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〈書評〉いびつな真珠のようなこの世界の希望 :田村あずみ『不安の時代の抵抗論』をめぐって

田村あずみ,2020,『不安の時代の抵抗論:災厄後の社会を生きる想像力』花伝社.

 

1. シェイクに飛び込め

French Flies Dip in shake

like a like a dirty sex

ゆるふわギャング "Dippin' Shake" 2017年

 

この本は、2011年の原発事故によって吹き出すように始まった路上の抵抗運動をめぐる本です。しかし私は、3·11が起こる前から、この本をずっと待っていたような気がします。私が『路上の身体・ネットの情動』で書きたかったことを、もっと論理的に、もっと深い知識で、遥かに緻密な思考で、路上の人々の地べたから生えでた思想と、情動の温度と、脆弱な身体の強さを、描き出すことに成功しています。キーワードは、身体、情動、ことば、の三つです。

この本は3.11以後東京で起こった反原発運動に参加し、聞き取った人々の声を思考の培養基として書かれていますが、「社会運動〈論〉」ではありません。社会運動を観察対象として、分析した研究でも、「ある社会運動の記録」でもありません。

時代の暴力が人間の生から意味を奪おうとする社会で、どうしたら生きていると言えるのか、そのために抵抗することができるのか、著者の問いはそこに焦点があります。それは「社会運動研究者は社会運動に参加すべきか?」という議論とは、違う次元にあります。社会運動論に価値がないと言っているのではありません。単に、そう読むべきものではないということです。「社会運動についての知」ではなく、「社会運動による知」を書くのだと著者は言っています。そして二つの〈知〉は、別のものを指しています。後者の〈知〉は自分の身体の有り様が変わること、そして生が変わることを意味しています。著者にとって重要なのは、観察ではなくていわば倫理なのです。

田村あずみさんとは、2016年3月のヘイトスピーチに対抗する銀座サイレントカウンターで、いちどだけお会いしたことがあります。カウンターの後に銀座らしくおしゃれなカフェで、3人でお話しをしました。田村さんは、黒いレザージャケットに身を包んで「アナキストです」と自己紹介なさいました。コーヒーを飲む間、あずみさんは終始控えめにドゥルーズの情動やこの世界の閉塞について精緻な言葉を紡いでいらしたと思いますが、私は自分勝手で思い上がった返答をし続けたような気がします。多分私の頭の中は、マッチョなエゴでいっぱいだったんでしょう。

あずみさんと別れた後、行きつけの海鮮居酒屋で二人で酒を飲みました。ことばを発することなくヘイトデモに向き合ったことは、身体的で情動的な体験でした。むき出しの悪意が私の中に沈殿していて、酒に身体をぶつけるようにして飲みました。それでも澱は私を離れませんでした。この時代にゆっくりと沈んでいく得体のしれないなにかが、私の中にも沈んでいって、それが私を変えつつあるようでした。同時に、声を上げられなかったことによって、ことばを持つこと、声を上げることが、私の身体にどう働くのかも実感しました。

路上に立つ事は、自分の身体に働きかける事だと思います。 “dip in shake like a dirty sex” とラップユニットのゆるふわギャングは歌うのですが、まさにシェイクに飛び込む、という感じです。

しかしそれを言葉に表す事はたやすいことではありません。それがどのように路上の人々の身体に働きかけ、情動を動かし、言葉を生んでいったのか、ここには詳しく書いてあります。

地下茎のように広がる路上のつながりを描いたこの本は、いのちがこもったとても美しい本です。一行一行がスモモの細い根の様で、一つ一つの言葉が、それを伝わる水滴のようです。その雫を一つも取りこぼさないように、手のひらで包むように繰り返し読んでいくと、いつの間にか心が静かになっていくのを感じていました。描かれているのは、絶望であり災害であり、苦難であり怒りであるのに。不思議なことでした。それは多分、「私は不安でいいんだ」と思えたからではないかとかと思います。いつも私は、不安であってはいけないと促す声を感じているのでしょう。自分が不安であることを否定しなくても可能な抵抗の形、それが著者のいう不安の時代の抵抗論なのではないかと思います。

 

2. 容易く分析なんかしないで

 

容易く分析なんかしないで わかったような顔でこっちを見ないで

メール携帯絶対手放せない 学校行きたくない家に居たくない

加藤ミリヤ「ディア・ロンリーガール」2005年

 

冒頭にこうあります。「中学校は、のっぺりとした時間が滞留する空間で息苦しく、外部はありませんでした。」問題なのは、著者の身体に食い込んでくる外部のない空間でした。「窓を開けたい」とあずみさんは思ったのです。彼女は、ふいと授業をさぼりつかの間の開放感を味わいますが、それ以上踏み出せずに「大人になろう」とおもいます。

「のっぺりとした時間が滞留する空間で、息苦しく外部がない中学校生活の、日常に偶然開いた亀裂に魅了されて授業をサボった中学生」は、絶望の底から希望の探究を始めます。私達の誰にとってもそうであるように、それは容易なことではありません。現代の日本において、闘争とは希望を求めることそれ自体です。

それでも、折に触れ、「ありえた自分」の影を見出します。それは、オウム真理教事件や秋葉原無差別殺傷事件などでした。秋葉原事件を彼女は「敵のいないテロリズム」と呼びます。「この現実」とは別のものを求める衝動が、自分や他人への暴力と接続されていってしまうことに著者は戸惑います。息苦しい社会の内部で沈黙でも、暴力で秩序を破壊するのでもなく社会を変えるために、民主主義は一つの答えですが、問題は、それを可能にする政治の言葉が失われていることです。

 

容易く分析なんかしないで わかったような顔でこっちを見ないで

メール携帯絶対手放せない 学校行きたくない家に居たくない

と加藤ミリヤは歌います。

 学校と家という「のっぺりとした時間が滞留する空間」の外部を「メール携帯」「渋谷」に求めます。しかし、「ありえた自分」に出会うことは容易ではありません。容易く分析することを拒むのは、自分を表すことばを持てないからではないでしょうか。ことばを失えば他者からの眼差しにあらがえない。

著者によれば、それは近年始まったことではありませんでした。70年代全共闘時代にすでに「敵が誰かわからなくなり」「言語化の困難さ」が始まっていました。そして批判のことばは、まずは古い用語によって語られ、それが一つのねじれであったというのです。

ここで我田引水ながら私の研究を引きます。二人の女性の日記です。ひとりは全共闘運動に参加し、1969年に自殺した高野悦子で、もうひとりは、リストカットの記録をウェブ日記に書いた南条あやです。一日分の日記に何が書いてあったかを分析しています。

高野悦子の日記は、4つの象限に分割されます。ざっくりと左側が公的領域、右側が私的領域です。一日分の日記に何が書いてあったかを分析しているので、高野は、公的な領域のことを書くときには私的なことは書かず、その逆もそうだということです。高野は「革命」を書くときには「恋」は書かず、闘争の中の葛藤と、煙草を燻らしながらの深夜の沈思とは、別々に書かれていました。「批判のことばは、まずは古い用語によって語られ、それが一つのねじれであった」のでした。

安保法制の頃、瀬戸内寂聴さんは、「青春は恋と革命」と言って、若者に反論されていましたが、瀬戸内さんの時代はそうだったのでしょう。今ならば、「恋は革命」でしょうか。親密性の中の権力が問われます。

