MISC

2008年

「慰霊空間の中心」形成のなかで:沖縄県糸満市における戦没者納骨堂/慰霊碑の歴史地理

日本地理学会発表要旨集
  • 上杉 和央

2008
0
開始ページ
51
終了ページ
51
記述言語
日本語
掲載種別
出版者・発行元
公益社団法人 日本地理学会

<BR><B>1.「慰霊空間の中心」</B><BR> 沖縄本島南部に位置する糸満市は,沖縄戦最期の激戦地として著名であり,摩文仁ヶ丘を中心とした一帯は「慰霊空間の中心」として整備されている。この一帯が「慰霊空間の中心」として位置づけられたプロセスについて,主に琉球政府や沖縄遺族連合会による公的なコメモレイションの場の創出と,戦後復興の柱としての観光地整備という側面からは,既に明らかにした(上杉 2006)。今回は,現地調査の結果をもとに,政府や産業界,遺族連合会が南部戦跡整備に動いていた同時期における地元住民の対応について,3分類して報告する。<BR><BR><B>2.骨抜きの納骨堂/慰霊碑</B><BR> 戦後直後,現糸満市域の各地には納骨機能を備えた慰霊碑(納骨堂/慰霊碑)が数多く建立されていた。しかし,1950年代以降,現糸満市域が「南部戦跡」として観光地化されていくなかで,「観光コース」に位置した納骨堂/慰霊碑は,「お粗末」であるという世論もあり,そのほとんどが那覇の「戦没者中央納骨所」に転骨された。そして,骨抜きの納骨堂/慰霊碑は破壊されたため,結果的に,集約された「慰霊空間の中心」の現出に寄与することになった。<BR> その背景には,戦没者に対する地区住民の選択的位置づけがあった。破壊・消去を容認した地区に聞き取り調査を行うと,納骨された戦没者は「地区外の者」とみなされており,生者の生活も苦しい中,「地区外」の死者を祭祀する余裕などなく,また地区住民が管理するよりも「中央」で慰霊されるべきと判断したのだと言う。<BR><BR><B>3.気骨あふれた納骨堂/慰霊碑</B><BR> 一方で納骨された戦没者には「地区内の者」も含まれると判断した地区(現在は真壁・国吉・真栄平の3地区)では,地区内で骨を管理し,慰霊行事を行うことの意義を強く説き,転骨を拒否した。平成に入ってから改修工事を行うなど,維持管理には概して積極的である。記念碑が「地域の記憶」の創出・共有装置として機能する,という議論にもっとも当てはまる事例といえる。<BR> ただ,1995年に転骨を実施,その後納骨堂/慰霊碑が破壊された糸洲区の事例からも分かるように,石に刻まれた記憶が永続するものではない点も忘れるべきではない。<BR><BR><B>4.気骨の折れた慰霊碑建立</B><BR> さらに,転骨には応じたものの,「慰霊空間」の維持(=代替慰霊碑の建立)を求めた地区も存在する(真栄里・新垣・喜屋武の3地区)。代替慰霊碑は「中央」の南部戦跡整備政策との関係のなかで決定されたものであり,建立には複雑な経緯があった。現在においても,建立者の名義は沖縄県遺族連合会,慰霊祭実施は各地区となっている。ただし,各地区の「地域の記憶」からは,このような過程に関する記憶は,失われている。<BR> 記念碑は,ある「地域の記憶」を記録するが,その記憶の周辺部に漂う「地域の記憶」を忘却させることに寄与している可能性がある。「記憶の場」ならぬ「忘却の場」としての記念碑の位置づけについて検討する価値はあろう。<BR><BR>(参考文献)<BR>上杉和央 2006.那覇から摩文仁へ-復帰前沖縄における「慰霊空間の中心」-.20世紀研究7:29-52

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http://ci.nii.ac.jp/naid/130007015150
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  • CiNii Articles ID : 130007015150
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