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日本でも行われている見た目への差別 履歴書の写真欄削除は差別解消の第一歩になる(初出:wezzy(株式会社サイゾー))

株式会社サイゾーのウェブマガジンwezzyが2024年3月31日に閉鎖することにともない、2020年10月に執筆した2本の記事をこちらに転載します。
1本目はこちらです。2本目の初出は2020年10月7日です。
あらためて、発表の機会をいただき、ありがとうございました。

 

日本でも行われている見た目への差別 履歴書の写真欄削除は差別解消の第一歩になる

 

履歴書調査ではわからないこと
 前編では、顔写真など、履歴書から推定される個人情報に基づいた差別が、世界各国で報告されていることを見てきました。ですが、前編で紹介してきた履歴書調査でわかることには限界もあります。
 履歴書段階での差別の実態を明らかにするための調査では、架空の履歴書を実際の求人に応募するといった実験的な手法がとられてきました。これらは、あくまで「架空の履歴書」なので、実際に不採用になった個別の事例について採用担当者が差別したかどうかを確認したわけではありません。仮にインタビュー調査を実施したとしても、調査の意図を知らされた採用担当者が「外国人だから不採用にした」「女性は生産性が低いので雇わないようにしている」と差別を認める回答をするとは考えにくいでしょう(★1)。
 管見の限り、日本では前編で紹介したような架空の履歴書を使った調査はほとんど行われていません。したがって、履歴書段階での差別を把握するのは非常に困難です。いわゆる「お祈り」とともに不採用が通知されるだけで、なぜ不採用になったのか、そこに差別があったのかを確認する術がないのが実情です。
 ですが、日本でも、面接で起きた差別はたくさん報告されています。後編では、履歴書の写真に限らず、面接も含む採用選考プロセスで、見た目を理由に差別された日本の事例を紹介していきます。

 

見た目問題当事者が経験した就職差別
 たとえば、アメリカでは、人種や民族、国籍、宗教、性別、年齢、障害、性的指向などの属性に基づく雇用差別が禁止されており、採用選考時に写真の提出を求めることもできません。こうすれば、履歴書段階での差別を防ぐことができます。ですが、実際に対面してやりとりをすれば、見た目や話し方から応募者の属性の多くを推定することができるため、面接段階で就職差別が起こることが多いと言われています(★2)。
 日本でも、面接で見た目についてのハラスメントを受けたり、見た目を理由に不採用にされたりといった就職差別は、見た目問題当事者が数多く経験してきました。見た目問題とは、病気やケガによって「ふつう」とは異なる外見の人びとが経験する問題のことです。
 たとえば、アルバイトの求人に電話で申し込んで面接に行ったら、顔を見るなり「その見た目じゃダメだよ」と履歴書すら受け取ってもらえずに門前払いされたり、面接で「うちは接客業なので、あなたのような人は雇えない」「お客さんが食欲をなくす」「店の雰囲気が壊れる」と面と向かって言われたりしてきました。
 そこまで露骨ではなくても、「今回の募集は受付なので……」と遠回しに辞退するよう求められた人や、「ごめんなさい、もう(募集していた求人は)決まっちゃって」と嘘をつかれた人もいます(その後も募集し続けていたから嘘だとわかります)。面接の間、仕事や経歴についての具体的な話にふれず、顔の症状のことばかり聞かれて結局不採用になったというケースもあります。
 また、「面接している私が差別するのではなく、差別するのはお客さんだ」といって、自分を正当化する採用担当者もよくいます。たとえば、「お客さんから差別的なことを言われても自分で対処できるか」「あなたの症状についてお客さんにいちいち説明するわけにはいかないでしょ」と、採用後に起こるかもしれないお客さんとのトラブルを(勝手に)予想して、だったら症状を隠したほうがいい、だからうちでは雇えないと暗に告げてくるのです(★3)。

 

差別されると予測できるとどうするか──隠す
 こうして、数々の差別を経験してきた当事者たちは、次もきっと差別されると予測できる状況を前にしてどのように行動するでしょうか。
 ひとつは、差別のターゲットにされている要素を隠すことです。見た目問題当事者の中にも、症状を隠して生活している人はたくさんいます。生まれつき黒くない髪を黒く染めたり、アザの上からカムフラージュメイクを塗ったり、かつらやウィッグをかぶるなど、それまでありのままの姿で生きてきた当事者が、就職活動を始めるタイミングで症状を隠し始めるという話もよく聞きます。
 写真を撮るときに、症状が目立たない写り方を模索するというのも当事者あるあるのひとつです。角度でごまかすことができない履歴書の写真だと難しいですが、少しでもわからないように工夫してエントリーしてきました。面接になれば症状があることがわかってしまい、結果的に不採用になるかもしれませんが、多くの当事者たちは、選考プロセスの少しでも先に進もうと努力してきました(★4)(★5)。

 

差別されると予測できるとどうするか──諦める
 差別が予測されるときにとるもうひとつの戦略が、諦めるです。これには、諦めた結果、別の選択肢でがまんすることも含みます。
 見た目問題当事者の中には、高校や大学の就職支援窓口に相談したら、「人前に出ない仕事しか無理」と言われ、コールセンターのテレオペをすすめられるなど、自分の希望や身につけた能力をまったく考慮してもらえなかったという人もいます。
 また、人から言われて従うばかりでなく、差別されるリスクを回避するために、自分から選択肢を狭めてきた当事者も多いです。見た目が原因で不採用になった経験があるから、次からは接客業を避けたという人もいれば、はじめから無理だろうと諦めて接客業を候補から除外する人もいます。ある当事者は、発症したばかりの頃は、履歴書の提出を求められない限られた求人にしか応募しなかったそうです(★6)。
 これらのケースでは、エントリーする前に諦めているので、直接的な差別は起きていません。ですが、差別されやすい業種がある、差別してくる雇い主がいることが予測できるから、当事者たちは、やりたい仕事や能力を活かせる仕事を諦めて、不本意でも差別されない環境でがまんしてきました(★7)(★8)。そして、履歴書の写真は、彼/彼女たちを諦めさせ、選択肢を狭めるハードルのひとつになっているのです。
 こういう話をすると、「気にしすぎだと思う」「思い切ってチャレンジすれば理解してくれる人もいる」という善意のアドバイスをしてくる人がいます。確かに、ダメ元でエントリーしたら親身になってくれて、とてもハッピーな就職ができたという人も中にはいると思います。でもこれは、運良く成功した個別の1事例にすぎず、失敗事例も含む全体を見渡した言葉ではありません。
 すべての雇い主が確実に差別をしないならば、「気にするな」と背中を押されたら心強いかもしれません。ですが、残念ながらまだまだ差別する雇い主がいる現状では、あなたのアドバイスは「差別されるかもしれないけど、されないかもしれない」と言っているだけで、差別されないことを保証してはくれません。だから、結果的に差別されたら、「気にしすぎ」「理解してくれる人もいる」という言葉は、「差別されてこい」と無責任に背中を押したクソバイスとして記憶に残ってしまうでしょう。

 

友人からの電話
 「履歴書から写真欄もなくそう」署名キャンペーンを始めてから、とある見た目問題当事者の友人から電話がかかってきました。彼女は、署名の主旨には賛同するけれど、履歴書に写真欄は残したほうがいいと思うと言い、その理由を話し始めました。
 彼女もまた、就職やアルバイト、パートの面接で何度となく差別を受けてきました。だから、面と向かって不快なことを言われたあげく不採用になるくらいなら、自分のいないところで写真を見て不採用にされたほうがマシだと言いました。今でも、ハローワークでパートを探すときは、あらかじめ顔の症状についてハローワークの職員から先方の採用担当者に伝えてもらい、それでもかまわないか確認します。そして、電話で断られたらしかたないと諦めて次を探すそうです。
 そういえば、アルビノ当事者である私自身、学生時代に同じようなことをしていました。アルバイトの面接で何度も不採用になり、そのうち面倒くさくなって、最初の電話で金髪でもかまわないか聞くようにして、ダメと言われれば諦めて次を探すということをくり返した覚えがあります。
 どっちにしろ差別されるならば、面接で直接差別されるよりも、履歴書で知らぬ間に差別されているほうがダメージは小さいです。だからこれは、いつまでたっても差別がなくならない社会で、少しでも傷つかないために当事者が選択した苦肉の策であり、尊重されるべき対処戦略のひとつです。
 だけど、そもそもにして面接での差別がなければ、履歴書での差別を甘受する必要なんてないはずです。だとすれば、当事者ばかりががまんを強いられ続ける現状を変えるために、少しずつ差別の原因を摘み取り、雇用プロセスのあらゆる側面での差別をなくしてくことをめざすべきではないしょうか。

 

