研究のススメ(津田塾大学SNSで連載していた学生向けエッセイです)

研究のススメ

「なんとなく分かった」症候群

私にとっては、研究者になろうと思ってから今日までは、自分の「良くない癖」に気づいては、治そうとする日々の連続であるような気がします。

中でも苦労している癖の中に、「なんとなく分かったつもりになる」「とりあえず分かったことにしてしまう」というものがあります。

勉強したり、他人の論文を読んだりしていて、書いてある言葉の字面を覚えたり「共感」できたり、周辺の「あらすじ」をそこそこ追えたりすると、あまり深く考えずに「もう分かったもんね」と片づけてしまう、というものです。
おそらく、学生のみなさんの中にも多かれ少なかれ、同じ傾向を持った人がいるかと思います。

大学院に進学するまでは、こういう癖を自分の「物わかりが良いところ」とか「素直なところ」の現れと思っていたふしもありました。
しかし、大学院以降は、この癖のためにずいぶん痛い目に遭いました。

今日は、「なんとなく分かったことにする」ということが研究上どういう問題をもたらすか、またそのように考えてしまう癖をどう治したらよいかについて、思うところを書いてみたいと思います。
 
 
 
まず、「なんとなく分かった」のせいでどんな痛い目にあったか。

一つ目に、「自分は分かっている」と思っているからこそ、「不用意な発言」や「他人の受け売り」が多くなるということがあります。
勉強したばかりのことを他人に話してみたくなるということは多くの人にあるかと思いますが、研究者相手に中途半端な知識や聞きかじりの主張を披露するとどうなるか。

たとえば、巷でよく聞く、「(英語などには主語があるが)日本語には主語がない」という主張があります。
言語の専門家以外の人にも比較的とっつきやすいものですが、これをそのまま言語学者(あるいは、関連領域の研究者)に言ってみたとします。

もし相手が真面目に聞いているなら、おそらく「主語の定義は?」という質問がくるでしょう。前にも書いたとおり、この時点できちんと答えられないと、かなり恥ずかしい思いをします。(しかし、実際これは主張している人の立場がはっきりしないと非常に答えにくい問題です(後述)。)

それから、「『ない』っていうのは厳密にはどういう意味なの? 事実として『ない』ってこと? それとも規範的に『あっちゃいけない』ってこと?」のような質問もたぶん来ます。
相手が純粋に「もっと知りたい」と思っている人間であればあるほど、厳しい突っ込みが続きます。

しまった!と思っても遅く、しまいには気恥ずかしさも手伝ってちょっとキレてしまい、「だってあの○○先生が言っているから言ってるとおりなんじゃないの」とか「だってそういうふうに考えた方が感覚的に『しっくりくる』じゃない」などという受け答えで墓穴を掘ります(注:あくまで私個人のパターンです)。

学生は大いに発言をしたり、他人と積極的に議論をしたりするべきなのですが、上のように「なんとなく分かった状態」で無防備なやりとりをすると、いとも簡単にカウンターを喰らい、質問にうまく答えられずに、精神的にタコ殴りにされたような気分になることがあります。
そしてこういうことが続くと、発言や議論そのものがイヤになってしまいます。


「なんとなく分かった」の弊害としては、もっと単純に「他人の主張の本当の意味が分からない」「他人の主張が正しいかどうか(あるいは本当に「意味のある」しゅちょうかどうか)、どこで判断したらよいか分からない」ということがあります。

研究では、他人の主張が正しいことを前提にして自分の論を展開したり、あるいは他人の主張が間違っていることを示したりします。
しかし、研究上の主張というものは、たとえ一見シンプルに見えても、その背後に実に多くの仮定や文脈、意図を含んでいます。
そこをある程度理解しないと、自分の研究に採用することも、批判的に検討することもできません。

たとえば先ほどあげた、「日本語に主語はない」という主張が「実際に何を主張しているのか」「正しいかどうかをどこで判断するか」は、実はその背後にある仮定、特に「どのような立場から、何を目的とした上での主張か」を見極めないと答えられません。

仮に、上の主張が、日本人あるいは外国人相手に日本語の文法を教える立場から、「学ぶ人にとって分かりやすい説明をする」という目的を持った取り組みの中でなされた主張であるとします。
この場合、この主張は、「主語」という用語を使わない説明体系の方が、そういった用語を使った体系に比べて学習者にとってわかりやすく、教育効果が高まる、ということを意味している可能性が高くなります。

他方、人間の言語を自然現象としてとらえ、「可能な語と語の結びつき方」と「ありえない結びつき方」の違いを説明するために、科学的な文法理論を構築する立場があります。
この場合、主張の意味するところも、正しさの判断基準も先ほどの場合とは異なります。

文法理論というと言語関連の研究者以外はあまりピンと来ないかもしれませんが、ここでは「文法的にありうる日本語の文」だけを出し、「ありえない日本語の文」を出さないような「装置」のようなものと考えていただいてよいかと思います。
その中では「主語があるかないか」という問題は、そういった「装置」の中で、文の一部を「主語」として特別扱いするような「仕組み」が必要かどうか、という問題になります。
この場合、上の主張の正当性の判断基準は、そのような仕組みを入れない装置が、「文法的にありうる日本語」と「ありえない日本語」の間にうまく線引きできるかどうか、ということになります。

上の二つはもちろん無関係ではありませんが、基本的にはそれぞれ独立した主張です。もちろん、これら以外にも、研究の「目的」「方法」などによってさまざまな立場が考えられ、それによって主張の意味する内容も変わります。
このように、他人の主張を検討する際には、それがどういった立場からなされたものであるか、どのような目的や方法のもとになされたものであるかを、ある程度見極めなくてはなりません。

 逆に言えば、「なんとなく分かったこと」をそのまま採用したり批判したりするということは、他人が暗黙に置いている仮定をそのまま自分が引き継ぐことになりかねない、ということです。
このあたりをよく意識しないと、知らないうちに矛盾を引き起こしていたり、本来意図していなかったことまで主張していることになったりします。

私もよく研究発表でそういったことを指摘され、「そんな主張をしている覚えはないのに・・・」「そんなこと言ってないのになんで分かってくれないんだろう」と憤慨しましたが、それは「なんとなく分かったこと」ばかりをかき集めていたせいで、いつの間にか土台がガタガタになっていたからであったと思います。


以上の通り、幾度となくイヤな思いをしてきたにもかかわらず、見栄っ張りな性格が災いしているのか、今でも気を抜くとすぐ「何となくわかった」で片づけようとしてしまいます。
できるだけそうならないよう意識して気をつけていることがあるので、ご参考までにご紹介したいと思います。


まず「心構え」のようなものですが、「研究」や「勉強」に対して、「基本的なことから複雑なことへ一直線に進んでいくものだ」という思いこみを捨てることが重要であると思います。
というのは、「なんとなくわかった」と思いたいのは、「早く基本的なことをクリアして、より複雑なところに進みたい」という焦りがあるからである、という気がするからです。

私たちは小学校から高校まで、一見「簡単なことから複雑なことへ一直線に進んでいる」ように見えるステップを踏んで、勉強をすることが多いかと思います。
しかしこれは、より根本的な問題をとりあえず脇においているからに過ぎません。

たとえば、算数では「数とは何か」という基本的な問題を脇において足し算や引き算を勉強しますし、社会では「社会とは何か」ということを定義せずに、社会についての勉強をします。
これに対し、大学以上の教育・研究では、それまで「暗黙に脇に置かれていた基本的なこと」にスポットライトが当てられ、もういやというほど「根本的な問題」に立ち返りながら進む必要が出てきます。
時には、今まで乗っかっていた足場がなくなったり、別なモノに入れ替わることもあります。

つまり、「進んではまた前に戻り、分かったことと分からないことの確認を繰り返していく」というプロセスが「あたりまえ」で「王道」になります。

早いうちにこのことをしっかり認識した方が、「分からないところ」「はっきりしないところ」を引きずりながら前に進むのが苦ではなくなり、「自分はまだこんなところが分からずに悩んでいる」「ぜんぜん先に進めない」と不必要に悩まなくてよいように思います。


さて、教科書などの本を使って勉強する際に気をつけることですが、私はなるべく以下のことをするようにしています。
(なお、数学の勉強に関しては、竹山美宏先生の「数学書の読み方について」が参考になります。ぜひご覧ください。)


①勉強していて、何か「分かった」と思ったら、とりあえずノートに書いてみる。

このとき気をつけるのは以下の点です。

・とりあえず、本を見ながら写すのではなく、自分の言葉で書いてみる。その後本を見直してチェックする。
こうすると、本を見直した時に自分の理解度がよく見えます。

・できるだけ「完全な文」の形で書く。
「AはBである」「AはBをCする」のように、正しいかどうかが問えるような文の形で書きます。
専門用語や名詞句をただ並べるだけとか、「チョムスキーが提唱」のような不完全な文や、「AはBであると言えるのかどうか」「何がAの要因なのか」のような疑問の形で書くのは避けます。
文の形で書けない場合は「特に何も理解していないのだ」と判断して、本を読みなおします。


②分かったことが「文」の形で書けたら、曖昧性がないかよく考える。

 文の内容をよく考えて、名詞句に「すべての~」あるいは「ある~」を付け加えたり、述語に「常に~である」、「~である場合がある」、「~であるべきである」、「~であってもよい」などを付け加えて、曖昧性を極力なくしていきます。

 また、用語の指す内容が「個体」なのか「集合」なのかによって生じる曖昧性にも気をつけます。
 たとえば「AはBである」という日本語の文は、AとBが「個体」を指すのか「集合」を指すのかで、表わす内容が変わって来ます。
 もし「太郎は次郎である」のような文(つまりAもBも個体)ならば同一性を表し、「太郎は人間である」(Aは個体、Bは集合)ならばメンバーシップを表し、「人間は動物である」(AもBも集合)ならば集合間の包含関係を表します。(注:もちろんこれらのパターンだけではありません。)
専門用語だとこのあたりが明確でない場合があるので、注意が必要です。


③ ②で書いた「文」の中に出てくる分からない用語に線を引き、定義を調べる。


定義の中にまた定義のわからない言葉が出てきたら、それも調べます。
時間がないとき、調べる手段が手元にないときは、あとで調べます。
これは面倒ですが、こうすることによって最終的には「文の中に出てくる言葉の意味がすべて分かる」状態にすることを目指します。


④論理にしたがって、「文」の「言い換え」を数パターン作る。


たとえば、「すべてのAはBだ」のような文であれば、「BでないものはAでない」のような文に言い換えます。
また、「AはBだ」という文で、「Bの定義はCだ」ということが分かっていれば、「AはCだ」という風に言い換てもいいかもしれません。

なぜこんな言い換えをするかというと、こうすることで、文の内容の具体例や、予測する内容がより見えやすくなる気がするからです。
たとえば「みかんは果物である」と言われれば、「そりゃそうだよね」と思いますが、「果物でないものはみかんではない」と言われると、少し「ぎょっ」としないでしょうか? (私はすごくします)
この「ちょっとした驚き」というか、「新鮮な響き」が、思考停止を防ぐ上で重要であるような気がしています。


⑤ ④で出てきたパターンを眺めながら、具体例や予測される帰結を本から拾ったり、自分で考えたりしてみる。

「この文が本当ならこういう予測がでる?」「こういうことも具体例になる?」などを問いかけてみて、思いついたら本で確認します。
もし本で分からなければ、詳しい人に質問してみるのも良いかと思います。


⑥その他、「なぜこれが正しい(と考えられている)のか」という根拠、「なぜこういうことを言わなければならないのか」という文脈、また関連項目など、書ける範囲で書き加える。また、気が向いたときに見直して、関連項目をどんどん増やしていく。


だいたいこんな感じです。もちろん、勉強している内容や分野によって、この通りにできない時もありますが、そのあたりはあまり気にしていません。
ただ、分からない項目は「まだ分からない」ということが後から読んで一目で分かるように気をつけています。

