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文理の分断を超えて:何も言っていない、言葉のようなもの

ここでは、コロナウィルスの検査をめぐって、いわゆる「理系」の人といわゆる「文系」の人の双方から、何も言っていない、言葉のようなものが、ほぼ同様の何も言っていなさで発せられたことを簡単に確認しておきたいと思います。原発事故発生時もそうでしたしコロナウィルスをめぐる議論もそうですが、一部で文理の違いを強調するような意見がある中、思考に相当しない言葉のようなものはそれを発した人の文理の専門とかかわらない例としてあげておきます。また、少しだけ分析もしておきます。[1]

 

1. ここで検討する、言葉のようなもの

一つめは、大阪大学菊地誠教授による、2020年2月25日の以下のツイートです。この先生は「理系」です。

検査万能派の人に言いたいのですが、検査してコロナだと分かったって、今はまだ特別な治療法があるわけじゃないんですよ。対症療法をしつつ免疫系が頑張るしかないんで。無駄な検査で医療機関を混乱させると、普通の肺炎の人まで助からなくなるかもですよ。冷静に考えたほうがいいと思いますよ[2]

二つめは、「社会学者」の古市憲寿氏が2020年2月26日、フジテレビ系「とくダネ!」で行った、次のような発言です。

検査を受けても新型コロナウィルスは特効薬もないわけですし、基本的に自宅で安静、重篤化したら病院に行くっていうわけで、検査結果がどうであれ、対応は変わらないわけですよね

[小倉智昭は「でも人にうつさない・・・」と、判明すれば人にうつさない行動を取れるとしたが、古市氏は]肺炎であっても、インフルエンザでも人にうつすべきではなくて、陽性だろうが陰性だろうが行動は変わらないのに、なんでみんな検査を受けたがるんだろうとすごい不思議[3]

 

2. 共通する点

この二つには、いくつか共通点が見られます。主なものをあげておきましょう。

第一に、「検査万能派」「みんな」のように、実際にどのような対象を指すかを、議論に必要な解像度で示すには不十分な表現が使われていることです。「万能」を三省堂大辞林第3版で引くと「すべての物事に効能があること。万事に役立つこと。」とあります。もっと検査をすべきと主張している人の中で、検査をすれば「(関連する)すべての物事に効能がある」と言っている人は、少し調べた範囲では、いません(皆さんも調べてみてください)。「みんな」については、そうでない主張をしている人たちは(ご本人も含め)すぐに見つかります。

第二に、検査の役割を、個人に対する治療行為との関係に矮小化していること。コロナウィルスは感染症で、社会的な対応が、短期間で求められるものです。検査はどのような対応を取ることが効果的か・必要かを判断するための基本的な情報を提供します。例えば、東京大学物性研究所の押川正毅教授は、シンガポールの感染ツリーに検査の情報が役立っているとして、次のように述べています。

PCR検査は精度がどうのとかケチをつけて、やる価値がないとか寝言を言ってる人はこれを見るべし。
シンガポールで解明されているCOVID-19の感染ツリーです。このような解明にはPCRももちろん活用されており、感染拡大の防止あるいは抑制に役立っているのは明らかです。[4]

実際、どのように感染が広がっているのかを近似的にでも把握できていない場当たり的な対応で混乱を引き起こすことは、政府の「対策」に現れています。[5]

検査の役割を個人への対応の問題のみに限ってしまうことが(第一の発言では「医療機関を混乱させる」といった表現が出てきますが、ここでも医療機関を社会的な基盤として見る視点は特にありません)意図的なものなのか単に発言者の認識力の不足によるものなのかはわかりませんが、政府がやるべきことをせずに個人の行動を指図するという最近よく観察される傾向とよく合致してはいます。[6]

個人の治療行為についても、極めて短期に対応の手立てが開発されている中(もちろん安全性の検証等色々なハードルはありますが)、また、重症化させないことが重要である状況で、やることは変わらないなどと言い切るのは、科学に対しても社会に対しても、不適切です。

第三に、これは少しメタな話ですが、「冷静に考えたほうがいい」「すごい不思議」と、発言者は考えることができている、他の人々の評価をすることができていると思っていることです(これ自体は、すぐ上の二つだけでも、すでにそうではないことが強く示唆されているわけですが)。こうした表現の存在はこれらの言葉のようなものが対象をめぐる認識を真面目に立てようとするものではなく相対的な勝ち負けを目的としているものであることを示唆しています。

 

3. 個別に、それぞれ一つずつ

これらの共通点に加え、それぞれについて不適切なところもあります。

一つめの発言では、最初に「検査万能派」と言っておきながら、第三文では「無駄な検査で」と言っていて、ほころびがみられます。少し調べてみると(またそれぞれ調べて見てください)、検査をするようにと主張する人たちの多くは、必要な検査がなされていないと述べているのであり、無駄でもなんでも検査さえすればよい、などとは主張していません。実際には、発言者本人も「無駄でない検査」の必要性を認めていることがこの「無駄な検査で」という表現から推測できます。であるからこそ、検査を求める人たちを批判するために、適切な検査を求めているのではない人として描き出す必要があり、それが「検査万能派」という存在しないものに言及していることと対応しています。

