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2015年11月の記事一覧

壁(抜粋)

ふと思い立って過去に書いた物を掘り起こして見ると、今のプロポーザルのうちの一つの原典となる興味深い記述を201023-4日にしていたことを思い出しました。プロポーザルに諸に関わる大部分は省略しますが、安倍吉俊さん原作のアニメ『灰羽連盟』に関わる部分だけここに抜粋しておきます。全てが歴史と轢死に収束して行く究極のオヤジギャグの話です。因みに「灰羽」たちは転生系クラスなので、ご存命の方々と異なり何かを望んでもそれが出て来たりはしませんし、生きていれば回収されたであろう伏線もそれっきりになっています。ご存命の方々とは異なる形で物語に関わって来ます。

 

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(このような)コミュニケーションの壁の話はアニメ『灰羽連盟』や村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にも出てきます。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は僕は個人の意識と集合的意識が絡まり合った物語だと考えていて、今のところ村上春樹の最高傑作だと見ているのですが、『灰羽連盟』をこの小説と合わせて鑑賞すると充分楽しめます。『灰羽連盟』は隠喩に満ちた物語で『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と共通のモチーフが多数出てくるので、僕はアニメ版『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではないかと思ったのですが、原作者が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の影響を受けていることを言明しているそうですね。当たり前でした。このアニメを見て『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』をまた読みたくなってきたのですが、他に読むべき本が研究室にも自宅にも山積みされているので、いつまた読めるか分かりません。扱っているテーマは一緒ですが細かい部分ではいろいろ違いはありますしストーリーの方向性も異なりますが、一緒に語るべきでしょうね。優れたファンタジーというのは現実逃避のための物語ではなく、現実の世界の事象をメタファーしてハーモニーを奏でる詩的なものになっているものです。それを読み解いて自分の中に再構成するのがファンタジーの楽しみ方の一つだと思います。『灰羽連盟』、地味だと思う方もおられるようですが、『攻殻機動隊』や『serial experiments lain』並にお薦めです。元来イラストというのはディーテールでは実写の存在感にどう足掻いても勝てないので表現したいことを抽象化して創るものですが、『灰羽連盟』では絵が全体的に灰色になって彩色を抑えたのがよい表現になっています。また、ストーリー上でも解決されないままの謎が多いのも壁の存在と相まってよい感じです。それにしても話師のお面がエヴァ零号機みたいのは何とかならんのか。

 「壁」は現実世界にもいろいろあって、分子レベルの壁は物理化学の言葉で語られるので比較的理解が進んでいますが、細胞レベルでも例えば発生の時に細胞がどうアイデンティティを決めてどう相互作用しあうかはいろいろな原理がありますし、個体レベルでのアイデンティティやコミュニケーションの壁はもちろんのこと、僕が研究している種レベルの壁、さらにはだんだん曖昧になってきますが群集や生態系、環境の壁などいろいろあります。学際的研究の壁は無い方がいいような話でしたが、僕は少なくとも種レベルの壁は、原核生物ではDNAの相同組換えとミスマッチ修復の競合で決まる曖昧なものですが、真核生物になると染色体再編や「第三の要素」など減数分裂や性の様式に起因する明瞭な壁が存在し、これは真核生物や性の本質と何らかの関係があるのではないかと思っています(この内容についての論文は2015年現在投稿中)。壁とは言っても集団を分けるためにある意味必要な壁もあるかも知れないのです。それを考えることで多様性の存在の偶然性と必然性を考える手掛かりになると思っています。『灰羽連盟』ではラッカの真の名前とラッカの仕事との間に密接な関わりがありますが、例えば鴻上尚史の戯曲『天使は瞳を閉じて』では、「僕たちは天使になるんだよ」と自分から言い出した人間達が壁を壊すことで破滅します。一口に「壁」とは言っても必要なものから本当にくだらないものまでいろいろあると思うのです。僕は種の「壁」を研究することから、「壁」の摂理を見出していきたいと思っています。

 

