研究ブログ

カテゴリ:教育

2014年度・担当講義一覧 (春学期)

今年度は春学期に数学基礎と複素解析(春ABのみ)を担当しています。

数学基礎は、数学類(=数学科)一年生向けにイプシロン・デルタ論法などの
基礎的な内容(基礎的=易しい、という意味ではない)を扱う講義です。
複素解析は四年生向けに advanced な関数論の話をする枠で、
今年度は楕円関数論の話をしています。
0

ロマンと現実

先日、卒業生が私のオフィスにあそびに来てくれました。
別の先生に用事があって、ついでに立ち寄ってくれたそうです。
卒業後は教員として活躍されていて、仕事の状況など、いろいろ話をしました。
で、帰り際、なにか参考にしてもらえればと思い、
「数学文化」に書いた『問題提起としての「大学生数学基本調査」』の別刷を渡しました。

数学文化第18号
日本評論社(2012/09/14)
値段:¥ 1,470


きちんと読んでくれたらしく、感想をメールで送ってくれました。
現場で数学を教えるにあたって、いろいろと迷うことがあるようです。

数学に興味がなければ、あまり目には触れないと思いますが、
いま、ネット上でも、算数・数学の教え方について、いろいろな議論がなされています。
個々の話題について具体的な意見は持っていません。
ただ、単に対立を強調するだけの議論には、あまり生産性は無いかなと思っていて、
きちんと共通了解を取り出すためには、たとえば
・ そもそも数学とはどういう知の営みなのか
・ 数学の概念の意味とはどのようなものか
・ 式とはどのような言語表現なのか
・ 問題を解く/解かせることの意味はなにか
・ 数学を学ぶ/教える理由をどのように設定するのか
などについて、原理的に考える必要があると考えています。

数学を学ぶ意味については、これまで、たいてい二つの方向から答えられてきました。
ひとつは、数学のロマン性を強調するもの。
もうひとつは、大学に合格するためなどの現実的な理由。
ロマンと現実という二項対立はどこにでもあるものですが、
数学を学ぶ意味についても、この両側から答えられてきました。

数学のロマン性を知っている人は、現実社会では何かしら挫折を味わうものだと思います。
私が指導した学生さんでも、教育実習に行って現場の考え方に触れて、
絶望して帰ってくることが少なからずあります。
挫折を味わって「あれかこれか」という姿勢をとるなら、
外部に対しては「数学なんて受験が終われば忘れていい」と表明し、
数学のロマン性は自分の内に納めておけばよい、という考え方になる。
これは自然なことです。責められるべきことではない。

ただ、私自身は、もう少し別の考え方もないだろうか、とずっと思っています。
数学そのものの意味、具体的には上で挙げたような諸点について、
きちんと考えるなかから、そのヒントは得られるだろうという直観があります。
これらの「哲学的な問い」の答えを、実際の現場にどのように下ろしていくのか、
というのはまた別の問題ですが、根っこに答えがなければ方向性も決まりません。

そういう答えを、来年のうちに、ある程度の形で出してみたいと思っています。

今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
0

勉強してない自慢

筑波大学は来年度から二学期制になる。
いや、正確にはもうちょっと複雑な学年歴になるのだけど、
そのことは置いておこう。

今年度の二学期の試験はもうすぐだ。そろそろ、
自分はどれだけ勉強しないで試験を受けようとしているか、を
まるで自慢するかのように話す友だちが現れる頃だろう。

そういう彼・彼女を非難するつもりはない。
なぜなら、僕だって、それをやったことがあるからだ。
たしか、中学に入ったばかりの頃だ。
期末試験の前には、どれだけ勉強してないか、という話を、
友だちの間でずっとしていたように思う。

もう、かなり昔のことだから、なぜそんなことをしていたのか、
今となっては正確には思い出せない。
ただ、「勉強するのはカッコ悪い」という雰囲気があったことは確かだ。

これは反抗期の頃なら誰でも考えることで、そんなに変なことではない。
けれども、僕らの頃は、反抗期の若者だけではなくて、
当時の大学生を中心に、社会全体で、
真面目に勉強するなんてカッコ悪いのだ、という空気を作っていたように思う。
特に、社会に出たら遊べなくなるから大学生のうちに思いっきり遊ぶべきだ、
ということは、ずっと言われていた。

