カウンセリング研究ブログ

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カウンセラー(心理師)の国家資格化について

昨年の暮れにまたしても心理師の国家資格化の動きが出てきました。私としては、狼少年がまたやってきたのだろう、あまり期待しない方がよい、ぬかよろこびにならないようにと、自分に言い聞かせております。

今回は、資格化による学会の分裂と再編、それから国家資格化後の世界について呟くつもりです。

むかしはカウンセリングの世界の学会と言えば、日本臨床心理学会がありました。しかし、学生運動が盛んだった時期だったと思いますが、資格化をめぐって、あるいはカウンセラーとしての基本的なスタンスをめぐって、臨床心理学会は分裂することになりました。1970年代のことです。多くの学会員が抜けてしまったのですが、新たに日本心理臨床学会が旗揚げされたのは1980年代になってからです。

日本臨床心理学会にはカウンセラーだけでなく当事者も参与していました。そして、カウンセラーの国家資格に関しては反対の姿勢を貫いていたと思います。ところが、1990年代になって、この学会は国家資格化に賛成の態度をとります。その結果として、あくまで国家資格化に反対する方々が一丸となって、日本社会臨床学会が旗揚げされることになります。

資格化に対する賛成と反対の視点から述べただけですから、それぞれの学会がバックボーンとする思想については今回は解説せずにおきます。いまの若い臨床心理士たちは、どうしてこのように学会が分裂していったのか、一度深く考えていただけると私としてはありがたいです。若い臨床家たちにしてみると、心理臨床学会に帰属していることが自明であって、その意味すらも掘り下げてみたことがないような気がしますので。いまのところ私は、社会臨床学会には入会していませんが、他の二つの学会には入会しています。

さて、カウンセラーが国家資格化したなら、一体どのような世界が開けるのでしょうか。メリットもデメリットもありますが、懸念していることをひとつだけ綴りたいと思います。

私が一番気がかりなのが、カウンセラーたちの序列化です。国家資格を有するカウンセラーたちと、それ以外のカウンセラーたちが、いま以上に分断してしまうような気がするのです。いまでさえ、臨床心理士と、それ以外のカウンセラーたちの間に交流がないような気がしています。

これは私の個人的体験です。以前、臨床心理士ではないカウンセラーの人たちに対して、集団のスーパーヴィジョンをしていたことがあります。多くは教育系の国立大学を卒業して、市民講座などでカウンセリングの講座を受講していた人たちです。カウンセリングの実務もちゃんと行っていました。彼女たちのなかには、私が思うに、非常に優れたカウンセラーがいました。資格として臨床心理士をもっているわけではないのですが。

こうした体験があり、資格がないにもかかわらず優れたカウンセラーたちに何らかの配慮が与えられないものかと思うのです。彼女たちの活躍を見ていると、資格の有無によって序列化が進んでしまうことが、残念でなりません。かつてカール・ロジャーズが言っていたと思います。彼はアメリカ国内のカウンセラーの国家資格化を積極的に推進した人ですが、晩年になるとそれを悔やむような発言をしています。制度化が進んだだけであったと嘆いているような感じもします。

国家資格が実現したとしても、やはり資格がクライエントの話を聞くのではなくて、カウンセラーという生きた人格が傾聴するわけですから、この点は忘れてはならないと思います。

お前は国家資格化に賛成なのか、反対なのか、どっちなんだと問われても、わたしにははっきりと答えることができないような気がしています。二者択一を迫られると、気絶しそうになるのです。今回のお話が、今後どのように推移していくのか、一人のカウンセラーとして静かに見守りたいと思います。

ではまた書きます。


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カウンセリング研究のフィールド
オットー・ランクの影響
カウンセリング研究に映像と音声を利用すること
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オット―・ランクの影響: 来談者中心療法と機能主義ケースワークへ

すでに忘れ去られてしまったような感のある偉大な心理臨床家に、オットー・ランクがいます。彼はもともと精神分析の大家ジグムント・フロイドの愛弟子だったのですが、エディプス・コンプレックスなる概念に逆らうような出生外傷(パーストラウマ)を打ち出し、フロイドのサークルにいられなくなってしまったのですね。

このオットー・ランクは、アメリカのソーシャルワークやカウンセリングなど、実にさまざまな影響を及ぼしたことでもよく知られています。今回は、彼の基本的な考え方について触れることにします。

まずソーシャルワークへの影響です。アメリカはかつてフロイトの精神分析の影響を受けた診断主義ケースワークが幅を聞かせていました。しかし、フロイトとは間逆の人間観をもったランクの影響が、ジェシー・タフトやヴァージニア・ロビンソンに及び、いわゆる機能主義ケースワークが台頭しました。この二つの陣営のあいだには、かなりの論争があったらしいです。

次いで、オット―ランクの来談者中心療法への影響です。これについては、かつて来談者中心の本当の意味という記事を書いたのですが、いまとなってはかなりよく知られているようです。たとえば、ロジャーズ以来一般的になった、「クライエント」という呼び方はランクのほうが先ですし、「クライエント・センタード」の「センター」という表現も、ロジャーズはランクから取り入れたようなのです。

