共同研究・競争的資金等の研究課題

2013年 - 2015年

ジャクソン・ポロックと連邦芸術計画

文部科学省  科学研究費補助金(挑戦的萌芽研究)
  • 河内 信幸

課題番号
25580165
担当区分
その他
配分額
(総額)
3,510,000円
(直接経費)
2,700,000円
(間接経費)
810,000円
資金種別
競争的資金

ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)は、1935年2月にブルックリン美術館のグループ展に『脱穀する人』を初めて出品したが、大恐慌の蔓延が社会危機を深めており、芸術に夢を託すほど生活のゆとりはなかった。そのためポロックは、連邦緊急救済局(FERA)の石切り工として公共のモニュメントや彫像を修復したり、清掃したりするなどの仕事を行った。またポロックは、1935年8月に兄のサンフォードとともに、雇用促進局(WPA)の連邦芸術計画(FAP)に採用され、登録した壁画部門の仕事に従事した。さらに翌36年になると、ポロックはFAPの画架部門にも登録し、何度も中断するものの、FAPの仕事はWPA が終焉する1943年まで続いた。ところが、絵画に対するポロック姿勢は、無意識レベルの強烈な「原感情」の表出を処理できず、意識の進める写実の作業に強く抵抗するようになった。しかも、そこには師であるロバート・ベントンとの離別の葛藤が絡んでおり、ポロックは、無意識から生まれる感性を芸術のモチーフにすべきだと強く思った。しかし、それは既成のコンセプトに対する大きな反逆であり、ポロックは孤独な闘いを強いられて苦悩を深めた。その結果、ポロックは次第に鬱状態から飲酒に溺れるようになり、アルコール依存症の治療を必要とするに至った。1937年に入院したポロックは、ユング派の精神科医師ジョセフ・L・ヘンダーソン博士から精神分析の治療を受けた。ヘンダーソン医師は、ポロックに自由連想法によるデッサンの作成(オートマティズム)を求め、その精神分析からポロックが乳児期に味わった、母親に対する渇望や憎悪が明らかになった。ポロックは、当時流行していたフロイト派やユング派の精神分析学から大きな影響を受けており、深層心理に潜む、芸術に対する無意識の表出に注目していた。

リンク情報
URL
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/25580165.ja.html