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[書庫]『民俗文化』(滋賀民俗学会)著者:大喜多紀明

「交差対句法」あるいは「円環詩法」に見いだされる「対称」の心性(638号、7389-7391頁)

詩法の一種に「円環詩法」というものがある。これは、例えば英文学における最古の叙事詩「ベーオウルフ」などに見いだされる、A→B→C→D→D→C→B→Aのような、対称性に富んだ構造のことを言う(水野二〇〇三)。水野は円環詩法について以下のように説明している。

 

このように詩歌の中のあるまとまった「詩連」(a series)において、最初の要素と最後の要素が「共鳴」し、最初の要素に後続する次の要素が、最後の要素に先行する要素と「共鳴」するといった体裁をもっており、いわば一種の「交差対句法」(chiasticdesign)を成していることが認められる。そしてしばしば、これらの共鳴する要素が、当該の詩連の中で、「中心的な要素としての役割りを有するひとつの中核」を取り巻くように配列され、全体として[ABC… X...CBA]という形式を有している。このような特徴が、「円環詩法」(ringcomposition)と名づけられているのである。

 

 こうした円環詩法の形式は、そもそも古代ギリシアのホメーロスの叙事詩にみとめられたのだが、水野(二〇〇三)や水野(二〇〇五)によれば、それ以外に、上述のような古英詩や、近代のユーゴスラビアの口承詩、エッダ詩にもみとめられるという。この円環詩法は、水野(二〇〇三)で言及されているように、修辞技法として見れば交差対句法(キアスムス、集中構造などとも呼ばれる)の一種として分類できる。

 だが、統語論上で交差対句法により構成されている構文と言えば、何も、円環詩法といういわゆる詩学の観点でのみ研究されているのではない。例えば、拙稿で紹介したアイヌ民族を話者とした口承テキスト(例えば、大喜多(二〇一三))や、ニヴフの口承にも交差対句法は見いだされている(大喜多二〇一五a)。また、古くは、聖書のテキストもそうである(森二〇〇七)。つまり、旧約聖書および新約聖書に使用された主要な修辞技法の一つが交差対句法である。さらに、交差対句法の前半要素と後半要素が、互いに対照的な関係である場合、これは裏返し構造と呼ばれ、異郷訪問譚の特性的な構造とも見做されている(大林一九七九)。異郷訪問譚の特徴に関しては民俗学の研究領域である。

 水野(二〇〇三)は次のようにも述べている。

 

詩人は、大なり小なりこのような「形式化」に深く依存していたので、「均衡と思考の対称」がほとんど彼にとっての「第二の性」になっていたに相違ない、とナイルズは付言している。しかし、J・デーンが批判したように、 円環詩作法を議論する際に、繰り返されるモチーフを「単語や語句」にとどめるか、またはより広範囲に、複数の語句や主題にまで拡大するかという問題が依然として曖昧なままにされている。

 

つまり、円環詩法(おそらく交差対句法と等価)の概念には曖昧なところもあるが、いずれにせよ、とりわけ詩人にとっては「形式化」(つまり「均衡と思考の対称」)が「第二の性」と呼べるほど、心性に深く浸透しているという。だが、アイヌやニヴフの口承テキストの話者は、いわゆる「詩人」ではない。また、アイヌ民族の場合は、いわゆる口承文芸には属さない日常会話(いわゆる談話テキスト)にまでも交差対句法が見いだされることが既に確認されている(大喜多二〇一二)。ここで敢えて言えば、アイヌやニヴフ民族に共通する点は、双方とも無文字による文化であるということである。

一方、聖書は、そもそもは口承由来であろうが、同時に、宗教に関連するテキストでもある。宗教関連のテキストとしては、出口王仁三郎や出口なおを話者(もしくは著者・筆記者)とする大本教系のテキストにも交差対句法の使用が見いだされている(大喜多二〇一四a、大喜多二〇一四b)。さらに、今回、岡本天明の「日月神示」(岡本二〇〇一)にも同様な構造が見られることがわかった。詳細は別の機会に述べるつもりだが、ここでは、「日月神示」に見いだされた交差対句法の使用事例の内のほんの一例のみを紹介したい。なお文中の記号は筆者による。

 

上つ巻 第三帖 (三)
(A)善言(よごと)は神、(B)なにも上下、下ひっくり返ってゐるから、(C)分らんから、神の心になれば何事も分るから、鏡を掃除して呉れよ。(D)今にこのおつげが一二三(ヒフミ)ばかりになるから、(E)それまでに身魂をみがいて置かんと、(E)身魂の曇った人には (D)何ともよめんから、(C)早く神こころに返りて居りて呉れ、何も一度に出て来る。(B)海が陸になり陸が海になる。(A)六月十一日の朝のお告げ、みよみよみよひつくの神。

 

この「上つ巻 第三帖 (三)」は、(A)→(B)→(C)→(D)→(E)→(E)→(D)→(C)→(B)→(A)であるので、これも交差対句法に基づく構造である。

 以上のように、交差対句法は、ホメーロス叙事詩や古英詩、アイヌ口承、ニヴフ口承などのような詩もしくは口承由来のテキスト、聖書や大本教系文書、「日月神示」のような宗教関連テキストに使用されている。また、例えば「イザナキの黄泉国訪問譚」や「浦島子」のような口承由来の異郷訪問譚(大林一九七九)、さらには現代のアニメーション映画『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』など(大喜多二〇一五b)の場合にも裏返し構造の使用がみとめられる。

 こうしてみると、交差対句法として発現されるような「均衡と思考の対称」の心性は、何も、詩人だけが持ち合わせているものではないことがわかる。無論、詩人や口承話者は、こうした心性が特に強化されているとも言えるであろうが、むしろ、人間そのものの心性に深く浸透したものと言えるのかもしれない。その点で、交差対句法を生み出す心性は、人間の心性そのものを検証するうえで注目すべき概念の一つなのであろう。

 

引用文献

大喜多紀明、二〇一二、「アイヌの日常会話にみられる民俗的修辞」『比較民俗研究』、二七号、一三三~一四四頁、比較民俗研究会。

大喜多紀明、二〇一三、「知里幸惠の『アイヌ神謡集』に掲載されたカムイユカラにおける交差対句資料:アイヌ民族の修辞技法」『国語論集』、一〇号、一〇四~一二六頁、北海道教育大学釧路校国語科教育研究室。