カール・ロジャーズを知るためには、オットー・ランクの思想を知る必要があるのですが、残念ながら日本語で読めるのは、初期の精神分析的な神話や文学関連の著書だけです。では、ほんの少しだけ、精神分析と決別した後のランクの思想について触れます。

オットー・ランクは技法について語ることを好まなかったようです。彼によると、「援助の哲学」が大切なのだということです。これは、技法ではなくてカウンセラーの「態度」を重視したロジャーズそっくりです。

精神分析から決別したランクは、フェレンツィ・シャーンドルと、能動的セラピーを打ち立てようとしました。精神分析のようにクライエントが分析家による解釈を投与されるのは、クライエントが受動的になるのでよくないとしたのですね。意志療法とかダイナミック関係療法と呼ばれることになったのですが、解釈されることによって知的に【知ること】よりも【体験すること】が重視されたことも大切です。

今回最も強調したいのは、ランクは、クライエントの人格、主体性をとても大切にしたということです。神経症者のパーソナリティを全面的に敬愛し、精神医学的な診断的前提は半ばどうでもよかったわけで、神経症を病気であるとは考えていなかったのです。これ、ロジャーズのあれに似ています。診断的理解は有害だ、みたいな議論です。

またランクは、1940年の"Beyond Psychology"のなかで、次のように述べています。

「すべての個人には、自分自身になるための、自分自身であるがための、対等な権利がある。それが真に意味するのは、自分自身の異なりdifferenceを受け入れ、他社にもそれが受け入れられるということである」

ここもロジャーズに似ていますね。ここでランクが言いたいのは、精神分析のような権威的な立場にいては駄目ですよ、カウンセラーは非権威的な、クライエントと対等な関係を目指すことが大切なのですよ、ということです。クライエントのパーソナリティを尊重して、self-responsibleであることを大切にするのです。ソーシャルワークの世界に取り入れられている「自己決定の原則」は、もともとランクが口にした考えのようです。これは、フロイトの心的決定論に対する反論でもあるのです。

短期力動精神療法の立場にある臨床家や、精神分析的カウンセリングを行っている人にとって、「抵抗」分析はとても大切な技法のようです。クライエントの抵抗を正面突破とか、破壊とか、ぶち壊すとか、ちょっと怖い表現をする人もいます。しかし、ランクの援助哲学と、精神分析の抵抗操作は矛盾してしまうのです。ランクの場合は、抵抗する力を壊そうとはしないのです。むしろ、ポジティブな側面に目を向けて、創造的な意志の発現を促進していくのです。まあ、精神分析のアプローチから離れてしまったので、抵抗などという現象はどうでもよくなったのだと思います。抵抗して当たり前じゃないでしょうか。それは生きる力と密接に結びついているように思いますし、広い意味での抵抗力を失った人間は、もうこの世界で生きて行くのは困難になるはずです。

さて、精神分析批判はここまでです。

ランクはほとんど来談者中心でカウンセリングを行っていたようです。カウンセラーの側から制限をかけて積極的にアプローチするのは、時間制限といいますか、終結の期限を設定するときだけであったようです。これが、ジェームス・マンの時間制限心理療法、ランク派のセラピーに受け継がれているのですね。同じ能動的セラピーのフェレンツィは、もっといろいろな面で積極的にクライエントに働きかけていたようですが、彼については別の機会に紹介しようと思います。

早く日本語で読みたいのですが、誰か訳さないだろうか。私はいまある本を翻訳中で、まだランクには手が回らない状態です。どなたか、期待しています。

ではまた。


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カウンセリングのユーザーに情報を提供すること

アスペルガーなど軽度発達障害のカウンセリングと障害の受容+α

カウンセリング研究のフィールド
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アスペルガーなど軽度発達障害のカウンセリングと障害の受容+α

最近、アスペルガーの方が起こした事件の裁判があり、その判決が求刑よりも重いことに対して、さまざまな抗議の声明が出されているようです。こちらのヤフーの記事をご覧ください。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120812-00000520-san-soci

一介の臨床家として、軽度発達障害に対する偏見や誤解、それから差別が広がらないことを祈っています。

さて、今回は、軽度発達障害のカウンセリングと障害の受容というテーマで呟きたいと思います。どちらかと言えば発達障害を持つ本人よりも、その保護者に関するお話になると思います。プライバシーの問題がありますから、具体的な事例については書きません。あくまで架空のお話といいますか、一般論として書くつもりです。

軽度発達障害の「軽度」とは、文字通りの意味です。障害としては重篤なレベルにはないが、
軽微なレベルの障害があるということです。ここが大きな問題であると思います。障害が軽度であるがために、そのようなものとして、本人も周囲も、なかなか気がつきにくいのです。

軽度にもやはり様々なレベルがあると思います。たとえば、中等度と軽度のあいだは、障害のない健常と軽度のあいだとは、やはり程度の違いがあるわけです。

発達障害は、子供が成長する過程で、少しずつ目に見えるものになってくるでしょう。特にコミュニケーションという重大な社会生活のプロセスに、つまづきが出てくるはずです。あるいは、保護者の目からすると、この年齢の子供であれば普通にできることが我が子はできない、おやっという驚きがいつしか芽生えてくるはずです。

