2019年8月
1930年代植民地台湾の「癩文学」を読む 雑誌『萬壽果』における本島人の作品を中心に
臺灣文學研究集刊
ダウンロード
回数 : 49
- 巻
- 22
- 号
- 開始ページ
- 71
- 終了ページ
- 94
- 記述言語
- 日本語
- 掲載種別
- 研究論文(学術雑誌)
1930年1月、臺湾総督府は臺北州新荘郡に癩療養所楽生院を開設た。 1934年10月に「癩予防法臺湾施行ニ関スル法令」が施行され、癩病患者の強制収容が始まった。「無癩州運動」では在臺内地人も臺湾人も収容の対象となった。こうした背景のもとで1934年に創刊された楽生院慰安会の機関誌『萬壽果』には、収容された患者のさまざまな文学作品が掲載されている。蝕まれていく身体や、帰れない故郷‧肉親への思いを、彼らは文学表現に託したのである。植民地で癩を病んだ内地人だけでなく、臺湾人が日本語で創作した短歌もある。
1930年代の半ばは、北條民雄や明石海人らの「癩文学」が日本内地の文学界で注目を集めていた。しかし同じ病に冒された患者の文学作品でも、臺湾で創作されたテクストには、植民地ならではの要素が含まれている。
本報告は、これまでの臺湾文学研究では取りあげられることのなかった日本植民地期の「癩文学」を、『萬壽果』雑誌に掲載された本島人の作品に焦点をあてて論じるものである
1930年代の半ばは、北條民雄や明石海人らの「癩文学」が日本内地の文学界で注目を集めていた。しかし同じ病に冒された患者の文学作品でも、臺湾で創作されたテクストには、植民地ならではの要素が含まれている。
本報告は、これまでの臺湾文学研究では取りあげられることのなかった日本植民地期の「癩文学」を、『萬壽果』雑誌に掲載された本島人の作品に焦点をあてて論じるものである
- ID情報
-
- ISSN : 1818-5649