綿貫哲郎

J-GLOBALへ         更新日: 18/05/25 19:23
 
アバター
研究者氏名
綿貫哲郎
 
ワタヌキ テツロウ
ハンドル
handle0077340
eメール
mianguanhotmail.com
URL
http://www.geocities.jp/manju1635/
所属
日本大学
職名
兼任講師
学位
博士(文学)(日本大学)
その他の所属
明治学院大学文教大学ノースアジア大学創価大学青山学院大学

プロフィール

群馬県前橋市生まれ。県立前橋東高等学校卒業後、日中学院に進学。続いて中国(中華人民共和国)に3年間留学。帰国後、印刷関連会社勤務を経て、日本大学通信教育部(史学専攻)から日本大学大学院文学研究科史学専攻(博士前期課程)へ。日本大学大学院文学研究科東洋史学専攻(博士後期課程)満期退学。博士(文学)。

専門は清朝史・満族史・八旗制(主に八旗漢軍)・満洲語。 近年は「明末の遼東」地域と「遼人」(特に祖大寿と「祖家将」)がメイン。

経歴

 
2018年5月
 - 
2018年7月
東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 短期滞在型研究員
 
2018年4月
 - 
現在
青山学院大学 経済学部 非常勤講師
 
2018年4月
 - 
現在
創価大学 文学部・通信教育部 非常勤講師
 
2017年10月
 - 
現在
ノースアジア大学 経済学部 非常勤講師
 
2015年4月
 - 
現在
文教大学 人間科学部 非常勤講師
 
2011年4月
 - 
現在
明治学院大学 経済学部 非常勤講師
 
2009年4月
 - 
現在
日本大学 商学部 非常勤講師
 
2006年4月
 - 
2018年3月
日本大学 短期大学部(船橋校舎) 非常勤講師
 
2005年4月
 - 
現在
日本大学 文理学部 非常勤講師
 
2005年4月
 - 
現在
日本大学 通信教育部 非常勤講師
 
2004年4月
 - 
2018年3月
日本大学 理工学部 非常勤講師
 
2004年4月
 - 
2008年3月
日本大学 文理学部 学術フロンティア事業 ポストドクター
 
2004年4月
 - 
2007年3月
日本大学 文理学部 人文科学研究所 研究員
 
1999年4月
 - 
2002年3月
日本大学 文理学部 ティーチング・アシスタント
 

学歴

 
2002年4月
 - 
2002年12月
中国社会科学院 近代史研究所 
 
2001年4月
 - 
2004年3月
日本大学大学院 文学研究科 東洋史学専攻
 
1999年4月
 - 
2001年3月
日本大学大学院 文学研究科 史学専攻
 
1994年4月
 - 
1999年3月
日本大学 通信教育部 史学専攻
 

研究分野

 
 

委員歴

 
2004年4月
 - 
現在
満文講読会  幹事
 
2011年11月
 - 
2016年11月
歴史学会  理事
 

担当経験のある科目

 
 