それが、
大学生を消費経済のなかに巻き込んで新たな需要を開拓しよう、
という、
企業とマスメディアが一体となった壮大なトリックだったことに気づいたのは、
はるかに後のことだ。
その痕跡は、いま、「リア充」という言葉になって残っている。

自分が勉強するかどうかは、最終的には自分で決めればよい。
ただ、将来、勉強した内容をすっかり忘れてしまうのだとしても、
自分が思いっきり勉強したかどうか、ということについてだけは、
その記憶を消すことはできない。
そして、自分がどれだけ目いっぱい力を込めて時間を過ごしたか、
ということは、
自分という人間を自分で受け入れられるかどうか、
ということと、どうもつながっているらしい。

だから、僕としては、きちんと勉強することを勧める。

ただ、何度も言うようだけど、最終的には自分で決めればよい。
自分の生き方をどうするかを自分で決める、というのも、
大学で学ぶべきことのひとつだろうから。
0

測る形式・育てる形式

『今回の試験は、証明問題が多かったかな・・・。
そういえば、この講義は受講者が多いんだった。
さすがにこの枚数の答案をすべて読んでると疲れてくるよなあ。
もっと単純な計算問題を出せばよかったかな。穴埋めとか選択式とかにしてれば、
今頃は楽に採点も終わってて、研究でもしてるのに・・・』

そんな想いが頭をかすめそうになるが、
「いや、それでは共犯関係に陥ってしまう!」と自分に喝を入れ、
学生が書いた答案に再び目を通す。

******************************
中学生や高校生にとって、数学の勉強とは何なのだろうか、と考えることがあります。
小学校のときは算数が得意だった子供たちも、
中学二年あたりで数学に苦手意識を持ち始め、
高校の数学となると理解している生徒さんは全体の3分の1くらいだろう、という話もあります。
その3分の1の生徒さんだって、本当に数学を理解しているのか、
単に「問題を解ける」というだけなのか、それを判断するのは難しいだろうと思います。
そのような悲惨な状況で、中学や高校で数学を学ぶ意味とは何なのか。
「受験で必要だから」という理由以外のものがあるのだろうか?
もはや数学とは「抑圧的な必要悪」以外の何ものでもないのではないか?


みなさんは、数学の入試問題の形式を、どの程度ご存知でしょうか。
センター試験の問題は新聞などに掲載されますから、ご覧になったこともあるでしょう。
センター試験は「穴埋め」の問題がほとんどです。
単純に「ある値を求めよ」という出題のときもありますが、
何らかの計算のプロセスが文章で与えてあり、その議論の途中で必要な量を求めさせる問題もあります。
いずれにせよ、答えは数値(ないしは簡単な文字式)で、それをマークシートで答えることになります。

センター試験については、数学者の間でも賛否両論、と言うか、
実際は「否」の方が多いと思われますが、
それでもセンター試験のようなマークシート方式の試験によって、
ある一定の数学的な能力が測れることには間違いありません。
でなければ、入試の形式としてそもそも採用されるわけがないでしょう。

受験生がある大学を受験するにあたって、数学はセンター試験のみしか課されないとしましょう。
もしその受験生にとって、数学が既に「必要悪」でしかないのだとしたら、
彼/彼女はセンター試験で良い成績を取るための数学の勉強をすることでしょう。
数学が必要悪でしかない以上、センター試験という「測る形式」に上手く測られることを目標とするのは、
効率的ですし、最善でもあります。

しかしそこでは、「何のために数学を学ぶのか」については思考停止しています。
受験生にとっては「受験のため」という理由は十分すぎるものでしょうから。では、
中学・高校の教員にとっては?
数学者にとっては?
「教育者」にとっては?
そして我々、大人たちにとっては?


受験シーズンが終わると、有名大学の2次試験の問題がインターネットなどで公開されます。
私もちらほらと目を通すのですが、さすがに受験生の多い有名私立大の数学の問題は、
穴埋めではないにせよ、答えの数値や式のみを答えさせる形式のものが多いです。
それはセンター試験同様、受験生が多く、
かつそれほど多くない採点者が迅速に採点を行うためには、避けられないことなのでしょう。
「測る形式」は、そのような現実的な事情に左右されるものです。

しかしながら、有名私立大の数学の問題には同時に、答案をすべて記述させるものもあります。
非常にたくさんの受験生がいるような試験で、記述式の問題を出題するというのは、
採点の労力を考えれば、自分で自分の首を締めるようなものです。
穴埋め問題でも一定の数学的能力を測れるのであれば、
何故わざわざ記述式の問題を合わせて出すのか。
「数学なんて『計算』でしかない」と考えている方々には、
敢えて記述式の問題を出すなんてバカげたことでしかないでしょう。