私は気分によって、ふつうに上からノートに書いたり、マインドマップのような書き方をすることがありますが、後者の方が後から分かったことを埋めやすいかもしれません。

なんだか一つの文をしつこくこねくり回しているように見えるかもしれませんが、上のようにすることによって、「本に書かれている流れに乗せられて勉強するのではなく、自分の知識状態に基づいて、自分本位に勉強できる」ような気持ちがするので、わりと気に入っています。

おそらく世の中には似たような方法でもっとスマートな方法や、もっと画期的な方法があるかと思いますので、あくまでご参考まで。
 「なんとなく分かった症候群」の治療に少しでもお役に立てたら幸いです。

「報われない思い」を斬る! 日本一の斬られ役

学生の皆さんは、「努力しても報われない」「いくら頑張ってもダメだな~」と思うことはあるでしょうか?
私はたまにあります。

こういうご時世のせいか、インターネットの質問サイトなどでも、「いくら頑張っても報われない。どうしたらいいでしょうか」という悩み相談を時々見かけるようになりました。

そういうとき、自分が元気だと完全に回答者側に立って、「頑張っても必ず報われるわけじゃないから、仕方ないよね」などと言いたくなってしまいます。

実際の回答を見ても、「もっと小さな幸せで満足してみては」、「結果がすべてなのだから自分基準で頑張ってもしょうがない」、「頑張ることそのものに意味があるんですよ」、「頑張りどころを間違っているのではないですか」、「仕事に夢を抱き過ぎないで収入源と割り切るべき」、「本当に好きなことをしていれば報われないという気にはならないはず」・・・などなどの意見があって、私もおおむね同意します。

しかし、気分がズドーンと落ち込んでしまい、ああもうやってられない!と思うとき、上のような「一般論的な答え」はなかなか「効かないよなぁ」と思ってしまいます。

そういう時、必ず読むことにしているのが、以下の本です。

福本清三・小田豊二「どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役 福本清三」集英社文庫 


福本清三さんをご存じでしょうか。
名前を知らなくても、写真をみたら見覚えのある人が多いのではないかと思います。
福本さんは、時代劇の「斬られ役」を長年努めてこられた方で、斬られた回数は二万回とも五万回とも言われています。

上の本は2001年、東映を60歳で定年になる直前の福本さんに、編集者・作家の小田豊二さんがインタビューし、聞き書きをしたものです。
聞き書きという形式のせいか、「私のことなんか、本になりますかいな、聞いてもしょうがありまへんで」と終始照れながら話される福本さんの人柄が滲み出て、しみじみとあったかい気持ちになる本です。

斬られ役、といってもそのような専門の仕事があるというわけではなく、映画やテレビドラマの主役・脇役以外の「その他大勢」をこなす「大部屋俳優」の仕事の一つです。

福本さんは15歳の時に、ひょんなことから東映の大部屋俳優として働きはじめ、セリフも演技指導もなく、台本も渡されない役をこなされました。

恥ずかしがり屋で、もともと俳優になるつもりはまったくなかったそうですが、当時の東映は時代劇映画の全盛期で人手不足。
福本さんも通行人、死体役、雑兵役から始めて、スターの後ろ姿や危険なシーンの吹き替え、ヤクザ映画で撃たれて吹っ飛ぶ手下・・・などなどを懸命に演じてこられました。

この本の冒頭のインタビューの日も死体役を割り振られ、そこから昔の死体役の思い出(冬の夜に池に浮かぶ死体を演じたときにガタガタ震えてしまい、池に写り込んだ名月を台なしにしたことなど)が語られています。


それらの役は、演じても作品のクレジットに名前が載らないことがほとんどです。
福本さんは、俳優として名を上げるよりも、とにかく自分と家族が食べて行くため、働いてこられたとのこと。

しかし、名前が出ないにもかかわらず、長年にわたって時代劇でスターに斬られつづける福本さんは、いつしか「いつもいつも斬られている、頬がコケっとしたあの人」としてお茶の間の注目を集め始め、多くのファンを獲得します。

そして、ついにはトム・クルーズからお呼びがかかってハリウッド映画「ラスト・サムライ」に出演、全世界のスクリーンで強い印象を与えることになります。
(そのあたりの経緯は、福本清三・小田豊二「おちおち死んでられまへん 斬られ役ハリウッドに行く」(集英社文庫)に詳しく載っています。こちらもおすすめ!)


この本を初めて読んだ時、なんだか「生き方」の一つの理想形を見たように思いました。

私は、福本さんの人生を、「頑張っていれば必ず報われる」ということを示す成功物語として挙げるつもりは全くありません。
おそらく、多くのファンを獲得したり、ハリウッド映画に出たりすることは、福本さんが望んだり意図したりして得た成果ではないと思うからです。

しかし、力を尽くしていればなんらかの形でよいことがある「かもしれない」こと、そして何年も変わらず精一杯働くことは、こんなにも他人を爽やかな気持ちにさせるものだということを強烈に感じさせる「具体例」だと思いました。


それと同時に、この本を読み返すたび、自分には福本さんのように生きるのは不可能だろうな、という軽い絶望に似た気持ちにもさせられます。

読んでいて思うのですが、大部屋俳優というのは、本当に「報われない」仕事です。
名前がクレジットされない上に、福本さん曰く、主役や脇役と違い、工夫をして「演じて」みせても監督から「違う」と言われればそれでおしまいだし、立ち回りにしても「うまくいった」と思ったからといって、人から「何やねん」と言われたらおしまい。
結果がすべてで、自分がいなくても代わりはいくらでもいる。そういう世界です。

監督やスタッフからの扱いもひどいもので、めちゃくちゃな要求にも応えなくてはなりません。
しかし、福本さんはそういう経験について語る時、「悔しかったけど懸命に耐えた」などとは決して言わず、「楽しかった。またああいう無茶を言う監督さんと仕事がしたい」と言います。

また、出世して行く仲間、辞めて他の道に進んで行く仲間を目にしながら、「自分にはこれしかない」「家族を食べさせるため」と、十代の時以来毎日変わらない仕事を何十年も続けるのは並大抵のことではないと思うのです。
「食べて行けるならそれでいい」「ささやかな生活ができればいい」と心底思えるのは生まれ持った「徳」のようなもので、だれでもそう簡単にできることではないと思い知らされます。

私のような人間には、小さな幸せで満足しようと努めるよりも、分不相応な幸せを期待して満たされず、ブチブチ文句を言いながら生きる方がむしろ楽なのではないか、という気がしてしまいます。


そういうわけで、福本さんの真似はとてもできないと思っているのですが、「やってられんわ!」と思ってしまう時には、この本を読んで必ず思い起こすようにしていることがあります。

一つは、「自分の役割を自分で作りだそうという気持ちをもつ」ことです。

先程も書いたように、「斬られ役」というのは専門の仕事ではなく、大部屋俳優が担当する「その他大勢」の役の一つです。

福本さんは、若いころに「斬り方」を指導してくれた親切な先輩に「斬られ方を教えてください」と言ったところ、「剣術は斬るためのものだから、斬られ方というのはあるわけがない。自分だけの斬られ方があっていいんだ」と言われ、それをきっかけに本気で斬られ役になろうと思ったといいます。

その後、さまざまな役で相変わらず便利に使われながらも、いろいろな工夫をし、勉強をして、主役を最大限に格好よく見せる「斬られる技術」を磨いて行きます。
そして結果的に、大声で自分をアピールしなくても、また他人にへつらったりしなくても、自然と人の目に止まるようになりました。

このように、すでに存在する役割をもらうだけではなく、少しずつでも自分から役割を作り出していく人がいることは、報われない思いから自分を解放してくれるように思います。

研究者の世界も、若手の研究者が役割なり仕事なりを獲得するという面で、厳しい状況が続いています。
私は非常に恵まれたほうであると思いますし、来年自分がどこでどんな仕事をしているか分からないという生活も、もう10年近く続けていると慣れっこになった気がしていますが、時々はやりきれない気持ちになることがあります。

また、今後さまざまな事情で仕事ができなくなってしまうかもしれないという思いは、いつも頭のどこかに抱えています。

そういうとき、「自分で役割を作っていこう、またどんな状況でもそういうことができる自分になることを目指そう」と思うことで、ずいぶん救われていると思います。


この本を読んで確認するようにしているもう一つのことは、「役割を与えられたら、それを大切に果たす」ということです。
このことの価値については、「仁義なき戦い」シリーズ等で有名な深作欣二監督との次のエピソードによく表されているように思います。

福本さんが初めて深作監督と仕事をされたとき、監督がスターにほとんど指導をせず、端役の殺され役の一人一人に対して細かい演技指導をすることに驚いたそうです。
そしてある日、「自分たちはゴチャゴチャ指導されなくてもかっこよくやられてみせる」と監督に文句を言ってみたとのこと。
そうしたら、深作監督からは以下のような答えがかえってきました。


「いいか、フクちゃん、映画のスクリーンっていうのは、主役だけが主役じゃないんだよ。このスクリーンのなかに映ってる皆が主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命やっていてもな、このスクリーンの片隅にいるヤツが遊んでいたら、この絵はもう、その段階で死んでしまうんだ。だから、フクちゃん、同じ子分でもな、それぞれが個性出して、殺されてほしいんで、あんたにとってはうるさいだろうけど、こうしてくれって指示を出すんだよ」

ガーンでしたわ。打ちのめされた感じでしたわ。
私にも、多少の慣れはあったし、殺されることに奢りがあったかもしれまへんな。そやから、深作さんにそう言われた時は、ほんと、ショックでしたわ。
(なるほど、この監督はただものではないな)と思いましたわ、その時。
それからですわ。私がとにかく一生懸命、与えられた役をやってさえいれば、誰かがきっと、どこかで見ていてくれると思うようになったんは。
(pp.221-222)



一人一人が役割を果たすことの尊さを、これほどストレートかつ具体的に表すエピソードはあまり聞いたことがない気がします。
この箇所を読むたびに、私ももっとしっかりと立って、職場なり家庭なりで与えられている役割にガッチリ集中しなければと、じんわり思います。


皆さんにももし、やりきれない気持ちが強くて、どんなアドバイスも効果がないような時があったら、ぜひこの本を手にとって読んでみていただきたいと思います。


(ちなみに福本さんは、定年後も東映で嘱託社員として、俳優のお仕事を続けていらっしゃいます。
先日封切られた映画「最後の忠臣蔵」には、なんと吉良上野介役で出演されているとのこと!)

ゼロから論理を学ぶ ~勝手に4つのステップを立ててみました~

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年11月24日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。

(11/26 一部加筆・訂正しました。)
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前回の続きです。
さて、どうやって「論理的な分かり方・考え方」を学ぶかですが、もちろん他の分野の勉強と同様、論理学関連の本で勉強したり、授業を受けたりするのが良いのではないかと思っています。

ただし、論理に関する本は一般向けのものから専門的なものまでたくさん出ていますし、また大学での論理学の授業も先生の力点のおき方によって様々なので、自分の習熟度と目的に合わせて本や授業を選ぶのが結構難しいのではないかと思います。

特に、論理というものがどういうものか、イメージがさっぱりつかめない段階ではなおさら、「今自分がどこにいるのか、これから何を勉強する必要があるのか」がわからず戸惑うことが多いと思います。

私自身、学部の時に2回論理学の授業を受けましたが、残念ながらその時点では「論理的な分かり方・考え方」を習得するには至りませんでした。
正直に言うと、単位はなんとかとれたものの、「ところで論理って何だったの?」という状態でした。(ただ、後から考えるとそれらの授業から得たものは非常に多く、本当に受講しておいてよかったのですが)

今思うと、それは「基本がわかっていないのに、いきなり難しいところから入った」のが原因だったと思います。

そこで、誠に勝手ではありますが、「こういう手順を踏めばよかったのではないか」と思う論理の習得のステップを、以下のように考えて見ました。

  1. (演繹的)推論と、似て非なるもの(例えば推測など)の違いを知る
  2. 正しい推論の具体例を実際にいくつか見て、正しい推論が正しいかどうかを自分で確かめる(あるいは、必ずしも正しくない推論の具体例を実際にいくつか見て、それらの推論が必ずしも正しくないことを自分で確かめる)
  3. 正しい推論のパターンがどのように定義されるのかを知る。
  4. 日本語と推論のパターンとがどのように対応しているか知る