このような子どものつまづきや、保護者の驚きは、障害の程度によって、顕在化してくる時期はまちまちでしょう。ある子どもは、それが1歳を過ぎた頃に現われるかもしれませんし、また別の子は中学校や高校に入学してから現われるかもしれません。

わが子は発達障害かもしれない。

保護者がこのようにして気づくことは、いわゆる障害の受容と表裏の関係にあることでしょう。小さい頃から我が子のことをうすうすとは感じていたが・・・という保護者の方々は少なくないのかもしれません。

相対性理論のアインシュタインは何らかの発達障害だったかもしれないという研究者がいます。哲学者のウィトゲンシュタインもアスペルガーか統合失調症だったかもしれないという話があります。まあ、このような偉人たちの話はともかくとして、私たちの身近に存在している発達障害のことをお話しましょう。

これは架空の作り話です。

A子さんは、会社に勤めてからもう20年以上になります。大学を卒業してから、事務系のお仕事を続けていました。A子さんにはずっと悩みがありました。むかしから些細なミスがあり、性格的にも職場ではちょっと変わった人と見られていました。そんな彼女がカウンセリングにやってきました。悩みは、ごく普通のことでした。恋のこと、仕事のこと、趣味のこと、その他もろもろです。しかし、カウンセラーは、なんとなくA子さんに発達障害的な匂いをかぎ取ります。特徴的なのは、独特の話し方にありました。彼女の生きずらさは、どうやら軽度の発達障害に発していたようです。しかし、それが軽微なものであるために、彼女は障害年金などの社会保障を受けることができませんし、自分でも最近まで障害のことに無自覚的であったのです。最近出版された発達障害者の告白本を読んで、自分と似ているなと思ったそうです。

私はもっぱら青年期以降の大人を対象としてカウンセリングを行っています。ですから、子供の発達障害はどうしてももれてしまいます。私がそのような子どものカウンセリングに関与するとしたなら、おそらく遊びを介したカウンセリング、プレー・セラピーを主として行うことでしょう。

では成人の軽度発達障害の方々とは、どのようなカウンセリングによって関わっているのか。答えはこうです。ごく普通のカウンセリングです。ただ、こちらの応答が多義的・曖昧にならないように、ストレートなコミュニケーションに留意しています。そして、いつもよりも少し情動を生かしたやり取りを心がけます。これは、目の前のクライエントが情動的になることを目指しているのではなく、私自身が情動によってつないでいく感じでしょうか。淡々としていながらも、自分の喜怒哀楽を言葉と矛盾させずに、そのままの自分でいると言いますか。感覚の世界の話なので、何とも表現が難しいです。

寄り添うタイプのカウンセリング、軽度発達障害の方々にもやはり、私は同じような関与をしているような気がします。解決したり、治したりするようなタイプのカウンセリングではありません。喜びや悲しみを共にするのです。

ではまた書きます。


これまでの記事
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カウンセリング研究のフィールド
カウンセリング・ルームの室内音響
フランツ・ローゼンツヴァイクの対話哲学に学ぶカウンセリング
治療的アセスメントという短期カウンセリング
現場のカウンセラーたちに研究は必要なのだろうか
治療的アセスメント研究会in札幌
カウンセリング研究に映像と音声を利用すること
カウンセリング研究と料金
カウンセリングのユーザーに情報を提供すること
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カウンセリングのユーザーに情報を提供すること

ささやかなカウンセリングの私設研究所を開設しています。待合室がなく、子どものプレー・ルームもありません。予算がないために作れなかったというのが正直なところです。そのため、もっぱら大人のクライエントをお招きすることになり、子どもたちのカウンセリングはままならない状況であるのが残念です。

ところが、子どものカウンセリングに関する問い合わせが後を絶ちません。札幌市内に住んでいる保護者の方々から、子どものカウンセリングはどこへ行けばよいのか情報を求められるのです。

いまはどの中学校でもスクール・カウンセラーが入っていて、子どもに何かあればすぐに利用できる状況になっています。昔とは違い、子どもにかかわる相談を受ける場はかなり増えているのです。しかし、それでもなお情報が不足しているのでしょう。

私は考えました。子どもに関するカウンセリングの情報を広く提供する必要があると。そして思いついたのが、情報を提供するポータル的なホームページの作成でした。自分の子どもがこんな状態に陥ったときにはどうすればよいのか、どこに行けばよいのか、そうした情報を提供できるようなサイトを作ろうと考えたのです。

そのようなわけで、最近、私が活動する北海道札幌市に限定した子どものカウンセリングに関する情報提供サイトを作りました。こちらの札幌子ども相談カウンセリングです。

予算が全くないので、無料のホームページ・スペースを拝借しています。業者さんに依頼する資金もないので、ソフトを使って自作しました。まあまあのサイトになったと思います。

カウンセリングの研究者であり実践者でもあるカウンセラーは、やはりネット上で積極的に情報を提供していく時代なのだと思います。カウンセリングのユーザーたちは、何か困ったことがあると、やはりまずはネットで検索する時代なのです。どこに相談すればよいのか、地域に密着した情報を、相談者の方々は求めているのです。

