ…往ける処まで往って見せましょう。
takumaroは今日も往く!

あとがき

久々に、此処に記事を書いた。内容は、
『数学』を用いた、僕自身の考察だろうか…
個人的には、これも、数学の一つの援用と考えて、
また、極めて少数だとは思うが、こういう物(記事)に理解を示す人も
いると考えて此処に書いた。
そもそも、『数学』に理解を示す人…
『数学』という経験を積んで来た人…既にかなりの少数である。
そもそも、この記事が削除されずに、此処に遺るのか…
「そういう、怖いもの見たさ」
もある。この社会は、それだけ(少なくとも僕の)信頼を失っている。
此処でも、健全な精神は失いつつある。実際に、
『健全な精神』
を披露しているだけなのに、
此処での他人の記事が削除されているのをたまたま僕は見届けてしまい、
それで、一気に僕は、此処で描く内容を精査するように僕自身が変った。
事実上、自身の居場所を他に求める事になった。

現在の僕の基本的な活動場所は

『AGM(数学、柔道) TAKUMARO'S FACTORY』

になる(リンクは貼ってある)。これからも、何かを『描く』という事は続けて往く。
数学で培われてきた『描く』技術が、数学そのものではなく…という皮肉と…
それから、数学で培われてきた『健全な精神』の置き場所が…
此処は相応しくない…という…これまた皮肉を感じつつ…

ただ…僕も悪党でもある。此処は、確かに『折り紙付き』だし
少なくとも、僕が誰なのかも、あなたは解るでしょ!
『誰なの?誰が、その記事描いたの?』
そういう事を他人に提示するのには、此処は、威力を発揮する。

かつて…匿名で悲痛な叫びを言葉にして…『日本死ね!』と描いた方が、
いらっしゃったが、それで、人々が動いたのだろうか…
まあ…動いたとも言えるか…僕は、この時に…この記事に対して
『誰が書いたの!!!』
とヤジを飛ばした責任のある権力者たちの姿を見て、
『この国は終わったな…』
とこの時に感じた。ああ…もう止めよう…

とにかく、最近改めて気付いた事がある。それを披露して締めくくろう。
それは、今回の記事とも関連する僕の呟きでもある。
(既に、ツイッターで少し前に呟いた物だが…)


(2018.7月3日のツイッターより)


『『国破れて山河在り』この国が、国の体をしているのは、
少数の…『山』とか、『河』みたいな存在の人達がいるから…
取り敢えず、僕も『山』とか、『河』みたいな存在を目指そうと思う。』

改めて、確かに其処を目指すとなると…
モデルは沢山あるが(1人の合気道家と柔道を通じて出会った人達の事、確かに存在)…
…『山』とか『河』とか…まるで、
今いる場所から、目的地が、地球の真裏で、其処が目的地!?
であるように感じ…とても…収束するとは、これまた思えないのだが…
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にっこり Researchmap の使い方を分析してみた


SNS上に、こうした多機能の、しかも、『無料』で、余計な広告等も入り込まない
自身の個性を開示する場所が提供されているのは、僕個人としては、とてもありがたい。
というのは、僕は、この社会から正当な対価を獲ているわけではないし、そして、
また、僕自身も、取り敢えずの対価を獲るための労働をするつもりもない。
現在の僕は、生存権を確保するだけの対価を獲るための労働しかしていない。
それ以上は、はっきり言ってしまえば、一切するつもりもない。
今の社会は、残念ながら、息を吸うだけでもお金(対価)がかかる。

話をSNS上の話に戻ると、最近では、Facebook,ツイッター、あるいは、それぞれの
企業が提供しているブログなどの、やはり『無料』のSNSのサービスが提供されていたりする。
けれども、これらは、基本的には余計な広告が入り込んで来たり、あるいは…
『無料』というものを隠れ蓑にして、恐ろしい利用規約を組んでおいて
利用者の財産(の一部)を根こそぎ平然と奪うような
システムが平然と存在している。つまり、
自身の正当な権利を主張するためのSNS上にその場所を獲るためには、
相応の対価が掛かるという事だ。サーバーという場所を確保し、SNS上で
『表現するためのソフト(現在では事実上はSNSに組み込まれているが…)』
を購入し…

このResearchmapだって、相当にお金が掛かっているはずなのだろう。今は、
技術が物凄い勢いで進歩しているから、このようなサービスを提供するための
経費は、以前よりもそれほど掛からずに済んでいるのかも知れないが…
そもそも、ここの利用者の殆どの人は、
そのような事にも気付いてもいないのだろう。また、
これだけのサービスが提供されている事にも気付いていないのだろう。
あるいは、このサービス…つまりソフトととして使いこなせていないか…
僕も人の事は言えないが、このサービス、ソフトとしての使い方を勉強しながら
なんとかここまでやってきた。