以下、簡単に説明します。
 
 
 
 
1. (演繹的)推論と、似て非なるもの(例えば推測など)の違いを知る


推論は、論理の中核をなすものです。
よって、何が推論であって何が推論でないかを押さえるのは、論理の習得の上での第一歩であると言えます。
推論は、私達が日常的に行う「すでに知っていることから、まだ知らないことを導く」ための手段の一種ですが、そういうものは推論だけではありません。

前回書いたように、(演繹的)推論というのは、「前提が『本当』である場合に、必ず『本当』になる結論を導く」というものです。
これに対して、私達は「前提から考えるともっともらしく思えるけど、絶対に本当だという保証がないような結論」をあえて口に出す場合もあり、そのような行為は、推論ではなく、推測とか推量などと呼ばれます。

(注:ただし、そのようなものの中には、ここでいう「前提が本当の時に結論も必ず本当になる」推論(演繹的推論)とは別の種類の推論とされるものもあります。例えば、個別の例から一般法則を導くようなものは帰納的推論と呼ばれます。ここでは「推論」という言葉を演繹的推論と同義で使っていますが、「推論」という言葉はより広い意味、つまり「何らかの前提から何らかの結論を導くこと」を指して使われることもあります。)

例えば、「あの大学では、過去10年間の入試で毎回確率の問題が出た」ということから、「今年の入試でも確率の問題が出る」と結論づけるのは、前者が本当であったとしても結論が必ず本当である保証はないので、推論ではなく、推測の方です。
(結論が必ずしも本当ではないということは、「今年はさすがに確率の問題は出ないよね」という、正反対の「推測」も可能であるということからわかります。)

こんな感じの説明でどうでしょうか? もしこの説明で分かったら1はクリアしたということになりますが・・・。(サッパリわからない!という人はもっとわかりやすい解説を探してみてください)


2. 正しい推論の具体例を実際にいくつか見て、正しい推論が正しいかどうかを自分で確かめる
(あるいは、必ずしも正しくない推論の具体例を実際にいくつか見て、それらの推論が必ずしも正しくないことを自分で確かめる)


推論とそれ以外のものとの違いを押さえたら、次は推論の具体例を見て、意味をじっくり考えて、自分の「正しい」(あるいは、「必ずしも正しくない」という感覚と突き合わせると良いのではないかと思います。

前回、「すべてのPはQである。」と「xはPである。」という二つの前提から「xはQである。」を導くパターンや、「Pか、もしくはQである。」と「Pではない。」から「Qである」を導くパターンなどを簡単に紹介しました。
こういうパターンの推論の具体例(例えば、「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。したがって、ソクラテスは死ぬ。」)を見たり、あるいは推論のパターンから例を作ったりして、自分が本当にその推論が正しいと思うか、考えてみるのです。

「必ずしも正しくない推論」についても、同じことをするとよいと思います。

これは、推論のパターン(すなわち「形」)と、文の内容が「本当かどうか」という、現実世界(あるいは「もしもこうだったら・・・」と仮定した世界)との対応(「意味」)が、自分の中で実際に一致するかを確認する作業です。


こういう作業をしていく中で、巷で「正しい」と言われている推論が、自分には正しいと思えないような場合に出くわすことがあると思います。
そういうときに、「私はどうせ論理に向いてないんだ」とか、「論理なんて所詮つまらんよ(フッ)」などと思ってやめてしまわないことが重要です。
というのは、そういう例は、じっくり時間をかけて考えたり、勉強を続けて行くことで解決する場合があるからです。

経験からいうと、正しい推論のパターンにのっとった例を「正しいと感じられない」原因の一つに、「そもそも前提が本当であると思えない」というケースがあります。

私は大学1年生の時に、先程も挙げた「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。したがって、ソクラテスは死ぬ。」で見事にひっかかってしまいました。
授業で先生が「有名な推論の例」として挙げているこれが、どうしても「正しい」とは思えなかったのです。
「論理は私の体質に合わないんだ」とすら思いました。

このとき、私は明らかに「すべての人間は死ぬ」という前提のところでひっかかっていました。
当時の私の気持ちを代弁すると、「すべての人間は死ぬ、って言っているけど、そんなの本当かどうかわからないじゃん。大昔から死なずにこっそり生きている人だっているかもしれないし、未来には『死なない人』が出てくるかもしれないじゃん」という感じです。
この言い分はかなりもっともだと、今でも思います。

しかしながら、推論が正しいかどうかというのは、「前提が本当である場合に、結論が必ず本当であるか、それとも本当でない場合があるか」ということで、前提が本当でない場合には推論の正しさを検証することができません。
よって、「前提が本当であるような世界」に頭をセットし、状況を限定した上で、結論が正しいかどうか考える必要があります。

そのような状況はもしかしたら、自分が生きている現実の世界と、微妙に違うかもしれません。
そのような現実と違う世界のことは「判断しにくい」とか「気持ち悪い」と思う人は、前提の部分を自分が「明らかに事実だ」とか「当然」と思える文に変えて、改めて考えてみると良いと思います。

また、数学やゲームやパズルなど、抽象度が高くて、余計な文脈が入り込まない世界について考えるのは特に有効だと思います。


いずれにしても、この段階での目的は、「正しいと言われている推論をむりやり『正しい』と思えるようになる」ということではなく、納得できるところは納得して、じっくり考えても納得いかないところは心に留めておく、というところにあります。

ひっかかるところが多いと嫌な気持ちになるかもしれませんが、論理の勉強を進めて行くと、そういう「ひっかかりポイント」がより高度な論理の研究を生み出していたりするので、問題意識を持ちながら勉強を続けるというのは非常に重要であると思います。

この段階で参考になる本はたくさんありますが、その中の一つとして、とても楽しく読めて、身につまされる「日常の論理の問題」がたくさん載っていて、おまけにパズルでも遊べる野崎昭弘先生の「詭弁論理学」をおすすめしたいと思います。
推論のパターンもいろいろ紹介されていますので、ぜひ読んでみてください。


3. 正しい推論のパターンがどのように定義されるのかを知る。

2で、さまざまな推論の具体例を検討するうちに、「推論のパターンがたくさんあってぜんぜん覚えられない!」と思う人が出てくるかも知れません。
私もそういう理由で論理の勉強に嫌気がさしたことがあります。
しかし、覚えられないことを嘆くのはあまり意味がなかったと思います。
というのは、推論のパターンはいくらでもあって、全部覚えるのは不可能だからです。

この時点からどう先へ進むか?ですが、時間のない人にはとりあえず「よく使うパターンだけ覚える」というのもありかもしれません。
しかし、大学で論理学の授業を受けられる人は、ぜひ受けてみてほしいと思います。

なぜかというと、論理学では、正しい推論のパターンはなぜ正しいのか、正しいパターンとそうでないパターンはどうやって区別されるのか、また見たことがないパターンに出会った時にそれが正しいかどうかをどう確かめたら良いか、等々を学ぶことができるからです。

論理学の授業を取ったことがある人は、命題論理や述語論理の証明問題を解いたり、1や0が並んだ表を書いたりした経験があると思います。
あれには、正しい推論のパターンを「定義」し、正しくないものとの境界を明確にするという目的があります。

私は上の1と2のステップを踏まずにいきなり授業を受けたので、なぜそんなことをするのか訳も分からないまま問題を解いたりしていましたが、推論とはどのようなものかについてある程度分かり、自分なりに問題意識を持った上で受講すれば、しっかりとした「核」のようなものができ、自信につながると思います。


(論理学に興味が出てきた人は、時間的に可能であれば、入門レベルの授業(命題論理や一階述語論理を教えてくれるもの)を2回受けたら良いのではないかと思います。

もし本で勉強するなら、同じ本を「2周」すると良いと思います。

なぜかというと、論理学では常に正しい式や推論の規則の正しさを証明しますが、その証明の過程そのものが論理に従っていることが、2周目以降にわかると思うからです。
これはかなり衝撃を受けるところだと思います。)


4. 日本語と推論のパターンとがどのように対応しているか知る

さて、実際に正しい推論のパターンを意識しながら日本語の文章を書いたり、他人の言ったことを検証するには、日本語と推論のパターンがどのように対応しているかに注意する必要があります。

単純に対応していればいいのですが、実際に私達が普段使っている言語(自然言語)には曖昧性があるので、一筋縄にはいきません。

これについては以前のエントリ(「研究者の言葉とは?(後編) ~「数学語」習得のススメ~」)で書いたので、よろしければご覧ください。


以上、私が考える「こうすればいいんじゃないか」というところについてざっくり書きました。
論理を勉強するときに少しでも参考になりましたら幸いです。

論理的な「分かり方」について ~「推論のパターン」を見る~

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年11月22日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。

(11/26 一部加筆しました)
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ずいぶん間があいてしまいましたが、前回の続きです。
前回は、「論理的な分かり方が分からない」というところで終わったので、今回は「論理的な分かり方とはどのようなものか」というあたりについて、思うところを書いてみたいと思います。

論理というのは、大ざっぱに言えば、推論を行うための知識や技術のことです。
推論とは、これまた大ざっぱに言えば、「あることから、もしそれが『本当』ならば、必ず『本当』になることをを導く」行為です。(注:「推論」には「何らかの前提から何らかの結論を導くこと」というより広い意味もありますが、以下ではこのように「推論」を「演繹的推論」と同義で使います。)

上のように言ってもあまりピンとこない人もいるかもしれませんが、だれでも多かれ少なかれ、日常的に論理を活用しています。
例えば以下のような「推論」は、「論理的な思考ってどんなものかわからない」と思っている人であっても、普通に行っていると思います。


例1:映画館で「毎週水曜日は鑑賞料1000円」という表示を見て、もしその日が水曜日だったら、「今日は1000円で映画が見られるのね」という結論を導く。

例2:朝のニュースでA学園とB高校が高校野球の決勝に残っていることを知り、夕方の帰宅時にスポーツ新聞の見出しに「A学園、惜敗!」と書いてあるのを見て、「ああ、B高校が優勝したんだな」という結論を導く。


上のような推論は、あまりにも「あたりまえ」過ぎて、普段は気にもとめないかもしれません。
しかし、論理というのは、こういうだれもが「当然」とか「あたりまえ」と思うような結論の導き方をすること、つまり人間がもっている「正しい推論というのはこういうもの」という知識に基づいているものです。

とはいえ、論理が、だれもがもっている「正しい推論」の知識に基づいているならば、なぜ論理的な考え方が「得意な人」や「苦手な人」が出てくるのでしょうか。
私は、「正しい推論の『パターン』に対する感覚を鍛えているかどうか」というところに、一つの分かれ目があると思っています。


推論には、パターンがあります。
さっきの二つの例は、どちらも正しい推論のパターンにのっとっています。

例1は、「毎週水曜日は鑑賞料が1000円である」ということと「今日は水曜日だ」という2つの「本当のこと」から、「今日は鑑賞料が1000円である」という別の「本当のこと」を導き出しています。
これは、「すべてのPはQである。」と「xはPである。」という二つの前提から、「xはQである。」を導くパターンです。
Pに「水曜日」、Qに「鑑賞料が1000円」、xに「今日」をいれると元の推論が出てきます。
このパターンは有名なので、知っている人も多いと思います。
「人間は死ぬものである。ソクラテスは人間である。だからソクラテスは死ぬ」とか、「本当に強い男は優しい。俺は本当に強い。だから俺は優しい」なんかもこのパターンです。

例2では、「A学園が優勝するか、もしくはB高校が優勝する」ということと「A学園は優勝しなかった」ということから「B高校が優勝した」ことを導き出しています。
このパターンは、「Pか、もしくはQである。Pではない。したがって、Qである。」というものです。
Pに「A学園が優勝する」、Qに「B高校が優勝する」を入れたら、元の推論になります。

「正しい推論」や「必ずしも正しくない推論」に「パターン」があることを見いだしたのは、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスです。
アリストテレス以降、いわゆる知識階級の人々は、推論のパターンを数多く覚えて、議論に使ってきました。
パターンを暗記するために、今の受験生のような「語呂合わせ」も使っていたらしく、推論のパターンを知っていることがいかに重要だったかが垣間見える気がします。