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参考リンク

On Liberty: ミルの著作と社会的協調性の関係について述べました。

アメリカのデモクラシー:トクヴィルの著作に基づき、民主主義一般について述べました。

フランス革命(I)—旧体制と大革命:トクヴィルの著作に基づき、フランス革命前夜について述べました。

フランス革命(VII)—エピローグ:アイデンティティとシステムの関係について簡単に述べました。

幽霊たち:オースターの著作に基づき、現代人のコミュニケーションについて述べました。

灰羽連盟 Blu-ray BOX
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン(2015/10/23)
値段:¥ 14,040



自由論 (岩波文庫)
J.S. ミル
岩波書店(1971/10/16)
値段:¥ 842


アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2005/11/16)
値段:¥ 972


アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2005/12/16)
値段:¥ 1,188


アメリカのデモクラシー〈第2巻(上)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2008/03/14)
値段:¥ 842


アメリカのデモクラシー〈第2巻(下)〉 (岩波文庫)
トクヴィル
岩波書店(2008/05/16)
値段:¥ 907

旧体制と大革命 (ちくま学芸文庫)
アレクシス・ド トクヴィル
筑摩書房(1998/01)
値段:¥ 1,620


幽霊たち (新潮文庫)
ポール・オースター
新潮社(1995/03/01)
値段:¥ 464


檸檬・ある心の風景 (旺文社文庫 51-1)
梶井 基次郎
旺文社(1972/01)
値段:¥ 367

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『はるかなる視線』抜粋

クロード・レヴィ=ストロースが著書『はるかなる視線』(みすず書房)で述べたことの一部を以前Twitterでtweetしたのですが、この場を借りて再掲しておきます。レヴィ=ストロースはフランス構造主義の走りですが、ここで述べられていることは生物学的にも数理的にもとても奥が深いことを一般的な語彙で示したものですよ。私が普段考えていることがとても上手く表現されていると思います。

「今日、遺伝学者は、現在の人口上の条件のために、先に述べたような有機的進化と文化的進化もあいだのフィードバック、人類に生物種の最高の地位を保証したフィードバックが、危険にさらされているのではないかと懸念しはじめている。個体群は規模が大きくなってはいるが、数は減少している。だが、各群内での相互援助の発達、医学の進歩、寿命の延び、生殖の方法の選択についての集団の成員の自由裁量などが、有害な突然変異の数を増大させ、それらの定着・恒久化への手立てとなり、さらには、小集団間の障壁が消滅して、種の再出発の機会となるような進化論的な実験の可能性を排除してしまっている。
もちろんそのことは、人類の進化が止る、あるいはこれから止るであろうことを意味するのではない。文化的進化が続くのは明白である。生物学的進化が持続する直接的証拠はないがー証明は長期にわたって検知される性質のものであるーヒトについては、文化的進化と生物学的進化が密接な関係にあり、文化的進化があることは生物学的進化があることを必然的に保証している。しかし、自然選択は一つの種が再生するための最大の利点であるという点からのみ判断されてはならない。今日生態系と呼ばれ、つねに総体として検討されなければならないものと、このような増殖との均衡を破るようなことになれば、特定の種が成功のあかしと考えていた人口の増大が、かえってその種にとって破局的であり得るからだ。人類が危険を察知し、それを克服し、生物学的未来を制御し得るようになったとしても、優生論を組織的に実践することが優生論自体を蝕む、という二律背反を克服できる方法はないと思われる。誤って、考えていたものとはまったく異なるものを作り出してしまうか、それとも成功して、作り出したものが作者に優り、それが、作者はなぜこれ以上のものを作れなかったのかを発見してしまうか、の二律背反である。」
「地理的な距離や言語・文化上の障害によって隔てられてきた集団が次第に融合してしまうことは、数十万年ものあいだ恒久的に隔離され、生物学的にも文化的にも各々異なった進化を遂げ続ける小集団の中で暮してきた、ヒトの世界の終焉を意味すると、私はこの講演のなかで再度にわたって強調した。」
「他を享受し他に融合し、他と同一化して、同時に、異なり続けることはできない。他との完璧なコミュニケーションは、遅かれ早かれ、他者のそして自分の創造の独創性を殺す。創造活動が盛んだった時代は、コミュニケーションが、離れた相手に刺戟を与える程度に発達した時代であり、それがあまりにも頻繁で迅速になり、個人にとっても集団にとってもなくてはならない障害が減って、交流が容易になり、相互の多様性を相殺してしまうことがなかった時代である。」 
ーレヴィ=ストロース『はるかなる視線』(みすず書房)より