履歴書だけで解決するわけではないけれど
 先にアメリカの例をあげたように、面接に進めば対面でやりとりをすることになり、その段階で就職差別が起こるのは事実です。どうせ面接での差別が残るなら履歴書の写真をなくしても意味はないという反論はあるだろうし、実際、そんな疑問がいくつか寄せられました。
 確かに、履歴書が変われば差別がまったくなくなって、問題がすべて解決するわけではありません。でも、だからといって、履歴書の写真をなくす取り組みは無意味ではありません。
 部落問題を切り口に履歴書の問題点について解説した社会学者の齋藤直子さんは、「人間は差別をするものだ。新しい差別は次々と現れるのだから、どんなに対策をしても差別はなくならない。だから諦めるしかないんじゃないかな」という主張に次のように答えます。
 ほうっておいたらどんどん増えてしまうのなら、少しでも減らせるようにがんばるしかないのではないでしょうか。「差別はなくならない」という言葉は、ときに「私はあなたを助けませんよ」「あなたは声をあげても無駄ですよ」と言っていることと同じです。自分のすぐそばで差別や偏見で苦しんでいる人がいるのに、何にもしなくていいってことはないでしょう。(★9)
 履歴書から写真欄をなくす取り組みは、一番最初の入り口の差別を取り除くことしかできません。ですが、少なくとも、履歴書が変われば、面接で適正や能力をアピールする機会すら与えられずにふるい落とされてきた人たちが、正当な評価を受けるチャンスを得ることができます。
 そしてこれは、見た目問題に限ったことではありません。名前や写真から「日本人らしくない」と推定される海外ルーツの人たちや、履歴書の性別と名前と写真が規範的な「男らしさ/女らしさ」で統一されていないトランスジェンダーの人たちのほか、太っているとか、採用担当者に一方的に美しくないと評価される容姿の人たちとも共有できる問題です。
 理想は、採用選考、訓練、報酬、昇進、転職、退職にいたる雇用プロセスのすべての側面での差別がなくなることです。履歴書の写真は、そのための小さな一歩であり、これがゴールではありません。

 


1 M. Adamovic, 2020, “Analyzing Discrimination in Recruitment: A Guide and Best Practices for Resume Studies,” International Journal of Selection and Assessment。
2 玄幡真美, 2005,『仕事における年齢差別――アメリカの経験から学ぶ』御茶の水書房。
3 見た目問題当事者が経験してきた数々の就職差別については、茅島奈緒深『ジロジロ見ないで──“普通の顔”を喪った9人の物語』(2002年、扶桑社)、西倉実季『顔にあざのある女性たち──「問題経験の語り」の社会学』(2009年、生活書院)、『差別禁止法制定を求める当事者の声6 見た目問題のいま』(2017年、部落解放・人権研究所)などで詳しく知ることができます。
4 なお、無事に隠し通して採用が決まったとしても心が安まることはありません。何かの拍子に症状が露見するのではないかという緊張が常にあり、それを避けるために行動が制限されます。親密な人間関係を築けず、通院のための休みをとりたいと相談もできず、仕事が長続きしないというケースも珍しくありません(吉村さやか, 2015,「なぜ彼女は『さらす』のか ――髪を喪失した女性のライフストーリー」『日本オーラル・ヒストリー研究』11)。
5 ハーフやダブルの人たちも、採用選考プロセスにおいて、名前と見た目を指標に差別を受けることがあり、よく似た経験をしています。アルバイトの求人募集に電話して、面接の日時まで約束したのに、カタカナ名を含むフルネームを伝えると「募集が終わってしまったみたいで」と一転して断られることがあります。そこで、カタカナ名は伏せて、電話では日本名の苗字だけを伝えて面接に行ったら、「え、田中さんですか?」と驚かれて結局不採用になったという人もいます(下地ローレンス吉孝, 2018,『「混血」と「日本人」──ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』青土社)。
6 「履歴書から写真欄もなくそうキャンペーン」Nobrog〜ノブログ〜、2020年9月29日。
7 矢吹康夫, 2017,『私がアルビノについて調べ考えて書いた本──当事者から始める社会学』生活書院。
8 トランスジェンダーの人たちは、男女にはっきり分けられた働き方しか示されない社会では、ロールモデルがないために、将来自分が働く姿を思い描くのが困難になります。また、服装や髪型、マナーや座り方にいたるまで二分法的なジェンダー規範にくくられている「あるべき就活生像」を前に戸惑い、就活の入り口にすら立てないと感じるなど、エントリーすることさえ困難な人たちもたくさんいます(三成美保編, 2019,『LGBTIの雇用と労働──当事者の困難とその解決方法を考える』晃洋書房)。
9 齋藤直子「第4回 就職差別ってなに?(後編)」ツバメのかえるところ:はじめて出会う「部落問題」2020年9月14日。

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履歴書の写真欄が差別を助長しているたくさんの証拠(初出:wezzy(株式会社サイゾー))

株式会社サイゾーのウェブマガジンwezzyが2024年3月31日に閉鎖することにともない、2020年10月に執筆した2本の記事をこちらに転載します。
1本目の初出は2020年10月6日です。2本目はこちらです。
あらためて、発表の機会をいただき、ありがとうございました。

 

履歴書の写真欄が差別を助長しているたくさんの証拠

 

履歴書から写真欄もなくそう
 履歴書に性別を記入させることにともなう差別をなくそうと声を上げた人たちによる「履歴書から性別欄をなくそう」という署名活動のことを、SNSや報道などで目にした人もいるのではないでしょうか。
 このキャンペーンには多くの署名が集まり、各省庁や文具メーカーに申し入れが行われました。その結果、2020年7月には、経済産業省の指導のもと、日本規格協会が性別や年齢、顔写真の欄があるJIS規格の履歴書様式例を削除しました(★1)。
 ただ、履歴書によって助長されている差別は、性別欄だけが原因ではありません。生年月日や配偶者・扶養家族の有無、顔写真もまた、仕事への適正や能力とは関係ないのに記入するよう求められています。
 「履歴書から性別欄をなくそう」キャンペーンのおかげで、性別欄は見直されることになりそうです。しかし、JIS規格の様式例はいったん丸ごと削除されたものの、性別欄以外の項目は、問題がないと判断されれば新しい様式に残り続けるかもしれません。
 そこで私たちは、性別欄をきっかけに履歴書の規格が見直されている今こそ問題を改善していくチャンスだと考え、「履歴書から写真欄もなくそう」という署名キャンペーンを起ち上げました。
 この記事では、履歴書の写真にはどのような弊害があるのか、前編では海外の研究事例を、後編では日本に固有の状況をそれぞれ紹介していきます。

 

写真からわかる人種・民族への差別
 海外には、架空の履歴書を作成し、大学生に評価させたり、実際の求人に応募して二次面接のオファーが届いた数を集計したりして、履歴書の写真が採用選考に及ぼす影響を調べた研究があります。
 架空の履歴書は、まず適正や能力(高い、平均的、低い)と写真(異なる人種・民族、性別、体型、魅力、写真なし)を組み合わせた複数のパターンを作成します。そのうえで、適正や能力が同等の応募者について、写真の違いで結果に差があるかを比較します。このうち、実際の求人に応募する調査で最も研究蓄積が多いのが、人種・民族に基づいた雇用差別を明らかにしたものです(★2)。
 たとえば、フランスでは、マグレブ出身のアラブ人やアフリカ出身の黒人よりも、フランス出身の白人を優遇したケースが全体の70%にものぼりました(★3)。他にも、ドイツではトルコ系移民のムスリム女性が(★4)、オーストリアではアフリカ系の移民が(★5)、メキシコ(★6)やペルー(★7)では先住民が、それぞれ二次面接に呼ばれることなく履歴書で不採用になる確率が高かったと報告されています。
 これらの研究では、人種・民族を推定する指標として写真のほかに名前も用いています。だから、上記の結果を写真だけの影響だと言い切ることはできません。ですが、写真も含む何らかの指標によってマイノリティだと推定された応募者は、適正や能力が同等のマジョリティの応募者よりも二次面接に進むチャンスを多く奪われていることは確かです。

 

太っていると能力が劣るのか?
 労働市場にはもともと、人種や民族、国籍、宗教の他にも、性別、年齢、障害などによる差別が存在していましたが、近年は容姿や体型といった外見に基づく差別(ルッキズム)も注目されています。このうち、体重差別についての海外の研究群は、肥満者は、採用選考、報酬、昇進、訓練、解雇などのあらゆる側面で不利な立場に置かれていると指摘しています(★8)。
 履歴書の写真を用いた研究に限定して2つ具体例をあげます。太っている女性の写真を貼った履歴書と太っていない女性の写真を貼った履歴書への評価を比較した実験では、リーダーシップや成功の可能性、提示される給与などのあらゆる項目で、太っている女性が低く評価されました(★9)。
 また、スウェーデンでは、同じ人物のそのままの写真と太って見えるように加工した写真とを貼った架空の履歴書を実際の求人に応募したところ、太って見える写真のほうが、男性では6%、女性では8%、二次面接のオファーを受ける可能性が低くなりました(★10)。

 

