Researchlog by Noriko Arai

2011年11月の記事一覧

「ロボットは東大に入れるか」プロジェクト

2年前の年明け、私はヒューマノイドロボットの研究者である稲邑哲也さんと七草粥を食べながらロボットの可能性について話をしていました。研究費の申請書に書くための可能性ではなくて、本当の可能性について。(なぜ七草粥だったかというと、その日はたまたま1月7日で、ランチに入った和食やさんでは七草粥がふるまわれたのです。)
私はちょうどそのころ、「コンピュータは仕事を奪う」という本の準備中で、自分が持っている「10年後の労働市場のイメージ」が正しのかどうか確信が持てず、若手研究者を食事に誘っては同じ問いを繰り返していました。

人をロボットが完全に代替することはできないことは明らかだとして。
ロボットは、ホワイトカラーが行う「頭脳労働」と呼ばれている作業のうち、どれくらいを代替できるとあなたは信じている?
高度判断を武器に高給を稼いでいる一握りの「有能な」ホワイトカラーの話じゃなくて、満員電車に揺られる大多数のホワイトカラーに限定したとして。
そういう「愛すべきサラリーマン」をロボットは代替しうると思う?

「ホワイトカラーなんて20年後には生き残らないんじゃないか」という意見もあれば、「かなり初期の段階でフレーム問題でつまずくので、たいして代替されない」という意見もありました。

なぜそれほど意見が分かれるのか。
それは、コンピュータにとって難しいことと、人間にとって難しいことが、なぜこうも違うのか、その本当の理由がわからないからだと思うのです。いえ、もちろん、情報学の研究者であれば、計算の仕組み自体は説明できますし、与えられたタスクを実行するのに必要な数理的な手段は(知られている範囲内では)見当がつきます。あるいは、与えられたタスクが原理的に計算困難かどうかも、大凡わかります(Lower Boundは依然不明だとしても)。
が、現象として、人間が容易く行う作業が、なぜコンピュータにとって困難で有り得るのかがわからないのです。

それは、私たち自身が自分で行っている「知的処理」の仕組みが解明されていない、という脳科学的な問題という以前に、現象として「どんな知的処理を行っているか」さえ、捉えられていないからでしょう。宮尾祐介さんによれば、「『ねぇ、お風呂が沸いたわよ』『今テレビ見ているから』という会話がなぜ成立しうるのか今の自然言語処理の枠組みでは説明できない」ということに代表される問題なのだろうと思うのです。

宇野毅明さんは、こんなことを言いました。「代替しうるか、という問いそのものをどのように書くか、という問題がありますよね。『このタスク』は代替できますか?、と記述できてしまえば、それはある意味純粋に計算の話になってえまう。たとえば工場の流れ作業の中に、『ロボットAが投げた部品をロボットBが受け止める』というのを埋め込んだりするのはいくらでも可能なわけですから」

タスクを予め記述せずに、人間が行う一般的な知的労働を、コンピュータがどれだけ代替しうるかを現象として「見る」にはどうすればよいだろうか。そのことがずっと気になって仕方がありませんでした。
そして、1年後のお正月。廊下で稲邑さんにすれ違ったとき、とっさに口をついて出たのです。

ねぇ、ロボットは東大に入れるかしら。

こうして、国立情報学研究所の「東大入試に迫るコンピュータから見えてくるもの」(略称:人工頭脳プロジェクト)は始まりました。

東大に入れるか、入れないか。
それは正直わかりません。

けれども、ひとつあらかじめわかっていることがあります。

ロボットを東大に入れるために、現在ある様々な人工知能の手法をつぎ込んだとき、そこで私たちが思ってもみなかったような「ささいなこと」が高度に人間的かつ知的であることを発見するだろうということです。逆に、これまで「勉強する(学ぶ)ことの核」として位置づけられてきた活動のいくつかが「コンピュータにとって容易に模倣可能」であることを目の当たりにするだろうということです。

フロイトは、人類は三度、そのプライドに深刻な打撃を受けたと主張します。
一度目はコペルニクスによる地動説、二度目はダーウィンによる進化論、そして三度目はフロイトによる精神分析。
私自身は、フロイトはその前の二度に比べると大したことはないと思っていて、真の三度目はコンピュータによってもたらされると考えています。

けれども、その打撃は、地動説や進化論同様、私たちが受け止めざるを得ない打撃でしょう。
特に、ロボットと共存していかざるをえない21世紀の教育は、それを直視せずには設計できないと思うのです。

「ロボットは東大に入れるか」:プレスリリース
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