ここで描写されたメカニズムが実際の人類進化を記述するかどうかはともかく、バックグラウンドとなっているメカニズム自体は私がさきがけの公募で落とされた実験での仮説とそっくりです。何だ、既にレヴィ=ストロースも看破していたのですね。いやはや。トクヴィルの著作もそうですが、こう数理モデルが目の前に浮かんで来るような書物は見事ですね。生物学者の方ならそれがどういったモデルなのか、容易に分かると思います。今度からレヴィ=ストロースも引用しないといけないでしょう。人類学者で私のプロポーザルを見た方は私がレヴィ=ストロースの影響を受けていると思われるかも知れませんが、本人は人類学もパッパラパーなので全く存じ上げていなかったのでした。

「一つの秩序から他の秩序への移行には重要な不連続性がみられる。」というクローバーの引用も、投稿目前のリーマンのゼータ関数の論文(現在は既に投稿中)の主旨とそっくりですし、<系統樹>という考えが古くて線の合流と離散の両方を考えた<束>として表すべきだというのも、数学的であると同時に1983年当時としてはモダンな考え方ですね。脱帽です。トクヴィルの著作と同じような興奮を味わっているところです。フランス論壇は一体どうなっているんだか。「読めるぞ!私にもレヴィ=ストロースが読める!」それにしても今年は毎日が濃いw

この考え方はがん細胞や数理生物の研究をやっている方なら何のことかは分かり易いと思いますが、多様性や共生関係の一面のみを強調される方には分かり難いかも知れません。要はクローン性と多様性のバランスの問題なので、最適解はどちらか極端なものになるとは限りません。
はるかなる視線〈1〉
クロード レヴィ=ストロース
みすず書房(2006/02)
値段:¥ 3,024


はるかなる視線〈2〉
クロード レヴィ=ストロース
みすず書房(2006/02)
値段:¥ 3,456

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人形(3)

この投稿は3年前の投稿である人形(1)人形(2)の完結編です。

 

徳島最後の月ということで、2015111日は今まで訪れられていなかった徳島県立阿波十郎兵衛屋敷に行きました。「阿波人形浄瑠璃」は国指定重要無形民俗文化財ですが、阿波十郎兵衛屋敷はその一端に触れることの出来る施設です。浄瑠璃は元々歌舞伎と演目が共通のものが多いので能楽よりも派手で大衆向けなのですが、阿波人形浄瑠璃はその中でも上方の文楽のように劇場で日常的に文楽を楽しむ層でなく農村舞台や小屋掛け、箱廻し(木箱に道具を入れて担いで出前興行を行う人々)を用いて庶民を対象に演じられていたので、文楽よりも二回りほど大きな光沢のある人形で「阿波の手」と呼ばれる大げさな演技で演じられていました。上演されていたのは『傾城阿波の鳴門』の八段目『順礼歌の段』です。『傾城阿波の鳴門』は阿波の主家の宝刀・国松を十郎兵衛が悪臣から奪い返す顛末を描いたもので、『順礼歌の段』はその中で十郎兵衛とお弓の娘のお鶴が両親を訪ねてそれとは知らずお弓に出会い、一時的に盗賊に身を窶している十郎兵衛の累が及ぶのを恐れたお弓が泣く泣くお鶴を追い返すものの、思い返して追いかけるシーンです。その後、お鶴は十郎兵衛に誤って殺されるのですが、詳しくはまた調べられて下さい。実在の十郎兵衛は川内村の庄屋で、徳島藩が経済優先で藍作を推進した結果米が足りなくなり、肥後米を十郎兵衛に輸入させていた際、船頭がピンハネしていたのを見咎めるが藩は「米の自給自足」という幕府の方針に反することが発覚しないよう、有耶無耶の内に十郎兵衛を処刑したとされています。そういう逸話が人形浄瑠璃にインスピレーションを与えたのでしょう。人形はその柔らかい動きに職人芸を感じました。実在の十郎兵衛が居た頃の名残とされる十郎兵衛屋敷の庭には、アセビPieris japonica subsp. japonicaが実をつけていました。