このResearchmapの具体的な機能はどんなものがあるのだろうか?
1、コミュニティー内外に於いて、就職活動等ににおいて、相手方に提示する
 個人情報(履歴書に相当する物)を開示できる。学歴、職歴、研究歴、
 業績(学会発表や、論文のリスト)、所有資格(例えば教員免許など)
 等々を開示できる。
 
 (僕の場合は、結局、情報として相手方に開示するのは、当たり前なのだけれど
 本質的には同じだから、だったら、初めから、こちらの『情報』は開示して
 おいた方が良いと考えている事。また、
 同時にこちらのライフスタイル(思考や言動の特性)も
 合わせて公開をしている。その上で、今の社会がどの程度の物なのかを
 こちら側から見物している。もっとも、僕もあなた方から
 見物されているのだろう。これ以上は今回は言わない。)

2、個人のホームページとしての機能を十分に果たしてくれる。
 
 (僕が感じたことは、ブログの機能が付いていたり、さらには『公開資料』
 として講演資料や論文、自身が受け持つ講義の資料を公開出来る事。さらには、
 ブログの更新や、『公開資料』の更新に関しては、このResearchmap内では
 『新着ブログ』等といった具合での新規情報の配信の機能があること。ブログに
 関しては配信の機能が在る事は知っていたが、
『公開資料』にもそのような配信の機能があるとは思わなかった。最近になって
 僕は気付いた。だから、これは、僕の反省なのだけれど、
多くの人に読んでみてもらいたい『記事』をアップするのならば、
初めから設定されている『公開資料』の
中にも、例えばPDFファイル等を置いた方が良い。)

3、Researchmapというコミュニティーを通して自分に近い研究をしている人達が
 解る。

 この世界は…続けて往けばどんな世界もそうなのだろうけれど…実に狭い社会…
 けれども、自身が気付かないところまでの世界の広さを、このResearchmapは
 提供してくれている。

(ここから先は大学院生以上へ、具体的には研究者を目指している大学院生へ)

Researchmapの機能は、これ以外にも沢山ある。今は、殆どのコンテンツが
そうなのだろうけれど、ResearchmapはSNSの一つであるとともに、同時に
SNS上に組み込まれているホームページを作成するソフトの一つである。
ソフトなのだから、独自に勉強をして、このソフトを使いこなせるように
なるしかない。話を就職活動に振るが、これは僕の考え方だけれど…
『就職活動とは、その個人の『個性』が在る社会から受け入れられて、
しかるべき活動拠点を獲る事。そして、その対価をその活動拠点から獲る事。』
という事になるのだろうか…この観点に立って考えた時に
就職活動で先ずする事は、
『社会に対して、個人情報(個性をメインにした)の開示』
という事になる。そして、あなたが、もし、
このためにSNSを利用するつもりならば、このResearchmapは極めて
強力な道具(ツール)として機能する。何をもって、
僕がこう言っているのかというと、具体的に僕の本名
『小川琢磨』
と打ち込むか、あるいは、
『研究者 小川琢磨』
と打ってGoogleやYahooで検索してもらえばわかるけれど、
このResearchmapの今あなたが見ているページが検索結果のトップに来る。
通常は、中々、自身の個人名で検索をした処で、中々、検索結果のトップには
来ない。そのようなことをして解る事は、自分との同姓同名が
「…ああ、こんなにもいるんだ…」
位なものである。ネット上で検索結果のトップを取るのは、当然なのだけれど
かなりの労力がいる。けれども、このResearchmapに関しては、何らかの意図
が機能しているのだろうか…見てもらえばわかるけれど、何もしてないわけでは
ないけれど、僕がしている他の方法と比べて、格段に易く、しかも早い段階で
このResearchmapのページが検索結果のトップを取るようになった。
どこの、SNSを利用するのかを選ぶのは勿論あなたの権利だけれど。

ただ、このResearchmapのアカウントは誰もが持てるわけではない。
この、Researchmapのアカウントを取得するには、
相応の条件をクリアしなければ…
と僕は感じている。僕が感じた、その相応の条件とは
『修士論文がある。あるいは、修士論文に相当する公の著作が既にある。』
これになる。もし、僕ならば、この条件をクリアしていたならResearchmapと
直談判をする。また、逆に、何の実績も無いのに…というのもある。
本来は、こういうSNS上の場所というのを獲るには、相応の対価(現金)を
払う事になる。もう一つの僕の場所は、そういう意味で対価(現金)を払って
その場所を獲ている。では、このResearchmapは?
『Researchmapでは、『実績という対価』を払う事によって、その使用権利を
獲る』
そういう事になる。ここでいう、実績とは研究成果等になる。結果として、
Researchmapを通して、コミュニティーとしてのResearchmapも盛んになり
また個々の研究者の研究活動も盛んになる。勿論、以上のような事を
考えてこのResearchmapが作られたのだろうけれど…
もし、大学院生のあなたが、これから修士論文を描く状態…つまり、現状は
まだ『実績』が無い状態ならば、(あなたが、Researchmapを利用したいならば)
先ずは指導教官に相談をし、その後に大学院の事務と掛け合えば良い。
大抵は、これでよほどの事が無い限り
Researchmapの利用する権利が獲られるはずである。そして、早い段階で
Researchmapというソフトをある程度使いこなせるようになった方が良い。