論文

 
綿貫哲郎
『吉林師範大学学報(人文社会科学報)』   2017年(第6期) 26-40頁   2017年11月   [査読有り][招待有り]
30年前の李洵「祖大寿与“祖家将”」を基礎に、祖氏一族の勃興を父祖承訓より説き起こし、祖家将との連繋を地縁・血縁以外に衛所制とも絡めつつ、さらに彼らが帰順した後の八旗漢軍への編入原則等にも言及した。特に本稿では、彼らが明末の三大軍閥中「其族党甚強」と称されたのは、先の2つの軍閥と異なり、寧遠衛の世襲衛所武官が多く組み込まれていたことを明らかにした。
綿貫哲郎
劉小萌[主編]『国際青年学者満学研究論集(2015)』中国社会科学出版社   280-302頁   2017年6月   [査読有り][招待有り]
学会論文集に載録された『清史研究』2015年(第4期)の改訂版。
綿貫哲郎
『清史研究』   2015年(第4期) 80-91頁   2015年11月   [査読有り][招待有り]
漢軍旗人の多くは清朝に帰順した旧明朝の漢人官員とその子孫である。清朝初期、彼らは八旗制に属することで「満洲化」した。本稿では帰順した漢人の中でも高級武官と彼らの継承者数名を取り上げた。彼らは帰順後に故郷(明朝)の妻子と離れ離れとなったが、清朝は本拠地の盛京で彼らに妻を娶せ子をもうけさせた。後年、彼らは故郷の家族と再会するが、帰順した高級武官が清朝の世職(爵位)を継がせる時、明朝時代の子ではなく「盛京生まれ」の子に継がせたことを明らかにした。
綿貫哲郎
日本大学      2015年3月   [査読有り]
日本大学に提出した博士論文。
綿貫哲郎
『清代満漢関係研究』中国社会科学出版社   274-287頁   2011年8月   [査読有り][招待有り]
八旗制の末端組織ニルは、雍正年間に3分類された。このうち勲旧ニルは、佐領がニルの配下の旗人と私属関係にあり清朝皇帝の権威が及びにくいが、雍正年間の八旗改革で私属関係を巡って係争が多く発生した。一方「勲旧」の名称は本来「入関前」と同義語であったが、現実とのギャップで使用法が一変した。これらは漢軍ニルの改革から顕在化した問題でもある。雍正帝は八旗制統属関係を整理するため八旗改革をおこなうが、結果として雍正帝の時代には独裁君主制は完成しなかったという近年の学説を別な視点から補強した。
綿貫哲郎[著];史可非[翻訳]
中国辺疆民族研究   (4) 343-355頁   2011年1月   [査読有り][招待有り]
『史潮』(64)の中国語訳
綿貫哲郎
『史潮』   (64) 45-63頁   2008年11月   [査読有り]
安南黎氏とは、安南(現在のベトナム)に成立した黎朝(1428-1789年)国王一族を指す。安南阮恵の乱により黎朝は滅亡した。清朝に亡命した国王は配下百数十名と北京でニル編設され八旗漢軍に隷属した。本稿では、北京での安南ニルを明らかにし、また乾隆帝が自らの80歳の記念式典に合わせて阮恵を急ぎ安南国王に封じて、熱河(避暑山荘;清朝皇帝は中央アジアの大ハーンを兼ねる)に入朝させることで、元朝のフビライがなし得なかった安南(ベトナム)を従えたという政治的アピールにも言及した。
綿貫哲郎
『史叢』   (78) 100-116頁   2008年3月   [査読有り]
「世職根源冊」とは世職の根源(由来・有資格者・歴代の授爵者など)を記した八旗檔案資料である。筆者は「八旗世襲譜檔」の「世職根源冊」より、八旗漢軍旗人のものを検証した。その結果、清朝入関前に八旗に編入された者と入関後に編入された者とに大きな差異(世襲が有限か無限か)が存在し、また入関前の「旧漢人」と「新漢人(太宗ホンタイジ期に八旗に編入した漢人)」との間にも、世襲が無限になる(「世襲罔替」)時期が異なることを見出した。これは摂政王ドルゴン執政期から順治帝親政期への代替わりと重なる。