 

そもそも人形浄瑠璃は浄瑠璃と三味線の伴奏、それに人形遣いの三者が合わさって出来たものです。浄瑠璃の起源は室町時代末期で、琵琶法師による無常観を説いた『平家物語』の平曲と、より庶民的な神仏の功徳を説く大道芸である説経節が合わさったものでした。発祥地がエジプトともペルシャとも言われる三味線は永禄年間の1558-1569年頃に沖縄経由で堺に伝わって来ました。人形は奈良時代に起源があるとされていますが、現存する最古の物は平安時代の物で、福岡県中津の八幡古表神社の傀儡が挙げられます。それらが文禄・慶長年間の1592-1614年の頃、丁度関ヶ原の戦いに前後した頃に合わさって「人形浄瑠璃」が出来上がりました。阿波での最盛期には1000世帯30-40座があったと言われています。箱廻しも200人ほど居たということです。「阿波人形浄瑠璃」は農村舞台で盛んに行われていたことに特徴があるのですが、現存する291舞台の内、実に239舞台が徳島県にあり、阿波は人形浄瑠璃を上演する農村舞台の王国であったことが伺えます。歌舞伎の農村舞台は各都道府県に200以上あることも多いのですが、徳島県では1舞台しかなく、阿波では歌舞伎の代わりに人形浄瑠璃を楽しんでいたということのようです。ベジータの言葉を借りれば「人形ども」の王国だったのです。実際、阿波では人形師たちによる人形作りが盛んで、淡路の人形座と組んで仕事がされていました。吉野川流域では藍の収穫後の田んぼにプロが小屋を掛けて有料で数日間上演し、藍を作っていない所では秋祭りに神社の農村舞台で村人自身が上演を行っていました。山間部は箱廻しが往来していました。当時の人々の芸能に対する考え方は、以下の文章に現われています。SaGaの元ネタっぽいですね。「わるいやつ ぜんぶ やっつけたからな!」とかどう考えても只の歌舞伎。。。

 

「生産性がまだ低かった封建時代には、民衆が芸能や娯楽をストレートに楽しむことは不謹慎なことと思わされていました。支配者たちは、民衆が娯楽を楽しむことにより労働意欲がなくなると考えて喜びませんでしたが、祭りのときだけは仕方がないと考えていました。また、民衆も、歌や踊りなどの芸能を自分たちだけで楽しむのは間違っている。祭りの余興や芸能を神様にお見せして喜んでいただき、その返礼として神様から豊作を恵んでくださるものだと考えていました。このことから、神社での芸能活動は、神様に見ていただくのが主体であり、人々はそれを陪席して確認するものと解釈したと考えられます。だから、演ずる人は神様が喜んでくれるように一生懸命に練習に励むのです。こうした考え方が、封建時代の農村での芸能の正しい捉え方でしょう。こうして始まった農村舞台での人形浄瑠璃の公演では、浄瑠璃芝居の代表者である浄瑠璃太夫さんが、神殿の正面に向かって語り、人形も神社のほぼ正面に向かって操られました。これに対して観客席の民衆も神社に対して尻を向けないような設計で農村舞台は建設されています。」(『阿波人形浄瑠璃と農村舞台』より)

 

ここで目を神舞い人形としての人形に向けてみましょう。以下は『神舞い人形 淡路人形伝統の生と死、そして再生』(齋藤智之)に基づいた記述です。原書はJane Marie Law “Puppets of Nostalgia: The Life, Death and Rebirth of the Japanese Awaji Ningyo Tradition” (Princeton University Press) で、邦訳はその個人的な抄訳になります。人形劇は西洋諸国、特にバルト三国では文化的に非常に重要な地位を占めているのですが、これはあるアメリカ人文化人類学者から見た日本の淡路の人形座についての記憶です。淡路は『古事記』の国産みで最初に産まれた島ですね。日本語版への序文に、

 

