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大喜多 紀明のブログ

社会主義と迷信

昭和2年に出版された『加藤咄堂氏大講演集』(大日本雄弁会)では咄堂の言葉を次のように紹介した。

社會主義はこゝでいふ迷信ではないかも知れんが、社會の状態さへ直せば人間がよくなると思ふことは確かに迷信である。人間が今日困つて居るには貧富の懸隔である、そこで平均する所の社會制度さへよくすれば人間は樂になるのである、斯う云つて居るけれども、いつぞ私が申しました通り平等々々で行けば不自由になる。

<中略>

社會さへ直せば人間が直ると思つて人間は自由意思を持つて居る靈的動物と見て居らなかつたといふことが根本的誤まりである。

さらに、咄堂は、ドイツの哲学者であるオイケンの「社会主義の理論物質さえ直せば精神がよくなると思つて居る一つの誤謬を有つて居る、又社會主義は人生の一面を見て全面を見て居らん。全面を見て居らんから斯ういふ缺陷に堕して居るのである。今日吾々の考ふべき問題は全體としての人間を見なければならぬといふことである」という言葉を引用した。

唯物的な思想によって構成された社会主義の欠陥が、人間の霊的側面を無視するところにあると咄堂は看破した。こうした考えに基づき、社会主義を迷信と位置づけたのである。

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加藤咄堂の反宗教運動批判

昭和8年に出版された加藤咄堂の『素人禅:咄堂漫談』(新興出版社)では、反宗教運動に関する咄堂の意見が述べられている。

此頃、左翼運動の一部から反宗敎が絕叫せられて、少からぬ動搖を宗敎界に與へて居る。これも矢張りマルクス主義の盲目的模倣に基くので、日本の事情や其宗敎特質に就て檢討したものではないが、彼等が宗敎其者に關心を有し來つたことは注目に値する。

宗教に全く無關心のものは、反宗敎の考だも起さぬ、ソンナものは何うでもよいといふ無宗敎の態度で、宗敎とは没交渉だが、反宗敎となると、少くとも宗敎其者を研究した結果でなければならぬ。少しも宗敎といふことを知らずしては、これに反對することも出來ない筈だ。反對するには反對するだけの理由がなければならぬ。其理由は研究の結果でなければ發見することが出來ないので、何等研究の勞を執らず頭から排斥せんとしたからとて、誰が承知しよう。今日の反宗敎運動には稍々此趣きがありはしないか。

彼等は或は「宗敎は研究する價値のあるものではない」と、豪語するかもしれないが、價値の有無は研究の結果斷定せらるゝものであつて、研究せずして價値なしとは、どうして斷定するか。彼等はマルクスが反對したから、之れを繼承し追随し模倣するといふ外、何物をも有して居らない。


咄堂は、まず、左翼による反宗教運動が少なからぬ勢いであり、それにより宗教界が動揺している現状を述べた。そのうえで、こうした運動はマルクス主義を盲目的に模倣したに過ぎず、日本の宗教的特性を理解した運動ではないと主張した。

また、咄堂の説によれば、マルクス主義の批判の前提にある宗教はキリスト教であり仏教には該当しない部分が多い。さらに、彼らが批判する「宗教」の概念そのものが漠然としている。つまり、彼らが主張する独自の宗教観を構成したうえで、これを批判しているに過ぎない。かかる概念が明白ではない限り、排撃の標的が明確になることはない。

咄堂の主張は全人主義である。唯物論でもなく唯心論でもない。

人は木偶の如き物質ではない、自由を求むる心靈の働きがある。

人は無形の存在ではない、物質的な肉身を有するものである。

此兩面を見ずして一面を見るものは片人を見て全人を見ざるものであり、全人を見ずして社会現象を批判せんとするものは一種の擔板漢たるを免れない。オイケンをいふ。

自然の要素は物であつて人ではないが、社会の要素は人であつて物ではない。


咄堂の全人主義とは、人間を霊肉の統合体として見る主義であるといえる。こうした全人主義に基づいて社会を評価すべきであるという。

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精神鑑定と赦免

1943年に出版された、精神科医の式場隆三郎による『戦争と脳』(式場1943)には以下のような記述がある。

私はこの本のほかのところで、發明妄想や誇大妄想のある患者をかかる際に利用するのも一法であるやうに述べたが、戦争を妨害する妄想患者のあることも注意しなければならない。

 精神が健全な人間だつたら、この重大な時局に際して、國家のために有害なことは出來ない筈である。スパイ行為をしたり、反戦的な言動のあるものは、精神の健康なものとはみられない。