二つめの発言では、「インフルエンザでも人にうつすべきではなくて」とインフルエンザを引いていますが、インフルエンザは基本的に検査体制ができていて、検査されていて、それによって、休むか休まないか等の判断がなされている現実があることをなぜか無視しています。科学・社会だけではなく、厚生労働省の活動に対しても、まっとうな理解をしていないことが伺えます。厚生労働省のガイドラインやQAはすぐに出てきます。[7] 

 

4. これらの、言葉のようなものが意味があるものと見なされることで持ってしまう効果

したがって、実際には、これらの発言は、有意味なことをほぼ何も言っていません。問題は、これらが、それにも拘わらず、意味がある言葉と見かけ上同じようなかたちで流通してしまっていることです。これを真に受けてしまうと、実際には存在しない「検査万能派」や全く適切ではない「みんな」といった対象があたかも実在するかのように見なされ、存在に対応した妥当な言葉による本来あるべき対策をめぐるまっとうな議論が阻害されます(これが「あるべき対策」をめぐる見解の相違をめぐる議論とは異なるレベルにあることに注意してください)。

科学は、捏造や剽窃では破壊されません。捏造や剽窃が真っ当な科学であるかのように見なされ、真っ当な科学と区別されなくなるときに破壊されます。言葉は、嘘や無意味発言それ自体によっては破壊されません。それらがまっとうな意味を担う言葉と同等に扱われることで破壊されます。[8]

 

5. これらの、言葉のようなものが示していること

最後に、これらの、言葉のようなものが何も言っていないことが認識されたという前提のもとで、ここで検討した二つの発言について得られる結論を(フローベールの警告にも拘わらず)与えておくと、次のようになるでしょう。[9]

菊地誠氏の発言も古市憲寿氏の発言も言葉としては何も言っていないが、そのような発言がなされたという事実は、それを発した人たちが、文理の分断を超えて、ともに、社会的・公共的に意味のあるかたちでこの問題を考えることができていないことを示してはいる。

社会の営為も思考の営為も、その場その場でスマートっぽく見える空疎な発言にではなく、一つ一つ、存在を構成する要素に対応した要因を考慮し積み重ねる地道な認識に支えられています。

 

注・参照・参考など

[1] ここで分析する言葉の問題の少なからぬものは、Informal logical fallacyとして、パターン化され分類され名前が付けられていたりしますが、ここでは対応づけて紹介することはしません。関心のある方は、

  • van Vleet, J. E. (2011) Informal Logical Fallacies: A Brief Guide. Lanham: University Press of America.
  • Walton, D. (2008) Informal Logic: A Pragmatic Approach. Second Ediciton. Cambridge: Cambridge University Press.

等をご覧ください。前者は薄いです。後者は索引まで含めて347ページ。昔はこういうの馬鹿にしていましたが、分類された体系にしたがってラベルを貼る練習をするのは大切だとこの10年くらい、とりわけ「主体性」を重視する「情報リテラシー」関係者の一部の方々を見て、思うようになりました。なお、この文章のテーマとは全く関係ありませんが、慶応義塾大学関係者が「早慶戦」ではなく「慶早戦」と言うのは聞いたことがありますが、理系の人でも「理文」という人を今のところ知りません。

[2] https://twitter.com/kikumaco/status/1232251697583443969

[3] デイリースポーツ「古市憲寿氏 新型コロナ検査『なんで受けたがる?』 結果分かっても『対応は変わらない』」 なお、私は「とくダネ!」そのものを見ていないため、発言は記事からの引用となります。発言の一部を切り出したことから趣旨を誤解している可能性はなくはないのですが、記事での発言の引用が部分であるとはいえそれなりに正確だとすると、文脈によって大きく変わることはないと判断できそうです。原発事故発生後にも被曝の検査を否定しようとする動きがありました。study2007『見捨てられた初期被曝』(岩波科学ライブラリー)を参照してください。

特に興味深いことでもありませんが、「医師・ジャーナリスト」の村中璃子氏が2020年2月26日のツイートで次のように書いています。

しかし、なぜ皆そんなに新型コロナの検査をしたいのでしょうか。/治療は原則、何の病原体が原因で風邪をひいても同じだし、何が原因で重症肺炎になっても同じ。/感染を広げないための検査と隔離だし、重症肺炎の人を救うためのトリアージです。/不思議。

古市憲寿氏の発言ととても似ています。また、検査をしろと言っている人たちは、疑わしい症状で検査を求めても拒否された人でなければ、基本的に「感染を広げないための」出発点である「検査」を十分なレベルで行うべきと言っています(そして疑わしい症状で検査を求めることは全員検査をしろということとは違います)。なお、日本医師会が2020年2月27日付会長横倉義武名義で安倍晋三首相に出した要望書には、要望の一つに「医師の判断によるPCR検査を確実に実施する体制の強化」があります。