そのように、推論のパターンに着目して、一体何がうれしいのでしょうか?
一番重要なのは、私たちが「あたりまえ」「当然だ」「そりゃあ正しいよね」と思う結論の導き方の特徴をパターンとして「抽出」することで、さまざまな分野の議論をしたり、考えをまとめたり、より込み入った主張を検証する際の「土台」にできることかと思います。

私たちは普段の生活でしょっちゅう「何が正しいのか分からない」とか「正しいことというのは人によって違うんだ」と言いたくなることがありますが、誰にとっても「あたりまえ」な結論の導き方を共通の基盤にすることで、自分以外の人と同じ土俵に立ち、健全に論を戦わせ、相手を説得したり相手に説得させられたりすることが可能になります。

個人的に、論理を勉強して本当に良かった!と思えたのは、自分の考えがたまたま「正しい推論のパターン」にあてはまり、普段なかなか説得できない先生方や先輩方に納得してもらえた時でした。

それまでは、他人を納得させるには「黒いものも白いと言いくるめるような巧みな話術」とか、「体中からあふれんばかりのカリスマ」とかが必要なんだと勝手に思っていたのですが、その時の私のぐずぐずでぐだぐだなプレゼンにも関わらず先生が「ああ・・・なるほどね」と言ってくださったのを聞いて、大いに驚くとともに、論理の威力を実感したわけです。(ただこれは、相手も論理をベースにしているからこそ可能だったことですが)

これは本当に貴重な経験で、それまでフワフワの雲の上を歩いていて何時落っこちても仕方がないような気持ちでいたのが、そのとき自分の中に初めて「確かな足場」ができたような気持ちになりました。
またそれは、「誰の言うこともすぐ理解できる、ものわかりのいい自分でなくてはいけない」という要らないプレッシャーから解放された瞬間でもあったと思います。


推論のパターンに着目することによる実用的なメリットとしては、「推論が正しいかどうかを判断するスピードが速くなる」ということがあるのではないかと思います。
特に、推論のなかに現れる個々の文の意味が分からなくても、推論が正しいかどうか判断できる場合が「ある」、という体験についてちょっと書いておきたいと思います。

学生のころ、学会で以下のような研究発表を聞いたことがありました。

発表者:「〇〇氏の説が正しいならば、××という現象がみられるはずだ。調べてみたら、実際に××という現象がみられた。したがって、〇〇氏の説は絶対に正しい。」

発表者がこのような話を終えた直後、聴衆の一人がすぐさま手をあげて「今の議論だけでは、〇〇氏の説が正しいということを完全に示せていないように思えるのですが」と言いました。

会場の偉い先生方もその人の指摘にうんうんとうなずいているようだったので、私は「この人はきっとよく勉強していて何でも知っているんだな」とか「頭の回転が早いんだな」と思い、うらやましく、また妬ましく思った記憶があります。
というのは、私はその発表を聞きながら、自分は「〇〇氏の説」がどんなものか知らないし、「××という現象」にも詳しくないので、発表の善し悪しを評価する資格はない・・・と思っていたからです。

しかし今思うと、「〇〇氏の説」や、「××という現象」がどのようなものかを知らなくても、発表者の話の不備は発見できた、と思います。
というのは、各文の内容を完全に理解しなくても、話のパターンをみれば、必ずしも正しい推論になっていないことがわかるからです。

上の発表に使われている推論のパターンは、「PならばQである。実際、Qである。したがって、Pである。」というものです。Pに「〇〇氏の説は正しい」、Qに「××という現象がみられる」が入ります。
このパターンは、必ずしも正しい推論にはなりません。

例えば、「花子が去年津田塾大学の推薦入試に受かったのなら、今彼女は津田塾大学の一年生である(はずだ)。実際、花子は今、津田塾大学の一年生である。したがって、花子は去年津田塾大学の推薦入試に受かったのだ。」というのは、上と同じパターンです。

これを見て、どんなふうに思いますか?
「花子が去年津田塾大学の推薦入試に受かったのなら、今彼女は津田塾大学の一年生である」が本当で(たとえば、指定校推薦で推薦入試に合格したら必ず入学しなくてはならないようなケースを考えてみてください)、なおかつ「実際、花子は今、津田塾大学の一年生である」も本当であった場合に、「花子は去年津田塾大学の推薦入試に受かった」という結論は必ず「本当」になるでしょうか?

「なんで推薦入試で受かったと決めつけるんだろう? 推薦で受からなくても、一般入試とかAO入試で受かったのかもしれないじゃん」と思う人もいるのではないかと思います。
その感覚は正しくて、「花子は去年津田塾大学の推薦入試に受かった」という結論は、必ずしも正しいとは言えません。
「花子は現在津田塾大学の一年生である」ということを可能にするような、推薦入試合格以外の要因(一般入試での合格やAO入試での合格)が容易に考えられるからです。

これと同様に、さきほどの発表でも、「××という現象があるけれど、〇〇氏の説が正しくない場合」の存在を排除していないこと(あるいは、少なくとも聞く側に「そういう場合を排除していないんだろうな」と思わせてしまう「言い方」になっていること)が問題となります。

研究関連の話では、ぱっと意味がわからない用語や、知らない理論や学説が頻繁に登場するため、話の中身についていろいろ考えあぐねているうちに、けむにまかれそうになることが少なくありません。
しかし、上のように「パターン」をみていくだけで、話の根幹に関わることがわかることがあります。

あのとき、とっさにあの発表を「おかしいのでは」と指摘した人も、話の「パターン」に着目して、不備に気づいたのではないかと思います。

そして、当時「パターン」を意識するどころか、「パターン」による議論の検証というのが「あり」だということすら知らなかった私から見ると、そういう素早い判断ができる人がいることは大変脅威に思え、自分の頭の回転の遅さを必要以上に嘆く原因になってしまったのでした。


さて、今回は、どうやって論理的な分かり方・考え方を勉強するかというところまで書きたかったのですが、ものすごく長くなりそうなので次回に回します。
なんだか論理に関しては思い入れが結構あって、その分読みにくい文章になったかもしれませんが、学生のみなさんの参考になりましたら幸いです。

「分かる」ということが分からない

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年07月26日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。
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私はかなり長い間、「自分は理解力のある人間だ」と思っていましたが、大学院に入った頃から「自分にはあまり理解力がないのではないか」と思うようになり、さらに数年後には「自分には、理解する力が著しく欠けているのではないか」と思うようになりました。
このように自信をなくしていく背景には、もちろん理解しようとする対象が難解になったなどの要因もありますが、一番の原因は、それまで自分が習得していた「分かり方」が、ほとんど通用しなくなったことにあった気がします。

「分かる」という言葉には、さまざまな意味があります。
例えば「スリランカの首都の名前が分かる」とか「1192年に何が起こったかが分かる」というのは「覚えている」という意味になりますし、一方「子供のあやし方が分かる」とか「ナイフを持った相手との戦い方が分かる」と言えば「慣れている、数多く経験している」という意味になります。
また、「他人の気持ちが分かる」ような場合は、「共感できる」という意味になるかと思います。

生まれてから研究者になろうとするまで、私にとって「分かる」というのは、主に上に挙げた「覚える」「慣れる」「共感する」の三つであったように思います。
しかし、上の三つとはまた別の「分かる」があること、そしてそれがいわゆる「論理的思考」であることに気づくまで、何年もかかってしまいました。
以下では、「覚える」「慣れる」「共感する」がどう通用しなくなったかを、振り返ってみたいと思います。
 


初めて壁を感じたのは、他人の書いた論文を読み、その中で主張されていることや使われている方法論を「理解し」、「批判的に検討する」段階であったと思います。

最初は、論文を読んでくるように言われたら、内容を「しっかり覚えよう」としていました。
さーっと数回読んで、大体何が書いてあるか「あらすじ」を覚えたら、「だいたいわかった」とか「これ面白いんじゃないかな」などと得意げに周囲の人に言っていたので、当初は「飲み込みが早いね」「器用だね」と言われることもありました。
しかし、いざ「分かるように説明して」と言われると、あまり言葉が出なくなって困りました。
うまく「あらすじ」を説明できたと思っても、

「じゃあこういう場合はどうなる?」
「こういう考え方とは矛盾するの?」
「すべての場合について正しいと言える?」

と聞かれると、何も答えられないのです。
「どのへんがわからないの?」と言われても「わかりません」と言うしかありませんでした。


なんとか理解できるようになろうとして、「とにかくこの分野の考え方に『慣れる』」という戦略も、かなり意識的に使っていました。
つまり先生や先輩をはじめ、その分野の学者がどんなふうに考えているか、また問題に対してどのような答えを与えているかを多く見ることで、パターンを獲得しようとしていたわけです。
必然的に、周囲からとにかく「答え」を引き出そうとすることが多くなり、いろいろ筋道だてて説明してもらいながら「途中はいいから、『一言で言えば結局どういうことなのか』を手っ取り早く教えてくれたらいいのに」と思ったりすることもありました。(本当にすみません・・・>誰となく)

しかしそうやって「パターンをたくさん見て、慣れた」結果、よく分かるようになったかというと、そうでもありませんでした。
理屈を理解しないまま「この場合も、あの場合も、先輩達はそういう考え方をしていた。つまり、そういう風に考えるものなのだ」という把握の仕方をしていたせいで、「疑問をもってしかるべきところ」を見落とすことがたびたびありましたし、「ここはなぜこういうふうに考えるの?」と訊ねられて、「そういうものだから」としか答えられないこともありました。

また、「経験による慣れ」を重く見すぎたことは、特に数学的な言明を理解する上で弊害になった気がします。
数学的に定義されている概念は「書いてある通りに、そのまんま」理解するのが基本ですが、理解する段階で「関連論文を読んだ経験」やら、「日常の言語経験」やらを考え合わせて、余計な「自分流の解釈」をしてしまうことがあるのです。
授業だったか勉強会だったか覚えていないのですが、私がある論文の内容を解説していたとき、その論文に出てくる「aは、Bであるようなすべてのものと、Rという関係を持つ」という言明について、他の学生と以下のようなやりとりをしたことがあります。

他の学生「ところで、aそのものも『Bであるようなもの』の中に含まれますよね。だから、aは、a自身ともRという関係を持つんですよね?」
私「はぁ? 別に持たないんじゃないんですか?」
他の学生「え? どうして?」
私「だって、この論文でも、他の関連論文でも、aがa自身とRという関係になるっていう話は出てこなかったし、あんまり話の本筋に関係ないし、説明したいことともあまり関わりがないから、例外なんだと思います。」
他の学生「はぁ・・・?」
私「それに、ふだん『太郎はすべての人間を嫌っている』とか言う時だって、太郎が嫌っている対象に、太郎自身は入らないことが多いじゃないですか。それと同じだと思うんですけど。」

今思うとよくもまあ自信たっぷりにこういうことを言ったものだと思います。(自分では「結構冴えている」つもりだったと思います。)
ちなみに、問題の論文には、特に定義のところに『ただし、aはa自身とは関係Rを持たない』のような記述はなかったので、やはり他の学生の解釈が正しかったのだと思います。


「分かる」ために「共感する」という方法もとりました。
つまり、「きっとこの人はこういう気持ちでこう言ったのだろう」と「筆者の意向」を読み取ることで主張を理解しようとし、「筆者の意向となんとなく食い違いそうなこと」を見つけることで反論しようとしていたのです。
しかしこれは本当によくなかったと思います。