世界中にある「顔採用」
 容姿が魅力的かどうかも、国や地域を問わずあらゆる労働市場において影響を及ぼしており、外見が重視される特定の職業に限らず、美しい人は収入が高く、美しくない人は収入が低いと指摘されています。雇い主にとっては、美しい従業員のほうが売り上げがいいため、多めに給料を払ったとしても、それを相殺できるだけの利益を上げることができると考えられているのです(★11)。
 美しい人を雇ったほうが事業がうまくいくと信じている雇い主が多いとするならば、募集の段階で容姿に基づく差別があることが予想されます。
 こうした問いのもと、大学生に架空の履歴書を評価させた実験では、履歴書の質が高い場合は写真の魅力が影響しなかった一方、平均的な質の履歴書は、写真がないよりも魅力的な写真のほうが高い評価を得ました(★12)。あるいは、成績が低いまたは平均的な応募者では写真の魅力は評価に影響しなかった一方、成績が高い応募者では魅力的な写真のほうが肯定的に評価されました(★13)。また、アルゼンチンで実際の求人に架空の履歴書を送付した調査では、魅力的な写真の応募者は、魅力的でない写真の応募者よりも36%多く二次面接に呼ばれました(★14)。
 平均的な応募者ほど写真の効果があったり、成績がいい応募者ほど写真の効果があったりと、履歴書の質と写真との影響関係に一貫したパターンがあるわけではありません。しかし、少なくとも、応募者の適正や能力とは関係のない写真の魅力が、二次面接のオファーがあるかないかという結果を左右していることが、数々の研究で示されていることがわかります(★15)。

 

差別しているのは誰か
 それでは、差別をしているのはいったい誰なのでしょうか。
 ここまで紹介してきたような事例は、経済学では統計的差別として説明されます。統計的差別とは、雇い主が、自らの好き嫌いといった非合理的な理由で差別するのではなく、利潤を最大化するために合理的に判断した結果、差別が生じることです。
 たとえば、雇い主が「平均的に女性は生産性が低い/離職率が高い」と信じ、応募者の個々の能力や適正を見るのではなく、「平均的な女性」として取り扱うときに起こります。すると、雇い主に差別をするつもりがなくても、結果としてあらわれる数字では、明らかに特定の集団が不当に扱われることになります。
 統計的差別の厄介なところは、雇い主が「平均的に○○は……」というステレオタイプに基づいて行動することでそれが現実となり、認識が強化される点です。つまり、女性労働者に期待していない雇い主は、「どうせ離職するんだから」と思って、女性労働者の入社後の研修や訓練を少なくしたり、重要な仕事を任せなかったりするため昇給の機会が減り、女性労働者にとってその会社で働き続けるインセンティブが低くなり、本当に離職する可能性が高まるといった場合です(★16)。
 直接的には、差別をしているのは雇い主です。しかし、雇い主のステレオタイプを支えているものは他にもありそうです。たとえば仮に、白人の営業職のほうが営業成績がいい、美しい容姿の販売員のほうが商品がよく売れるという事実があったとします。すると雇い主は、白人や美しい容姿の人を雇いたくなります。ここに、利潤を追求した結果としての統計的差別が生じます。
 では、白人の営業職や美しい容姿の販売員は本当に有能なのでしょうか。そうではなく、白人の営業職や美しい容姿の販売員を好んで商品を買う消費者が、有色人種の営業職や美しくない容姿の販売員を差別したから、売り上げに差がついただけではないでしょうか。だとしたら、雇い主は、採用選考にあたって、差別する消費者の「好み」を考慮しているだけなのかもしれません。

 

どうすれば履歴書での差別をなくせるのか
 差別とは、本人の意志では変えられない属性に基づく不当な取り扱いのことであり、加害者に差別するつもりがあったかどうかに関係なく、結果がともなえば差別となります(★17)。
 ここまで紹介してきた事例は、いずれも、採用選考では適正や能力を測るべきなのに、それらとは関係のない人種や民族、体型、容姿といった属性で特定の人びとを不当に扱っている点が差別と言えます。また、統計的差別がそうであるように、雇い主は、外国人が嫌いだから不採用にしたり、美人が好きだから採用しているのではなく(その可能性も否定できないけれど)、自社の利潤を考えて判断しているわけですが、結果的には特定の人びとを差別することになっています。
 このような、差別をするつもりがないどころか、むしろ合理的に判断しているにもかかわらず起きてしまう差別をどうすればなくすことができるでしょうか。
 ステレオタイプを完全に払拭して選考を行うのは簡単ではありません。それに人は、自分と似たような人を採用したがる傾向があります。それどころか、相性がいいことを重視すると公言している採用担当者もいます(★18)。
 ですが、自分と似たような相性がいい人を優先するということは、その組織で力をもっているマジョリティと同じ属性の応募者が優遇されるということでもあります。つまり、日本国籍で健常でヘテロセクシュアルでシスジェンダーの日本人男性が人事の決定権を握っている多くの日本企業に就職しようとするマイノリティは、はじめからハンディを背負わされているのです。
 こうした問題を解消するため、海外では、写真に限らず、適正や能力とは関係のない個人の属性を推定できる項目を履歴書で問うことを禁止している国も存在します(★19)。こうすることで、書類選考で差別する可能性をなくしているのです。
 ドイツでは、企業が写真の提出を求めることはできないけれど、応募者が自発的に写真を送るのがいまでも一般的です。そのドイツで、氏名、年齢、性別、写真、配偶者や子どもの有無など、差別を生じさせる項目を削除した匿名履歴書を送付する調査を行ったところ、移民や女性が書類選考を通過して、二次面接に進む機会が増えました(★20)。また、写真についてではないものの、記憶に新しい日本の医学部入試における女性や浪人生への差別問題では、性別や生年月日、現役・浪人の区分を伏せて元入試委員長らに再採点させたところ、女性・多浪生のほうが、高く評価される傾向があったそうです(★21)。
 以上のように、適正や能力を判断するのに顔写真は必要ないばかりか、差別を助長するということは、数々の証拠から明らかです。そして、個人の属性を推定できない履歴書にすることで、適正や能力が正当に評価されることもわかっています。履歴書から写真欄をなくすことは、応募者にとっての正当な評価と、募集企業にとっての公正な選考のためにも有効な手段だと言えるのです。
 前編では、海外の研究事例の紹介から履歴書の写真の弊害を説明してきました。それでは、日本はどうなっているのでしょうか。後編では、日本に残る就職差別について、見た目が問題とされるケースを中心に見ていきたいと思います。
 10月8日にその時点で集まっている署名を厚生労働省に提出し、要望を伝えます。その後も、新しい様式が作成されるまでは署名活動を続けますので、引き続きご協力をお願いします。

 


1 たとえば、「性別、年齢欄ある履歴書例取りやめ 日本規格協会 差別懸念しNPOが削除要求」(『毎日新聞』2020年7月19日)
2 履歴書研究の動向をレビューしたAdamovicによると、人種・民族・国籍に関するものが123本と群を抜いて多く、次いで性別32、年齢22、性的指向18、容姿16、障害14、宗教11などとなっている(M. Adamovic, 2020, “Analyzing Discrimination in Recruitment: A Guide and Best Practices for Resume Studies,” International Journal of Selection and Assessment)。
3 「採用時に人種・民族で差別──大規模調査であらためて浮き彫りに」独立行政法人労働政策研究・研修機構、2008年3月。
4 D. Weichselbaumer, 2016, “Discrimination Against Female Migrants Wearing Headscarves,” IZA Discussion Paper Series, 10217。
5 D. Weichselbaumer, 2016, “Discrimination Against Migrant Job Applicants in Austria: An Experimental Study,” German Economic Review, 18(2)。
6 E. O. Arceo-Gomez and R. M. Campos-Vazquez, 2013, “Race and Marriage in the Labor Market: A Discrimination Correspondence Study in a Developing Country,” American Economic Review, 104(5)。
7 F. Galarza and G. Yamada, 2014, “Labor Market Discrimination in Lima, Peru: Evidence from a Field Experiment,” World Development, 58。
8 古郡鞆子, 2012,「肥満が雇用・賃金・生産性に与える影響と体重差別」『大原社会問題研究所雑誌』647・648。
9 K. S. O’Brien, J. D. Latner, D. Ebneter and J. A. Hunter, 2013, “Obesity Discrimination: The Role of Physical Appearance, Personal Ideology, and Anti-Fat Prejudice,” International Journal of Obesity, 37。
10 DO. Rooth, 2009, “Obesity, Attractiveness, and Differential Treatment in Hiring: A Field Experiment,” Journal of Human Resources, 44(3)。
11 なお、教育や労働組合の有無といった要因のほうが収入への影響は大きいが、それらの他の要因を調整しても容姿は確実に収入の多寡に影響しています。容姿に基づく格差についての詳細は、ダニエル・S・ハマーメッシュ(望月衛訳)『美貌格差──生まれつき不平等の経済学』(2015年、東洋経済新報社)を参照した。
12 L. M. Watkins, & L. Johnston, 2000, “Screening Job Applicants: The Impact of Physical Attractiveness and Application Quality,” International Journal of Selection and Assessment, 8(2)。
13 D. Giles, “An Economic Analysis of Discrimination in Hiring Practices with Regard to Physical Attractiveness,” Senior Independent Study Theses, The College of Wooster。
14 F. L. Bóo, M. A. Rossi and S. Urzua, 2013, “The labor Market Return to an Attractive Face: Evidence from a Field Experiment,” Economic Letters, 118(1)。
15 J. Rich, 2018, “Do Photos Help or Hinder Field Experiments of Discrimination?,” International Journal of Manpower, 39(4)。
16 統計的差別については、児玉直美「差別とは──経済学の視点から」(『日本労働研究雑誌』681、2017年)を参照した。
17 たとえば、国連の人種差別撤廃条約は、「この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう」と定義しています。つまり、加害者の意図にかかわりなく、「効果を有する」結果となれば差別ということです(「人種差別撤廃条約」外務省)。
18 履歴書も含めた採用選考プロセスにおけるステレオタイプの弊害とそれへの対応策については、イリス・ボネット(池村千秋訳)『WORK DESIGN──行動経済学でジェンダー格差を克服する』(NTT出版、2018年)の第6章に詳しい。
19 玄幡真美, 2005,『仕事における年齢差別――アメリカの経験から学ぶ』御茶の水書房。
20 「匿名履歴書、移民・女性にプラスの効果──連邦非差別局パイロット調査」独立行政法人労働政策研究・研修機構、2012年7月。
21 「医学部「女子差別」を 第三者委に認定された聖マリアンナ医科大が“開き直り”」AERA dot、2020年1月25日。