研究者としては、カウンセリングの実践と研究が大切なことです。しかし、それ以前のこととして、適切な情報の提供が重要なことであると思います。私利私欲を超えたところで、クライエントのためにカウンセリングは行われるのですが、情報提供もまったくもってユーザーのために行われるのです。

地域のために、まずこのような奉仕の精神がなければ、実践も研究もできないのです。研究という目的が前面に出るとき、ユーザーはただ搾取されるだけになってしまうような気がします。

またしても論旨が不明確になったような気がします。申し訳ありません。言いたかったのは、札幌に住む保護者の方々のために、子どものカウンセリングに関するサイトを作成したということにつきます。

ではまた。


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治療的アセスメント研究会in札幌
カウンセリング研究のフィールド
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カウンセリング研究と料金

今回は、カウンセリング研究における料金について考えてみます。ただ、答えを出すつもりはありません。なんとなくいま考えていることをつぶやくだけです。

日本は自由主義経済の国ですから、基本的に労働の対価として金銭を受け取ることになります。なんだか堅い表現になりましたけど、カウンセリングも同じことです。カウンセリングというサービスをクライエントに提供することによって、カウンセラーはその料金を受け取るわけです。このような意味で、カウンセラーとクライエントは職業的かつ経済的な関係によって結ばれていることになります。

二人のあいだには財布が介在しているのです。

このような文化のなかで、もしも無料でカウンセリングを行うとしましょうか。カウンセラーはあくまで無給のボランティアとして存在するわけです。貧困がはびこる現代ですから、クライエントにとっては助かることでしょう。でも、無料でカウンセリングを受けるのは、どことなくカウンセラーに対して申し訳ないという気持ちになっても不思議ではありませんね。

実は、私は無料のカウンセリングを行っています。しかし、そこには条件が付けられています。つまり、無料でカウンセリングのサービスを提供しましょう、ただカウンセリング研究のために会話の内容を録音してそれを使用する場合がありますと。この条件を承諾くださったクライエントの方々だけをお迎えして、無料のサービスが提供されるのです。

ここで、いわゆる無料カウンセリングとは異なる構造が暗に作り出されることになります。

研究のためにクライエントをお迎えするという体裁があるわけですから、本来であれば私からクライエントの方々に料金を支払うのが筋であると思います。しかし、貧乏カウンセリング・ルームであるために、予算が全くないのです。

このような構造があるので、私はいつも次のように感じています。つまり、クライエントの皆さん、料金をお支払いすることができず申し訳ありません。どうぞお許しくださいと。

料金を払えずに申し訳ないと感じているカウンセラーと、無料でカウンセリングを受けさせてもらって申し訳ないと感じているクライエントが、顔を合わせます。通常のカウンセリングであれば二人のあいだには財布が介在するわけですが、私たちの場合には、このような何とも名状しがたい何かが介在しているわけです。

この問題は、学問的に考究する価値があるように思います。カウンセリング経済を照らし出す材料になるかもしれません。ただ、ブログには書くつもりはありません。いつか、ペーパーにできるように、じっくりと考えて行くつもりです。

私がいま行っているのは、厳密には無料のカウンセリングとは言えないような気もしています。金銭のやり取りはないのですが、それに代わるものをいただいているわけですからね。

取り留めのない記事にお付き合いくださりありがとうございました。ではまた書きます。



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カウンセリング研究に映像と音声を利用すること
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カウンセリング研究に映像と音声を利用すること

クライエント中心療法のカール・ロジャース以来、カウンセリングの研究では映像と音声を利用することが少なくありません。今回は、カウンセリング場面を録音・録画することの是非について、少しだけ考えてみるつもりです。

まず、反対派について。

反対派の代表格は、あのマルティン・ブーバーでしょうか。さすが対話哲学の第一人者だけあって、彼が反対すると、やっぱりそれだけで録画しない方がいいのかなと思ってしまいます。こんな逸話が残っています。ハリー・スタック・サリヴァンの指導を受けていた精神科医に、レズリー・ファーバーという著名な方がいます。この方は精神分析よりも人間性心理学の世界で名が通っていて、人間の「意志」について深く研究された方です。あるときファーバーは、サリヴァンゆかりの精神医学校に、ブーバーを講演で招きました。そのときファーバーは講演内容を録音させてほしいと申し出たのですが、ブーバーは断ったのだそうです。その理由は、機械で録音することによって自然な会話が妨げられてしまうからというものでした。

なるほど、それにも一理ありますかね。まあ、ブーバーは、後年、録音することに好意的になっていったようです。自分が否定していたほどのことではないと思ったのでしょうね。

では、カウンセラーがクライエントとのカウンセリング場面を録音・録画することの是非について考えてみます。まず、録音することによって会話の「自然さ」が損なわれてしまうという点についてはさておき、研究倫理について触れます。

私の場合は、カウンセリングを無料で行っています。そして、毎回会話の内容を録音して、それを研究のために使わせていただくことがありますと明言しています。この文言は、ホームページに明記しています。ですから、私のところにやってくるクライエントの方々は、録音を承諾していただける方しか来ないわけです。この段階で、フィルターがかかっているわけです。最初に来談されたときに改めて録音承諾の意思を問います。さらに、録音だけでなく映像として録画してもよいか尋ねます。OKであれば録りますし、NGであれば録りません。