大喜多紀明、二〇一四a、『『霊界物語』にみられる「笑い声」と修辞: 出口王仁三郎の心性』、キンドル電子書籍。

大喜多紀明、二〇一四b、『出口なお『大本神諭』の修辞: 重なり合った交差対句』、キンドル電子書籍。

大喜多紀明、二〇一五a、「ニヴフ民族の口承に見出された交差対句の使用:エカチェリーナ・フトククを話者とするテキストを題材として」『知床博物館研究報告』、三七号、五三~六〇頁、斜里町立知床博物館。

大喜多紀明、二〇一五b、「宮崎駿のアニメーション映画『風の谷のナウシカ』および『天空の城ラピュタ』を題材としての構造分析」『北海道言語文化研究』、一三号、一〇三~一二二頁、北海道言語研究会。

大林太良、一九七九、「異郷訪問譚の構造」『口承文芸研究』、二号、一~九頁、日本口承文芸学会。

岡本天明、二〇〇一、『ひふみ神示〔新版〕』、コスモビジョン。

水野知昭、二〇〇三、「「ヴォルンドの歌」にみる円環詩法」『信州豊南短期大学紀要』、二〇号、六七~一〇七頁、信州豊南短期大学。

水野知昭、二〇〇五、「「巫女の予言」にみる円環詩法と異人来訪のテーマ」『信州豊南短期大学紀要』、二二号、七一~一二六頁、信州豊南短期大学。

森彬、二〇〇七、『ルカ福音書の集中構造』、キリスト新聞社。

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怪異譚・上田秋成『菊花の約』に見られる「額縁」に収納された裏返し構造(638号、7388-7389頁)

藤田(一九九五)は、物語にみられる「枠づけ」の事例として、上田秋成の『菊花の約』を取り上げている。藤田によれば、『菊花の約』は、「一見して誰の目にも明らかな「枠づけ」の形式として、いわゆる回想形式(現在→過去→現在と叙述しつつ、過去に枠をはめる形式)と、リフレイン形式(冒頭と末尾で同じ〔趣旨の〕章節が繰り返される形式)」である。

ところで、『菊花の約』は『雨月物語』に収納された、いわゆる怪異譚の一種である。以下、藤田によるあらすじおよび解説である。

 

この作品は、次のような和漢混濡の名文で始まる。「青々たる春の柳、家園に種ることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹に耐めや。軽薄の人は交りやすくして亦速なり。楊柳いくたび春に染れども、軽薄の人は絶て訪ふ日なし」。そして、次のようなリフレインで終わる。「咨軽薄の人と交はりは結ぶべからずとなん」。この冒頭と末尾にはさまれた本論の部分は、おおよそ次のような筋立てになっている。

すなわち、戦国の世、主君の横死に遭って急ぎ遣い先から帰国途上、篤い病を得た軍学者「赤穴宗右衛門」を、清貧の儒学者「丈部左門」が献身的な看護によって助けるが、それを機縁に、二人は意気投合して義兄弟の契りを結ぶ。やがて春から初夏となり、敵方の動静視察のために国許の出雲へと下る「宗右衛門」を見送った「左門」は、重陽の佳節(菊の節句)に再会を期して、義兄の帰りを懇ろに待つ。しかし、約束の当日、なかなか待ち人は来らない。あきらめて家に入ろうとするとき、突如、「左門」の前に姿を現したのは,「宗右衛門」の亡霊であった。亡霊は、帰国後、敵方に幽閉されたいきさつを語り、「左門」との約束を果たすべく「自刃に伏て陰魂百里を来る」といい残すや消えてしまう。事の顛末を知るに及び、その恨みを晴らそうと、単身、出雲に下った「左門」は、「宗右衛門」を主命により幽閉した「赤穴丹治」(「宗右衛門」の従弟)を詰問したうえ斬り殺し、そのまま逃走して行方不明になる、という次第である。

 

ここで、冒頭と末尾の時制が「現在」であるのに対し、物語の中身は「過去」である。また、冒頭の言葉が末尾で再現され、「額縁」が作り上げられている。つまり、「額縁」は「現在」であり、「額縁」の中身は回想(つまり「過去」)である。

それでは「額縁」の中身はどうであろうか。回想部分の最初と最後には、「尼子の信義」が描かれている。つまり最初が「尼子経久が宗右衛門の主君を討つ」場面であるのに対し、最後は反対に「尼子経久が左門を逃がす」場面である。

その内側はと言えば、「友としての資格」を云々する記事が書かれている。前半は「左門が宗右衛門と義兄弟の契りを結ぶ」のだが、後半ではその正反対に、「左門が宗右衛門の従兄を殺害」する。

さらにその内側は、「宗右衛門と丈部親子の関係と出雲への移動」がテーマとなる。ここで、前半では「快復する宗右衛門・宗右衛門を歓迎する丈部親子・宗右衛門が出雲へ向かう」という記事が描かれる。対し、後半ではその反対となり、「消える宗右衛門・宗右衛門の消失に悲しむ丈部親子・左門が出雲へ向かう」という記事になる。

物語の真ん中は左門と宗右衛門の約束がテーマになる。まず、幽閉されてしまうことにより約束を守れない宗右衛門の様子が描かれるのだが、その直後、自刃するという手段により約束を守る宗右衛門の様子が描かれる。ここでも双方は対照的である。

つまり、「額縁」の中身は以下のように、対称性に富んだ裏返し構造である。

 

「尼子の信義」→「友としての資格」→「宗右衛門と丈部親子の関係と出雲への移動」→「約束」→「約束」→「宗右衛門と丈部親子の関係と出雲への移動」→「友としての資格」→「尼子の信義」(ここで、前半の要素と後半の要素は対照的な関係である。)

 

藤田の論によれば、「枠づけ」には、自らの体験を枠中に封じ込めることにより対象化・客体化し、それにより過去の体験として完結させる効果があると言う。同時にこれは、神話化とも関連しているという。