綿貫哲郎
『満学研究』   (7) 344-349頁   2003年11月   [査読有り][招待有り]
八旗漢軍の母胎「旧漢人」は、主に太祖ヌルハチ期に帰順した漢人を指す。その代表3名(佟養性・李永芳・石廷柱)を取り上げ、彼らと清朝皇室との繋がりを考察した。彼ら「旧漢人」のうち佟養性と李永芳は、ヌルハチ孫娘を与えられ皇室と姻戚関係になるが、与えられたのは庶子の娘であり、立場は嫡子の娘を与えられた満洲人やモンゴル人と比べ一段低かった。太宗ホンタイジ期に初めて嫡子の娘と婚姻を結ぶが、この婚姻圏の変化(上昇)は清朝初期の漢人政策とも密接に関わるものであった。
綿貫哲郎
『社会文化史学』   (45) 15-32頁   2003年10月   [査読有り]
「六条例」とは、わが国東洋文庫に所蔵される満洲語檔案資料である。先学によれば乾隆三十年(1766)に制定された「ニル(八旗制の末端組織)の継承に関する規定」という。筆者は清朝行政上の大綱を示した編纂資料『大清会典』と「八旗世襲譜檔」を読み込み「六条例」と比較することで、「六条例」が単に「ニルの継承に関する規定」に止まらず、広大な清朝領域に適用範囲をもつ、乾隆初期~中期に整備された「八旗世襲官員(佐領[ニルを管理する官員]や世職[清朝の爵位をもつ旗人])の付与・承襲規定」であることを明らかにした。
関於入関後編立的八旗漢軍佐領(漢語)
綿貫哲郎
『清史論集-慶祝王鍾翰教授九十華誕』紫禁城出版社   487-498頁   2003年8月   [査読有り][招待有り]
八旗漢軍の漢人は、入関(1644年に清朝が長城[山海関]を越えて北京に遷都したこと)の前より後に清朝に帰順した後の者が割合が多い。また彼らの所属旗は、約1世紀後に八旗改革がおこなわれた後に編纂された『八旗通志』に依拠しなければないため、入関直後の旗色を知る方法が少ない。筆者は、中国第一歴史檔案館所蔵の満洲語檔案資料「王公各官名冊」「新官名冊」を調査・対照し、八旗編入当初の所属旗色を復元した。
綿貫哲郎
『史叢』   (67) 31-41頁   2002年9月   [査読有り]
清朝は「満洲人」が建てた王朝と言われるが、実際その支配層は「旗人」と称され、主に八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍から成りたっていた。八旗漢軍について、これまでの研究では「満漢関係」の「満」、「旗民関係」の「旗」に分類され、「満」あるいは「旗」内部での関係、すなわち八旗満洲と八旗漢軍で考察されたことは少なかった。その少ない先行研究を整理して、八旗漢軍の母胎「旧漢人」の八旗編入を検証した。
六條例の成立-乾隆朝八旗政策の一端-
綿貫哲郎
日本大学文理学部      2001年1月   [査読有り]
日本大学文理学部に提出した修士論文。
綿貫哲郎
『満族史研究通信』   (9) 87-94頁   2000年5月   [査読有り]
1980年代にマイクロフィルム化され研究に用いられている檔案(公文書のこと)資料のうち、中国第一歴史檔案館所蔵「八旗世襲譜檔」の成立や資料的性格を考察した。また中国第一歴史檔案館での現地調査を踏まえて、似た資料的性格をもつ中国第一歴史檔案館所蔵「八旗雑檔」と比較し、清朝滅亡後の八旗制檔案資料の変遷過程を現在の中国第一歴史檔案館の成立までと合わせて論じた。