(これより、先は、再び僕の現状の話)

ちなみに、現実として僕の場合は、既に、誰かの手によって
僕のページが作られていた。さらに、
その事に僕が気付いたのは何年も経ってからである。最初は…
『…誰だ?これ?(同姓同名なので気になった)』
こんな感じだった。ただ、既に、ページがある程度作成されてあった事は、僕に
とっては幸いだった。このページが作成されていなければ僕がここに現れる事も
なかっただろう。本人であることをResearchmapに申し出て、掲載されている
論文の一つと、その論文にあるメールアドレスを持って本人確認と実績を提示して
このResearchmapの利用の権利を獲た。
(遅らせばながら、最初にこのページを作ってくださった方、本当に
ありがとうございました。そのページがなければ、仮に僕が申し出でたとしても、
ここの利用する権利は獲られなかったと感じています。今後も、引き続き
大いに活用しようと考えています。)

ここは、Researchmapというコミュニティーであると同時に、
Researchmapというソフトでもある。今も、日々、手探りで
色々、Researchmapというソフトを使いこなすための勉強をしている。

で、最近の反省と、改めてのResearchmapというSNSに対する僕個人の実験的な
行動なのだけれど、せっかく『記事』を描いたのに、
SNS上にアップしたけれど…誰にも届いていないのは意味がないので、
前回のブログに関連する
『TAKUMAROの数学雑談』
にアップした2回目の記事
『三つ葉の描き方』
をこれを公開資料の方でもアップしてみようと思う。
(これは、上記の2で書いた僕の反省と感想を踏まえての行動になる。)
改めて、感じる事はどんなことに対しても、
『日々勉強』
これに尽きると思う。
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ニヒヒ 数学と柔道の接点 ロゴ AGM(数学、柔道)


AGM(数学、柔道)に関連する記事を、何編か書いてきた。本来は、今回の
一連の記事の中に、ここで発表する内容の物は当初は僕の考えになかった。
世の中は、組織にしても個人にしても絶えず流動的である。ひょんなことから、
『ロゴ』を作成することになった。で、今の段階では自画自賛なのだけれど…
出来上がった『ロゴ』のタイトルが
『AGM(数学、柔道)』
だよな…と感じた。それが、このタイトルになる。実際にどんな『ロゴ』
を作成したのかというと…




というよう物を描いてみた。『琢麿』とは僕の雅号である。下書きの線をワザと残したのだけれど、これは、数学を用いて描いたのを示唆するためである。
僕にとっては、この下書きの線も込めて作品になる。個人的には
気に入っている。で、結局、今は新たに開設したホームページ
http://www.factory-takumaro.com/
の『ロゴ』に使用している。『ロゴ』を作成して往く段階で、
「…これは、『記事』として残した方が良さそうだ…」
という事に行きつき、今回『記事』を描き上げた。記事のタイトルは
『三つ葉の描き方』
で、このページのブログを読んでいる人なら解るかもしれないが、
『TAKUMAROの数学雑談』
の2番目の記事になる。PDFファイルがそこに置いてある。
尚、数学に関する内容は記事のP5後半からP21までである。
数学としての内容は2つで、
1、『三つ葉という図形の曲線の描く』
これと、此処から派生した
2、『問題提起』
が、記事の数学の内容になる。
それ以外のページが
前後に3~4ページそれぞれあるが、それらは、僕の近況報告になる。
このような、数学の記事を描いていく過程で
『自然の中に存在する数学』
という僕個人の中での研究テーマが生まれた。
『TAKUMAROの活動』
つまり僕自身のこのResearchmap上の活動の2番目と4番目の活動が、今回の報告になる。今回の記事は
『三つ葉の描き方』
なのだけれど、僕らはlemniscate(これを二葉とみて)や、三葉曲線なるものを既に知っている。具体的には




