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キアスムスの核の機能

森(2007)によれば、キアスムスの核には、形式的機能と内容的機能がある。

 

さて、何対かの対応に囲まれて構造の中央に位置しているのが<核>である。テキストの各要素は対応を重ねながら、この核にむかって集中する。そして、しばしばそこにテキストの隠れた意図の集約的表現が見受けられる。その意味では、核はテキストの構造上の中心としての形式的機能を持つだけではなく、テキストに隠されたメッセージの指標として内容的機能をも担っているといえよう。

 

キアスムスの中央を表示するという形式的機能と、テキストの中心的メッセージを表示するという内容的機能が核にはある。また、核は、しばしば、ストーリーのクライマックス(central climax point)でもある。

 

引用文献

森彬、2007、『ルカ福音書の集中構造 』、キリスト新聞社。

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キアスムスの核の意味

キアスムスには核のあるタイプと核のないタイプがある。

 

◆核があるタイプ

A

 B

  C

   Χ

  C´

 B´

 

◆核がないタイプ

A

 B

  C

  C´

 B´

 

核を表す記号としては、一般に「Χ(ギリシャ語のカイ)」が使用される。

核があるものを「集中構造」と呼び、核がない「キアスムス」と区別する場合があるが、研究者によっては双方を区別せず「キアスムス」と呼ぶ。また、核のないタイプの転回点に相当する対を核とみなす場合もある。

 

◆核が対であるタイプ

A

 B

  Χ

  Χ´

 B´

 

表現の形式はどうあれ、核は、キアスムスを構成する重要なエレメントである。核には、しばしばキアスムスの主題が描かれる。

 

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形態学とキアスムス

創世記の天地創造の記事は次のようなキアスムスからなる(大喜多2017)。

 

 

(1)神の所在と天地   ⇄   (4)神の所在と天地

  神:水の表            神:休息

 天地:無形            天地:完成

   ↓                ↑

(2)創造過程      ⇄   (3)創造過程

  一日目:光と闇       →     四日目:昼と夜

  二日目:大空           五日目:空の生き物と海の生き物

  三日目:陸            六日目:陸の生き物と人間

 

 

(1)と(4)は、神の所在と天地の状況である。(1)では、 神は水の表にあり、定まらない状態にあるが、(4)では神は休息し、安定した状態である。(2)と(3)は、天地創造の過程である。前半の(2)では、後に創造されるものの舞台が設定される。そして後半の(3)では、(2)で設定された舞台に登場するものが創造される。

聖書とは関係ないが、かつて三木成夫は、形態学において独創的な論を展開した(三木1992)。その論の一部に、植物と動物が反転しているというものがある。例えば、植物は基本的に移動できないが、動物は移動できる。また、植物には個体差がなく、成長限界があるのだが、動物には個体差があり、成長限界がある。つまり、植物は開放系であるのだが動物は閉鎖系である。

三木は言及していないが、こうした三木の論を神と人間にあてはめてみると、植物と動物のような反転がみとめられるようだ。つまり、多くの宗教では神の遍在性や超越性を説いている。つまり開放系である。それに対し、人間は個別的な存在であり身体という限定された枠組みをもつ閉鎖系である。聖書では一神論の立場をとる。かかる立場に基づけば、神は唯一であるが、人間は数多く存在する。

恣意性に関するの批判を恐れず、敢えて図式化を試みると、次のようになる。

 

 

(1)神       ⇄   (4)人間

  開放系            閉鎖系

(2)植物      ⇄   (3)動物

  開放系      →     閉鎖系

 

 

引用文献

大喜多紀明、2017、「聖書「創世記」冒頭の5つの物語の構造:異郷訪問譚によらない裏返し構造の事例」『北海道言語文化研究』、15、195-216、北海道言語研究会。

三木成夫、1992、『生命形態学序説―根原形象とメタモルフォーゼ』うぶすな書院。

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キアスムスの2種類のパターン

大喜多(2013)によれば、アイヌ口承テキストにみとめられるキアスムスには、要素対が増加するタイプと最小限の要素対に留まるタイプがある。前者は、大喜多(2013)ではパターン①と呼ばれ、下記の構造的特徴をもつ。

 

 

パターン①
Ⅰ :【緒言】
 Ⅱ :【暮らし A】
  Ⅲ :【移動 A】
   Ⅳ :【侵入】
    Ⅴ :【緊張 A】
    Ⅴ´:【緊張 B】
   Ⅳ´:【退出】
  Ⅲ´:【移動 B】
 Ⅱ´:【暮らし B】
Ⅰ´:【結語】

 

 

後者はパターン②と呼ばれ、下記の構造的特徴をもつ。

 

 

パターン②
Ⅰ :【緒言】
 Ⅱ :【暮らし A】
  Ⅲ :【並行箇所 A】
  Ⅲ´:【並行箇所 B】
 Ⅱ´:【暮らし B】
Ⅰ´:【結語】

 

 

パターン①の場合、キアスムスの「核」に、主人公に生命的な危機が訪れるような非常に緊迫した場面が配置される。この緊迫した場面は、テキスト全体からみれば、さほど広い範囲ではない。この場面では、主人公が危機を克服する様子が描かれることが多い。

それに対し、パターン②では、「核」において、比較的大きな分量の並行記事が配置される。この場合、主人公は必ずしも生命的な危機に直面するとはいえない。パターン②の並行箇所を切り分ければパラレリズムにみえるが、テキスト全体の構造をみれば、実際はキアスムスであることがわかる。

 

 

引用文献

大喜多紀明、2013、「アイヌ口承テキストに確認される 2 種類の修辞配列パターンについての資料」『人間生活文化研究』、23、77-96、大妻女子大学人間生活文化研究所。

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要素対が多いキアスムス③

要素対が多いキアスムス①では、アイヌ口承テキストの事例を紹介した。要素対が多い事例は、聖書テキストにもみとめられる。キアスムスと裏返し構造②で紹介したルカ福音書全体にわたるキアスムスは合計17組の要素対を持つものである。これは、規模が大きいだけでなく、十分に、要素対が多い事例であるといえる。さらに、森彬は『ルカ福音書の集中構造』において、当該福音書が9章29節を核とする132組に及ぶ要素対により構成されていると主張している。こうした要素対の出現は、テキストを普通に読んでいるだけでは到底発見することはできまい。キアスムスが文脈の中に見事に溶け込んでいるのである。