(今回の記事は長いです。すいません。)


数学オリンピックのことはご存知でしょうか。
数学が得意な高校生が各国を代表して集まり、
数学者が頭をひねって考え出した難問に挑戦する世界的なコンテストです。
2003年には東京で開催されたのですが、ご存知の方は少ないかも知れません。
ちなみに、昨年は日本チームが全体成績で 2位をおさめました。

「いやあ、日本の数学もスゴいじゃないか」ということは、とりあえず横に置いておきましょう。
いまは「あなたの数学」を問いたいのです。

さて、数学オリンピックの問題はどのような形式のものでしょうか。
数学オリンピック財団のウェブサイトで見られますので、一度ご覧になってみてください。
特に、国際数学オリンピックの問題です。問題文の内容を理解して頂く必要はありません。
ただ見てください。

まず、穴埋め問題ではありません。
それから「・・・を示せ。」という形式の問題が多いです。これらは証明問題です。
中学校で三角形の合同の証明をやらされたことを覚えているでしょうか。
あの手の問題が出されているわけです。これらを全て記述式で回答します。

数学オリンピックの問題は、高度の発想力を求められることが特徴です。
(ちなみに私もかつて「数オリ」に挑戦したことがあります。日本代表にはなれませんでしたが・・・)
ただし、単に素晴らしい発想をしただけでは評価されません。
「記述式」である以上、それを説明する答案を書かなければなりません。
いくら良い(と自分では思っている)発想でも、それが論理的に表現され、かつ正しくなければ、
支離滅裂なたわごとでしかありません。数学の世界では情状酌量の余地など無いのです。

数学オリンピックの問題は「記述式」という形式によって、上のような数学的能力を測っているのです。
それが世界規模で行われているということは、
この「測り方」がある種のグローバルスタンダードであることを意味しているのではないでしょうか。


「測る形式」は、受験生が多いとか、記述式の答案を採点する能力が採点者にないとか、
そのような現実的な理由によって左右され、決められます。
そして、体重計が髪の毛の本数を数えてくれないように、
形式によって測れるものと測れないものが、当然あります。
センター試験の数学だけを勉強すればいい受験生にとっては、
センター試験の形式が測らない能力など、どうでもいいのです。
形式とは、そういうものでしょう。

ならば、「育てる形式」にだって、できることとできないことがあるはずです。
そして、「できること」と同時に「できないこと」を言わなければ、それはフェアではない。

モノを売るために「できないこと」を敢えて言わない、というのは、ひとつのやり方です。
その場合は、それを見抜けなかった客がバカだったのだ、という話で終わるでしょうが、
その相手が、これからの未来を生きていく子供たち、若者たちだったらどうなのでしょうか。
それを売りつけられた若者たちがどのような社会を作っていくのか、
そんなことはどうでも良いのなら、公正さなんていりません。
「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」と居直っていればいいのですから。
でも、本当にそれで良いのでしょうか。

我々が一番気をつけなければならないのは、
「育てる形式」と「測る形式」がセットで売られる場合です。仮に私が、
「これで勉強すれば 2週間で数学の成績が伸びる!竹山式超絶数学テキスト」なるものを書き、
それに対応する「竹山式超絶数学問題集」を作ったとしましょう。
両方とも売れるように、テキストを勉強すれば問題集の問題は解けるようにしてあります。
私の本を買ってくれた学生さんは、自分は数学が出来るようになったと喜ぶことでしょう。
しかし実際にこれで勉強した学生さんが、入学試験でまったく点を取れないような代物だったとしたら、
私の本は単なる自作自演でしかありません。
いや、入学試験ならまだ罪はないのかも知れません。
世の中を良くしていくような能力が、まったく身につかないようなものだとしたら、
その教材は何を育て、何を測り、何を保証するのでしょうか。


形式には、それぞれできることとできないことがあります。
そして「できないこと」を隠蔽するために、巧妙な「測り方」をすることも可能です。
それを見抜く力は、我々にあるでしょうか。あなたにはあるでしょうか。

それがいま問われているのかも知れません。
4

「読み書きそろばんアンケート」の結果

以前の記事にも書きましたように、
「読み書きそろばん」という言葉のイメージについてアンケートを取らせていただきました。
回答してくださったみなさんに感謝します。ありがとうございました。

質問文と回答結果は以下の通りです。

質問:「読み書きそろばん」という言葉があります。この言葉を聞いたとき、
「そろばん」はどの程度の数学的素養を意味しているものとイメージしますか?