このように、クライエントに黙ったまま、こっそり録るようなことは決してしません。盗聴になりますからね。蛇足ですが、サリヴァンは、むかしのことですが、クライエントの承諾を得ないで録音していたのだそうです。そのテープは、まだ現存していて、サリヴァン研究者の貴重な資料になっているようです。いまは、こんなことをしてはいけませんね。

さて、核心的な問題です。カウンセリング場面を録音すると、自然な会話が損なわれてしまうのでしょうか。もっといえば、クライエントにとって有害な事態なのでしょうか。

クライエントが会話の録音を嫌がっているにもかかわらず、カウンセラーが強引に録音したとすれば、それはいうまでもなく有害無益であると思います。倫理にも反するわけです。問題は、やはり、クライエントの合意が得られた上で録音する場合、録音しないときのような自然さが保たれるのかということになるかと思います。

キーワードは「自然な」でしょう。自然とは一体どのような事態なのでしょうか。

わずかばかりの経験ですが、私の視点から少しだけ語ることにします。ロジャースの頃のどでかいオープンリールの機材をテーブルの上に置くのとは違って、いまのICレコーダーは小型です。それほど気にならない大きさなのです。しかし、問題は機材の大きさではありません。クライエントが、録音されていることを意識しすぎて自然な会話が損なわれるのか、あまり意識せずに自然さを保っていられるのかということになるでしょう。

結論を言うと、レコーダーの大きさにかかわらず、クライエントは最初、録音されていることを意識するはずです。しかし、しばらくすると、録音されていることを意識しなくなるようです。とられていることが当然になるのです。つまり、録音されていることは承知しているが、録音しないカウンセリングと判別することのできないようなプロセスが展開していくのです。

このような自然なプロセスが、録音しているにもかかわらず展開するのは、おそらく信頼関係がそこにあるからなのでしょう。この信頼関係なくしては、クライエントは警戒してあまり語らないはずです。

しかし、やはりそこには目に見えない政治力学ないし権力的関係が横たわっているはずです。録音する方が、録音される方よりも、権力的に力があるわけです。私の場合は、自分だけでなく、クライエントにもICレコーダーで録音することを認めています。互いに録音できる状況によって、少しだけこうした関係の非対称性は和らぐようです。

もっといろいろな視点から考察することができるのですが、今回はここまでにしておきましょう。本当は録音などしたくないのですが、研究者としてはいかんともしがたいところです。研究倫理に反しないように、クライエントの人権を侵害しないように、最大限の注意を払ってこれからも継続していくつもりです。私の場合、クライエントが録音を意識している言動が見て取れた場合、そのこと自体を取り上げて話し合うようにしています。すると、クライエントによって内容は異なるのですが、とてもセラピューティクな展開を見せることも分かってきました。もちろん、具体的なことはここには書けないのですが。

これは自戒の意味も込めて言うのですが、最後に一言。研究を目的として会話の内容を録音する際には、クライエントに対するインフォームド・コンセントが必須です。録音することがセラピューティクではないと判断された場合には、即座に録音を止めましょう。大切なのは、研究以前に、クライエントの福祉と安寧なのですから。

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現場のカウンセラーたちに研究は必要なのだろうか
することで、そして、
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治療的/協働的アセスメント研究会in札幌のこと

最近このブログでも、治療的アセスメントと呼ばれる画期的なブリーフセラピーの方法を紹介しました。こちらの記事治療的アセスメントという短期カウンセリングです。

私は北海道札幌市の私立大学に勤務しているのですが、近隣の大学、札幌学院大学の研究者でいらっしゃる橋本先生と一緒に、この治療的アセスメントに関する研究会を立ち上げることにしました。

治療的/協働的アセスメント研究会の記念すべき第一回目の会合が、今週、札幌市内で行われました。大学関係者や、現場の臨床家たちが10人くらい参集して、橋本先生が治療的アセスメントとは何であるのか発表されました。次回は9月に第二回目の会合が持たれます。今度は私が発表するのですが、フィードバックセッションの具体例を事例に即してお話するつもりです。

カウンセリングとアセスメントのあいだを研究する研究会でもあります。参加者は心理職の方だけに限定するつもりもありません。いまのところ、クリニカル・ソーシャルワーカーの方から申し込みがありますし、今後は教育畑でダイナミック・アセスメントを実践している人たちも巻き込んで行きたいと考えています。職種に縛られない学際的な研究会にしたいのです。

ここで少し宣伝します。参加を希望される方は、私までメールしてください。アドレスは、tazawaのあとにアットマーク、つづいてhokuseiのあとにドット、つづいてco.jpです。スパム対策でこんな表記になりました。すいません。

治療的アセスメントとは、私が考えるに、アセスメントの名を借りたブリーフセラピーです。だから、カウンセリングがきちんとできないと駄目なわけです。カウンセリングの心得がないカウンセラーがこれを行うと、おそらくただテスト結果をフィードバックするだけになってしまうと思います。カウンセリングを行わずに心理テストばかり行っているカウンセラーは、まだまだ存在しているのです。