聖書テキストの場合は、多くの読者によって読まれることを前提に書かれている。何度もテキストを読むことにより、埋伏されたキアスムスに気が付く読者もいるかもしれない。一方、アイヌ口承テキストは、本来はあくまでも口承である。つまり、極めて揮発性が高く、「再読」は不可能である。過去にすでに消え去った口承テキストにも、前述したような要素対が多い事例が存在していたのであろうか。今となっては誰もわからない。

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要素対が多いキアスムス➁

アイヌ語樺太方言の最後の話者とされる浅井タケのトゥイタハでも、要素対が非常に多いキアスムスがみとめられる。以下は、1988 年8月23日に収録された「箱流しの話」にみとめられるものだ。

 

A 「男」と「妻」が暮らしていた

 B 「息子」の成長

  C ①悪事を計画する「男」と「妻」
      ②「息子」が山から下りてくる

   D 「息子」が箱に閉じ込められる

    E 「息子」が川に流されてしまう

     F 「息子」が泣きながら川を下る

      G 「息子」の泣き声(挿入歌)

       H 「息子」が泣きながら川を下る

        I 「息子」の喪失

         J ①ある村
            ②ユリ根
            ③浜に行きたい

          K 「娘」が箱を開けた(開ける行為)

           L 「娘」が髪の毛を引き上げる(探し出す行為)

            M 「娘」が子どもの小指の半分をみつける(小さい)

             N 「娘」が小指の半分を家に持ち帰る(小さい)

              O 「娘」が子守をする(養育する)

               P 美しい「男の子」になる

               P´美しい「男の子」になる

              O´「娘」が「男の子」を育てる(養育する)

             N´「男の子」が大きくなる(大きい)

            M´「男の子」が大きくなる(大きい)

           L´「男の子」が人を探しに出かける(探し出す行為)

          K´「男の子」が 1 軒の家の戸を開ける(開ける行為)

         J´①遠い村
            ②ユリ根
            ③歌を聴きたい

        I´「息子」の帰還

       H´「息子」が歌を歌う

      G´「息子」の歌(挿入歌)

     F´「男」と「妻」 「これはよい歌だ」

    E´「妻」気がつく 「息子ではないか?」

   D´「息子」が飛び起きる

  C´①悪事に対する報いを受ける「男」と「妻」
      ②「息子」と「娘」が浜の方へ下りる

 B´「息子」が立派な男になる

A´「男」と「妻」が山になる

 

アイヌは無文字文化である。したがって、上述のような口承文芸も文字を媒介としていない。それにも関わらず、こうしたキアスムス構造が表出する。

 

引用文献

大喜多紀明、2013、「樺太アイヌの「トゥイタハ」に見出される交差対句」『年報人類学研究』、3、169-191、南山大学人類学研究所。

村崎 恭子(編訳)、作成日2009-01-07、『浅井タケ昔話全集 I, II』(音声・文字資料)、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所。

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要素対が多いキアスムス➀

アイヌ口承テキストには、文字ではなく口頭によるにもかかわらず、要素対の数が非常に多いキアスムスを形成するものがある。ここではテキストの記述は省略するが、平賀サダモのウウェペケレ「母と父がその息子を和人にやって置いて来た」には以下のような、18個の要素対を持つキアスムスを見いだすことができる。

 

 

A 日々の暮らし

 B 交易に行かない

  C 他の人の交易の様子

   D 舟で出立

    E 和人の村に着く

     F 来なさい

      G はじめてのアイヌ商人

       H 若殿の事情を話す大殿様

        I 開けてくれ

         J 私が見た光景

          K 私のところに来なさい(若殿) 若殿の言葉に従いなさい(大殿様)

           L 若殿の所へ行く

            M そばで火にあたりなさい

             N 若殿が傍らをトントン叩く

              O 食べなさい 飲みなさい

               P はじめて交易に来た(考え)

                Q そこからやって来た

                 R 本当か? 本当です

                 R ́本当か? 本当です

                Q ́はじめてやって来た

               P ́はじめて交易に来た(言葉)

              O ́食べなさい 飲みなさい

             N ́若殿が傍らをトントン叩く

            M ́そばで寝なさい

           L ́若殿が出かける

          K ́私のところに来なさい(若殿) 若殿の言葉に従いなさい(大殿様)

         J ́私が見た光景

        I ́入りなさい

       H ́自分の事情を話す若殿

      G ́はじめて鳥が獲れる

     F ́まだいなさい

    E ́和人の村を出る

   D ́舟での帰還

  C ́他の人より多い荷物を持って帰還

 B ́交易に行かない理由

A ́その後の暮らし

 

 

こうした事例に対し、大喜多(2012)では、アイヌにおける口承を記憶するメカニズムとの関連を指摘している。

 

 

引用文献

大喜多紀明、2012、「アイヌ民族による散文説話「母と父がその息子を和人にやって置いて来た」についての交差対句資料―話者が口承を記憶するメカニズム―」『人間生活文化研究』、22、159-170、大妻女子大学人間生活文化研究所。

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聖書外郭のキアスムス➂

通常は聖書の正典としてみなされないダニエル書補遺「ベルと竜」やⅡマカバイにもキアスムスがみとめられる。以下は、ダニエル書補遺「ベルと竜」(「聖書 新共同訳」日本聖書協会)におけるキアスムスの一例である。

 

 

A アスティアゲス王が死んで先祖の列に加わり、ペルシア人のキュロスが、その王国を継いだ。αダニエルはこの王の側近を務めており、王のすべての重臣たちよりも高く用いられていたβバビロニア人たちはある偶像を礼拝しており、その名をベルといった。人々は毎日、十二升の上質の小麦粉と四十匹の羊と六樽のぶどう酒を、その像のために費やしていた。王はベル神を敬い、毎日、礼拝にやって来た。しかし、ダニエルは自分の神を礼拝していた。そこで、王はダニエルに言った。「お前はなぜベル神を礼拝しないのか。」ダニエルは、γ「わたしは手で造った偶像などではなく、天地を造られ、すべての生き物を支配しておられる生ける神を礼拝しているからです」と答えた。