書籍等出版物

 
『デジタルアーカイブの活用と諸問題─日本大学文理学部の取り組み』
日本大学文理学部[編]
トランスアート   2006年3月   
第7章「清朝史研究におけるデジタルアーカイブの活用と課題」を担当、分担頁数107~124頁。清朝史研究の分野で、すでにデジタルアーカイブ化が先行している台湾の中央研究院歴史語言研究所のテキスト画像データベースを中心にに、これを我が国の研究機関などにおける複数の検索データベースと比較した。また中央研究院のメタデータを検証し、当該プロジェクトのデジタルアーカイブ化とのインデックスとの関連性を模索し、将来的に統一されたデータベースとして運用され得る方法を提示した。
『デジタルアーカイブの構築-日本大学文理学部の取り組み-』
日本大学文理学部[編]
トランスアート   2005年3月   
第7章「清朝史研究におけるデジタルアーカイブの利便性-「史料」と「資料」のはざま-」を担当、分担頁数133~154頁。清朝史研究における「檔案資料」の高度利用についての取り組みの方法について模索した。清朝「檔案資料」は、書かれた文字も当然ながら「檔案資料」そのものに価値を見出した研究、一例をあげれば、「塗抹」「削除」「塗改」などを丹念に追うことで、歴史的事実の復元が可能となるなど、これらをどのようにデジタルアーカイブ化していくかなどを検討した。