あるとき、「Aのような場合には、必ずBが起こる」という予測を出す理論に反論してみよ、という課題が出たことがありました。
私は、Aとは別物だけれど、Aと似たA"という場合を観察してBが起こらないことを発見し、それを「反論」として意気揚揚と発表しました。
私としては、「AとA"は似ているから、きっとこの論文の筆者はA"についても同じことを言いたいに違いない。私だって、AとA"は同じように扱いたいし。でも、実際はA"ではBが起こらないので、筆者は間違っているはず」と思ったのでした。
しかし先生から帰ってきた反応は「それは反論になっていないんじゃない?」というものでした。
先生曰く、「この論文ではA"については何も言っていないでしょ。それにここで提案されている理論からだけでは、A"の場合にどうなるか予測が出ないよね。経験的に反論したいなら、『Aの場合にBが起こらないことがある』ことを示さないといけない」とのことでした。
極端な話、私の「反論」は、「魚は必ずえらで呼吸をする」という主張に対して、「クジラは魚と似ているが、えらで呼吸していない。だからその主張は間違っている」と言っているようなものだったのです。
しかし当時の私に分かったのは「自分は分かっていなかった」ということだけで、何が分かっていないのかは分かりませんでした。


ここまで読んでくださった学生のみなさんは、どう思いますか?
これまでの話で私が「分からなかった」と言っているのは、まさに「論理的に理解する」ということです。
論理的な思考が身についている人には、「大学院生にもなってこんなことも分からなかったなんて、情けないなー」と思われているかもしれません。
しかし、もし「私も同じような思いを経験している」という人や、「そもそもこれがどういう話かさっぱりわからない」という人がいたら、その人たちは当時の私と同じように、「論理的に理解する」ことがどういうことなのか、まだ分かっていないのかもしれません。

ものごとを論理的に捉えることの得意・不得意には、かなり個人差があるような気がします。
「特に勉強しなくてもできる人」や「まだ若いのにできる人」が、どうやってその能力を養ったかは、残念ながら私にはわかりません。
「周囲に論理的に話す人が多い環境」にいる人は、論理的な思考法を習得しやすいのかもしれませんが、少なくとも私の場合は周囲に論理的に話してくれる人がかなりいたにも関わらず、「覚える」「慣れる」「共感する」を使っても、そこから「学習する」ことはできませんでした。
結局、一度真正面から「論理学」を勉強するしかなかったように思います。


「分かる」ということが分からなかった数年間は、非常に大きな虚無感の中で過ごした辛い時期でした。
「本当に自分は分かっていないのか?」「分かっていないとしたら、何が分かっていないのか?」と、いくら考えても分からず、体調の悪い時などは「みんな私のことが嫌いだから、『あんたは何も分かってない』って言っているのでは!?」のように、とんでもない被害妄想に陥ったこともありました。
「この分野には、実は『追求すべきこと』など何もないのではないか」と思ったことすらありました。
このような状態から抜け出した過程については、次回以降に書いてみたいと思います。

「言われたとおりにしてるのに!」と思うとき

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年06月21日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。

*6/23 一部加筆・訂正しました。
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一般に、ものごとの修得には、守・破・離の三つの段階があると言われます。
その中で、最初の「守」は、「師匠の言ったことを忠実に守る」段階であるそうです。
研究者になる途中段階においても、とりあえず誰かの指導の下に入り、その人の指示に従ってみることがあるかと思います。

(補足:このあたり、人によっても分野によっても、また指導教官の方針によっても違うかと思いますが、私自身は研究指導を受けた際に、一定期間「言われたとおりのことをしてみる」という時期が確かにありました。以下の話は、過去の私と似た状況にいる学生に向けて書いたものですので、ご了承いただけますと幸いです。)

「言われたとおりのことをする」と聞くと、機械的に言い付けを守っていれば良さそうで、ある意味楽だと思う人もいるかもしれません。
しかし、研究に限らず、指導者に言われたことをまじめに実行しようとしても、うまく行かないことがあります。

以下、完全に個人的な体験と見解に基づくものですが、なんらかの指導を受ける上で「言われた通りにした(あるいは「しようとした」)のに、うまくいかない場合」をいくつか並べてみました。

・先生の指示が不明瞭だったりあいまいだったりする。
・先生の言うことがコロコロ変わる。前回言われたことと、今回言われたことが矛盾しているように思える。
・先生の意向に沿うようにしたのにダメ出しをくらう。

以下、順番に考えてみたいと思います。
  
  

その1:先生の指示が不明瞭だったりあいまいだったりする。


先生から降って来る指示には、具体的なものから抽象的なものまで、さまざまです。
とりあえず「あとは自分で考えてきてね」のようなものは、本当に自分でああでもない、こうでもないと考えてみるしかないのですが、私の学生時代を振り返ると、「このテーマについて発表して」とか「この論文の内容をまとめてきて」のような、比較的具体的なタスクをちょっとあやふやな言葉で指示された時に、結構失敗したことがありました。

あやふやな指示をされた場合は、頭が混乱しますし、また「もしかしてこういうことかな」と当たりをつけてやってみたら、先生から「言ったことと全然違う。何やってたの?」などと言われてガッカリすることもあります。
また、「最初からもっと明確な指示をだしてくれたら、完璧にやってのけたのに!」と、つい先生に責任を押し付けたくなることもあるかと思います。

ただ、私も指導をする側になってわかったことですが、一発で完璧な指示を出すのは、なかなか難しいことです。
これにはいろいろな要因があって、うまく言葉を選べなかった場合もあれば、先生から見れば当たり前と思っていることが学生に共有されていないがゆえに、結果的に言葉足らずな指示になってしまう場合もあります。

このような状況で極力失敗を防ぐための方策は、指示の内容に明確なイメージが持てるところまで、先生に問い合わせることであるかと思います。
可能ならば、「何のために」「いつまでに」「何を」「どうする」の各ポイントを、ある程度先生から引き出すことが重要です。
特に、「来週の授業でこういうテーマについて発表してね」のような類の指示があったときは、「何のためか」を押さえるのが重要になることがあります。
(私自身、この点を確認しなかったために、結果的に先生の思惑から大幅にはずれたトンチンカンな発表をして、何度か悔しい思いをしました)

「これをする目的は、私はこういうことかと思ったのですが、この理解でいいですか」「論文の内容をまとめればいいのですか、それとも自分の意見も述べるべきですか」など、自分の意図が見えやすく、相手が答えやすい質問ができるよう、ふだんから心掛けておくことも有効です。
これは研究にかぎらず、あらゆる仕事においても通じることと思います。

経験から言うと、「こないだ先生が言ってたあれはどうしたらいいですか」のような聞き方は、極力しない方が賢明かと思います。
まず、「何についての質問か」を自ら明確にせず、相手に特定させるような話し方は、特に忙しい思いをしている相手にとっては煩わしいものであるようです。
また、「〇〇はどうしたらいいですか」という質問の仕方は、相手によっては「この人は自分の頭で考えることを放棄しているのでは?」と思われてしまう可能性があります。
私も一時期、とにかく質問すればいいと思って「〇〇はどうしたらいいですか~」を連発していたら、「ちょっとは自分で考えたら?」と注意されたことがあります。

本当に「どうしたらいいかさっぱりわからない」という時は、先生に少しまとまった時間をとってもらって相談するとよいと思います。
特にメールや文書での「書かれた指示」というのはあいまいになりがちなので、ちょっとわからないと思ったら、直接会って確かめる方が、間違いが少なくなると思います。

(補足:主にこのあたりについて、「先生の立場から自分本位な言い逃れをしているように見える」という主旨のコメントをいただきました。
確かに、上では指示を出す側の落ち度については棚に上げて、ただ「学生がこうすべき」としか書いていないので、もっともなご意見であると思います。

ただ、大学の研究室における先生と学生の立場というのは、どちらかというと、先生側の落ち度が指摘されにくい・責められにくい環境ではないかと思うのです。(先生の出す指示を逐一監視する人や、学生からの「先生の指示の仕方が悪い」という程度の訴えを受け入れる立場の人がかならずしも居ないという意味で)
もちろん、理想としては、先生と学生の両方が相互に理解に努めるべきだと思うのですが・・・実際問題として、学生が先生の落ち度を指摘したりするというのは、かなり困難なのではないかと思っています。
そのような環境で失敗を最小限に抑えるには、学生にとっては大変なことと思いますが、指示を受けたらそのつど上手に立ち回ることではないかと思い、書いてみたら「学生はこうすべき」ばかりの上のような文章になってしまった・・・という次第です。

また別の方から、「内容確認の質問をしただけでも怒る人がいる」というコメントをいただきました。
この辺は本当に難しいところだと思います。
ただやみくもに情報を引き出そうとすると、相手によっては、また状況やタイミングによっては相手の機嫌を損ねてしまうことがあります。
この点、私もたくさん失敗しているので、いずれ取り上げたいテーマだと思います。

読んでいただき、コメントを下さった方々、本当にありがとうございました。)


その2:先生の言うことがコロコロ変わる。前回言われたことと、今回言われたことが矛盾しているように思える。

こういうことを思ったことのある人は、結構いるのではないでしょうか。
先生の言うことが一貫していないように思えると、「本当にこの人についていて大丈夫?」と、ちょっと不安になります。
しかし、「もう先生なんか信用できない!」と嘆く前に、最低限、以下の2つことが起こっていないか、確認する必要があると思います。

<ものごとの一面しかとらえきれていない場合>

研究指導の過程において、学生はたいてい「こういう場合はこうするものだ」と学習し、一般化を積み上げながら前進しようとするのではないかと思います。
ただし、その一般化は「なぜそうなのか」という原則がわかり、そこからその一般化が帰結することが確かめられるまでは、「仮説」に過ぎません。
仮説が仮説であることを認識していないと、それが成り立たない場合があることをつきつけられた時に、「先生は矛盾している」「先生の言ったことを忠実に守ったのに、なんか裏切られたみたい」と思ってしまうことがあります。

研究の話で良い例が思いつかないので、ちょっと恥ずかしいのですが、私の「家事修行」の話をしたいと思います。
私は、何もできない、何も知らない状態から家事をほぼすべて義母に教わりました。
最初はとにかく何もわからなかったため、見て聞いて覚え、自分なりに解釈・一般化してなんとかノウハウを積み上げようとしました。
特に具体的に数値化すると覚えやすいので、例えば「まぐろの刺し身は厚さ1センチ弱に切る」とか、「胡麻和えのたれには酢を大さじで二杯入れる」など、その都度メモをして丸覚えするようにしていました。
ヘマをやらかす回数を減らそうと、とにかく必死だったのです。

しかしある日、まぐろの刺し身を覚えたとおりに「1cm弱」に切っていると、義母からストップがかかり、義母自ら切り直し始めました。
曰く、「これだと厚すぎるから、もっと薄く切らないと」と。
えー、前に習ったことと違う!と思いましたが、その後義母は切ったまぐろをオリーブオイルとニンニクと和え、ベビーリーフと盛り合わせてサラダにしていました。
できあがったご飯を食べながら、義母に「醤油とわさびで食べるなら1cm弱でいいけれど、野菜と和えるならもう少し薄い方が見た目も食感もいいでしょう」と教えられて、なるほどと思いました。
と同時に、単純に「まぐろは1cm弱」と一般化して、分かったつもりになっていたそれまでの自分の「分かり方」には、問題があったと思いました。
私が義母から学ぶべきだったのは、料理の際には常に「完成した時の見栄え」や「もっともおいしいと思える食感」を予測しながら行動しなければならないという「原則」であり、そこから帰結する「状況に応じたまぐろの切り方」であったわけです。

研究においても同じで、一面しか見えていない場合は「先生の言うことは一貫していない」と思えても、全体が見えると実は一貫しているということがあると思います。


<指導者が成長している場合>

私が大学院生のころ、指導の先生の言うことがたまに大きく変わることがありました。
「あれ? この前はこういう方針で進めるって言ってなかったっけ?」と混乱したのを覚えています。

おかしいと思って聞いてみたところ、先生は、「ああ、そういえば前にそう言ったかもしれないね。でもあの後、こういうことを新しく勉強して、今までと違うことを考えたんだよね。そのことをきちんと話してなかったね」とおっしゃって、経緯を説明してくださいました。
それを聞いて私は、「先生も新しいことを勉強して、成長するものなんだ!」とびっくりしてしまいました。