B すると、王はダニエルに言った。「ベル神が生ける神であるとお前は思わないのか。毎日、どれだけベル神が召し上がり、お飲みになっているかお前は見ていないのか。」αダニエルは笑って言った。「β王様、だまされてはなりません。あれは内側は粘土で、外側は青銅でできていて、飲み食いするわけがございません。」

C 王は怒って、ベル神の祭司たちを呼びつけて、言った。「これほどの費用のものを平らげているのはだれか、わたしに告げることができないなら、お前たちは死を免れない。しかし、もし、αベル神が食べておられることを証明するなら、ダニエルこそ死を免れない。ベル神を冒涜したからだ。」ダニエルは王に、「あなたのお言葉どおりになさってください」と言った。

D さてベル神のα祭司たちは、女、子供を除いて、七十名いた。王はダニエルを伴って、ベルの神殿に入った。ベル神の祭司たちは言った。「さあ、王様、私どもは外に出ています。

E あなたが食物をお供えし、ぶどう酒に香料を混ぜてそこに置き、α扉をしっかり閉ざしてあなたの指輪で封印してください。そして、明朝早くおいでになって、ベル神が全部食べてしまわれたのを御覧になれない場合には、私どもは死を甘んじて受けましょう。しかし、その反対であったならば、我々を陥れようとしてうそをついたダニエルこそ死ぬべきです。」

F α祭司たちは事態を軽く見ていた。というのは、彼らは、供物台の下に、隠し扉を作っており、いつもそこから入っては供え物を飲み食いしていたからである。

F´さてα祭司たちが出て行くと、王はベル神に食物を供えた。一方、ダニエルは自分の召し使いたちに命じて灰を運んで来させ、王しかいないのを確かめてそれを神殿中にまかせた。

E´それから、皆、外に出てα扉を閉め、王の指輪で封印し、立ち去った。

D´夜になり、いつものように、α祭司たちとその妻や子供たちがやって来て、すべてを食い、飲み尽くした。 

C´その翌朝、王は早々と起きてやって来た。ダニエルも一緒だった。王は言った。「ダニエルよ、封印に異常はないか。」ダニエルは、「王様、異常はございません」と答えた。王は扉が開かれるとすぐに、目を供物台の上に注いだ。王は大声で叫んだ。「α偉大なるかなベル神よ、あなたには一かけらの偽りもない。」 

B´しかしαダニエルは笑って、王が中に入らないように押しとどめ、「その床を御覧ください。あの足跡がだれのものかをお調べください」と言ったβ王は、「なるほど、これは男と女と子供との足跡だ」と言い、憤って、祭司たちをその妻や子供たちと共に捕らえさせた。ついに彼らは、供物台の上のものを平らげるために出入りした隠し扉を王に示した。

A´王は彼らを処刑し、ベル神のα処置をダニエルに任せた。ダニエルはベル神とその神殿を打ち壊した。さて、一匹の巨大な竜がいた。βバビロニア人たちは、これをあがめていた。王はダニエルに言った。「この竜が生ける神ではない、といかにお前でも言えまい。これを礼拝せよ。」ダニエルは王に言った。γ「わたしは、わたしの神である主を礼拝します。その方こそ生ける神だからです。王様、お許しをいただければ、剣も棍棒も用いずに、この竜を殺してみせましょう。」王は「許す」と言った。

 

 

「ベルと竜」は、大きくは、上記の「ベル神」との関わりについての記事と、その後の「竜」との関わりについての記事によって構成されている。ここで見いだせるキアスムス様式は、聖書正典における他書の構造と似ているといえる。

 

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聖書外郭のキアスムス➁

使徒信条は、初期のキリスト教徒がいわゆる異端と呼ばれる思想と対抗するために作った「古ローマ信条」が原型となったとされる。この使徒信条は聖書テキストではないが、聖書と同様にキアスムス様式である。以下は、使徒信条(一八九〇年(明治二十三年)制定(旧)日本基督教會 信仰の告白より)である。なお、引用文中のアルファベット・記号は筆者によるものである。

 

(A/)我は天地の造成者、全能の父なる神を信ず。我はその獨子、我等の主耶蘇基督を信ず。(/A)(B/)即ち聖靈によりて胎られ、處女マリヤより生れ、(/B)(C/)ポンテオ、ピラトのもとに苦を受け、(/C)(D/)十字架につけられ、(/D)(E/)死して葬られ、(陰府に下り)(/E)(E´/)第三日に死者のうちより復活り、(/E´)(D´/)天に昇りて、全能の父なる神の右に座し給へり、(/D´)(C´/)彼所より來たりて生ける者と死ねる者とを審判たまはん。(/C´)(B´/)我は聖靈を信す、(/B´)(A´/)聖なる公同教會すなはち聖徒の交通、罪の赦、身躰の復活、永遠の生命を信ず。アーメン(/A´)

 

使徒信条は、アルファベット・記号に基づけば次のようになる。

 

A 何を信じるか

 B 聖霊の働き

  C 地の主権による審判

   D 磔刑(木にあげられる)

    E 死

    E´復活(死の否定)

   D´昇天(天にあげられる)

  C´天の主権による審判

 B´聖霊を信じる

A´何を信じるか

 

このキアスムスの「核」にはイエスの十字架による死と復活が据えられている。

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聖書外郭のキアスムス➀

聖書のテキストにはキアスムスが頻出する。ここでは、聖書テキストそのものではないが、テキストから導出されるキアスムスを連想させる事例を紹介する。

まず、黙示録の「七つの教会」における地理的配置についてである。黙示録2:1から3:22には、「七つの教会」へのメッセージが書かれている。この「七つの教会」とは、聖書に記載されている順に書くと、エペソ・スミルナ・ペルガモ・テアテラ・サルデス・ヒラデルヒヤ・ラオデキヤの教会である。これらの場所を地図上で配置してみると、ペルガモを頂点とした逆V字になっていることがわかる。つまり、エペソからペルガモまでは北上しているが、ペルガモからラオデキアまでは逆に南下している。これに、黙示録の記者ヨハネが啓示を受けた場所とされるパトモス島を添加すると、パトモス島はエペソよりも南であるので、以下のようになる。

 

 

◆地理的状況

←南 北→

  パトモス

    エペソ

      スミルナ

        ペルガモ

      テアテラ

    サルデス

  ヒラデルヒア

ラオデキア

 