 さういふ人々はよろしく精神検査をやつて病症がみつかつたら精神病院に収容し、國家のうける損失を防止しなければならない。

 妄想は外に現はれないうちにはなかなか見破ることは難しいので、どこにどういふ妄想をいだいてゐる人間があるかはなかなか分りにくい。しかし、少しでもさういふ氣配をみせるものがあつたら、猶豫せず厳重な検査をする必要がある。

精神が健全であれば国家の利益に沿う発言をする。一方、かかる利益に沿わない発言があったとすれば、その理由は、発言者の精神に問題があるからである。こうした人たちは外形的には見破れない。したがい、兆候があれば躊躇せずに精神鑑定をおこなうべきであるという。

簡単にいえば、反国家的な発言者は精神病患者である。そうであるからには入院させ隔離することが必要である。同時に、当該発言者の責任は問われない。

こうした論理により、島津大逆事件の島津治子は不敬罪に問われて逮捕されたが、精神鑑定がおこなわれて不起訴となった。ただし、1936年9月22日の『木戸幸一日記』によれば、検事総長の意見により、鑑定前から入院が決定していたという。

国体を揺るがしかねない思想を狂人によるとみなすこと自体が極めて政治的であるが、島津治子への隔離措置も政治的である。

大本の出口王仁三郎の場合も狂人扱いをされ、精神鑑定を受けた。担当した精神科医である杉田直樹は、王仁三郎の憑霊を「潜在意識活動」の所産とし、「病的人格変換現象」と診断した。そのうえで「責任ヲ負フコト能ハサルナリ」と事実上赦免した(兵頭2005)。

 

引用文献

式場隆三郎、1943、『戦争と脳』、牧書房。

兵頭晶子、2005、「大正期の「精神」概念:大本教と『変態心理』の相剋を通して」、『宗教研究』、79(1)、97-120、日本宗教学会。

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未開の分野

最近の関心は、認知論とキアスムスの関連である。周知のように、キアスムスは、修辞技法の呼称である。だがこの概念は、近年では文学に限定されない。

とりわけ英語圏ではキアスムスは馴染みやすいし、研究の観点として取り入れている研究者も多い。一方、日本ではほぼ認知されていない。したがい、当該観点を取り入れた研究も少ない。日本は、現実的にはキアスムスにおける未開の地であるともいえる。

未開であることは、研究者にとって悪いことではない。むしろ開拓すべき地平の広がりには、野心的な希望しかないように思える。

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研究不正について

研究者がやってはならないことの一つに研究不正がある。かつて、ゴッドハンドとよばれた方がいたが、件の不正行為が発覚し、当然に、業績は抹消された。

人間なので間違いを犯すことはある。業績ほしさに誘惑に駆られることもあるだろう。論文という形で学術的・社会的評価を得ることへの執着は、研究者であれば誰でも持っていると思う。

最近、ある有名な研究者の書籍が出版された。ところが、発刊後すぐに、ある学生から、当該書籍の引用における不備が指摘された。周知のように、文献の引用には作法がある。仮に、引用文献を意図的に掲載しなかった場合、剽窃の疑いを持たれたとしても仕方がない。剽窃は明らかな研究不正である。確かに、この書籍は学術書ではない。だが、それは免責の理由とはなるまい。

彼はどうするつもりなのだろうか。今後を見守りたい。

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先は長い

いま力を入れているテーマの一つが聖書の裏返し構造だ。新約聖書は27巻あるのだが、現在13巻まで分析がおわった。ようやく半分に至ろうとしている。なるべくはやく、新約聖書をクリヤし、その次は旧約聖書。先は長い。

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発見の喜び

キアスムスについて日本ではあまり知られていない。研究論文も少ない。一方で、アメリカでは比較的知られており、関連論文も多い。

この差がどこからくるのか考えることがある。単に聖書が浸透していないかいるかに依存するのだろうか。それともそれ以外の要因があるのだろうか。

キアスムスには文芸的な美しさを感じる人が多い。一方、無理矢理にキアスムスを当てはめた恣意的事例も時たま見かける。こうした無理な解釈が、キアスムス全般の信憑性を引き下げてきた。

「発見の喜び」は研究者の燃料であると同時に麻薬でもある。

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査読つきなのか査読なしなのか

はっきり言って、査読つき論文と査読なしとでは、評価が(大きく)異なる。査読つきの方がはるかに大変だし、時間も費やされる。しかしそれだけの価値はあるといえる。

一方、査読なしは(人文系の場合ではあるが)、まったく価値がないというわけではない。むしろそれなりの評価もある。引用する側も、とくにこだわらずに引用する(ことが多い)。

査読なしで件数を稼ぐか、それとも査読ありでストイックに取り組むか。なやましいといえばなやましい。なやましくないといえばなやましくない。

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戦闘的無神論者と宗教

日本戦闘的無神論者同盟機関紙『戦闘的無神論者』1931年12月号の冒頭記事は、「宗教的寄附募材拒絶賽銭不納同盟の全國的カンパニヤを起せ!」という、日本戦闘的無神論者同盟中央常任委員會による記事である。