 

 

 

 他方で、著者と同じ年に生まれた南条の日記の中では、学校も、親も、友達も、食事も睡眠も、すべてはごちゃごちゃで、ぐるぐるまきです。社会が心に侵食し、心が関係に溶け出しています。

リストカットをくり返し、授業をさぼり、勉強に積極的には見えない南条のテキストにおいて、南条はくり返し「学校」について語っています。南条にとって学校は、行きたい場所なのに、行けない場所であり、行きたくないのに、好きな場所でした。他律的な時間と、学校という他律的な空間を南条は拒みつつ受け入れ、受け入れつつ拒みました。しだいに他律的な時間と空間が内面化し、南条の身体に刻まれて行ったように見えます。

 

そうは言っても、南条の日記は高野の日記よりも世界が広いと思います。なぜならば、それはウェブ日記で、だれかが読んでいたからです。このように、ウェプ上のつぶやきとして互いを感じながら、それは社会に対して挙げる声にはならず、やがて10年が経ちました。

 

3. 路上の身体・路上の情動・路上のことば

 

その言葉と身体の交錯する場所を、著者は、瞑想でも逸脱行為でも有機農業にでもなく、3.11後の東京の路上、反原発運動に求めます。

反原発運動と言っても、各原発立地の原発差し止め訴訟でも、東電事故の被災地でもなく、最大の電力消費地で起きた運動に注目したのです。今まで消費者だった人々、原発の恩恵を享受していた人が、反対の声を上げました。著者が東京を選んだ理由はわかりませんが、原発立地ではないことによって、必然的に倫理が問われる場だったからではないかと思います。それは自己と、自己と一体化した社会システムを問い直すことでした。直接的な利害関係が一見しては明瞭ではない人々が反対の声を上げることは、あるためらいを生み、ためらいが思索となりました。

脱原発杉並の那波かおりさんは「これまでマイノリティ運動に関わってきたときなどに、居心地の悪さを感じていたと語ります。」自分が加害者である事態にどう関わればいいのか。しかし、原発事故によって見方を変えたのです。「出自に関係なく、99%として主張していいんだと思った。」しかし、それでも

 「例えば「福島返せ」という言葉は、那波かおりが当初、叫ぶことをためらったスローガンでした。「なぜかと言うと、福島は私のものではないから」。

 しかしやがて福島を訪れ、人々とともに過ごすうちにそれが言えるようになった。それは「人が見えた」ということではないかと思います。原発事故は一方で「人類対核」と言う枠組みの大きな問題です。古い政治の言葉を避けて通るわけにはいかなくなりました。同時に、人が見えなければそれは言えないことでした。

 反原発運動の中で、霞をかけられていた政治と経済の権力のがむき出しになったと思ったことがあります。野田首相の「2030年代に原発ゼロ」決定後、経団連・米国によってなし崩しになってしまったことです。一国の政府が決めたことが、外国と企業の偉いさんが口を出して変わってしまったんです。当時の経団連米倉会長の一言で、事態が動いたという印象でした。それまでこの国は、それなりに民主主義を装っていました。少なくとも表向きは、選挙に選ばれた国民の代表者によって国の方針が決められていきました。それがそうではなくなったのです。経団連会館の前では、首都圏反原発連合による抗議が行われました。

2012.9.25 経団連前 首都圏反原発連合抗議 悪霊さん

 

「米倉でてこい!」

原発事故は、権力の現実を覆っていたかさぶたを引き剥がし、血を吹き出させました。そして彼らのとった手法は、「直談判」でした。野田元首相に直談判し、米倉にも直談判せよと。打倒でも粉砕でもなく、人を人として見て大きな枠組みの話をしようとしました。

反原発運動は、属性を超えて正しいことのために主張する経験をもたらしました。原発事故という体験は、相対主義に回収しきれることではありませんでした。「こんな大変なことが起こって世の中が変わらないはずがない」と多くの人が感じました。しかしそのための言葉は、「古い政治の言葉」ではありませんでした。大状況に対する主張と人の顔が見える事が、緊張関係だったり相補的だったりしました。このことが、その後の反差別運動や反安保法制運動に大きな影響を与えたと思います。この本に出てくる人々の思索は、それをめぐるものだったと思います。

「脆弱な身体」という言葉を著書は使います。私にはとてもリアルな言葉です。初めて金曜官邸前抗議に参加したのは、2012年6月29日のことでした。駅を降り茱萸坂に立ったときは、これは敬老会かと思いました。少しは知っていた70年代の闘争のイメージが残っていましたから、集まった人の頭が皆白いのに驚きました。そういう私自身が、杖をつきながらの参加でした。やがて車道が解放され、人々が道に溢れました。そこにいたのは、足元が心配な老婦人や、赤ちゃんを一人おんぶして、ちびっこ二人の手を引いているお母さんでした。私は、抗議をするというよりも、ちびっこや老婦人が怪我をしないように気を使うだけで、時間が過ぎていった気がします。

あふれる人々にいい知れない感動を覚え、やがて抗議が終わりになったことを知り、Misao Redwolfによる解散宣言を、かすかに遠くで聞きました。そこにあったのは脆弱な身体で、それが集まることの強さも知りました。

2012年6月29日首相官邸前抗議 最後のスピーチ

 

4. 幻燈劇の外へ

 

著者は、路上に立って声を上げるうちに、ある変容を体験します。

「いのちを守れ」「子どもを守れ」と言うスローガンは何かしっくりこないものでした。略

しかし、これらのスローガンが急に重みを持って身体の奥深くに響いた瞬間がありました。その日、国会前でそれを口にしたとき、私は自分が立つ路上、たくさんの人たちと一緒に踏みしめるアスファルトが、はるか未来まで地続きのように感じました。自分がいまここで取る行動が、そのまま未来までつながっていると実感したのです。

アンソニーギデンズは、近代社会は幻燈劇のようだと言います。物を考え、記憶を蓄積してゆく「場所」が、遠い別の場所やそこにはいない人の活動の影響を受けるようになりました。そうすると「今、ここ」のリアリティが失われてしまう。そう感じた人は確信できるリアリティを求めて外部を探します。幻燈撃の外へ。

 

https://web.stanford.edu/group/kircher/cgi-bin/site/?attachment_id=555

 

どうすればよいのか。

ハンナ・アーレントは、我々の経験は、語られるまではリアリティを持たないといいます。

「私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信する」

デモをするのは、路上に脆弱な身体として立つのはこのためだと私は思います。私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在することを知るためです。この本が多くの人の物語とともにあるのは、それを示していると思います。 

 この本は、「窓を開けたい」と思った中学生だった著者が、時代の暴力が人間の生から意味を奪おうとする社会で、「どうしたら生きていると言えるのか」考えた本です。そしてそれを求めた場所が反原発運動の路上でした。海の底で呼吸する方法を探すように、著者はいのちをかけて探し求めました。

災害disasterの語源はラテン語のdisastrum、星(astrum) がない(dis)ことだと筆者は言います。安倍晋三元総理の好きな映画『ALWAYS 三丁目の夕日’64』には、建設中の建設中の東京タワーを見上げるシーンがありました。しかし、現代の希望は見上げた先にはありません。それを顕にしたのは災害でした。