学生からみると、先生というのはすでに完成されていて、それ以上はあまり成長しないように見えます。
しかし、先生もやっぱり成長します。
先生が新しいことを学んで、それ以前とは違う考え方を身につけた場合、それが指導の方針に大きく影響するということもあります。
そういうとき、学生としては少々混乱するかもしれませんが、「先生の成長をじかに見る」ことこそ、実は大変重要なのではないかと思います。
私自身、学生の自分よりもはるかに勉強する時間がないはずの先生が、ものすごい勢いで新しいことを身につけていること、また先生になってもそれほど努力しなければならない奥深い世界であることに大きなショックを受け、愕然としました。
今では、その時点で「愕然とする」ことができて、本当にラッキーだったと思っています。


その3:先生の意向に沿うようにしたのにダメ出しをくらう。


以前、ある学生さんの発表を聞いていた時、聴衆の一人が「なぜ〇〇理論で説明しないんですか? あなたの研究内容なら、〇〇理論を使うことを考えると思うのですが」と質問したことがありました。
すると、その学生さんが「私の先生が『〇〇理論は駄目だ』と言っていたので」と答えたので、ちょっと驚いてしまいました。

その後、その学生さんの先生に会ってそのことを話したら、「確かに雑談しているときにそういう言い方をしたかもしれないけど、単にいくつか問題があると言っただけで、全然ダメだなんて言っていないんだよね。まさか学生にそういうふうに解釈されていたとは思わなかった。後でちゃんと注意しとかないと・・・」とおっしゃっていました。


おそらくこの学生さんは、先生の言うことに忠実であろう、先生に合わせようという気持ちが強くて、上のような判断をしたのだと思います。
しかし、以下の二つの意味で判断を誤っているため、結果的に先生の意向にも合わなくなってしまっているように思います。

まず一つめの誤りは、研究においては、先生と責任を分担する面と、自分が全面的に責任を負う面の両方があることを見落としている点です。
研究をどのようなスケジュールで進めるかや、何をもって研究が進んだ、あるいは完成したとみなすかは、先生の判断に従わないと埒があかないことが多いと思います。
しかし、研究において具体的に自分がどのような立場をとり、何を提案するかにおいては、最終的には自分で責任を負わなければなりません。
たとえ、先生が「こういう立場をとって、こういうことを提案しよう」と言って、それに従うことになったとしても、話は同じです。
他人から「なぜそうしたのですか」とたずねられたら、自分の責任で答えなくてはなりません。


もう一つの誤りは、学説や理論を評価する時に、なんとなく「よいかよくないか」の二つに分けて線引きをしていることです。
上の学生さんは、先生が「〇〇理論には問題がある」と言ったのを聞いて、「〇〇理論は駄目なのだ」と解釈しました。
おそらくこの学生さんの頭の中には「よい理論」と「駄目な理論」の二つのカテゴリがあり、先生の「問題がある」というコメントや、その時の先生の雰囲気などを根拠に、問題の理論をなんとなく「駄目なもの」として分類してしまったのだと思います。

もちろん、私達はふだんの生活で、「いいか悪いか」「快か不快か」「好きか嫌いか」「白か黒か」のように、物事をとっさに二つのいずれかに分類して片付けることがよくあります。
その根拠もあまり論理的なものではなく、どちらかというと直観的であることが少なくありません。
どこかに一本線を引いてものごとを二つに分けるというのは、あまり頭に負担がかからないので、個人的であまり重要でないことを処理するのには、実は適しているかも知れません。
それに、とっさの直観というのも結構侮れないものだと、個人的には思います。

しかし、研究における評価や判断は、多かれ少なかれ公になる性質のものですし、論理や証拠をもって、それが正当であることを他人に伝えなくてはなりません。
また、判断のために十分な根拠を持たないときは、白黒つけずに「保留」すべき場合もあります。(このあたり、内田麻理香氏の「科学との正しい付き合い方」(DIS+COVER サイエンス)で論じられています。この本はいずれ詳しく取り上げようと思いますが、興味のある人はぜひ読んでみてください。)

先生の指導に従うというのは、「先生が『よい』と判断したものをよいと思い、『よくない』と判断したものをよくないと思う」ということではありません。
むしろ、いずれ自分でさまざまな判断ができるようになるための「やり方」を、先生から学び取ることであると思います。
上述の学生さんのように、先生が「あれは問題があるよね」のように言うのを聞いた場合は、即座に「そうか、あれはだめなのか」と判断せずに、「どの点に問題があるのか」「先生が何を根拠にしているのか」「どのような筋道を立てて、そのような結論を導いているのか」について先生からできるだけ聞き出し、その上で「自分はそれで納得するか?」と自問してみると良いのではないかと思います。



以上、長々と書いてしまいました。
改めて、「先生の指導に従う」というのは、その響きとはうらはらに、学生の自主性が大いに問われることであると思います。

なぜそうなのか?を考えてみると、やはり「数年後に独り立ちしなくてはならない」からであると思います。
研究指導を受けるというのは、山登りの達人と一緒に実際に山を登りながら、次は一人で安全に登れるように、知識や技術や心構えを学び取ることに似ていると思います。
慣れない足で必死でついて行きながら、師匠がどんな格好をして、どんな持ち物を持っているか、登るときのペースや姿勢はどうか、いつもどんなことに気をつけているか、移り変わる状況をどのように判断しているか・・・などに気を配り、仮説を立てて、質問して確かめて自分のものにする・・・ということが必要になります。

学生さんからすると、知力も体力も精神力もギリギリのところでの勝負が続くと思いますが、ここを耐えきると得られることがたくさんありますので、頑張ってほしいものだと思います。

師から学ぶということ

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年05月17日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。
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島本和彦先生のマンガ「吼えろペン」第11巻に以下のような場面があります。

主人公のマンガ家・炎尾燃のもとに、新人マンガ賞に応募するという若者が作品を見せにきます。
炎尾は、作品をもっと面白くしようとして「ああしろ、こうしろ」と指示を出します。
するとその若者は次のように言うのです。

「炎尾先生に言われたままやっちゃったらそれは・・・もうボクの作品ではなくなっちゃうじゃないですか!!」

この場面を読んで、思わず「うーん」と唸ってしまいました。

私も学生(特に修士)のころ、研究指導を受けている時に、何度もこのようなことを思ったからです。(口には出しませんでしたが)
 
 
当時私はよく指導の先生から、「どうして研究テーマをころころ変えるの?」と言われていました。
なぜかというと、「何かを思いつく → 先生に話す → 先生からダメ出しが入り、もうちょっと考えてくるように言われる → やる気をなくす → 別のテーマに興味を移す」というサイクルを何度となく繰り返していたからです。
特に、先生に話した結果自分の考えていたことと方向性がずれた時は、「それだと『私の研究』じゃなくなる」と急激に興味をなくしていました。

これだけ書くと、当時の自分はよほど自信があったかのように錯覚しますが、実際は逆ではなかったかと、今になって思います。
つまり、他人から学んでいくだけの覚悟がなかった、またそうやって大きな力を得られる自信がなかったから、「自分の研究じゃなくなる」という理由をつけて逃げていたのではないかと。
他人の言うとおりにすることが嫌で仕方がなかったために、なんとか手持ちの能力に毛が生えた程度で乗り切れる、エアポケットのようなテーマを探していたのではないかと思うのです。


実際、他人から学ぶ、他人の言う通りに何かをするというのは、大変苦しいことです。
世の中には、それでも他人から学ぼうとする人と、自己流でなんとかしようという人がいます。
もちろん自己流でもなんとかできればいいのですが、私が知っている限り、そうやってだれもが認める高い能力を得られる人というのは、ほんの一握りしかいません。

なぜ多くの人は自己流でうまくいかないのか?についてはすでに論じ尽くされているとは思いますが、私は初心者というのはたいてい「『これでいい』と思う基準が甘い」ことが大きな要因であるように思います。

例えば修士のころの私は、「私の研究にはどこかいいところが存在する」ことを、他人に認めて欲しいと思っていました。
「いいところ」とは、例えば「視点」だったり「考え方」だったり「発想」だったり、それ自体自己評価で怪しいものなのですが、それでもどこかいいところがあるなら「それでいい」と思っていたわけです。

しかし、当然のことながら、「どこかいいところがある」だけでは、プロの仕事にはなりません。
例えばフルコースを出すレストランで、スープはとても美味しいけれど他の料理がことごとく不味かったら、経営が成り立たないのと同じであると思います。
研究論文ならば、いかに客観的に素晴らしい面があったとしても、論旨に矛盾や不備があってはいけないし、従来の研究との関係や研究の新規性も明確に述べなければならないし、体裁や文章にも気を遣わなければなりません。
つまり、あらゆる面で一定の基準を満たさなくてはならないわけです。

そのような「完成品」を作るためには、自分ではつい大目に見てしまうような点や、苦手だから放置したくなるような点にも手を加える必要があります。
そのためには当然、「プロである他人の目」にさらされ、その指摘を受け入れることが重要になってきます。


また、自己流がうまく行きにくい別の要因として、「自分の想像だけで作り上げた上達論がなかなか通用しない」こともあるかと思います。

たぶん本学の学生さんで見たことがある人はいないと思いますが、「四角いジャングル 格闘技オリンピック」という1970年代の格闘技ドキュメンタリー(?)映画があります。
その中に、ケンカ日本一を目指す若者たちの特訓シーンがあります。
その特訓方法が実にバラエティに富んでいて、例えば「木からつるしたサンドバッグに逆さまにしがみついて、地面に散らばったマッチ棒を数えることで動体視力を鍛えようとする人」やら、「ローラースケートを履いて滑りながら蹴りや突きの練習をする人」などが登場します。
そして、独自にあみだした修行法で鍛練を積んだ猛者たちが、ケンカ日本一を決める試合の会場に乗り込んで行くわけです。
しかし結果はどうなるかというと・・・空手かボクシングをちょっぴりかじったことのある相手に、あっさりと負けてしまいます。

もちろんこれは映画の話なので、そこにどれほどのリアリティがあるか不明です。
しかし、自己流で強くなろうと思う人の「こういう練習をすれば強くなれる」という見込みが、実際の結果とかなりずれていることを端的に表していて面白いと思いました。

自己流で頑張ろうとしているときは、「こうすればこうなるはずだ」という確信があり、したがって「なぜそうするのか」を疑問に思わずに、比較的気持ち良く取り組むことができます。
これに対して、他人から教わる場合は、特に初歩の段階であればあるほど「なんでこんなことをしなくてはならないの?」「こんなことしても意味なくない?」と腑に落ちないことがしばしば生じます。
教える側も最初は「迷わずやれよ、やればわかるさ」としか言いようがないことも多く、学ぶ側からすると非常に気持ちの悪い思いをすることもあるかと思います。

しかし一通り身につけてみると、改めて「ああ、こういうことだったのか」と納得できることが少なくありません。
武術ならば、姿勢や呼吸、型や歩き方などの地味で単調な練習の中に、大切な意味がいくつも隠されています。
学問でも、指導者の断片的なコメントや質問、本に出てくる抽象的な議論など、最初は「なぜそうしなければならないのか」はっきりしないことの中に、いずれ一人で研究および新しい知識の習得ができるようになるために必要なことが、少なからず含まれています。
したがって、自分でゼロから上達論を組み上げて試行錯誤するよりも、先生から指導を受ける方が、はるかに効率が良い場合が多いのではと思います。


他人を師と仰いで学ぼうと決意するのは、なかなか難しいことではないかと思います。
すんなり抵抗なくそれができる人は、大変素晴らしい素質をもっていると思います。
ゲーテも「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(岩波文庫)の中で以下のように述べています。

「音楽家が弟子に、乱暴に絃をかき回したり、音程を好き勝手に考え出したりすることを許すでしょうか。この場合、学ぶ者の我儘に任されるものは何もないということが目につきます。学ぶ者がしなければならないことは決定的にあたえられています。彼の扱う道具は手渡されますし、その上、それの使い方も、つまり指の動かし方も、あらかじめ決められています。ひとつの指は、ほかの指のために道をあけ、あとから来る指のために正しい道を用意しなければなりません。このような法則にかなった協同によってのみ、不可能なことも可能となるのです。
 こうした厳しい要求や、決定的な法則が正しいということをもっともよく証明してくれるのは天才です。生まれながらの才能をもつ者こそが、それらを最初に理解し、もっとも喜んで守るのです。生半可な才能にかぎって、自分の局限された特殊性を、無条件に完全なものだと考え、自分の間違ったやり方を、抑えることのできない独自性だとか、自立性だとかと言って美化したがるのです。そんなことを認めるわけにはいきません。」
ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代 中 pp.173-174