「枠づけ」もしくは「額縁」構造は強固な構造であると言える。また、裏返し構造も強固な構造であると思われる。口承文芸や民話など、多くの人を経由して作り上げられた「物語」もそうであるが、『菊花の約』のような作品の場合も、こうした強固な構造を持つという点は、こうした「枠づけ」や「裏返し」を好む傾向が、我々の心性に深く浸透したものであることを示している。つまり、神話のような「物語」の生成と物語形式との関係を論じるうえで、「枠づけ」構造や「裏返し」構造を検証することは有用であると言える。

 

藤田裕司、一九九五年、「文学作品に見る「枠づけ」効果(1)」『大阪教育大学紀要 第IV部門 : 教育科学』四四巻、一号、一三三~一四〇頁。

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「ウルトラマン」にみられる裏返し構造:正体を秘匿した異郷への訪問(637号、7377-7378頁)

テレビ番組のなかでも、ウルトラシリーズやスーパー戦隊シリーズ、仮面ライダーシリーズのような、いわゆるヒーローシリーズものは、日本では、番組のジャンルのなかでも根強い人気がある一ジャンルである。本稿では、その嚆矢とも言えるウルトラシリーズの、最初の巨大変身ヒーローものの作品である「ウルトラマン」(一九六六年~一九六七年に放映、全三九話)に注目し、その番組のパターンを、構造分析の観点から考察したい。

 「ウルトラマン」の主人公は、科学特捜隊(通称、科特隊)の一員であり地球人であるハヤタと一体となったウルトラマンである。周知のように、ウルトラマンは、普段はハヤタとして生活しており、その正体は、科特隊のメンバーにさえも秘匿されている。

 番組の各回は、おおむね、人々の日常生活に何かしら異変が生じるところから始まる。異変の調査に乗り出した科特隊は、多くの場合、その原因を怪獣や宇宙人によるものと特定し、その怪獣や宇宙人を退治することにより、異変の解決をはかる。ところが、これに失敗し、異変は拡大し、被害が増大する。こうした危機的な状況下、時を見定めたハヤタがウルトラマンに変身し、事態の解決をはかる。結果、ウルトラマンは怪獣や宇宙人を倒すことにより、解決に成功し、ウルトラマンは宇宙へと帰還する。それにより日常は回復し、科特隊のメンバーによる雑談場面となり物語が終結する。

 無論、回ごとに事件の種類や、登場する怪獣や宇宙人などに変化はあるものの、こうした、ある程度固定化された流れで番組は構成されている点については、大方の異論はあるまい。

 ここで、ウルトラマンは、いわゆる宇宙人であるため、地球人にとっては異郷の存在である。つまり、物語は、異郷の存在が日常に来訪することに始まる。だが、主人公は、ウルトラマンと一体となったハヤタであるので、ウルトラマンが、彼にとっての異界である地球を訪問する形式による物語とも見做せる。この場合、番組「ウルトラマン」は、ウルトラマン自身を訪問者とする異郷訪問譚ということになろう。以上より、本稿では、「ウルトラマン」を異郷訪問譚と見做すこととする。

 ところで、異郷訪問譚には「裏返し構造」と呼ばれる特性的な構造があることは、以前の拙稿(大喜多二〇一六)でも紹介した。この裏返し構造は、前半と後半の要素が対照的な関係であり、かつ、後半に出現する要素の配列順が、対応する前半要素の配列順と逆転するという特徴を持つ。ここで、上述の、「ウルトラマン」における固定化されたパターンを、裏返し構造を当てはめる観点から分析してみたい。

 「ウルトラマン」は、(一)まず、いわゆる日常が破壊される場面から始まる。(二)続いて、科特隊により、破壊の理由が怪獣によることが突き止められる。(三)その後、科特隊が解決をはかるが、これに失敗する。(四)限界状況に陥った時、ハヤタはウルトラマンに変身し、登場する。(五)そして、ウルトラマンは怪獣を倒すことに成功する。(六)これにより原因は解決し、(七)日常は回復されるというパターンであるので、ストーリーは(一)→(二)→(三)→(四)→(五)→(六)→(七)という流れで進行することがわかる。

 ここで、(一)と(七)は、双方とも「日常」が描かれているのだが、一方は「破壊」であるのに対し、他方は「回復」である。(二)と(六)では、異変の原因の「解明」と「解決」の関係である。さらに、(三)と(五)では、ともに怪獣の除去がテーマだが、一方は「失敗」し、他方では「成功」する。また、(四)は前半と後半の転回点にあたる。以上のように、それぞれの対応は対照的な関係である。

 つまり、「ウルトラマン」の固定化されたパターンは、典型的な裏返し構造からなると言えるのである。

こうした構成上の特徴が見られるのは、何も「ウルトラマン」だけに限らない。むしろ、「水戸黄門」や「遠山の金さん」のようなテレビ時代劇ものも、同種の構造と見做せる。これらの場合も、主人公は「ご老公とそのご一行」や「金さん」であり、彼らにとっての異郷(別世界)である庶民の生活空間に、彼らが訪問することにより事件の解決をはかるという構成である。とりわけ、ウルトラマンは普段は正体を秘匿し、人間ハヤタとして生活しているように、ご老公は越後のちりめん問屋の隠居として、また、遠山奉行は遊び人の金さんとして、普段は正体を秘匿した生活をしている点は、これらの特筆すべき共通の特徴でもある。

 
大喜多紀明、二〇一六「アイヌ口承テキストに見られる裏返し構造:異郷訪問譚によらない事例」『北海道言語文化研究』、北海道言語研究会、一四号、四五~七二ページ。

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異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論:「崖の上のポニョ」での宗介の旅を題材に(637号、7375-7377頁)

筆者の前稿(大喜多:二〇一六)では、日本の典型的な異郷訪問譚である「イザナキの黄泉国訪問譚」を題材に、異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論(以下、単に「リーダーシップ理論」と呼ぶ)との関係を検討した。それによれば、「イザナキの黄泉国訪問譚」では、主人公であるイザナキは、「旧日常」→「馴質異化」→「高揚」→「落胆」→「異質馴化」→「新日常」という過程(これを「「馴質異化・異質馴化」過程」と呼ぶ)を辿り、これはリーダーシップのライフサイクルモデル(網:二〇一六)における、フォロワーの成熟度合いの変化の過程R1(能力低い・意欲低い)→R2(能力低い・意欲高い)→R3(能力高い・意欲低い)→R4(能力高い・意欲高い)(以下、本稿では「フォロワー成熟過程」と呼ぶ)と相応することがわかった。

