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2016年

ロールズの合理的選択理論とカント的構成主義

政治思想研究
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  • 犬飼渉

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[序文]

本論文では、J・ロールズの学説において、カント的構成主義(政治的構成主義)の枠内で合理的選択理論が重要な役割を果たすことを示す。

日本を代表する道徳・政治哲学およびロールズの研究者である川本隆史は、いくつかの優れた著作においてこう論じている。

所有と市場に対して両義的な態度を保持している『正義論』は刊行直後より、左右両翼の夾撃に会い、八〇年代には「共同体論者たち」やフェミニストから糾弾を受けた・・・・・・。こうした集中砲火を浴びたロールズは、【Ⅰ】格差原理の正当化のためにゲーム理論から借用したマキシミン・ルールを撤回し、【ⅡA】主著において、正義論を合理的選択理論の一分野として特徴づけたことが誤りであったとの反省を綴るまでにいたる〔Rawls 1985 : 237 note 20〕。【ⅢA】原初状態における合理的選択というモデルに代わって、【Ⅳ】八〇年代以降のロールズは、自由かつ平等な道徳的人格間の合意を通じて「秩序ある社会」の正義原理を積み上げていくという「カント的構成主義」を全面に押し出し、正義原理の正当化を認識論や形而上学から独立に遂行される「実践的・社会的な課題」と見なすようになった。[川本隆史『現代倫理学の冒険』、創文社、一九九五年、三三–四頁]

原初状態にせよマキシミンにせよ、ロールズがゲーム理論から借り出し自分の土俵で活用を図った用語である。だから、それらが本来の定義からずれているといった攻撃は、あまり実りあるものではない。ロールズも、「分配の公平性の概念」を特集したアメリカ経済学会のシンポジウム(『アメリカン・エコノミック・リヴュー』第六四巻〔一九七四年〕)や財政学者リチャード・A・マスグレイヴ(1910– )らとの応酬(『クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミックス』第八八巻〔一九七四年〕)あたりまでは、生真面目に経済学者との議論につきあっていたが、あまりのすれ違いに辟易したようで、【ⅢB】ついには一九八〇年代半ばになってゲーム理論・合理的選択理論からの撤退を表明するにいたったのである。【ⅡB】すなわち「『正義論』において、正義の理論を合理的選択の理論の一部に属するものと記述したことは、誤り(しかもきわめて誤解を招きやすい誤謬)であった」と(「公正としての正義——形而上学に関わるものでなく、政治的な構想として」一九八五年)。[川本隆史『ロールズ』、講談社、一九九七年、一七〇–一頁]

便宜のため、これらの記述を四つのテーゼへとまとめたい。【Ⅰ】〈マキシミン・ルールの撤回〉テーゼ、【ⅢA】【ⅢB】〈合理的選択理論からの撤退〉テーゼ、【Ⅳ】〈カント的構成主義の強調〉テーゼ、【ⅡA】【ⅡB】〈正義の理論が合理的選択理論の一部だという記述の修正〉テーゼである。

川本の理解は次のものである。ロールズは、マキシミン・ルールを撤回し、合理的選択理論から撤退した。さらに、川本の記述をこのように読み取ることもできてしまう。ロールズは『正義論』の修正過程にてカント的構成主義を強調するようになったが、これは合理的選択理論からの撤退と関連がある。また、ロールズによりなされた、正義の理論が合理的選択理論の一部だという記述は誤りだったとする修正は、マキシミン・ルールの撤回や合理的選択理論からの撤退と関連がある。これらのことが正しければ、ロールズの合理的選択理論とカント的構成主義は両立しないことになる。さらに、後期ロールズ思想における合理的選択理論の役割などあるはずもないということになりかねない。

しかし、私はロールズの合理的選択理論とカント的構成主義が両立しないという考えを直ちに認めるにはいたらなかった。近年の構成主義の研究を見てみると、いかなる仕方でそれらが両立しているのかについての解説もなく、端から両立が前提されているか両立するのが自然だと想定されているからである。本論文では、それらが両立するという前提を取り去った上で、次のことを示していきたい。ロールズはマキシミン・ルールおよび合理的選択理論を捨てていない。また、合理的選択理論はカント的構成主義に置き換えられたのではないし、正義の理論が合理的選択理論の一部だという記述の修正はマキシミン・ルールの撤回および合理的選択理論からの撤退を意味するわけでもない。合理的選択理論とカント的構成主義は両立し、合理的選択理論はカント的構成主義の枠内でその機能を発揮する。さらに、後期ロールズ思想においても合理的選択理論の機能は保存されている。このことを示すために、以下では上記の四つのテーゼを検討していく。[続]

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