 

さらに、「七つの教会」に送られたメッセージには、「耳のある者」および「勝利を得る者」という言葉が書かれているのだが、その言葉の順序は、ペルガモまでとそれ以降では逆転している。

黙示録2:1から3:22に書かれた「七つの教会」の記事におけるメッセージの最後部は次のようになっている。

 

 

◆エペソ

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。

◆スミルナ

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。

◆ペルガモ

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。

◆テアテラ

勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。 ・・・ 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

◆サルデス

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。 ・・・ 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

◆ヒラデルヒヤ

勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。 ・・・ 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

◆ラオデキヤ

勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。 ・・・ 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

 

 

このように、それぞれの末尾部分では、「耳のある者」と「勝利を得る者」という二種類の言葉が書かれている。この二つの言葉は、エペソからペルガモまでは、「耳のある者」が先に書かれているが、テアテラ以降は、「勝利を得る者」が先になっている。つまり、ペルガモの記事とテアテラの記事との間には何かしらの「切り替え」がある。

 

 

◆語順

パトモス島   :なし

 エペソ    :「耳のある者」→「勝利を得る者」

  スミルナ  :「耳のある者」→「勝利を得る者」

   ペルガモ :「耳のある者」→「勝利を得る者」

   テアテラ :「勝利を得る者」→「耳のある者」

  サルデス  :「勝利を得る者」→「耳のある者」

 ヒラデルヒヤ :「勝利を得る者」→「耳のある者」

ラオデキヤ   :「勝利を得る者」→「耳のある者」

 

 

ここでの地理的状況語順に共通する点は、ペルガモで反転することである。こうした構造がはたしてキアスムスといえるかの議論はあるだろう。だが、ペルガモを軸とした対称形であるとはいえる。

旧約聖書の創世記には、アブラハムの生涯が描かれている。彼の出生地から定着地への地理的移動の経路は、ウル→マリ→ハラン→ベテル→ヘブロンであった。これもほぼ逆V字型である。その逆V字の頂点にあたる場所はハランであり、ここでアブラハムは父テラと別離することになる。この構図は次の通りである。

 


A ウル    :出生地

 B マリ

  Χ ハラン  :父との離別

 B´ベテル

A´ヘブロン  :定着

 

 

こうした地理的状況や主人公の歩みの様子もキアスムス構造であるといえる。

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キアスムスと出口王仁三郎➁

出口王仁三郎『水鏡』にもキアスムスがみとめられる事例がある。以下は一例である。なお、引用文中のアルファベット・記号は筆者による。


 

火の洗礼と水の洗礼

(A/)火をもつて、パプテスマを行ふと云ふ事は、人間を霊的に救済すると云ふ事である。これ大乗の教であつて、今迄の誤れる総てのものを焼き盡し、真の教を布かれる事である。水をもつてパプテスマを行ふと云ふ事は、人間を体的に救済する事である。火は霊であり、水は体である。(/A)(B/)瑞霊の教は永遠の生命の為め欠くべからざるの教であつて、(/B)(C/)厳霊の教は人生に欠くべからざるの教である。(/C)(C´/)厳霊の教は、道義的であり、体的であり、現在的である。(/C´)(B´/)瑞霊の教は道義を超越して、愛のために愛し、真の為めに真をなす絶対境である。所謂三宝に帰依し奉る心である。(/B´)(A´/)火の洗礼と、水の洗礼とは、それ程の差異があるのである。某地の大火災を目して、火の洗礼だと人は云ふけれど、それは違ふ、水の洗礼である、如何となれば、それは体的のものであるから。(/A´)

 

 

A 火の洗礼と水の洗礼

 B 瑞霊の教

  C 厳霊の教

  C´厳霊の教

 B´瑞霊の教

A´火の洗礼と水の洗礼

 

 

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キアスムスと出口王仁三郎➀

前稿では、国歌君が代における対称的な韻律が、出口王仁三郎の大著『霊界物語』に掲載されていること、および、かかる対称的韻律がキアスムスとみなせることを述べた。

そもそも王仁三郎の口述テキストにはキアスムスが頻出する。以下はその実例である。第80巻『笑譏怒泣』には以下のような箇所がある。なお、アルファベット・記号・下線は筆者による。

 

 

(A/)かく歌ふや、俄に昼の如明るかりし四辺は常闇と変じいやらしき声頻りに聞え来る。(/A)(B/)『ギヤハハハハハ、如何にもこの方は譏り婆の成の果、(/B)(C/)汝が弟秋男といふ青二才を悩め殺し、火炎山の火口へ放り込み、生命をとるやうに致したはこの方が計画、(/C)(D/)もうかうなる上は何もかも言つてやらう。(/D)(E/)尻から見えた尾は、即ち汝が弟秋男の髪の毛、小百合と名告る女の尻にはさんだ尻尾は其方が弟の髪だ、(/E)(Χ/)イヒヒヒヒ、(/Χ)(E´/)てもさても心地よやなアー。二人の女の尻尾は出来たが、もう二つの尻尾が要るより、(/E´)(D´/)今ここに現はれて、(/D´)(C´/)汝等兄弟二人生命をとり、二人が乙女の尻尾となし、自由自在の妙術を使ふ吾等が計画、(/C´)(B´/)てもさてもいぢらしいものだワイ、イヒヒヒヒ、(/B´)(A´)笑ひ婆アと譏り婆、瘧婆に泣婆と四人変装したのは、汝の眼には美しき乙女と見せむためなり。(/A´)

 

 

この箇所には次のキアスムスがみとめられる。

 

 

A 四辺 変じ いやらしき

 B ギヤハハハハハ(笑い声)

  C 青二才 生命をとるやうに致した

   D 何もかも言つてやらう(あからさまになる様子)

    E 尻尾

     Χ イヒヒヒヒ(笑い声)

    E´尻尾

   D´今ここに現はれて(あからさまになる様子)

  C´兄弟二人 生命をとり

 B´イヒヒヒヒ(笑い声)

A´四人 変装 美しき乙女と見せむ

 

 

このようなキアスムスがみとめられるのはここだけではない。以上を鑑みれば、出口はキアスムスの使用を好んだといえる。ただし、王仁三郎が意図的にこの修辞技法を使用したか否かは不明である。

