碩学の論攷、碩学への追想より

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2018/12/03

植村清二『楠木正成』より

| by 慈鎮和尚
 しかし「春日神主祐賢記」によると、建武年間に楠木正成が井水を違乱する悪行があったために、興福寺の衆徒が憤慨して、春日の神木を木津まで動座させて、朝廷に嗷訴したという。恐らく楠木氏の所領と興福寺領との間に、灌漑水の争いがあったためであろう。細かい事情は不明であるが、楠木氏が朝恩に誇って、その勢威の強かったさまが想像される。世には正成が中興の元勲であるにも拘わらず、その恩賞が薄く、しかも正成は赤松円心のように、それを怨むこともなかったとして、その志操を賞賛するものもある。しかしこれは正成の人物を強いて悲壮化しようとするものであって、必ずしも事実ではない。正成は功臣として優遇され、その顕栄を誇ったのである。

【付記】
 最近、南朝研究が盛んになってきたが、わたくしの見るところ、研究史の把握が不十分な論攷もある。戦前の研究への目配りが不足していたり、戦後でも植村著書のごとき名著について言及がなされるべきであるにも関わらず、それが行われていないのは如何なるわけであろうか。一抹の寂しさを感じざるをえない。
 それはともかく、昨日、河内長野市で南朝関係の講演をしたので、植村氏の正成伝を久しぶりに読み返してみたが、やはり見事な著作だと思う。史的観察は抑制がきいており、それでいて描かれる正成の人物像は躍動感がある。文章もまことに心地よく、さすが直木三十五の実弟だけある。刊行後、半世紀を経たが、その魅力はいささかも衰えていない。中公文庫版に丸谷才一氏が寄せられた「解説」が看破したように、植村氏の反骨精神が、ところどころ垣間見えるのも面白く感じる。
 ところで、今年に入って、大阪府下のいくつかの地域で、正成・正行の顕彰の動きが活発になっており、楠木父子を大河ドラマにしようという声も強まっている※。わたくしも、中河内に生まれ育ち、南北朝の古戦場が多い南河内の中学・高校に通学したため、少年時代には楠木氏に対する郷土愛のようなものがあった。そこから、後醍醐天皇の研究に進んだ面があるのは否定できない。
 しかし、学問的批判に耐えられない「伝承」を史実とし、これを青少年に対する郷土史教育の素材とするのは反対である。史料批判や考証抜きの教材・オブジェの製造と利用など、沙汰の限りであろう。ましてや「公」を忘れた現代日本人への警鐘として過重な意味づけを与える一部のメディアの動向・意図には、率直に言って反対せざるをえない。客観性を欠くイメージが先行し、「青葉茂れる桜井の♪」のメロディーのもと、中世の実態から乖離した虚像の楠木父子が再び立ち現れることを、わたくしは一学徒として危惧を感じる。その意味で、植村氏の正成伝の視角を、いま一度振り返っておくのは無益ではない。
 司馬遼太郎氏は、水戸学が正成をセイントとして位置付けたとして批判し、『大日本史』を今日読むべき史書ではないと、痛烈な評価を加えた。わたくしは司馬氏の『大日本史』観に同調せず、むしろその史学史上の意義を重視するものであり、マイナス面に比重を置いた氏の論評は平衡を欠くと考えるが、近世・近代の南朝正統論が地域社会に与えた「負の遺産」は、厳しく吟味されねばならない。
 昨日、講演を終えたのち、
脳裡に以上のことどもを思い浮かべつつ、会場から河内長野駅までの夜道を歩いたことであった。泉下の正成は、「悪党」「朝敵」「忠臣」といった、わが身の毀誉褒貶の変化を、どのように見ているのであろうか。

ここに正儀が含まれないのは相変わらずで、嘆息せざるをえない。作家・鷲尾雨工が名作『吉野朝太平記』で目指した正儀の復権は、戦後70年を経た今でも果たされていないのではあるまいか。率直に申せば、わたくしは、正成・正行よりも、南北両朝の和平実現に寄与した正儀を主人公にした方が、遥かに有意義な大河ドラマだと考える。正成・正行を主人公にして町おこし、というのは発想として平凡であろう。正儀には、近世・近代の偏向した人物像がない分、自由で新鮮な造型ができるのである。

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