この亀裂に対してどうするのか。

恐らく私たちはみな、日常で何らかの亀裂を経験します。私たちは疲弊したとき、普段は遮断している他者の侵入を許します。その他者は異質であり、すでに弱った身体をさらに傷つける存在なので、一般的な治療は侵入した異物を取り除くことになるでしょう。

亀裂がもたらした混乱の中で、致命傷にならない形で異物を受け入れられるように自らの構成を変え、他者を巻き込んだ身体として新たな望みを持ち、新たな動きを生み出すことです。そこには受動と能動の重なりがあり、その中で制御できない出来事に見舞われた生が、肯定されるものに変わっています。

著者は、その可能性を路上の抗議に見出したのです。異物を包むがゆえに光沢を放つ真珠ですが、天然の真珠は丸くないという話を最近聞きました。その異物や痛みの形に合わせて真珠は育つそうです。

この本に書かれた希望は、空に見上げる星ではなく、いびつな真珠のように内に膨らむものだと思いました。この本にはピリオドがありません。この本自体が、膨らむ始めたいびつな真珠のような、この世界の希望の一つであると感じました。

それは、回復の物語から寛解の物語へ、ということなのかもしれません。傷には物語を生み出す力があり、傷ついた物語の語り手の物語には他者を癒す力があります(アーサー・フランク)。なぜならば、それを聞くものの物語を解放するからだと思います。

フランク、アーサー. (2002). 傷ついた物語の語り手: 身体・病い・倫理 (鈴木智之訳.). ゆみる出版.

大阪のライター李信恵さんは、お互いベロベロに酔っぱらった時にこう話していました。

自分のこというのはしんどいけど、私が自分のことを話すと、その人も、自分のことを話せるようになんねん 

田村貴紀・田村大有編,2016,

『路上の身体・ネットの情動: 3.11後の新しい社会運動:反原発、反差別、そしてSEALDs』青灯社.

私がしんどいといえば、あなたがしんどいと言える。みんながしんどいと言えば、自分一人じゃないとわかる。同じように見、同じように聞く他人が存在するおかげで、私たち自身のリアリティを確信することができます。デモをするのは、そのためです。

しかし、私達は弱く忘れっぽい。イエスを否んだペテロのように、剣の前では自らを保てていても、焚き火の前ではもろくもなります。著者は、デモを終わったあと、電車に乗ったときの寂寥感について触れています。それは、確信したはずのリアルが、幻燈劇の光の前に冷え込むような感覚でしょう。それを口にする人は少なくありません。それは電車の車内という空間が、おのずから、「今、ここ」ではない別の場所、つまり目的地、あるいは出発点の記憶によって意味づけられるものであるからかもしれません。その冷え込みの中で私も思わず、否と言ってしまいそうです。

しかし、著者はこう続けます。

自分たちが不完全で忘れっぽい存在であることを認めた上で、それでもなお倫理的な行動を模索する試みがありました。その倫理は非常にシンプルなものです。それは、自分に思い出すように強いる他者に『開いている』ことです。

私もまた、不完全で忘れっぽい存在なのですが、「他者に開いている」ための手がかりを、自分のために残したいと思います。この本もその一つになりそうです。

****

著者は元SEALDs KANSAIメンバーの編集者、大澤茉実さんに対する謝辞を述べています。真珠がかたちを顕す前に、泥足に踏まれるようなことにならなかったのは、読者にとっての僥倖でした。5年の歳月は、もうひとりの傷ついた物語の語り手をいかにに遇したのでしょうか?

全保障関連法に反対する学者の会 【学者と学生によるシンポジウム】2015年10月25日

 

来年は、原発事故十年めにあたります。首都圏反原発連合は、9年に及ぶ抗議活動を休止すると発表しました。しかし、声は上げ続けられます。坂本龍一さんは、来年3月絶対にNO NUKE FESをやると言っています。節目の年に、ぜひこの本をおすすめしたいと思います。了

I

トランスジェンダー排除に関する文献

Online

三橋 順子,2019,「なぜ2019年の日本で、トランスジェンダー女性たちが攻撃されているのか」,文春オンライン,(2019年12月29日取得,https://bunshun.jp/articles/-/11620
 
Akiko Hori. (2019.11.01 ) Excluding Whom for What? A Look at Transphobia in the Japanese Twittersphere. Retrieved December 29, 2019, from https://wan.or.jp/article/show/8644
 
藤高和輝,2019,「エッセイ > 後回しにされる「差別」:トランスジェンダーを加害者扱いする「想像的逆転」に抗して」,(2019年12月29日取得,https://wan.or.jp/article/show/8527).
 
・千田論考とそれへの批評
千田有紀. (2020). 「女」の境界線を引きなおす: 「ターフ」をめぐる対立を超えて (総特集 フェミニズムの現在). 現代思想, 48(4), 246–256.
 
小宮友根. (2020, 2月 23). 『現代思想』の千田論考について. frrootsのtwitter補完メモ. https://frroots.hatenablog.com/entry/2020/02/23/050520
 
ゆな. (1582138100). 千田有紀「『女』の境界線を引きなおす:『ターフ』をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで. ゆなの視点. https://snartasa.hatenablog.com/entry/2020/02/20/034820

Books
紀伊國屋書店ウェブストア,2019,「早稲田文学 〈2019年冬号〉 シリーズ特集第1回:ポストフェミニズムからはじめる」.
 
アジア女性資料センター , 夜光社 (発売),2019,『フェミニズムとトランス排除 : 特集』.
尾崎日菜子. (2019). エイリアンの着ぐるみ (特集 フェミニズムとトランス排除). 女たちの21世紀 = Women’s Asia 21, 98, 11–16.

川崎市ヘイトスピーチに対する罰則付き条例に賛成してください

2010年以降台頭した、主に在日コリアンを対象とするヘイトスピーチデモは、2016年のヘイトスピーチ解消法の成立後も、社会に大きな害悪をなしています。その理由の一つはヘイトスピーチ解消法には、罰則規定がなことです。

川崎市は、ヘイトスピーチに対する罰則付きの条例を設定しようとしています。現在パブリックコメントを募集中ですが、この条例に反対する人々から多くの意見が来ると、うまく行かないかもしれません。全ての人の人権が守られる社会のために皆さんのパブリックコメントを寄せてください。



日本社会でヘイトスピーチが蔓延する理由は、「差別は悪だ」という世界的に共有されている倫理が、日本社会全体を覆っていないからです。ヘイトスピーチをする人々は「議論に持ち込めれば差別をしても良い」と主張します。すでに数百年の歴史を持って疑問の余地がないものである人権概念でも、議論に持ち込めばどうにでもなると考えているのです。

そうなれば、差別の対象は在日外国人ばかりでなく、女性、性的マイノリティ、障害者、被差別部落、経済的弱者に及ぶことが必然的で、既にそれは起きています。彼らは常に、「いやこれは差別ではない、私は議論しているだけだ」といいます。それが現代の差別です。

つまりヘイトスピーチは、在日外国人の問題ではなくて日本社会の問題なのです。私たちの国が、憲法に定められた人権概念に依拠した、民主主義国家であるかどうかが問われています。この条例は、日本の正念場だと思います。ぜひ成立させたいのでご協力ください。