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「職務質問対象者の判断基準と根拠は何か」に回答してくれない人たち

米大使館の警告と松野官房長官のコメント
 2021年12月6日、日本の警察による外国人への職務質問はにレイシャル・プロファイリングの疑いがあるとアメリカ大使館がTwitterで警告し、ハフポストなどで報じられました。ハフポストによれば、レイシャル・プロファイリングとは「警察などの法執行機関が、人種や肌の色、民族、国籍、言語、宗教といった特定の属性であることを根拠に、個人を捜査の対象としたり、犯罪に関わったかどうかを判断したりすること」です。
 それらの報道のうち、ロイターブルームバーグの記事には松野博一官房長官のコメントも掲載されています。それによると、松野官房長官は記者会見で「警察はさまざまな要素に基づいて疑わしい個人に職務質問を行うが、その判断は民族や国籍に基づくものではない」「職務質問は「何らかの罪を犯し、また犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者に対して行われるもの」であり、「人種や国籍等の別を理由とした判断によって実施されるものではない」」と述べたそうです。
 しかし、外見でわかる人種的・民族的特徴に基づいて職務質問の対象を判断しているのではないかという疑いは、国内に居住する外国人や外国にルーツをもつ人びとからこれまでにも数多く報告されており(下地 2018)、人種的・民族的特徴に基づいていないという官房長官のコメントは、当事者たちの「生きた経験に反する」という指摘もあります。
 さて、官房長官のコメントを分解すると、職務質問の対象を定めるにあたって、

①何に基づいているのか
②何に基づいていないのか

の2点が述べられていることがわかります。
 つまり①「さまざまな要素に基づいて疑わしい個人」「何らかの罪を犯し、また犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者」に職務質問を行っているのであって、②「民族や国籍に基づくもの」「人種や国籍等の別を理由とした判断」によって行っているわけではないという弁明になっています。
 人種的・民族的特徴に基づいて行われているのではないかという疑いに対して、②でそうではないと否定しているものの、じゃあ何に基づいているのかというと、①は「さまざまな要素」「疑うに足りる相当な理由」という具体性のない言及にとどまっていて、結局何に基づいているかが全然わかりません。

 

古野まほろ『職務質問』への期待(外れ)
 とかいったことをTwitterに書いてたら、同僚から古野まほろ『職務質問』を教えてもらいました。期待してさっそく読んだのですけど、私の知りたい疑問に答えてくれていなかったので、何が書かれていて、何が書かれていないのかをここに整理しておこうと思います(以下、同書からの引用・参照はページ数のみを示し、それ以外の紙媒体の文献は(著者名 出版年)と表記します)。
 この本では、冒頭で、職務質問で「何度も声を掛けられるタイプの人間と、1度も声を掛けられないタイプの人間がいる」という「警察神話」が紹介されています(p.7-8)。本の帯にも、

疑われる人とは?
徹底拒否は可能?
正しい対処法は?
〈名人〉の眼力とは?
元警察官の作家が解き明かす「謎多き職質ワールド」!

とあるように、本書は、警察官が職質をかける対象を定めるときの判断基準など「市民が感じる職務質問をめぐる謎」(p.12)に、「平易ながらも正確な、根拠ある答えを示すこと」(p.13)を目的にしていると書かれています。
 だけど、少なくとも「疑われる人とは」どんな人物なのかに十分に答えられていなかったから、私はこんな記事を書いているというわけです。もう少し正確に、結論を先取りして言うならば、「疑われる人」はケースバイケースで判断しており一般化できないという具体性のないことしか書かれておらず、「民族や国籍に基づくもの」や「人種や国籍等の別を理由とした判断」に基づいているかどうかについては、イエスとも言わないがノーとも言っていません。
 職務質問で「何度も声を掛けられるタイプの人間」がいることは古野も認めており、だとすれば何らかの基準があって、それが警察組織内で共有・継承されているから、その基準に合致する人が頻繁に職質を受けるというのがわかりやすい理解なのですが、職質をかける対象を定めるときの判断基準はそんなに単純なものではないというのが古野の主張です。
 そんなに単純ではないという点については、私も全面的に同意したうえで、では、その複雑さがどんなふうに説明されているかを見ていきたいと思います。

 

法的な〈不審者〉の判断基準
 「疑わしい人」の判断基準について書いてあるのは、職務質問の法的な特徴について解説した第1章の中の「そもそも法律のいう〈不審者〉とは?」以降の箇所(p.85-92)と、実務的な特徴を解説した第2章の中の「実務・現場における〈不審者〉の判断」以降の箇所(p.184-96)なので、以下ではそこを中心に見ていきます。
 そもそもの職務質問の法的な根拠は、警察官職務執行法の第2条第1項の

警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。

です。このうち、「異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者」が〈不審者〉、「既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者」が〈参考人的立場の者〉と位置づけられており(p.85)、問題になるのは前者の〈不審者〉の不審性の判断ということです。
 この警職法を根拠に、警察官は、「異常な挙動」と「その他周囲の事情」に基づいて〈不審者〉かどうかを判断しています。このときの「異常な挙動」は、

言語・動作・態度・着衣・携行品等が、通常ではなく、怪しい、不自然と思われること(p.86)

のことで、「その他周囲の事情」のほうは、

時間・場所・環境等(p.86)

というのが法律的な解釈になります。
 それから、条文には書いていないけれど、判例で認められたこととして、「警察官はプロとしての知識・経験を活用できるほか、警察組織の情報を活用することもできます」と書いています。たとえば、「逃走中の犯人は青いデニムに白いシャツ」という目撃情報があったとして、そんな服装の人はそこらじゅうにいるし、まったく不審でも異常でもないけれど、職務質問をかけるのは適法です。ほかにも、特定の犯罪が頻発しているエリアであるとか、犯行予告があったとかいった一般市民が知らない情報も、活用してよいことになっています(p.89-90)。
 以上の説明だけでは、具体的にどんな人が〈不審者〉と判断されているのかがまだ漠然としていてよくわかりませんが、詳細は第2章に書かれているので(いないんですけど)、ひとまず条文の解説を先に進めます。

 

誰にとって〈不審〉であればよいのか
 上記に続けて古野が強調しているのが、条文の「合理的に判断して」についてです。

警職法は、警察官が主観的に・恣意的にただの思い込みで職務質問をかけるのを許さないのです。警察官の判断には、客観的な合理性がなければなりません。(p.87)

 主観的・恣意的でなく客観的であるというのは、誰が見てもそうだと納得できるということであり、そうでなければ、「違法として裁判所に怒られます」と古野も述べています(p.87)。だけど、そんな心配は無用で、交番の制服警察官は、立ち番・警ら・事件事故の処理などの勤務中、いつも街頭や市民を観察しているから、「人についての観察眼・分析能力は、警察官の方が市民より、まあ、優れていると言ってよいでしょう」と続けます(p.88)。
 この点は、第2章でも強調されており、「人間は無意識の内に日々接している周囲の言動・環境をよく観察・記憶しており、それが常態と異なるとき、自然と違和感を感じる」ものであり(p.187)、警察官は「プロとして──一般市民は感じない──「どこか違う」「いつもと違う」「普段と違う」といった違和感を感じる「センサー」を、知らず知らず鍛えているから」(p.189)、市民よりも警察官のほうが優れているというわけです。
 そうした能力差があるから、実際の職質では「市民にとっては客観的・合理的とまで言えないものも、警察官にとっては客観的・合理的だと言えることがある」のも事実です。じゃあ、そのとき誰にとっての客観性・合理性が優先されるかというと、「警察官を基準とすること」が判例で認められています(p.88-9)。
 職務質問を受ける側にとっては、なぜ自分が対象になったのか納得できないことも多々あり、恣意的に誰でもしょっ引ける、ノルマのために乱れ打ちしているといった「市民の誤解・不信感」を生んでいるだろうから、古野はこの点を「ややしつこく述べ」ているのだと思います(p.89)。