本稿ではこれを踏まえ、現代のアニメーション映画作品である「崖の上のポニョ」を題材に、その主人公である宗介が母親リサを探す冒険に焦点を絞って、「馴質異化・異質馴化」過程およびフォロワー成熟過程との対照を行いたい。

「崖の上のポニョ」の話型について、飯倉(二〇〇九)は、「人魚姫」と「ヨナタマ」のそれぞれの話型の「反転」型であり、かつ、双方を巧妙に組み合わせた構成として見做した。このことについて、飯倉(二〇〇九)は次のように述べている。

 

『ポニョ』の物語は「人魚姫」の〈話型〉と「ヨナタマ」説話の〈話型〉を反転させ、組み合わせた二つの〈話型〉によって構成されているのである。

そうして「人魚姫」・「ヨナタマ」説話は、海の者が(望むと望まざるとにかかわらず)陸にやって来て、再び海に帰る〈別離〉の物語である。宮崎駿はこの二つの〈別離〉の物語を反転させ組み合わせることで、海からやってきた少女が陸の少年とともに生きる、〈結合〉の物語を編み出すことに成功したと言うことができる。

以上のことから、『ポニョ』の物語は世界的に広く親しまれた、もしくは民俗文化の深い基層に刻まれた〈話型〉の反転=変奏であり、強い安定感を保持していることがわかる。

 

飯倉は、「崖の上のポニョ」が安心感のなかで視聴される理由を、昔ながらの慣れ親しんだ話型(もしくはその変奏型)により構成されていることに置いた。

「崖の上のポニョ」の後半のストーリーは、主人公である宗介が、ポニョの不思議な力により「ジュラ紀の海」と化してしまった世界へと、ポニョとともにリサを探すために訪問するいわゆる異郷訪問譚でもある。この異郷訪問譚という形式も、「世界的に広く親しまれた、もしくは民俗文化の深い基層に刻まれた」物語形式であると言える。

以下、宗介の異郷訪問(本稿ではこれを「宗介の旅」と呼ぶ)を「馴質異化・異質馴化」過程と照合する。まず、宗介の旅が実行されるきっかけとなったのは、母親リサがいなくなってしまったことによる。これは、リサがともにいるという「旧日常」が、リサがいなくなるという出来事により、普段とは違う異質なものになったことを意味する(=「馴質異化」)。

その後、旧日常を回復するため、宗介は「ジュラ紀の海」と化した世界へと出発するのであるが、当初より、おもちゃの船を乗れるようにするなどのポニョの助けが必要であった。だんだん慣れてきた宗介は、ポニョが眠い状況でありながらも航海を進め、無事に陸地に辿り着くのである。この一連の航海は、宗介にとり、まるで自分が本当の船長になったかのような高揚感のなかにあり、現実を忘れるような状況であったことが予想できる(=「高揚」)。

陸地に辿り着き、リサの車を見つけるのだが、宗介は、車に誰もいないことを発見すると、一転、落胆することになる(=「落胆」)。

宗介はその現実を受け入れ、かつ、ポニョが魚の姿に戻ってしまいつつあるなか、リサが勤務する「ひまわりの家」へと歩き続ける。この時点では、宗介はすでに、高揚感のある幻想的な状況を脱し、現実的な素の姿へと立ち返っており、自分の力で歩き、いままで助けてくれたポニョをむしろ助ける側へと変化している(=「異質馴化」)。

その後、宗介はリサと会い、人間となったポニョと新しい日常を開始することとなる(=「新日常」)。以上のように、宗介によるリサを探す旅を「馴質異化・異質馴化」過程に照合したところ、この過程モデルが適用できることがわかった。

引き続き、宗介の旅をフォロワー成熟過程と照合する。まずR1では、フォロワーは「能力低い・意欲低い」という状態である。ここで、フォロワーを宗介とした場合、宗介がリサを探すため、「ジュラ紀の海」を航海するまでの場面がこれに当たるだろう。宗介は、この時点では独力ではリサのもとへは行けない。つまり「能力低い」状態である。また、宗介はリサを探しに行くことを主張するが、これは寂しさに基づいており、主体的な意欲によるものとは言えないので「意欲低い」状態と言える。

その後、宗介は航海へと出発するのだが、これはあくまでもポニョの力に依存しており、宗介は「能力低い」状態である。また、この時点での宗介は、自分が船長になったかのような一種の高揚感のなかにおり、その自覚のなかで行動しているので、宗介は「意欲高い」状態である。したがってこれはR2の状態と言える。

陸に上がった宗介は、おもちゃに戻った船とポニョを抱え、自分の足で歩く。つまり「能力高い」状態である。だが、リサの車にリサがいないことを知り、「意欲低い」状態となっている。よってこれはR3である。

宗介は気持ちを立て直し、リサを探すという目的達成のために歩きはじめる。つまり、宗介は再度、「意欲高い」状態へとなる。その際、宗介は自分の足で歩き、かつ、おもちゃの船とポニョを抱えているので「能力高い」状態でもある。したがい、これはR4である。以上より、宗介の旅はフォロワー成熟過程とも一致する。

ここで、宗介の旅に見いだされた「馴質異化・異質馴化」過程とフォロワー成熟過程とを対比してみると、「馴質異化」がR2に、「高揚」がR3に、「落胆」がR4に、「異質馴化」がR4に即応していることがわかる。また、「イザナキの黄泉国訪問譚」の場合のフォロワー成熟過程と同様、宗介の旅のフォロワー成熟過程にも「旧日常」と「新日常」が欠落している。

以上のように、「崖の上のポニョ」の後半での宗介の旅を題材とした場合、前稿で示した「イザナキの黄泉国訪問譚」の場合と同様、「馴質異化・異質馴化」過程の「馴質異化」→「高揚」→「落胆」→「異質馴化」と、フォロワー成熟過程のR1→R2→R3→R4とが一致していることが確認できた。

今後、他の事例を調査し、「馴質異化・異質馴化」過程とフォロワー成熟過程が一致しないものがあるか、を確認したい。

 