A.小学校の算数           42 件      67.7%
B.中学校の数学           14 件      22.6%
C.高校文系の数学         3 件        4.8%
D.高校理系の数学以上   3 件        4.8%

実は、Researchmap でアンケートを実施するまえに、
twitter でも同様の質問を流しました。そちらの質問文は

『社会人の方に伺います。
「読み書きそろばん」の「そろばん」は、どこまでのものを指すと思いますか?
(1)小学校の算数のみ (2)中学の数学まで (3)高校文系の数学まで (4)それ以上』

で、12件の回答をいただきました。
(1)ないしは「四則演算まで」という回答が大多数でしたが、
なかには渋沢栄一の「論語と算盤」を挙げて(4)と答えられた方もいらっしゃいました。

いずれにせよ、このアンケートは小規模なものですし、調査対象もあいまいですから、
ここから何か結論を出そうというわけではないのですが、
こういうことを質問してみたくなったのは、次のふたつのきっかけがあったからです。


ひとつは、先月に文庫化された「分数ができない大学生」を再読したことです。
この本のなかで「なぜ数学を学ばなければならないか」について繰り返し述べられていますが、
その際に何度か「読み書きそろばん」という言葉が使われています。
非常に大雑把に言うと、
数学は「読み書きそろばん」の一部なのだから勉強しなければならないのだ、
という文脈で使われているように思います。

もうひとつのきっかけは、以前、実家に帰省したときに見た
関西ローカルのテレビ番組の内容にあります。
関西在住のいわゆる文化人の人たちが討論をするバラエティ番組で、
私が見たときは「詰め込み教育」について話していました。
そのなかで、ある弁護士の方がカメラに向かって次のような趣旨の発言をされたのです。

生きていくのに大事なんは、知識やのうて知恵なんや。
そやのに学校は無駄な知識ばっかり覚えさせよる。
必要なのは国語『読み書き』、それと電卓が使えたらええ。
微分積分なんて使うたことあらへん!

私としては、「詰め込み教育」という文脈で
このような意見が出ることには違和感を覚えます。
受験科目のなかでも数学は、頭の中で自分なりに体系ができてしまえば、
「問答無用で暗記しなければならない知識」が非常に少ない科目だからです。
そのことは、数学が得意な高校生なら知っていることでしょう。
なので、数学を「ただ知識を詰め込むだけの教科」の代表のように扱うのは、
ちょっと違うように思うのです(これについては以前の記事にも書きました)。
ただ、この弁護士さんが言いたかったのはそういうことではなくて、簡単に言えば
「数学なんて生きていくのに必要なものではない」ということだったのでしょう。


上のふたつの場面で使われている「読み書きそろばん」の「そろばん」が指すものは
(後者では「そろばん」が「電卓」になってしまっていますが)、大きく違っています。
字義通りにとらえれば、「そろばん」という言葉は
自然数の四則演算程度のものしか意味しないような気がしますが、
いわゆる「読み書きそろばん」は、社会人として必要な最低限の教養を指すのだと思います。
その場合の「そろばん」はどの程度のものを指すのでしょうか。

現在の義務教育では、中学まで数学を学ばなければなりません。
したがって、国家としては中学数学までを「そろばん」と指定しているものと理解して良いだろうと思います。
一方で、上の弁護士さんのような発言もあります。
「2次方程式の解の公式なんて生きていく上で必要になったことがない」とおっしゃった方もいました
(ちなみに2次方程式の解の公式は中学3年で学習します)。

果たして、現代の「読み書きそろばん」とは何なのでしょうか。
そしてそれは、大人である私たちが共有している認識なのでしょうか。
この辺りを、みんなできちんと考えておかないと、
数年単位で何度も何度も教育課程が修正されても、現場の先生方の負担が増えるだけで、
実質的な効果は無いような気がします。
そして、たとえ学校で学ぶ内容を変えても、それが目指すものと世の中の雰囲気とがズレていれば、
説得力がないようにも思います。

結果として被害者になるのは子供たちなのではないだろうかと思うのですが、いかがでしょうか。
2