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キアスムスと君が代(『霊界物語』より)

『霊界物語』は出口王仁三郎が口述した大著である。その第80巻の序文・付録には、君が代の韻律に次のような法則があることが、図式とともに述べられている(霊界物語.ネット ~出口王仁三郎 大図書館~ より引用)。

 

君が代の国歌を、韻律の法則に由りて表示すれば左図の如く、その母音が左右相対的に対照して居て、韻律の美なる事は、皇国日本の厳正中立の精神を如実に表徴するものたるを知り得べし。
XXを中心に、同じ母音が対照せるを見るべし。

 

 

王仁三郎によれば、君が代の母音が対称的に配列しているという。これもキアスムスの一種である。

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キアスムスと裏返し構造④

テキストが短いにもかかわらず、裏返し構造の要素対の数が多い、聖書以外の事例には、宮崎駿の短編アニメーション映像「On Your Mark」がある。この作品に関する説明は、ここではおこなわないが、大喜多(2017)では次の構造を紹介している。

 

 

(1)移動者     ⇄  (13)移動者
 描かれない        描かれる
 近づく          遠ざかる
  ↓             ↑
(2)車両による移動 ⇄  (12)車両による移動
 「石棺」から       「石棺」へ
 移動作業車        オープンカー
 移動者描かれない     移動者描かれる
  ↓             ↑
(3)建物への突入  ⇄  (11)建物への突入
 警察隊として       警察隊に追われることにより
 飛行艇          移動作業車
 宗教施設へ        集合住宅へ
 幽閉された少女      解放された少女
  ↓             ↑
(4)放たれた少女  ⇄  (10)放たれた少女
 上昇を躊躇        上昇
  ↓             ↑
(5)少女発見    ⇄  (9)少女発見
 初回           初回の否定
  ↓             ↑
(6)防疫研究所   ⇄  (8)防疫研究所
 少女を引き渡す      少女を連れ戻す
 ピンクの飛行艇      白い飛行艇
 飛び去る         落下する
  ↓             ↑
        (7)食事
         決断する二人

 

この短編アニメーション作品は、上映時間が6分48秒であり、宮崎による一連の長編アニメーション映画に比べれば非常に短いといえる。それにもかかわらず6組の要素対がみとめられる。

 

 

引用文献

大喜多紀明、2017、「短編アニメーション作品『On Your Mark』の裏返し構造:宮崎作品にみられる特徴」『人間生活文化研究』、27、251-258、大妻女子大学人間生活文化研究所。

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キアスムスと裏返し構造③

続いて、新約聖書のヤコブの手紙の全領域における裏返し構造である。これは、大喜多(2019)で紹介された。

 

 

A.兄弟たち     ⇔   V.兄弟たち
 既に離散          離散してほしくない
  ↓              ↑
B.忍耐       ⇔   U.忍耐
 生み出される        模倣すべき
  ↓              ↑
C.水        ⇔   T.水
 海             雨
  ↓              ↑
D.富の没落     ⇔   S.富の没落
 一生            一年・今日明日
  ↓              ↑
E.愛        ⇔   R.愛
 人→神           神→人
  ↓              ↑
F.欲        ⇔   Q.欲
 罪を生み出す        義を生み出す
  ↓              ↑
G.贈与       ⇔   P.贈与
 上方から          上方ではない
  ↓              ↑
H.舌        ⇔   O.舌
 制御すべき         制御できない
  ↓              ↑
I.もてなし       ⇔   N.もてなし
 賎者をもてなす       賎者がもてなす
  ↓              ↑
J.承認        ⇔   M.承認
 信仰により         行いにより
  ↓              ↑
K.行いの不足    ⇔   L.行いの不足
 効果発動          無効

          →

 

 

このヤコブの手紙は、11組の要素対により構成されている。前述のルカによる福音書では、17組の要素対がみとめられたのであるが、ヤコブの手紙はルカ福音書にくらべればはるかに短い。つまり、ヤコブの手紙における要素対の出現頻度はルカによる福音書よりも高いのである。

 

 

引用文献

大喜多紀明、2019、「新約聖書「ヤコブの手紙」にみとめられる裏返し構造:「物語」とはいえないテキストの事例」『人間生活文化研究』、29、15‐21、大妻女子大学人間生活文化研究所。

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キアスムスと裏返し構造➁

裏返し構造でも、規模が大きいものや小さいものなどのバリエーションがある。ここでは、規模が大きい事例として、大喜多(2018)が紹介した、ルカによる福音書の全体にわたる裏返し構造を紹介する。大喜多(2018)によれば、ルカによる福音書は合計17組の対照的な対応により構成されている。

 

 

A.不自由と不信       ⇔     M.不自由と不信
 ヨハネの誕生を認めない         イエスをみえない
  ⇒ザカリヤ口がきけなくなる       ⇒イエスが認知させる
 不信する                不信すべきではない
  ↓                    ↑
B.生命と配置        ⇔     L.生命と配置
 イエスの誕生              イエスの死
 飼葉おけ                石窟
  ↓                    ↑
C.イエスの評価       ⇔     K.イエスの評価
 待望されるイエス            嘲笑されるイエス
  ↓                    ↑
D.問答           ⇔     J.問答
 賞賛されるイエス            侮辱されるイエス
 驚嘆すべき回答             寡黙
  ↓                    ↑
E.対抗者          ⇔     I.対抗者
 悪魔の出現               ユダの出現
 試練を回避するイエス          試練を回避しないイエス
  ↓                    ↑
F.宣教           ⇔     H.宣教
 ガリラヤ地方              エルサレム
 非受容→受容              受容→非受容
  ↓                    ↑
a.弟子への叱責       ⇔     v.弟子への叱責
 出発                  到着
 叱責の実行               叱責の拒絶
  ↓                    ↑
b.イエスに対する認知    ⇔               u.イエスに対する認知
 王も知らない              王としての帰還
  ↓                    ↑
c.永遠の生命        ⇔     t.永遠の生命
 試みる律法学者             教えを乞う役人
 エルサレム→エリコ           エリコ→エルサレム
  ↓                    ↑
d.祈祷方法の伝達      ⇔     s.祈祷方法の伝達
 弟子に乞われる             イエスが教える
  ↓                    ↑
e.救いの在り方       ⇔     r.救いの在り方
 認識可能                認識不可能
  ↓                    ↑
f.預言者の言葉        ⇔     q.預言者の言葉
 信ぜずに殺害するパリサイ人       死んで地獄に行く金持ち
  ↓                    ↑
g.富の扱い         ⇔     p.富の扱い
 正当な富                不正な富
  ↓                    ↑
h.主人の評価        ⇔     o.主人の評価
 正当な僕への正当な報酬         不正な僕への不正な報酬
  ↓                    ↑
i.悔い改め          ⇔     n.悔い改め
 悔い改めないと滅びる          悔い改めると滅びない
  ↓                    ↑
j.安息日の善行        ⇔     m.安息日の善行
 女の救い                息子の救い
  ↓                    ↑
k.家の内外の関係      ⇔      l.家の内外の関係
 内:正当                内:不当
 外:不当                外:正当