 引用文献

網あづさ、二〇一六年、『12のリーダーシップ・ストーリー:課題は状況対応リーダーシップ(R)で乗り切れ』 生産性出版。

飯倉義之、二〇〇九年、「〈話型〉で読む『崖の上のポニョ』――民俗学の蓄積を活かす試みとして (特集 映画を分析する――人文・社会科学の新しい視点)」『比較日本文化研究』、一三号、五二~六四、 比較日本文化研究会。

大喜多紀明、二〇一六年、「異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論の対照―「馴質異化」と「異質馴化」の観点から―」『民俗文化』六三六号、七三六一~七三六二、滋賀民俗学会。

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戦時下(第二次大戦)での歌の思い出:山本悦子さんの資料より(634号、7345頁)

歌を歌うことは、その歌が歌われた当時の記憶を呼び覚ます。同時に、聞き手に力を与えることがある。本稿では、昭和四年(西暦一九三一年)一月四日に栃木県芳賀那市で生まれた山本悦子さんの言説を収録した資料のなかでも、特に昔の歌に言及した箇所を紹介したい。なお、以下の文章は『人生の涙をたくさん流そう: 古老による昔語り』から引用したものである。

 

昔の社会、とんとんとんからりの歌に象徴されてるように、

 

とんとんとんからりと隣組 格子を開ければ顔なじみ 回してちょうだい回覧板 知らせられたり知らせたり

とんとんとんからりと隣組 あれこれ面倒みそ醤油 ごはんの炊き方垣根越し 教えられたり教えたり

とんとんとんからりと隣組 地震や雷火事泥棒 互いに役立つ用心棒 助けられたり助けたり

 

こういう歌が流行ってまして、つながりがいかに大事かってことを昔はあれしましたけど、今の人たちはそういう事は考えないで、「おはようございます」と挨拶しましても、私は今一階にいますから一〇世帯になるんですが、上から下りてきて「おはようございます」といってもその返事がないんですね。今の人は。三回いっても「おはようございます」の返事がないんですよ。そういう人が多いですね。関わり合いがないっていう事が。合いたくないっていうことなんでしょうが。

 

(中略)

 

それから、もう一つ、ボランティアとしては、老人ホームみたいなところへ行って、友達が入っていましたもんですから、そこで歌を、昔の歌を歌いました。そしたら、ぼやーっとして、もう何かうつろな人が、歌が懐かしくってだんだん目が輝いてきました。「とんとんとんからり」昔の歌です。あれこれ面倒みそ醤油 ごはんの炊き方垣根越し 教えられたり教えたり。

みんな助け合いの精神が、昔はそういう風にしてあったんですね。その歌を歌ったら昔が懐かしくって、昔に帰ってお年寄りが元気になりました。それから、明治節の歌とか、四大節の歌はよく覚えてますね。それを歌って、最後は拍手で送られました。ですからこの次来るときは軍歌うたいますねと言ってきましたけどまだ行ってません。

昔が懐かしくなって、ぼけてきても、昔は良く覚えてますね。だから、同じ教科書で育ったお年寄りには、詩の朗読とかそういうもので昔に帰ればまた生き生きしてくると思いますね。そういうこともこれからしたいとは思ってます。

 

山本さんが愛唱する「とんとんとんからり」の歌は、岡本一平が作詞し、飯田信夫が作曲した「隣組」という歌曲である。山本さんは三番までしか歌っていないが、実際は四番の歌詞もある。

 

とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯
こころは一つの 屋根の月
纏められたり 纏めたり

 

「隣組」や「四大節の歌」はともに戦時中の代表的な歌である。戦争当時、山本さんはそれ以外に「従軍看護婦の歌」、「白百合」、「愛馬新進軍歌」などもよく歌っていたという。

 
山本悦子(述)、大喜多紀明(編)、二〇一六、『人生の涙をたくさん流そう : 古老による昔語り』、地域コミュニティ談話会。
 

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異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論の対照:「馴質異化」と「異質馴化」の観点から(636号、7361-7362頁)

異郷訪問譚とは、周知のように、民俗学の領域での物語の形式を表す用語である。一方、状況対応リーダーシップ理論は一九七七年にハーシィらによって考案されたリーダーシップ理論である。双方は一見、無関係のように見えるのだが、筆者の以前の論文(大喜多:二〇一五)では、異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論の関係について、「主人公(フォロワー)に主体的に関与して成長を促す存在(リーダー)の有無という差異はあるかもしれないが、成長物語であるという点で一致している」と述べ、双方には類似点があることを示した。また、双方の共通点を探ることは、従来からの民俗学の知見の、他分野への援用を考えるうえでも有用な試みであると筆者は理解している。

本稿では、主人公(これは、リーダーシップの概念からすれば「フォロワー」と呼ぶべきであろうが、ここでは便宜上「主人公」で統一する)の、状況に応じた能力・意欲の変化に焦点を絞り、異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論の関係を考察したい。

そもそも、異郷訪問譚とは、主人公が異郷を訪問する形式の物語である。典型的な異郷訪問譚の実例としては、「イザナギの黄泉国訪問」や「浦島子」などがある。本稿では「イザナギの黄泉国訪問」を事例としてとりあげるのだが、ここではまず、状況に応じた心境の変化を追ってみたい。「イザナギの黄泉国訪問譚」のあらすじは次のとおりである。

 

<あらすじ>

イザナギはイザナミと住んでいた。国生みの際、多くの子を産むのだが、火の神を産んだ際、イザナミは落命する。最愛の妻を失ったイザナギは、悲しみのあまり、黄泉国へと、イザナミを追いかけて行く。そこでイザナギはイザナミに、この世に戻って来るよう懇願する。ところが、イザナミによる「見るな」の禁を破り、変わり果てたイザナミの姿を見たイザナギは、一目散にこの世へと戻ることとなる。イザナミはイザナギを呪い、イザナミは地に生きる人々を殺す宣言をした。イザナギはそれに対して人々を生み出す宣言をすることとなる。

 