ご参考になるように意見の例を書いておきます。意見はひとつずつ送ってください。違う論点なら複数カウントされます。↓


(意見の例)
・「差別を禁止し、罰則を設けた条例に賛成します。」

・「川崎市の条例案に賛成します。」

・「罰則を設けて実効性の確保をしたことを賛成します。」

・「差別防止対策審査会の意見を聴いて市長が勧告、命令を出し、命令違反の場合に罰則の対象とする仕組みを支持します」。

・「差別防止対策審査会の設置に賛成します。委員には当事者を入れてください。」

・「インターネット対策に賛成します。禁止し罰則の対象にしてください。」

・「不当な差別的取扱いの禁止条項に賛成します。ただし、取扱いのみならず、差別的言動も禁止の対象として下さい。」

・「条例素案に賛成します。ただし、類型要件の「本邦の域外へ退去」は狭すぎるので、最低限、「地域社会からの退去」、もしくはヘイトスピーチ解消法の条文通り「地域社会からの排除」としてください。」

・「不当な差別的取扱いの禁止条項に賛成します。ただし、取扱いに限定せず、差別的言動も禁止の対象としてください。性的マイノリティやアイヌ民族、被差別部落出身者などへの差別的言動についても立法事実があります。障がい者基本法やアイヌ民族施策推進法、部落差別解消法における「差別」には差別的言動も含まれているのに、言動を禁止の対象からはずすのは不整合です。」

・「不当な差別的取扱いの禁止条項に賛成します。ただし「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の定義がヘイトスピーチ解消法第2条に規定するものでは狭すぎます。ヘイトスピーチ解消法の附帯決議には、オーバーステイの人に対するヘイトスピーチも許されないとされています。在留資格は問わないなどと条文上明記してください。」

・「不当な差別的取扱いの禁止条項に賛成します。ただし「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の定義がヘイトスピーチ解消法第2条に規定するものでは狭すぎます。国会の審議の過程では、オーバーステイの人や、アイヌ民族などに対するヘイトスピーチが対象外になってしまうことが指摘され、付帯決議に、憲法や人種差別撤廃条約の精神にかんがみた、適切な対処が盛り込まれました。オーバーステイの人や、アイヌ民族へのヘイトスピーチも対象にしてください。

「トランス女性」に関するTwitterの計量テキスト分析

Twitterお写しです。私のTLでは最近まで「三橋先生や畑野さんを呼んで勉強しよう!」だったのに、急な風向きの変わりように驚いている。しかも、攻撃のレトリックがネトウヨっぽい。トランス特権?、あるわけがございません。遍在する差別にしても、堰を切ったように吹き出してくる感じが危険。私のTLでは最近まで「三橋先生や畑野さんを呼んで勉強しよう!」だったのに、急な風向きの変わりように驚いている。しかも、攻撃のレトリックがネトウヨっぽい。トランス特権?、あるわけがございません。遍在する差別にしても、堰を切ったように吹き出してくる感じが危険。 #トランス女性は女性です

「堰を切ったように」と前に書いたけれど、私の印象だけではなかったか気になって統計をとってみた。 「トランス女性」という単語は指標の一部に過ぎないが、それを含むTWを検索してみた。 TW数でも重複なしアカウント数でも昨年12月から「堰を切ったように」激増している。急に自分たちのことをこんなに色々言われたら、それは怖いしつらいだろう。人の心は石ころではない。こんなことをしてはいけない 。

出版差別事件4.12くにたち集会 参加の記録


<許すな!「全国部落調査・復刻版」出版差別事件4.12くにたち集会>参加の記録

2017年3月12日に行われた標題の集会に行ってきました。だいぶ昔に、「部落地名総監事件」というのがあって、出版の自由、あるいは図書館の収集の自由が人権侵害を理由に制限されることの典型例のようになっています。今回同様の書物が復刻版として出版されたこと、またネット上にも様々な情報が載せられたことよってこの裁判が起こっています。


ちなみに、標題の事件の詳細については下記の新聞報道とサイトを参照してください。
新聞報道
「全国部落調査」復刻版 出版差し止め事件裁判

当日の集会では原告の方が、住所や個人情報を公開されるといういわばアウティングによって受けている被害・苦痛について話をされていました。国立市長が挨拶をし、部落差別解消法の命ずる地方自治体の義務として、この集会を支持している旨の発言がありました。集会には国立市長の他にも複数の市議会議員が参加していました。


その会場に、被告である鳥取ループが参加を事前予告していました。しかし、「被害を受けている。怖い。」と言って裁判を起こしている原告のところにわざわざ来るということで、新たな人権侵害を防ごうと実行委員会が参加を食い止めたようです。
当日私がいた会場の中は平穏にプログラムが進行し終了しました。


国立市には、後援していることに関して被告からの抗議もあったようですが、姿勢を一貫した国立市に、他の行政団体も続いてほしいと思います。いうまでもなく民族差別に対する対応も含めて。

現代の差別は複雑な様相を呈しています。高史明の紹介するMcConahayは、古典的と現代的という2つの差別(レイシズム)があるといいます。

「古典的レイシズムは、マイノリティは劣っているという信念に基づくあからさまなものであるが、現代的レイシズムは、(1)偏見や差別は既に存在せず、(2)したがって存在する格差はマイノリティの努力の欠如によるものであり、(3)にもかかわらずマイノリティは差別に抗議し過剰な要求を行い、(4)本来得るべきもの以上の特権を得ているという、4つの信念に基づく、より隠微なものである(McConahay,1986;Sears,1988)」(高 2014:143)。そして高は、日本のレイシズムは、古典的・現代的の混合だと言っています。

これを読むと、ああ、そういう話がネットには溢れているな、と思います。在日特権デマもそうだし、見聞きした限りでの鳥取ループの主張もこのようなものでした。


他方でネットの中では、「物の見方は立場によって変わる」「物の見え方は、視点によって変わる」とか、「私はあなたの意見に反対だが、あなたの意見を言う権利を命をかけて守る」というような相対主義が溢れています。ところがこのような論法を取る人が柔軟に見る立場を変えて、今まで反対だったものを賛成したりするかというと、そうではなくて、この相対主義を自己主張の方便にしているケースのみが目につきます。相対主義をとると、結局物事は、現実の力関係によって決まっていきます。「相対主義はホロコーストを許す」と言われるのはそういうことです。議論を望んでいるように見えて、実は力の論理です。


このような現代的差別と相対主義の中で、どこに視点を定めればいいのか私たちは迷いがちですが、それは「被害の実態」だと思います。「今ここにある人権侵害を許さない。」この「瞬間を切り出す力」が大切だと思っています。


高史明.(2014).日本語Twitterユーザーのコリアンについての言説の計量的分析.人文研究,(183),131-153.

安倍政権に抵抗するポスト311世代の若者グループとインターネット


 SEALDsに関する社会情報学会発表予稿を公開し   https://researchmap.jp/tamuratak/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/?_layoutmode=on
ました                             
。やがてCiNIIに収録されるものですが、暫定的にこちらにアップロードします。2015年 社会情報学会(SSI)学会大会9月11日~13日 明治大学。
We make a report about SEALDs for a conference available to the public.