彼らの考えによれば、宗教は、ブルジョアジーがプロレタリアを支配するための道具にすぎない。以下、当該機関誌を引用する。

坊主や神主や牧師が、資本家地主の手先となつて、勞働者農民をだまくらかし、いつまでも階級意識に目ざめないやうに眠りこませておき、資本家地主が安心して勞働者農民からしぼり取つていゝくらしをして行くことのできるための奉仕をしてゐるばかりでなく、坊主神主自身がまた、直接勞働者農民からしぼり取つて生活を立ててゐるのだ。全く坊主や神主や、その他一切の宗敎家は、勞働者農民及び勤勞大衆にとつて寄生虫に外ならないのだ。

こうしたブルジョアジーの手先と化し、自らも労働者から金銭を搾り取っている宗教家に対し、彼らは、寄付行為全般を拒否するべきであると主張した。

そんな寄生虫が生きて行くことのできるやうにしておく必要はないのだ。

そこでだ、坊主や神主や、その他一切の宗教家に對して、一文も金をくれてやることは、もうやめようではないか。

彼らによれば、宗教とは、大衆に階級意識を目覚めさせないための麻酔薬である。革命を成就するにはこうした麻酔薬がなくなる必要がある。戦闘的な無神論者は、本来、宗教者と同居することができない。彼らにとっては、宗教がもたらす平安は、革命を阻害する要素の一つにすぎないのである。

緋田工『特高必携:昭和8年(訂補11版)』(新光閣)は、日本戦闘的無神論者同盟が標榜する目的としての反宗教主義について次のように解説した。

宗敎といふものは支配階級が被支配階級に諦めの生活をさせるための道具であると爲し、之を打倒することを目的としてゐる。彼等の所見に從へば「宗敎は阿片である」とせられ、マルクス、レーニン主義の社会觀が普及すれば必然に宗敎などといふものは不要に歸するものであるとする。蓋し人間の世の生活苦惱は凡て社会制度の不合理から生れるに拘らず、無智な民衆は之を前世の宿業と諦め、神や佛に賴つて幾分でも此の苦惱から濟つて貰ほふと考へるのであるが、人間の世の苦惱(プロレタリアの苦惱)は唯階級鬪争の果敢なる遂行のみが救つてくれるのだと說く。判󠄁り易く、手取り早く云へば、之が彼等の「反宗敎運動」である。

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迷信の利害と境界侵犯

井上円了は、1930年に出版された『迷信と宗教』(修文社)で、次のような「利」と「害」の観点から迷信を分類した。

①害なくして利あるもの

②害なくして利なきもの

③利あって害あるもの

④利なくして害あるもの

当時は迷信打破の只中である。迷信はすべて打破すべきだという先鋭化された議論さえも散見されたなかで、井上は冷静な分析をおこなった。

迷信だからといって、すべてが「利」がないわけではなく、すべてが「害」なのではない。

ところで、僭越ながら、井上の分類はわかりにくい。以下のように分類になぜしなかったのか、不思議でならない。

①害なくして利なきもの

②害なくして利あるもの

③害あって利なきもの

④害あって利あるもの

ただし、ここでの「利害」が何に依拠しているか、については慎重であるべきだ。たとえば、社会的多数派にとっての「利害」なのか、少数派の「利害」を侵害していないか、などを考慮する必要がある。また、迷信を実践する当事者にとっての「利害」は当事者にとっての「利害」である。他者から押し付けられるべきものではない。つまり、他者の価値観を当事者に押し付けることにより、迷信実践者の境界が容易に侵犯されるのである。単に迷信を除去することで「害」が除去されるという単純なことではない。たとえ他者からはナンセンスに見えたとしても、当事者にとっては生活の一部なのかもしれない。私たちの生活には不合理に見える行動や考え方がけっこうある。でもそれが私たちの生活なのである。

当時の迷信打破は、官民あげての運動であった。現在は、迷信はここまで注目されることはない。いまとなれば、当時の迷信打破運動は滑稽にも映る。過激な運動は影を潜めた。だが迷信そのものがなくなったわけではない。むしろ都市伝説やデマなどのような新しい名前を得て、社会に深く広く浸透している。

迷信打破期では、迷信の拡大版が邪教だった。この邪教は現在はカルトという新しい名前を得た。邪教は社会から弾圧された。同様にカルトも弾圧されている。こうしたカルト弾圧も、一種の迷信打破運動といえる。

カルト視される団体の構成要員は、外部から見れば不可解な行動原理で生活しているかもしれない。しかし、それはそれで生活なのである。

 

 

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