              →

 

 

このような構造を、著者ルカが意図的に当該テキストに埋伏させたのか、それともそうでないかは明らかでない。いずれにせよ、このような文芸的技巧がテキストに施されているという点は興味深い。

ちなみに、テキスト全般を範囲とする裏返し構造は、いくつかの聖書テキストでもみいだされている。

 

 

引用文献

大喜多紀明、2018、「ルカによる福音書9章51節~19章46節にみられる裏返し構造:対称性仮説に関する検証に向けて」『人間生活文化研究』、28、610-618、大妻女子大学人間生活文化研究所。

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キアスムスと裏返し構造➀

キアスムスのなかでも、転回点の前の要素と後の要素のすべてが対照的な関係にある場合、これを裏返し構造と呼ぶ。例えば、A・B・B´・A´というキアスムスで、AとA´が対照的であり、かつ、BとB´が対照的な場合、これは裏返し構造である。裏返し構造はキアスムスに内包される概念である。従来、裏返し構造は、異郷訪問譚に共通にみいだされることが知られていた(大林1979)。大林(1979)では、いくつかの日本の異郷訪問譚が裏返し構造であることを例示した。なお、大林(1979)の末尾では次のように述べている。

 

私は小論において、日本文学から口承文学にもとづくと思われる異郷訪問譚の例をとり上げ、そこには共通の約束があることを論じた。もちろん、これは日本の異郷訪問譚のごく一部にしか過ぎない。日本文学上の他の作品、また現在の昔話や伝説における異郷訪問譚にも、同様な構造がみられるかどうか、また異郷訪問譚以外にも、どのような説話にこの構造がみられるか、さらにこのような構造をもたない異郷訪問譚は、どのような構造をもっているのか、の検討は今後の課題である。

 

大林(1979)の知見を受けた後続研究には、例えば以下がある。

 

依田(1982):韓国の異郷訪問譚

大喜多(2014)大喜多(2017):異郷訪問譚形式のアニメーション映画

大喜多(2020)異郷訪問譚形式の漫画

大喜多(2018):文学作品

 

 

引用文献

大林太良、1979、「異郷訪問譚の構造」『口承文芸研究』、2、1-9、口承文芸学会。

依田千百子、1982、「韓国の異郷訪問譚の構造」『口承文芸研究』、5、47-57、口承文芸学会。

大喜多紀明、2014、「アニメーション映画『千と千尋の神隠し』にみられる二重の異郷訪問譚構造について:ミハイ・ポップの「裏返し」モデルを適用した場合」『国語論集』、11、77-89、北海道教育大学釧路校国語科教育研究室。

大喜多紀明、2017、「長編アニメーション映画『崖の上のポニョ』の構造分析:2 編の小さな異郷訪問譚の接合」「人間生活文化研究」、27、1-13、大妻女子大学人間生活文化研究所。

大喜多紀明、2018、「芥川龍之介『トロッコ』の裏返し構造:良平の「新生」場面の機能」『国語論集』、15号、45-52、北海道教育大学釧路校国語科教育研究室。

大喜多紀明、2020、「小山ゆう『チェンジ』にみられる裏返し構造:漫画作品における異郷訪問譚の事例」『人間生活文化研究』、30号、146‐150、大妻女子大学人間生活文化研究所。

 

 

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時制をつなぐキアスムス

キアスムスが出現するテキストは、何も聖書だけではない。例えば、アイヌ口承テキストや、アイヌ語話者による口頭テキストにもしばしば出現する。

以下は、アイヌ語話者(二谷善之助)による口頭テキストである(田村1988)。テキスト中のアルファベット・記号は筆者によるものである。

 

 

〔A/〕若い娘さんのあなたに、今はじめて会いました。とは言っても、和人の方々ばかり住む大都会からあなたがおいでになることがあると私は聞いていました。〔/A〕〔B/〕 それから、あなたがおいでになったら、なんでもよく教えてあげたい、見せてあげたいとは言っても、〔/B〕〔C/〕 あいにく、今日は立派なアイヌは仕事のためとはいいながら、みんな出払ってしまったあとに来て、〔/C〕〔D/〕 私ひとりしかいないようにお話しして、あなたにも気の毒に思っていました。〔/D〕〔D´〕とはいえ、ひとりかふたり、私たちが昔持っていた楽しいお話をすることになるでしょう。〔/D´〕〔C´/〕そのうちのひとつでも、あなたが持って行かれたら、私はよかったなと思って安心できるでしょう。〔/C´〕〔B´/〕私がたくさんしゃべってもよくないから、これまでにしておきます。〔/B´〕〔A´/〕あなたがどこに旅するにしても、無事に旅するように、このことは神様にもお知らせしていますから、どうぞよい心を持ち、いつまでも健康な体を持って暮らされますように。〔/A´〕

 

 

大喜多(2012)では、このテキストに以下のキアスムスの存在を指摘している。

 

 

A 出会い     (過去→現在)
 B 教えてあげたい(過去→現在)
  C 出払う   (過去→現在)
   D 話聞かせる(過去→現在)
   D´話聞かせる(現在→未来)
  C´持っていく (現在→未来)
 B´話をやめる  (現在→未来)
A´別れ      (現在→未来)

 

 

 

このキアスムスは、転回点の前と後で時制が異なっている。つまり、転回点の前は、過去から現在への言及であるが、転回点の後は、現在から未来への言及である。

 

 