 

実務・現場での〈不審者〉の判断基準
 次に、第2章に書いてある実務・現場での判断基準についてですが、これは第1章をふまえて端的に「挙動を観察したとき、TPOにそぐわない」と表現されています(p.186)。
 そのうえで古野は、ネット上などでさまざまにささやかれている判断基準の俗説を否定します。本書には、人種的・民族的特徴に基づいて判断しているかどうかは含まれていないものの、不審な挙動や怪しい外見の例がいくつもあげられています。いろいろあげてはいるけれど、実体験や風聞としてそれらの人びとが職務質問を受けたとしても、

それを一般化して「判断基準」と考えることには、まるで意味がありません。警察学校の教科書でも、警察の執務資料でも、警察官が執務の参考として著した書籍でも、まさかそんな単純な、バカげたことは記載していないはずです。(p.190-1)
警察官はそんな単純な、バカげた、素人でもすぐに職質警察官になれてしまうようなそんななまやさしい基準で〈不審性〉を判断している訳ではありません。もしそんな基準で判断しているとおっしゃるのなら、それは現場警察官に対する侮辱です。(p.192)

とくり返し強く否定しています。
 この点については、「そんな0か1かのデジタルな世界ではない」(p.192)、「「Aという行為を行ったから、不審性があり職質ができる」なるデジタルな考え方は全て誤りです」とも表現されています(p.193)。デジタルではないというのは要するに、1つの判断基準の有無=0か1かだけで決めているわけではなく、もっと複雑だという主張なんだと思います。
 事実、古野によると「何度も声を掛けられるタイプの人間」というのは、「生活習慣・趣味嗜好・癖・行動パターンが、何らかの理由で、常態としてTPOにそぐわない人間」であり、警察官が「「どこか違う」「いつもと違う」「普段と違う」と無意識的に違和感を感じてしまうそんな人間」なのだが、だからといって、そういう人に即座に職務質問できるかというと「まさかそういうシンプルな/デジタルな話ではありません」(p.193-4)と述べています。
 古野は、不審性を判断するにあたっての方程式として、たびたび

(異常な挙動)×(周囲の事情)=不審性(p.185)

という表現を用いています。どちらか一方だけでは不十分で、「両者のいわば合わせ技一本である必要」があり(p.185)、「何度も声を掛けられるタイプの人間」であったとしても周囲の状況次第では職質されないし、外見にも挙動にまったくおかしなところがなくても、周囲の状況に照らして明らかにおかしければ職質される、という理屈です。
 つまり、職務質問をかけるかどうかの判断基準は、ケースバイケースで一般化できないということで、だから、

どうしてもその現実の具体例を見たいというのなら、裁判所が出した判例を1つ1つ熟読することになるでしょう。職質の具体的な物語は、1件1件すべて異なります。(p.193)

と言えるのでしょう。

 

古野まほろ『職務質問』に書かれていること/いないこと
 以上、『職務質問』で解説されている職務質問対象者の判断基準と根拠を要約すると、

1:職務質問は主観的・恣意的に行っているのではなく、客観的・合理的な判断基準がある。
2:だけど、職務質問をかける対象についての一般化された基準はない。
3:ましてや、1つだけの要素で職務質問をかけるなんてことはありえない。
4:職務質問をかける対象は、異常な挙動と周囲の事情を総合的に判断してケースバイケースで決めている。
5:その判断をするのは一般市民よりも優れた観察眼・分析能力をもった警察官である。
6:その判断を裏付けているのは、警察官が日頃の実務で鍛えた知識と経験、ならびに警察内部の情報である。

といった感じになるでしょうか。「ケースバイケースで一般化できない」&「個々の警察官の知識と経験に依存している」というブラックボックスで、そのうえ「どのみち「警察活動の具体的手法に関する情報」ですので、それらは全て不開示情報であり、読者の方にも私にも確認する術が皆無」という念の入れようです(p.191)。
 とはいえ私は別に、常日頃、街や人を観察している警察官のほうが「何かがおかしい」「いつもと違う」ということに気づく能力に長けているという主張は否定しません。ただ、この本には「警察官のほうが優れているから、詳細は教えられないけど、一般市民は信じてね」以上のことは書いておらず、どうしても知りたければ個別のケースを検証するしかないと言ってます。
 かといって私は、ケースバイケースで一般化できないという主張も否定はしません。きっと、1つのケースにおいてもいくつもの要素が複雑に絡み合っており、したがって「職質の物語は1件1件すべてが個別具体的に異なり、1つとして同じ職質はありません」(p.233)というのも、その通りなのだと思います。だから、古野が「デジタルではない」と表現しているように、1つの要素だけで判断しているわけではないという主張も、私はまったく否定しません。
 けれど、Aという1つの要素だけで判断しているわけではないという主張は、異常な挙動と周囲の事情を総合的に判断するにあたってAを加味していないことを意味するわけではありません。そこに、人種的・民族的特徴に基づいた差別や偏見がまぎれ込んでいることは否定しておらず、だから私は、レイシャル・プロファイリングが行われているかどうかに対して、この本は、イエスとも言わないがノーとも言っていないと結論しました。

 

じゃあ、警察官を信じればいいのか
 一般市民には客観的・合理的とは思えなくても、客観的・合理的な理由があることを裁判所に説明できるなら職務質問は適法に開始できます。だから、知識と経験に裏付けられた警察官の判断を信じてねということになるわけで、じゃあここでは、仮に信じてみるとします。
 で、どのようにして職務質問を行っているかというと、日頃の実務で無意識的に鍛えられた観察眼・分析能力をもっていることを前提にしたうえで、

(Ⅰ、Ⅱは省略)
Ⅲ 「どこか違う」「いつもと違う」「普段と違う」といったTPOにそぐわない対象を発見するや
Ⅳ たちまち身体・車両の反射として対象に急接近しつつ(考えている暇は無いし考えません)
Ⅴ 急接近の過程で、又は対象に声掛けした段階で、Ⅲの違和感を(異常な挙動)×(周囲の事情)として言語化する(Ⅲの違和感を法律が求めるスタイルに翻訳して説明可能にする)(p.190)

というのが「平均的で真っ当な警察官」による職務質問のプロセスなのだそうです。
 「平均的で真っ当な警察官」であればこれくらいできて当然であり、古野が「無意識」や「反射」という表現をたびたび使っているのも、それくらい身体化されているということを強調したいからだと思います。だけど、上記のプロセスを素直に読めば、違和感を感じたらそれがなぜかを自分で言語化する前に(考えている暇は無いし考えません)とりあえず反射的にアプローチして、事後的に説明を考えるということになります。
 事後的であったとしても、正当な理由があればいいかもしれませんが、警察官である以前に1人の人間である個人が、「無意識的」に感じた違和感に基づいて「反射的」に行動した結果をどれほど信じられるでしょうか。また、すべての警察官を一律に信じることができるでしょうか。そこに差別や偏見がまぎれ込まない保障は、はたしてあるのでしょうか。

 

「差別をしません」という弁明は、差別をしないことを保障しない
 ところで、古野は、警察組織内での職務質問の技能伝承について書かれている第3章で、言語的・非言語的なコミュニケーションの技法などを解説するにあたって、社会心理学の研究成果に依拠していると述べています(p.249)。だとすれば、無意識の(潜在的)バイアスについて知っていてもおかしくないと思うのですが、これはご本人に確認しないとわかりません。
 さておき、無意識のバイアスは、社会集団に対するカテゴリー化と関わっています。同質のものをひとつのグループとしてとらえるカテゴリー化は、絶えず流れ込んでくる過剰な刺激を整理し、管理することを可能にしている脳の普遍的な機能であり、人間としての進化の産物です(エバーハート 2020:31-2)。

それがよいことなのか悪いことなのか、正当であるか否かに関係なく、カテゴリーと強く結びついた私たちの考えや態度(ステレオタイプや偏見:引用者注)は、自動的に呼び起こされ、私たちの行動や意志決定に影響するのだ。(略)このように関連づけを行うプロセスをバイアスと呼ぶ。それは意図しなくても起こり得る。意識しなくても起こり得る。簡単に起こり得る。そして、一瞬にして起こり得る。これらの関連づけは、私たちの価値観や意識的に持つ考え、どのような人になりたいかという願いに関係なく、私たちを支配する可能性がある。(エバーハート 2020:40)