ここでの主人公はイザナギである。イザナギは、まず、イザナミと共に国生みをする日常があった。その後、火の神をイザナミが産んだ際、イザナミは最愛の妻を失うという突然の事態に遭遇する。この心的ダメージはなかなか癒えず、これを癒すために遂には、イザナミが住む黄泉へと下る決断をするのである。つまり、ここでのイザナギの日常は、妻の死により失われる。それにより、イザナギは不安定な心境へと転じるのである。

イザナギにとり、日常は失われたのであるが、イザナギを取り巻く環境は妻を失ったのみであり、現実的には大きな変化はない。換言すれば、イザナギの馴れた日常が、妻を失ったことをきっかけに、馴れていないものへと異化したのである。本稿ではこれを「馴質異化」と呼ぶ。

異化した現実を受け入れられないイザナギは、死んでしまった妻を取り戻すという、いわば過去へと戻る選択をし、イザナミのもとへと行く。その際、イザナギは、一種、高揚感に似た気持ちであったに違いない。ところが、イザナギは、「見るな」の禁を破り、その高揚感は一挙に失われる。

その後、一目散にこの世に戻るのだが、その際、イザナギはイザナミと決別し、新たな日常を回復することになる。ここでは、イザナギは、異質化した日常を、イザナミとの決別と共に現実を受容し、その日常に馴化するのである。つまりこれは「異質馴化」である。

以上をまとめると、イザナギは、馴質異化→異質馴化という過程により、もともとの日常(これを「旧日常」と呼ぶ)から新たな日常(これを「新日常」と呼ぶ)を獲得するに至ることになる。なお、イザナギの異質馴化に大きく影響を与えた出来事は、「見るな」の禁を犯すことによりイザナミの黄泉での姿を直視したことである。これにより、それまで幻想的な高揚状態だったイザナギは一転し、驚愕と落胆の状態になる。だが、この世への坂を必死で走り、追跡者から逃れるなかで、次第に現実を受け止めて行くのである。つまり、旧日常→馴質異化→高揚→落胆→異質馴化→新日常という過程をイザナギは辿った。

これを状況対応リーダーシップ理論に対照してみる。状況対応リーダーシップのライフサイクルモデル(網:二〇一六)によれば、フォロワーの成熟度合いの変化は、R1(能力低い・意欲低い)→R2(能力低い・意欲高い)→R3(能力高い・意欲低い)→R4(能力高い・意欲高い)と変化する。

これに上述のイザナギが辿った過程を対応させると、R1は、「馴質異化」、つまりイザナミを失ったことにより悲嘆に暮れ、日常が異質化した状況に相当する。なお、R1によれば、主人公は能力が低く、意欲が低い状況として表現される。

続いて、イザナギが当面の目標を、イザナミと出会い、この世に取り戻すことに定め、黄泉へと向かう「高揚」である。これはR2である。ここではイザナギは前段階に比べ意欲が高い。一方、イザナギはその後のことを考えている訳ではなく、現実に対応する能力としては低い段階に留まっている。

その後、イザナギはイザナミと出会うことにより「落胆」する。これはR3に当たる。つまり、イザナギの意欲は落胆し薄れるのだが、現実に対応する能力についてはむしろ高くなり、追走される状況を、知恵を使い振り切るのである。

そしてイザナギはイザナミと別離し、「異質馴化」となる。これはR4である。この時点で、イザナギは新しい生き方を選択し、能力・意欲共に高い状態になっている。

なお、イザナギの過程では、「馴質異化」の前に「旧日常」が、「異質馴化」の後に「新日常」があるが、これを状況対応リーダーシップ理論に対照すれば、「旧日常」はフォロワーがリーダーとの関係を構築する前の段階であり、「新日常」はフォロワーがリーダーを必要としなくなった段階であると言えよう。

以上のように、主人公の状況に応じた能力・意欲の変化に焦点を絞り、「イザナギの黄泉国訪問譚」を状況対応リーダーシップ理論と対照したところ、双方には多くの一致点を見ることができた。本稿は、ひとえに「イザナギの黄泉国訪問譚」に注目しての比較を試みたに過ぎない。筆者としては、他の異郷訪問譚の場合はどうか、についても確認したいと思っている。

 

引用文献

網あづさ、二〇一六年『12のリーダーシップ・ストーリー:課題は状況対応リーダーシップ(R)で乗り切れ』 生産性出版。

大喜多紀明、二〇一五年、「異郷訪問譚と状況対応リーダーシップ理論の構造的共通点―成長物語の観点から―」『民俗文化』六一八号、七一四五~七一四七、滋賀民俗学会。

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『女性ノート』にみられる戦時中の女子学生の意識(633号、7334-7335頁)

昭和一六年といえば先の大戦に日本が参戦した年である。この年に出版された『女性ノート』(式場隆三郎、一九四一年、昭和書房)の第二部には、当時の女子青年学校の生徒を対象とした意識調査の結果が掲載されている。その調査によれば、例えば、好きな学科で一番多かったものが「裁縫」であり、二番目が「修身」となっている。それに対する式場のコメントの一部を次に示す。

 

この調査でどんな學科が好きかときいた時に、まづ裁縫が首位をしめ、修身がこれについでゐる。他の科目についての答は甚だ少い。嫌ひな學科はなしといふのが大部分である。そして勉強はもつとしたいと書いてある。勞務者にとつては、青年學校はもつと重大な意味をもつべきである。このやうな生温い返事しか得られないことは残念である。もつと關心をまさせ、熱意を抱かせるやうにしなければならぬ。

 

式場としては、女子生徒たちが好きな学科が国語や算術、地理、國史、理科などのような科目でないことに不服なようである。この調査によれば、裁縫を答えた人数が一七〇人であるのに対し、国語が七人、算術が五人、地理が二人、國史と理科がそれぞれ一人であった。

また、尊敬する人は誰かという設問に対する答えは、二宮尊徳が一番多く、四三人が挙げている。以下、なしが二五人、社長が二〇人、先生が一九人、両親は一六人、母が一二人と続く。なお、歴史上の人物では、乃木将軍一〇人、楠正成七人、乃木静子六人などが挙げられている。これに対する式場のコメントの一部を紹介する。

 

壓倒的に多数で一致するものがなく、ばらばらだつたことは意外であつた。これをみて、やはり教養の低さから來る理想の微小さを感じる。「わかりません」「なし」「記入なし」が百名以上もある。青年學校などの方針の中に、偉人傑士の大業についてもう少し力を入れて話してきかせる必要がありはしないかと思ふ。