馬詰優と私は折に触れ、古浄瑠璃のレパートリーの一部となった初期の仏教の霊験記のいくつかをなんとか舞台化できないかと話し合いました。こうした古の劇のテーマのいくつかー病気、疾患、死産、孤児、悲劇、そしてもちろん、霊験によってすべては救われるーは、今日の私たちに何を語りかけるのでしょう。嗚呼かなしいかな、奇跡などおこらないのです。そこには断片を拾い上げ、悲劇から芸術を生み出す人間の能力があるばかりです。

 

とあるのが、彼女の文化人類学者としての立場が踏まえられていて安心出来ます。邦訳は東日本大震災の直後に出されたのですが、彼女の研究している人形劇が現すものはあくまでも記憶と祈りで、それ以上の実利的なものを産み出す力は何もないことがこの文章の記述に込められています。もう少し穏やかに、近松門左衛門の「虚実皮膜の論」の言葉を借りれば、舞台は「虚であって虚でなく、実であって実でない。この中間が慰みである。」ということですね。そこをはき違えない前提で、記述が進んで行きます。

 

そもそも日本の民間信仰には次の六つの共通した特質があるとされています。

 

(一)日本の家族体系と結び付く、孝と祖霊信仰の重視。

(二)恩と報恩の重視。

(三)異なる宗教伝統の相互貸借と混在(あるいは融合する性質)。

(四)人と神との間にある連続性への信仰、あるいは人間が容易に神格化されること。

(五)一つの家族、あるいは一個人においてさえ存在する異宗教の共存。

(六)荒御霊や和御霊のようなずっと精霊信仰的な概念と同様に、祖霊信仰と結び付いた強固な死霊信仰。

 

その流れの中での人形遣いたちの役割がこの本の内容となっています。日本での「人形」の持つ呪術的な役割としては、

 

(一)ある呪術像が呼び集める神々や精霊が宿る依代として用いられる。

(二)再現された等価物として、ある特定の人物や動物の明白な指示対象物となる。

(三)墳墓や他の重要地の入口に置かれると、危険を避ける力をもつと考えられている。

(四)清祓や鎮魂儀式の中で、人間の身代わりになることができる。

(五)まだ生まれる前の胎児や幼児を伝染病や疾病から護り、不慮の死に至ることのないよう、その邪霊を鎮める身代わりとなると考えられている。

(六)ある荒霊が引き起こす災難を再現する鎮魂儀式の中で使われる。あるいは、儀式の中で依り憑く荒霊の依代となる。

(七)人体に憑依させるにはあまりに強力すぎる霊力を宿す際に、身代わりとして役立つ。

 

があります。そのような人形を操る人形遣いたちの人形劇は元々は神事を起源とし、人間界とは住む世界を異にする存在秩序と混沌、聖潔とケガレ、危険と安全、善と悪、人間と霊、そして近年においてはordinaryexoticとの間の調停を描いていました。それは体制からのアウトサイダーによって齎されなければならないので、漂泊の人形遣いたちがそれらを司って来たというのです。それらアウトサイダーへの反応は、

 

(一)細心の注意と敬意をもって饗応を受ける。宴会、祭祀、そして芸能が、その人物のために催されることもある。

(二)最初はこのように饗応を受けるが、短い期間で追い出されたり殺されたりする。

(三)時の経過に伴って「別の住人」として同化し、ある与えられた意味世界の枠内において多義的な地位を占める。

(四)親切に扱われ、「アウトサイダーの住人」として共同体に同化する。しかし問題が生じると、否定的な注目、偏見、暴力の的となり、それは殺人にさえも至ることがある。

(五)その村や家庭に姿を現すやいなや、追放されるか殺される。

 

となります。研究に当たって彼女の描いたテーマとして、

 

(一)      鎮魂や清祓の儀式において、「ヒトガタ」をした彫像を使用する意味。

(二)      中世や近世における門付芸能の儀礼的力学と、儀礼的清浄を規律化し維持する「アウトサイダー」の重要性。

(三)      日本の「賤者」の社会的地位の問題。それは人形遣いたちが属し、その子孫たちがみずからを解き放とうと格闘してきた陥穽である。

(四)      「他者性の地理」として、サンジョ地区が持つ意味。

(五)      平安時代中期の文献の傀儡子集団(漂泊芸能者、男女共)の歴史と発展。

(六)      神聖な儀式(神事あるいはカミゴト)から「世俗的」な娯楽(本例では人形浄瑠璃)への移行、そして両者の絶え間ない相互作用。

(七)      この伝統の儀礼的な起源の再評価と、日本の民俗芸能の復興に関する政治的意味。それは「真正で価値ある」賤者芸術の復活という、皮肉な位相を持つ。

 