放射性セシウムの稲への転移を防ぐ火山灰土・腐植

放射性セシウムの稲への転移を防ぐ火山灰土・腐植

原発事故で土壌にセシウムがある状態になったわけですが、茨城、福島の有機農家はその土地でセシウムが検出されない農産物をつくろうと努力しています。以前Researchmapで資料公開しましたが、今も意味がある事だと思い再掲します。

有機農家 魚住道郎さんは、「日本有機農業研究会」副理事長で茨城県石岡市で有機農業を実践しているが、福島県の有機農家の支援も行っている。茨城でも福島でも、土壌に一定のセシウムがあっても玄米には移行しない現象が見られる(p.13のグラフを参照)。魚住さんは、それが火山灰土・腐植がセシウムを吸着するからと考えた。日本マクロエンジニア学会での発表(2013)を魚住さんの協力で公開します。
発表の内容は専門的で難しいのですが、実際に土壌に一定のセシウムがあっても玄米には移行しないということが起きていて、その理由を解明しようとしています。

Art and Activism in Post-Disaster Japan

A result of the Internet History Project is published inThe Asia-Pacific Journal: Japan Focus.  It is included in a special issue: “Art and Activism in Post-Disaster Japan.”

The Asia-Pacific Journal: Japan FocusにArt and Activism in Post-Disaster Japanという特集号が組まれ、311後の社会運動と芸術について特集しています。私の論文は、ソーシャルメディア利用と参加者の意識変容に関するものですが、掲載されています。

The Asia-Pacific Journal: Japan Focus Newsletter

Newsletter No. 7. 2015        

 

February 16, 2015

 

New Articles

 

Special Issue

Art and Activism in Post-Disaster Japan

Edited by Alexander Brown & Vera Mackie

 

Alexander Brown & Vera Mackie

Introduction: Art and Activism in Post-Disaster Japan


   
Peter Eckersall

   Performance, Mourning and the Long View of Nuclear Space
   
   
   

Alexander Brown

   Remembering Hiroshima and the Lucky Dragon in ChimPom's Level 7 feat. "Myth of Tomorrow"
   
   
   

Takanori Tamura

   The Internet and Personal Narratives in the Post-Disaster Anti-Nuclear Movement
   
   
   

   
Vera Mackie

   Hiroshima, Nagasaki, Maralinga Fukushima
   
   
   

Allison Holland

   Natural Disaster, Trauma and Activism in the Art of Takamine Tadasu
   
   
   

Tamaki Tokita

   The Post-3/11 Quest for True Kizuna: Shi no tsubute by Wag? Ry?ichi and Kamisama 2011 by Kawakami Hiromi
   
   
     

Helen Kilpatrick

   The Recognition of Trauma: The Case of Sagashite imasu (I am Searching)
   
   
   

Carolyn S. Stevens

   Images of Suffering, Resilience and Compassion in Post 3/11 Japan

 

Greetings! 
   
On 11 March 2011, the northeastern area of Japan, known as T?hoku, was hit a by an unprecedented earthquake and tsunami. The disaster damaged the Fukushima Daiichi nuclear power plant, one of a number of such facilities located in what was already an economically disadvantaged region. This led to a series of explosions and meltdowns and to the leakage of contaminated water and radioactive fallout into the surrounding area and eventually into the sea and far beyond. Around 20,000 people were reported dead or missing, with a disproportionate number from the aged population of the region.
   
As we approach the fourth anniversary of the triple disaster, hundreds of thousands of people are still displaced: evacuated to other areas, living in temporary accommodation, or living in makeshift shelters in former public buildings. There has been despoliation of the environment and contamination of food, air and water. Primary industries like fishing and dairy have been devastated. Livestock have suffered excruciating deaths due to injury, radiation sickness and starvation, or have had to be "put down". The nuclear power industry in Japan is effectively shut down, and people are enjoined to save electricity (setsuden) in order to cope with the reduced capacity for power generation.
   
The disaster has reverberated throughout Japan - in the local communities immediately affected, in civil society groups who have sent volunteers to the region, in more distant places which have welcomed refugees from the disaster, in the responses of local and national governments, and in international expressions of solidarity and concern. 
   
This special issue focuses on artistic and activist responses to the disaster, demonstrating how "art" and "activism" have intertwined in response to crisis. In the wake of a disaster with such immense social implications, all of the diverse ways of attempting to communicate about the disaster - whether documentary or artistic - have political dimensions. Indeed, many of the contributors to this issue reflect urgently on the near impossibility of communicating the experience. At the same time, it is difficult to dismiss the artistic element in many of the political responses - such as the use of music, drumming, rapping, street theatre, masks, costumes and posters in demonstrations - all of which make possible communication to a broad national and international public in ways that pose questions about the response of the Japanese state and the future of nuclear power.

 

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香港オキュパイ

浜田さんのFBから

2週間前に大邱で開催された国際学会 IR15 の基調講演です。運動のためのソーシャルメディアについて、情報社会論の系譜の振り返りから、香港で現在も続いている学生たちの活動に至るまで論じています。本人の許可を得て公開します。
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この講演の後Jackに、日本の反原発運動などでは、インターネットによる伝達の限界を感じていて、ノーニュークスマガジンの配布など始めている。ネットでは1万人には到達できるが100万人には到達できない。香港では、インターネットが大きな役割を果たすことに成功してるように見えるがそうなのか、という質問をしました。
Jackは、「香港でも同じだ、ネットは人々の目と耳を動かしてが、心と魂を動かすことはできない」と答えていました。
若干話がずれたところもありますが、彼らの苦労もよくわかりました。

ちょうど日本の学生団体SASPLが、秘密保護法に反対するデモをやる前だったので、そういう動く気があることを伝えたら、香港も日本も似たような状況にあるのだね、と言ってSOLIDALITY!と言うメッセージをSASPLに送っていました。
香港のデモはうまくいっているけれど日本のデモはしょぼいと言うような評論が日本の中では聞こえるけれど、世界は民主主義に向かって必死に走っていて、どこが偉いとか言っている場合じゃ全然ない。

もっとも開沼博が東京のデモなんかすぐ終わるというから、意地になって続けているところもある。いずれにせよ、原発推進派も日本会議ファシズムもすごく金があってパワフルだから、このへんの細かい話はどうでもいいといえば、どうでもいい。敵は強くて手強いから、それどころじゃない。

差別撤廃東京大行進 Twitter単純集計

2013/09/22に行われた差別撤廃東京大行進に関するTweetを、前回のエントリーであれだけけなしたTopsyを使って単純集計しました(図1)。検索単語は、「大行進」。従って、ノイズが入っている可能性もあります。つまり、別の大行進が入っている可能性もあります。

結果
8/27-9/26までの30日間で6、1823Tweetありました。
ちなみに、同期間で、他の単語だと下記です。
オリンピック 3,470,437
あまちゃん 1,131,344
汚染水 898,519

東京大行進のTweet数は思ったより多いな、という感じです。もちろん、100人が600回ずつTweetすればそうなるので、異なりアカウント数(重複しないアカウント数)の算出は必須で、それぐらいは後でしようかと思っています。社会ネットワーク分析も是非欲しいところですが、これから参考書を読もうかと思っている段階なので、できるひとはお願いしたいです。



TopsyProによる分析結果は下記です(図2)何らかの重要性をもつTweetが並んでいる感じですが、マニュアルがよくわからないので、詳細がつかめないです。分かる人がいたら教えて下さい。今夜帰宅したらまた読んでみます。