 

以上のように、式場としては、歴史上の人物があまり挙がらず、むしろ名前を挙げない人が圧倒的に多いことが不満のようだ。だが、そのようななかでも、歴史上の人物としては二宮尊徳が他を圧している。

『女性ノート』と同年に書かれた上田庄三郎の『国民学校教師論』(一九四一年、啓文社)には二宮尊徳について次のように書かれている。

 

日本全國の小學校その他の學校の校庭に、薪を背負つて讀書に餘念のない貧少年の石像が、およそ幾十、幾百建てられてゐるかを私は知らない。この「遊びながら學ぶ」姿勢ではなくて「働きながら學ぶ」姿勢の神々しい石像や銅像は、もとより學校だけではなく全日本の津々浦々に建てられてゐるので、恐らくそれは莫大な数に及んでゐることであらう。更に報徳教を中心とする結社の数も千に餘るであらうし、事實、修身教科書その他の影響による報徳教の信者の数は萬をもって数へねばならないであらう。かうして全國的に日常的に、大衆の中に親しまれ尊敬されてゆくところに二宮尊徳(名は金次郎、二四四七~二五一六)の偉大性がある。

特に最近における國内國外の情勢に對應していはゆる二宮家の信者は、ひとり大衆農民の間ばかりでなく、知識階級の中にいよいよ大きな波のひろがりを見るやうになつた。從つてこの新しく増大化する尊徳フアンの中には、例へばマルクス信者が轉向して、尊徳の中に日本的經濟理論を求めようとしてゐるやうな、從來の尊徳信者とは、よほど異質的な知識層を包含してゆく傾向があり、新しき尊徳フアンは、新しき尊徳を作りつゝあると観られる。

 

この上田の記述にもあるように、当時の尊徳人気は大変なものであった。その影響もあり、女学生たちは尊敬する人物として二宮尊徳を挙げたのであろう。仮にそうであれば、彼女らは真に尊徳の思想に感銘していたというより、むしろ大半は、世間的な雰囲気のなかで尊徳の名前を挙げたとみるべきだろう。それならば、式場が彼女らの「理想の微小さ」を嘆いたことも頷ける。

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アイヌ口承文芸の対句使用:「論理」と「情」(632号、7318-7319頁)

神野富一は「古代歌謡の対句―その本質―」(一九八四年『甲南女子大学研究紀要(創立20周年記念号)八五四~八三八頁』のなかで、次のように述べている。

 

すでに稲岡耕二氏の紹介もあるが、古田敬一氏によれば、中国の対句は、たんに文学的技法にとどまるのでなく、陰陽二元によって思考する中国の哲学の現われであり、そうした対の思想が対句の根源にはあるという。日本の古代でも、祝詞や神名における対句表現をみれば、そのような二元的世界観がなかったとはいえず、また対句の成立がそうした世界観と無縁であったとも言いきれないだろう。けれども、古代歌謡の対句に執する限り、それは本質的に、論理の形式であるよりはもっと情的なものをになう形式であったように思われる。同じく対句という対称形式で事物を把捉するのに、中国の場合は論理をもってし、日本の場合は情的に行われたといえるかもしれない。

 

神野の論では、中国の対句が「論理」に基づくのに対し、日本の古代歌謡の対句は話者の「情」に基づき形式化される可能性を指摘している。筆者としては、この論について、対句が生成する理由を「論理」と「情」に分けて検討している点を興味深く思っている。

この論に基づいた場合、それでは、中国や日本(和人)と隣接する文化圏であるアイヌではどうであろうか。アイヌ文化は周知のように無文字による文化であり、潤沢な口承文芸を所有してきた。かつ、彼らの口承文芸には対句表現が多用されることはよく知られている。

はじめに「論理」という点についてである。アイヌ民族には、対称性を基本とした世界観がある(例えば、櫻井義秀、二〇一二年、「アイヌ民族の宗教意識と文化伝承の課題」『北海道アイヌ民族生活実態調査報告 : Ainu Report』その1(日本語版・増刷版)、九七~一〇四)。これは、例えば彼らの地理認識での表現法(切替英雄、二〇〇七年、「アイヌの地理的認識と上(かみ)と下(しも)」津曲敏郎(編)、『環北太平洋の言語』一四号、三五~五六頁)にもみとめられる。つまり、アイヌの場合は二元的世界観を持っている。この点によれば、アイヌ口承文芸に対句が頻用される理由を二元的世界観に求めることができる。さらに、アイヌ民族の場合は、対句の使用に留まらず、更に複雑な対称的修辞である交差対句を頻用する。この交差対句の使用についても、筆者の前稿(二〇一四年、「アイヌ語を母語としないアイヌ民族による言語テキストに見出される交差対句―民俗的修辞技法の継承―」『北海道言語文化研究』一二号、八五~一〇五頁)では、アイヌの二元的世界観を一因と見做した。

一方、「情」としての側面はどうであろうか。神野の論では、日本の古代歌謡の場合、「歌い手の心情が昂揚したとき」にも対句が現われるとした。つまり神野は、対句を、「情的なものをになう形式」と見做したのである。はたして、アイヌ民族の話者の場合も、「心情が昂揚」した際に、対句表現がみられるか、あらためて検証してみたい。

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電波迷信の話(633号、7335-7336頁)

昭和一六年出版の、精神科医である式場隆三郎(一八九八~一九六五年)が執筆した『女性ノート』(一九四一年、昭和書房)には、「新しい迷信「電波狂」」という節があり、そこには次のように記されている。

 