などが挙げられるでしょう。詳しくは本を参照して頂ければよいのですが、ここでは(二)に関してのみ簡単に触れています。

 

彼女の当初の興味は三番叟儀式という人形遣いが演じる宗教儀礼にありました。これは能や神楽といった古い日本芸能における、より大きな翁の伝統に由来し、他界から人間界を訪れる神々(老人)がまさに顕現し、新年直後の時期に家を清め祓い、そのケガレを取り去り、恩寵をもたらすと信じられていました。その一方、平安時代後期の傀儡子集団は西宮えびす神社に隷属し、エビス神(ふくよかな福の神であると同時に伝染病や海難、他の自然災害を引き起こす神で、『古事記』の蛭子としてはそもそもエビス自身がアウトサイダーとして由来をほぼ完全に抹消されている。日子として天照大神の荒御霊を指すという説もある。この場合は伊勢神宮で祀られているのが和御霊。最近ではあだちとか『ノラガミ』にも同様の描写が為されている。尚、荒御霊:荒ぶる復讐心に富んだ魂、和御霊:融合と調和の魂、奇御霊:奇跡をもたらす魂、幸御霊:祝福の魂)を斎い鎮める者でした。神事としての人形遣いには、こういった起源があります。

 

ところでこれらの人形遣いたちは、何と実戦でも役立っていたという記述が残っています。『宇佐八幡宮方生縁起』に依れば、720年の大隅国府を巡る隼人の反乱の際、宇佐神宮の儀礼呪師たちが劇人形を操り「細男舞」を演じて隼人たちの注意を引き、これらが敵の防御を破ったというのです。何でも人形戯が余りにも面白かったのだとか。こういう何時ぞやのタコのような名前をした人物(『妖精の女王』のアーキメイゴーと同じクラス)みたいなのが本当に実在し、ガラントくんをけしかけていたようです。写真は細男舞の御舞人形です。

その後起こった疫病の際も、細男舞は隼人たちの鎮魂の為に舞われたそうです。この伝統は仏教儀式の放生会に受け継がれて行きます。

 

これら伝統の補足として、古代の人々はやまとことばの持つゴドーワード的呪術性を気にしていました。古今和歌集の序文で紀貫之は、

 

やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、おとこ女のなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをも、なぐさむるは哥なり。このうた、あめつちの、ひらけはじまりける時より、いできにけり。

 

こういった伝統を受け継いでいた日本の「ウエスト・エンド」の一部、淡路の人形座は大戦を経て信用を失い、戦後間もなく消滅してしまいました。現存する物は一度断絶した物を再興した物です。古代では兎も角、芸能のような実利上「役に立たない」ものは、戦争の影響を真っ先に受けることが現われたようですね。

 

人形浄瑠璃を創る精神としては、例えば十郎兵衛の場合のように不遇の中処刑された(と思われる)本人の悲劇の印象を少しでも和らげたいという思いから、現在で言えば悲劇の物語の二次創作でハッピーエンドを迎えるものを作るような人形浄瑠璃の活動が考えられるでしょう。しかしJane Marie Lawさんの言葉を意訳するならば、そういうことをして自分たちの気持を鎮めることは出来るかも知れませんが、悲劇を実際に防ぐにはその制度なり考え方なりを直接変えて行くしか方法はないのです。オウガバトル64で主人公のマグナスがエンチャンターのパウルに語ったように、人形と戯れて感傷に浸るばかりでなく「君はそのままでいいのか?」と問いかけ続けて行くことが状況を打開する原動力となるのです。ここで私の文化人類学の能力はゲーマーにゲームのストーリーの裏にあるロジックを解説できる程度のショボいものであることが発覚したので一先ず筆を置こうと思います。

 


 

 

ノラガミ(1)
あだちとか
講談社(2014/01/17)

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