[4] https://twitter.com/MasakiOshikawa/status/1233165110538956800

[5] twitterアカウント@ytkhamaokaのtweetから得た情報ですが、『WHOの標準疫学』(日本語pdfへの直接リンクです)152ページ「Box 7.6 サーベイランスの活用」には、次のようにあります。古市氏の発言が発言としていかに無意味で空疎なものか、また発言の手続きとしていかに不適切かがわかります。

サーベイランスは,疫学的活動にとって不可欠で,以下のような目的で実施されます。


● 個別もしくは集団発生症例を検出する。
● 発生した症例の公衆衛生学的影響と動向を見積もる。
● 疾病の原因となる要因を検査・測定する。
● 予防対策,介入戦略,保健政策の変更などの効果やインパクトをモニター
し評価する。
● 必要な医療的対策を計画し提供する。


流行の程度を推定しその動向をモニターするだけではなく,サーベイランスデータは以下の目的にも活用することができます。


● 政治や行政のコミットメントを強めるために情報提供を行う。
● 市民社会を動かす。
● 投入すべき資源について提言する。

WHOと中国の合同調査チーム報告書 Report of the WHO-China Joint Mission on Coronavirus Disease 2019 (COVID-19) では、唯一の有効な対策は公衆衛生的な対策だったと述べています。そして感染が見られる国に対して、以下の対策を取るよう求めています(p. 21-22)。

  1. 最高レベルの対応プロトコルを即座に発効し、政府全体・社会全体でCOVID-19封じ込めに必要な公衆衛生的な対応をとること。
  2. 積極的かつ包括的なケースの検出と即時の検査と隔離、接触者の丁寧な追跡と濃厚接触者の厳密な検疫。
  3. COVID-19の深刻さと伝染を避けるために人々ができることについて、公衆に完全に理解してもらうこと。
  4. 非典型的肺炎患者全員の検査、上気道症状を持つ一部患者及び/あるいはCOVID-19暴露者へのスクリーニング、既存のサーベイランス体制にCOVID-19ウィルス検査を追加して、COVID-19感染経路を同定できるようにすること。
  5. 感染経路を遮断するために必要なさらに厳重な措置(大規模集会の中止や学校・職場の閉鎖)を発動するための計画策定とシミュレーションをセクタ横断的に行うこと。

菊地誠氏・古市憲寿氏・村中璃子氏の発言が空疎であるだけでなく不適切であることがよくわかります。

[6] 2015年12月9日に厚生労働省が2014年度の「国民健康栄養調査」結果を発表しました。その際、「所得が低い人は栄養バランスのよい食事をとる余裕がなくなっているのではないか。食事の内容を見直すなど健康への関心を高めてほしい」と述べています。本来、行政の任務は、所得に拘わらず、バランスのよい食事が取れる環境を整備することなのですが、それを放棄して、自己責任化していることがよくわかる発言です。コロナウィルスへの対応についても、現在、政府は休校を要請したりイベント自粛を要請していますが、政府がなすべきことは本来それぞれの意思決定を行う人たちが対応したときの不利益を最小限に抑える環境と制度を整えることです。

[7] ちなみに、厚生労働省の資料を見ると、検査に対して感度や特異度を問題視する視点が不適切であることもわかります。「診断や治癒の判断は、診察に当たった医師が身体症状や検査結果等を総合して医学的知見に基づいて行うもの」といった表現は、厚生労働省の関連資料に複数出てきます(この引用は厚生労働省の「インフルエンザQ&A」から)。誰も(解像度を「検査万能派」とか「みんな」に合わせてみました。この文脈では怒られないと思います)PCR検査結果がすべてとは言っていません。

[8] 一部のポストモダンや「現代思想」関係者はまさにそのような言葉の無化に貢献してきました。文系の一部の方はもしかすると古市憲寿氏と千葉雅也氏を区別した方が良いと考えるかもしれませんが、私が分析した表現の範囲では対象と問いの誤認や社会的実在に関する解像度の低さという点で似通っています。社会的事象をめぐって公共的な認識を立てるために参照すべき領域の確定、内包と外延の操作、概念のレベルの操作、量化子の操作、妥当な演繹の利用、帰納的推論に求められる一応の条件等、思考に必要な基本的スキルをほとんど身につけないまま緩いというよりもだらしのないアナロジーっぽいものを発動させれば考えることになると意識さえせず見做してしまっているがゆえに考えると呼ぶに足らない言葉のようなものを発しながら自らは考えていると思っているように見受けられるこうした状況には多少の痛々しさを感じますが、それはまあこのケースに関しては私の責任でもありません。ちなみにここで確認したように文理を超えて観察されるものなので、数理の訓練とは別にこの部分は考慮されなくてはならないということになります。

[9] これらの言葉のようなものが発せられたという事実をめぐり、一応、発せられた言葉のようなものにはそれを発した人がいるので、それらを発した人にも言及しますが、発した人に関心があるわけではありません。