先日、大学院生の方々を指導する機会に恵まれ、学生さん達の素直さと粘り強さに感銘を受けたので、このような文章を書いてみた次第です。
皆さんには引き続き、頑張っていって欲しいと思います。

「〇〇って何?」の恐怖

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年04月12日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。
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研究発表のときにもらう「一番怖い質問」って何でしょうか?
学部生の頃にアルバイトで参加した学会で、発表者が聴衆から「今の発表は、私が数年前に発表した論文とまったく同じ内容ですが、どういうことなのですか?」と問い詰められているのを見て、心底恐ろしいと思いました。
しかし、いざ研究者を目指して見ると、もっと怖い質問がいくつもありました。

私にとって一番怖かったのは、「〇〇って何?」という形の質問、特に「研究にとって重要な概念の定義をたずねる質問」です。

この手の質問はパッと聞いた感じ、ものすごく簡単なことを尋ねられているように聞こえることもあるので、最初はよく「なんで今さらそんなことを?」という気持ちになったものでした。

特に、ちょっとばかりまじめに勉強をして、「私成長した!」と思っている時に先生から「〇〇って何? 定義は?」と質問をされると、不届きにも「あれ、もしかして、先生あんまりわかってない? フフフ」などと思ったものです。(無知って恐ろしいですね・・・。本当にすみません(誰となく))

しかしそういう気分も束の間、調子に乗って「この概念はナントカという人が198X年に提唱した概念で、もともとコレコレという現象を説明するために導入されたんですけど、それはたとえばどんな現象かというとこんな現象で、これはこの概念を使うとこういうふうに説明されて・・」などと勉強したての知識を述べようとすると、「そんなことはみんなわかってるから、とにかく定義を」と言われます。

そこではたと立ち止まって考えます。「あれ? 定義って、なんだっけ・・・。」


苦し紛れに、「〇〇っていうのは、◇◇とかのことです」などと口走ったら最期、その後は
「『◇◇とか』、って何? それは定義じゃないでしょ」
「ええとその、◆◆も入ります」
「△△は?」
「たぶん入ります・・・」
「★★は?」
「すみません、わかりません・・・もっかい考えてきます・・・」
と、あえなく撃沈となります。

前回ご紹介した新井紀子先生の「数学は言葉」(東京図書)によると、定義で一番重要なのは

「Aという事柄を定義できた、とは、どんなものについても、それがAかどうかを論理的に判定できなければいけない。」

ということです。
したがって、上の会話で私がしたような「その概念を誰が何のために提唱したかや、どんなふうに使われるかを述べる」ことや、「『◇◇とか』のように例を挙げる」ことは、定義とは呼べないことになります。
私が答えるべきことは、「それを聞いた人があらゆるものについて、それが〇〇かそうでないかを論理的に判断できるような情報」であったわけです。

学生のころは、定義について時間をかけて考えたり、本で「定義をめぐってああでもないこうでもないと言う議論」を読んだりすることが、正直言って全く好きではありませんでした。

あのころは、細かい定義なんかどうでもいいから、「とにかく早く何か自分の意見を言いたい!」という思いが強くありました。
それに、定義というものがそれほど重要だとも思っていませんでした。
試験で「〇〇の意味を書け。」という問題に答える時に必要なもの、というぐらいの認識でした。


しかし、自分が使う概念の定義をわかっていないということは、ただ単に「用語の意味を知らない」という知識の問題にとどまることではありませんでした。
少なくとも、科学的な方法に基づいた研究の場合、仮説や理論の中に使われている概念の定義がわからないと、「間違っているかどうかが確かめられない」という問題が起こることがあります。

仮に、ある人(Aさん)が、「おやつ」についての論文を書いたとします。
そして論文中で「おやつ」が何であるかを明らかに定義しないまま、「人間はおやつを食べると、必ず体内でBという反応が生じる」という説を提唱したとします。
その論文を読んだ人が実際に実験をして、「人がバナナを食べても、体内で反応Bが起きないことがある」ことが分かりました。
Aさんの説は間違っていることになるでしょうか?

遠足のたびに「バナナはおやつに含めないこと」を信条としている人なら「バナナの実験だけではAさんが間違っているとは言えない」と思うかもしれません し、また別の人は「私の子供のころは物がなくて、バナナは最高のおやつだった。だからAさんの説は間違っている」と言うかもしれません。
「バナナなどと贅沢な。わしの時代はふかしイモや煮干しがおやつだったぞ。煮干しで実験せい!」という方も出てくるかもしれません。

しかしいずれにしても、当のAさんが「おやつ」をどう定義しているかわからない限りは、本当に間違っているかどうかわからないのです。
定義をはっきりさせない限り、Aさんは、「バナナは、ここでいう『おやつ』には入りません」と言って逃げることができます。
また、たとえその後の実験でじゃがポックルやきのこの山、ねるねるねるねやキャベツ太郎でも反応Bが出なかったとしても、Aさんはそのつど「それらも例外で、ここでいう『おやつ』には入らないから」と言うことができます。

実はAさんのいう『おやつ』が「午後三時きっかりに食べる文明堂のカステラ」だけという、かなり特殊でインパクト控え目の説だった場合でも、Aさんが明確 な定義を与えなければ、それなりに一般的なことを言っているような印象は保てますし、「間違わないでいる」ことが可能です。
(ここでは「おやつ」という言葉を使ったので、「あれも例外、これも例外」と言われているうちにだんだん「Aさんの言うことはおかしいのではないか」と思えてきます。しかしより抽象的な概念だと、変だということになかなか気づけないことがあるので、やっかいです。)

説が間違っているかどうか確かめられないなら、決して間違わないんだからそれでいいじゃない、と思う人もいるかもしれません。
しかしそれは同時に「正しいかもしれない説」として生き延びることもありません。
結局、科学という観点から見れば、「何も言っていない」ことになるわけです。

定義をきちんとすれば、自分の言うことが思いのほかショボく見えてしまうこともありますし、「はっきりと間違う」可能性が出てきます。
科学的な研究では、「はっきり間違うこと」の方が、「間違っているかどうか確かめられないことを言う」よりも価値があると言えます。
少なくとも、前者の方は新しい知識の獲得に何らかの形で貢献しているからです。


しかしながら、「定義をする」ということは決して簡単ではなく、私自身含め、苦手に感じる人は少なくないようです。
新井紀子先生の別の著書である「生き抜くための数学入門」(理論社)の最初の部分には、「円周率とは何ですか?」という問いに対するさまざまな「珍答」があげられています。
その種類の多さ、また正しい定義を答えられる人の割合が世代を問わず低いことからも、定義という行為は難しいことなのだなと思います。

では、定義をする力をつけるために必要なことは何か?についてですが、「生き抜くための数学入門」には、「一人ツッコミ」ができるようになることの重要性が述べられています。

実際この本では、数学の概念の定義について生徒たちが愉快な議論を繰り広げ、そこに先生の「ツッコミ」が入ります。
生徒たちの反応が実に絶妙で、「そうそう!やっぱりそう思っちゃうよね!」といちいち共感してしまい、そしてそれに対する先生の切れ味鋭い説明、そしてそこから見えてくる「すべてが定義された数学の世界」の神秘、数学と人生とのかかわりにフェ~っと感嘆させられる本です。

読んでいるうちに、いつのまにか「こういう定義はどうか? ――いやそれは定義とは呼べないよね」とか、「この定義は悪くないはず。 ――でも、こういうものを除外してしまうよ」のように一人問答ができるようになり、読む前よりも思考のレベルが深くなるのがこの本の面白いところです。


また、プラトンの「メノン」(岩波文庫)を読んでみるのも面白いと思います。
この本は、アテネを訪ねて来たメノンという若者が、ソクラテスに「徳は人に教えることができるか」と尋ねるところから始まります。

ソクラテスは自分が「徳それ自体がそもそも何であるかということさえ知らない」と言い、そこから徳の定義についての問答が繰り広げられます。
メノンは知的好奇心あふれる好青年で、ソクラテスの言うところによれば見た目も美しいのですが、ちょっと知ったかぶりで失礼なことも言います。

最初メノンは「自分は徳とは何かを知っている」と思っており、少し上から目線でソクラテスに教えようとするのですが、それがいかに定義になっていないか、そして定義とはどのようにすべきかが、ソクラテスによって明らかにされていきます。
休日の午後などにお気に入りのカフェで、メノンの「若造ぶり」を味わいながら、ゆったりと「定義」について考えるのも悪くないと思います。


最後にもう一つ、定義ができるようになるために必要なものを挙げるとすれば、「研究という活動に対する誠実さ」であるかと思います。

私にとって、「定義」は単に難しいだけでなく、何よりも勇気の要ることでした。
というのは、「自分の論点の、誇張のない本当の姿を見る」そして「もし間違っているなら、だれの目にも明白な形で間違う」という覚悟が必要だったからです。

「自説を実際よりも大きく見せたいな」とか、あらかじめ「こういう風な結論に持って行きたいな」という気持ちが強いときは、なかなか明確な定義ができませんし、定義の一貫性を保つことも難しくなります。

「〇〇って何?」という質問が怖かった本当の理由は、そのような自分の不誠実さや弱さ、研究に真っすぐ向かって行けない歪んだ思いを暴かれるような気がしたからかもしれません。


今回の話は、私が学んできた分野にちょっと片寄った話になってしまったような気がします。
概念の定義のスタイルや意義は分野によって違うでしょうし、また研究者が自分で定義をしなければならない機会の多さも、分野によってさまざまかと思います。
しかし研究者になる上では誰もが通る道だと思いますので、研究者を目指す人は、「〇〇って何?」という質問をもらった時は特に慎重に、じっくり考えてみてほしいと思います。
くれぐれも、この手の質問を甘く見ないように・・・。


*(謝辞)今回の話は、前回の話に久保順子先生(津田塾大学女性研究者支援センター特任助教)がつけてくださったコメントから着想を得ました。久保先生有難うございました。

「研究者の言葉」とは?(後編) ~「数学語」習得のススメ~

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年03月12日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。
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研究の場において「言いたいことが伝わらない」場合には、「使う概念の定義ができていない」、「アイデアそのものに不備がある」、「論旨がしっかり固まっていないうちに口に出してしまっている」などなど、さまざまな原因があるかと思いますが、全部取り上げると大変なので、前回に引き続きここでは言葉の問題を取り上げたいと思います。
特に、構文の曖昧性によって生じる「言いたい内容と言った言葉の間のギャップ」に注目してみたいと思います。

例えば、日本語でよく使われる「XはYである」のような形の文があります。
ここではXには普通名詞、Yには普通名詞や形容動詞語幹が入るようなものを考えます。
(例えば、「リンゴは果物である」「ライオンは危険である」「学生は大酒のみである」「芸術は爆発である」など。)

学生の頃の研究発表で、よく「XはYである」という形の文を使って自分の主張を述べていたのですが、即座に「ふむふむ、そうか、XはYなんだ~。」と納得してもらうことや「それはおかしい!間違っている!」と反論されることはあまりありませんでした。
たいていの場合、「XはYであるってどういうこと?」と言われ、もっと明確な言い方で主張を言い直すよう求められたと思います。
というのは、この形の文には曖昧性があり、いくつかの異なる意味があるからです。

まず挙げられるのは、「すべてのXは例外なくYである」「あるものがXならば、それは必ずYである」という意味です。
「りんごは果物だ」のような文は、このような意味で使われていると解釈するのが自然です。
というのは、現実に、すべてのりんごは例外なく果物であり、逆にいえば、「りんごであって、果物でないようなもの」は存在しないからです。

他方、この構文には、「一般にXはYである。(しかし例外もありうる)」という意味もあります。
「ライオンは危険だ」のように言う場合は、このような意味、つまり「一般にライオンは危険である」という意味で使われていると解釈した方が自然かと思われます。
というのは、「リンゴは果物である」の場合と異なり、たとえば年寄りで歯も爪も抜けて動けないような「全く危険ではないライオン」がこの世のどこかに存在して、私がそれを知っていたとしても、「ライオンは危険である」と発言することが必ずしも不適切にならないからです。
つまり、例外が認められるわけです。