一般の教養がたかまつて、さういふばからしいことは迷信だとわかってきたので、減りつつあります。しかし、一方にはラヂオや無線の進歩につれて、電波といふものヽ威力を過信した電波狂が出て來ました。電波を萬能だと信ずるから、何でも電波のせいにするのです。電波が全身に感應してゐると思つて、いろいろ妄想を抱いたり妄覺が出たりします。これは昔の狐憑きに代つた新しい迷信的現象の一つといへませう。けふは電波で手をやられたから動かない、足がきかない、胃がとけてしまつたなどヽいふ。また電波で自分の惡口をいふといふ被害妄想を起して、それを放電したと思ふ人のところへ暴れこんだりするやうなのがあります。もとより、これも特定の病的素質者がなり易いので、誰でも罹るわけではありません。最近ではテレビジョンをかけられて、いやなものがみえて困るといふ新しい患者も出來かけてゐます。迷信の時代色もこんな風に變つてゆきます。だから迷信は時代が進むとなくなるとは限りません。新しい迷信が次々と生れます。しかし、迷信も輕いものは笑つてすませられますが、有害なものは放つておけません。ことに人體に關するものは危険ですから、極力撃滅しなければなりません。

 

式場は、従来の迷信は人々の教養が高まることにより減少してきたが、その一方で、従来なかった新たな迷信が生じてきており、その一つが「電波狂」(本稿ではこれを「電波迷信」と呼ぶ)であると述べた。この電波迷信は、電波を「万能」のものと見做すことにより、有りもしないようなさまざまな影響を人体に与えると信じるものだ。

こうした、電波迷信に代表されるような、新しい文化・文明の急速な浸透により生じた新しい迷信は、なにも、日本だけで見られたものではない。森川亮は、ロンドンでの事例を、「量子論の世界―未知なる放射線、その発見ラッシュの裏面史」(二〇一五年『生駒経済論叢』一三巻、二号、一三三~一五〇頁)で以下のように述べている。

 

産業革命は、あまりにも短期間のうちにロンドンの姿を変化させ、街全体が一気に近未来都市のごとくに変貌したのである。それは、あたかも科学による啓蒙が闇を照らしつくさんばかりの勢いであり、文字通りガス灯は(そしてその後、すぐにガス灯に取って代わって現れたアーク灯は)街から闇を一掃していったのである。ところが、これによって闇に棲む魔物の住み処は減少し、同時に人間の心からもかかる魔物の住み処もその棲息域を減少させていくこととなる。しかしながら、それは、光による闇の抑圧である。すなわち、現在、イギリスに伝わる様々な幽霊譚はこうした人間の心から住み処を奪われた魔物の心理的投影であろう、ということである。こうした言わば、精神を喪失したかのような時代に心霊主義が、あたかも産業革命の裏面のごとく、あるいは科学化と都市化の裏面のごとく浸透していったのは、まさしく人間の心の発露なのである。

 

たしかに、急速な近代化により生活が変わることで、新しい迷信が、その居場所を「電波」に求めたのだろうが、そもそも、「電波」は迷信との親和性があるようだ。現在も、電波にまつわる迷信らしきものは枚挙にいとまがない。目に見えない(しかし、確かにそこにある)存在を、因果関係のない何物かに思考のなかで関連付けることにより迷信が生じるのであろうから、電波は迷信の格好の棲家なのである。

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丙午迷信と三竦み(630号、7294-7295頁)

日本における一九六六年の出生率は大きく減少した。井下ら(一九七七)は以下のように述べている。

 

1966年(昭和41年)のわが国の出生率は、136万1千人で、前年に比べて25.4%、数にして約50万近く減少した。この年の日本の普通出産率(人口千人に対する出生率)は、ハンガリーの13.6をわずかに上まわる13.7と、ほぼ世界の最低を記録したのである。特定の年にこれほど急激に出生数が減少した事例は、歴史的にも世界的にもほかに例をみない。

 

こうした現象は、丙午迷信によるものと考えられてきた。一九六六年の前の丙午は一九〇六年である。この年も、一九六六年ほどではないものの出生数の減少がみられた(赤林二〇〇七)。

 

『人口動態統計』によれば、1906年の女子出生数は、前年にくらべ約7%の減少、翌年は16%の増加であった。1966年の丙午での変動はさらに大きく、前年にくらべ25%の減少、翌年は42%の増加であった。

 

丙午迷信とは、「丙午生まれの女性は気性が激しく夫を食ってしまう」という類の迷信である。

 ここで、一九〇六年の丙午に関連する東京日日新聞の記事(明治三十九年五月十四日付)を紹介したい。

 

醫學醫術の進歩発達せる今日しかも帝國の首都たる東京市中に斯る迷信者あらんとは實に豫想外の事なり、即ち當年は丙午と云ふを以て例の迷信より出産に憚るゝ者多く其呪ひには蟇と縞蛇と蛞蝓の三種を製薬調合して服すれば懐胎せずと言触らす者さへ出来りしかば此等の虫類の値も騰貴を来し下谷萬年町なる赤蛙屋の談に依れば蟇一匹五十錢縞蛇一圓より一圓五十錢とは驚くべき高價ならずや、其他赤蛙一匹五錢蝮一匹七八十錢より一圓の小賣相場にて純益少なくとも五割より多きときは十割十五割に達し蝮や縞蛇は秩父産を主とし其他は行徳附近より捕へ来るものゝ由勿論其中には醫科大學、理科大學より解剖用として買上る虫類も尠からずと云ふ

 

この記事を読む限り、当時も、丙午迷信には相当な影響力があったようだ。だが、ここで興味深いのは、丙午迷信を避けるための避妊薬として、蟇(ガマガエル)と縞蛇(シマヘビ)と蛞蝓(ナメクジ)の三種の調合「製薬」を使用したという点だ。

 カエルとヘビとナメクジは、三竦みの一種である。ヘビはカエルを容易に呑み込み食する。カエルはナメクジを簡単に喰う。さらに、ナメクジはヘビの毒が効かず、その粘液でヘビを溶かすという。この三者が同時に出会ってしまった場合、三者ともに身動きがとれない状態になる。これは中国の故事「関尹子」に由来している。つまり、「三竦み」という故事が、避妊により丙午迷信を避けるための迷信として援用されたのである。

 


引用文献

赤林英夫、二〇〇七年「丙午世代のその後――統計から分かること(特集 時代を背負う労働者)」『日本労働研究雑誌』四九巻一二号、一七~二八、労働政策研究・研修機構。

井下理・南隆男・佐野勝男、一九七七年「日本の「文化構造」の社会心理学的研究――1966年丙午年の出生激減現象の分析をとおして」『組織行動研究』六号、四一~七〇、慶應義塾大学産業研究所。

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