わからないものを載せるのは辞めました。何か言えそうなことがあればまた。
2週間はただでTopsyProを使えるので試してみて下さい。

これを書いた動機は、Twitter内でのコミュニケーションは、自分の読みたいものを読む世界なので、すっごく熱心に論じていると思っても10人ぐらいで話している可能性があるからです。それと東京大行進のようなリアルなイベントの場合、Twitterやネットの影響力と、それ以外のコミュニケーションの影響力の関係がよくわからないからです。

上は、大分大きな目的ですが、短期的には、イベントが終わるたびに、単純集計ぐらいとっておくと動員数との間の目安ができるかもしれないと思っています。


どうなの?Topsy、2006年以来の全ツイートを検索可能に


Twitterのテキストの収集が難しいことは、多くの研究者を悩ませている。そんな中で、「Topsy、2006年以来の全ツイートを検索可能に。」というニュースは、「プチ上げ」であった。
http://jp.techcrunch.com/2013/09/05/20130904topsy-now-with-every-tweet-from-2006-on-has-other-social-media-indexes-in-the-works/

結果として、「無料でアクセスできる画面での情報量は、6月段階と比べるとちょっと上がったかな」という程度。私の場合は、ある範囲の検索結果をテキストファイルにして、初歩的な形態素解析で分析したりするのですが、その用途からすると以前と多分あまり変わらない。

日本の場合2008年段階では、文末につけたように、優れた研究者がTwitterなど流行らないと断言する状況だったので、2006年からのデータがインデックス化されたと言ってもあまり変わらないのではないかなと思います。ただ前と同様には役に立つと。

有料サービスはどうかというと、14日間トライアルの手続きをしてログインすると、次のようなメールが来て、

Getting Started with Topsy Pro.pdf

ログインして自分のアカウントを検索すると、次のような画面が出ます。ここまで全く無料です。14日間は。


つまり、主にマーケティング目的で自社の製品やコンセプトの影響力を測定するような解析画面になるということです。

料金についてですが、上のサイトによると
「ちなみに、Topsyの分析サービス利用者は、月額1000ドルをTopsyに払っており、API利用者は使用データ料に応じて料金を払っている。」
ということです。基本的には、企業がマーケティング目的で使うという方向性ですね。

Twiiterが収集しにくいのは、それで金を儲けるため、という企業としては当然の理由かもしれません。

検索結果をテキストに落とせるかはわかりませんでした。資格のアップデートを申請しましたが、まだ返事来ません。

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はたしてフェイスブックは日本上陸に成功するのでしょうか?
筆者の回答は、九九パーセント以上の確信度で「否」というものですが、その理由はきわめてシンプルです。なぜなら、すでに日本では、ミクシイが確固たるポジションを築いているからです。
(濱野 2008:149)

(ツイッターは)日本ではこれ以上の成長はあまり望めないのではないかと筆者は考えています。
その理由は簡単です。なぜなら、日本のネットユーザー(特にモバイルユーザー)の多くは、すでにツイッターが登場する以前から、「選択同期」的なコミュニケーションにいそしんでいる
からに他なりません。
(濱野 2008:208)

濱野 智史. (2008). アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか. エヌティティ出版.

 

ヘイトスピーチ規制に関する資料 米国と日本

ヘイトスピーチを法的に規制することに関する、法学の論文を少し集めました。文末を見て下さい。

Ciniiで「ヘイトスピーチ」を検索しただけです。そうするとなぜか米国の事例は研究を扱ったものばかり出てきます。

現行法とのすりあわせという法学の議論はさておき、梶原(2007)は、今ネット上で論じられている、

●保護すべき言論と保護すべきでない言論があるのか
●ヘイトスピーチは、言論(表現)なのか、行為なのか

ということを扱っていて、議論の整理に役立つと思います。
梶原(2007)は、オースティン・サールの言語行為論に基づいたJ・バトラーの議論を紹介しています。これが米国の規制意見の主流とTwitterでかきましたが、そう言っている論文があった気がするけど、これを読む範囲では重要ではあるけれど、法学上の主流とまではいかな
ようです。誤読だったかもしれません。むしろ社会学的な議論でしょうし。

梶原健佑. (2007). ヘイト・スピーチと「表現」の境界. 九大法学, 94, 49–115.


ネット上の議論では、

●言論の自由は、手段的価値なのか、内在的価値なのか

という事も問われていて、ヨーロッパの議論ではそういうことも論じているのを読んだ記憶があるのですが(@tatangaraniさんの紹介だった)、今探す時間がありません。

手段的価値なのか、内在的価値なのかというのは、言論の自由は、それ自体が本質的に絶対不可侵な価値なのか、それともより高次な価値を実現するための手段として重要なのか、という問です。

今起きている法規制を作ろうという議論は、言論の自由=手段的価値に近いように思います。それに対する反論は、内在的価値説に近いように思います。私自身も新大久保の現場に立つと、言論の自由=手段的価値説を撮りたくなります。つまりひとの心の痛みのほうが高次な価値ではないか、と思えます。これは、法学と言うよりは、倫理的な問題ですが。

また、過度な規制を危惧するならば、既に規制法が施行されているドイツやオーストラリアの実態がどうかということはとても大事なことで、それなしに、表現の自由の侵害が過度になるかどうかを論じる事は具体的ではないと思っています。その文献を調べたい気持ちはあるのですが、反原発運動に関する発表締め切りがいくつかあって、いっぱいっぱいすっぱいすっぱいなので、しばらくは、戻ってこられません。


下記をクリックすると別画面としてでます。リスト中のURLをクリックすると本文が読めるはず。
ソフトの都合で、姓名が逆になってます。

ヘイトスピーチ規制論文集 米国と日本.htm

魚住農園の野菜 その1

茨城の無農薬有機栽培の先駆者 魚住農園の苗とニワトリです。
もちろん、放射線は、十分検査して不検出です。
苗は買ってくる農家も多いのですが、ここでは、苗から無農薬有機栽培で作ります。「八十八夜の別れ霜」が終わったら植え付けします。
卵は有精卵で、黄身の色が薄いのですが、これは餌のせいです。配合飼料を使わずに、近所の酒造が深くコメを精米するときのあまりを食べさせているからです。
魚住農園にはチラシもウェブサイトもありません。メールも届きません。

魚住農園:0299-43-6826 (tel fax)

メタであること:自分自身に対して上に立つ義務

ピエール・ブルデュー/ロイック・J・D・ヴァカン,2007,『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待――ブルデュー、社会学を語る』(水島和則訳)藤原書店.