引用文献

大喜多紀明、2012、「アイヌの挨拶表現と民俗的修辞構造」『ポリグロシア』、22、157-165、立命館アジア太平洋研究センター。

田村すず子、1988、「国松さんと幸作さんの昔話:二風谷・平取:平村幸作さんの民話(1)」『アイヌ語音声資料』、6、58-63、早稲田大学語学教育研究所。

 

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方法論上の課題

キアスムスに関する議論がかかえている基本的な課題がある。それは、分析に主観が介入しやすいという点である。だが、こうした恣意性に関する課題は、キアスムス分析に限らない。むしろ、物語における構造分析論がかかえる共通の課題でもある。

あるテキストに埋伏した、今までおそらくは誰も気がつかなかったキアスムスを発見する喜びがある。だが、発見されたキアスムスも、それだけでは単なる資料にすぎない。

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テキストをまたぐキアスムス

聖書はそもそも連続する一つの書物ではない。別々に書かれた「巻」の集合体である。以下は、旧約・新約聖書の目次である。ここでは口語訳聖書の目次を採用した。

 

 

<旧約聖書>

創世記
出エジプト記
レビ記
民数記
申命記
ヨシュア記
士師記
ルツ記
サムエル記上
サムエル記下
列王紀上
列王紀下
歴代志上
歴代志下
エズラ記
ネヘミヤ記
エステル記
ヨブ記
詩篇
箴言
伝道の書
雅歌
イザヤ書
エレミヤ書
哀歌
エゼキエル書
ダニエル書
ホセア書
ヨエル書
アモス書
オバデヤ書
ヨナ書
ミカ書
ナホム書
ハバクク書
ゼパニヤ書
ハガイ書
ゼカリヤ書
マラキ書

 

<新約聖書>

マタイによる福音書
マルコによる福音書
ルカによる福音書
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガラテヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録

 

 

上述のように、聖書に収納された「巻」は、基本的には個別に形成されたのであるが例外もある。例えば、新約聖書のルカによる福音書使徒行伝は、ルカによる連作であるとされている。これに関連し、ルカによる福音書と使徒行伝をまたぐキアスムスの存在について議論されてきた。双方のテキストをまたぐキアスムスの一つとして、森(2007)は次のものを紹介している。

 

ルカと使徒行伝をまたぐキアスムス

A 証人による福音の世界的進展          ルカ24:47、48

 B 父なる神の約束               ルカ24:49a

  C エルサレム滞留の指示           ルカ24:49b〔原典〕

   D 上から力が授けられる、との約束     ルカ24:49c〔原典〕

    E イエスの昇天             ルカ24:51b

     F 神殿での賛美(核)         ルカ24:53

    E´イエスの昇天             使徒1:2b

   D´聖霊のバプテスマを授けられる、との約束 使徒1:5b

  C´エルサレム滞留の指示           使徒1:4b

 B´父なる神の約束               使徒1:4c

A´証人による福音の世界的進展          使徒1:8

 

次は、テサロニケ人への第一の手紙(Ⅰテサ)テサロニケ人への第二の手紙(Ⅱテサ)をつなぐキアスムスである(筆者の未発表論文)。

 

ⅠテサとⅡテサをつなぐキアスムス

A 祈り                             Ⅰテサ1:1

 B 全体の模範となった                     Ⅰテサ1:7

  C 誰にも負担をかけない                   Ⅰテサ2:9‐10

   D 私達の言葉を神の言葉として受け入れた          Ⅰテサ2:13

    E あなたがたの信仰・希望・愛が増し加えられるように      Ⅰテサ3:1‐13

     F 神のみこころは清くなること                Ⅰテサ4:1‐8

      G 兄弟愛について                       Ⅰテサ4:9‐12

       H 眠っている人々について                  Ⅰテサ4:13‐14

        I 主の来臨の様子                    Ⅰテサ4:15‐18

        I´主の来臨への備え                   Ⅰテサ5:1‐5

       H´眠る者                          Ⅰテサ5:6‐11

      G´兄弟愛について                       Ⅰテサ5:12‐22

     F´あなたがたを清めてください                Ⅰテサ5:23‐24

    E´あなたがたの信仰・希望・愛が増し加わったことへの感謝    Ⅱテサ1:3‐12

   D´私達の言葉や手紙を守りなさい              Ⅱテサ2:1‐17

  C´誰にも負担をかけない                   Ⅱテサ3:7‐12

 B´身をもって模範を示した                   Ⅱテサ3:9

A´祈り                                                                                           Ⅱテサ3:18

 

 

この他にも、旧約聖書のサムエル記下列王紀上をまたぐキアスムスの存在などが知られている。

 

 

引用文献

森彬、2007、『ルカ福音書の集中構造 』、キリスト新聞社。

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キアスムスの規模

聖書テキストに埋伏するキアスムスには様々な規模のものがある。例えば、森(2007)では、キアスムスの規模を次の5種類に分類している。

 

1.文書全体

2.数章におよぶもの

3.章単位のもの

4.ひとつの段落、もしくは章の一部

5.節単位のもの

 

文書全体の規模のキアスムスの事例を紹介した論文には、例えば、以下のようなものがある(これは、ほんの一例である)。

 

テキスト         論文     

マルコによる福音書    村井(2009)

ルカによる福音書     大喜多(2018)

ローマ人への手紙     森(1996)

ピレモンへの手紙     大喜多(2019)

 

ただし、聖書の章や節には神学上の意味が特にあるわけではないので、章や節を基準とした分類はあくまでも便宜上のものであるといえる。

 

引用文献

大喜多紀明、2018、「ルカによる福音書9章51節~19章46節にみられる裏返し構造:対称性仮説に関する検証に向けて」『人間生活文化研究』、28、610-618、大妻女子大学人間生活文化研究所。

大喜多紀明、2019、「新約聖書に収納された「ピレモンへの手紙」にみられる裏返し構造」『人間生活文化研究』、29、293-298、大妻女子大学人間生活文化研究所。