こんな風に表現すればよいでしょうか。クライエントとブリーフセラピーのなかで関与する。そして、そこで取り上げられる主題は、心理アセスメントによって導き出されたものであると。クライエントから提出された問いに対して、カウンセラーがアセスメント結果から考えてお答えするプロセスでもあります。

この治療的アセスメントというブリーフセラピーが札幌の地に根付くことを願っています。多くのカウンセラーと、対人援助職の方々の参加をお待ちしています。

ではまた書きます。

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現場のカウンセラーたちに研究は必要なのだろうか

先日、カウンセリングの研修会に参加しました。臨床心理士の資格更新のためにポイントを取っておく必要もあり、顔を出したわけです。

私が参加した分科会には、カウンセリングを専門とする大学教員と現場のカウンセラーたちが参加していました。そこで、ある現場のカウンセラーからこんなことが話されました。こうです。臨床心理学の世界では、心理アセスメント、カウンセリング(個人面接とグループを含む)、地域援助とならんで、研究することが大切とされているのだが、院生の身分を離れて臨床家になると研究できる場や、資金などに恵まれず、結果として研究がおろそかになってしまう。

私はその場で発言しませんでした。なぜなら、その場を支配していた空気とは正反対のことを考えていたからです。そのとき脳裏をよぎったことを、ここに少しだけメモしておこうと思います。

1.
研究という点で言えば、いまは研究しにくい時代になったと思います。個人情報の保護とか、研究倫理とか、以前と比べるとかなり厳格になりましたので。これは、クライエントの方々といいますか、カウンセリングのユーザーを保護する目的がありますから、当然のことであると思います。カウンセリング研究者も、現場の臨床心理士も、研究可能な条件がシビアになっていますから、その意味で研究しにくいのです。

2.
研究は大切ですと口にするのは、もしかしたら大学の教員だけかもしれない。現場のカウンセラーたちが研究論文を書いたとして、それにどんな意味があるというのだろうか。大学の教員を将来的に目指すのであれば、レフリー付論文の数が問われることになりますから、その意味で大切になってくるでしょう。しかし、現場では、論文を書いたからといってどうなるわけでもありません。

こうしたことが思い浮かんだのですが、これだけでは様々な誤解を与え得る記述なので、もう少し別の書き方をしたいと思います。

そもそもカウンセラーたちが活躍することを求められる領域に「研究」を盛り込んだのは、いわゆる【学会】であると思います。カウンセリングの実践だけでなく研究も大切なのですよと。これ、さかのぼると、APAの教育モデルを踏襲したものなのでしょう。つまり、クリニカルサイコロジストたる者、サイエンティスト-プラクティショナーであらねばならないというものです。よく知られている科学者-実践家モデルです。もう半世紀以上も前にアメリカでとなえられたもので、いまだに米国では継承されています。

日本も、これを追ったのかもしれませんね。科学的な研究方法を身につけて研究できる研究者であり、なおかつカウンセリングに熟達した実践家でもあることを、カウンセラーは求められるのです。

人間性心理学の領域のマスターセラピストに、ジェームズ・ブーゲンタールがいます。彼は臨床心理学黎明期のアメリカで教育を受けたのですが、学生の頃たたきこまれた実証的な研究法(統計学のこと)は実践には何の役にも立たなかった、しかし、それはカウンセラーになるものが通らねばならぬ「洗礼」であったという趣旨のことを述べています。

カウンセリングの実践は、日々の研鑽が必要です。カウンセラーを生業とする人間は、最後のときまで実務的な研さんに励む必要があるでしょう。しかし、研究はどうでしょうか。

日々の実践をよりよいものにするための研究という意味で言うと、研究は必要だと思います。しかしこれは、研究ではなく研鑽ではあるまいか。あるいは工夫とか。

「研究」の意味をはっきりさせて論じないと、なんだかわけのわからないことになりそうです。

たとえば疫学的な大規模なリサーチも研究でしょう。では一事例を対象とした事例研究は研究として認められるのでしょうか。それは事例報告であって研究とは言えないという人もいるかもしれませんね。では、カウンセリングのケースが終結してから、そのプロセスをまとめて論文化したものは研究なのか。はたまた・・・・・・・・・・

臨床心理士の指定大学院に、わずかですが専門職大学院があります。実務家の養成を主たる目的にするものです。この場合は、先ほどのモデルのようなサイエンティストの側は求めていないような気がします。あくまでプラクティショナーの養成ですね。

カオス状態になってきました。もとい。

私の考えです。研究がほぼ論文執筆に相当するような意味合いで述べます。

現場のカウンセラーには研鑽が必要だと思います。しかし、研究はあくまで+αの領域であって、必須とは思いません。将来的に大学の研究者を目指している人は、そのかぎりではありませんけれど。また、現場のカウンセラーたちと大学の教員たちのあいだには「研究」という事柄に関してギャップがあるようです。教員たちが現実離れしたことを言っていないのか、私自身もこれからさらに考えて行こうと思っています。最後に、カウンセラーが目指すべきは科学者-実践家モデルなのかという疑問があります。解釈学者-実践家モデルであってもよいと思いますし、別の道がないか考えて行きたいと思います。

学問・理論レベルと実践は乖離することがよくあります。カウンセリングの研究者は実践家でもあるのですが、現場のカウンセラーたちと乖離しないように自戒したいと思います。