本書はブルデューとヴァカンの対談形式になっています。大学内部の「知識人」というものを批判的に論じたブルデューの別の著書『ホモ・アカデミクス』についての二人の議論のなかで次のようなやり取りが登場します。以下引用。

【ヴァカン:】しかしながら社会学に対する幻滅、社会学をむしばむ病の大半は、社会学がその能力を間違って行使しているという事実にその根をもっているのではないでしょうか。社会学は科学、哲学、法律、芸術といった普遍性を要求する活動をも含めたあらゆる人間の活動について、それらを対象としてとりあげる能力があると考えています。一言でいえば社会学は、いつも自分が「メタ」の立場にあると主張する高みに立っていないでしょうか。
 
【ブルデュー:】すべては、あなたが「メタ」という言葉で何を意味しているかにかかっています。科学的闘争ではほとんどの場合、誰もが「上に立つ」意味で「メタの立場にいよう」と試みているのです。[動物行動学者の]ケロッグがおこなったとても見事な実験を思い出します。ケロッグはサルの群れの手の届かないところにバナナを吊るしました。サルたちは飛び上がってバナナをつかもうとします。最後に群れの中でもっとも悪賢いサルタンというサルが、ガールフレンドのサルをバナナの下につれていき、すばやく彼女の上に飛び乗り、バナナをつかみ取って食べたのです。それを見ていたすべてのサルたちは皆バナナの下に集まって片足を上げて立ったまま、お互いの肩へと飛び移る機会をうかがったのでした。この教訓話(パラダイム)が科学的議論の多くにあてはまることがわかるでしょう。ほとんどの場合、論争はまったく不毛です。なぜなら人々は相手を理解することではなく、相手の上に立つことをねらっているからです。社会学という仕事につく無意識の動機のひとつは、社会学こそ「上に立つ」ためのもっとも効果的な方法を与えてくれることです。[しかし]私にとっては、社会学には「上に立つ」義務があるものの、それはつねに自分自身に対して上に立つ義務なのです。社会学は社会学とは何か、何かをしつつあるのかを発見するために自分自身の道具をつかわなければなりません。そして他者を客観化することにしか役に立たない「メタ」の論争的利用は拒否しなければなりません。
 
以上引用。【 】内は引用者。

しばき隊と在特会と「相対主義」

在特会のレイシズムに対抗して、しばき隊が結成され活動していることは、ご案内のとおりだが、両者を巡る議論の中で頻繁に相対主義が問題化された。要約すると、在特会の行動を非暴力で抑制するしばき隊の活動が攻撃的に見えるので、どちらも同じような存在だという議論のことである。更にそれを「相対主義の弊害」と批判する声も上がるのである。例えば下記のような議論である。

 

「ある典型的などっちもどっち教徒との会話」

http://togetter.com/li/463741

 

このような議論がTwitterで見られる時に、思い出したのが2006年に発表された Charls Essの価値多元主義に関する論文である。私は倫理学も哲学も素人なので最近の研究については詳しい方の補足を願いたいし、読んだけど、難しくてよくわんなかった。

 

Ess, C. (2006). Ethical pluralism and global information ethics. Ethics and Information Technology, 8(4), 215-226.doi:10.1007/s10676-006-9113-3

 

これは翻訳されて下記に掲載されている。西垣によるCharls Essの価値多元主義に関する要約は下記に引用したとおりである。これを引用して論文も書いたのだが、実はこれを読んだ時には、あまり深刻には受け止めていなかった。しかし、今日の議論を見るにつけ、日本においても現実的な問題になったのを感じる。Essやその他の欧米の倫理学者にとっても、彼らの現実を考えるのに必要なアクチュアルな問題だったに違いない。

 

しかし、同時に、在特会をめぐる議論で言う「相対主義」は、下記で言う相対主義と同じなのか、疑問も残る。まだ、価値多元主義について考えるは早いのではないかとさえ思う。

 

下記で大切なのは、なぜ独善主義を批判し、相対主義を考えださなければならかったのか、ということである。それは「白人の男のプロテスタントだけが良い人間だ」という独善主義によって虐げられる人がいて、それに痛みを覚えたからである。

 

その経緯は、指向性において「レイシストもその反対派も、どちらも攻撃的だから同じだ」という言明とは、全く真逆のベクトルである。それを相対主義と呼んでは、独善主義からの脱却に苦労した先人に失礼である。同時に、いわゆる言論の自由も、基本的人権の一つとしてあるので、他人の幸福権や平等権を侵害する言論の自由などあり得ない。

 

価値多元主義について言及するのは、のいえほいえ氏が言うように、「まず近代になってから」先の話である。なんか、Essが遠くに感じられてきたが、それが今の私たちの問題である。ドイツの倫理学者Rafael Capurroが酔っ払っている時に、「あんた何で現代の情報倫理学なのにアリストテレスの話なんかすんの?死んじゃったじゃん。大昔じゃん。インターネットなかったじゃん。」と言ったら、"Because it's our family problem(家族の問題だから).アリストテレスはアテナイのムラの住人がどうやって生きるかを考えていた。"と言っていた。

日本にも「家族の問題」がある。それは3.11の前から存在していて、今次々と顕になっている。人々の生活の知恵も学問も、容易に解答を見いだせないである。反原発でも差別でも、何かのイシューに際して、必ず出てくるここで扱ったような横道もその一つで、それによって問題の本質から遠ざけられてしまう。

 

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 独善主義とは、地球上に唯一の「正しい倫理道徳」が存在するというものである。かつて一九世紀から二○世紀前半にかけて、いわゆる「近代化」の波とともに西洋のキリスト教倫理道徳がそういうものとして位置づけられたことは指摘するまでもないだろう。しかし、もはや一面的な真理観は通用しない。相対主義とは、いわば独善主義への批判としてポストモダン思想とともに台頭したもので、多様なローカル文化の価値を認め、唯一の「正しい倫理道徳」など存在しないと主張する。

 だが、グローバルに利用されるICTは必然的に技術的共通性をもつため、相対主義とは矛盾するとエスは述べる。無理にこれを両立させようとすれば、いわゆる「ゲットー」化が進み、地球上の情報通信が分断されてしまうというわけだ。さらに、「何でもあり」の相対主義は、ファシズムさえ許すことになるとエスは批判するのである。

 では、「多元主義」とはいかなるものだろうか。それはとりあえず、多様な倫理道徳同士の相違をふまえながらも共通する普遍性を探っていく試み、と見なせるだろう。これにも何種類かあって、たとえばローレンス・ヒンマンは「最小限の両立性 (Compatibility)」、ジョン・ロールズは「同一性共有による結びつき(Connection)」、チャールズ・テイラーは「補完性(Complementarity)」にもとづく多元主義をそれぞれ主張する。エスはこのなかで、相異なる同士が互いに学びあい補完しあうというテイラーの考え方にもっとも共感しているのだが、さらに第四の多元主義として「解釈的多元主義 interpretive pluralism」提唱するのである。

 端的に言うと、この多元主義は、「同一の倫理規範でも、その解釈や応用においてさまざまな判断がありうる」という考え方にもとづいている。エスによると、これはいわゆるフロネーシス(応用知)に近く、プラトン、アリストテレス、アクィナス、カントとつながる西洋哲学の正統的な流れにおいても見られるものだ。とりわけ、その解釈的多元主義をもっとも強く支えているのは、アリストテレスの「収赦的解釈多様性(focal equivocal)」という理念である。言語に注目すると、一つの言葉の意味は一般に複数ある。しかし、それらの意味同士はまったく無関係ではなく、およそ同一の軸に収数する場合が多い。つまり、唯一の絶対的一義性と、まったくの多義性との中間なのである。同じことが実践における道徳的判断においても言える、というわけだ。

 ところでエスの議論が興味深いのは、孔子もこういう考え方をしていると述べている点である。

 すなわち、儒教においては、同じ倫理規範を適用するに際して、さまざまな、場合によっては相矛盾する複数の判断が許される。複数の視座からの解釈多様性が認められるわけだ。それらの解釈同士は、ちょうど音楽のように、互いに調和し、共鳴する。まさにこの点に、エスは伝統的な西洋哲学と東洋思想との共通点を見出しているのである。西垣・竹之内.(2007:32-33)

西垣通・竹之内.(2007). 情報倫理の思想. NTT出版.