 人種・民族、国籍や宗教、ジェンダー、性自認、性的指向、年齢、病気・障害などの属性へのカテゴリー化に基づいた無意識のバイアスが、人間のさまざまな活動に影響を及ぼしていることは、数々の研究で明らかにされており(ボネット 2018;トドロフ 2019;エバーハート 2020など)、警察官だけが、進化の過程で獲得した脳の普遍的機能から自由であるなんてことはないでしょう。
 では、潜在的バイアス研修など、差別をしないための教育・研修が制度化されていない組織のメンバーが差別するかしないかは、どう判断すればよいでしょうか。ここまで説明してきたとおり、警察官が日頃の業務で身につけた「無意識的」に感じる違和感に基づいた「反射」を根拠にして(考えている暇は無いし考えません)、「客観的・合理的」な判断ができるというのが古野の主張であり、それに素直に応じるのが市民にとっての最適解だと述べています。
 ですが、人間誰もが差別する可能性がある中で、メンバーが差別をすることを予防する取り組みをしていない組織が、「差別をしません」と言ったとして、それを信じることができるでしょうか(なお、日本には人種差別はないと信じていられる立場の人は、現代ビジネスに掲載された下地ローレンス吉孝さんケイン樹里安さんの記事をぜひ読んでください)。

 そんなわけで、日本の警察はレイシャル・プロファイリングを行っていないと言うことはできない、というのが、古野の主張に最大限同意したうえでたどり着いた結論です。
 なお、「警察活動の具体的手法に関する不開示情報」を公開し、何を判断基準にしているかがわかれば解決するかもしれませんが、私は別に、機密性の高い情報をむやみに公開すべきだとも言いません。でも、それができないんだったら、「差別をしていません、するつもりもありません」という根拠のない弁明をするのではなく、潜在的バイアス研修を取り入れるなどして、積極的に差別の是正に取り組んでいる姿勢を見せるほうが、市民の信頼を得られるのではないかと思います。

 

最後に蛇足
 とはいえ、この本では、直接レイシャル・プロファイリングについて取り上げているわけではないから、以上の結論が無い物ねだりなのは否めません。これについて最後に蛇足を加えます。
 2021年2月にミックスルーツの男性が職務質問を受けている動画が拡散されました。そこでは、警察官が「ドレッドヘアーの人が薬物をもっていることが、私の経験上多かった」と理由を説明しており、これもレイシャル・プロファイリングであり、差別であるとハフポストなどが報じました。
 その後、『職務質問』が出版された2021年10月には、デイリー新潮で同書を紹介する連載(全4回)が組まれ、その4回目で古野は「なぜかやたらと職務質問される人の傾向」について解説しています。その際に、上記のドレッドヘアーの男性への職務質問について、おそらく編集部による言及があるのですが、古野はそれには具体的にふれることなく、ここまでに説明してきた内容=同書に書いてある内容以上のことは話していません。
 ただ、1点、ちょっと気になったのは、これもおそらく古野ではなく編集部による文章で、

もちろん、単にその街のその警察官に見る目が無いだけ、という可能性も否定はできない。しかし第2回で触れた通り、職務質問から検挙に至るケースは多く、それが街の治安につながっているのもまた厳然たる事実なのである。

です。これって、うがった見方をすると、犯罪検挙や治安維持につながっているのだから、その過程での差別や人権侵害はしかたない、黙認すべき、必要悪だと言ってるようにも読めてしまいます。ただ、ここでも、職務質問に差別が内包されているかどうかは、答えてくれていませんでした。

 
2022.2.3追記
 うっかり書くのを忘れてしまっていたのですが、1月11日から東京弁護士会が「2021年度 外国にルーツをもつ人に対する職務質問(レイシャルプロファイリング)に関するアンケート調査」を実施しています。日本語、英語、ベトナム語、ふりがなつきにほんごの4種類あります。回答期限は2月10日までです。

 

参考文献
エバーハート(山岡希美訳),2020,『無意識のバイアス──人はなぜ人種差別をするのか』明石書店
下地ローレンス吉孝, 2018,『「混血」と「日本人」──ハーフ・ダブル・ミックスの社会史』青土社
トドロフ(中里京子訳), 2019,『第一印象の科学――なぜヒトは顔に惑わされてしまうのか?』みすず書房
古野まほろ, 2021,『職務質問』新潮社
ボネット(池村千秋訳), 2018,『WORK DESIGN──行動経済学でジェンダー格差を克服する』NTT出版

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乗車拒否を告発した障害者への否定的反応のパターン

コラムニストの伊是名夏子さんがJRで乗車拒否に遭った件について、Twitterなどでの反応を見ていると、2017年のバニラエア搭乗拒否のときと変わってないなと思ってしまったので、当時、採取したクソリプのパターンとそれへのコメントです。2017年度春学期、立教大学での「差別と偏見の社会学」で配布した資料を一部修正しました。

バニラ・エアでの搭乗拒否問題に対する反応


1 「事前連絡しなかったほうが悪い」
→ サービス提供にあたって健常者には付さない条件を課すことは不当な差別的取り扱いになりうる
→ 合理的配慮を提供するために必要な範囲内で事前に確認することは不当な差別にあたらないが、サービス提供を拒否するための事前連絡は不当な差別となる
→ 当日だと提供できる配慮が限られる可能性はあるが、利用できるよう協議・調整の努力をすることが事業者には求められている


2 「格安航空(LCC)なのだからしたかたない」「コスト削減のために最低限のサービスしか提供していない」
→ 事業者は、多様な人びとが利用することを前提に、過重な負担にならない範囲で環境整備をしておく必要があった(6/14設置のアシストストレッチャーは15万円)
→ 車椅子利用者には不要な固定座席や、盲人には不要な機内照明はLCCの飛行機にもあるが、なぜコスト削減の対象にならないのか
→ 特定の人びとを犠牲にしなければ価格を維持できない、経営が成り立たない企業ははたして健全なのか。特定の人びとを切り捨てることで提供されているサービスの恩恵を受けていることに無自覚なまま批判していないか


3 「主張はわかるが、もっと穏当な方法をとるべきだ」「当たり屋だ」「クレーマーだ」「わざと騒ぎを起こしたに違いない」「ルール違反だ、規則を守れ」
→ 戦術への批判や被害者の否定によって論点をずらしているだけ。差別事例としての本質をごまかそうとしている
→ 穏便にお願いしたら断られ、泣き寝入りさせられてきた。障害者はすでに/常に健常者以上に権利を侵害され、がまんを強いられている
→ 権利を主張したら批判され、萎縮させられてきた。声を上げた人へのセカンドレイプと同じこと
→ 差別構造は、マジョリティが現実を自明視しているからこそ温存されている。その是正・解消を求めることは、マジョリティにとっての当たり前の日常を揺るがし、反省を迫るものになりやすい。聞く耳をもたなかった人びとに注目してもらうには波風立ってしまうのは必然。炎上させなくても改善されるのが望ましい
→ 既存の秩序に挑戦してきた先達たちの社会運動や裁判闘争のおかげで整備された法制度や社会環境の恩恵を受けていることに無自覚なまま批判していないか


4 「わがままだ」「特権だ」「優遇策だ」「お客さまは神様ではない」「理不尽な要求を受け入れる必要はない」
→ すでに配慮されている(普段から神様待遇されている)ことに無自覚なマジョリティが、配慮を要求するマイノリティに対して「わがままだ」「特権だ」と批判するのは、在特会と同じ発想
→ 飛行機に乗りたいだけ、バスに乗りたいだけ、好きなときに好きな場所へ移動したいだけ、みんなが当たり前にやっているのと同じことをやりたいだけであり、理不尽な要求ではない
→ 健常者を基準に作られた社会で構造的に不利益を被ってきた障害者が、健常者が当たり前に享受しているのと同じだけの権利・利益を求めているにすぎない

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「清寧天皇はアルビノだった」説について

 第22代清寧天皇は、大昔の人ですから、実在したかどうかは知りません。実際、下記のとおり、実在を疑う歴史学者もいます。444(允恭33)年、後の雄略天皇の第三皇子として生まれた人で、天皇としての在位期間は短いです。
 『日本書紀』によれば、出生時より髪の毛が白かったために白髪皇子(しらかのみこ)と名付けられたそうです(宇治谷訳 1988: 314)。なお、『古事記』にも清寧は出てくるのですが、容姿については特に何も書いてません。
 歴史学者の遠山美都男は、清寧を「影の薄い後継者」(遠山 2001: 203)と言っちゃったうえで、次のように実在性を疑います。遠山は、白髪だったから「白髪皇子」と名付けられたのは「現実的にやや不審」であり、清寧は「白髪部(しらかべ)」という部と「白香谷(しらがだに)」という地名から創出された架空の天皇だと考えます。そのうえで、むしろ仁賢(第24代天皇)の娘とされる「手白髪(たしらか)」と関連づけて、清寧は仁賢の息子と見なすほうがふさわしいのではないかと続けます(遠山 2001: 205-7)。
 ところで、WikipediaをコピペしただけのPeople with Albinismという本があるんですが、この記事の注記に「この普通ではない髪の色はアルビノであることを示しているという推測がある(there is speculation that this unusual hair color suggests albinism)」とあります。で、これの出典は、江戸時代に日本にも滞在した在日オランダ商館長のイサーク・ティチングの著書だそうです。

 

参考文献
Books LLC, 2010, People with Albinism, Books LLC.
遠山美都男, 2001,『天皇誕生――日本書紀が描いた王朝交替』中公新書.
宇治谷孟訳, 1988,『日本書紀 全現代語訳(上)』講談学術文庫.