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治療的アセスメントという短期カウンセリング
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治療的アセスメントという短期カウンセリング

最近になって、治療的アセスメントと呼ばれる特殊なカウンセリング技法が生まれてきました。アメリカのスティーヴン・フィンによって創始されたもので、心理テストのプロセスを短期的なカウンセリングとして実施するスタイルのことを言います。彼のホームページがありますから、どうぞご覧ください。こちらです。(http://www.therapeuticassessment.com/)

 

フィンは心理アセスメントのタイプを二つ挙げています。ひとつは、従来からある情報収集モデルです。もうひとつが、彼の治療的アセスメントに代表される治療モデルです。まず前者から説明しましょう。

 

心理アセスメントにおける情報収集モデルとは、心理テストを使って、カウンセラーの側が一定の心理学的診断に到達することを目指します。カウンセリングを始める前にクライエントについての見立てを得て、それをもとにしてセラピーを始めるというプロセスがその典型になるでしょう。これ、医学モデルと似ていますね。診断と治療のことです。見立てを手に入れるための手段として心理テストが実施されるわけでして、もっぱらカウンセラー側の都合によって行われるといっても過言ではないでしょう。

 

こうした情報収集モデルには利点もあるのでしょうが、デメリットの方が大きかったのかもしれません。というのは、心理テストを行ったとしても、その結果がクライエントと話し合われることもなく、やりっぱなしで終わってしまうことが少なくなかったのです。そこにはクライエントとカウンセラーの相互性はありません。一方通行だったのです。そうした悪しき伝統を反省して生まれてきたのが、治療的アセスメントなのです。

 

治療的アセスメントでは、たんにテスト結果をクライエントにフィードバックするだけではありません。それだと、やはり一方的な結果の伝達になってしまいます。そこには、カウンセラーとクライエントの相互性があるのです。画期的なのは、クライエントがテスト結果から知りたいこと、たとえば「どうして私は○○なのかな」といった問いをカウンセラーに投げかけ、それに対してカウンセラーが答えるという形式でしょうか。もちろん、ここで止まってしまっては、ただの結果のフィードバックになります。治療的アセスメントには、その先に対話が継続していくのです。この対話プロセスがまさにカウンセリングなのです。理想的に言えば、話し合うことで、クライエントの内省と自己洞察が展開していくのです。

 

治療的アセスメントは、アセスメントが目的ではなく、セラピーそのものということになるでしょう。

 

この手法と類似する方法に、たとえば、短期力動精神療法の分野で著名なアビーブ・デイヴァンルーの「トライアル・セラピー」があります。精神分析の予備面接のような感じでしょうか。彼が言うには、あるセラピーがそのクライエントにとって有効であるか否かは、実際に行ってみて初めて分かるものなのだそうです。なるほど、目から鱗ですね。それで、トライアルセラピーというかたちで一度心理面接を行ってみて、クライエントがそのセラピーから恩恵を得る可能性があるのか見立てるわけです。

 

この方法は、フィンの治療的アセスメントとよく似ているような気がします。しかし、やはり似て非なるもののようです。なぜなら、トライアル・セラピーは、あくまで短期力動精神療法にそのクライエントが適合するのか見立てを得る手段として行われるからです。この点で言うと、トライアルセラピーは、教育畑で最近盛んになってきたダイナミック・アセスメントに似ているのかもしれません。これはたしか、ヴィゴツキーの発達の最近接領域の考え方を応用したアセスメントでしたね。少し言葉を置き換えて表現すると、クライエントが一人で解決できるレベルと、カウンセラーが介入したときに可能なレベルの「あいだ」をアセスメントするわけです。もちろん、カウンセリング領域に発達の最近接領域ZPDの考えを応用しているカウンセラーは既に存在しています。ハーマンスの対話的自己論を取り入れた、認知分析療法のリーマンがそうでした。蛇足ですけど、このリーマンはフィンランドの研究者でして、活動理論のエンゲストロームとも交流があるようです。ふたりともカウンセリングと教育ということで分野は違いますが、おなじヴィゴツキアンのようです。

 

さて、治療的アセスメントに話を戻しましょう。

 

私は、この方法を日本に広めたいという一心で、フィンの著書を日本語に翻訳して出版しました。学会レベルでも、ほんの少しだけですが紹介に勤めています。けれども、日本はまだまだ情報収集モデルが主流のようでして、なかなか広まっていかない感覚があります。理由はいろいろあるような気がします。私見ですが、私が考えるひとつの理由はこうです。日本の心理臨床家は、まだまだテスト屋という伝統的な役割から抜け出せない事情があるのではないか。精神医療の分野でも、精神科医からアセスメントのオーダーをもらってそれに対するレポートを作成しておしまい、といったところを超えることのできない事情があるのではないか。心理テストは求められても、セラピーには至らないと言いますか、心理学的診断は求められても治療的役割は求められないと言いますか。

 

真実は分かりません。しかし、この素晴らしい手法を、これから先も自ら実践しながら、日本中のカウンセラーたちに広めて行くつもりです。ではまた。



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フランツ・ローゼンツヴァイクの対話哲学に学ぶカウンセリング