赤はlemniscate(二葉)で
(x^2+y^2)^2=x^2-y^2
緑は(仮に)三葉曲線で
$(x^2+y^2)^3=x^3-3xy^2$
になる。これらの曲線には、円とπとの類似の関係があって、それぞれ、
弧長の全周を考えると、綺麗にベータ関数で表示される。
こう言った事とも関連する内容だよなと感じて、今回の記事の中で
『問題提起』p15~p21として、残して置くことにした。尚、上記の
lemniscateや三葉曲線は
『GRAPES』(GRAph Presentation and Experiment System)
を用いて描いた。
僕が使ったのは、
『GRAPES 6.77』
になる。尚、このソフトは、
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~tomodak/grapes/
からダウンロード出来る。しかし…ここだと、大抵の人は、私費を用いずに
何らかの形でMathematicaを自由に使える環境にある人なのだろうか…
ただ、僕みたいな人間もいるかもしれないので
(Mathematicaを自由に使える環境にない。)
その点も込めてソフトの紹介も致します。

今回は、此処から『TAKUMAROの数学雑談』から
『三つ葉の描き方』
という、『記事』を『情報』として発信します。
以上、そのお知らせまで。

今後も、このような形で
『TAKUMAROの活動』
を紡いで往こうと思う。
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泣く 中書き その2 (今後の活動)


先ずは、2つの反省と、今後の自戒も込めて…そもそもは、
ここのブログで
『数学と柔道の接点(僕が使っているAGM(数学、柔道)の意味)』
というシリーズを描いていた。このシリーズは、まだ途中である。仕事が未完の
状態である。描かれている作品の『前書き』あるいは『後書き』に相当する意味で
今回、ブログタイトルを『中書き』とした。前回アップした記事も完全に
『中書き』になる。それ故に『中書き その2』とした。

反省の1つ目は、とにかく
『数学と柔道の接点(僕が使っているAGM(数学、柔道)の意味)』
というシリーズを自身が納得する完結した処まで先ずは描き切ろう。そういう反省になる。このシリーズは、まだ、出来上がっていない。後、2回か3回で取り敢えずの
目途はつくと考えているのだけれど…

それと、もう一つの反省は、ここは、あくまでも
Researchmapという場所だ。そういう場所であることを踏まえて
その場所に相応しい活動をすべきである。確かに、ここは自由が保障されている。
この、ブログの最初から用意されているカテゴリーを見てもそれは解る。けれども、
常時、その場所に相応しい態度をとる。その場所に相応しい活動をする。
そうあるべきだろう。但し、僕が考えている相応しい態度や、相応しい行動は
世間や社会、あるいは組織と言ったものとは、
時に、ずれている可能性もあるのだが…

この2つめの反省に対して、今後、僕自身がこの
『Researchmapでどんな活動をするのか?』
を改めて整理した。その内容が、画面左側!?にある
『TAKUMAROの活動』
になる。

とにかく、今後も『記事』を描き続けて往こう。
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偉い人達に、責任のある人たちに、お金をお持ちの方に

 ここで、書く内容ではないのですが、一個人の一意見として提案いたします。熊本県の大地震に対して…

 

提案

 1、キャンピングカー10台(10台単位で)

2、キャンピングカーとキャンピングカーの間の床や屋根にするブルシート20枚から30枚、

 

これで、ある程度の機動性のある移動式の避難所が作れると思います。また、キャンピングカーですから、必要な水分も確保しておきます。また、寝る場所も確保できます。寝る時間をずらせば、これだけでも、相応の人達の非難する場所になると思います。

 

費用対価を考えて、どれだけの実効性があるのかは僕には解りません。勿論、既に実行されているかもしれません。…

 

偉い人達、責任のある人達、お金が在る方たちで、もし、この意見に

『費用対価とその実効性がある』

というふうに感じられたら、実行してください。また、この意見に賛成できると思った方はこの情報を拡散してください。

 

個人の意見として、ここに記します。

 

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笑う 数学と柔道の接点(僕が使っているAGM(数学、柔道)の意味)その5

(つづき)

 以下、今回の記事は、数学の算術幾何平均を読者は『既知(知っている)』であると仮定をして、さらに読者が僕にある程度付き合ってくれる(チャンネルを合わせてくれる)とも仮定して話を進めます。(良く解らない人は、このシリーズの3番目(前々回)、で確認してください。)僕は、僕自身の事を、算術幾何平均を用いて

 

『AGM(数学、柔道)』

 

と表現をしている。しかし、これは、極限値だから…ましてや、(数学、柔道)と正の実数でも無いので…数学者ならば、当然、次のような質問をしてくる。

 

『「AGM(数学、柔道)」、それは、収束するのですか?(あなたの望む、人生の目的地に辿り着くのですか…?)』

 

数学においては当たり前なのだけれど…そういう残酷な側面も含まれている。これも含めて、ただ僕は

 

『AGM(数学、柔道)』

 

で、往くだけである。これらを含めた、この表現を僕は気に入っている。

 