これに、時間や状況なども加味すると、「Xは常に/どんな場合でもYである」、「XはたいていYである」のような意味も出てきます。
また、あまり研究の場では用いられないかもしれませんが、Xが特定のものを指す場合(宴会の会場で学生が一人しかいないときに「学生は大酒のみである」と言う場合など)、隠喩を表す場合(「芸術は爆発である」など)も考慮に入れると、可能性がさらに広がります。

日常的な場面では、「XはYである」という構文がどの意味で使われているかをはっきりさせなくても、あまり困らないかもしれません。
しかし、研究においてはここがはっきりしなければ、主張が明確にならず、正しいか間違っているかを論じることが困難になる上、間違った推論に惑わされてしまうこともあります。

あまり良い例ではありませんが、例えば、ある人が、いくつかの根拠から、「一般に、日本人は金持ちである。(しかし、例外もありうる)」という結論を得たとします。
しかし、もしそのことを「日本人は金持ちである」という曖昧性のある文を使って発表したら、聞いた人の中に「ああ、すべての日本人は(例外なく)金持ちなのだ」と勘違いする人が出てくるかもしれません。
論理的に、「一般に日本人は金持ちである。(しかし、例外もありうる)」という前提から、「すべての日本人は(例外なく)金持ちだ」という結論を導くことが不可能であるにもかかわらず、です。
「XはYである」のような曖昧な文を使うことによって、「一般にXはYだ」を「すべてのXはYだ」にすり替えることが容易になってしまいます。

このような「すり替え」は、自分の頭の中でものを考えている場合にも起こり、考えがまとまらなくなる原因にもなります。
私は昔から「物事を突き詰めて考える」ことが非常に苦手なのですが、性格的な要因はさておき、自分の考えを表現したり覚えておいたりするのに、曖昧性のある文を平気で使っていたことも、大きな原因であった気がします。
日本語なり英語なり、私たちが話す言語、つまり自然言語の持つ「曖昧性」を意識し、それによって生じる「言いたいこととのギャップ」や「論理的な誤り」に気をつけることは、人と話すときのみならず、自分で理解したり考えたりする上でも非常に重要なのではないかと思います。


現役の研究者の方々は、何らかの方法でこのような「自然言語の曖昧性」に気をつける訓練をされ、言いたい内容と自分が実際に発する言葉とのギャップを埋める術を身につけていらっしゃると思いますが、中でも「外国語で言いたいことを言う」ことで鍛えられた方はかなり多いのではないかと思います。
というのは、外国語を使う場合には、「自分が話したい内容は厳密にはどのようなことなのか」「それを、外国語でどのように表すのが最も適切なのか」を考えなければならないことが多く、結果的に「自然言語の曖昧性」と、「言語とは独立の『意味内容』の存在」を意識させられるからです。

例えば、日本語を母語とする人が英語で何かを言う場合、名詞の単数形と複数形の使い分けやaとtheの使い分けの際に、日本語では必ずしも意識しなかった「私が言いたかったことは一つのものについてのことか、それとも複数のものについてか」「不特定のものについてか、特定のものについてか」ということを改めて考えさせられることがあるかと思います。
逆に、英語を母語とする人たちは、日本語の仮定の「たら」と「れば」の使い分けや推量の「ようだ」と「らしい」の使い分けをする際に、同じような経験をしているかもしれません。

私にとっても、英語で言いたいことを言う訓練はずいぶん役に立ったと思いますが、「言いたい内容と言った言葉の間のギャップ」を自分で「体系的に理解できた」と思ったのは、数理論理学と形式意味論を勉強したときでした。

数理論理学は記号論理学とも呼ばれ、∀とか∃とか∧などの記号を使うものです。
論理については、記号を覚えなくても気軽に学べる本がたくさん出ていますが、あえて数理論理学を勉強する利点は、「論理を構成する、曖昧性のない人工の言語」が学べるというところにあるかと思います。
日本語とも英語とも、世界で話されているどの自然言語とも異なる、「曖昧性を排除した人工言語」を学ぶことによって、自分が言いたいことの「本当の姿」と、論理的に正しい考え方の「骨格」が見えるようになります。

また、形式意味論というのは言語学の一分野で、きわめて大雑把にいえば、私たちの話す言語の意味を、論理を構成する「曖昧性のない人工言語」を用いて体系的に表そうとするものです。
私はこの分野を勉強したことで、自然言語がいかに曖昧であるかが理解できましたし、自然言語と論理との対応を意識する訓練にもなりました。

ただ、数理論理学と形式意味論を勉強するというのは、近い分野の研究者でもない限り、あまり多くの人にお勧めできないかな・・・と思っていました。
しかし昨年、素晴らしい本が出版されたので、ご紹介したいと思います。

新井紀子(著) 数学は言葉

タイトルにもあるとおり、これは数学の本なのですが、数学を「言葉」として捉え、あたかも外国語を勉強するように身につけるという珍しい本です。
実際にこの本では、外国語の勉強と似た形で「数学語」の文法を学び、「和文数訳」と「数文和訳」をトレーニングし、「日本語」と「数学語」の間を自由自在に行き来するためのスキルを身につけることができます。
数学の教科書の難解な日本語が理解できずにつまづいてしまった人は多いかと思いますが、なぜそこでつまづくのか、そして「数学」は本来どのように「読むべき」なのかを、これほど掘り下げて解説した本はこれまでになかったかと思います。

しかし、私が一番驚いたのは、この本が実は「数理論理学」と「形式意味論」を学ぶための「入口」にもなっている点です。
この本で学ぶ「数学語」とは、先述の、論理を構成する「曖昧性のない人工言語」に他ならず、「和文数訳」のトレーニングは、私たちが形式意味論の研究で試みる「自然言語の意味の論理による記述」と大きく重なるところがあるからです。
したがって、「研究者の言葉」習得のためのトレーニングに非常に適した本であると言えます。

「研究者の言葉」を学ぶ上で何年も苦労した人間としては、もっと早くこのような本に出会っていれば・・・と思います。

最近、学生さんから「アイデアがまとまらない」「言いたいことが伝わらない」という相談を受けると、必ずこの本を薦めることにしています。
研究者を目指す方は、分野を問わず、ぜひこの本を活用して欲しいと思います。
研究者の言葉はもちろん、研究に役立つ多くの貴重なことが学べると思います。

「研究者の言葉」とは?(前編) ~日常言語との違い~

*以下は、津田塾大学女性研究者支援センター(http://cwr.tsuda.ac.jp/)の教員が学内SNS「うめこみゅ」内で連載しているリレー・エッセイ「研究のススメ」において、私が執筆し、2010年02月01日に公開したものです。

本来は、研究に興味のある学内の学生向けですが、担当者の許可を得て、加筆・修正したものを掲載します。
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思えばもうかなり昔の話なのですが、大学院に入ってしばらくたったころ、「なんだか最近、先生方に話が通じないな」と思うようになりました。
学部4年生までは、それなりに分かってもらえている感じがしていたのに、修士に入ってからは、自分の考えを話しているときも、他人の論文から読み取ったポイントを発表しているときも、「それじゃ分からないよ」と頻繁に言われるし、知っていることを総動員して説明してみても通じない。
自分はもしかして、学部の頃よりも頭が悪くなったのだろうか・・・とよく落ち込んでいました。

この「通じない」「わかってもらえない」原因が、自分が発している「言葉」のせいだということが分かるまでに、かなり長い時間がかかりました。
「どうやら、私が生まれてからずっと日常的に使っている言葉と、研究者が使う言葉は違うらしい」と。
今思うと、4年生までは「日常語」で話しても聞いてもらえたことが、修士に入って先生方が学生に対するハードルを上げたために、「研究者の言葉」で話さないと聞いてもらえなくなったという、単純なことだったようです。

私たちは、普段の会話では、内容の薄いことをなんとなく言ってしまうし、またそれでもたいていの場合、それなりに相手に分かってもらえます。
例えば、「50年後って、わたし生きてるか死んでるかのどちらかだよねぇ」のような、よく考えたらあたりまえのことも、ついつい言ってしまうことがあります。
こういった発言そのものにはほとんど情報量はありませんが、仲のいい友達だったら、この発言に至った気持ちや意図を理解してくれるのではないかと思います。

また、明らかに矛盾している発言があっても、ふだんは追及しないまま受け流すことも多いかと思います。
先日、喫茶店で近くに座っていたカップル(?)が、こんな会話をしていました。

「私のまわりの男って、全員自分勝手よね!」
「あ、じゃあオレも?」
「○○くんは自分勝手じゃないよ!」

私は思わず「アンタさっき『全員』言うたやないかい!」と心の中でツッコミを入れてしまいましたが、男の子(○○くん)は「あ、そう? オレ、実は結構自分勝手だよ」みたいなことを言ってニコニコ笑っていました。

また日常的な場面では、定義が良く分からない言葉を定義をしないまま使っても、いちいちとがめられることはあまりないと思います。
よく耳にする「若者が希望をもてる世の中にすべき」のような発言も、よくよく考えると、若者とは何歳以上で何歳以下なのか、希望を持てるとはどういう状態なのか、世の中とは何を指しているのか、また一体だれがそれを「すべき」なのかはっきりしませんが、なんとなくみんな自分の中にある「若者」「希望」「世の中」と「そういうことをすべき人」についてのボンヤリした了解をもとにして、同意したり反対したりするのではないかと思います。

しかし、研究においては当たり前のことや、矛盾したことは主張にはなりえませんし、たとえどのような「意図」や「気持ち」で言ったとしても、そのような「言外の意味」は汲み取ってもらえません。
「言葉になっていること」「言えていること」がすべてになります。
また、発言の中に一体何を指しているのかがわからない言葉があれば必ずと言っていいほど指摘され、定義を求められます。

これは、研究の世界が単に「厳しい」とか「うるさい」からというわけではなく、「そうしなければ、研究の目的である『新たな知識の獲得と伝達』ができないから」です。

「新たな知識」は、私たちがすでに知っていることから導き出される多くの可能性の中から、更に「真実ではありえないもの」を少しでも削ぎ落とせるような情報である必要があります。
可能性を全く削ぎ落とさないような情報、どうにでも解釈できるような情報、曖昧な情報は「新たな知識」とは言えません。
対象のあり方を限定するような情報を見極め、そしてそれを他人と共有できるようにする行為を「研究」と考えるならば、自分の頭の中で考える際にも、また他人に伝える際にも、使う「言葉」の厳密さに気を使う必要があるわけです。

私はかなり長い間、自分が口にする言葉の厳密性をほったらかし、「気持ち」で発言をしては分かってもらえず、「なんでわかってくれないの? わかってちょうだいよ!」とイライラすることを繰り返していましたが、大学院や留学先でお世話になった先生方や先輩方のご指導のお陰で、「研究者の言葉」の重要性に気づくことができました。
そしてそれまで「研究者の仕事」に対してなんとなく持っていた、「知的で高尚で面白げなことを言う」というイメージは、必ずしもこの仕事の中心に来るものではない、ということも身にしみて分かりました。

ではどうすれば「研究者の言葉」を身につけることができるか?についてですが・・・。
いまだに「研究者の言葉」をうまく使いこなせず、気づけば元の「気持ちトーク」に戻ってしまう私が言うのも何なのですが、まず第一歩は、普段から、自分が意味のないことや、あやふやなこと、矛盾したことを言っていないか、意識する癖をつけることではないかと思います。

普段の生活でそういったことを一切言わないのは難しいですし、仲間と楽しく過ごしている時なんかはそういうことを気にしていられないかもしれませんが、たまに自分の口から出た言葉を思い返して、あれはよく考えたら意味がなかったな、矛盾していたな、全然違う意味にもとれるな、と気づくことは良い練習になると思います。

「研究者の言葉」についてはまだまだ書きたいことたくさんあるのですが、一度に書くと長くなるので、残りは次回に回そうかと思います。