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「ノアはアルビノだった」説について

 

 ノアは、洪水が来る前に方舟を作ってみんなを乗せて避難したという、危機管理能力に優れた人です。「この説話はあまり知られてはいない」(ダ・ヴィンチの謎研究会編 2006: 116)らしいのですが、医者や医学史の研究者がアルビノについて解説するときに「ノアはアルビノだったと言われている」と豆知識的に披露することが度々あります(小林 1968: 11, 1975: 167⇒; 薗田ほか 1978: 12; 角田 1989: 169-72; ジョーンズ 1999: 65; フィッツパトリック 2008: 347; 深瀬 2010: 295-6)。また、『ダ・ヴィンチ・コード』でも、アリンガローサ司教が「ノアが色素欠乏症だったのを知らないかね」と言って、シラスを慰めています(ブラウン 2006: 13)。
 それから、アメリカのアルビノのサポートグループであるNOAH (National Organization for Albinism and Hypopigmentation)設立にも関わり、International Albinism Centerがあるミネソタ大学の名誉教授だったCarl J. Witkop, Jr.という研究者がいます。彼はNOAH設立に際して、ノアがアルビノだったことにちなんで頭文字がNOAHになるようにしたのだそうです(Shapiro and Cervenka 1993: 529)。
 ネタ元は旧約聖書の『エノク書』で、邦訳では、第106章でノアの生誕が語られています。「彼の身体は雪のように白く、またばらの花のように赤く、頭髪、(ことに)頭のてっぺんの髪は羊毛のように白く、眼は美しく、彼が眼をあけると、それは太陽のように家中を隈なく照らし、家全体がいよいよ明るくなった」(日本聖書学研究所編 1975: 288)そうです。そして、雪のように白い肌をしていたから「ノアは信仰の対象」(ダ・ヴィンチの謎研究会編 2006: 116)になったと考えられています。
 さて、「ノアはアルビノだった」と最初に言い出したのが誰だかわかりませんが、上記の薗田紀江子ら(1978)や角田昭夫(1989)や深瀬泰旦(2010)、また後述のSchneir Levin(2003)などが参考文献にあげているのが、Arnold Sorsbyという眼科医が半世紀以上前に発表した"Noah: An Albino"(Sorsby 1958)という論文です。深瀬によると、発表媒体のBritish Medical Journalはとても権威ある学術雑誌だそうです(深瀬 2010: 296)。
 20世紀遺伝学の伝統的手法といえば家系図作りなわけですが、Sorsbyもノアの家系図を作ってます。Sorsbyによれば、『エノク書』ではノアの父親と母親は夫婦であると同時にきょうだいでもあり、きわめて近い血縁関係になります。また、もうひとつ別の説も紹介しており、『ヨベル書』によれば両親はいとこ同士だったそうです。でも、どっちにしても血族結婚であり、両親ともに保因者だったからノアがアルビノになったと結論しています(Sorsby 1958: 1588)。
 それから、ヨハネスブルグの小児科医のSchneir Levinが書いた"Albinism and Genetics in the Bible"(Levin 2003)という論文もあります。この人も先行研究を参照しながら、ノアが最初のアルビノだとすればノアの両親が保因者だったか、あるいはノアが最初の突然変異だったかのどちらかだと述べてます。さらに続けて、聖書に登場するいろんな人たちについて、羞明があった、眼振があった、弱視だったと次々に見解を述べていきます(Levin 2003: 57)。

 

参考文献
ブラウン, ダン(越前敏弥訳), 2006,『ダ・ヴィンチ・コード(中)』角川文庫.
ダ・ヴィンチの謎研究会編, 2006,『ダ・ヴィンチ・コード キーワード完全ガイド』ぶんか社文庫.
フィッツパトリック, トマス・B(衛藤光・伊藤雅章・岩月啓氏・勝岡憲生監訳), 2008,『フィッツパトリック皮膚科学アトラス』丸善.
深瀬泰旦, 2010,『小児科学の史的変遷』思文閣.
ジョーンズ, スティーヴ(河田学訳), 1999,『遺伝子――生・老・病・死の設計図』白揚社.
小林守, 1968,「眼病の遺伝13 全身白子(Universal Albinism)」『眼科臨床医報』63(4): 11-4.
小林守, 1975,「眼病の遺伝」『眼科』17(2): 166-70.
Levin, Schneir, 2003, "Albinism and Genetics in the Bible," Jewish Bible Quarterly, 31(1): 57-9.
日本聖書学研究所編(村岡崇光訳), 1975,『聖書外典偽典第4巻 旧約偽典II』教文館.
Shapiro, Burton L. and Jarda Cervenka, 1993, "Carl J. Witkop, Jr. (1920–93): In memoriam," American Journal of Human Genetics, 53(2): 528-9.
薗田紀江子・長尾貞紀・飯島進, 1978,「白皮症の3例――とくにDopa反応について」『臨床皮膚科』32(1): 9-16
Sorsby, Arnold, 1958, "Noah: An Albino," British Medical Journal, 1: 1587-9.
角田昭夫, 1989,『小児疾患と文学』日本医事新報社.

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アルビノ/アルビニズムに関する情報

 2011年からYahoo!ブログがサービスを終了する2019年までの間、「アルビノについてのマニアックな知識をひけらかすブログ」というものを公開していました。内容は、文献レビューが主で、それをもとにして紀要論文を書いたり学会報告をしたりして、それがそのまま博論の第1章と第2章と第4章の一部になって単著『私がアルビノについて調べ考えて書いた本──当事者から始める社会学』にも収録されました。
 ですが、そうやって研究業績として発表したのはごく一部です。このまま埋もれてしまうのももったいないし、アルビノ/アルビニズムに関する不正確な情報はまだまだ多いので、それを是正するためにもresearchmapに残しておきたいと思います。

 このページは、目次です。随時、更新します。まずは、アルビノ/アルビニズムに関する誤解を是正するための記事から優先してアップロードします。


誤解や神話や変な俗信
アルビノはみんな赤い目をしている、わけではない
「ノアはアルビノだった」説について
「清寧天皇はアルビノだった」説について 

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飲み会だって重要です

お蔵入りにしたくないので、蒸し返します。
2010年頃に依頼された原稿が、結局日の目を見ることがなかったから、なんかクサクサして2016年にFacebookで公開しましたところ意外と好評でした。それを2020年のいまさらあらためて公開する次第です。お許しください。
なお、当然ながら現在とは状況が違いますのでご承知おきください。
 
==2016年にFacebookに書いたこと==
5年ほど前にアルビノについての本を作る企画があり、素晴らしいことだなと思いました。
そのとき私にも一当事者としてエッセイ的な原稿を書いてほしいとの依頼があり、嬉しくなって当然引き受けました。
他の執筆陣とのバランスも考えて、私のポジションで書けることを書いたのですけど、そのままその企画は停滞し、私自身もすっかり忘れていました。これについては誰が悪いわけでもありません。
(行間)
けれども、つい最近になって出版社から電話があり、その本の企画は進んでるけど、「あなたの原稿は掲載しません」とは言われませんでしたけど「お察しください」的なことは言われました。
(行間)
もちろん、この数年で事情が変わったことはよく知ってます。
(行間)
「アルビノを生きる」という本が出ましたから。
(行間)
そのあたりの大人の事情は私も理解できますけども、もったいないのでせっかく書いたエッセイ的なものをここに掲載します。
(行間)
誰かに読んでもらうために書いたものが、大人の事情で誰にも読んでもらえないのは馬鹿らしいのでどうぞ。どうぞ。
 