ここからは、

『何がオリジナルか?』

という話になるのだと思う。僕自身の事を表現した『AGM(数学、柔道)』は、少なくとも僕の中ではオリジナルでは無い。そもそも、このような考え方(表現)が、僕の中で誕生した経緯には、既に、このような表現のサンプルが目の前に現れたからである。それは…

 

『AGM(数学、合気道)』

 

である。この方式で往かれている方(ある先生)は、僕が感じている限りは、無事に収束している。おそらくは、ご自身が望んだ人生の目的地へと辿り着いている。(あるいは、近づいている。)また、これで、このような表現の強烈さが、このサンプルで、ある程度、良くも悪くも伝わるのだろう。

 

『AGM(数学、合気道)』

 

で、誰の事を言っているのか…数学者なら、数学の世界に身を置いている人間ならば、その個人が特定されてしまうのだろう。そういう可能性はある。勿論、僕がここで表現をしているのは、その人の事である。が、名前は言わない。勿論(幸か不幸か…)この方が、僕の指導教官だったわけでもない。個人的に、何度かお世話になっただけである。人によっては、今の僕がしている事を

『売名行為だ!』

と、罵る人もいるのだろう。この点と、『僕』という人間も込めて、これから説明をすると

 

『表現の自由と、僕自身と僕を正確に伝えるための表現、あるいは、表現手法としての

 

『AGM(数学、柔道)』

 

の意味の説明が主目的であるという事。そして、このような表現が僕の中で獲れたのも

 

『AGM(数学、合気道)』

 

という、モデルが在ったから(存在した)になる。僕の中では、これがオリジナルになる。そして、この、獲られた表現手法を用いて、僕の個性が加えられて

 

『AGM(数学、柔道)』

 

と、僕自身の事を表現してみた。そういう事です。そして、残念な事に…1サンプルしか確認できていない…というのが、僕が感じている現状です。』

 

折角、このような表現を提示したので、今回の記事の最後に、次回の記事と関連するような問題を提示して、終わりたいと思います。

 

問題 次の表現は、何を意味するのか?

(1)  AGM(男、女) (2)AGM(男A、男B) (3)AGM(女A、女B)

 

この問題の僕の応え(こたえ)は、次回の記事で発表しようと思う。そして、ようやく…僕自身が感じる範囲だけれど、今回のシリーズの最終記事に辿り着けたと感じている。次回の記事が、このシリーズの最終回です。あらかじめ…少し、時間が空きます。

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笑う 数学と柔道の接点(僕が使っているAGM(数学、柔道)の意味)その4

(つづき)

しかし、ここまで書いてきて、2番目の記事と関連して…

『…偶然、あるいは、機会を得て、他人が、その『描いた物』を見る。その他人は、見て、理解し、観る、に至るのだろうか…』

今回の一連の記事は、数学の算術幾何平均を知らないと、全くのチンプンカンプンの話である。それも困る。なので、前回の記事で、数学の算術幾何平均を言葉だけでの説明を与えてみた。それでも、

『相加平均』

とか、

『相乗平均』

という、単語を、数学を知らない読者が見たら、彼らは、どんな反応をするのだろう…

 

先日、柔道の審判講習会に出席してきた(そもそも、僕は審判資格を参段に昇段してから取るつもりであったのだけれど…道場の先生達に勧められたのもあり、講習会を受けて来た)。

僕が、柔道の審判講習会を受ける事もあり、『極め!の方Eさん』も、(ようやく?)この講習会に参加した。途中の休憩中に、ある先生が、問題(なぞなぞ)を出した。これが、キッカケである。

 

「少し、頭の体操をするか…

『3という数と、6という数の間にある、世界の都市は何処?』」

(ヒント:整数で考えて、間にある数を、実際に口に出して言ってみる。殆ど答えか…)

 

この、先生が問題を出題したのをキッカケに、そこに居合わせている者同士で問題の出し合いになった。そこで、僕も1問、出題した(以下が、その問題。勿論、僕のオリジナルでは無い。何かの本(『頭の体操?』)に載っていた問題である。)。

 

『『ある場所』から、南に10Km歩き、東に10Km歩き、北に10Km歩いたら…最初にいた『ある場所』に戻って来た。これって、どういう事?』

 

しばらくしたら、Mさんが、気の利いたコメントをしてくれた。(殆ど答えである。)

 

「(Mさん)…あれですよね…巨大な『球で』考えると良いんですよね…例えば、『地球…』のような…」

 

この、コメントを聞いた後に、しばらくしたら『極め!の方Eさん』も手を叩き、答えを僕に確認してきた。僕は応えた。

「その通りです。」

 