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3.11と関東大震災 カウンターバランスの結果

過去40年間になく社会運動が盛り上がっているのですが、ナチスが台頭するときに、共産党の票も伸びたという逸話が頭にこびりついて離れません。子安先生の言う関東大震災後の政治の推移と現状との相似を考え合わせると、3.11以後ずっと不安を抱えて暮らしています。
カウンターバランスの中で思わぬ結果が出てしまうことを恐れています。浅学非才な私は当てずっぽうしか言えません。なんとか危機を乗り越える道が開ける事を願うのですが…
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子安宣邦
関東大震災(1923)から満州事変(1931)まで10年もたたない。震災後の復興が昭和の戦争にいたる日本的システムを作っていったのではなかったか。いま災害後の復興がいわれる。日本的システムのうやむやな修復的再生ではない復興をわれわれはいかにして遂げるか。
Fri Apr 29 00:56:20 +0000 2011 via web
子安宣邦
@Nobukuni_Koyasu
Nobukuni_Koyasu 子安宣邦
昭和初期の政治的事件、満州事変(1931)も5.15事件(1932)も関東大震災(1923)からの日本の復興過程の事件だと見ることができる。昭和前期史をもう一度しっかり見ておくことが必要である。
4月6日 お気に入り リツイート 返信
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子安宣邦
Nobukuni_Koyasu 子安宣邦
大川周明の『日本精神研究」は震災後の精神復興の呼び声に応えて書かれたものである。だから彼において「日本精神」とは日本の復興を可能にする革新的改造のエートスであった。これは私の研究会(9日/早稲田)報告の予告である

インターネットでの「自己物語」とその共有 ――親密性と公共性の間――

書籍として出版予定になったので、一部のみ掲載します。
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1            はじめに

インターネット[1]上で自己を語る インターネット上のウェブ日記や掲示板、SNSと呼ばれる会員制コミュニティサイトなどが隆盛である。そこには学問的な知識や社会問題に関する議論も書かれているが、生活上の体験や心情の告白などを書いた記事も多く見いだせる。後者について考えることが、本章の主題である。このような体験談は、以前からインターネット上にあったが、最近はウェブログや前述のSNSなど、更新や書き込みが簡単なシステムが出てきたのでますます増えている。これらの体験談は、それを通して自分について語ることだとも考えられる。彼らは、インターネットで自己を物語っているのである。これを自己物語と呼ぶ。

1980年代に、「自分史」を出版すると言うことが流行した(小林、1997)。多くのひとびとが自己について物語る欲求を持ち、自分の生活の歴史を書籍として出版したのである。それと比較してみると、長く続けられているウェブ日記は、結果的に自分史に近いようなものである。そこまでまとまったものでなくても、その前段階、あるいは物語の断片というものがインターネット上にはたくさん見いだせる。今では自分史を語る場所が、インターネットに移動しているのかも知れない。


当事者性問題文献

McLelland, M. (2009). The role of the “tojisha” in current debates about sexual minority rights in Japan. Faculty of Arts - Papers (Archive). doi:10.1080/10371390903026933

Text http://ro.uow.edu.au/cgi/viewcontent.cgi?article=1213&context=artspapers

This paper considers two unforeseen outcomes of the primacy of the to¯ jisha in current LGBTQdiscourse. Firstly, through insisting on attending to the voice of each individual, it has proven difficult to establish common links among discriminated communities (or within communities)because of widely diverging perspectives.

田村による要約

According to McLelland(2009), the term “tōjisha” originatedin the fields of law, politics, and administrative studies, and has been usedcontinuously in these disciplines across the course of the twentieth century.Prior to World War II, in particular, the term tōjisha was most closely associated with legal studies, it referred to the people or parties directly involved in the matter, often the matter of alitigation/lawsuit. The early 1970s saw a shift in the application of the term tōjisha, beginning in the context of the women’s liberation movement and gradually expanding to the fields of social welfare and social work. The early 1980s saw a range of coalitions across different social movements representing the "socially weak", in what can be termed a broad tōjisha undo or movement with the aim of strengthening their bargaining power vis-a-visnational and local governments. However, the premise of solidarity was shown tobe somewhat fragile as conflict began to arise not only between tōjisha and hi-tōjisha but also among tōjish at hemselves. Indeed, there has always been a fundamental tension underlying the concept of the tōjisha (McLelland2009:195-7). 


川坂和義. (2010). ゲイ・スタディーズにおける「当事者」の言説の特徴とその問題点. 論叢クィア, (3), 86–109.
http://twileshare.com/uploads/3R-Kawasaka.pdf

 「当事者」を権威化し自身の正当性を根拠づけようとする言説は、「当事者」とは誰かという問いの中では「当事者」への欲望を喚起し、それを巡って他者と闘争関係を築く一方、「当事者」が特定の集団に結ばれ固定されるとき、そのような集団性を維持しようとするために保守的にも機能しだすのである。

平野智之. (2012). 「関係性としての当事者性」試論 : 対話的学習モデルの検討から. 人間社会学研究集録, 7, 99–119.
Text Link http://ci.nii.ac.jp/naid/120004901202

野崎(2004)は、本人と関係者全員を「当事者」であると設定し、当事者と関係者(援助者)の関係性において批判的な意見が行き来する回路が成立しうるかという視点から当事者性の再検討を試みる8。野崎は、自分が障害を有する研究者として、当事者性をもって自分に都合のいい主張や他の「当事者」の代弁をする危険性(倫理的課題)に触れる。その点では、たとえ「当事者の語り」が本人の体験と感情が事実によって支えられた唯一性によって〈重み〉を持つとしても、その〈重み〉は決して正当性を担保しないことになる。むしろ、〈重み〉を大切にしつつ他者の批判的介入を受け入れる立場が重要視されるべきという。

レポートの書き方が、説明だけでわかるか?

レポートの書き方は、水泳のようなものなので、書いたものを基準に基づいて批判してもらわなければ、身に付けることができない。口頭や紙面で書き方を教えても身に付けることは難しく、畳の上の水練になりやすい。さんざんやってもらった教員はそのことを忘れがちだが、そうである。
従って、繰り返し教員が添削することが望ましいが、その時間はなかなか取れない。学生の相互批評はとても効果があるが、その時間が取れないこともある。
そこで前回同様評価基準を示した上で、Wordファイルでの書式フォーマットに工夫をしてみた。そしてこのファイルに直接書き込むように求めた。

レポート書式A.pdf

レポート・論文には問と答えとその説明という構造があり、まず目的を書くことが重要であることを可視化しようとした。論文作法書には、時にこのような文例があるが、それをそのまま書式にした。文例は、ある先生が公開している学生レポートを改変したものである。感謝。

効果は次の通り。
1.枠が書いてあると、大概の学生には枠のとおりに書くことがわかる。
2.レポートの目的を明記するようになった。

実は、学部の段階では、この二つがわかることがとても大事だ。形式を身につけるということが、大事なのである。査読にかかるような学術論文でも、いったい何が目的なのか不明確なものがある。目的が不明確だと、方法も発見も結論も不明確になる。
高校までの作文は感想を求める事が多いので、学生諸君はレポートの冒頭を自分の人生体験で始めることがままある。そこは、関係ないのである。
以上