なお、以下は2010〜11年頃の私が書いたものです。
本文中に出てくるJANとは以下です。
http://www.albinism.jp/
 
==2010〜11年頃に書いた本文==
飲み会だって重要です
矢吹康夫
 
 日本アルビニズムネットワーク(JAN)では年に数回飲み会を開催しており、毎回とても好評です。JANは、当事者のピアサポート、家族支援、社会的な理解・啓発を3つの柱に活動を続けていますが、そのような上段にかまえた目的がある講演会などだけでなく、白くまさんの旅と同じように、ただ気軽に会って話してわかちあう機会も大切にしています。
 さて、飲み会では次のような話で盛り上がります。本屋さんやレンタルビデオ屋さんには、周知のとおり18歳未満のお子様が入ってはいけないエリアがあります。そういうところには帽子で頭を隠して入ったりもしますが、友人・知人には簡単にばれてしまうらしいです。そのうえ、弱視だから顔を近づけないと商品を確認できないだけなのに、食い入るように見ていると勘違いされてしまいます。そして後日、「偶然見かけたけど、あまりに熱心に選んでたから声をかけられなかったよ」と事後報告されるのです。どれほどの共感をえられるかわかりませんが、当事者にとってはただのあるあるネタであり、酒の肴にみんなで笑ってそれでお終いという経験でしょう。真顔で「大変ですね」と言われてもそれは期待したリアクションではないし、ましてや「二度とそんな恥ずかしい思いをしないためには、どのような対策が必要ですか」と問われても困ります。
 あるいは、アルビノの人たちはよく外国人に間違われて、集団下校の小学生から「ハロー」「外人」などと指さされて不愉快な思いをします。でも、お酒の席でそういう話になっても「アルビノのことを子どもたちにも正しく理解してもらえるように、もっと啓発活動をしていきましょう」などという展開にはなりません。これもやっぱりあるあるネタだから、その後に続くのは「私はスーパーサイヤ人って言われた」であり、「サングラスかけて歩いてたらマトリックスって言われた」だったりします。下ネタもあれば愚痴もあるごく普通の飲み会で、ただ楽しく飲んでしゃべるのが目的です。
 ところで以前、JANの活動内容について説明する機会があったとき「飲み会も重要です」と言ったら、「他に大事なことがあるんじゃないですか」「もっと当事者や家族に役立つことをすべきじゃないですか」と反論されたことがあります。「べき」とまで言われると大きなお世話です。当事者だからといって誰もが、アルビノの仲間たちのためになる活動をしようと24時間365日考えているわけではありません。当たり前です。普通に生活してます。
 例えば私は、カップラーメンの側面の「おいしい作り方」の小さい字が見えなくて、液体スープを入れるタイミングを間違えることがあります。他にも、金髪だと雇えないからとアルバイトを断られたり、日焼けが心配だからと陸上部に入るのを反対されたりもしました。いろいろ困ったことや面倒なことがあったのですが、それらは当事者の側に原因や責任があるのではなく、世の中の大多数の人たちがアルビノについて理解してないから起こることです。だから、変わるべきはアルビノの人たちではなく、世の中のほうだと思います。ここまでは誰もが納得できる話でしょう。
 では、世の中が変わるべきだとして、変えていくために努力するのは誰の役目でしょうか。世の中の人たちの理解がなくて苦労している当事者が、理解してもらうためになおさら努力を強いられるのはなんだか理不尽に思えます。
 私に向けられた言葉は、要するに「飲み会なんかやってるヒマがあったら、世の中を変えるための活動に力を入れるべきた」という激励でしょう。それは善意かもしれませんが、深読みすると「世の中を変えるのには賛成するが、そのためには、まずは当事者自身が率先して汗をかくべきだ」になります。ですがそうした考えは、「当事者が頑張る姿を見せなくては周囲の人たちは理解してくれないし、助けてもくれないぞ。だからのんきに飲み会なんかやってちゃダメだよ」というメッセージです。それにのせられて頑張りすぎると、結局当事者「だけ」が負担を強いられることになりかねません。そしてその結果、楽しくしゃべって飲んだくれる普通の生活が犠牲になるとすればやっぱり理不尽です。
 当事者以外の人たちも少しずつ負担してくれれば、アルビノの人たちが普通の生活を犠牲にしなくても世の中は変わっていくと思います。また、頑張る当事者を基準にしてアルビノの理解が広まると、頑張らない/頑張れない当事者が肩身の狭い思いをするかもしれません。私が「飲み会だって重要です」と主張するのは、普通の生活を守るためであり、その普通の生活とは、アルビノだからといって無理して頑張らなくてもよい当たり前の日常です。だから私は、これからも飲んだくれ続けるつもりです。
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アルビノはみんな赤い目をしているわけではない

2019年12月にサービスを終了したYahoo!ブログに書いたものを、一部修正して掲載しています。
以下の記事は2011年7月27日にブログに投稿したものです。

==ここから本文==
 アルビノはみんな赤い目をしていると信じられています。

 でも、それは違います。

 この記事は、具体的な論拠を示して「みんなが赤いわけではない」ということを述べるのが目的です。「赤い目をしたアルビノの人は1人たりとも存在しない」ということではありません。
 
 とはいえ、動物のアルビノでは赤い目が多いですし、専門家も目が赤いかどうかでアルビノかただの白い動物かを見分けられると言ってます(Halls 2004: 36)。また、フィクションに登場するアルビノのキャラクターも赤い目で描かれるのが常です。

 ですが、実際のところ人間のアルビノではそんなことはないです。

 赤みがかっている人もいますが、ほとんどは明るい青か灰色で、薄褐色や茶色、スミレ色の人なんかもいます。にもかかわらず、赤い目の神話があまりにも強固なため、「彼女は赤い目をしてないからアルビノではない(She can't have albinism because she doesn't have red eyes)」と言われてしまう始末です(NOAH 2008: 35)。また、アルビノの人は青色や茶色、緑色、灰色、スミレ色の目をしており、みんなが思ってるようなピンク色ではないとも言われてます(Mitchell 2004: 9)。ただこれらは、いずれもアメリカの人たちのことです。
 
 目が何色に見えるかは、虹彩のメラニン色素の含有量によって変わってきます。

 以下では、日本のアルビノの人たちの目の色について、医療の専門的な文献から個別の症例報告を見ていきましょう。
 
・淡褐色(辻・斎藤 1976: 553)
・暗赤色(三室ほか 1976: 60)
・茶褐色(宇治・小林 1977: 2)
・褐色、青色、青灰色(薗田ほか 1978: 9-11)
・茶色(永田ほか 1981: 293-5)
・青灰色(富田 1994: 1107)
・灰色(飯島ほか 2007: 30)
 
 個別の症例報告ではなく「一般的にアルビノの人の虹彩の色はこうですよ」と述べたものとしては、次のようなものがあります。
 
・虹彩は紅色、瞳孔は赤く、兎の眼のように見える(原田編 1971: 156)
・青色(堀 1977: 1003)
・薄い青灰色(富田・松永 1997: 1057)
・青色(阿部・鈴木 2009: 44)
 
 以上のように、「虹彩の色も微妙に様々」(富田 1998: 601)なことがわかります。
 ただし、眼球に光を照射したら虹彩の奥の眼底が透けて赤く見えます(富田 1994: 1107; 富田・松永 1997: 1057; 稲垣・富田 2003: 129; 岡本ほか 2005: 821)。
 つまり、赤目防止機能を使わずに写真を撮ったら赤目になります。

 当たり前ですけど。


参考文献(著者名のアルファベット順)
阿部優子・鈴木民夫, 2009,「皮膚の異常と病気 白皮症(先天性色素異常症)」『からだの科学』262: 44-6.
Halls, Kelly M., 2004, Albino Animals, Plain City: Darby Creek Publishing.
原田政美編, 1971,『視覚障害(リハビリテーション医学全書12)』医歯薬出版.
堀嘉昭, 1977,「白皮症」『皮膚科の臨床』19(11): 1003-16.
飯島亜由子・鈴木民夫・稲垣克彦・小西朝子・西村陽一・富田靖, 2007,「症例報告 眼皮膚白皮症4型の1例」『臨床皮膚科』61(1): 30-3.
稲垣克彦・富田靖, 2003,「白皮症と白斑」『小児科診療』66(増): 128-31.
三室厚子・鈴木芙美代・山口規容子・福山幸夫・佐藤昌三, 1976,「Tyrosinase活性陽性の眼皮膚型白皮症の1例」『東京女子医科大学雑誌』46(1): 60.
Mitchell, Elizabeth T., 2004, Albinism in the Family/Albinismo en la Familia, Bloomington: 1st Books Library.
永田裕二・中塚和夫・原潤一郎, 1981,「網膜剥離をきたした白子眼底の2例」『日本眼科紀要』28(6): 293-6.
NOAH, 2008, Raising a Child with Albinism: A Guide to the Early Years, East Hampstead: The National Organization for Albinism and Hypopigmentation.
岡本和夫・高須逸平・寺田佳子・大月洋, 2005,「眼皮膚白皮症に併発した両眼裂孔原性網膜剥離の1例」『眼科臨床医報』99(10): 821-3.
薗田紀江子・長尾貞紀・飯島進, 1978,「白皮症の3例――とくにDopa反応について」『臨床皮膚科』32(1): 9-16.
富田靖, 1994,「臨床講義 眼皮膚白皮症――その遺伝子型と臨床型の対応について」『皮膚科の臨床』36(8): 1107-17.
富田靖, 1998,「展望 白皮症の臨床と研究」『皮膚病診療』20(7): 597-602.
富田靖・松永純, 1997,「色素異常症 白皮症」『皮膚科の臨床』39(7): 1055-60.
辻卓夫・斎藤忠夫, 1976,「汎発性白皮症の兄弟に多発した"黒子"について」『臨床皮膚科』30(7): 553-9.
宇治幸隆・小林雄二, 1977,「白子眼における単色光ERG」『日本眼科紀要』28(6): 802-6.
 

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