『極め!の方Eさん』は、よほど、この問題を気に入ったようである。少し、僕らと離れた処に居た、一緒に形の稽古をしている『極め!の方Iさん』に直ぐにこの問題を出題する。

 

『(極め!の方Eさん)ある場所から、南に10Km歩き、東に10Km歩き、北に10Km歩いたら…最初にいた『ある場所』に戻って来た。これって、どういう事?』

 

僕と『極め!の方Eさん』は、『極め!の方Iさん』の方を向き、その答えを待つ。『極め!の方Iさん』は、ちゃんと応えてくれた。

 

「(極め!の方Iさん)数字を3つ以上、含んだ『問題』を俺に言うな!!!」

 

僕と『極め!の方Eさん』は、この反応に大爆笑をしてしまった。と、同時に確かに、此処に真実(こたえ)が在るようにも感じた。なので、僕自身の笑いが収まった後で、こう言い添えた。

 

「…『極め!の方Iさん』、この問題のもう一つの『真実(こたえ)』に今のを加えておきます。」

 

 

人、それぞれが、『限定された場所』に所属し、その『限定された場所』を土台にして

『描いた物』を見る。見る事は出来て、さらに、運よく理解できても…観るためには相当な努力が必要となるのだろう。場合によっては『限定された場所』を離れる覚悟を求められるのかもしれない。

 

僕と、『極め!の方Eさん』は、『極め!の方Iさん』の応えに大爆笑をした。一方で、こういう人もいる。その人は知識や情報が足りなくて、理解できないだけなのに、そういう問題や困難に直面した人を見て、小馬鹿にして鼻で笑う人達だ。まあ、もっと言ってしまえば、

「色々な人間がいるんだよ…」

という事なのだろうけれど。これは、最近、僕が親父に言われた説教である。

 

『あなたは、どんな人?僕と同じように大爆笑する?鼻で笑う?それとも…?』(つづく)

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笑う 数学と柔道の接点(僕が使っているAGM(数学、柔道)の意味)その3

(つづき)

話を、今回の1番始めの部分の復習と、それらを数学を用いた説明をしたいと思う。

 

『現実と虚構の狭間で

自分が感じた世界をとにかく描く

数学という舞台において

柔道という舞台において』

『現実と虚構の狭間で、自分が感じた世界をとにかく描く』

という事を、とにかく僕は記事を書くという事でしている。

数学と柔道の接点というのは色々あると思うのだけれど、その接点の一つが僕自身の事なんだと思う。数学にしても、柔道にしても、どちらも『一生懸命』に取り組んでいる事、そして、この2つを人生の土台として『往き様』を貫こうとしていること、において』

 

で、僕自身のこのような様を

 

『AGM(数学、柔道)』

 

と、算術幾何平均を用いて表現をした。

 

数学のお話の一つである算術幾何平均を言葉で説明する。互いに異なる2つの正の数を取る(別に同じ数でもいいのだけれど…ここでは異なる2つの数を取る)。適当な2つの数を取るのだけれど、これが元になる。この2つの数を元にして、相加平均(2つの数の平均)で新たに一つの数を作り出し、また、相乗平均(2つの数の積の平方根)でもう一つの新たな数を作り出す。今、元になる2つの数から、新しい2つの数が出来た。再び、この新しい2つの数に対して、相加平均で新たに一つの数を作り出し、また、相乗平均でもう一つの新たな数を作り出す。さらに、新しい2つの数が出来た。再び…このような操作を、無限回繰り返す。この、無限回という表現は現実的な表現ではないのだけれど、少し説明すると、2つの数を元にして、相加平均という計算で生まれる数の並びと、相乗平均という計算で生まれる数の並び、つまり2つの数列が出来る。無限回繰り返すという事とは、このそれぞれの数列の極限値を考えるという事になる。この2つの数列の極限値は、実は一致する(同じ値になる)。それを、算術幾何平均と呼んでいる。例えば、元になる数が、1と15だったら、この2つの数を元にして、相加平均と相乗平均で出来る2つの数列の極限値を、

『AGM(1,15)』

と表記したりする。(この算術幾何平均の表記の仕方は幾通りかある。)

 

毎度の事なのだけれど、ここに来て、ようやく、数学の算術幾何平均の説明を与えた。実際の詳しい説明はtexを用いて次回の記事で数式を含めた数学的な表現を用いて改めて説明をします(の予定です…)。今回は、あくまで言葉だけで算術幾何平均の説明を与えてみました。全く、数学の知識のない読者を想定して言葉だけで説明を試みました。描く方も大変ですが、読者も努力してください。僕としては、以下の部分が、改めて読者に伝わり、なんとなく読者が、それぞれの感覚で

『なるほどね!!!』

となってくれる方のがありがたいです。

 