村井源、2009、「マルコ福音書の多層集中構造」『日本カトリック神学会誌』、20、65-95、日本カトリック神学会。

森彬、1996、「ローマ書全体の集中構造について」『神学』、58、146-178、東京神学大学神学会。

森彬、2007、『ルカ福音書の集中構造 』、キリスト新聞社。

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キアスムスと状況対応型リーダーシップ理論

キアスムス構造の広がりは、状況対応型リーダーシップ理論(たとえば、網2016)にもみとめられる。状況対応型リーダーシップ理論におけるライフサイクルモデルを端的に表現すれば、フォロワーの成熟度合いの変化R1(能力低い・意欲低い)→R2(能力低い・意欲高い)→R3(能力高い・意欲低い)→R4(能力高い・意欲高い)に応じ、リーダーシップスタイルをS1S2S3S4と変化させるという特徴がある(大喜多2015)。

 

R1 能力低い・意欲低い  ←S1

 R2 能力低い・意欲高い ←S2

 R3 能力高い・意欲低い ←S3

R4 能力高い・意欲高い  ←S4

 

つまり、例えばR1の「能力低い」と「意欲低い」が、R4では「能力高い」と「意欲高い」では裏返えるように、R1とR4、R2とR3の状況は、それぞれ対照的なものに変化を遂げる(裏返る)のである(大喜多2015)。

 

R1R4

R2R3

 

この構造は、キアスムス構造の一種である裏返し構造の特徴と同一である。

 

引用文献

網あづさ、2016、『12のリーダーシップストーリー 課題は状況対応リーダーシップで乗り切れ』、 生産性出版。

大喜多紀明、2015、「異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論の構造的共通点:成長物語の観点から」『民俗文化』、618、7145-7147、滋賀民俗学会。

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キアスムス研究の広がり

物語の構造論では、プロップによるものとレヴィ=ストロースによるものが有名である。それに対して、キアスムスは決して有名とはいえない。そもそも、キアスムスというのは、主に聖書を扱う人たちが使用する呼称である。他の呼称には、交錯配列法交差対句法裏返し構造集中構造円環詩法V字プロセスなどがある。これらは基本的には、同じような態様の構造を指している。松村(2020)はキアスムス研究の広がりを示しつつ、「個人的な意見だが、折り返し構造という「構造」はすでに古代において発見され、意識され、活用されてきた」と述べた。松村が言う「折り返し構造」はキアスムスのことである。本ページの目的の一つは、こうしたキアスムス研究の多様な広がりを紹介するところにもある。

 

引用文献

松村一男、2020、「三つの構造 : キアスムス、プロップ、レヴィ=ストロース」『表現学部紀要』、20、79‐98、和光大学表現学部。

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キアスムスの構造的特徴

キアスムスの構造を系列的・統辞的双方の視点からみた場合、次のような特徴がみとめられる。

 

➀系列的特徴:キアスムスは複数の要素の対(これを「要素対」と呼ぶ)によって構成されている。

       例えば、AとA´BとB´など

➁統辞的特徴:キアスムスの折り返し以前と以後では、対応する要素の配列順が逆転する。

       A→B→B´→A´

       つまり、前半はA→Bだが、後半では逆転し、B´→A´である。

 

ここで、要素対が形成されるには、当該要素どうしに何らかの関係性が構築されていなければならない。かかる要素対の対応の種類について、森(2007)は次のように述べた。

「対応の種類には相似的(または相即的)対応、対照的対応、複合的対応の三種類がある。いかなる対応も、このうちのどれかに属する。」

つまり、森の説によれば、対応の種類は3種に限定される。一方、大喜多(2012)では対応の種類として、「「類似」した要素による対応」、「「正反対」の要素による対応」、「物理的変化どうしによる対応」、「物理的変化の前後による対応」の4種類を紹介した。いずれにせよ、キアスムスの対応の判別には恣意性が介入する余地があるといえる。

ちなみに、すべての要素対の関係が「対照的」あるいは「正反対」である場合、これを特別に「裏返し構造」と呼ぶことがある(大林1979)。

 

引用文献

大喜多紀明、2012、「アイヌ女性叙事詩「スズメの酒盛り」についての考察:交差対句と心意」『アジア民族文化研究』、11、181-213、アジア民族文化学会。

大林太良、1979、「異郷訪問譚の構造」『口承文芸研究』、2、1‐9、口承文芸学会。

森彬、2007、『ルカ福音書の集中構造 』、キリスト新聞社。

 

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キアスムスとは

一般的に「キアスムス」という用語は、聖書にみとめられる修辞法の一種の呼び名として使用されている。本ページでは、この用語の使用範囲を聖書に限定しないことにする。なお、キアスムスの中央に「核」と呼ばれる折り返し部位を持つ構造を「集中構造」と呼んで、キアスムスと区別する場合があるが、本ページでは、「核」の有無にかかわらずキアスムスと呼ぶことにする。

キアスムスとは、下図に示すような対称性に富んだ構造のことをいう。

 

ABC(Χ)C´B´A´

 

ここで、AとA´、BとB´、CとC´が対応している。なお、対応する要素対の数に関する規定は特にない。また、Χはキアスムスの「核」である。

以下、聖書にみとめられるキアスムスの有名な事例を一つ示す。

 

◆マタイ7:6(アルファベット・記号・下線は筆者による)

 聖なるものをA犬にやるな。また真珠をB豚に投げてやるな。おそらく彼らはそれらをB´足で踏みつけ、向きなおってA´あなたがたにかみついてくるであろう。

 

 この聖句をあらためて読んでみると、Aの「犬」はA´の「あなたがたにかみついてくる」に対応しており、「足で踏みつけ」るではない。このB´「足で踏みつけ」るはB「豚」である。つまり、犬は噛みつき、豚は踏みつけるのであり、AはA´に、BはB´にそれぞれ対応している。なお、マタイ7:6の場合は、Χは存在しない。

統辞的視点に基づけば、A→B→B´→A´である。一方、系列的視点に基づけば、A*A´、B*B´、C*C´となる。(ここで「*」は対応を意味する)

以上を図式化すると次のようになる。

 

マタイ7:6のキアスムス

A 犬

 B 豚

 B´  足で踏みつけ

A´  あなたがたにかみついてくる

 

このようなキアスムスは、聖書のなかに頻繁にみいだされる。

ちなみに、マタイ7:6に登場する「豚」は、律法的には「不浄な動物」である。また、「犬」は、ヨハネ黙示録22:15「犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。」にあるようにイメージが頗る悪い。つまり、「犬」「豚」も異邦人を象徴した言葉だといえる。(←この文章はキアスムスを意識してみました)

 

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