2009年のことです。ユダヤ対話哲学のフランツ・ローゼンツヴァイクの主著『救済の星』が、村岡晋一先生らの訳で、みすず書房から出版されました。待望の翻訳でした。ユダヤの対話哲学と言えば、やはり『我と汝』のマルティン・ブーバーが著名ですが、オイゲン・ローゼンシュトック・フュシーとともに、日本への紹介が待たれていた偉大な思想家です。

さて、今回は、ローゼンツヴァイクの『救済の星』に学ぶカウンセリング論、ということでお送りしましょう。一部翻訳文を抜粋させていただきます。まずはこれからです。

「聞くこと   ここにいるのは<私>である。個人としての、人間としての<私>である。まだ完全に受動的であり、かろうじて身を開いただけであり、いまだ空虚で、内容もなければ、本質もなく、純粋な覚悟、純粋な従順さであって、全身これ耳であるような存在である。この<従順に聞くという態度>のうちに最初の内容として舞い降りてくるのは、命令である。聞くことへの促し、固有名詞による呼びかけ、語る神の口から出る確約、これらすべては、あらゆる命令にさきだって響いている導入部にすぎない。」(訳書p.268)

カウンセラーがクライエントの話に耳を傾けることの本質が、ここに見事に表現されているような気がします。「従順に聞くという態度」という言葉に凝縮されていると思うのですが、クライエントの声に対して身が開かれていることが、カウンセラーには求められます。ここでローゼンツヴァイクは「全身これ耳であるような存在」という比喩的表現をしています。みなさん、このフレーズ、どこかで聞いたことがありませんか。そうです、たしか神田橋先生が「コツ」のなかで使っていましたね。もちろん引用というわけではなく、偶然の一致なのですが。(ハイデガーも態度とも言えない控えめな態度で待つこと、などという表現をしていました。エルアイクニス?関連の著書でした)

では次に行きましょう。

「<私>は<君>をみずからの外部にあるなにかとして承認することによって初めて、つまり、モノローグからほんとうの対話(ダイアローグ)へと移行することによってはじめて、われわれがたったいま声となった<根源的否>として要求した<私>となるのである。モノローグの<私>はいまだ「しかし私は」ではなく、アクセントを欠いた<私>であり、たんなるモノローグ的でしかないために、自明的でしかない(自分のことしか知らない)ような<私>であり、したがって、・・・じっさいにはまだあらわな<私>ではなく、いまだ三人称の秘密のなかに隠されている<私>である。本来的な、自明的ではない、アクセントをもつ強調された<私>は、<君>の発見においてはじめて声として聞きとれるようになるのである。」(訳書pp.265-266)

イントラパーソナルな世界からインターパーソナルな世界へと移行することによってはじめて、我と汝が出会うことが論じられているようです。バフチンの声の対話理論や、ヴィゴツキーのインナースピーチ(内言)の理論や、ハーマンスの対話的自己の理論や、シャピロの自己欺瞞の発話や、カイザーの二重性(クライエントはストレートに話さない)に心酔する私にとって、ローゼンツヴァイクのこの一節は説得力をもっています。悩み苦しみの中にあるクライエントは、バフチンの言葉で言えば「コップの中の嵐」つまり混乱した内的対話あるいはインナースピーチの世界に閉じ込められています。そのため、目の前にいるカウンセラーつまり汝を発見することができずにいるのです。クライエントにとって汝を発見するときに、はじめて我を声として聞きとることになります。これが、対話哲学で言う、いわゆる「出会い」になるような気がします。

クライエントのイントラパーソナルな世界、つまりインナースピーチによる内的対話に絡め取られてしまうとき、カウンセラーは、精神分析学で言う転移-逆転移にどっぷりつかっている状態であると言えるかもしれません。

しかし、考えてみると、カウンセリングという対話場面は、ダイアローグとモノローグが二重化された状況であることに違いありません。さらにいえば、カウンセラーとクライエント双方のイントラパーソナルな領域が、外的なインターパーソナルな領域に浸透するわけです。ここに、第三の領域が作り出されます。これは、バフチンの言葉で言えばポテンシャル・サードということになるでしょう。また、精神分析のオグデンの言葉で言えば、アナリティク・サード(精神分析の第三主体)ということになるでしょう。

この第三の領域でドラマが展開します。カウンセリング場面とは、この領域でカウンセラーとクライエントがダンスを踊ることでもあります。そのつど誰と誰がどんなダンスを踊っているのか(精神分析のブロンバーグの言葉)、そこには、パーソナリティの多数性や、多声性がクローズアップされてくるのです。

バフチンの対話論などを取り入れたハーマンスの対話的自己論があります。そして、彼の理論を取り入れた様々な「声の心理療法」が世界的に広まりつつあります。しかしながら、この多声性・ポリフォニーのカウンセリングの源流をたどると、やはりユダヤ的な対話哲学へとたどり着くのです。

対話哲学と言えばブーバーですが、最近は、若いカウンセラーのあいだであまり読まれていないようです。残念なことです。ブーバーとともに、フランツ・ローゼンツヴァイクをぜひ読んでいただけたらと思います。そして、ローゼンシュトック・フュシーが早く日本語で読めることを待ち望んでいます。

ではまた書きます。

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