では、言葉で説明を与えた算術幾何平均と僕自身の現状を再び照らし合わせて書いてみたいと思います。

 

『数学という舞台、柔道と言う舞台を土台とし』

これが、算術幾何平均でいう、元となる異なる2つの数を取り

『往き様…というペンを用いて』

これが、算術幾何平均でいう、相加平均(仮に)という計算

『自身が感じた世界を描く!』

これが、算術幾何平均でいう、相乗平均(仮に)という計算

『以上の、行為を続ける!!!』

これが、算術幾何平均でいう極限値を考える。という事

以上を、僕は算術幾何平均の表記を用いて

 

『AGM(数学、柔道)』

 

と表現をしています。

 

ここまで、書き出せば算術幾何平均の表現に適応可能だと個人的には感じているのだけれど…数学を知らない、算術幾何平均を全く知らない読者を意識して、書いてみたのだけれど…数学者ならツッコミ処満載である。僕自身も、書いていて、数学者だと…何を相乗平均に、何を相加平均に…そもそも、収束するの?等々…

正確に伝えるために

数学を知らない、算術幾何平均を全く知らない読者を意識して、書いてみた…

数学者が出来上がった、これを読んでみて感じる事は…

僕自身も、自身の運転中の車のハンドルの遊びが無くなっているような気がしていて…

まあ、きりがない。それらは、以下に譲ろう。

 

『智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。

兎角に人の世は住みにくい。(夏目漱石「草枕」新潮文庫P5)』

 

まあ、とにかく僕はこの表現を気に入っているし、僕自身も物凄く納得している。僕自身の事を

『文武両道』

評されるよりは

『AGM(数学、柔道)』

と理解されるほうのが、超嬉しい。

「(…女子高生か!?まあ、多分、今はこれが適当な表現…)」

また、そもそも、『文武両道』にしても、僕の中では

『AGM(文、武)』

とした方が、より精錬された表現になると感じている。

 

今回の記事のここまでと、前回の記事の内容を照らすように書くと、読者のあなたが、数学の算術幾何平均という知識を保有していて、さらに、これを描いている僕との感性や感覚のチャンネルが合わせられるのなら理解は得られるはずだと僕は考えている。また、遊び心は在りつつも、かなり本気で僕は、こういう表現の提示をしている。また、世界は広い。このような表現を記事として発表されている場合も在るのかもしれない。この場を借りて、このような、ここでは仮に

『AGM(数学、柔道)』

という表現についての記事が、もし既に存在し、そのような事をご存知の方がいましたら僕に教えてください。今回の記事の最終記事で参照、参考文献として扱います。最終記事はtexを用いて数式を含めた数学的な表現を用いて改めて算術幾何平均の説明をします。の予定です。(つづく)

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ニヒヒ 数学と柔道の接点(僕が使っているAGM(数学、柔道)の意味)その2


 

(つづき)

アニメ攻殻機動隊(第1シリーズstand alone complex)…

僕は、個人的にこのアニメが好きなのだけれど…

このアニメのお話の最終話に出てくる笑い男のセリフ

『私は、私が見える世界を皆に見せるための機械だ。』

(注:この表現のオリジナルはジガ・ベルトフ(ジガ・ヴェルトフ?)、映画監督)

このセリフ、それから、この物語で描かれている『笑い男』…

僕がしている事は、これと、似ているといえば、似ている。同じである。と言っても良いのかもしれないが…もし相違点を挙げるのなら、僕がしている事、する事、あるいは出来る事は、

『描く(記事を書く)』

事…までであるという事だ。少なくとも(今は)『笑い男』のような、自分が得た情報を元にして社会に対して正義を振りかざすつもりもない。また、僕が

『描いた物』

を、今の社会が、理解し評価できる事、あるいは評価される事も、そういった事に対する一切の期待ももうしていない。

 

僕個人では、僕が描いたものを見て、理解をし評価してくれた人が存在(いる)事の方が驚きである。勿論、描いたものを理解し評価してくれている人の存在は嬉しい。

 

現在、僕は結果的に

『描いた物を見せる』

という事をしている。が、

『見ている人が観えているとは限らないのだ。』

まず、見ている人の能力の問題がある。つまり、見ている人の保有している「情報」、「知識」、「感覚」、「感性」…こういったものが無いのならば、残念ながら描いた物を見ても観えないのだろう。前回の記事ならば、「複素関数論を学んで感動した経験」、今回の記事ならば、「攻殻機動隊」の話、これらを「知識」や「情報」として保持をしていない読者には、さっぱりの内容になってしまうのだと思う。さらに、仮に「複素関数論を学んで感動した経験」が在ったとしても(かなり稀有で僕に取っては貴重な存在なのだけれど…)、その学問、複素関数論の理解の度合いや、あるいは、あなたが見ている物を描いた僕との「感覚」や「感性」のチャンネルを合わす事が出来なければ、やはり、観る事は出来ないのだろう。