講演・口頭発表等

 
再論祖大寿与“祖家将” [招待有り]
綿貫哲郎
国際満学学術研討会   2017年6月29日   
「論文」欄を参照。
従“帰附漢人"転到“漢軍旗人"-以"盛京出生”者為中心 [招待有り]
綿貫哲郎
国際満学青年学者論壇   2015年9月12日   
「論文」欄を参照。
祖大寿一族と「祖家将」をめぐって―明朝武将から漢軍旗人へ―
綿貫哲郎
満族史研究会第29回大会   2014年5月31日   
祖大寿一族と彼の配下の武将(「祖家将」)は、清朝太祖・太宗期(17世紀前半~中葉)にかけて明朝側の一員として、清朝による明朝侵出を食い止めたことで知られている。また、祖大寿自身は、清朝に二度投降した稀有な経歴をもつ。その祖大寿と「祖家将」について、研究史の整理をおこない、その勃興の背景と八旗編入についての新しい知見を示した。なお、この発表の一部は、論文「従“帰附漢人”転到“漢軍旗人”-以“盛京出生”者為中心」として活字化されている。
安南黎氏与北京安南営
綿貫哲郎
紀念王鍾翰先生百年誕辰曁清史、民族史国際学術研討会   2013年8月27日   
論文「安南黎氏佐領編設始末考」で書いたように、安南黎氏一族は乾隆五十五年(1790)から嘉慶九年(1804)まで、配下百数十名と北京でニルに編設され八旗漢軍に隷属していた。2013年、彼らが北京で居住していた場所(安南営)が判明したため、そこをフィールド調査し結果を当該学会にて発表した。
八旗漢軍勳旧佐領考-雍正朝“佐領三分法”與“勳旧”名称
綿貫哲郎
清代満漢関係史国際学術研討会   2010年8月29日   
「論文」欄を参照。
恩騎尉の創設
綿貫哲郎
「研究セミナー:清朝社会の多様性をさぐる」AA研共同研究プロジェクト《東アジアの社会変容と国際環境》研究会、東北学院大学大学院文学研究科《アジア文化史大学院GP》共催   2009年3月13日   
恩騎尉とは乾隆十五年(1751)に創設された清朝の爵位である。本来の清朝爵位は世襲が有限・無限なものに分けられるが、恩騎尉は七品官(微官)ながら世襲に制限がない。また武勲を立てて有限の爵位終了者、あるいは戦没した者の子孫らに新たに賜与された。先行研究では「八旗生計」問題と結び論じられてきたが、発表では別な見解を示した。つまり恩騎尉創設は、清朝自体が西北方面への軍事行動を展開している時期でもあり、新たな旗人の鼓舞とその結束を図ろうとしたためでもあるという一面を提示した。
正白旗漢軍一等延恩侯朱氏をめぐって
綿貫哲郎
第23回満族史研究会大会   2008年5月31日   
一等延恩侯朱氏とは、清朝がその前の王朝であった明朝(1368~1644年)の子孫(朱之璉)を探し出し、その人物に恩恵を与えて一等侯として明朝の祭祀を委ねさせた一族である。朱氏は清朝末期まで続き、R・F・ジョンストン『紫禁城の黄昏』にも子孫が登場する。しかしながら、朱氏が選ばれるまで王朝滅亡から100年近く期間が空いている。発表では、この空いた期間を中心に、その問題点と朱之璉が選ばれた政治的背景について検証した。
満洲語档案資料データベースの連携:『鑲紅旗档』アーカイブの特徴と課題
加藤直人・綿貫哲郎
日本大学文理学部学術フロンティア推進事業「デジタルアーカイブの構築と高度利用」中国文書等資料班・公開シンポジウム報告   2008年3月1日   
『鑲紅旗檔』とは、我が国の東洋文庫に所蔵される鑲紅旗満洲都統衙門の檔案である。雍正元年の衙門創立から清朝末期まで約300年にわたる公文書群で、ひとつの八旗都統衙門の文書がまとまって保存されているのはほかに例を見ない。しかしながら、その檔案の種類は様々であり不統一である。学術フロンティア事業において、当該グループではこの『鑲紅旗檔』を写真製版したが、実際どのようにインデックス化するか、その課題について発表した。
清代における八旗漢軍旗人の諸相
綿貫哲郎
歴史学会:第32回大会「移動の履歴とアイデンティティ」報告   2007年12月1日   
同年4月に報告した内容をブラッシュアップしたもの。八旗漢軍旗人の多元性や内部の構造、そしてアイデンティティを中心に発表した。その直後におこなわれた全体討論では、ドイツ・韓国での発表と比較することを通じて、八旗漢軍旗人のアイデンティティの特徴を見出そうとした。
清朝における八旗漢軍旗人の多元性について
綿貫哲郎
歴史学会:第3回月例研究会報告   2007年4月24日   
同年12月の「歴史学会:第32回大会:移動の履歴とアイデンティティ」の準備報告。八旗漢軍がどこから来たのか、どのような職責を担わされたのか、また彼らの現在の立場はどのようなものであるのか。そして彼らを読み解くためにどのような研究方法があるのかを自分の視点から提示した。
順治年間史研究の視座について
綿貫哲郎
満文講読会ワークショップ   2006年3月4日   
私自身が主催を務める「満文講読会」ワークショップでの冒頭発表。中国第一歴史檔案館原蔵「内国史院檔・順治年間」のトランスクリプション化と日本語訳の勉強会を月2回開催している。発表では、実録の元になったと考えられる当該檔案で、皇帝と書かれる時に抬頭(文章の途中で改行し、一文字あるいは二文字上げて記す)がデフォルトであるが、この檔案では皇帝でない摂政王ドルゴンを指す「王」も抬頭されている。このことは、この檔案が順治初期のドルゴンを知る上で重要な記録であることを指摘した。
清朝档案資料の高度利用-満洲語文書のデジタルアーカイブ化より-