 また、

『見ている人が観えているとは限らないのだ。』

という点において、逆に描いている人の問題というのもある。ここでは、勿論、『僕』という事になる。描きたい物を、描く技術が在るのか?備わっているのか?…そういう問題点だ。

だから、これらの問題点を、多少は解消するために(残念ながら完全に解消は出来ないのだろう…)、僕が出来る範囲で、この記事の読者に近づくような形で、これを書いているつもりではあるのだけれど…

 さらに、人々が

「描いた物を見る」

とは限らないのだ。そもそも、目をつむり、顔を背け

「描いた物を見ようとしない。見ない」

そういう場合だってある。それは、見る人にとって都合が悪いからなのだと僕は感じているのだけれど…

 

以上、述べて来た意味において、僕は「笑い男」とは違うのかなと感じている。僕がする事、出来る事は、とにかく

『描く!(記事を書く!)』

事。までである事。とは、こういう事なのだ。さらに続ける。

 

僕が『描く物』の中には、(あくまで描いている僕自身の感じ方に依るのだけれど…)公平を保つために、残酷な風景もある。既得権益を保有する社会や組織、さらには権威者、権力者からすると…

「…チッ!!」

という風景もある。都合が悪くなれば、彼らは(組織、社会、権威者、権力者)平然とプロパガンダを行う。プロパガンダ(propaganda)とは、本当の事実(真実)を覆い隠すための情報操作のことである。幸か不幸か…僕は、実際にそのような彼ら(組織、社会、権威者、権力者)からのプロパガンダを経験してきた。

 

『僕が

『描いた物』

を、今の社会が、理解し評価できる事、あるいは評価される事も、そういった事に対する一切の期待ももうしていない。』

と、僕が書いたのは、個人的なプロパガンダの経験に基づく。

 

僕の事を心配した、最後に所属した、ある組織の中で一緒になり、同僚でもあり、実は後輩でもあったI君が、最後に僕に、以下のように言ったのを思い出す。そして、今は身をもって実感している。

takumaroさん…良い企画だから実現するんじゃ無いんですよ…良い企画だから、良い物だから、善い事だから…そうではないんですよ。全ては、彼ら(組織、社会、権威者、権力者)の都合なんです。

『政治』

で、物事は決まっているんです。そこには、良いとか、善いとか、真実であるとか、正義であるとか…そんな必要は一切ないんですよ。全ては、彼ら(組織、社会、権威者、権力者)の都合なんです。仮に悪事であったとしても、お得意の

『プロパガンダ』

で正義に作り変えてしまうのですから…」

 

当時、彼が言った事に対して、僕はあからさまに

「(…ムッ!!!)」

とした。彼が現実主義者なのに対して、僕は、どこまでも理想主義者であった。また、人が好過ぎた。この性格も災いした。また、当時、僕は、彼が言っていた

『プロパガンダ』

という、単語の意味するところも解っていなかった。間もなくだった。彼が心配していた事が僕の身に現実に起きた。その時になって、僕は、彼が、かなり僕の事を心配していたことを理解した。と、同時に、彼も、また他の人と同様の『大人』だったのを見せつけられた。まあ、昔なら、これで僕の中では完全な軽蔑の対象なのだけれど…彼を責める気もこの頃には無くなっていた。そもそも、彼だけではないのだから…

『大人になる』

あるいは、

『人が生きていく』

というのを、まざまざと見せつけられて、僕は、その組織を去った。

 

『プロパガンダ』

という単語の意味する処も込めて、「描いた物を」見ている読者に何が要求されるのかと言うと

『発信される、『情報』の真偽は?』

これを見極める能力が、見ている者(読者)に要求される。ただ、これを言いたかっただけなのだけれど…

 

今回は、他人が描いた物を、見る事、理解する事、そして観る事。について僕が見て来た景色と、感じた事を、『観る』に至るために何が要求されるのか?それらを書いてみました。

僕は、そういうつもりです。

 

次回に、ようやく

『AGM(数学、柔道)』

の説明の話が出来るのかな…と思う。(つづく)

 

(追記、個人的な疑問)

『描いた物』がある。『描いた人』に他人に伝えたい『何か』があるからだろう。

そして、偶然、あるいは、機会を得て、他人が、その『描いた物』を見る。その他人は、見て、理解し、観る、に至るのだろうか…

双方に、高い能力が要求される。

『描いた人』に、伝えたい『何か』を描く能力、技術が備わっているのか?

『描いた物を見た人に』、観る、能力があるのだろうか?

それとも、ここに基本となるプロセスはあるのだろうか?

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