加藤直人・綿貫哲郎
デジタルアーカイブの構築と高度利用   2005年7月30日   
当該プロジェクトにおける中間報告的な位置づけの発表。発表内容は、今後データベースを構築する上でのインデックスや画像データ表示に関して、清朝史研究からの提案を、檔案資料主体にダミーを掲示して当グループとしての希望や展望を発表した。
世職制度からみた清初の八旗漢軍旗人
綿貫哲郎
清朝と八旗をめぐる国際セミナー   2004年10月23日   
「論文」欄を参照。
近代以降における広州駐防八旗旗人について
綿貫哲郎
平成15年度日本大学文理学部学術研究発表会:史学部会   2003年10月24日   
2002年12月にフィールドワークした(細谷良夫・東北学院大学教授;劉小萌・中国社会科学院近代史研究所研究員との共同作業)内容の報告。清朝は入関後、中国本土の主要な都市に八旗を駐屯させた(駐防八旗)。広州に現在居住する彼らの末裔を訪ね、広州ならではの特徴や清朝末期の「滅満興漢」や文化大革命期という近現代を生き抜いてきた歴史的背景について発表した。
関於入関後編立的八旗漢軍佐領
綿貫哲郎
清史・満族史国際学術研討会   2003年8月18日   
「論文」欄を参照。
入関後における降清明将の八旗編入について
綿貫哲郎
第18回満族史研究会大会   2003年5月31日   
中国第一歴史檔案館原蔵の満洲語檔案資料「王公各官名冊」「新官名冊」(共に順治九年と康煕二年の2種類が存在)の資料調査の報告。これらの檔案は満洲語で記されるが、まだ公文書で満洲語と漢語表記の統一がなされていない時期のため問題点は少なくない。ただ、この資料ならではの特徴もある。例えば、順治九年に書かれた資料は、康煕二年頃まで複数の手による加筆・塗抹が見られており、康煕二年の新しい檔案作成まで、順治九年本に代替わり等の記録を続けられたことなどである。発表では、このような事例をいくつか示した。
清初的旧漢人與清皇与
綿貫哲郎
国際八旗学術研討会   2002年7月29日   
「論文」欄を参照。
八旗漢軍をめぐる問題について
綿貫哲郎
平成13年度日本大学文理学部学術研究発表会:史学部会   2001年10月26日   
大学院博士後期課程に入学して、博士論文を執筆するにあたり、自分がこれまでどのような研究をし、どのような論文を書いてきたのかを整理したもの。発表では、これまでの「満漢関係」の研究方法に捉われず、研究が進み始めた「内陸アジア史」視点を加えたことで、本来農耕民であった漢人を母胎とする漢軍旗人と清朝皇帝との政治的な距離感が、姻戚関係より読み解けることを回顧し、合わせてこれからの展望を示した。
「六條例」成立の一端
綿貫哲郎
<東アジアの社会変容と国際環境プロジェクト>セミナー:清朝社会と八旗制─文書史料からのアプローチ─   2000年12月20日   
「論文」欄を参照。
八旗漢軍「勲舊」佐領考─雍正朝八旗改革の一考察─
綿貫哲郎
日本大学史学会月例会報告   2000年12月16日   
中国第一歴史檔案館原蔵「八旗世襲譜檔」を中心に用いて、雍正帝(1722~1735年在位)が、自らの皇帝権力確立のために実施した八旗改革について、勲旧佐領を中心に発表した。発表では、雍正五年(1726)に開始されたニル三分法の上諭が、雍正帝の理想を述べたものであること、また実際に三分類するにあたり、様々に佐領官やニル下人との抗告・係争が発生し雍正帝の在位中に分類が終了しなかったこと、また抗告・係争を経て新たな問題が発生し、乾隆年間まで長引いたことなどを指摘した。
ニル(佐領)分類法の推移について
綿貫哲郎
平成12年度日本大学文理学部学術研究発表会:史学部会   2000年10月28日   
八旗制の末端組織ニル(漢名は佐領)にどんな種類があったのかは、編纂資料ごとに異なる。例えば、ニルを管理する官(佐領官)が世襲かそうでないか、佐領官と当該ニル下の者(ニル下人)との間に私属関係があるかないかという違いを分けずに記す編纂資料が多いためである。この混同は雍正年間から乾隆年間初期(18世紀初期~中葉)の八旗改革の結果生じた。発表では、編纂資料が編まれた年代や各朝代ごとの八旗改革を分けることで、複雑・難解であったニル分類と名称を理解した。
正白旗漢軍原管佐領根源冊─「八旗世襲譜档」よりみた八旗漢軍「勲舊」佐領─
綿貫哲郎
第15回満族史研究会大会   2000年6月3日   
中国第一歴史檔案館原蔵「八旗世襲譜檔」の調査報告。その檔案の中に「原管佐領(=原管ニル)」と書かれたものが存在する。先行研究では、佐領官と当該ニル下の者との間に私属関係があるニルを「勲旧ニル(=勲旧佐領)」と称し、似た性格の「原管佐領」については不明瞭な点が多かった。発表では、八旗漢軍正白旗の「原管佐領」根源冊(満洲文と漢文の合璧)を中心に、そのニルと「勲旧ニル」には何ら違いがなく、漢字表記時の「揺れ」であることなどを指摘した。
旗下人の身分問題について─清初の開戸問題、特に「旗下開戸」を中心に─
綿貫哲郎
平成11年度日本大学文理学部学術研究発表会:史学部会   1999年11月5日   
八旗に属する「旗人」には、一般的な身分「正身旗人」と隷属的な身分の「戸下」が存在する。しかしながら「開戸」という身分が別途存在する。発表では、清朝中期の八旗改革の一環として「旗下開戸」とは実際にはどういう身分であったのかについて、先行研究の整理と時代的背景などを改めて検証した。